こんな夢を見た、
と、うちの若い衆の一羽が語ってくれた。
「月姫様・・・」
尾上銀之丞は胸のうちで呟いた。まだ青年になったばかりの若鳥は、まだ見知らぬ姫を思い慕っていた。いや、思い焦がれていた。夢で見たに過ぎない。しかし多感な青年にはそれだけで十分だった。
月姫を探さねば。銀之丞はその日から来る日も来る日も町中を飛び、その面影を捜し求めた。あの笑み、あの身のこなしの優雅さは高貴なお方に違いない。滅多に外には出ない深窓の姫やも知れぬ。だがこうして町を飛び回っていると、何かその消息がつかめるかと銀之丞は藁にも縋る思いで日々を過ごした。
ある夕刻、屋敷へ帰ろうと寺町へ差し掛かったとき、人気のない道を侍女を連れた若い女の鳥が向こうから飛んで来た。その身のこなしからして身分のひどく高い女鳥であるように思えたが、こんな時刻に供一人だけを連れて、他に迎えの者のいないのが殊更訝しく思えた。しかし、そんなことよりも銀之丞は、一目見た途端にこれがかの月姫だとわかった。
あと数尺で月姫とすれ違うという時、香の匂いが銀之丞を襲った。感覚が麻痺し、嘴も舌も痺れたように動かぬ。爪一本動かすこともままならぬ。いや、思考すらもが停止したのだ。ましてや振り返ることもできず、ただ翼だけが非情にもそのまま動きを進めていた。姫を呼び止めることも出来ず、心だけが「姫よ!姫よ!」と叫びつつ、過ぎ越してしまった。ようやく体の自由が利くようになったときはもはや、女たちの姿はなかった。
その夜、銀之丞は己の不甲斐なさに歯噛みし、一睡もすることができなかった。夜通し、魂だけがまだあの道を飛びさまよっているようであった。
次の日、銀之丞は同じ時刻、同じ道にやって来た。月姫に会うために。果たして月姫はやって来た。銀之丞は今日こそは姫を呼び止めようと意気込んでいたが、女たちとの距離が縮まるにつれ、またもや銀之丞は魔法にかけられたように体の自由を失った。
「姫よ!月姫よ!」
必死の思いが姫に通じたのか、すれ違いざまに姫は驚きのあまり身を固くし、振り向いたのが銀之丞には気配でわかった。ただし、哀れなこの青年は振り向くことが許されなかった。今宵も銀之丞は、目配せ一つ出来なかったと身をよじって涙した。
3日目、銀之丞は早朝に床を抜け出し、水垢離をして身を清めた後、母の菩提寺である寺へ出向いた。母の墓前で手を合わせ、心を鎮めた後本堂に入っていった。本堂では早朝の務めを終えた和尚が銀之丞を待っていた。銀之丞は、それまでに起こった事を話し、女が魔性の者か天上の者か問うた。和尚は話を聞くと何も言わず、小さな木彫りの聖観音像を若者に渡した。銀之丞はうなずき、それを懐に入れ、深く一礼をして寺を辞した。
夕刻、かの道へ向う銀之丞はひどく恐ろしかった。深く息を吸っても体が小刻みに揺れる。魔性の者か、天上の者か、夢なら覚めて欲しいとすら願った。その反面、月姫の顔を、その姿を一目見たいと欲した。引き返すべきかどうか逡巡している間にも、陽は翳りを見せ、涼風が吹いてきた。と思うと、姫が現われた。
「月姫!」
声が出た。矢のように傍へ飛んで行った。これは如何なる事か、体の自由が利くではないか。それを見て姫は「あっ!」と小声で叫び、立ち去ることなくその場に侍女と留まっていた。銀之丞が駆け寄りその手をとろうとした瞬間、忽然と姫の姿はかき消えた。と、見る間に、眩いほどに光り輝く姿になり再び現われた。
「銀之丞、銀之丞、礼を言いますぞ。そなたの懐にある聖観音のおかげで私は救われました。誰かが清らかな心でわたくしのことを思い、わたくしのために神仏に縋ってくれる、そのような者が現われるまで、わたくしは浅ましくもこの世をさ迷っておらねばならなかったのです。そなたの祈願とそなたの母の心である聖観音のお像によって、わたくしの業は浄められました。礼を言いますぞ」
月姫はこう言うと、さらりと翼の音も軽やかに背中を向け、そのまま夕靄の中へ消えていった。銀之丞はあっけにとられて、その場に呆然としたままであった。
月に照らされて我に返った銀之丞は観音像のことを思い出し、それを懐から出した。聖観音が手にしていた水瓶からはわずかではあったが水滴が滴り、蕾であった蓮華は花開いていた。蓮華は月姫と同じ香りを放っていた。
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