亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

日蓮正宗の邪教化は、六十六代の日達から始まった

2014年01月24日 13時31分59秒 | 亡国の坂道 
日蓮正宗第六十六代の管長職に就いた悪僧日達のデタラメ説法によると、三大秘法抄の重要な御文を引用しながら、御本仏大聖人様の御心を逆手に取り、己の幼稚極まる我見があたかも大聖人様の御教示の如く、大聖人様の仰せられる本門戒壇の真意をねじ曲げて説法の真似事をしています。

具体的には、御本仏大聖人様の終窮究竟の御本願たる本門事の戒壇=国立戒壇の建立に関する御教示に対し、悪僧日達独特の我見に基づく間違った解説を加え、支離滅裂にして矛盾に満ちた話を垂れ流した揚句、国立戒壇に対して可笑しな邪説を交えながら、真面目な信徒の信心を弄んでいるのであります。

云く「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」のお言葉を良く拝しますれば、時代において王の名称も変わってきます。国に於いてそれぞれ変わりがあります。然しながらその言葉は、即ちみんな全部の人が共に信心をするという広宣流布の姿を申されておるのでございます。今将に世間で噂されておる国立戒壇などと云う言葉に惑わされず、ただ広宣流布の時に始めてできる戒壇であります。それが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇でございます」などと。

大聖人様が三大秘法抄で仰せられた「王法」の意味は、国家、国主、国主の威光勢力、統治主権、国家権力、政治等の意味を総称して、一言で「王法」と仰せられているのであります。

ところが悪僧日達は「王法」を「王」と「法」の字に切り離して「王の名称も変わってきます。・・・・・・」として、大聖人様が仰せられる「王法」の意味を「王」の問題にすり替えて邪義を論じているから無慚というのであります。

このように、悪僧日達が垂れ流す邪説は矛盾撞着支離滅裂なものであります。云く「『王法仏法に冥じ、仏法王法に合して』のお言葉を良く拝しますれば、時代において王の名称も変わってきます」などと、最初から関係のない王の話を持ち出して来て、トンチンカンな酔っぱらいの寝言のような法話をはじめています。

そもそも大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」との御教示は、一国の政治と三大秘法が冥合し、広宣流布が達成された時の時代的背景お述べになられた金文であります。悪僧日達はその時の「王法」を「王」と「法」に分解して「王の名称も変わってきます。国に於いてもそれぞれ変わりがあります」とは、お笑いを通り越して、まさしく気印の寝言であります。いくら管長職の地位に就いたとしても、長年の間、謗法を繰り返してきた仏罰によって、頭破七分の哀れな姿を晒しているのであります。

悪僧日達は王仏冥合を論ずるのに、何故に、大聖人様が「王法」と仰せられた金文を「王」と「法」に切り離して論ずる必要があるのでしょうか! それも「王」だけを取り出して、王の説明をするかと思えばそうでもなく「法」については、一切口を閉ざし、関係のない国の問題にすり替えて「国に於いてもそれぞれ変わりがあります」などと話があさっての方へ飛んでいますが、余りにも馬鹿げています。悪僧日達は最初から信徒と不真面目に向き合っているのであります。よって、こういう坊主の話は一切聞きたくないのであります。

つづけて悪僧日達は「今将に世間で噂されておる国立戒壇などと云う言葉に惑わされず」などとも発言し、かつての自らの発言を忘れたかのように、妙信講(顕正会)を牽制している様子が窺えます。

さらに「ただ広宣流布の時に始めてできる戒壇であります」などと広宣流布以前に建てた正本堂は、決して「事の戒壇」ではないと思わせるような説明をしておきながら「それが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇でございます」などと意味不明の邪義を垂れ流し、わずか八百万足らずの学会員で建てた、ニセ戒壇正本堂を「事の戒壇」として、口に筆に大宣伝を始めたのであります。

