亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

坊主の邪義と昭和47年4月28日の訓諭の矛盾を衝く

2018年07月28日 09時24分56秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.48~49)に「現時における事の戒壇」と題して、坊主たちは次のように記しています。

坊主云く「以上、縷々述べてきたが、今日、天母山戒壇説などを得意満面に振りかざし、本宗が宗祖以来の伝統を忘失したかのごとく、とんでもない言いがかりをつけて、『この戦いは、大聖人がなさしめているのである』等々と、何か、自分達が宗祖遺命を果たす特別な任にでもあたっているかのように思い込んでいる浅井らは、文字どおりの勉強不足、未だ得ずをこれ得たりの増上慢と呼ぶ他はない。いずれにしても、本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗冨士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁に『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する、本門寺戒壇の前身なのである。これに関連して、昭和四十七年四月二十八日の、戒壇に関する日達上人訓諭を拝したい。

『正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり』

この御教示について、重ねて説明しておくと、先ず第一に、大石寺正本堂には戒壇の大御本尊が御安置せられており、大御本尊まします所は何時いかなる場所であっても事の戒壇である、との根源の意義の故に 第二には、『百六箇抄』の一節に 『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書 1699㌻)とあるが、大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に正本堂を現時における事の戒壇とされたのである。(※だが、平成三年、大謗法と化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広布達成の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に本門寺本堂=広布の事相における戒壇となる可能性は失われた)。

じつに、正義は明々にして赫々ではないか。こうした日達上人御指南を『御遺命破壊』などと誹謗する浅井の妄説は、まさに言いがかりの浅い狂学である」などと口をへの字に曲げて悪態をついていますが、坊主のこうした堂々巡りの邪義の展開には、又かという思いとともに日暮れて道なお遠しの感を深くするばかりであります。

坊主の云うことが振るっています。(平成三年、大謗法と化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広布達成の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に本門寺本堂=広布の事相における戒壇となる可能性は失われた)とは呆れましたね。

そもそも創価学会と坊主らは一緒になって正本堂なる偽戒壇を建てて広宣流布を偽り国立戒壇を完全否定したと思ったらその後、銭ゲバ事件を起こして週刊誌の格好の餌食にされた揚げ句、世間の笑いものに晒された宗門が、今頃になって「大謗法と化した創価学会が本宗より破門」などと偉そうなことを書いていますが、邪義にまみれた坊主らに他人の事が言えた柄ではありません。「本宗より破門」と言えば聞こえは良いですが、真相は学会から見捨てられてもぬけの殻同然の宗門に残ったのは、たった一握りの邪義を刷り込まれた旧信徒と呼ばれていた法華講員と、欲望肥大の邪義にまみれた大飯食らいの坊主ばかりだったのであります。

こうした坊主らこそ宗祖以来の伝統を忘失して土葬の墓地を掘り起こして、あの偽戒壇正本堂を建て広宣流布が達成された等と称して、信徒と国家を騙してウソをつき、信徒の浄財で昼に夜に酒宴を張ってドンチャン騒ぎを繰り広げていた狂態を晒したと思ったら、両者は修羅と悪龍の合戦を思わせるような食うか食われるかの大喧嘩を繰り広げて逆上した日顕は「正本堂は池田の怨念がこもった建物だから取り壊してしまえ」などと叫び、偽戒壇正本堂は是れまた信徒の浄財で跡形も無く木っ端微塵に破壊したものの、肝心要の教義たる大聖人様以来の富士門流の命とも言うべき最も大切な国立戒壇は捨て去ったまま、今日に至っても、未だに邪義を垂れ流している事を忘れてはならないのであります。

偽戒壇正本堂の建設について創価学会の池田大作は、昭和39年5月3日、創価学会の本部総会において、次のような発言をしています。

池田云く「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。・・・・正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりになります。したがって全体的な御供養といたしましては、今度の正本堂の御供養だけで、いっさい将来はいたしません」(聖教新聞 昭和39年5月5日)と。

当時の学会員は池田大作の発言にありますように「広宣流布の体制としてはこれが最後、あとは本門戒壇の建立を待つばかり」との話を耳にした当時の学会員の誰もが理屈抜きにある種の驚きにも似た、何とも名状しがたい緊張感を覚えたのは事実であります。

