亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

坊さん達が展開する正論も本気度が試される(其のニ)

2017年10月18日 03時51分45秒 | 亡国の坂道 
坊さん達は「摧破異流義考」(P.36~37)に「兼日の治定は後難を招く」と題して今回もまた、三大秘法抄と一期弘法抄、百六箇抄等の御文並びに三位日順師の「心底抄」を引用して、本門寺の戒壇=本門事の戒壇建立の場所・時・手続・規模・建築様式・形状・並びに手順等について、万人が然るべきなりと納得し、感歎せしむる正論を披瀝していますが、有り難いことですね。富士門流日蓮正宗の坊さんもまんざら捨てたものではありません。


云く「さて、『三大秘法抄』『一期弘法抄』また『百六箇抄』等を拝するかぎり、大聖人は、戒壇建立の勝地は富士山下である。とだけお示しあそばされて、それ以上、具体的に、どこそこに、どういう方向で、どのような形をもって建立せよ、とまでは述べられていない。

その理由については、日興上人の御弟子で、『五人所破抄』の著者として有名な三位日順師が、『本門心底抄』に『戒壇の方面は地形に随うべし、国主信伏造立の時に至らば智臣大徳宜しく群義を成すべし、兼日の治定は後難を招くに在り、寸尺高下注記すること能わず』と述べているごとく、戒壇の建立は将来に属することである故、あらかじめ詳細を限定することを避けられたものと拝せられる。

さらに、これにつき五十九世堀日亨上人の『富士日興上人詳伝』には、大聖人は、本門戒壇のあるべき所を『富士山』と定めて日興上人に内示せられたけれども、将来のことであるから、『三大秘法抄』にも『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を』等と下総の太田殿にしめされたと。すなわち、本門寺戒壇の御遺命は将来に属する事柄である故に、『富士山』という御構想を、御相承書たる『一期弘法抄』及び『三大秘法抄』をもって日興上人のみに内示せられ、太田殿に与えられた『三大秘法抄』においては、あくまでも慎重を期されて『富士山に』という広い地名すら伏せられているのである。

いわんや、戒壇建立のさらに具体的な場所(例えば何群・何村・何字というような場所の限定)、方角、建築様式等については『兼日の治定』を避けられた、と拝するのが当然といえよう。かくて大聖人は、『富士山に本門寺の戒壇を』という御内意を唯授一人の付弟日興上人に示され、その実現を後世に委ねられたのである。
」と。

今まで散々邪義を垂れ流していた坊さん達は今頃になって我が意を得たりとばかり、本門寺の戒壇=本門事の戒壇について、一期弘法抄や三大秘法抄を拝した上で尤もらしい正論を述べていますが、それならば何故に、ニセ戒壇正本堂を建てる前に、一期弘法抄と三大秘法抄の御教示を振り返り、三位日順師が心底抄で示された本門寺の戒壇堂の建立について記された教科書とも云うべきお手本を一顧だにする事もなく、かくも無謀な暴挙をやってのけたのでしょうか! ニセ戒壇正本堂なるものは、一期弘法抄、三大秘法抄、心底抄でお示しの御聖文を悉く破壊し、大聖人様の御本願に真っ向から背反して建てられた、化け物のような建物だったのであります。

その正本堂なる建物を本山の境内に建て、是れを寄進することを最初に申し出たのが、彼の創価学会の池田大作だったのであります。

昭和三十九年五月三日、創価学会の本部総会において池田大作は、今度総本山に正本堂を寄進したいと思うとして「総本山日達猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。・・・ 正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇の建立を待つばかりになります」(本部総会 昭和39年5月3日)と。

日達猊下はその話を受けて、翌年の二月十六日「この度、池田会長の意思により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います。・・・ さて、正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置もうしあげるかということでございます。過日来、いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせてきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えをもうしあげておきたいのであります。」(昭和40年2月16日 正本堂第一回建設委員会)と。

日達猊下のこうした勿体ぶった発言に奇異な感じを深くしたのは拙者ばかりか、おそらく一度でも総本山に参詣して本門戒壇の大御本尊の御開扉を受けた者、あるいはまじめな信徒の大半は、猊下の仰せられるお話に大いなるいぶかしさを覚え、疑問と違和感を強く感じたのではないでしょうか。

池田大作は「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇の建立を待つばかりになります。」等とした発言からすれば、この先、広宣流布が達成されるまでの間、我々信徒が宗門の伽藍建立に対して、御供養に参加できる建物としては「正本堂」が最後の建物と発言しているのであります。

仮に、そうだとするならば、これまで御開扉の時に使用されていた奉安殿は学会員の爆発的な増加によって狭くなり、毎回行われる御開扉の時などは、御開扉が始まる前に整理班の者から「もう少し詰めてください」との掛け声が何度も繰り返され、いい加減スシめ状態になった中で整理班の者から再び声が掛かります。こんどは「全員一度起立してください」との声が掛かり全員が起立させられます。そして「まだ座ってはだめです。もう少し詰めてください」が繰り返され、もうこれ以上詰めることができない立錐の余地のなくなった次の瞬間、「前の方から順にお座りください」と声が発せられると全員でドドドット座るのです。そうした次の瞬間、前の列に並んだ人が下手をすると後ろの人の膝に座ってそのまま動けなくなり、「イテテテッ・ごめんなさい」などと、あちらこちらで謝ったり、怒鳴り声をあげて騒いでいるうちに御開扉が始まるという、それこそ、毎回窒息するほどのすしずめ状態の中で行われていた当時の御開扉の情景を思い出すのでありますが、修羅界から始まった御開扉が御本尊と境智冥合するどころか、修羅界のままで終わるという、そうした状況を改善するには新しくできる正本堂には、絶対に本門戒壇の大御本尊を御安置する以外には、方法はなかったのであります。

それを勿体をつけて「どの御本尊を安置もうしあげるかということでございます。過日来、いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせてきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えをもうしあげておきたいのであります」とは、余りにもばかげた話だったのでありますが、日達管長のこうした発言の裏には、驚くべき陰謀がかくされていたのであります。

それを裏付けるように、昭和40年2月16日に開かれた第一回建設委員会に於ける池田大作の発言は「正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である。」などと驚くべき発言をしていますが、当初の話では、新しく寄進する建物は、今迄の奉安殿の延長線上の建物だった筈が、突如として変更され「正本堂の建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」と言い切っていますが、当初の話と比べたら天地の開きがあるほどの変化が見てとれます。

それを受けて日達管長の同年の5月3に日に開催された創価学会の本部総会での発言では「戒壇の大御本尊を安置し奉るところの正本堂」等と述べ、さらに法華講の集会に於ける発言に至っては「大客殿の奥深く戒壇の大御本尊を安置し奉ることは、本宗の相伝であります」(昭和40年8月)などと、相伝という話まで持ち出してきて、今まで「勿体をつけてどの御本尊を安置もうしあげるか」といっていた話とは打って変わって、新しくできる正本堂には、絶対に本門戒壇の大御本尊を御安置する以外にはないという話にすり替わっているのであります。池田大作の正本堂寄進の申し出から数ヶ月を経た段階で、すでに正本堂は実質上広宣流布の「事の戒壇」へとすり替えられていたのであります。

その上池田大作が宣言した発誓願文には、正本堂を自賛して云く「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」等と。こうした大それた池田大作の発言を承けて、学会の主要書籍には、誑惑の文面で埋め尽くされるようになったのであります。

云く「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」(仏教哲学大辞典)と。

亦云く「正本堂の建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり世界にいまだ曽てない大殿堂である」(同前)と。

日達管長も負けじとばかり「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華二〇一号)と。

驚きましたね。事の戒壇とは、まさしく広宣流布達成の暁に富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇である筈なのに、日達管長は大石寺の境内の外れにあった信徒の墓地を掘り起こして建てられる正本堂を指して「正本堂が完成した時は広宣流布だ」と明言しています。この発言は、矛盾の最たるものでありますが、こうした文面は、正本堂の完成時に「王仏冥合・広宣流布は達成したと」宣言する為の伏線だったのであります。もちろん、言うところの王仏冥合も広宣流布もこじつけであれば、すべて、でたらめであることはいうまでもありません。

そうした二人のミスリードがつづく中で、昭和40年9月に発布された正本堂の供養勧募に係わる訓諭では「日達、此の正本堂に本門戒壇の大御本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大偉業に随喜して自らの資力の限りを尽くして供養し奉り、信心の一端を抽(ぬき)んでられんことを望む」等とした訓諭が発布されたものだから僧俗信徒は今生人界の一大事ととらえ、ある者は結婚式の費用を御供養にまわし、ある者は食費を切りつめ、またある者は質屋に行列をつくり、それこそ私力を尽くして正本堂の建設資金の拠出に応じたのであります。当時としては万人の想像をはるかに超えた、三百五十億円もの大金を10月9日~12日のわずか四日間で集めて、大銀行と世間を、あっと驚かせているのでありますが、これらの大金は目録の授受だけで、一銭なりとも本山には渡ってはいなかったのであります。

そうした中で行われた正本堂発願式に於いて、宗門を代表する坊さん達が発した祝詞を紹介することにします。いわゆるニセ戒壇正本堂を「事の戒壇」とする誑惑に、当時の高僧たちが有無を云わさず、如何に与同していたかを知る貴重な資料として記しておきます。

早瀬道応「前代未聞、後代にもなき、正本堂建設発願式に会い遇うことを得て、我等は誠に地湧の眷属たりと、感激に堪えない。・・・ 我等僧俗は未曽有の此の盛儀を契機として、更に心を新たにし、猊下と先生の姿を鏡として、倍々よき弟子とよき門下との僧俗一致をなして仏道に精進せんことを茲に重ねて誓いあうものである」

阿部信雄「宗祖大聖人の御遺命である正法公布事の戒壇建立は、本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領総講頭池田先生のお示しになったそれは、正に日本乃至世界公布の為の顕現であり、仏法史上否世界の歴史の上に絶大な意義を持つものと拝察する。惟えば歴代の御先師と幾多の先徳が夢寐にも忘れず、生命かけて守護され、念願して来られた正法公布の時が、そして無比の大仏法によって全世界の民衆が真実の平和と安穏を得る時が、方に来たのである。吾々僧侶として此の大偉業の驥尾に付し、参加しうる時代に生まれ合わせた事を心より感激するものである」

藤本栄道「私共は、子供の時から『広宣流布』とか『戒壇建立』とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如く考えて負ったものでありますが、それが私共の時代に、先ずもって『戒壇建立』の実現を見ることが出来るということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」

佐藤慈英「この儀式は七百年来の大聖人の御遺命を成就する正本堂の建立を大願主池田先生が発願する厳粛な儀式であり、仏法史にもその例を見ない画期的な盛儀でございます。而してこの正本堂建立は、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼陀羅をもって本堂の小本尊となすべきなり』と、御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」

宮沢慈悳「多宝富士大日蓮華山上行院大石の寺が一天公布実現の時本門寺の公爾され其の額が三門に掲る時、本門寺戒壇となるべき正本堂を建設せんとの大発願が、大聖人御命名の法華講衆の大先達池田大作先生により宣言せられしより・・・ 唯受一人の御歴代上人が全世界人類の為、七百年来事の広宣流布大願成就御祈念の冥力が時に感応して、今日の大いなる盛事となって眼前に展開するさまを拝し奉ることの出来る、我等の果報に想い到るとき・・・正本堂、正本堂、何たる厳にして簡明な名であろう。この名を得るものは独り日蓮正宗大石寺の本堂なるが故であり、自然忽ちにして生まれし尊名であろう」

椎名法英「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時をまつべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂発願式こそ、三千年の優曇華、一眼の亀の浮木にも超えたる最大歓喜である。・・・ 特に『これが私の今世の最高の使命』とまで叫ばれた池田会長の死身弘法のお心には、ただ頭をたれるのみである」

高野永済「続いて総口頭池田会長先生の発誓願文が奉読せられる。確信の二字に色どられた大歓喜の楽府、崇高な迄の決意の誓願に、此の様な大檀那を持った宗門の幸せと、安泰を心から誇りとするものである。『唯我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の平和と繁栄とを祈念すべき根本道場なり』と、宗門の歴史の一頁にしるされた、最初の『鎮護国家』の文である。七百年来かたくなに禁句となって居た、此の鎮護国家は今玆に堂々と日の光をあび、しかも全世界のそれとして朗々と宣言せられたのである」

久保川法章「私は幼少の頃より日夜広宣流布の語を聞き、其の実現を信じつつも其の時期に於いては、只漠然と遠い夢の如く思い続けて参りました。然るに近年創価学会の出現するや、瞬時にして、舎衛の三億の折伏を成就して、愈々正本堂の建立発誓願文式を迎える迄に到った事は、正に六万恒河沙の湧現であり『梵天帝釈の御計いとして日本国一時に信ずる事有るべし』の仏勅を実証したものと敬服の外ありません」

大村寿顕「その御遺命通りに、末法の今、本門寺の戒壇たる正本堂が、御法主上人猊下の大慈悲と、法華講総講頭池田大作先生の世界平和実現への一念が、がっちり組み合わさって、ここに新時代への力強い楔が打ち込まれたのであります。この正本堂こそは、三大秘法抄に『三国並びに一閻浮堤の人の懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり』云々、と仰せの如く、単に日本民衆の鎮護国家の道場であるばかりでなく、世界人類の永遠の平和と繁栄を祈願する道場であります」

豊田広栄「建立発誓願主池田会長の発誓願文の奉読、出席者全員の胸をうち感激に噎んだのである。・・・ 事実上の広宣流布、そして本門戒壇の建立発願と言う大偉業は、日達上人の御慈悲と会長先生の御高徳と共に、末法万年尽未来際までも永遠に語りつがれ、民衆の仰ぐところとなるであろう」

菅野慈雲「正本堂建立は、即ち、事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門史上以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、二祖日興上人より代々の御法主上人の御祈願せられて来た重大なる念願であります。御法主上人の願文と、発願主池田先生の発誓願文の御文を深く身に体して・・・・」

千種法輝「日達上人の願文と池田会長の発誓願文は文辞荘重、義理深遠、永く歴史の上い残り人類を照らす大光明である。私は後日活字に発表された時味読致したいと思っている。・・・ その中で公明党がはっきりと『目的のために手段を』択ばぬ暴力行為は許せない」と言い切っていることは、誠に私の心から信頼感を覚えた。暴力革命に対する防波堤は学会以外には無い。私は此の度の発願式を人類の歴史の一劃期であると信ずる」

