ジャックスという伝説のバンドについては、僕は知るところが全然ない。
わずかに何かのアンソロジーに入っていた「からっぽの世界」という曲を聴いたことがあるくらいだ。そもそもジャックスは、僕が生まれた頃に結成され、物心つく頃には解散していた。リアルタイムではそもそも無理であるし、ロックバンドであるという認識をしていて、音源を探すということもしていなかった。知っているのは、早川義夫さんというカリスマが率いていたバンドだということと、木田高介さんが在籍していたということくらい。
木田高介さんを知るのは、氏がナターシャセブンに在籍していたから知っているということで、ナターシャのメンバー履歴か何かで初めて「ジャックス」というバンドの存在を知ったと思う。木田さんは、そもそも東京芸大で打楽器を学び、ジャックスにもドラマーで参加していた。ただ、芸大に居たくらいだから楽器はなんでもござれの人で、後にジャックスにドラマーとしてつのだひろ氏が参加すると、木田さんはドラムを譲ってサックスやフルートを担当したらしい。ナターシャではベースとピアノ担当だったことを思えばなんと幅広い実力の持ち主かと感嘆するが、こういう人は当然編曲家として名を成す。
木田さんは六文銭にも参加していたが、伝説としてあの上条恒彦さんがボーカルをとった「出発の歌」にかかわることがある。六文銭が世界歌謡祭の国内大会に参加しようとしていたときに、まだ歌は出来ていなかった。作詞家のかぜ耕士さんに詩を依頼していたのだが直前キャンセルとなり、及川恒平さんが急遽作詞、小室等さんが作曲して歌が出来たのが出発前日、なんと新幹線の中で木田さんがアレンジをして譜を作り、音あわせもなしにぶっつけ本番で演奏し見事グランプリ、国際大会でも勝ってしまって大ヒット曲になった、という逸話をどこかで読んだことがある。
木田さんはナターシャに五年ほど在籍して(この頃僕はよく深夜放送でナターシャのDJを聴いていた)離脱、ソロになったとたん交通事故で亡くなってしまう。あのときは衝撃だった。
話がジャックスから離れてしまった。ジャックスは前述のように早川義夫さんを中心としたバンドだったが、その早川さんが作ったのが表題の「サルビアの花」である。
この曲はジャックス時代ではなく、早川さんがソロになってからのもの。もっとも早川さんボーカルによる「サルビアの花」は後年聴いた。当時この曲は競作となっていて、最もヒットしたのが「もとまろ」という女子大生3人グループによるもの。僕もサルビアの花はもとまろの曲としてとらえていて、女性ボーカルに馴染みがある。もっとも「もとまろ」はその後どうしたのかは知らない。
いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に 投げ入れたくて
非常に有名な曲であるし、ある年齢以上の人になら説明する必要もない歌だけれども、この曲は振られた男の実に惨めな話である。大好きな彼女が自分のもとを離れて他の人と恋をし、そして祝福された結婚式を挙げる。けれども彼は彼女を忘れることなど出来ず、結婚式を遠目で見て悲嘆にくれる。僕の方が君を愛しているのに。
僕はこの曲を初めて知ったときはまだ少年だったし、恋愛経験もなくただきれいな曲だなという印象しかなかった。イントロが印象に残る。ソフトで、哀憐感や孤独感がよく表れているような。寂寥感や喪失感と言ってもいいかもしれない。切ない、やりきれない気持ち。
しかしながら、この曲は支持も集めるが、その未練たらしさから嫌う人も多い。実に恨み節的であり、主人公の行動もストーカー的であるし、実際にこういう男がいれば「気持ち悪い」と斬って捨てられてしまうかもしれない。
ただ、これはもちろん私小説でもあるまいし、心象風景をただ言葉に表しただけだ。そう思うと、男なんてものはこんなものだと思う。行動に移さないだけで、いつまでも忘れられず未練をなかなか断ち切れない生き物なのだと僕は思っている。もちろん俺はそんな男じゃないという反論もあるだろう。僕も全ての男性がそうだとは思っていない。けれども、どこかにそういう部分ってあるんだよね。理性と矜持で表面化することはまずないけれど。
なのになのに どうして他の人のところへ 僕の愛の方が すてきなのに