それは今まで常識では考えられないようなすし詰め状態以上の中で行われていた奉安殿での御開扉は、このところ学会員の爆発的な増加によって、物理的には完全に飽和状態になっていたため、本門戒壇堂が建立されるまでの間、今度の正本堂の御供養によって、より大きな「大奉安殿」が建設されるものだとばかり、すべての者がそう思っていた筈であります。

拙者もこの最後の正本堂の建設には真心からの御供養を以って参加させて戴きたいと願っていたところ、翌年の昭和40年9月になって、今度は、日達猊下からそれに追い打ちを掛けるように、次のような訓諭が発布されたのであります。

云く「日達、此の正本堂に本門戒壇の大御本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限り尽くして供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」と。

池田大作の発言によると正本堂の御供養をもって、これが最後、次は「本門戒壇堂の建立を待つばかりになります」とあり、それにつづく日達管長は「宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限り尽くして供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」した訓諭が発布されたものだから、当時の日蓮正宗の僧俗信徒はこの好機こそ今生人界の思いで、二度と再び巡り合う事のできない人生最大・最後のチャンスと捉え、ある若者は結婚式の費用を御供養に充て、亦ある者は生命保険を解約して勧募に応え、また多くの老人たちは葬式費用の備えとして貯蓄していた定期預金や預貯金解約し、預貯金の無い者たちは質屋に行列をつくるといった、それこそ正本堂の建設に希望の胸を膨らませ、正本堂の完成の日が一日も早からん事を願って、心ある学会員の全ての者が死力を尽くして正本堂の御供養に応えたのであります。

その結果、正本堂の建設のために集まった資金は、昭和40年10月9日~12日迄のわずか4日間で、実に355億3600万円余りという途方もない膨大な建設資金が集まり、五年余りの時間をかけてこれを完成させたのでありますが、それに気をよくした池田大作と細井日達管長は途中で気が変わり、建設中の正本堂をさして、是れを広宣流布の時の本門事の戒壇堂と言い出したのであります。

池田云く「正本堂の建設は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」(第一回正本堂建設云委員会直後の発言)と。

日達管長もそれに呼応して「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)と。

つづけて「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊の在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇あります」(昭和45年4月27日 教師補任式)と。

このように豹変した池田大作と日達管長は詭弁に詭弁を重ねながら純真な信徒を手玉に取り、世間の国立戒壇に対する非難をかわすとともに大聖人様の窮竟の御本願たる富士門流七百年来の最重要教義として伝承されてきた国立戒壇を永久に放棄するという暴挙をやってのけ、完全にこの宗旨を抹殺してしまったのであります。

そうしたところ坊主らは、今頃になって摧破異流義考誌(P.48~49)に、こんな事を書いています。

坊主云く「今日、天母山戒壇説などを得意満面に振りかざし、本宗が宗祖以来の伝統を忘失したかのごとく、とんでもない言いがかりをつけて、『この戦いは、大聖人がなさしめているのである』等々と、何か、自分達が宗祖遺命を果たす特別な任にでもあたっているかのように思い込んでいる浅井らは、文字どおりの勉強不足、未だ得ずをこれ得たりの増上慢と呼ぶ他はない」等と口をへの字に曲げて浅井昭衛氏の批判を繰り返していますが、邪義破折班の坊主こそ「文字どおり勉強不足」なのであります。浅井昭衛氏の主張は終始一貫、広宣流布の暁に国家的に建立される本門寺の戒壇堂建立場所は、富士山麓の天母ヶ原と叫びつづけているのであって、天母山戒壇説を主張しているのは、彼の悪僧日達管長だったのであります。

昭和45年4月3日、妙信講の本部長を務めていた浅井昭衛氏と浅井甚兵衛講頭が日達管長から呼び出されて本山の対面所で「正本堂に付き宗務当局に糺し訴う」と題する諫暁書に難癖をつけようとして、日達管長は法主の権威を笠に着て、説諭を試みたものの失敗に終わるのでありますが、その時のやり取りを再現すると次のようになっています。

日達「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その本尊まします所は事の戒壇なのです」

浅井「御言葉ですが、『事の一念三千』とは、文上脱益理の一念三千に対して『事』と仰せられたので、これは法体の上での立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『事』と『義』の立て分けとは、次元が異なるようにおもわれますが・・・・・」

日達「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです」

(怒気を含む強い調子で、同じ言葉を繰り返された)

