本当はしばらくメジャーな歌とシンガー(松山さんごめんなさい)について書いて、何ヶ月かしたら自分の思い入れの深いのを…と思っていたのだけれど、書いているのが大晦日であり妻も不在なのでちょっと路線を変更します。グダグダ書きますがすみません。
昭和63年の冬。僕は学生最後の休みを北海道で過ごしていた。白銀に包まれた美しい北海道の風景の中で、厳冬のこととてもちろん野宿など出来ず夜行列車を往復し、民宿やユースホステルに泊まって夜を過ごしていたのだけれど、そういった宿に集う旅人の中で、松山隆宏さんの唄が静かに流行っていた。心に響くその調べが知らない間に僕の旅のバックグラウンドミュージックとなっていた。
時間ばかりが先走ってる 昔の友は大人になりすぎて
女友達はみんなお嫁に行って なんだか自分だけが一人ぼっちだ
「カラカラ」という唄の一節。素直に心に沁みた。
ときおり俺の心の中で 小さなオルゴールが鳴り出す
そいつが俺の目覚まし時計 心のアンテナは錆び付いちゃいないよ
カラカラ カラカラ カラ元気を出せ
カラカラ カラカラ カラ元気を出せ
そのうち心から元気になるだろう
春には社会人とならなければいけない、そのモラトリアム最後の冬に、いやおうなしに別れざるを得なかった「青春」というもの、その黄金色した日々への挽歌のように聞こえた。
痛切な思いを抱えつつ旅をしていた僕は、北の果ての街で一人の旅の途中の女性と出逢った。
正直に言って、僕は女性をその時まで本気で好きになったことがなかった。女性と付き合ったことが無いわけではないし知らないわけでもなかったけれど、なんとなしにそれまで「恋愛」というものが興味の外にあった。デートするよりバイトして旅に出て行くことの方が楽しかったし、呑んだり騒いだりしていることの方が自分に合っていた。ちょっと恋することに斜に構えていた僕にとって、その女性は初めて心の奥の慟哭が聴こえてきた女性だった。
3月半ばに地元京都に帰り、青春時代の最後の締めくくりに入っていた僕のところに、関東に住んでいたその女性がやって来てくれた。そのつかの間の時間は僕にとってはものすごく濃密な時間だった。今思いだしても胸が締め付けられるような想いがよみがえる。
松山隆宏さんが地元のライブハウスにやってくることになったので、彼女と出かけた。
「カラカラ」をはじめ、「流れる水のように」「君は西へ行け」などの名曲を2人で聴いた。
そのときのアンコール曲が、「愛してるよって言ってごらん」。
僕らがずっと信じてきたものは ただの紙切れ古臭い教科書
もっと素敵を感じる心 誰もが持ってるはずなのに
だからこんなに笑うのが下手で 素直になれない君や僕がいるんだ
愛してるよって言ってごらん 君の恋人に 君を育ててくれた人に
愛してるよって言ってごらん 勇気を出してさぁ恥しがりやの自分自身に
僕の目の前に居る人が本当に好きだった。綺麗な人だった。初めて、その人とずっと過ごしていきたいと思った。その人を力いっぱい抱きしめたいと思った。
君のホントの声を聞かせて 心の片隅にそっとしまいこんだ
君のホントの声を聞かせて 拘りや見栄やしがらみ拭い去って
愛してるよって言ってごらん…
その恋は、叶わなかった。
彼女も僕と同じように社会人となり、離れた、忙しい生活の中で、それ以上お互いに深まらせる事が出来ず、淡い想いのまま過ぎ去っていった。今考えれば、中学生のような恋をいい年をしてしてしまったなぁと思う。しかしその時は、僕にとってはそれが精一杯だったのだ。
今の妻と出会ったのはそれから半年後になる。やはり当時関東に住んでいた妻とその後長く付き合えたのは、そのときの彼女と出逢ったおかげだったと思っている。彼女も今は結婚して子供も大きくなったはず。連絡はもちろんとってはいないけれども、似た人を見るとまだ振り返ってしまう自分に気がつく。そんなとき、松山さんの唄を思い出すのだ。
愛してるよって言ってごらん
勇気を出してさぁ恥しがりやの自分自身に
過ぎた日の話です。
関連記事:
沢田聖子「No Good-bye」
水越恵子「Too far away」
飯島真理「セシールの雨傘」
もとまろ「サルビアの花」
昭和63年の冬。僕は学生最後の休みを北海道で過ごしていた。白銀に包まれた美しい北海道の風景の中で、厳冬のこととてもちろん野宿など出来ず夜行列車を往復し、民宿やユースホステルに泊まって夜を過ごしていたのだけれど、そういった宿に集う旅人の中で、松山隆宏さんの唄が静かに流行っていた。心に響くその調べが知らない間に僕の旅のバックグラウンドミュージックとなっていた。
時間ばかりが先走ってる 昔の友は大人になりすぎて
女友達はみんなお嫁に行って なんだか自分だけが一人ぼっちだ
「カラカラ」という唄の一節。素直に心に沁みた。
ときおり俺の心の中で 小さなオルゴールが鳴り出す
そいつが俺の目覚まし時計 心のアンテナは錆び付いちゃいないよ