それでも悪僧日達も猊座に就いた直後には、宗門七百年の伝統教義を踏まえて正しい教義を展開していたのであります。

云く「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

また云く「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)等と。

ところが昭和45年4月14日、宗門を代表する早瀬日慈と阿部信雄の二人は、政治権力を手中にする事しか頭にない池田大作から一方的に無理難題を吹っかけられ「国立を云うと追いつめられる恐れがある」「今ここで、永久に国立という内容にするか、しないがが急所である。永久にしないという決定をいえば(世間は)収まる」等といった世論の批判に怯えたあまりとんでもない圧力を宗門にかけ、宗門との間で国立戒壇永久放棄の方針がこの時決められたのであります。

学会はこの時期、評論家の笠原一男氏の国立戒壇に対する非難や、藤原弘達氏の著述による「創価学会を斬る」と題した暴露本の言論出版妨害事件などで、世間から轟々たる非難を浴びせられていたのでありますが、宗門から国立戒壇を永久放棄させたことは、学会に取っては世間の批判をかわし、選挙を有利に戦えるという、一石二鳥の戦果を勝ち取った効果をもたらしたといえます。

悪僧日達は池田に諂うあまり「国立戒壇は日蓮正宗の教義ではない」などと大聖人様の御遺命に違背して破廉恥なことを言い出したのであります。これを教義歪曲と言わずして何んと表現すべきでしょうか。学会は、国立戒壇を叫ぶことは、反って選挙に不利と考えるようになり、国立戒壇の永久放棄を宗門に要請したのであります。宗門はその要請を唯々諾々と受け入れ、大聖人様以来の伝統教義を曲げて、御本仏大聖人様に対する反逆の態度を鮮明にしたのであります。

宗門は創価学会のこうした理不尽な圧力に屈した後、国立戒壇の御遺命を放棄した悪僧日達は、昭和45年5月3日に行われた創価学会第33回総会の席で次のような説法をし、国立戒壇永久放棄を世間に誓い、選挙に血道を上げる創価学会を喜ばせています。

云く『わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かって「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済する為に「一閻浮堤第一の本尊此の国に立つ可し」と仰せられているのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せになってはおりません。日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはあり得ないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より以前には、そういう名称はなかったのであります。今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称は使用しないことにいたします』等と。

悪坊主日達のこのような発言を受けて池田大作は、広宣流布は流れそれ自体であるとして、大要次のような発言をして仏法に疎い多くのマスコミを煙に巻いて、邪教化の一歩を大きく踏み出したのであります。

云く「第一に、本門戒壇は国立である必要はない。国立戒壇という表現は、大聖人の御書にもなく、また誤解を招く恐れもあり、将来ともに使わないと決定したいと思いますが、いかがでしょうか。

第二に、国教化は、一閻浮堤という世界宗教の意義からはずれ、その宗教の力のなきことを意味するのであり、かねてからそれを否定してきた、私どもの意志を更に高らかに宣揚したいと思いますが、その点もいかがでしょうか。

第三に、将来、国会の決議によって国立にするのではないかという疑惑に対しても、本門戒壇は、どこまでも、純真な信心を貫く民衆の力によって築かれ、意義付けられることを明らかにしておきたい。戸田前会長も私も、国会の議決という事を民衆の要望をあらわすものとして、真剣に考えたこともあります。しかし、それは、憲法の精神からいって不適当であり、私どもとしても、遥か以前にこの考えを捨ててしまっているのであります」などと。

一見するとこの時の池田大作の講演は、民主的な和気藹々とした方法によって大聖人様の仏法(三大秘法)を弘める手法こそが、現代に即した布教の在り方であり、憲法の精神に則った弘教こそ創価学会の行動原理のごとく強調していますが、これこそが折伏精神に反する大聖人様への反逆であり、世間に対する諂いから生ずる大衆迎合主義への堕落なのであります。

それ以来悪僧日達は、毒を食らわば皿までもを地で行くように、ニセ戒壇正本堂を指して「何時でも何処でも事の戒壇でございます」と言うことを繰り返すこととなり、ニセ戒壇正本堂を指して、大聖人究竟の請願の成就などと、悪僧日達特有の言い回しで、邪義を展開する事となったのであります。