「しかし、『いつでも、どこでも事の戒壇』となれば、御遺命の戒壇と正本堂の区別がつかなくなる。最も重大な核心はここにある。私は詰めてお伺いした」

浅井「では、御遺命の事の戒壇はとうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法昭に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」

(猊下は困惑の色を示され、しばし沈黙されたが、やがて意を決したように)

日達「広宣流布の時の戒壇は国立ですよ」(と明確に云われた)

(重ねて念を押させて頂いた)

浅井「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」

日達「正本堂は最終の戒壇ではありません。公布の時は天母山に建てられるのです。だから私は正本堂について『須弥壇の形にする』(と説法したのです)

とありますように、浅井昭衛氏が天母山戒壇説を唱えているのではなく、悪僧日達管長が天母ヶ原戒壇説を否定して、時々天母山戒壇説を言い張っているのでありますが、これも、浅井氏から追いつめられて今まで池田と二人で富士門流の重大教義を歪曲してきた事実を厳しく指摘された事が引き金になって、咄嗟に日頃思っていた事を漏らしたものと思われるのであります。

それは最後に浅井本部長からだめ押しを押されるように、やんわりと皮肉られ「猊下の御本意を伺い、こんな有り難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思い込んでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達「いや、私から間違わぬう、よく伝えておきます」と。

「猊下は明言された。そして最後に『妙信講の信心に、私は負けました』とまで仰せられた」

このように、日達はその場しのぎに、心にもない軽い言葉を口にしてその場を繕って逃げる算段ばかりを考えていたようですが、えせ信徒の池田大作に諂って一度心変わりした日達は、死ぬまで大聖人様の御心に背いて天母ヶ原戒壇に反対し、突然死を余儀なくされるという仏罰をこうむり、まことに悲惨な最期を遂げているのであります。

つづいて「いずれにしても、本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗冨士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁に『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する、本門寺戒壇の前身なのである」について

確かに坊主が述べていますように、現在の大石寺の存在する場所は大石ヶ原の一角にあり「本門寺戒壇の前身なのである」としていますが、それはそのとおりであります。本門戒壇の御本尊様は、日本国の広宣流布が達成された暁には、富士山天母ヶ原に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇堂にお出ましになられ、世界の人々の懺悔滅罪の根本道場として始めて公開される事になっているのであります。

次に「この御教示について、重ねて説明しておくと、先ず第一に、大石寺正本堂には戒壇の大御本尊が御安置せられており、大御本尊まします所は何時いかなる場所であっても事の戒壇である、との根源の意義の故に」について

ここで坊主の言っていることは悪僧日達以来の邪義であり、悪僧日達の受け売りであります。

本門戒壇の御本尊様の在所には「義の戒壇」と「事の戒壇」の二つがあり、いまさらその違いについて説明するまでもありませんが、宗門七百年来の定義は、広宣流布するまでの間、戒壇の御本尊様のおわします所は「義の戒壇」と呼称してきたのであります。そして広宣流布の暁に富士山天母ヶ原に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇を唯一「事の戒壇」と申し上げてきたのであります。

このことを日淳上人は「王法と仏法が冥合して国主が此の御法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる、それを『事の戒壇と申す』と仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従ってその以前は、御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。よって此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。

それに対して悪僧日達は「戒壇の御本尊様のおわします所は、いつでも、何方でも事の戒壇」などという邪義を吹聴するようになりました。それは創価学会の選挙を勝たせるために考えついた教義解釈の変更だったのでありますが、日達という悪僧は、御本仏大聖人様の御定めより、似非信徒池田大作の要求を重んじたのであります。

次に「第二には、『百六箇抄』の一節に 『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書 1699㌻)とあるが、大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に正本堂を現時における事の戒壇とされたのである」について

悪僧日達と坊主らは百六箇抄にある「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」の御文を引用して「大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に正本堂を現時における事の戒壇とされたのである」などと百六箇抄の一節を悪用したことを白状しています。

この事を分かりやすく説明しますと「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」との御教示は、読んで字のごとく、三大秘法の広宣流布の暁に御安置される戒壇の大御本尊様の在所は、富士山麓の天母ヶ原に建立される本門寺の本堂なのであると、大聖人様ご自身が百六箇抄の中で明確にお定めになられている金文を悪用して、本門戒壇の御本尊様を偽戒壇正本堂に押し込め据え奉った悪事を正当化するために、上記の金文を引用して、偽戒壇正本堂の本堂が恰も百六箇抄の御文どおりの建物だと思わせようと広宣流布を偽り、多くの僧俗信徒を騙しつづけていたということであります。