カラカラ カラカラ カラ元気を出せ
カラカラ カラカラ カラ元気を出せ
そのうち心から元気になるだろう
春には社会人とならなければいけない、そのモラトリアム最後の冬に、いやおうなしに別れざるを得なかった「青春」というもの、その黄金色した日々への挽歌のように聞こえた。
痛切な思いを抱えつつ旅をしていた僕は、北の果ての街で一人の旅の途中の女性と出逢った。
正直に言って、僕は女性をその時まで本気で好きになったことがなかった。女性と付き合ったことが無いわけではないし知らないわけでもなかったけれど、なんとなしにそれまで「恋愛」というものが興味の外にあった。デートするよりバイトして旅に出て行くことの方が楽しかったし、呑んだり騒いだりしていることの方が自分に合っていた。ちょっと恋することに斜に構えていた僕にとって、その女性は初めて心の奥の慟哭が聴こえてきた女性だった。
3月半ばに地元京都に帰り、青春時代の最後の締めくくりに入っていた僕のところに、関東に住んでいたその女性がやって来てくれた。そのつかの間の時間は僕にとってはものすごく濃密な時間だった。今思いだしても胸が締め付けられるような想いがよみがえる。
松山隆宏さんが地元のライブハウスにやってくることになったので、彼女と出かけた。
「カラカラ」をはじめ、「流れる水のように」「君は西へ行け」などの名曲を2人で聴いた。
そのときのアンコール曲が、「愛してるよって言ってごらん」。
僕らがずっと信じてきたものは ただの紙切れ古臭い教科書
もっと素敵を感じる心 誰もが持ってるはずなのに
だからこんなに笑うのが下手で 素直になれない君や僕がいるんだ
愛してるよって言ってごらん 君の恋人に 君を育ててくれた人に
愛してるよって言ってごらん 勇気を出してさぁ恥しがりやの自分自身に
僕の目の前に居る人が本当に好きだった。綺麗な人だった。初めて、その人とずっと過ごしていきたいと思った。その人を力いっぱい抱きしめたいと思った。
君のホントの声を聞かせて 心の片隅にそっとしまいこんだ
君のホントの声を聞かせて 拘りや見栄やしがらみ拭い去って
愛してるよって言ってごらん…
その恋は、叶わなかった。
彼女も僕と同じように社会人となり、離れた、忙しい生活の中で、それ以上お互いに深まらせる事が出来ず、淡い想いのまま過ぎ去っていった。今考えれば、中学生のような恋をいい年をしてしてしまったなぁと思う。しかしその時は、僕にとってはそれが精一杯だったのだ。
今の妻と出会ったのはそれから半年後になる。やはり当時関東に住んでいた妻とその後長く付き合えたのは、そのときの彼女と出逢ったおかげだったと思っている。彼女も今は結婚して子供も大きくなったはず。連絡はもちろんとってはいないけれども、似た人を見るとまだ振り返ってしまう自分に気がつく。そんなとき、松山さんの唄を思い出すのだ。
愛してるよって言ってごらん
勇気を出してさぁ恥しがりやの自分自身に
過ぎた日の話です。
関連記事:
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水越恵子「Too far away」
飯島真理「セシールの雨傘」
もとまろ「サルビアの花」
で、ユースホステルで検索していてここに辿りついたのです。
松山さんのライブに行ったのは10年以上前。以来ずっと地元のライブ案内が届き続けています。
歌詞に心が揺り動かされる歌を聴けること、そして今日ここで、こんなに素敵な文章に出会えたこと、とてもうれしく思っています。
私は昭和63年に浪人しながら旅をしたのが最初で、北海道に3ヶ月いたあと、毎年なぜか北海道に足を運んでいます。
また、きますね。ありがとう。
僕も松山さんのライブには残念ながら足を運ぶことが今は出来ていません。ユースホステルにも知り合いみたいになっちゃったところを除いてはご無沙汰です。しかし、ユースは300泊以上のスタンプが手元に残っています。僕ともどこかで出会っていたかもしれませんね(笑)
また、旅の話、唄の話、書き続けていきたいと思っています。訪問してくれて本当にありがとう。また是非読んで下さい。
ちょっと18切符で旅してるころなので行けないのが残念だけど、それぞれの旅を楽しめたらいいな~と思うこのごろです。
私も、ユースのスタンプは限りなく多い(笑)です。全部で・・・どれくらいだろ。
最初の年に、道内ほとんどのユースに泊まったのと、その冬にまた連泊したり、いろいろです。
なくなったユースを懐かしがっているばかりもつまんないと思い立ち、数年前に、新しいユース巡りをしてきました。
それぞれに楽しかったし、旅を続けているひとにも会ったりと、やはり出会いや別れ、再会に思いを馳せた旅になりました。
年末年始もユースには泊まらなかったけれど旅をしてきました。ちょっとしたきっかけで話をしたり、というの、多かったです。
それでは、また!