悪僧日達はこのような矛盾した説法を繰り返し、ついに正系門家日蓮正宗七百年の宿願を弊履の如く破り捨ててしまいました。

悪僧日達の邪義の最たる所以は、信徒を小ばかにするところから始まっているのであります。そもそも「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に富士山天生原に事相に立てられる国立戒壇を以て「事の戒壇」と呼称し、宗門七百年の宿願であり正しい法義の展開だったのであります。それをニセ戒壇正本堂の建設にかこつけて「戒壇の御本尊のある処、何時でも、何処でも事の戒壇でございます」と言い出したのであります。三大秘法義に対する理解の薄い僧俗信徒は、悪僧日達が繰り返す邪義に洗脳されて、ニセ戒壇正本堂は、広宣流布の「事の戒壇」と本気で信じ込むようになったのであります。

このような邪義を垂れ流すようになった最大原因は、創価学会の選挙にあったのであります。わずか二十年余りの折伏戦で、爆発的な会員の増加によって気を良くした池田大作は、選挙によって、政治権力を手中に治めようと考えるに至るのであります。

丁度その頃マスコミや一部評論家が、創価学会の高唱する国立戒壇に疑問を投げかけ、世間が騒がしくなってきたのであります。そうしたところ池田大作は、世間の国立戒壇に対する非難の声が大きくなるにつれて、ニセ戒壇正本堂を以て、本門事の戒壇=正本堂とする事を思い付くのであります。それ以来、池田は宗門に対して猛烈な圧力を掛け、年老いた日達管長を籠絡することに成功するのであります。これ以来日達は飼い犬が主人に尾っぽを振るごとく、池田大作に手なずけられて、平然と大聖人様に違背する教義を展開するようになるのであります。

池田大作の軍門に下った悪僧日達は、衣の権威で八百万信徒を邪義と詭弁で煙に巻き、大聖人様の三大秘法義を歪曲して邪義を垂れ流し、外に向かっては、池田大作と悪僧日達の共同作業で国立戒壇を否定する邪義を以て国を欺き、正本堂をして大聖人様仰せの本門戒壇の如く宣伝するようになったのであります。

世間で国立戒壇に対する非難が高まっていた昭和45年当時、一方では、日本共産党の谷口善太郎代議士から創価学会の目指す国立戒壇は、憲法第20条抵触し憲法違反ではないか、あるいは創価学会が宗教活動に名を借りた選挙活動は、憲法第89条に抵触し憲法違反ではないか、などと記した質問主意書が船田衆議院議長に提出されたのです。国会はその質問を受けて創価学会に対し、国立戒壇の意義を問い質してきました。

そうしたところ池田大作は、共産党のこうした動きに慌てて次のような文章を以て、国立戒壇を完全に否定したのでありますが、池田大作が下記のような回答をするには、事前に宗門と綿密な摺り合わせをした上で、下記のような本門戒壇に関するデタラメな回答書を提出して、難局を乗り切ったのであります。

①本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心となる場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養に依って建てられるべきものである。

②既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。

③一時、本門戒壇を“国立戒壇”と呼称したことがあったが、本意①で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力は無関係である。

このように、誰が考えても広宣流布になっていないにも拘らず、国家と無関係に宗門だけで建てたニセ戒壇正本堂を、大聖人様が仰せられた本門戒壇と偽り、国立戒壇を否定し、ついに国家をも欺いたのであります。

ところが、今ごろになって邪義班坊主らが「最後に申すべき事を砕破す」(P.82)に、広宣流布の暁の国立戒壇を否定するために考え出された、悪僧日達の支離滅裂の間違いだらけの説法を持ち出して来て、再び恥も外聞もなくその邪義を「再破す」に掲載しています。この機会に、拙者がその邪説を紹介しながら、悪僧日達と、邪義班の坊主らの邪義の根を切断する事にしました。