早川義夫さんの「サルビアの花」がおさめられているアルバムのタイトルは、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」である。この含羞。一言で言い表されている。こういう人であれば、心象風景としてああいう詩を書けるのだろうな。そう思っていたら、サルビアの花の作詞は相沢靖子さんという方なのである。女性か。それならば凄いな。観察眼というものが。
昔好きだった人はいまどうしているのだろう。そんなことをふと思い出す。
ずいぶん前の話だけれども、まだ若かった頃のある日、想い出に残る一人の女性から一葉のはがきが届いた。「結婚しました」と。
はがきには印刷された写真。その中に、ウェディングドレスをまとった、かつて本気で好きだった人の姿。晴れやかな笑顔。その隣には、僕の知らない背の高い男性。印刷された挨拶以外には何も言葉は添えられてはいない。
その人をまだ好きだったのか、と言われれば否であろうと思う。僕にもその時既に大切な人がいた。そして、僕の人生の中でひとときでも幸せな時間を与えてくれた彼女にもちろん祝福の気持ちはある。ただ、なんとも言えないザワザワとした気持ちを心の奥に発見する。なんだろうこの感情は。決して未練でも嫉妬でもないと信じたい。その感情を整理し咀嚼するのにしばらく時間がかかった。
その時はどうやって解決したんだろうか。おそらく「男ってそういうもの」というところに押し込めてしまったに違いない。
今ならぼんやりと分かる部分がある。おそらくは、その別れた時の方法論に後悔があったからだろうと。僕はあの時、ベストを尽くしたわけじゃなかった。あの時、それが最良だと思って選択した方法だったのだけれど、いろいろな感情を押し込めて内包したまま、結果を急いだことが後悔として残っているのだろうと。かっこいいと思って選択し行動したことが実は一番かっこ悪かったことだったから、もやもやしたものが残ってしまったのだろうと。そして、一葉のはがきを見たとき、その思いが噴出してしまったのだろう。
かっこいいことは反面とてもかっこ悪い。早川義夫さんはそう喝破する。かっこ悪いことがかっこいいと言うことではないけれど、何故感情を人は押し込めなければならないのだろうか。それは、プライドとか知恵とか、対面とか見栄とか様々なものがあるからだろう。試しに教会から出てくる花嫁を追いかけてみな。ただ最低の男という冠を与えられるだけだろう。そんなかっこ悪いことはとても出来ない。
泣きながら 君のあとを追いかけて 花ふぶき舞う道を
ころげながら ころげながら 走りつづけたのさ
だからこそ、男として最大にかっこ悪いことをしている「サルビアの花」の主人公の姿は、押し殺した感情の具現化。教会の鐘の音を嘘だと言い、彼女を「偽りの花嫁」とまで言う男の姿はなんてかっこ悪いんだろう。絶対にしてはならないことをしている男の姿が、心の、本当に奥の奥の奥底の部分に響く。
この歌はよく映画「卒業」になぞらえられる。大好きな女性の結婚式にやってくる男の姿に共通項があるからだろう。ただ、あれはアメリカの映画の話。あんなかっこいいエンディングは僕たちの暮らす世界ではちょっと考えられない。僕たちは決して、大塚博堂さんが言うようにダスティンホフマンにはなれないのだ。
ドラマ「北の国から」で、主人公の純は、かつて好きだったれいちゃんが結婚することを知って、教会にまでやってくるが遠望しただけで終わる。そういうもんだよな。純はれいちゃん以降も恋愛遍歴を重ねている。なのにれいちゃんの姿を見に走るのは、やっぱり自分の中で決着がついていなかったということなんだろう。あの姿もやっぱりかっこ悪い。
女性ってこういうときどうなのだろう。よくわからないけれども、同じようなシチュエーションで、シュガーの「ウェディングベル」という名曲がある。あの中で彼女は「くたばっちまえ、アーメン!」と言い放つ。実にかっこいい。これをもって女性の代表にするのには異論もあるとは思うけれども、やっぱり女性のほうが切り替えも早いし強いのかな、とぼんやりと思ったりもする。
わずかに何かのアンソロジーに入っていた「からっぽの世界」という曲を聴いたことがあるくらいだ。そもそもジャックスは、僕が生まれた頃に結成され、物心つく頃には解散していた。リアルタイムではそもそも無理であるし、ロックバンドであるという認識をしていて、音源を探すということもしていなかった。知っているのは、早川義夫さんというカリスマが率いていたバンドだということと、木田高介さんが在籍していたということくらい。