坂口義馨「此の功徳、福運を一生成仏の本となして仏祖三宝は勿論願主総講頭の筆舌に尽くし表せぬご恩を肝に銘じ、御報恩謝徳の為に精進致したいと決意を新たにした者である」

山本量道「宗祖大聖人の御遺命の最大の眼目宗門の大目標である、事実上の本門の戒壇正本堂建立発願式を迎え此に過ぐる喜びはないと存じます」

賀法重「・・・ついで池田総講頭の気迫に満ちた発誓願文『栓ずる所、正本堂の完成を以て、三大秘法はここに成就し立正の二字、すでに顕現せんとす』と、言尽くせぬ感動、書き尽くせぬ感激が全身を包む。過去に於いて、これ程までの感動を味わったことがあったであろうか」

大石菊寿「目出度しとは、古来『目師出て度す。云々』と小僧の頃より先師より指南せられしところでありました。が、これが現実となった喜びを感ぜずにいられないのであります。御法主日達上人猊下の御威徳閻浮に満ち満ちて、本門戒壇大御本尊の一天公布の様相は日目上人様の御爾来確信するものであります。この秋大檀那法華講の総講頭創価学会会長池田作先生は死身弘法の外護の赤誠を尽くされてあますところなく、ここに、日達上人猊下を中心に池田会長先生の篤志に依り、大聖人様仏法究竟の目的たる正本堂即ち実質的な、本門の戒壇堂が建立せられる事となりその起工発願式の日を迎えたのであります」

梶原慈雲「一点の曇りもなく晴れ渡った秋空のもと、朗々たる御法主上人の願文は末法濁悪の世を利益せんとする大法の尊厳と威容を一閻浮堤の隅々にまで響き渡らせる感あり、池田会長先生の力強い発誓願文を拝聴しては三大秘法の事の戒壇ここに成り、梵天帝釈も来下して蹋み給うべき戒壇にありと覚悟し・・・」等と。

これらの一々については論評は避けるとも、恐るべきは、宗門を代表する全ての高僧たちが一結して、日達管長・似非信徒の池田大作の曲会に与同し、阿諛迎合して御本仏大聖人様が仰せられた一期弘法抄・三大秘法抄の御聖文を根底から悉く破壊された歴史的事実は、正系門家富士門流七百年の歴史の中では未だ誰人も経験した事のない大事件だったのであります。それも此処に掲載した曲文は大日蓮誌に掲載されたごく一部の高僧たちの記録に過ぎないものでありますが、これ以外の約一千名を超す平僧から所化小僧に到るまで、全ての僧侶が池田と日達管長の歪曲に加担するという、恐るべき異様な空気が宗門全体を包み込んでいたのであります。

こうした恐るべき異常な事態に異を唱え、宗門の誤りを諫止せんと身を捨てて立ち上がった講中は、弱小の妙信講ただ一人だったのであります。それを陰ながら応援し、妙信講の主張に賛同の意を示していた妙縁寺の松本日仁尊能師と、静岡要行寺の八木直道住職の二人を除いて、全ての僧侶が舞い上り、池田と日達管長が嘯く邪義を争って宣揚していたのでありますが、日達管長はあろう事か、正本堂の誑惑に異をはさむ妙信講を講中解散処分に付し、それに加担した二人の御僧侶の僧籍を剥奪した上、擯斥処分という罪科着せて宗門から永久追放するという暴戻なる処分を断行した揚げ句、二人の老僧の生存の道と衣食住までを奪い去ってしまったのであります。

まさしくニセ戒壇正本堂の建立は全ての坊さんを巻き込んで、八百万の僧俗信徒の浄財を費やして国会と世間を欺き、今日のていたらくをもたらした元凶は、創価学会三代会長の池田大作と六十六世を継いだ日達管長その人だったのでありますが、日達管長は、与えられた訓諭の発布という特権を用いて宗内の統制を計ると同時に、僧籍剥奪という「宗政・宗規」を以って宗内の反対意見を押さえ、外にあっては、池田大作の発言に権威を与え、一切世間の創価学会に対する反対意見を封じたのであります。

云く「倩々惟みるに下種本仏の利生漸く閻浮を光被せん機運の洋溢する方今を迎え得しは、是れ後五百歳中広宣流布の金言を体し、地湧の眷属たる自覚のもと打って一丸、克く折伏逆化に邁進する創価学会の出現に依るところと謂うべきなり。夫れ創価学会会員捨身の弘法の熱誠たるや、宗門の古今に全くその類ひを絶せる熾烈にして・・・その行業は正しく大聖人の御加納遊ばさるるところにして、宗門緇素の等しく満腔の敬意を表さずんばあるべからずところなり。若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き誹言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ公布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無限に開く者と謂ふべし」(宗の内外の者に対する訓諭 昭和38年7月15日)等と。

誠に恐ろしい訓諭を発布したものです。創価学会を誹謗する者は、宗の内外を問わず、たとえ噂であったにしても無限地獄に堕ちるとは驚きましたね。後に、日達管長は創価学会と修羅と悪竜の合戦を思わせるような大喧嘩を繰り広げ、学会の悪口を散々言いふらした日達管長はどうなるのでしょうか! 訓諭とは、新しい訓諭を以って内容を訂正しない限り、永久に残るものであって、時間の経過とともに効力が消滅するような、そんな軽々しいものではない筈です。

それにしても、日達管長というお方はずいぶん罪づくりな人であります。一信徒が時の管長猊下からこれほどの褒め言葉を以って持ち上げられた池田大作が天井知らずの大慢心をおこし、阿修羅王の如くのぼせ上がったのも無理はありません。

日達管長の云く「今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大勝として広宣流布に進軍しておられます」(大白蓮華 昭和39年1月号)と。

亦云く「池田先生は死身弘法の寸暇を、さらに死暇断眠して、この大講義をなせるは、実に在世の維摩居士の、今に出現せるかの感を深くしたのである」(昭和40年3月13日 御義口伝上講義禄発刊の序)と。

池田大作の云く「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(高瀬広居・人間革命をめざす池田大作その思想と生き方)等と。

そして昭和四十年代になると創価学会は言論出版妨害事件を引き起こし、藤原弘達氏の書いた「創価学会を斬る」に対する出版妨害事件は、時の総理大臣、田中角栄まで動員して本書の出版を思い止まらせようと、さまざまな圧力を掛けて言論を封殺した事件はあまりにも有名であります。

さらに、ニセ戒壇正本堂建設の翌年の昭和四十八年十月十四日には、池田大作は、正本堂で御開扉を終えて出てくる日達猊下を外で待ち伏せして大勢の学会員の面前で猊下を怒鳴りつけて信徒が僧侶から十億円もの大金をむしり取るという、前代未聞の暴挙をやってのけ、池田は猊下を凌ぐ存在である事を学会員の見る前で誇示して、本山の経済力を減殺させているのであります。

この事は、昭和四十八年十月十七日付けで創価学会副会長の北条 浩氏と日蓮正宗総監早瀬日慈氏との間で取り交わされた「覚書」に記されています。

下剋上という言葉は聞いたことがありますが、日蓮正宗の一信徒が宗門に圧力を掛けて、出家僧侶から大金をむしり取る話なんて、末法濁悪の時代の到来とは言え、想像を超えた空恐ろしい事件が起きたのであります。






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坊さん達が展開する正論も本気度が試される

2017年09月11日 13時08分41秒 | 亡国の坂道 
坊さん達は「摧破異流義考」(P.34~36)に「二、戒壇建立の勝地について」と題して、三大秘法抄と一期弘法抄の御文を引いて珍しく正論を披瀝していますが、驚いた事に、彼等はいったい何時から心を入れ替えて正信に覚醒されたのでしょうか、にわか仕立ての装いに、メッキが剥がれて醜態をさらす事のないよう、祈るばかりであります。

大石寺の第六十六世の管長職を継いだ日達管長は、先師日淳上人より、昭和三十四年十一月十六日、唯授一人の血脈相承を受けられて、第六十六世の法塔を継がれ、しばらくは脱線することもなく、富士門流の清流そのままに国立戒壇を懸命に宣揚せられておられましたが、ある時を境にして豹変し、かつて聞いたこともない三大秘法の戒壇義を新規に編みだして広宣流布をいつわり、邪義を垂れ流すことに専念し、宗門を未曾有の混乱に陥れた末に、入院中に突然、死に神にとりつかれて逃れる術もなく、かけがえのない一生を終えられたのであります。

その後、第六十七代目の管長職を継いだと称して、勝手に猊座に登った日顕管長は、日達管長の邪義だけを受け継ぎ、それに磨きをかけて、富士門流七百年の伝統教義を欲しいがままに歪曲して国立戒壇に異を唱え、大聖人様以来の化法・化儀を取り返しのつかないほど滅茶苦茶に破壊したのであります。それ等が本で今日の体たらくをもたらしているのでありますが、幸い日達管長はあの世の人となっているため、これ以上深刻な心配は要しないものの、一方、瞬間湯沸かし器の異名を持つ、前の日顕管長は、未だ隠尊として宗内に隠然たる睨みを効かして、坊さん達の動静を注意深く目を光らせて空気の変化を窺っているとの事なので、下記のごとき正論が目に入ろうものなら怒り心頭に発して、頭から湯気立てて騒ぎだし、御当職の日如猊下に対して正論を発する坊さん達の処分を進言し、再び擯斥処分等何らかの制裁を迫って来るかも知れません。

坊さん達の云く「前にも引いたように、宗祖大聖人は、『三大秘法抄』に「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに見教書を申し下して、霊山に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法申すは是れなり」(御書1595㌻)

また『一期弘法抄』に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」(御書1675㌻)と仰せられ、国主が正法に信伏した暁(広宣流布達成の時)、一閻浮堤の人の信仰の根本道場として、富士山下に大本門寺戒壇を建立せよ、と御遺命あそばされている。

ここで、大聖人が「本門寺戒壇建立」と御示しになっているのは、『百六箇抄』に「三箇の秘宝建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書1699㌻)とあることからも明らかなように、富士山下に本門寺を建立し、その本堂に三大秘法総在の弘安二年の大本尊を安置せよ、との二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、「富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく」(聖典586㌻)と仰せなのであり、〝広布の事相に建立される事の戒壇〟とは、まさに富士山本門寺(なかんずく本門寺本堂)のことをさすのである。

この点を見誤って、何か、〝本門寺〟と〝事の戒壇〟とを格別に考えている向きもあるようであるが、本来、広布の暁に建立する戒壇とは富士山本門寺のことであり、その大本門寺建立の御遺命を奉じ、一天四海広布をめざして折伏弘教に邁進するところが、我が日蓮正宗七百年の伝統なのである。」と。

いまお坊さん達が主張するとおり、富士門流の日蓮正宗は過去七百年の間、大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で御教示の如く、富士の清流そのままに清く正しく伝統教義の維持に努め、令法久住に心を砕いてきたゆえに、日蓮正宗は世間一般の既成宗教とは一線を画くし、その威風堂々たる風格は、無言のうちに人々をして、何とも表現し難い厳粛な気持ちを起こさせる不思議な力を漂わせていました。ところが日達管長の時代に宗旨の命とも云うべき、国立戒壇を永久放棄した咎によってその威厳と風格は失われ、第六天の魔王に付け入る隙を与えることとなって僧侶の堕落が始まり、ある者は日没とともにスキンヘッドにカツラを着けて歓楽街に入り浸り、ネオン街の虜となって、はては遊蕩にうつつをぬかす坊さんまで現われる始末となり、性根を蕩かされて見るも無惨な醜態を晒す事態となってしまいました。それでも日淳上人猊下が国立戒壇を宣揚して宗門を率いていた頃までは、まだ大聖人様以来の色も香り味も変わらぬまま、威厳と風格と伝統教義を堅持した格式の高い宗門だったのであります。

そこで先ず、第六十六世日達上人の御登座の際の御言葉を振り返って見る事にします。    

「日達先ニ日淳上人ヨリ昭和三十四年十一月十六日丑寅の刻みに血脈相承をウケ、十二月二日日蓮正宗管長ノ職ニツキ、総本山六十六世ノ法塔をツグ宗門ノ現状ハ詢ニ旭日昇天ノ勢ニシテ日本仏教界ヲ独走スト言ウモ過言ナラズ、然シナガラ此レニ伴ッテ、三障四魔フンゼントシテ来ルハ聖語ノムナシカラザルヲ証スルモノデアル。

宜シク宗門ノ僧俗ハ一致シテ広宣流布ノ願行に撤シテ、克ク開山上人以来ノ伝統ヲ護持セネバナラナイト信ズル、此処ニ大イニ教学ノ振興ヲ期シテ宗門ノ龍象ヲ養イ、宗風ノ刷新ト僧俗一致ノ実ヲアゲテ弘経ニ精励スル由縁ガアル。日達徳薄垢重ト雖モ忝ケナクモ富士ノ法器トナッテ茲ニ猊座ニ登ル、只今ヨリハヒタスラニ宗開両祖ノ遺訓ヲ奉ジテ身ヲ慎ミ、歴代諸師ノ遺風ヲ仰イデ実践ニ移シ、異体同心ノ緇素ニヨッテ挙宗一致、日蓮正宗ノ宗勢拡張ヲ期スルモノデアル。

冀クバ日淳上人ノ僧俗一致ノ言葉を帯シテ日達ガ赤誠ヲ諒セラレ、身口意ノ三業ヲ謹ンデ和衷協力各自ソノ分ヲ尽クシテ宗門ノ願行タル戒壇建立ニ勇猛精進セラレンコトヲ」(昭和35年1月1日訓諭)と。

つづけて「『万人一同に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、吹く風枝をならさず雨土くれをくだかあず』と大聖人は平和な仏国土建設を唱えられておりますが、広宣流布を念願とする日蓮正宗の僧俗は、共々一致協力して、真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

次に「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

亦云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の暁の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

こうした正論を叫ばれていた日達猊下が、猊座に登られて数年を経ずして次のように豹変するのであります。

「思えば昨年春、会長池田先生との談話の時に、私が、『すでに広宣流布しておる』と語ったら、会長は、『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられたので、私はその見識に内心感嘆したのである。この世が広宣流布になっても、舎衛の三億のごとく、また欝単越のごとく、正法見ず、聞かず、信ぜざる人々も残るのは必定である」(大白蓮華 昭和40年1月号)等と。まるで下手な漫才の掛け合いのような問題発言して、周囲を大いに驚かせているのであります。