それではここから悪僧日達管長の発した昭和47年4月28日付の訓諭の矛盾について、破折を加えることにしますが、その前に、一期弘法抄と三大秘法抄の金文を拝したいと思います。

一期弘法抄「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状をまもるべきなり」(弘安五年九月  日)と。

三大秘法抄「戒壇とは王法仏法に冥事仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時をまつべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国ならびに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天皇・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」(弘安五年卯月八日)と。

悪僧日達云く「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」等と自賛していますが、偽戒壇正本堂は、何処を探しても一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含んだ建物ではありません。日達管長のこうした邪義によって、日蓮大聖人様の嫡流を誇っていた宗門がおかしな方向へ走り出し、国家が傾いて行くのであります。

当時の学会員の総勢は約800万人として、正本堂の御供養に参加した者はその内80%だとすると、わずか640万人足らずの学会員と僅か一握りの法華講員で建てた正本堂が何故に「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」と言えるのでしょうか!

その上「すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とありますが、偽戒壇正本堂は広宣流布の兆しも見えない内から前以て建てたことになっていますが、一期弘法抄と三大秘法抄の戒文には「時をまつべきのみ」との御文に反して建てた偽戒壇が何故に、両抄の意義を含んでいると言えるのでしょうか? 

ところが悪僧日達の訓諭では「但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」とありますように、謗法の徒多きが故に等と言っていますように、自らが広宣流布は達成されていないことを証明しています。そんな中で「安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」等と述べていますが「須弥壇は蔵の形式」とは、御宝前の前に開閉の扉を付けただけのことで、僧族信徒を欺く日達特有の詐話師の言であります。そんな事など垂れたところで何の付け足しにもならないばかりか、言語道断、戒壇の大御本尊様に大恥を掻かせて御顔に泥を塗っただけで、自らが無限に罪障を作るだけで終わっているのであります。

大聖人様は一期弘法抄の冒頭に万感の意を込められて「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」と仰せられています。その意を簡単に解説しますと「日蓮一期の弘法」とは、大聖人様30年の忍難慈勝の御化導を一つに括られて、出世の御本懐たる本門戒壇の御本尊は、第二祖白蓮阿闍梨日興上人へ付嘱したと仰せられています。

次に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時をまつべきのみ。・・・・就中我が門弟等此の状を守るべきなり」とありますように、広宣流布の暁に日本国の本有の国主たる時の天皇陛下がの三大秘法を受持した後、勅宣を発せられて富士山天母ヶ原に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立すべきである。その時が来るまで「時を待つべきのみ」と仰せられ、事の戒壇と称して偽戒壇を建ててはならないと戒められています。このように大聖人様が固く戒められた意向に背いて建てた正本堂が、何故に一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む本門寺の戒壇と言えるのでしょうか、ウソをつくにも大概にしなければなりません。

さらに三大秘法抄には「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とあります。王法とは総じては、国家の統治主権、国家権力、政治などを指しますが、此処では一国の政治を王法としています。したがって「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」とは、日本国の王たる天皇も、国政の衝にあたる各大臣も全国民も三大秘法の南無妙法蓮華経と唱え、広宣流布の暁に日蓮大聖人の仏法(三大秘法)と政治が冥合することに依って、真の国家安泰が達成され、永遠の平和国家がもたらされるこを言いますが、偽戒壇正本堂が建てられた時は王法と仏法が冥合した事相もなければ、王臣万民が三大秘法を受持したという姿相は夢にも存在しなかったのであります。

次に「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とは、有徳王・覚徳比丘の故事にあるごとく、本門戒壇の御本尊様を守護するにおいては身命をも惜しまぬという護法心が日本国の朝野にみなぎった時のことを云うのであります。大聖人様はかかる国家状況が、末法濁悪の未来に必ず現出することを断言せられ、その時を、戒壇建立の「」と定め給うておられるのであります。

悪僧日達は、未だにこの「」も到来していない事を百も承知しながら正本堂なる偽戒壇を以て、之を本門寺の戒壇と偽り、一期弘法抄並びに三大秘法抄の金文を破壊し、大聖人様以来富士門流の清らかな清流を、取り返しのつかないほどの汚れた濁流にしてしまったのであります。