悪僧日達が述べている間違った三大秘法抄の解釈なるものは、一読噴飯ものとして後世の笑い物に晒されることは請合いです。この悪僧日達という邪僧は、御本仏大聖人様が三大秘法抄で仰せの、本門戒壇に関するイロハが全然理解できていないばかりか、実にくだらない邪説を繰り広げ、僧俗信徒の信心を池田大作が喜ぶように、縦横に操っているのであります。

大聖人様が三大秘法抄で仰せられる本門戒壇とは、日本国が日蓮大聖人様の仏法(三大秘法)を国家的に尊崇守護する事に依って、国家の永遠の安泰を得る唯一の方法を示された極めて重要な御教示なのであります。その事は、まさしく三大秘法の妙々甚深の力用に依って、国家が永遠に長久する秘術をお示しなのであります。

そもそも大聖人様が三大秘法抄にお示しの「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」の御文を端的に要約しますと、広宣流布が達成された時には、王法であるところの、一国の政治と三大秘法が冥合した時の社会の様相は、国立戒壇の妙々の力用によって、国家そのものが防非止悪の当体となる。故に、今日のような凶悪犯罪は夢の如く雲散霧消し、国民を虐げることのない慈悲の政治が行われるようになるのであります。この事は、世間でいう薄っぺらな政教一致等とはまるで次元が異なる未曾有の政治体制が現出するという事であります。依って自然界に在っても、三災七難から解放された五風十雨といった災害のない、前代未聞の平和の楽土が現出する国家社会が生まれるという事を仰せなのであります。一方、国の外に対しても、慈悲の理念に基づいた外交に徹し、決して他国を害さない思いやりのある温かい政治が行われ、懸案であるところの北方領土等の領土問題は解決する事になるのであります。

悪僧日達は、王仏冥合が成った時の国家安泰の原理を徹底して破壊し、支離滅裂にして、勝手気ままな愚にもつかない矛盾だらけの論理を展開しているから始末が悪いのであります。悪僧日達は、未だ得ざるを得たりと思い有頂天になって、邪義を振りまいているようですが、一体この悪僧は何が言いたいのか、さっぱり理解できないのであります。まさしく言語明瞭意味不明の見本とはこれであります。悪僧日達が、このような前代未聞の己義・邪説を展開するようになったことから正系門家の組織的な教義歪曲が始まったのであります。

日蓮正宗中興の祖として、お徳の高い英邁な第二十六世日寛上人は、文底秘沈抄の中で「事の戒壇」「義の戒壇」を大きく立て分けられて、次のような定義を為されておられます。

広宣流布以前に本門戒壇の御本尊のお在します処は「義の戒壇」と定義せられ、広宣流布の暁に国家的に建てられる事相の国立戒壇を「事の戒壇」と御教示なのであります。

文底秘沈抄に云く「夫れ本門の戒壇に事有り、義有り、所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義戒壇に当たるなり、例せば、文句第十に「仏其の中に住す。即ち是れ塔の義」と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も來下して踏みたもうべき戒壇なり」との御教示からも明らかなように、正しく「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に本化国主の勅宣を奉戴して建立する、国立戒壇のことを仰せられているのであります。

悪僧日達は、昭和47年の創価学会寄進によるニセ戒壇正本堂を「事の戒壇」とするために、内には800万信徒を欺き、外には日本国政府を騙して、ニセ戒壇正本堂を「事の戒壇」なりと宣言するようになったのでありますが、このような教義歪曲こそが国家が傾く根本原因なのであります。

御本仏日蓮大聖人は広宣流布の暁に国家的に建立する本門事の戒壇=国立戒壇を以って、仏国土の建設を奨勧遊ばされ、開目抄には「日蓮は日本の人の魂なり」と仰せられています。

御本仏日蓮大聖人を魂とする国は、まさしく仏国であります。その時日本国の魂は戒壇の大御本尊となるのであります。仏国となった日本国は戒壇の大御本尊の護守護によって永遠に亡びないのであります。

その事を「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)と仰せられています。

また安国論には「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり。仏国夫れ衰えんや、十方は悉く宝土なり。宝土なんぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊なくんば身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん」と仰せられる意味を深く味わうべきであります。