松山さんは今でも 年に100回前後のライブをこなし、明日までは北海道です。
松山隆宏さんの名前で検索していたら ここを見つけました。
なかなか すばらしい文章で 感心しました。
残念ながら 愛してるよって言ってごらんは 聴いたことがありません。
今年のライブには 是非リクエストして歌ってもらうことにします。
それと 松山ファンならうなる文章なので ヤフ-のフォ-ク、松山隆宏さんの今夜のライブ場は?で 紹介しておきますことを ご承知おき お願いします。
最近ライブにも行けず残念なので、ブログなどを"てげてげ"と書きながらストレスを解消しています(笑)。
紹介までしていただいて本当にありがとうございました。
これまた、レアな人(松山さん失礼!)の歌ですねぇ!
昭和63年の冬・・・僕も同じく北海道を放浪(滞在)しておりました。
湧網線廃止の翌年ですよね!?
で、松山隆弘さんの歌が密かに流行っていた宿・・・「さろまにあん」ではないでしょうか?
当時、ソコに松山さんが滞在しながら、網走の「檸檬亭」や常呂の「しゃべりたい」でライブを行っていたと記憶しております。
宿にあまり人が居ない時間帯に松山さんに拓郎のレアな曲をリクエストしたりもさせて頂きました。
小生、関東者ですので、渋谷や荻窪でのライブにも足を運び、松山さん宅へも泊めて頂いたこともあります。
当時、松山さんから半ば強制的(若干御幣がありますがね)にLPレコードを買わされましたりしたことがありました(笑)。
いやいや、懐かしい思い出を思い出すきっかけを作っていただきまして有難うございました。
PS:当時、ユースの会員証って補助カードをセロハンテープで繋げてものスゴク分厚くなったものでしたよねぇ~!!!
今のカードって味気ないですよね!?
アノ頃永年会員になっていれば良かった!!!
宿は「まにあん」と特定しているわけではないのですが(まにあんから流れた人が宣伝していたりしましたもんね^^)、まあ全般的に静かにブームでしたよね。その頃。国鉄民営化直前で、路線もどんどん廃止されようとしていた時代。冬の流氷輝く湧網線、惜しかったっすよね。あのときは、ここまで北海道の鉄道が壊滅状態になるとは思いませんでした。周遊券もなく。今の若者はどうやって旅をしているのでしょうかね…。
同じときに北に居た方ですと、もしかしたら逢ってるかもしれないなあ。冬は世間が狭くなりますのでね。
これ出すとマズいかな。特定されるかな(笑)
http://p-lintaro2002.seesaa.net/article/27027191.html
居たとしても、今の路線では列車での旅はほとんどつながらないので不可能ですしね!
バイク、レンタカーになってしまいますね!
ははは、ご安心を…
特定できませんです。
冬のモシリパあたりではかなり接近していて、もしかしたらばお会いしているかもって気がします。
「かもい第2回結婚式」ってのがかなりキーワードになるとは思うのですが、一応「かもいネーム」はありますが、ハマッた訳ではないので、分かりませんです。
若い人たちはもちろん自前の交通手段を持っているのでしょうが、春夏秋はそれで良くとも冬の旅は汽車に乗らないとどうしようもありませんからね。湧網線も標津線も天北線も青函も、ただ懐古の情しか残らず。うーん…。