亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

天母山も天母原も何処にも存在しないと云う坊主らの大嘘

2017年12月23日 13時00分40秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.40~42)に「天母山戒壇説とその起こり」と題して、坊主らは次の如く記しています。

「さて、以上のごとき重大意義を有する大石寺をさして、浅井昭衛は、広宣流布の時を待つまでの仮の寺くらいに軽賤し、天母山戒壇説をもって宗開両祖以来の正義であると主張するのである。だが、すでに述べてきたことからも明らかなごとく、宗開両祖等、上古の時代の富士の教義においては、富士山に本門寺戒壇を建立すべきことが示されていても、天母山に戒壇を建立するなどという説は片鱗もみられない。しかるに、それが何時の頃から、誰によって唱えられ始めたのか。

まず、大聖人滅後二百年頃、京都要法寺僧であった左京日教が、大石寺・重須方面へ来て本宗に帰依し、その後の1488年に著わした『類聚翰集私』に、『天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり』(富要集二巻323㌻)と、天母山ではないが、初めて「天母原」云々と述べている。

しかるに、昔も今も、富士山下に『天母原』という地名はなく、これが具体的にどこを指すのか不明であるのみならず、現実問題として、六万の坊舎を建立できるほどの場所は何処にも見出せない。それ故、五十九世日亨上人は、これを、日教師が心の中の観念・空想を述べた文であるとして、『まじめな後人を誤らすこと大なり』(富士日興上人詳伝268㌻)と指摘されているのである。

次に、『天母山』ということが初めて出てくるのは、日教師の説より八十年後の1567年、同じく京都要法寺の日辰が著述した御書抄(報恩抄下)においてである。それは、「富士山の西南に当りて山あり、名をば天母山と号す、この上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において二王門を建立し、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立」云々という文であり、ここで初めて「天生山(天母山)」の名が出てくるのであるが、それ以前においては、天母山という固有名称そのものがあったか、どうかすら、定かでない。

いずれにせよ、この日辰の記述が、同じ要法寺から出た左京日教師の謬説に基づいて展開されたものであることは確実で、これより以後、天母山戒壇説が世に出ることとなったのである。しかして、この日辰の時代以降、本宗では、十五世日昌上人より二十三世日啓上人に至るまで、要法寺を出身とする御歴代が続き、この時期、日辰の御書抄はじめ要法寺の文献書籍の大半が大石寺に移された。

こうした経緯のよって、次第に要法寺日辰の天母山戒壇説が本宗に入ってきたのであり、そのことについては、二十九世日東上人が、『順縁公布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤も辰抄の如きなり」と、天母山戒壇説は日辰の言葉によるものである、と明らかに仰せである。

また、御先師日達上人も、これについて、『この辺(要法寺の書籍が大石寺に移された頃)から要法寺系統の法門が入ってきてしまい、六万坊とか天生原、天生山という説が伝わってきた。(中略)だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちそのままとっていいというじゃない。やはり、日興上人、日有上人・・・・日有上人までは立派な本宗の御法門である。それをとって、よくかみ分けて進んでいかなければならない』と教示くださっているのである」等と。

ここで坊主らの記述を振り返って見れば「大聖人滅後二百年頃、京都要法寺の僧であった左京日教が、大石寺・重須方面へ来て本宗に帰依し、その後の1488年に著わした『類聚翰集私』に、『天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり』と記し、それより八十年後に同じく要法寺の日辰の著述した報恩抄下には『富士山の西南に当りて山あり、名をば天母山と号す、この上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において二王門を建立し、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立』」云々という文が記されている事からすれば、いま、日蓮正宗の坊主が指摘するような、富士山の裾に広がる天母山と名付ける山も、天生原と呼ばれる原は、昔も今も存在しないという説は為にする虚言だと思われます。彼らは国立戒壇を否定するためにとんでもない事を言い出したとしか思えないのであります。

以前にもこの問題について反論した事がありますが、坊主らの指摘に「左京日教が大石寺・重須方面へ来て本宗に帰依し」云々とありますように、要法寺の左京日教師が富士山下の重須方面に来て大石寺に帰依し、富士門流の教義を学んだからこそ「天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」との記録を「類聚翰集私」に書き著しているのであります。坊主らは日教師が何もないところから突然天母原という地名がひらめいたため、勝手に「類聚翰集私」に書き残したかのように書いていますが、そ坊主坊主らが嘘をついているのであります。

富士山母原戒壇を否定することは、大聖人様が三大秘法抄で仰せられた広宣流布の暁に建立しなければならない、本門寺の戒壇を「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」と仰せられた金文と、一期弘法付嘱書で日興上人へ御下命された「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御金言に泥を塗り「本門寺の戒壇」建立を完全否定する事になるのであります。

元々富士門流には、左京日教師以前の上代から大聖人様が三大秘法抄に「本門寺の戒壇=事の戒壇」を建立する場所について「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」と、信徒の重鎮だった太田金吾殿へ、広宣流布の暁に本門寺の戒壇建立を勧奨為され、さらに一期弘法付嘱書では、二祖日興上人へ具体的に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と、富士山の固有名詞をあげ給いて、本門寺の戒壇を建立する場所(位置)を特定遊ばされておられるのであります。

すなわち「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、日本列島のほぼ中心部に位置する日本の名山たる富士山以外には存在しないのであります。その富士山の中でも、天母原に勝る景勝地は他に存在しないことからすれば、現在の日蓮正宗の坊主らの記述は全くのデタラメだと思われます。