日達管長の発言の中に「思えば昨年の春」とありますから、昭和39年の春には、すでに広宣流布は達成していたことになりますが、驚きをとおりこして、開いた口がふさがらないとはこの事であります。

次に「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)と。

さらに「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし、大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります」(昭和45年5月3日 創価学会第33回総会)と。

そして「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々が現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光土・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう。それならば、何も本山まで貴い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実この世に於いて我々は信心の誠を捧げて行かなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)等と。

ずいぶん酷いことを口走るようになったものです。

もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所謂義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう。それならば、何も本山まで貴い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる」あるいは「もしどおしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山に来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、呆れましたね。これが猊座にあられた方の御言葉かと思えば、悲しくなってまいります。まるで悪ガキの捨て台詞のような悪言に触れると、日達管長の大聖人様に対し奉る信心を疑いたくなるのであります。これこそ嗤うべき没論理、盲論の最たるものと指摘しておきます。

さらに日興上人の遺誡置文の中に「一、時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」と遺誡せられた有名な一節がありますが、日達管長の解説文を見ることにします。

①「後世の総本山の代表たる貫主であっても大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てて固執するならば、その節は勿論、その貫主を用いてはならない。日興上人は大聖人の仏法を守るためにはかくの如く実に厳格であったのである」

②「これの意味は、『貫主であっても、仏法に相違して己義を構えるそういう者を用いてはいけない』というんです。貫主は誰を用いてもいいんだ、誰でも用いられる。しかし仏法に相違して己義を構えた者はこれを用いてはいけないと書いてあるんです。・・・・それを、貫首が仏法に相違したからこれを用うべからずなどと、何を言うんだかさっぱりわからない」

③「これは『時の貫首は何でもできるけれども、己義を構えて間違ったことをした、己義を構えるとといっても、仏法上において化法化儀にわたっての己義を構えた者という意味ですが・・・・そのような者は用いてはいけない。ときの貫首はそれをはっきりして、そういう人物を用いてはいけない』これがほんとうである」

以上の三とおりの解釈文がありますが、①と②③を解釈した人が同一人物とは到底思えない文章でありますが、すべて日達管長一人が解釈したものです。血脈相承を受けた貫首と雖もいったん魔が入ると、手が付けられなくなるほど曲がるという見本であります。

また創価学会は、昭和四十七年に建てたニセ戒壇正本堂を指して「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千年史上空前の偉業なり」として自賛していたものが、翌四十八年には、早くも学会は宗門に対して兵糧攻めよろしく、本山参詣者を激減させて経済的に締め付けを行なうなど、本山の収入を減殺して閑古鳥が鳴くような状態に追い込んで、坊さん達の焦燥感を煽り、疑心暗鬼になって狼狽する坊さん達の姿を見て、高みの見物を決め込んでいたのでありますが、そもそもの原因は、日達管長は妙信講の浅井氏にあえば「貴方の言っている事は全く正しい」として、国立戒壇を支持し、門下の僧侶に対しては「国立戒壇を否定したとしても、学会は、国立という言葉を嫌うので、それに合わせているだけだ。私の精神は変わらない」等とあいまいな表現に終始するかと思えば、池田大作に会えば「正本堂こそ御遺命の戒壇」というなど、まるで波の上に浮かぶ根無し草の風にそよぐ葦のごとくだったのであります。

さらに昭和四十九年になると双方の亀裂は深まるばかりで、日達管長も僧侶を集めて不満をあからさまに述べるようになるのであります。

学会の仕打ちに反発した日達管長は「これはもう、このままじゃ話にもならない。若し学会が来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないと云うならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳してもよいと云う覚悟を私は決めたわけです。」つづけて「おととしの秋ぐらいから、去年を通じて今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々と僧侶に対して批判的であり、また教義的に逸脱しているところが多々ある。また、会計を、大石寺の会計を調べるという。・・・・その時に北条さんが云うには、もししらべさせなければ手を分かつ、おさらばする、とはっきり云ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ、自分ら正宗から手を切るというのである。」(昭和49年7月27日・僧侶への講演)と。

そればかりか、学会は四十九年の初頭から「創価学会・国際センター」なる妙な独立法人の設立に向けて具体的に動き出し、日達管長を祭り上げて国際センターの名誉総裁という閑職に就かせ、伝統ある包括宗教法人日蓮正宗を全面的に支配すべく、創価学会傘下の外郭団体の一部に加えるための計画をすすめ、公明党、民音、創価大学、東洋学術研究所などのような、日蓮正宗を学会員の冠婚葬祭を行なう、単なる「儀典部」に取り込もうする壮大な計画を描いていたのでありますが、呆け老人と思っていた日達管長から予想外の猛烈な反発を喰らって同意を得ることができず、その計画はあっさり頓挫しているのであります。あの時学会の甘言に乗せられて日達管長がうっかりハンコでも着こうものなら、今頃は取り返しのつかない事になっていたのでありますが、そればかりは大聖人様が絶対にお許しにならなかったのであります。

次に当時の阿部教学部長、後に猊座に就いた日顕管長の脱線ぶりを紹介することにしましょう。

云く「宗祖大聖人の御遺命である正法広布事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領総講頭池田大作先生により、始めてその実現の大洸明を顕さんとしている。この度の発願式に於いて法主上人と総講頭池田先生のお示しになったそれは、正に日本乃至世界広布の為の顕現であり、仏法史上世界の歴史の上に絶大な意義を持つものと拝察する。」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

また云く「御法主上人猊下には、昨年十一月十七日の創価学会本部において、広宣流布は近きにありと高唱あそばされ、日本全民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその時僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南あそばされました。・・・・国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵もなく、常楽をかなでる幸福な社会が顕われることを確信いたします。また全信徒の指導者たる法華講総講頭・池田先生も至極お元気で、猊下と宗門を常にお守りくださっておられます。この僧俗一致の姿こそ大本門寺建立につながる基盤であります。吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進致そうではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)等と。

この頃の阿部教学部長は、日達管長の邪義を称揚して心にもないおべっかを使う一方、似非信徒池田大作の顔色ばかりを常に窺がい周囲が憚るようなゴマすり三枚に徹し、次期管長職の席におさまる事ばかりを狙っていたとの噂が絶えなかったと云われていました。特に池田大作は、阿部教学部長の邪智にまかせて白を黒と言いくるめる特才と、ずる賢い狡猾な歪んだ品性を見抜き、本山に於ける日達管長の発言と、妙信講の正論に賛同する宗内僧侶の動静を密告させるというスパイ工作を仰せつける一方、妙信講との教義論争を一手に担わされていました。

その上、昭和四十七年六月には「国立戒壇の誤りについて」と題する悪書①を進んで執筆して池大作を喜ばせ、さらに、昭和五十一年二月には「本門事の戒壇の本義」と題する悪書②を発刊せしめて、国立戒壇を徹底して誹謗した上、三大秘法抄の御聖文をズタズタに破壊した揚げ句、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の本門事の戒壇とする宣伝に心を砕き、池田大作の寵を得て、自らが栄達する事ばかりを願っていたのであります。

阿部教学部長の曲文の一例を挙げれば「王法」を「あらゆる社会生活の原理」と歪曲。「王臣」を「民衆」と曲解し、「有徳王」を「池田先生」と諂曲。「日達管長を」を「覚徳比丘」と謀り、「勅宣・御教書」を「建築許可証」とこじつけ、「霊山に似たらん最勝の地」を「臭骨に穢れた大石寺境内」と偽る。「時をまつべきのみ」を「今建てて何が悪い」と開き直るなど、国立戒壇を否定するためには、手段を選ばずといった狂乱ぶりを発揮して、池田大作のお眼鏡にかなう事のみを考えて邪義を展開していたのであります。

大聖人様滅後七百年にして、三大秘法抄の御聖文をここまで踏みにじり、富士門流の教義をこれほどまでに歪曲した者は宗の内外に未だ見ざるところでありますが、次期管長職を狙っていた阿部教学部長の存在は、池田大作にとってはなくてはならない人材だったようです。
  
佐渡御書に「外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず破るべし、獅子身中の獅子を食む」と仰せられた御金言が思い出されますが、まことに重い御言葉であります。

昭和五十二年になると、学会は「五十二年路線」と称する会長本仏論等の教義逸脱事件を起こして『寺なんかへ行かなくていい』と言いだしたことが決定的な命取りとなり、池田大作は創価学会会長を辞任するまでに追い込まれています。その後、第四代会長として北条浩氏が登場、翌五十三年二月九日には、本山では「時事懇談会」なる大規模な僧侶の集会が開かれ、全国から約二百名を超す反創価学会活動家僧侶(後の正信会僧侶)が結集して、学会と手を切るかどうするかについて討議するという不穏な動きが出てまいりました。

その二日前の二月七日、阿部教学部長は腹心の川辺慈篤と東京帝国ホテルで密談を交し、反活動家僧侶らの動向分析と併せ、日達管長に対する日頃の鬱憤を晴すような悪口を披瀝し、川辺住職の日達管長に対する考えを探り出そうとして、問題発言をしています。

云く「G(猊下)は話にならない」「Gは学会と手を切っても又二三年経ったら元に戻る」などの話をして川辺住職の顔色を窺い、最後には、戒壇の御本尊はニセ物だという問題発言をして、川辺慈篤に腰を抜かさんばかりの衝撃を与えたのです。日頃からメモ魔の異名を持つ川辺は川辺で、阿部教学部長の発言をメモに残して、是れを後日、故意に流失させて日顕管長を窮地に追い込み、北海道の田舎寺の日正寺の住職から東京新宿の大寺院、大願寺の住職へ赴任させるという出世を果たし、栄転の栄誉を勝ち取ったのが有名な「川辺メモ」といわれるものです。まさに二人の関係は、狐と狸の化かし合いを連想させるものでした。

それから四ヶ月後の六月二十九日、総本山の大講堂で、時事懇談会と銘打った全国教師指導会が再び開催され、席上日達管長は活動家僧侶に対して、学会員を折伏して末寺の檀信徒ととして迎えるべく「檀徒運動」を公然と支持する激励を発しているのです。ところが、スパイ役を仰せつかっていた阿部教学部長は、その時の集会で日達管長の発言の一部始終を陰に隠れて池田大作に通報しているのであります。後に、これを知った日達管長は怒り心頭に発し、大勢の活動家僧侶の前で「こちらから通報するなんて、阿部はとんでもない。学会べったりでどうしようもない奴だ。」(時事懇談会記録)と声を荒げて、阿部教学部長の卑劣な行動を非難しているのであります。

昭和五十四年になると日達管長は年来の心臓病の悪化から、本山近くのフジヤマ病院に入院して療養中、7月22日の未明になって思わぬ事態が発生、激烈な心臓発作と膓不全を併発してあっけなく黄泉の国へ旅立たれたのであります。その前日には近侍の所化小僧に命じて、明日の退院に備えて「念のため床を敷いといてくれ」と指示していたのでありますが、残念ながら生きてその床につく事はできませんでした。

間もなく日達管長の遺体は本山に引き取られて、身内の者達を中心に今後の葬儀の次第等を相談している最中に、阿部教学部長が突然その輪に割って入り込んできて、娘婿の菅野慈雲師(国立大宣寺の住職)に「その後について、何か聞いているか?」と小声で囁く、そのとき菅野慈雲師云く「後の事は総監さんの方がご存じなのでは」と。

総監になっていた阿部教学部長は、取って付けたように「うん、そう、そう」等とつぶやいてその場を後にし、しばらくすると「実は去る昭和五十三年四月十五日、自分は日達上人から血脈相承を受けていたんだ」などと言って、あれよ、あれよ、という間もなく、周囲の訝る声を振り切って、勝手に猊座に就いてしまったと云われています。

ロック・ミュージシャンの矢沢永吉という人が日産自動車の宣伝に「やっちゃえ日産」という面白い台詞を発するテレビ・コマーシャルを見ながら思い出したのですが、ひょっとしたらあの時、「やっちゃえ阿部ちゃん」などと、陰に隠れて誰かが密かにそそのかしたのかも知れないな、と想像してしまいました。

思い出して下さい。阿部教学部長が主張するように、昭和五十三年四月十五日に日達管長から唯授一人の血脈相承を受けていたものなら、わずか二ヶ月後の六月二十九日、反創価学会の僧侶が結集して行なわれた時事懇談会の席で、日達管長の発言の一部始終を、池田大作に通報してスパイ行為を働くことなんてあり得る筈がないのであります。それに日達管長が、次期御法主になられるお方を名指しして「阿部はとんでもない奴」などと多くの僧侶の前で発言し、彼の悪言を口にするなんて事は絶対に有り得ない話であります。

こうした阿部日顕の卑劣な行動に反発した反創価学会僧侶らは、日達管長から阿部日顕に対する相承の授受に対する疑問を投げかけ、壇徒会~正信会へと移行した彼等は、日顕管長の相承疑惑を問題視して騒ぎ立てました。その結果、宗門全体は未曾有の大混乱に巻き込まれ、その争いは法廷闘争にまで発展する事となり、反論の術を失った阿部日顕管長は、反対運動を繰り広げる僧侶を次々に擯斥処分を断行して宗門追放をしたのです。その数、実に二百余名に及びました。

宗教界広しとは云え、国内には約十八万何某かの宗教団体があるそうですが、自分達の起こしたお家騒動で、一挙に二百余名になんなんとする僧侶の首を斬って平然と構える宗教団体なんて、未だかつて聞いたこともありません。これこそ御本仏日蓮大聖人様の嫡流たる富士門流の日蓮正宗が、日本の宗教界ばかりか、全世界に赤恥を晒すことになったのであります。このような驚きを通り越した不祥事が、世間に顔向けできないほどの不名誉な顰蹙を買う事となり、大聖人様の御顔に泥を塗りつけて、富士門流の歴史に取り返しのつかない汚点を残す結果となったのでありますが、これこそ、正本堂なるニセ戒壇を建てて広宣流布を偽り、宗旨の根本たる国立戒壇を捨てたが故の仏罰であります。

擯席処分に付された反創価学会僧侶らの面々は、正信会を名乗って、全国末寺の数十ヶ寺を占拠して信徒約十万世帯を上回る人々を人質に取り、今日に至っているのでありますが、信徒の全ては坊さんが正信会であるため、寺院丸ごと否応なく正信会に所属する羽目となり、一蓮托生として、総本山とは完全に縁を切られてしまったのであります。