木田高介さんを知るのは、氏がナターシャセブンに在籍していたから知っているということで、ナターシャのメンバー履歴か何かで初めて「ジャックス」というバンドの存在を知ったと思う。木田さんは、そもそも東京芸大で打楽器を学び、ジャックスにもドラマーで参加していた。ただ、芸大に居たくらいだから楽器はなんでもござれの人で、後にジャックスにドラマーとしてつのだひろ氏が参加すると、木田さんはドラムを譲ってサックスやフルートを担当したらしい。ナターシャではベースとピアノ担当だったことを思えばなんと幅広い実力の持ち主かと感嘆するが、こういう人は当然編曲家として名を成す。
木田さんは六文銭にも参加していたが、伝説としてあの上条恒彦さんがボーカルをとった「出発の歌」にかかわることがある。六文銭が世界歌謡祭の国内大会に参加しようとしていたときに、まだ歌は出来ていなかった。作詞家のかぜ耕士さんに詩を依頼していたのだが直前キャンセルとなり、及川恒平さんが急遽作詞、小室等さんが作曲して歌が出来たのが出発前日、なんと新幹線の中で木田さんがアレンジをして譜を作り、音あわせもなしにぶっつけ本番で演奏し見事グランプリ、国際大会でも勝ってしまって大ヒット曲になった、という逸話をどこかで読んだことがある。
木田さんはナターシャに五年ほど在籍して(この頃僕はよく深夜放送でナターシャのDJを聴いていた)離脱、ソロになったとたん交通事故で亡くなってしまう。あのときは衝撃だった。
話がジャックスから離れてしまった。ジャックスは前述のように早川義夫さんを中心としたバンドだったが、その早川さんが作ったのが表題の「サルビアの花」である。
この曲はジャックス時代ではなく、早川さんがソロになってからのもの。もっとも早川さんボーカルによる「サルビアの花」は後年聴いた。当時この曲は競作となっていて、最もヒットしたのが「もとまろ」という女子大生3人グループによるもの。僕もサルビアの花はもとまろの曲としてとらえていて、女性ボーカルに馴染みがある。もっとも「もとまろ」はその後どうしたのかは知らない。
いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に 投げ入れたくて
非常に有名な曲であるし、ある年齢以上の人になら説明する必要もない歌だけれども、この曲は振られた男の実に惨めな話である。大好きな彼女が自分のもとを離れて他の人と恋をし、そして祝福された結婚式を挙げる。けれども彼は彼女を忘れることなど出来ず、結婚式を遠目で見て悲嘆にくれる。僕の方が君を愛しているのに。
僕はこの曲を初めて知ったときはまだ少年だったし、恋愛経験もなくただきれいな曲だなという印象しかなかった。イントロが印象に残る。ソフトで、哀憐感や孤独感がよく表れているような。寂寥感や喪失感と言ってもいいかもしれない。切ない、やりきれない気持ち。
しかしながら、この曲は支持も集めるが、その未練たらしさから嫌う人も多い。実に恨み節的であり、主人公の行動もストーカー的であるし、実際にこういう男がいれば「気持ち悪い」と斬って捨てられてしまうかもしれない。
ただ、これはもちろん私小説でもあるまいし、心象風景をただ言葉に表しただけだ。そう思うと、男なんてものはこんなものだと思う。行動に移さないだけで、いつまでも忘れられず未練をなかなか断ち切れない生き物なのだと僕は思っている。もちろん俺はそんな男じゃないという反論もあるだろう。僕も全ての男性がそうだとは思っていない。けれども、どこかにそういう部分ってあるんだよね。理性と矜持で表面化することはまずないけれど。
なのになのに どうして他の人のところへ 僕の愛の方が すてきなのに
早川義夫さんの「サルビアの花」がおさめられているアルバムのタイトルは、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」である。この含羞。一言で言い表されている。こういう人であれば、心象風景としてああいう詩を書けるのだろうな。そう思っていたら、サルビアの花の作詞は相沢靖子さんという方なのである。女性か。それならば凄いな。観察眼というものが。
昔好きだった人はいまどうしているのだろう。そんなことをふと思い出す。