次に「勅宣並びに御教書を申し下して」について、勅宣とは、日本国の本有の国主たる時の天皇陛下の勅であり、御教書とは、現代的に約せば、国家としての公式の意思表明でありますから国会の議決で国家の意思が決められることをいうのであります。そうした二重に亘る国家的手続きを経た上で戒壇を建てることによって、はじめて仏国が実現するのであります。偽戒壇正本堂はそうした手続きを一切無視して建てた建物故に災いを招くこととなり、建設からわずか二十六年にして打ち砕かれ消滅することになったのであります。

次に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」とあります。

ここでは先ず本門寺の戒壇建立に係る「戒壇建立の場所と本門寺の戒壇に係る御利益」についての御指南であります。

霊山に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」と御教示でありますから日本国の最勝の地とは、富士山麓の天母ヶ原を指していることは言を俟たないのであります。亦「事の戒法」とは、凡夫を仏にして下さる空前絶後の未曾有の国家的戒壇だから事の戒法とお呼びするのであります。

故に日寛上人は御相伝に基づき「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と仰せられ、日応上人も「富士山の麓に天母ヶ原とも申す嚝々たる勝地あり、ここに本門戒壇建立あって・・・・」(御宝蔵説法本)と仰せられているのであります。

そして日寛上人は本門戒壇を建立するに当たっては、依義判文抄の中で三位日順の心底抄を引かれ「戒壇の方面は地形に随うべし。国主信伏し造立の時至らば智臣・大徳宜しく群義を成すべし、兼日の治定は後難を招くにあり、寸尺高下注記するこ能わず」を仰せられいますが、日達管長はこれ等の仰せを悉く無視して、正本堂なる偽戒壇を広宣流布の事の戒壇と公言しているのであります。

それに偽戒壇正本堂を建てた所は以前、正宗信徒が土葬で葬られた墓地があったところなのです。そんな死人の腐乱した臭肉の漂う穢れた場所が「霊山浄土に似たらん最勝の地」であるわけがありません。

広宣流布の暁の本門寺の戒壇とは「三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず」とありますように、世界の人々が三大秘法を信受して懺悔滅罪を祈願する根本道場のことであります。即ち南条抄に仰せられる「若し此の霊場に一度も詣でん輩は、無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」云々との御教示が事相となるのであります。

次に「大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」とは、三大秘法の及ぼす御利益は人間界ばかりか、自然界にも及ぶ広大無辺の大利益のことであります。今、世界的な異常気象が騒がれていますが、我が国に於いても今年の豪雨災害は、西日本一帯に未曾有の甚大な被害をもたらし、多くの人命と財産と郷土が失われてしまいました。その根本原因は立正安国論にお示しのとおりでありますが、三大秘法が広宣流布した暁には妙法の力用によってこれ等の災害は本より、あらゆる凶悪犯罪は夢のごとく雲散霧消して、平和な楽土が現出するのであります。

それは如説修行抄の一節にあるごとく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉るらば、吹く風枝をならさず雨塊を砕かず、代は義農の世となりて今生には不詳の災難を払い長生の術を得、人法共に不労不死の理顕われん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり」と御教示でありますように、中国の古代に三皇五帝と謂われる時代に伏羲・神農という皇帝が釈迦の法華経を元にに善政を敷いていた時代がありました。その時代は、来る年も来る年も五穀の豊穣がつづき、五風・十雨と謂われるような五日に一度そよ風が吹き、十日に一度しとしとと雨が降る。そのような平和で豊かな時代が日本の国土に顕われると仰せなのであります。

次に「今生には不詳の災難を払い長生の術を得」とは、個人に於いても国家にあっても、不詳の災難に遭うことのない平和な社会の中で、幸福な生活が約束されるということであります。

また「人法共に不労不死の理顕われん時」とは、大聖人様の仏法は本因妙の仏法であります故に、釈迦仏法のように、正像二千年で法力が失われることのない末法万年を照らす大仏法という事であります。しがたって此の三大秘法を実践する個人に於いても、決して行き詰まることのない幸福を得ることが出来るということであります。

此処で仰せられるように、個々人の幸福と国家の永遠の繁栄は、一に国家的に立てる国立戒壇の建立にあることを知るべきであります。

その大事を四十九院申状に「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護によって長久す」と。仰せられているのであります。