あの騒動から三十有余年を経過した今日、全国には未だ三十数ヶ寺と、約十万世帯の信徒が総本山から縁を切られたまま「日蓮正宗正信会」を名乗っているのでありますが、これまた功徳もなければ、一人として成仏をとげることも出来ない存在となっているのであります。

種々御振舞御書に云く「かかる日蓮を用いひぬるともあしくうやまはば、国亡ぶべし。何に況んや数百人ににくませ二度まで流しぬ。此の国の亡びん事疑ひなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にてありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と。


    



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またまた邪義を垂れ流している(其の三)

2017年08月15日 09時49分31秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義孝誌には(P.31~34)日寛上人御教示について、と題して次の如く記してあります。

たま、日寛上人の『文底秘沈抄』には、本門戒壇を事・義に分かたれ、本門の本尊所住のところは義理が事の戒壇にあたるが故に、一般的に「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」(聖典849㌻)とせられ、さらに事の戒壇については、「正しく事の戒壇とは、一閻浮堤の人、懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して蹋みたもうべき戒壇なり」(聖典849㌻)として、根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を、事の戒壇の文証として挙げられている。」について

当たり前ではありませんか! 何度も言うように、日寛上人は戒壇の大御本尊がおわします所を、「義の戒壇」とせられ、正しく、「事の戒壇」とは、広宣流布の暁の本門寺の戒壇を、三大秘法抄の御文を引かれて「事の戒壇」と定義づけられているのであります。

亦「根源の意を含ませつつも、次下に、『三大秘法抄』の広布の事相における戒壇の御文を、事の戒壇の文証として挙げられている」との指摘は、贅言の典型であります。この先、こうした余計な拙文にお付き合いしなければならないと思うと気が重くなります。

しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。「ただ、日寛上人の『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」について

坊さんらの記述には贅言が過ぎます。その上矛盾撞着支離滅裂です。云く「しかしながら、この御教示とて、広布の事相における事の戒壇の根源には三秘総在の大御本尊がましますのであり、その三秘総在の大御本尊の所住、さらにいえば当体そのものが根源の事の戒壇であることと、何ら矛盾するものではない。」等と記していますが、この文章はいったい何を言わんとしているのか、なんど読んでも言語明瞭意味不明にして、同じ文言を並べ立てて得意満面のご様子ですが、さすがに謗法が過ぎるとこうした頭破七分の姿を曝け出して平然と構えることが出来るのでしょうか、謗法は真に怖いですね。

坊さんが偉そうに指摘するように、「『六巻抄』における教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」等としていますが、坊さんらは何を学び、六巻抄の何処に目を通せばそんな事が書けるのでしょうか! 

此処で浅井昭衛氏が六巻抄の講義禄を発刊するにあたって、巻頭に述べられた一節を引用し、日寛上人が六巻抄を著わされた時代的背景とその目的並びに教学上の位置づけを確認し、特に、文底秘沈抄の中で仰せられた「義の戒壇」並びに「事の戒壇」の違いを詳らかにされた背景を見る事にします。

云く「申すまでもなく、日寛上人は日蓮正宗総本山大石寺第二十六世の御法主、そして不世出の大学匠であられる。いま上人の御出現の意義を思うに、上人は大聖人御入滅後三百八十余年に御出現、この時代は既に不相伝家における邪義が出尽くした時であった。ここに上人は、本迹迷乱の安国日講、種脱迷乱の広蔵日辰・癡山日饒等、国中の諸学者の邪義の根を断ち切り、日興上人以来の正嫡相伝の奥義を以て、御本仏日蓮大聖人の三大秘法の正義を余すところなく顕示され、後世に誤りなからしめ給うたのである。

まさしく日寛上人こそ、未来事の広宣流布に備えて、教学上の完璧なる御用意を遊ばすために出現された超凡絶倫の聖者と拝すべきである。そもそも大聖人御弘通の三大秘法は、寿量文底の秘法、最大深秘の正法、久遠元初唯密の正法であれば、たとえ御書を拝すとも、凡夫の誰人がその甚深の聖意を窺い得よう。ここに末弟の我等は、ただ日寛上人の智目を通して、始めて三大秘法の御法門を正しく信解し得るのである。」と仰せられています。

亦、日寛上人は本門戒壇の御本尊について「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。」(観心本尊抄文段)と仰せられています。

つづけて云く「問う、文底深秘の大法その体如何。即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御事なり、乃至、此の本尊は広布の根源なり」と御教示でありますように、根源の本門戒壇の大御本尊を明確にお示しであります。したがって、広宣流布の暁には、この戒壇の大御本尊様が根源の事の戒壇堂にお出ましになられるのは、いま更云うまでもありません。

あるいは亦、義の戒壇について「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊存する上は其の所住は戒壇なり」(寿量品談義)と仰せられ、これが義の戒壇であると明確に定義なされているのであります。

それにも拘わらず、坊さんらは何を以って「教学体系の表面に、この根源の事の戒壇の意義が記されなかった理由については、当時の富士門流の状況と『六巻抄』に御著述の背景を考えてみなくてはならない。」などと偉そうに、機会があれば余計な注釈を加えたいのか、隙を窺うような記述が見られますが、どうしたらこうした思い上がった屁理屈が書けるのでのでしょうか、坊さん達の謗法による頭破七分に犯された文章に触れる度に、謗法は真に空恐ろしい罪障をつくるものだと改めて身にしみる思いであります。

先ず第一に、弘安二年の大御本尊は、唯授一人において相伝せられ、大石寺の奥深く秘蔵厳護されて広布の時を待っておられたのであるが、当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ、内拝の信徒もごく少数に限られていた。こうした状況にあっては、広布の時もほど遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである。「しかしながら、その奥に、日寛上人が弘安二年の大御本尊を拝され、大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とせられていたことは、『依義判文抄』の「本門戒壇の本尊を亦三大秘法総在の本尊と名づくるなり」(聖典863㌻)との仰せ、また日相上人の御代まで伝承されてきた『大貳阿闍梨御講』中の御指南によって明らかであろう。」について

ここで坊さん達の記述を読み直しても、サッパリ判らない。坊さん達が言っている内容については、所々断片的には理解できるものの、全体を通して読むほどに、言語明瞭・意味不明の一語に尽きています。いったい彼等はなにが言いたいのでしょうか。

日寛上人が未だお若い時、大貳阿闍梨号を名乗られていた頃、大勢の信徒を前にして御講を開かれた席で三大秘法に係わる開合について次のように仰せになられました。その時の御講聞書を後年、第四十三世日相上人が科段に分けて記されたお書き物の中には、三大秘法を六大秘法に開いた場合の御本尊の相貌を次の如く明確にお示しであります。即ち本門の本尊について人本尊は「日蓮大聖人」とせられ、法本尊は「事の一念三千の御本尊」と定義せられ、本門の題目については「信受智妙」と「口唱行妙」に分かたれ、戒壇については「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」とせられ「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒也」と明確に峻別されておられたのであります。

こうした時系列から拝見ますと、今日坊さんが指摘するような「広布の時もほど遠いと思われ、富士門流としては、大御本尊はまだまだ秘蔵中の秘蔵の扱いをもって、未来の時を待たねばならなかった。したがって、日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず」などとした指摘は大きな間違いである事が分かります。

序でに申し上げれば、日寛上人が「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒也」と仰せられた富士山とは、死臭が漂う土葬の墓地を掘り起こしてニセ戒壇正本堂を建てた、現在の大石寺の穢れた場所を指しているのではありません。それは、広宣流布の暁に建立される「霊山浄土に似たらん最勝の地」と大聖人様が仰せられた、富士山天母ヶ原の御事を指しているのであります。

また坊さんらが物知り顔に「当時の富士門流の布教は徳川幕府の圧政に妨げられ(中略)日寛上人が三大秘法の開合を御書に基づいて述べられるにあたっても、弘安二年の大御本尊の御事を軽々に表に顕わさず、「一大秘法」「本門の本尊」等の抽象的表現と、『三大秘法抄』等の御書の面に顕われている文証とをもって、三大秘法の開合、本門の本尊と戒壇との関係、戒壇の事・義の立て分け等々を示されたのである」等の記述は、余計な贅言を並べたものであることが分かります。日寛上人は大貳阿闍梨号を名乗られていた頃から対他に対して、富士門流の大石寺には、弘安二年の本門戒壇大御本尊の存在を敢然と明らかにされ、「義の戒壇」及び「事の戒壇」の違いについて明確に峻別されていたのであります。

第二に、『六巻抄』の理論体系は、当時の他門流の不相伝家なる故に邪義に対し、これを破折するため、御書の文証を基準として組み立てられた。そのため、事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ、弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである。以上のような日寛上人の、当時の時代性に応じた法門の表現と、対他のために著述された『六巻抄』の性質をよく弁え、その御真意を誤りなく拝すべきであろう。」について

同じ事の繰り返しになりますが、坊さん達の展開する記述はまことに解りづらい。彼等が指摘する「事の戒壇についての御教示においても、広布の事相における戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、ただちに事の戒壇の文証とせられ」とは、いったい何を言っているのか見当も付きません。日寛上人は三大秘法抄のいずれの御文を以って「ただちに事の戒壇の文証とせられ」たのでょうか、坊さん達はその説明もないまま、いい加減な抽象論に終始しています。

つづいて「弘安二年の大御本尊の当体及び所住を根源の事の戒壇とする表現を避けられたのである」等としていますが、当たり前ではありませんか。日寛上人は六巻抄を上梓される以前、即ち大貳阿闍梨号を名乗られていた頃から、本門戒壇の大御本尊のおわします所は「義の戒壇」と定義せられ、「広宣流布の暁に事相として建てられる本門寺戒壇を事の戒壇」と仰せられていたのであって、邪義に染められた坊さん達が自慢げに垂れ流す言辞には呆れるばかりであります。何度も申し上げますが日寛上人は、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊の当体及び所住は、どこまでもを根源の義の戒壇と定義されていたのであります。

なお、また、日寛上人以降の御歴代におかれても、こうした『六巻抄』の理論体系を基として、戒壇についての御教示を展開あそばされた故に、あたかも、広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住を(義理が事の戒壇に当たる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。」について

正系門家富士門流の教学上の確定的な化儀は、寛尊の六巻抄の中にすべて収まりこれに尽きるのであります。ところが坊さん達は「しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない」等として、あたかも日寛上人が未完の法門書を残された如く、くどくどと知ったか振りを決め込んでいますが、日寛上人は後に貫主職に就かれた二十八世日詳上人に六巻抄を託されて、云く「此の六巻の書の獅子王ある時は、国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず、尤も秘蔵すべし、秘蔵すべし」と仰せられ、つづけて「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」と訓戒を加えられ、さらに「公場に非ざるよりは、妄りに之を宣ぶること莫れ」と、重誡の御言葉さえ遺されて全てを終えられておられるのであります。

此処で寛尊が仰せられる国中の諸宗の狐兎とは、禅宗、念仏宗、真言宗等の既成仏教の邪教の面々を指し、諸門の狐兎とは、身延、池上、中山等の不相伝家の邪宗日蓮宗を含む、南無妙法蓮華経を唱える新興の邪宗日蓮宗の連中を指して狐兎と仰せられているのであります。

ただ、ここで一つ言える事は、宗門が悪僧日達管長以来、富士門流の宗旨の要ともいえる国立戒壇を放擲したが故に、諸宗・諸門の狐兎と揶揄された一連の謗法者達が総本山めがけて一党して襲来し、国立戒壇の宗旨に論難を加え攻撃される恐れは全く無くなってしまいました。日寛上人は、まさか、御自分の亡き後、わずか三百余年後に富士門流大石寺が国立戒壇を放擲するなんて努々想像だにしなかったに違いありません。是れを以って顧みるに、大聖人様の唯一の嫡流たる日蓮正宗大石寺が、創価学会の政治選挙の為に、世間に諂い国立戒壇を永久放棄したことが、如何に間違っていたかという事が良く分かります。

日寛上人が六巻抄を日詳上人へ託されるに当たって「国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず」と仰せられた意味は、富士門流日蓮正宗の宗旨はどこまでも国立戒壇であるから、この旗を高々と掲げて、広宣流布を成し遂げなさいと云う意味で仰せられているのであります。ところがその肝心要となる国立戒壇を永久放棄して叫ばなくなってしまったならば、日寛上人が「国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来す」と仰せられた予言は大虚妄となり、その心配は完全になくなってしまうのであります。また、国中の諸宗・諸門の狐兎の立場からしますと、国立戒壇という大目的を永久放棄した日蓮正宗の本山に襲来して、国立戒壇に轟々たる非難を浴びせて攻撃を仕掛けて来る理由も完全になくなったという事であります。

しかし大聖人様は、国立戒壇の大事を前以って富木殿御返事の中で「設い日蓮生死不定たりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無きものか、伝教大師、御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定・慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕わす、事相たる故に一重の大難之有るか」と仰せられいます。ここで仰せられる「事相たる故に一重の大難之有るか」との意味は、申すまでもなく、富士門流の日蓮正宗が国立戒壇の建立を叫び、事実の相として国立戒壇を建てる為に広宣流布を闘う宗旨であるが故に「事相たる故に一重の大難之有るか」と仰せられているのであります。それを捨ててしまったのでは、何のかんばせがあろうか、大聖人様をはじめ代々の上人方の御苦衷を忍び参らせれば、合わせる顔がなくなるというものです。

また、大聖人様が如説修行抄で仰せられる「念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる。或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり、法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権経権門の輩を一人もなく・せめおとして法王の家人となし」云々と仰せられる熾烈にして果敢な折伏戦は、国立戒壇を捨てたが故に雲散霧消してしまいました。また折伏戦に対する熾烈な軍が巻き起こる理由も道理も完全になくなってしまいました。

それを象徴するかのように、今日の宗門の唯一の機関紙といわれる大白法の平成29年8月1日号には「異流義破折」と題した顕正会に対する破折文によれば「浅井は、正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ一筋に日蓮大聖人の出世の本懐たる『本門戒壇の大御本尊』を護持し奉り、御遺命たる『国立戒壇』を、唯一の宿願としてきたのです。(顕正新聞 平成29年4月25日)と、あたかも大聖人が「国立戒壇」の名称を示して御遺命されたかのように話を進めているが、実際は御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない。大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。時期を鑑み本宗では一切使用しなくなった「国立戒壇」の名称に拘泥する様は、まさに大聖人の御意に背いた姿なのである」等と、驚くべき支離滅裂な邪義を展開しているのでありますが、之を逆信の邪僧と言わずしては、自らが与道罪を被るのであります。