ずいぶん前の話だけれども、まだ若かった頃のある日、想い出に残る一人の女性から一葉のはがきが届いた。「結婚しました」と。
はがきには印刷された写真。その中に、ウェディングドレスをまとった、かつて本気で好きだった人の姿。晴れやかな笑顔。その隣には、僕の知らない背の高い男性。印刷された挨拶以外には何も言葉は添えられてはいない。
その人をまだ好きだったのか、と言われれば否であろうと思う。僕にもその時既に大切な人がいた。そして、僕の人生の中でひとときでも幸せな時間を与えてくれた彼女にもちろん祝福の気持ちはある。ただ、なんとも言えないザワザワとした気持ちを心の奥に発見する。なんだろうこの感情は。決して未練でも嫉妬でもないと信じたい。その感情を整理し咀嚼するのにしばらく時間がかかった。
その時はどうやって解決したんだろうか。おそらく「男ってそういうもの」というところに押し込めてしまったに違いない。
今ならぼんやりと分かる部分がある。おそらくは、その別れた時の方法論に後悔があったからだろうと。僕はあの時、ベストを尽くしたわけじゃなかった。あの時、それが最良だと思って選択した方法だったのだけれど、いろいろな感情を押し込めて内包したまま、結果を急いだことが後悔として残っているのだろうと。かっこいいと思って選択し行動したことが実は一番かっこ悪かったことだったから、もやもやしたものが残ってしまったのだろうと。そして、一葉のはがきを見たとき、その思いが噴出してしまったのだろう。
かっこいいことは反面とてもかっこ悪い。早川義夫さんはそう喝破する。かっこ悪いことがかっこいいと言うことではないけれど、何故感情を人は押し込めなければならないのだろうか。それは、プライドとか知恵とか、対面とか見栄とか様々なものがあるからだろう。試しに教会から出てくる花嫁を追いかけてみな。ただ最低の男という冠を与えられるだけだろう。そんなかっこ悪いことはとても出来ない。
泣きながら 君のあとを追いかけて 花ふぶき舞う道を
ころげながら ころげながら 走りつづけたのさ
だからこそ、男として最大にかっこ悪いことをしている「サルビアの花」の主人公の姿は、押し殺した感情の具現化。教会の鐘の音を嘘だと言い、彼女を「偽りの花嫁」とまで言う男の姿はなんてかっこ悪いんだろう。絶対にしてはならないことをしている男の姿が、心の、本当に奥の奥の奥底の部分に響く。
この歌はよく映画「卒業」になぞらえられる。大好きな女性の結婚式にやってくる男の姿に共通項があるからだろう。ただ、あれはアメリカの映画の話。あんなかっこいいエンディングは僕たちの暮らす世界ではちょっと考えられない。僕たちは決して、大塚博堂さんが言うようにダスティンホフマンにはなれないのだ。
ドラマ「北の国から」で、主人公の純は、かつて好きだったれいちゃんが結婚することを知って、教会にまでやってくるが遠望しただけで終わる。そういうもんだよな。純はれいちゃん以降も恋愛遍歴を重ねている。なのにれいちゃんの姿を見に走るのは、やっぱり自分の中で決着がついていなかったということなんだろう。あの姿もやっぱりかっこ悪い。
女性ってこういうときどうなのだろう。よくわからないけれども、同じようなシチュエーションで、シュガーの「ウェディングベル」という名曲がある。あの中で彼女は「くたばっちまえ、アーメン!」と言い放つ。実にかっこいい。これをもって女性の代表にするのには異論もあるとは思うけれども、やっぱり女性のほうが切り替えも早いし強いのかな、とぼんやりと思ったりもする。
この『サルビアの花』ですが、去年、コッキーポップコンサートに行った時に、最後にみんなで歌いました。
なんとも言えない感じでしたね。
ダスティン・ホフマンの卒業をモチーフにしていると言う話はちょっと小耳に挟んだ事があります。
大塚博堂ほどストレートではないんでしょうけど。
様々な方が歌ってますが、それぞれ味がありますね。
ジャックスですが、今年、猫のライブを見に行った時、『いい娘だね』と言うジャックスの曲を演奏していて、あまりの格好良い曲なので、ジャックスのCDを3枚買いました(笑
たまに聴きますが、何とも言えない独特の世界ですね。
木田高介と大塚博堂、偶然にも、年は違いますが同じ日に亡くなってます。
木田さんが1980年、大塚さんが1981年、5月18日です。