ニセ戒壇正本堂を建設した仏罰により、宗門と学会の両者は週刊誌を賑わすゼニゲバ次元の大喧嘩を繰り返すようになりましたが、平成3年になって、宗門は創価学会を破門処分に付したのであります。全信徒の800万世帯が学会員で占められ、その大半が創価学会の旗の下に結集し、宗門はモヌケの殻同然のごとくなってしまったのであります。

宗門側に残った信徒は指折り数えるしかいなくなったのであります。正に青天の霹靂を思わせるような事態を迎えたのであります。この冷厳な現実に目をやる時、如何に宗門がニセ戒壇正本堂を「事の戒壇」などと偽り、御本仏大聖人様の仏法(三大秘法)を歪曲して来たかを雄弁に物語っている大現証であります。まさに、このような風景は形容の言葉も見つからない、惨憺たるものでありました。

このような事態を迎えた時、仮に宗門が創価学会を除名処分に付すと同時に勇気と懺悔をもって、国立戒壇論に復帰したならば、心ある僧俗信徒の80パーセントは宗門側に籍を移し、純真な信心を取り戻し、再び広宣流布を目指して力強い前進が再開されたことは火を見るよりも明らかなのであります。それが適わなかったという事は、宗門が学会同然に、如何に邪教化していたかという証拠であります。

今こそ御本仏大聖人様お示しの立正安国論の大精神の原点に立ち返り、国立戒壇を宗門七百年の宿願として来た正義を取り戻し、広宣流布へ向けての裏も表もない真心からの熱い闘いを再開すべき時と心得るべきであります。

それには正系門家挙げての、世親・馬鳴のごとき五体投地の懺悔を実践に移し、身を捨てて国立戒壇を命懸けで宣揚しなければ、大聖人様のお許しを頂戴することは、決してできないのであります。





1 コメント

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わっはっはっ、ヒステリック更年期削除に死に物狂いの顕正OSインストール済思考停止硬直化サイコパストンズラ遁走痴脳ボーヤ♪ (よ っ ♪ 更 年 期 ヒ ス テ リ ッ ク 削 除  耳心 脳 ボ ー ヤ ちゃん ♪)
2019-05-01 11:29:45
>大聖人様が三大秘法抄で仰せられた「王法」の意味は、国家、国主、国主の威光勢力、統治主権、国家権力、政治等の意味を総称して、一言で「王法」と仰せられているのであります。
>ところが悪僧日達は「王法」を「王」と「法」の字に切り離して「王の名称も変わってきます。・・・・・・」として、
>大聖人様が仰せられる「王法」の意味を「王」の問題にすり替えて邪義を論じているから無慚というのであります。


ぷっ!相変わらず、大聖人の御法の本質を理解出来ん脳乱発狂を垂れ流し続けるとはっ!(笑)☝

既にその「国立戒壇論」なる国柱会の田中痴ガクが提唱した稚拙な邪説をパクッて浅井バカ親子が売り文句にしたウワゴトは、他スレで完膚無き迄に破折破砕処理済やが(嗤う)、
耳心 脳よっ、オマエがノタマウ「国家」については、大聖人御在世当時より以前から、戦後敗戦した日本の昭和前期まで長らく続いた〝人〟が国を治める〝封建社会〟に於ける「国主」は、
確かに天皇や執権、将軍職やったがのぅ、天皇が日本国の〝象徴〟となって天皇主権が現代の法治国家の法律の中で主権剥奪され、政治も民衆の中から選挙を以て選出された者が政治を行う世に変遷しとる。

故に御在世当時の大聖人が御在世当時の「王法(天皇頂点の尊王封建社会)」の影響下に於いて御在世当時の社会に即して仰せられた「王法」なのであって、
そもそもが、この心法界、娑婆世界に於ける主体者である仏祖三宝尊の上に、たかが迷いの凡夫の集合体組織が為す凡夫主導の〝国立王法(国家が設立し、維持・管理すること)〟が君臨し、
それら凡夫が〝国〟〝国家〟の名のもとに三宝様の一翼である法宝を管理維持というトチ狂った読み方で三秘抄を主権在民の現代に於いて敷衍会通して読み解くことが出来んのやから開いた口が塞がらんとはこのことや。