坊さん達がいう「大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。」とした記述は全くそのとおりで、正しいのであります。本門寺の戒壇イコール国立戒壇のことなのであります。

そうした正論と合わせて坊さん達が主張する「御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない」とする邪義は、池田大作のサル真似以外に何物でもありません。

池田大作はかつて次のような邪義をのべていました。云く「戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇』といってきました。しかしどこを探しても、御書には『国立戒壇』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです」(聖教新聞 昭和40年9月22日)と。

つづけて「国立戒壇ということばは、大聖人の御書には一つもありません。あくまでも、民衆の力によって、できあがる本門戒壇の建立が、大聖人の御遺命であります」(大白蓮華 昭和41年7月号)と。

それをどうですか、いま坊さん達は国立戒壇を否定する為に「実際は御書のどこにも「国立戒壇」の文言はない。大聖人の御遺命は『日蓮一期の弘法付嘱書』に示されるところの、「本門寺の戒壇」(御書1675㌻)である。」などと、大聖人様が御教示下された「一期弘法付嘱書」の御文と、池田大作が作り出した「御書に国立戒壇ということばはないのです」と言い放った邪義を一括りにして、国立戒壇を否定する記事を大白法紙に載せて顕正会を誹謗していますが、是れこそが頭破七分の見本ともいうべき、良き事例であります。

いま宗門にはこうした邪義を垂れ流し、袈裟の権威を笠に着て肩で風切る坊さんばかりが幅をきかせ、のうのうとただ飯を食らって、僧道を渡世の道具にしている者で溢れかえっていますが、宗門が再び国立戒壇の正義を取り戻して、富士の清流が蘇る兆しが出てきた時には、邪義を垂れ流す坊さん達は、一人残らず擯斥処分に付して宗門から彼等をいち早く追い払わなければなりません。

そうしたなかで日蓮正宗が国立戒壇の大目的を永久放棄した後の今日、総本山めがけて、諸宗・諸門の狐兎が、一党して宗門に襲来する事なんて、夢のような話になってしまいました。それどころか、日達管長の死後、突如として六十七代を継いだと称する悪僧阿部日顕管長に至っては、平成7年6月6日、邪宗日蓮宗身延山の次期管長職に就任する田中日淳なる邪僧一行を積極的に自ら総本山に招き入れ、自慢げに本山の公布坊、客殿、大講堂、五重塔などの主だった伽藍を案内した後、能化の高野日海師に命じて、蓮葉庵で昼間から酒宴を張って饗応ならしめ、日頃の創価学会に対する鬱憤を晴さんと、悪徳弁護士山崎正友を使って、学会攻撃を仕向けているのでありますが、信心が腐ってくるとこうした醜態をさらす事になるのであります。

それは置くとして、邪義にまみれた不勉強の坊さんらは「広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住を(義理が事の戒壇に当たる故に)義の戒壇とするやの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らずの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならない。」とは恐れ入りましたね。これではまるで、日寛上人は未完の法門書を六巻抄と名付けて日詳上人へ託されたこととなり、悪僧日達管長の出現によって、初めて富士門流の教学上の化儀が完璧に整ったことになってしまいます。そんなバカことがあるものか! これでは悪僧日達管長は、超凡絶倫の聖者を超えた存在となってしまいます。

憚りながら日寛上人は、学頭職を務められていた時に六巻抄の全ての草案を完成されていたものを、御遷化の前年に再治を加えられ、大聖人様の御本懐のすべてを収められているのであります。その時の仰せに云く「正徳第三癸巳(みずのと み)、予四十九歳の秋、時々御堂に於いて開目抄を講ず。而して文底秘沈の句に至る、其の義甚深にして其の意難解なり。所以に文に三段を分かち、義に十門を開く。草案已(すで)に畢(おわ)りて清書未だ成らず、虚しく笈中(きゅうちゅう)に蔵(おさ)めて之を披(ひら)く遑(いとま)あらず。而して後、享保第十乙巳、(きのと み)予六十一歳春、逅邂(たまさか)之を閲するに疎略稍(そりゃくやや)多し、故に粗添削(ほぼてんさく)を加うるのみ。敢えて未治の本を留むることなかれ。然るに此の抄の中に多く大事を示す、此れは是れ偏に法をして久住せしめんが為なり。末弟等深く吾が意を察せよ云々」と御指南であられます。

そして日寛上人は御遷化の年の二月江戸において観心本尊抄を講じ終えられた時、一座の大衆にたわむれのごとく仰せられて、次のような有名な御言葉を残されておられます。即ち自身が三大秘法の化法・化儀を解説された六巻の書に一分の間違いの無いことの証明として、羅什三蔵の故事を引かれてその裏付けとされたのであります。

云く「法華経を漢訳した羅什三蔵は、自身の訳経の誤りなき事の証明として、大衆に向かって〝我が身死して火葬に付する時、身は灰となるとも舌ばかりは焼けず〟と語っていたところ、果たせるかなその通りになった。ゆえに羅什三蔵の訳経は随一と云われ、後世に信じられたのである。いま日寛たとえ富桜那の弁を得、目連の通を現ずるとも、云うこと当たらざれば誰人が信ずることが出来ようか。自分も羅什の故事にちなみ、いま日寛も一つ言い残すことがある。すなわち日頃好むところのソバを、臨終の時に食して、唱題のうちに臨終することにした。若し日寛の言うところ当たらざれば信ずるに足らず。もし違わざる時は、日寛の所説は大聖人の御意に寸分も違わざると信ずべし」(取意)と。

臨終が近づいたその日の夕べ、日寛上人は大好きなソバそ食された後、最後臨終にのぞまれて辞世の一句を詠まれました。「本有の水風凡聖常に同じ、境智互いに薫じ朗然として終わりに臨む」と謳われ、最後に「ああ面白しきかな寂光の都は」と仰せになられて、朗らかにスキップするようなお気持ちで寂光土に旅立たれているのであります。

それに比べて悪僧日達管長は臨終思うようにならず、入院中、付き添いも誰も居ないところで、昭和54年7月22日の未明、七転八倒の苦しみの中に、黄泉の国へ旅立つ以外に方法はなかったのでありますが、これは猊座に在った者が取り返しのつかない邪義を始めた罰によって、大聖人様からまたとない命を召し取られたとしか言い様がないのでありますが、これぞ天地雲泥の差、一切は現証に如かずとはこの事であります。

先例として、本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦について日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。同様に、戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。」について

ここでも坊さん達はいい加減な嘘ばかりを垂れ流しています。「本宗で方便・寿量の二品のみを読誦する深義についても、途中までは全く体系的に明示されることがなかったが、他門流から我見の議論や批判が出るに及んで、方便品読誦について日興上人、寿量品読誦については日寛上人の代から、初めて、その全てが説き明かされた。」等としていますが、方便品・寿量品の読誦については、大聖人様の御在世当時から唱えられていたのであります。

大聖人様は斯く仰せであります。「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを」云々と仰せられ、寿量品を欠くことのできない大事に言及されておられます。

また松野殿御返事の一文の中に、松野殿が入信後間もなくして、大聖人様に凡夫の我々が唱えるお題目の功徳と、聖人が唱えるお題目の功徳の違いについて質問された時のお手紙の中に「此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱え申し候なり」とありますのがそれであります。松野殿は入信当初から方便品の十如是と寿量品の自我偈とお題目を唱えていたのであります。

亦曽谷入道殿御返事の中でも「方便品の長行書き進らせ候。先に進らせ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり」と御教示され、勤行の際には必ず寿量品を読誦するよう指導されています。

さらに月水御書には「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ候へ。乃至寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」と御教示のとおり、方便品は迹門の肝心であり、寿量品は本門の肝心であれば、坊さんたちの指摘はウソだという事が歴然とします。

また新尼抄には「今此の御本尊は・・・・宝塔品より事おこりて、寿量品に説き顕わし、神力品・属累に事極まりて候」とありますように、本門寿量品に来て初めて説き明かされた三大秘法の御本尊を拝み参らせながら、方便品だけを読誦して、肝心の寿量品を読誦しないなんて事は絶対にあり得ないのであります。

坊さんのいう事が奮っていますね。「戒壇の本義については、今日、浅井昭衛の妄説出来を待って、第六十六世日達上人が、甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである。」とは恐れ入りましたね。

何度も申し上げて来たとおり、日達管長は三大秘法の戒壇義については「いつでも、何処でも『事の戒壇』」という邪義を始めた張本人なのであります。それを日達管長の邪義に染められた坊さん達は「甚深の御相承の法義を拝されつつ、初めて体系的に明示あそばされたのである」等と宣伝に努めているのであります。

ここに至って、日寛上人が、三秘中、本尊と題目についてのみ示され、戒壇については残されてあった、「事」の二重の意義が顕然となり、また、戒壇御本尊と他の御本尊との関係による事・義の立て分けの真義が明瞭となった。浅井らは、ともかく、御歴代のどながた仰せである、ゆえに宗門古来からの定義である等と強弁するのみで、法門の道理よりも、単なる「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの淺い教学ではないか。」について

坊さん達は再び此処へ来て、日寛上人の文底秘沈抄の中には本尊と題目に、二重の意義があることを示されたているとする邪義と、日寛上人も説き明かされなかった戒壇にも、二重の意義がある事を日達管長が初めて説き明かされたと称する邪義を吹聴しています。

それと、先頃国立戒壇を叫ばれていた第五十九世日亨上人、第六十四世日昇上人、第六十五世日淳上人、第六十六世日達上人等の四上人を指して「言った、言わない」論に終始しているが、じつに低次元きわまりない、文字どおりの淺い教学ではないか」等と非難しているのでありますが、これこそ、立正安国論の御精神を踏みにじり、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる御本仏の金文を破壊せんとする逆賊ともいうべき恐るべき非法の衆なのであります。

坊さん達が云う二重の意義とは次のようなものでした。即ち本尊については「当流の意は事を事に顕わす」というもので、題目については「事を事に行ずるが故に事と言うなり」というものでした。しかしながら、それらの御言葉の中にどうしたら、本尊と題目に夫々二重の意義を認めることができるのでしょうか。さらに、戒壇については「いつでも、何処でも事の戒壇」とするもので、広宣流布した時には改めて、事の戒壇を大石寺の境内に建てるという邪義であります。

繰り返しますが、三大秘法の本尊、題目、戒壇にそれぞれ二重の意義が生ずるのは、三大秘法を開いた場合にのみ、二重の意義が生じて、はじめて六大秘法となるのであります。それ以外では三大秘法に二重の意義が生ずることは決してあり得ないのであります。

そもそも、広布の暁に建立されるという戒壇の建物と、大聖人出世の本懐たる大御本尊の当体及び所住と、いずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか、寛尊の「一大秘法」「三秘総在」との御教示を拝すれば、筋道は明白である。したがって、日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。」について

坊さん達の記述は何処まで行っても言語明瞭意味不明です。「戒壇の建物と、大御本尊の当体及び所住のいずれを事の戒の根本として法義を展開すべきか」とは、如何なる意味なのか、邪義が高じて頭破七分を患った者でないと、こうした文章は読む事が出来ません。

それに「日達上人が御相承の法門の上から、戒壇に事・義を立て分けられ、さらに根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである。」とは、仰天ビックリですね。

日達管長は、戒壇に事・義を立て分けることを真っ向から否定し、御本尊のおわします所は「いつでも、何処でも事の戒壇」として、義の戒壇は絶対に存在しないと言い張っていたのであります。それを今になって、「根源の事の戒壇と広布の事相における事の戒壇とを説き示された御指南は、日寛上人の御教示の奥に拝せられる御真意と、いささかも異なるものではないのである」とは、狂人の戯言としか言いようがありません。日暮れて道なお遠しの感を深くするばかりであります。

まさに、「唯仏与仏。乃能究尽」の文を見るごとくであり、浅井ごとき一在家がこれに異議をさしはさむなど、増上慢の極み、狂気の沙汰と断ずる以外にない。もっとも、浅井の妄説出来が戒壇に関する大事の法義開示の機縁となったのであるから、「魔及び魔民なりとも皆仏法を護る」のいみにおいて、正法興隆の役に立ったと言えなくもない。その逆即是順の功徳によって、浅井は、千劫阿鼻地獄に堕ちた後、再び日蓮大聖人の正法に値遇することであろう。」について

それにしても大仰な表現ですね。取り返しのつかない邪義を吹聴した日達管長を「唯仏与仏。乃能究尽」の体現者ごときに称揚するとは、驚きを通り越して呆れてしまいます。その意味するところ、唯仏と仏のみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまえり。となりますが、これは、御本仏大聖人様と、末法万年の総貫主たる二祖日興上人との間で授受される、唯受一人の血脈相承の事を指すのであります。

それに対して、日達管長は富士門流七百年の間、些かの濁りも曲がる事なく、清く正しく、清浄に伝持されて来た三大秘法義を曲げて邪義を構え、宗門に壊滅的な打撃を与え、今日の体たらくをもたらした稀代の悪僧・邪僧とも云える根源であります。焦眉の急は、早く上代の富士の清流を取り戻さないかぎり、取り返しのつかない国家的な災いを招来する事になります。

立正安国論に云く「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」と。

亦云く「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん、若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、その時何んが為んや」と。

つづけて云く「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」と。

此処で仰せらる「正道の侶」の元意は、本来御本仏大聖人様を指す御言葉でありますが、その御文をお借りして一言申し上げるならば、不幸にして悪僧日達管長の出現以来、今日の富士門流日蓮正宗には、正道の侶と呼ばれるに値する御僧侶は、残念ながら何処を探しても、一人として見当たらなくなりました。

一刻を争って、富士の清流を速やかに取り戻さなければなりません。




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またまた邪義を垂れ流している(其の二)

2017年08月01日 14時00分19秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義孝誌(P.28~30)に坊さんらは、広布事相における戒壇として、次のような邪義を展開しています。

この根源の意における事の戒壇の上に、さらに広宣流布の事相において建立される事の戒壇である。それは、日寛上人の『文底秘沈抄』において、本門の本尊に関し、「当流の意は事を事に顕わす」(聖典838㌻)と仰せられ、事の法体を事相の上に本尊として顕わすことを示され、また本門の題目に関し、「事を事に行ずるが故に事というなり」(聖典832㌻)として、事の一念三千を事行の上に題目を口唱することを示されいる意をもっていえば、本門の戒壇についても、大御本尊まします事の戒壇(この戒壇は、何時いかなる所であろうとも事の戒壇、という根源の意である)を、さらに現実の広布達成の事相の上に全世界の信仰の根本道場として建立する。との二重の意義が拝せられるのである。」について