二人とも、30代で亡くなっており、その当時の音楽事情やその後を考えると、この二人が亡くなった事は、日本の音楽界にとって大損失だと思います。
また、最近、羽田健太郎が亡くなりましたが、羽田さんのこれまでの事を考えるとこちらも日本の音楽界にとって、大損失だと思います。
早く亡くなった方の事は、忘れたくないですね。
改めてご冥福をお祈りします。
「サルビアの花」は、コッキーポップが出逢いだと言う人が多いらしいですね。僕にはちょっとその時代のコッキーポップは古すぎて無理なんですけれども、コッキー関連の人気投票だと上位に入ってくるようです。
当時からのファンの方はその叙情的なメロディーを支持されていますが、最近の方はどうもストーカーソングと言う評価が定着して(汗)。しかし今思いついたんですが、猫の「雪」もストーカーっぽい(笑)。
ジャックスは全然知らなくて。CDを買えばいいだけの話なんですけれどもね(汗)。僕も聴いてみましょうか。
しかしそれにしても、木田さんと博堂さんは亡くなられた日付が同じですか。その符合にちょっと驚きです。
僕は深夜放送のせいでナターシャが身近でした。木田さんのときのショックはおぼえていますが、それから一年後だったか。博堂さんが亡くなられたのも記憶していますが、一年しか間が開いていないとはなんだか思えなくて。それは、木田さんのときは僕はまだ中学生で、博堂さんのときには高校生だったことが影響しているのかもしれません。
羽田さんも残念でしたね。とにかく皆さん惜しいな。志半ばの方が多すぎる。あれもこれも実現したかもしれないのに。
本当に忘れたくないですね。
木森さんが1988年4月11日(享年40)、大津さんが1997年4月10日(享年47)。
この両者の亡くなった日が1日違いと言うのも何かを感じます。
あと、河島英五と高田渡がともに4月16日です。
たまたまかもしれませんが、何かを感じます。
話は変わって『サルビアの花』、ある場所でちょっと見た事がありますが、早川さんがラジオで話した事らしいですが、女性のあれを表しているらしいですね。
今は、本屋はやってないそうですよ。
そういえば大津あきらさんも亡くなっていたのですねぇ。
このブログで先日赤い鳥を書いたのですが、大村憲司さんも亡くなって久しいです。
大津あきら、大塚博堂、大村憲司、大村雅朗…ああこんなことを書いてちゃいけないな。
えっと、サルビアの花についての暗喩は、僕も聞いた事があったのですがそれはさすがに書けませんでした(笑)。まあ詩を書いたのは相沢靖子さんなのでどうなんだろう、という疑問もありましたし(笑)。
この「サルビア」が世に出てから三年後に「もとまろ」がカバーしてそれが売れて、早川さんは本屋開店の資金繰りにずいぶん助かったという話を聞いた事があります。本屋さんから今はミュージシャンに戻られているのですね…。
サルビアの花を検索していたら偶然ここに。
この歌結構知られていたんですね。
私は当時、コッキーポップで流れていた曲をカセットテープに録音して何度も聞いていました。
私が録音して聞いていたのは、もとまろではなく女性ボーカル。でもその歌手名が今となってはわかりません。
いったいどれだけの人がカバーしたのでしょうか?
えーっと、コッキーポップで流れていたのならもとまろじゃないかと思うのですが…違うのかな。
最近では元モー娘の市井紗耶香もカバーしたくらいでたくさんの人が歌われていていて、僕もどなたかはわからないのですが、本田路津子とかも歌っていたな。それから、僕は聴いた事がないのですがダカーポやチェリッシュも歌っていた由。あとは…もしかしたら岩淵リリさんだったかもしれません。
関係ないのですが、僕は甲斐よしひろが歌った「サルビアの花」も好きです。
「いつまでも忘れられず未練をなかなか断ち切れない生き物」だもの。
類型化ではこういう話も聞いたことがあります。「記憶は、男はフォルダ保存。女は上書き保存」これも決め付けすぎですね。ただ、傾向としてこういうことはあるのかも、と身近な人をみていて思うこともあります。よくわかりませんね(汗)。
だから 失恋の痛手は新しいオトコで消すわけかあ。
フォルダ保存…ちょっとコレクターな匂いがっ。あはは。
でも、失恋の痛手なんかは実際コレクションなんてしたくはないのですよ。当然のことですけど。(* ̄m ̄)プッ