のぅ、バカよ。

大聖人の御法の常識から鑑みれば、大聖人が仮に広宣流布の暁達成時に御出現あそばされていれば、
大聖人が涅槃経を引用あそばされて☟

※【「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」云云】

と、御自身の甚深の法義を解された【内弟子】としての法脈を受けて御護り申し上げている宗門の御先頭にお立ちあそばされて【主体者】であられる大聖人が【主導者】として、
分身散体の義によって顕わされた戒壇の大御本尊を【既に大御本尊の特質によって勝地】となっている場所に大御本尊御建立により戒壇を建立あそばされる事に疑義を差し挟む余地なんぞ微塵もなく、
ましてや、〝初代御法主〟であられた【宗祖主体者】の大聖人が滅不滅の相を現ぜあそばされて、その御当体を戒壇の大御本尊の内体に仏宝として合流遊ばされ、
且つ、分身散体義によって僧宝たる御歴代御法主上人を経て、広宣流布の暁達成時に御法主上人と成られた、内証相伝相承付嘱によって主体者と御成になられた僧宝の御方に
御本佛にして仏宝の大聖人がその広宣流布の暁達成時の御名代であらせられる時の御法主上人に主導で戒壇の大御本尊を御建立申し上げさせ、更に、主導で戒壇の大御本尊を御護り申し上げさせるんは至極当然のこと♪

大聖人が広宣流布の暁達成時に、地球全民衆が信者となった〝指導される側〟で構成された政府や天皇なんざに、勿体なくも三宝一翼の法宝たる戒壇の大御本尊建立や、管理維持をお任せになるとトチ狂えるんは、
まさに頭破作七分のノータリン所業やし(爆)、ましてや、三大秘法総在の一大秘法の戒壇の大御本尊を広宣流布の暁に〝外弟子〟でしかない天皇や政治の主体者に建立・管理・維持させることだ!と
本気で三秘抄を曲解迷釈できるなんざ、如何に狂ってるかの証左であることを全く理解できんのやから、まさに〝 無 慚 〟の骨頂やっ♪(大爆笑)


のぅ、耳心 脳よっ、再度疑難を加えたるわ。


この法界中の〝主体〟ナニで、娑婆世界に於ける〝主体者〟はダレや?あ?
答えたらんかぃ、のぅ、耳心 脳よっ!

その上で、三秘抄の当該箇所を大聖人が〝国立戒壇〟を御命じあそばされとると読めるんか、ハッキリ返答せえや、お?


ま、どうせ、返答に窮する 耳心 脳 じゃ、削除して無かったことにするんがセイゼイや(大爆笑)


再度、ゆーたるが、三大秘法総在の一大秘法である『本門の本尊』の戒壇の大御本尊には〝本門の戒壇〟の義が漏れなく具わっておるんやぞ。

故に戒壇の大御本尊が建立あそばされた場所は、広宣流布の暁であろうがなかろうが、いつでも【   常   時   】【 戒 壇 】や。

よって、御先師日達上人が仰せられた☟

●『れが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇でございます』

は至極当然なことを仰せられたにすぎんのや、バカタレがっ!。


耳心 脳 がこの仰せを「意味不明」と囀るんは、オマエが法門の入口をチョロチョロしとる程度の【  習  い  損  ね  】やからや(大笑い)


そんな程度の 耳心 脳 がナニをネットでノタマッとるんや?あ?


オマエ程度の謂得未得謂証未証の「大聖人の法門を我得たり」とシタリ顔のボーヤがネットで知ったかぶってチョーシ扱いてイチビッるなんざ


       ☞   久   遠   元   初   早   え   ☜


ってのマジ。


耳心 脳 のママに「あいうえお」から教わり直して来・・・・・・、いや、オマエのママの子宮で受精からやり直して出直して来んかぃ、ウヨ雑魚が。

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