坊さんらは、日寛上人の顕わされた「文底秘沈抄」を引いて、三大秘法の本門の本尊について、『当流の意は事を事に顕わす』と仰せられ、題目については、『事を事に行ずるが故に事というなり』と仰せられているとしていますが、仮に、坊さん流に解釈するならば、同じく日寛上人の文底秘沈抄の中に、本門の戒壇についても、『事を事に建てるが故に事というなり』と仰せられる御言葉が有って然るべきなのに、そんな御言葉は何処にもありません。まして、 本門戒壇の大御本尊おわします所は、「いつでも、何処でも事の戒壇」などという邪義は、決してお許しになられる筈はありません。そして亦「さらに広宣流布の事相において建立される事の戒壇がある」等とした、成り行き任せに建てるような事の戒壇説には、呆れ果てておられるのであはないでしょうか。

それでも坊さんに云わせると、現在の「事の戒壇」とは別に、広宣流布が達成された暁に、自然発生的に世情の成り行きに任せた「事の戒壇」を建てるのだそうですが、そんな、何の国家的手続きを経ないで建てる戒壇なんて、ニセ戒壇正本堂とどう違うのでしょうか? 日寛上人は「事の戒壇」については、三大秘法抄の御文を引かれ、「勅宣並びに御教書を申し下して」とお示しのように、国家的な二重の厳重な手続を経た上で、富士山天母ヶ原に建立する本門寺戒壇、即ち国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と仰せられているのであります。

日寛上人はそのことを文底秘沈抄の中で「夫れ本門の戒壇に事あり義あり。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処・義戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に『仏其の中に住す即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり』等云々、宗祖云く『此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん』云々」(南条殿御返事)と仰せられ「義の戒壇」と「事の戒壇」の違いは明確に峻別せられているのであります。

上記の仰せに明らかなように日寛上人は、広宣流布が達成されるまでの間、戒壇の大御本尊おわします所は、どこまでも「義の戒壇」と仰せられています。その文証として天台の法華文句第十の文を日引かれて「仏其の中に住す即ち是れ塔の義」と釈されているのであります。すなわち、仏様は広宣流布が達成するまでの間は、塔の中に秘仏としてお住まいであると御教示なのであります。更に一言加えるならば、広宣流布までの間は秘仏としてお休みになられているため、秘蔵厳護の誡めを固く守り、如何に正宗信徒と雖も、内拝と称してみだりに御開扉してはならないのであります。

次に「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に、天皇陛下の勅宣を賜わり、御教書たる国会の議決を経て、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と定義せられ、その時、戒壇の大御本尊様は全世界の人々のために懺悔滅罪の根本道場として、はじめて公開される本門事戒壇となるのであります。

また日寛上人は、本尊・題目ともに二重の意義があるなんて事は一度たりとも仰せられてはおりません。ましてや、いま坊さんらが吹聴するような「事の戒壇」の上にさらに「事の戒壇」を建てるなんて、可笑しな話ですね。そんな邪義を展開するから僧俗ともに一切の功徳を無くした上、広宣流布に対する目的を喪失し、最も大切な折伏戦においても意欲と感激を失い、一向に「事の戒壇」建立への躍動感が微塵も見られなくなってしまったのであります。

坊さんが主張するように三大秘法の御本尊に、「当流の意は事を事に顕わす」あるいは題目に「事を事に行ずるが故に事というなり」と、日寛上人が文底秘沈抄の中で仰せられた御文の中に二重の意義があるとしていますが、本尊と題目の何処に二重の意義ああるのでしょうか、御文の意を口語体にして読み直して見れば「当流の意は、事の本尊を事実として顕わす」という意味になり、題目については「事の題目を実際に唱え行ずる故に事という」という意味になります。その御文の中に、どうしたら二重の意義があることになるのでしょうか!

一大秘法の本尊を三秘・六秘と開いた場合、三大秘法とは「本門の本尊」と「本門の題目」と「本門の戒壇」の三大秘法となり、それをさらに開けば、本尊は「人」の本尊と「法」の本尊となり、題目については、「信」の題目と「行」の題目となり、戒壇については、「義の戒壇」と「事の戒壇」の六大秘法となりますように、それぞれに二重の意義が存するのでありますが、坊さんらは、三大秘法の開合の法門の事と勘違いしているのではないでしょうか。不勉強が過ぎて堕落するとこんな風になるのでしょうか、嘆かわしいかぎりであります。

その、広布の事相の上に事の戒壇を建立せよとの御遺命こそ、前に掲げた『三大秘法抄』及び『一期弘法抄』の御文に他ならない。かかる「事」の二重の意義を、初めて体系的に明示あそばされたのは、日達上人であられるが、これを浅井の息子の克衛あたりが、小生の初めてなした大誑惑、と喚いているらしい。じつに恐るべき無知という以外にない。そもそも、本尊・題目については「事」の二重の意義を認め、戒壇についてだけは認めない、というならば、三秘それぞれの円融相即性を否定する邪見となり、理の通ぜぬ闇者と呼ばれてもしかたがないではないか。また、日寛上人ほか御歴代が、この意義を直接的に文の面に顕わされなかったことにも理由が拝せられるが、それは後述する。」について

坊さんらは、邪義を始めた張本人であるところの、日達管長を持ち上げて『かかる「事」の二重の意義を、初めて体系的に明示あそばされたのは、日達上人であられる』などと宣伝していますが、日達管長は本門戒壇の大御本尊おわします所は、「いつでも、何処でも事の戒壇」なる邪義を垂れ流した揚げ句、広宣流布した時には、改めてまた「事の戒壇」建てるという邪義を発した邪義の根源なのであります。その日達管長を捉まえて、大げさに「『事』の二重の意義を、初めて体系的に明示あそばされた」とは呆れましたね。

要は、三大秘法の開合の法門を開いた時に本尊と題目と戒壇に、初めて二重の意義が生ずるのであって、それ以外では、二重の意義が生ずる理由は全くないのであります。

次が面白いところですね。坊さん云く「これを浅井の息子の克衛あたりが、小生の初めてなした大誑惑、と喚いているらしい。じつに恐るべき無知という以外にない。」等と、長男の克衛氏を名指しして糞味噌に批判していますが、坊さんにそんな資格があるのでしょうか。

此処では浅井克衛氏が日達管長の人格を揶揄して、「小生の初めてなした大誑惑」などと日達管長を見下す意味で「小生」という形容詞を用いたのかも知れませんが、普通この言葉の使い方としては、小生とは、自身がへりくだって相手に語り掛ける時に使う言葉ですが、克衛氏は、日達管長を見下すつもりで使用したか、あるいは間違って使用したかは、本人以外は知る由もありません。

ところで、坊さんが云う「三秘それぞれの円融相即性」なる難しい論理を「日寛上人ほか御歴代が、この意義を直接的に文の面に顕わされなかったことにも理由が拝せられるが、それは後述する」等と記していますが、是非とも円融相即性なる高邁な論理を、後には必ず開陳して戴きたいものであります。

ともあれ、『仏法と申すは道理なり』(御書1179㌻)との御金言のごとく、戒壇の事・義の立て分け、根源の事の戒壇と広布事相における事の戒壇の立て分けという、戒壇に関する日達上人の御指南は、理これ明らかにして、万代に揺るぎなき正義である。しかるを、あくまでも「広宣流布の暁に初めて事の戒壇が建立される。ゆえに広宣流布以前は事の戒壇はない」と固執し、ついに「事の戒壇は建ててはならない筈なのに、宗門・日達上人は正本堂を指して事の戒壇と称する大誑惑をなした」等と誹謗するのが、浅井昭衛の妄説の大要であるが、それは、一切の法義の根本を御相承によって掌にされている、血脈相承の御法主上人に離反したために陥った浅見というべきであろう。」について

驚くべきはここへ来て坊さんらは「戒壇の事・義の立て分け、根源の事の戒壇と広布事相における事の戒壇の立て分けという、戒壇の事・義の立て分け、根源の事の戒壇と広布事相における事の戒壇の立て分けという、戒壇に関する日達上人の御指南は、理これ明らかにして、万代に揺るぎなき正義である。」等と意味不明の言辞を弄していますが、冗談ではありません。悪僧日達管長の出現により、富士門流七百年の根幹教義はねじ曲げられ、建ててはならないニセ戒壇正本堂なる奇っ怪な建物を建てて、是れを称して「正本堂は、一期弘付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。」(昭和47年4月28日の訓諭)等々と大聖人様の誡めに背いて教義を歪曲し。宗門を大混乱に陥れているのであります。

さらに日達管長は、戒壇に対する「事」「義」の立て分けについては、臨終の未明まで改める事なく、徹底的に是れを否定し、戒壇は専ら、「いつでも、何処でも事の戒壇」という邪義に固執し、本門戒壇の御本尊には「義の戒壇」は絶対に存在しないとしていたのであります。

ところが、坊さんに云わせると「戒壇に関する日達上人の御指南は、理これ明らかにして、万代に揺るぎなき正義である」等と涙ぐましいばかりの持ち上げようでありますが、日達管長はいつから「戒壇の事・義の立て分け」を始められたのでしょうか! そうした邪義を諫める妙信講の頸を切り、宗門はそれ以来取り返しのつかない大謗法を重ねる事となってしまい、今日を迎えているのでありますが、日達管長が始めた邪義によって、宗門僧俗は一切の功徳を喪失してしまったのでありますが、正系門家の仏法が曲がれば、功徳が全くなくなったとか、成仏する者が一人も居なくなったとか、そんな生やさしい問題では済まなくなるのであります。

仏法が曲がれば国が亡ぶのであります。神国王御書には、「王法の曲るは小波小風のごとし、大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるること疑いなし」とあるのがそれであります。

およそ、広宣流布以前に事の戒壇がなかったり、広宣流布によって初めて三大秘法・六大秘法が成就するなどということは、よくよく考えてみれば、大聖人が宗旨を成就せられぬまま御入滅されたことになってしまうのであり、本仏日連大聖人の円満無欠の御化導において、かかることがありえよう筈がない。もとより三大秘法・六大秘法は、悉く一大秘法たる弘安二年の大御本尊に収まり、大聖人一期の御化導において究竟しているのである。ゆえに日寛上人は、『依義判文抄』に「三大秘法総在の本尊を明かすなり、総在の本尊とは題目・戒壇の功能を具足する故なり、亦一大秘法の本尊と名づく、題目・戒壇の功能を具すと雖但是れ一個の本尊なるが故なり」(聖典867㌻)と仰せられているのである。」について

一期弘法付嘱書には、「国主此の法立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。」と誡められて「事の戒壇」を建てることを禁戒せられ、三大秘法抄には、王仏冥合が成って「王臣一同に本門の三秘密法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ。」と御教示せられ、未だ時の来ないうちに「事の戒壇」を建てることを禁止せられているのであります。宗門は御開山日興上人以来七百年の星霜を経るも、是れらの戒めを固く守って、「事の戒壇」は未だ成就していなかったのでありますが、六十六代目を継いだ日達管長はその禁戒を破って、ニセ戒壇正本堂なるものを建てて、是れを広宣流布の「事の戒壇」と言いだしたのであります。

云く「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉ってあっても、その御本尊在すところは何処、何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45年4月27日 教師補任式)で。

つづけて云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 201号)と。

それにしても恐れ入りましたね。いま頃になって坊さん達は「およそ、広宣流布以前に事の戒壇がなかったり、広宣流布によって初めて三大秘法・六大秘法が成就するなどということは、よくよく考えてみれば、大聖人が宗旨を成就せられぬまま御入滅されたことになってしまうのであり、本仏日連大聖人の円満無欠の御化導において、かかることがありえよう筈がない」等と可笑しな事を書き連ねていますが、これが現在の富士門流日蓮正宗の坊さん達の邪義に染まった奥深い思想的背景なのかと愕然となりました。

そもそも一期弘法抄並びに三大秘法抄の「時を待つべきのみ」の禁戒を破り「義の戒壇」の存在を否定して来たのは、日達管長以来、本山に巣くう坊さん達であります。こうした堂々巡りの邪義を垂れ流すから、同じことの繰り返しになりますが、三大秘法を六大秘法に開いた場合、戒壇は「義の戒壇」と「事の戒壇」に開かれるのでありますが、今日の宗門は彼の日達管長以来、「事の戒壇」と「事の戒壇」になり、「義の戒壇」は絶対に存在しないとして、戒壇義を歪曲してきたのであります。

そこで「義の戒壇」は如何にと質えば、他所から別の本尊を持ち出してきて、是れを「義の戒壇」と称しているのでありますが、これは根本から間違いで、三秘・六秘の開合の法門を論ずる時には、本門戒壇の大御本尊に限定して論ずる法門であります。それを他所から別の御本尊を持ち出してきて、三秘・六秘を論ずるとなると、下手をすると五大秘法か七大秘法になってしまうのであります。

また、事の戒壇について明かされた『三大秘法抄』に、「此の戒法(※事の戒法・事の戒壇)立ちて後、延暦寺の戒壇は理戒なれば益あるまじ」と仰せられている一節についても、広布を待って初めて事の戒壇が顕われるというならば、それまでは迹門の戒壇によって益がある、ということになってしまうではないか(むろん、すでに延暦寺には真言の邪法が混じり、像法過時の迹門戒壇という意義すら消失していたのが実態ではあるが)。」について

坊さんらの指摘はナンセンスの一語であります。大聖人様が三大秘法抄で「此の戒法を立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじ」と仰せられた意味は、法華経本門寿量品文底秘沈の未曾有の本尊が出現された以上は、延暦寺の戒壇は天台過時の法華経迹門の理戒であるから、利益がなくなったと仰せになられたのであって、何も、広宣流布の暁の本門事の戒壇ができるまでは、大聖人様の顕わされた三大秘法に利益がないと仰せられたのではありません。

やはり、大聖人によって末法嫡事の大法たる事の一念三千・三秘総在の大御本尊が開顕せられた時、すでに大御本尊の当体のところに根源の本門事の戒壇は具足していたのであり、同時に、日輪の光明に月の明かりが消えるごとく、迹門の理戒もその一切の利益を失ったのである。」について