そもそも天母山とは富士山の南面に位置し、遠くから富士山を望めば剣が峰を中央にいただき、裾野に沿って下って行った一段高い丘が天母山と云われてきたのであります。天母山から麓に広がるなだらかな広大な傾斜地は、遠くは駿河湾までつづく裾野の広がりを見せ、その天母山の麓一帯を天母原と称してきたのであります。いにしえの昔から「天子南面に住す」と云って、此の場所こそ金剛宝座にふさわしく、広宣流布の暁には、本化聖天子さまが自ら王城を築かれ、此処から勅宣を発せられて本門戒壇の大御本尊様と居所を一にして、昼夜にわたり御守護申し上げる。まさしく一閻浮堤第一の御本尊様がお住まいになられる御座所としては、、これ以上の勝地は存在しないのであります。

その事を御開山日興上人は「富士一跡門徒存知の事」に、大聖人様の御本願を述べ給いて云く「凡そ勝地を選んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河の国・富士山は是れ日本第一の名山なり、もっとも此の砌に於いて本門寺を建立すべき由・奏聞し畢んぬ、仍って広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり」と。

つづけて云く「右、王城に於いては殊に勝地を選ぶ可きなり、就中仏法と王法とは本源体一なり。居所随って相離るべからざるか。仍って南都七大寺・北京の比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と仰せ遊ばすのであります。

ここで以前目にした本を思い出したのですが、創価学会は、富士門流に伝わる重書たる『富士宗学要集』の大切な所々を書き換えて改竄している事実を指摘した本を思い出したのであります。その本の名は「これでも池田大作を信ずるか」と題するものだったのですが、著者の下山正行氏が、そうした事実を本の中で暴露していました。思えば、富士宗学全集134巻の版権は、創価学会が所有している事からすれば、いま坊主らが目にしている富士宗学要集はひょっとしたらひいき目に見て、創価学会の手によって書き換えられた文面を基にして、論を展開しているのかも知れないのでありますが、それ以外の理由で天母原戒壇を反対しているとすれば「大聖人様に対する逆賊の徒」と、烙印を押されても弁解の余地はない筈であります。

ただ浅井氏が天母原戒壇説を主張する根拠は、彼の英邁な日寛上人が報恩抄文段の中で「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と御教示せられた御文を挙げています。それに加えて四十四世日宣上人の『世界の日蓮』には「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇堂を建立ある」と仰せられ、また四十八世の日量上人は「本門寺に掛け奉るべしとは、事の公布の時、天母原に掛け奉るべし」と仰せられている御文を衣文として、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇建立の場所について「天母ヶ原」と言及されているのであります。

さらに五十六世日応上人の仰せには「然らば則ち三大秘法其の名は三つありと雖も、其の本体は只一箇の此の御本尊に留まるなり。又後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり。此を事の広宣流布と云ふ。其の時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天母ヶ原と申す嚝々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって日本乃至一閻浮堤の一切衆生即身成仏の戒体を受得する処の尊極無上の大本尊なり」と仰せ給いて、本門寺の戒壇=国立戒壇の建立される場所について「富士山の麓に天母ヶ原と申す嚝々たる勝地あり」と仰せられ、血脈付法の正師におかれては、一糸乱れず異口同音に「天母ヶ原」を挙げ給うておられるのであります。    

また、昭和45年3月25日、妙信講の浅井昭衛氏が「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を上梓して、宗門・学会の首脳12人に送付して諫暁を開始された時、4月3日になって日達管長は浅井父子を本山の対面所に招き入れて、照れくさそうに「よく書けていますね~、誰にもこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」等と、思いもかけぬ言葉を発した後に、浅井氏からニセ戒壇正本堂の誑惑を指摘されて追いつめられた時「正本堂は最終の戒壇ではありません。公布の時は国立戒壇で天母山に建てられるのです」などと本音を漏らしています。

その後を継いだと称して猊座を簒奪して国立戒壇を目の敵にしている日顕管長も、教学部長時代に法華講員を前にして、ニセ戒壇正本堂を指して「天母山の問題もありますけれども、かえって天母山ではなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮49年8月号)などと、心にもないお世辞を垂れ流していますが、天母山は富士山麓の南面に確実に存在するのであります。

かつて創価学会が御遺命を曲げる以前、いわゆる国立戒壇を宣揚していた頃に発刊した「仏教哲学大事典」の『天生原』の項には、静岡県富士宮市にある安母山(大石寺の東方四キロ)の一帯をいう」と記してありますように、天母山一帯をさして天母原と呼んでいました。天母山は中心に約せば山となり、麓に約せば原となるのであります。

同じく仏教哲学大事典の『天母山』の項をには「この地域は日興上人の時代から宗内に色々の言い伝えがある由緒深い所である」と記されいますが、どんな言い伝えがあるかは論ずるまでもありません。

また、創価学会の供養によって天母山が本宗の所有に帰した時、前総監を務めていた柿沼尊師は、一文を寄せて云く「日達上人猊下の御徳によって天母山が日蓮正宗に帰した事は一文慶賀にたえない。・・・私は天母原に登り、富獄に対して密かに念願するところがあります」等と感慨を述べておられた歴史がありますが、いまの坊主らは、天母山も、天母ヶ原と名付ける地は、富士山の何処を探しても、昔も今も存在しない等と言い張っていますが、何処まで嘘をつけば気が済むのでしょうか! 

まさに罰当たりという以外には言葉も見つからないのであります。こんな間違った邪義を垂れ流すような、とんでもない坊主は、即刻僧籍を剥奪して宗門から永久追放しなければならないのであります。こうした悪知識を吹聴する嘘つき坊主の下では正しい信心はできないばかりか、成仏など思いもよらないのであります。これから先、どんな間違ったことを刷り込まれるか分かったものではありません。油断も隙もあったものではありません。恐れをなして決して近づいてはならないのであります。

涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ、悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」云々と。






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