坊さんが指摘するとおり、「すでに大御本尊の当体のところに根源の本門事の戒壇は具足していたのであり、同時に、日輪の光明に月の明かりが消えるごとく、迹門の理戒もその一切の利益を失ったのである。」との主張には、目くじらを立てて異議をはさむものではありませんが、それはあくまでも三秘・六秘と開いた場合の理論上の法門の話であって、事相(事実の姿)として、本門「事の戒壇」が顕現するのは、広宣流布の暁に初めて実現するのであります。

つづく





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またまた邪義を垂れ流している

2017年07月29日 14時31分37秒 | 亡国の坂道 
坊さんらは、摧破異流義孝誌(P.24~28)に、〝一、本門戒壇について〟と題して次のように記しています。

日蓮大聖人の御化導中、三大秘法の名目が初めて示されたのは、佐渡流罪中の文永十一年に御認めの『法華行者値難事』においてであり、以後、重要御書をもって三秘の内容・意義を明かされている。しかし、本門戒壇については、ただ名目のみを挙げられ、その内容・意義については直接に説き明かされることはなかったのである。そして、御入滅間近の弘安五年に至って、初めて『三大秘法抄』に、

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり。此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじ」云々(御書1559㌻)と説かれ、さらに日興上人への御付嘱状たる『一期弘法抄』に、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」(御書1675㌻)と示したもうたのである。

以来、この本門戒壇の意義については、本宗の御歴代上人方が時に応じて分々の御指南を遊ばされてきたが、近年、浅井昭衛らのごとく、この本門戒壇の深義に異見を生ずる誹謗の輩が出来してきたために、第六十六世日達上人は、御相伝の法門によって本門戒壇の意義と内容を整理・体系化され、戒壇に関する教義の詳細を初めて明確にお示しくださったのである。今、その御指南を拝して、本門戒壇の意義を簡略に述べてみる。

戒壇に事義の立て分け

大聖人の仏法における戒法とは、爾前迹門の教法を捨てて独一本門の本尊を受持(この受持とは、むろん受持信行の意である)し、即身成仏を遂げることであり、天台の理の戒に対すれば事の戒となる。それは、天台の説く教法が迹門理の一念三千であるのに対し、大聖人は文底独一本門事の一念三千であり、しかも末法は今時においては、『上野殿御返事』に「今、末法に入りぬれば余経も法華経も栓なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書1219㌻)と説かれるごとく、いかに法華経に即身成仏の教はあっても、事実として即身成仏の利益を生ずるのは大聖人の南無妙法蓮華経に限られるからである。

さらに第二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』に「当流の意は事を事に顕わす」(聖典838㌻)とのお示しの意によれば、天台が理念的に法華経を受持するのに対し、事の一念三千の法体を事相の上に本尊として建立されていることもまた、天台仏法を理、大聖人の仏法を事とする所以といえよう(むろん事理の立て分けの正意は、教法の体そのものに理事の異なりがあることになる)。したがって、大聖人の顕わされた本門の本尊を受持し即身成仏を遂げていくことが、末法における事の戒法となるのである。

また、本門の本尊を受持ということであるが、最初に授戒を受けるのも、以後の修行も、すべて本門の本尊御安置の場所で行なわれる。その場所を戒壇といい、即身成仏の戒法を成就せんとする者は、必ず、この戒壇に詣でて信行に励むのである。

ところで、大聖人一期の御化導は、弘安二年十月十二日の大御本尊に極まる。この大御本尊こそ、末法の一切衆生即身成仏のための事の一念三千の当体にして、本門の本尊の窮極の実態にあらせられる。ゆえに、この弘安二年の大御本尊御安置のところ、すなわち本門事の戒壇であり、これに対すれば、天台宗延暦寺の戒壇は末法に無益な迹門理の戒壇となるのでる。
」と。

此処へ来て坊さんらは、またまた邪義を垂れ流しています。うっかりすると何の疑問もなく読み流してしまいそうですが、坊さんらは、「戒壇に事義の立て分け」と称して、わざわざ表題まで設けています。したがって此処では、本門の戒壇義を論ずる項であるにも拘わらず、俄かに、「天台の説く教法が迹門理の一念三千であるのに対し、大聖人は文底独一本門事の一念三千であり、しかも末法は今時においては、『上野殿御返事』に「今、末法に入りぬれば余経も法華経も栓なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書1219㌻)と説かれるごとく、」などと、上野抄の一節を持ち出し、あるいは日寛上人の文底秘沈抄の一節を釈するなどして、「天台が理念的に法華経を受持するのに対し、事の一念三千の法体を事相の上に本尊として建立されていることもまた、天台仏法を理、大聖人の仏法を事とする所以といえよう」などと、巧妙に問題をすり替えて得々としていますが、今、「の戒壇」と「の戒壇」の違いを論じている時に、何故に、次元の異なる天台の理の一念三千と大聖人様の文底下種事の一念三千の法体の違いを持ち出して、「この弘安二年の大御本尊御安置のところ、すなわち本門事の戒壇であり、これに対すれば、天台宗延暦寺の戒壇は末法に無益な迹門理の戒壇となるのでる。」となるのか、論理矛盾も甚だしいと指摘せざるを得ないのであります。

すなわち「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に、時の天皇陛下から勅宣を賜わり、御教書を申し下して(現代にあっては、国家意思の表明として国会の議決を経る)富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇のことを、唯一「事の戒壇」と云い、大聖人様がその御事を三大秘法抄に「事の戒壇とは」「一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。」とせられ、その戒壇を「事の戒法」と仰せ遊ばされているのであります。

日寛上人は、「事の戒壇」について、次の如く仰せであります。

云く、「夫れ本門の戒壇に事あり義あり。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処・義戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に『仏其の中に住す即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり』等云々、宗祖云く『此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん』云々」(南条殿御返事)と。

亦云く、「本門戒壇に事あり、理あり、理は謂く義理なり。是れ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当たるなり。経に云く『当知是処即是道場』とは是れなり。天台曰く『仏住其中即是塔義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等皆摘々書写の本尊を安置す、其の処は皆是れ義理の戒壇なり。(中略)次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ仏法王法に合して・・・・・事の戒法とは是なり』等云々。」(法華取要抄文段)と。

日寛上人の仰せられる「事の戒壇」とは、大聖人様から二祖日興上人へ賜わった、一期弘法付嘱書にお示しの「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」と御下命遊ばされた本門寺の戒壇の御事を指し給い、また、三大秘法抄の「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり」と御教示せられた広宣流布の暁の、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇のことを指しているのであります。

したがって、坊さんが説明する天台の法華経文上迹門の理の一念三千と、大聖人様の説かれる法華経本門文底秘沈の事の一念三千との法体の違いを挙げて、天台の教法を「」、大聖人様の三大秘法を「」とする法体の違を持ち出すなんて可笑しな話であります。日寛上人が法華主要抄で仰せられるごとく「是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ」と注意を喚起されている意味は、あくまでも、広宣流布以前の戒壇の大御本尊のおわします御座所は、校倉にあっても、土蔵にあっても、御宝蔵にあっても、あるいは奉安堂にあっても、「義の戒壇」と定義づけられているのであります。

思い出して下さい。昭和45年4月3日、本山の対面所で日達管長と浅井昭衛氏の間で交わされた「事の戒壇」について、日達管長は浅井氏の正論にねじ伏せられ、面目丸つぶれの情景を再現して見ましょう。

日達管長、「『大御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所即ち本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」

浅井、「本宗では従来、広布の暁に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それまでの大御本尊まします御宝蔵・奉安殿を『義の戒壇』と申し上げてきたのではないでしょうか・・・・・」

日達管長、「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事乃本尊です。だから、その御本尊まします所は事の戒壇なのです」

浅井、「お言葉ですが、『事の一念三千』の『』とは、文上脱益の理の一念三千に対して『』と仰せられたので、これは法体の上の立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『』と『』の立て分けとは、次元が異なるように思われますが・・・・・

日達管長、「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです」

「怒気を含む強い調子で同じ言葉を繰り返された」

浅井、「では、御遺命の事の戒壇はどうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」

「猊下は困惑の色を示してしばしば沈黙されたが、やがて意を決したように、広宣流布の時の事の戒壇は国立ですよと明確に云われた」

日達管長、「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです。」

浅井、「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達管長、「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます」

浅井、「猊下は明言された。そして最後に、『妙信講の信心に、私は負けました』とまで仰せられた。」とあります。

次に、この事の戒壇に対し、他の大聖人御認めの数多の御本尊、また日興上人以来御歴代の書写せられた御本尊の所住のところを、義の戒壇と申し上げる。それは、これらの御本尊は悉く根源の弘安二年の大御本尊の分身散体であり、根源に対する枝葉の関係にあたっているから、信行者が各寺院・家庭において御本尊に向かうところ、その意義は事の戒壇にあたり、即身成仏の戒法を成就する、すなわち義理が事の戒壇にあたるところから、あえて根源の事の戒壇と分けて説明するときには、義の戒壇と称するのである。」について

坊さんらは、次に「この事の戒壇に対し」としていますが、そもそも広宣流布以前には「事の戒壇」は存在していないのであります。それにも拘らず、坊さんらは事の戒壇が有ることにして義の戒壇を説明していますが、彼等が言う義の戒壇の説明についてはまんざら間違いではないものの、富士門流七百年の伝統教義の展開の上から説明するならば、正しく「義の戒壇」とは、広宣流布に至るまでの間、本門戒壇の大御本尊がおわします処を「義の戒壇」と称し、広くは、大聖人様が御認めになられた数多の御本尊並びに歴代上人書写の御本尊、あるいは各末寺の本堂に掲げてある御本尊の在所を「義の戒壇」と定義せられているのであります。依ってそれに付随する各家庭に於ける御本尊のおわします所を、富士門流では七百年の間、併せて「義の戒壇」と称して来たのであります。

それに対して、正しく「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に、勅宣並びに御教書を申し下して、富士山天母ヶ原に建立される最終の戒壇、即ち国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と称して来たのであります。

以上のような事の戒壇・義の戒壇の立て分けは、日寛上人の御説法を四十三世日相聖人が科段に分けてお書きになった『三大秘法・・・・大貳阿闍梨(日寛上人)御構の聞書』にも、「在々処々本尊安置の処は義(理)の戒壇なり」とされ、「富士山戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と示されているのである。」について

日寛上人の御講聞書を後年、日相上人が科段に分けてお書きになられたメモによると「在々処々本尊安置の処は義(理)の戒壇なり」とせられ「富士山戒壇の御本尊在所は事の戒なり」とお示しになられています。それによる「義の戒壇」「事の戒壇」の説明については、富士門流七百年の伝統教義を正しく継承せられたものでありますが、ここで注意を要する問題として「富士山戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と仰せられる意味は、広宣流布の暁の富士山天母ヶ原の国立戒壇の御事であって、現在の富士大石寺の奉安堂におわします戒壇の事を指しているのでは決してありません。したがって、現在奉安堂におわします戒壇は「義の戒壇」と称するのでありますが、それを坊さんらは、現在奉安堂におわします本門戒壇の大御本尊を「事の戒壇」と決め付けるから邪義というのであります。

さて、こうした事・義の立て分けによる根源の事の戒壇は、「御義口伝」に「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云ふなり。此を去って彼へ行くには非らざるなり。(中略)今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり。此れを道場と云ふなり」(御書1794㌻)と仰せの意、また御相伝の『戒壇御説法』に「戒壇の御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所すなわち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」とお示しであることから拝すれば、何時、いかなる場所であろうとも、根源の大御本尊を奉安格護申し上げるころが即、事の戒壇である。」について

坊さんらは、彼の日達管長が昭和45年4月3日、浅井昭衛との間で取り交わした事の戒壇に係わる対論の中で、卑劣にも、日達管長は、日開上人の御宝蔵説法本の一節を引用しながら、「それは日応上人のものですね。あれには省略されている部分が在る。これがその原本です。大事なものだから人に見せるべきものではないが、この中に、戒壇の大御本尊まします所は『事の戒壇』とあるのです」などと勿体ぶって、大切な御文を両手で隠しながら読み上げたものが「戒壇の御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所すなわち是れ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」と記された一節だったのでありますが、その御文の部分のみを見せて、戒壇の大御本尊おわします所は、いつでも何処でも事の戒壇という邪義を垂れ流す根拠にしていたのであります。いま、坊さんらは、まさしくあの時の日達管長の二番煎じをやってのけた卑劣な行為と指摘しておきます。

忘れてはならないのは、その前の御文には「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なること疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る」「戒壇の大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」云々と記された、大聖人様が南条抄の中で御教示下された御文を切り文にして「事の戒壇」を説明する根拠にしていますが、坊さんらは、今度は、傍線部分の最も大切な御文を切り文にして邪義を垂れ流しているのであります。これを称して、拙者は、日達管長の二番煎じと非難しているのであります。

つづく







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貴方(女)だったらどうしますか?

2017年07月23日 14時33分04秒 | 亡国の坂道 

妙信講は名誉ある立場と名前をかなぐり捨て、○○顕正会として華々しく国立戒壇の実現を目指して再出発したものの、顕正会の将来に目を転じたとき、次代を託すべき草創期の大半の幹部は首を切られ、あるものは病に倒れ、またある者は自発的に身を引く者等々で不幸な事に全滅してしまいました。いま残るところの幹部を指折り数えて見ても、血縁者以外はいつ首を刎ねられるか累卵の如き危うき存在であります。仮に、血縁の者が後継者に選ばれたとしても、彼が、師と仰ぐべき者が存在しない教団の先行きは、軌道を大きく外れてしまう事は避けられないものと思われます。

蓮盛抄には次のように記してあります。「止観に云はく、『師に値はざれば、邪恵日に増し生死月に甚だしく、稠林曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し』云々。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧ろ輙く自己を本分とせんや」と。

斯く仰せのように、富士門流の教義を学びそれを正直に実践に移すと云えども、現実にそこに師がいなければ、知らず知らずのうちに自己の知恵を中心として法を見るゆえに曲りを生じ、自己中心の信心に陥って、邪見が日ごとに増長すると云うことであります。

一方宗門の方は、六十六世を継いだ日達管長以来、三大秘法の中の根本教義であるところの、本門戒壇の大御本尊様の御座所たる戒壇義を歪曲し、戒壇の大御本尊のおわします所は、「いつでも、何処でも、事の戒壇」等という邪義が一山を覆いつくし、それによって究極の目的であった広宣流布はぼやけ、僧俗信徒は養老集団のごとき覇気のない存在に成り果て、遂には、全ての僧俗信徒は広宣流布への気迫と目的を失い、一切の功徳を失ってしまいました。

そうした中で、法華講員も、顕正会員も、心ある者は今後の進むべき道を逡巡しながら我が身の置き所として、①今後、法華講員として信心を続けるかどうか迷っている。②法華講員として今後も信心をつづける。③宗門の成り行きに身を任せる。④それでも顕正会は正しいからこのまま顕正会で信心をつづける。⑤顕正会の成り行きを見守る。⑥顕正会は辞める。⑦宗門に所属変えして信心を全うする。⑧何処にも所属しないで自分一人で信心を続ける。⑨信心はこりごりだから、今後一切信仰はしない。等々さまざま事を考えておられる方もいらっしゃるものと思われますが、あなたの場合は、いずれの道を選択なさいますか?

拙者は賤身を顧みず宗門の教義歪曲を非難し、合わせて顕正会の変身も指摘してまいりました。しかしながらそれによって、大切な信心に迷いを生じた方も少なからずいらっしゃるものと思います。そこで、これまでの罪滅ぼしとして、今後の在り方として双方の組織に所属する方々の中に迷いを生じた方々にお勧めするものとしては、法華講の方には、②を選択されますことをお勧めします。また顕正会の方には、⑦を選択されますようお勧めします。

その理由として、如何なる事があっても本門戒壇の大御本尊様のおわします所を選ぶべきであります。現今の宗門は三大秘法義を歪曲し、国立戒壇を目の敵にしていますが、その間違いは速やかに正さなければなりません。冒頭に指摘した如く宗門は教義歪曲により信徒は一切の功徳を喪失してしまいました。本年はまた、福岡・大分・秋田など、いわゆる自然災害の多発により多くの人々が家を失い、また数多くの行方不明者や死者が出るという大災害に見舞われております。さらには北朝鮮の核ミサイルによる脅迫と戦乱の危機が年々深刻さを増す中で、身の処し方に不安をおぼえるような激動の時代を迎えています。まさしく世情は立正安国論で仰せどおりの世相となってまいりました。この根本原因こそ、正系門家日蓮正宗の教義歪曲に起因しているのであります。そうしたなかで宗門はその重大性に全く気が付いていないのか、その責任のすべては、創価学会の大謗法と邪教の存在に責任を転嫁し、平然と構えているのでありますが、火急を要する問題として、一刻も早く正系門家の教義歪曲を正し、世情の闇を晴さなければなりません。

只救いになるのは、期待を越えて正系門家を誇る宗門の僧侶の中には幸いにして、大聖人様の御本願たる国立戒壇の正義を一刻も早く取り戻すべき、と考えている御僧侶が少なからず存在するとの話を耳にしました。

闇が深ければ深いほど暁は近いと云われています。早晩大聖人様の御計らいにより、時が到来するならば客観情勢は一気に変わり、正系門家の教義歪曲は瞬時に正常な姿に蘇ることになっているのであります。その時の到来を密かに期待しつつ、それまでは隠忍自重して、大聖人様の御本願は広宣流布の暁の国立戒壇にありと胸に固く閉まって頑張って行くしかありません。大聖人様の御本願成就を目指して日夜信心に励む者には、日々の生活の中に思いもよらない、妙々甚深の大功徳が生ずるのであります。

妙信講の浅井昭衛氏は講員との固い約束を破り、外へ飛び出して名前を変えて再出発したとは云え、顕正会には、本門戒壇の大御本尊様と師匠と仰ぐべきお方がおわしまさぬ故に、「師に値はざれば、邪恵日に増し生死月に甚だしく、稠林曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し」云々との仰せが、現実となるのは火を見るより明らかなのであります。






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同じ邪義を繰り返す坊主と顕正会の誤り

2017年07月17日 05時04分21秒 | 亡国の坂道 
元々本ブログは、富士門流すなわち日蓮正宗がニセ戒壇正本堂の建設以来、「摧破異流義孝」誌に垂れ流してきた邪義を粉砕する目的で始めたものです。この度(P.22~24)記載されている内容も、今まで垂れ流してきた邪義の繰り返しでありますが、堂々巡りのような重複した内容に辟易している方も多くいらっしゃるものと思われますが、それは、掲載内容に沿って論を進める関係からやむを得ない事情があります。その辺の事情をご賢察の上、お付き合い頂ければ幸いであります。なお、注意を要する処は赤文字を使用し、破折箇所については、太文字で表記し、それらの間違いを破折することにしました。

ーーーー浅井昭衛一派の妄説を摧くーーーー

                             昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号

      摧破異流義孝

はじめに

宗祖大聖人は、『三大秘法抄』に、「所説の要言の法とは何物ぞや。(中略)実相証得の当初修行し給う処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(御書1553ページ)

「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり

原文は「口決相承せしなり」となっています。可笑しな日本語ですね。御書全集・平成新書が間違っています。坊さん、しっかりしなさい。

今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり」(御書1595ページ)と仰せられ、三大秘法(本門の本尊と戒壇と題目)が久遠(実相証得のと当初)より常住する法であること、そして、それは大聖人の御一身即本門の本尊の御当体に具備することをお示しである。ゆえに、我が日蓮正宗においては、古来、本門の本尊なかんずく宗祖出世の御本懐たる弘安二年の大御本尊を、「三秘総在」とも「一大秘法」とも申し上げ、信仰の根本として尊崇申し上げているのである。しかるに、浅井昭衛なる増上慢の一在家が(昭和四十九年に日蓮正宗より破門)率いる一派が、この三大秘法総在の深義を弁えず、御先師日達上人・御当代日顕上人猊下の戒壇に関する御指南に異議をはさみ、宗門を誹謗中傷し続けている。彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、哀れ、彼らの末端は浅井から全てを知らされておらず、浅井らに煽動されるまま、目の色を変えて会員増やしに狂奔しているのが現状である。について

坊主らは、「彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、等とまことに威勢の良いことを書き連ねていますが果たしてそうなのか、それでは拙者がここで坊主らの重複する邪義を破折することにします。

御本仏日蓮大聖人様の嫡流を誇る日蓮正宗は立宗より七百年の間、宗旨の根本教義であるところの三大秘法の「戒壇義」は、広宣流布の暁に勅宣・御教書を賜わり、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と称してきたのであります。ながい歴史の中で、さまざまな法難の風雪に耐えながらも一点の濁りもなく、国立戒壇思想は、清く正しく連綿と伝持されてきました。

ところが、第六十六代目の貫首職を継いだ日達管長の時代になると、日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会の政治進出が発端となり、世間の国立戒壇に対する非難・中傷を和らげる目的から、三大秘法の戒壇義がとんでもない形に歪曲される事になったのであります。すなわち、「戒壇の御本尊のまします所は、いつでも、何処でも、事の戒壇」という邪義であります。

富士門流不世出の中興の祖として仰がれている彼の日寛上人云く、「義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇にあたるなり。・・・・故に当山は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)と、御教示であります。日寛上人は、義理として事の戒壇、即ち、広宣流布が達成されるまでの間、戒壇の御本尊様のおわします所は、「義の戒壇」と御教示なのであります。

この御教示を受けて、第五十九世日亨上人は、「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する。」(富士日興上人詳伝)と仰せであります。

かつての日達上人も、宗門古来の戒壇義の伝承にしたがって、次のような正論を展開していたのであります。

云く、「広宣流布を待ってはじめて本門寺建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立という事になるのでございます。それまでは戒壇の大御本尊をおしまい申し固く護る。先師方が客殿の後(うしろ)の奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すという事を仰せられて居ります。我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までしまっておくということになる。---- 戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。ーーーーお出ましは、先ほどから申す所の、いはゆる広宣流布の暁である」(大日蓮 昭和34年9月号)と。

つづけて云く、「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進されんことを願うものであります。」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

また云く、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります。」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところが日達管長は、信徒団体の創価学会が施す身に余る奢侈に溺れて、昭和47年10月12日の完成を目指して、総本山の境内のはずれに建設することになった、ニセ戒壇正本堂を指して、この建物が広宣流布の「事の戒壇」などという邪義を吹聴し、前代未聞の、とんでもない邪義が広く宣伝されることとなったのであります。

云く、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」(大白蓮華 201号)と。

富士門流七百年の間、今まで聞いたこともない、こうした、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」あるいは、「戒壇の御本尊まします所は、いつでも、何処でも、事の戒壇」という邪義に異を唱え、清浄の聖地が大謗法のキリスト教神父の土足で汚され、曲り往く宗門の教義歪曲を糺そうと、身を捨てて大聖人様の御本願たる国立戒壇の御遺命守護に立ち上がったのが、浅井甚兵衛氏の率いる妙信講だったのであります。当時妙信講の本部長を務めていた浅井昭衛氏は、昭和45年3月25日付けで、第一回諫暁書として、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を著わし、日達管長はじめ、創価学会首脳12人に送付したのであります。

それに驚いた日達管長は4月3日、さっそく妙信講の浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛本部長の二人を本山の対面所に招き入れ、緊張のあまり苦笑いともつかない浮かぬ顔を引き攣らせて、諫暁書を片手にかざしながら席に着くやいなや、開口一番次のような発言をしているのであります。以下「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」を引用

日達管長、「よく書けていますね~、誰にもこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません。」

日達管長、「この中の引用の先師の『御宝蔵説法』は日応上人のものですね。あれには略されている部分がある。これがその原本です。大事なものだから人に見せるべきものではないが、この中に、戒壇の御本尊まします所は、『事の戒壇』とあるのです。」

浅井、「甚だしい非礼僭越とは思ったが、ことは重大である。私は敢えて、『お見せいたでかますか』と願い出た。」

浅井、「猊下は、『大事なものだから全部は見せられないが』と、前後の文を両手で隠しつつ、その部分だけを見せて読み上げられた。」さすがに日達管長、やる事が卑劣、せこいですね~

日達管長、「『大御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです。」

浅井、「『原本』といって示された毛筆の本は、日応上人の御筆跡ではなかった。いずれにしても、文の全体を拝見しなければ部分の文意はわからない。」

浅井、「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命戒壇を『事の戒壇』といい、それまで大御本尊のまします御宝蔵・奉安殿を『義の戒壇』と申し上げてきたのではないでしょうか・・・・・」

浅井、「猊下は瞋りの色を面に表し」

日達管長、「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊のまします所は事の戒壇なのです。」

浅井、「お言葉ですが、『事の一念三千』の『事』とは、文上脱益の一念三千に対して『事』と仰せられたので、これは法体の上の立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『事』と『義』の立て分けとは、次元が異なるように思われますが・・・・・」

日達管長、「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです。」

浅井、「怒気を含む強い調子で、同じ言葉を繰り返された。」

浅井「『しかし、いつでも、どこでも事の戒壇』となれば、御遺命の戒壇と正本堂の区別がつかなくなる。最も重大な核心はここにある。私は詰めてお伺いした。」

浅井、「では、『御遺命の事の戒壇』はどうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか。」

浅井、「猊下は困惑の色を示してしばしば沈黙されたが、やがて意を決したように『広宣流布の時の戒壇は国立ですよ』と明確に云われた。」

浅井、「重ねて念を押させて頂いた。」「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね。」

日達管長、「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです。だから私は正本堂について『須弥壇の形にする』と説法したのです。」

浅井、「やはりこれが細井管長の本心であった。だが、この本心を宗門で知る者はいない。全信徒は正本堂を御遺命の戒壇と思い込んでいる。私は申し上げた。」

浅井、「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達管長、「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます。」

軽いですね~、そんなに簡単にやす請負なさって、大丈夫なんですか~、いずれにしても、日達管長が日応上人の毛筆の御宝蔵説法本として、両手で文言の大切な所を隠しながら浅井氏に見せたお書き物は、第六十世日開上人(日顕管長の父)の毛筆による御宝蔵説法本だったのでありますが、それには、「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なること疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」云々と。南条抄の御文を引用された一節が記されてあったのでありますが、日達管長は、傍線の所を両手で隠して浅井氏に見せていたのであります。

すなわちに日開上人の御意は、広宣流布の暁に天皇陛下から勅宣を賜わり、御教書を申し下して、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を大前提として、その戒壇の大御本尊様が、今眼前におわしますからには、未だ国立戒壇は建立されていなくても、そこへ参詣する者の功徳は、天母ヶ原の事の戒壇に詣でた時の功徳と全く同じである事を、「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられたのであって、戒壇の大御本尊のおわします所が、直ちに、事の戒壇と仰せられたものではないのであります。

日達管長と浅井氏は4月3日、上記のようなやり取りをした時、浅井氏の正論にねじ伏せられ、邪義を完全に粉砕されているのであります。面談の席で教義歪曲を浅井氏から指摘されて、「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます。」などと他人ごとのような軽い言葉を返して体裁を繕っていますが、邪義の元凶は日達管長その人だったのであります。あの時、邪義を粉砕された無念の怨みを晴すつもりか、その舌の根も乾かぬうちに、日達管長は、法華講の青年部員をあつめて、国立戒壇と浅井昭衛氏をあしざまに罵った文章を読み上げながら、陰にかくれて浅井氏の悪口を並べ立てていたのであります。

云く、「浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、〝私が浅井親子だけに内意を打ち明けた〟などと宣伝しておるのであります。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになっています。何も知らない人達を〝国立戒壇こそ法主の内意である〟などとあざむくことは、卑劣この上ないやり方であり、ことは私の名誉にもかかることであり、放置しておけば、宗門のみならず世間までも騒がせる結果になりかねませんので、私は断固措置をとります。」(大日蓮 昭和50年9月号)などと。

断固措置をとる筈の話は口先だけで、その後再び法華講の青年部をあつめて、「大聖人の教えが国立戒壇ならば、その人は世間に向かって言えばいいのです。新しく宗旨を建て、国立戒壇宗というものを建てたんだといって、世間をどんどん折伏して広げて下されば結構だと思います」等と云って、半分投げやりな話に終わっているのであります。

猊座に登られた直後の正論は、次のように変貌したのであります。云く、「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない。」(創価学会第33回本部総会)等と。

また云く、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 201号)と。

追従して阿部教学部長云く、「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大洸明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

つづけて云く、「戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇である」(本門事の戒壇の本義 昭和51年2月刊行)と。

此処で坊主らがいう、「三大秘法総在の深義を弁えず」とは、何の事はありません。一大秘法の本門戒壇の大御本尊様を三秘・六秘と開いた場合の戒壇義は、「事」と「事」の戒壇となり、「義」の戒壇は絶対に存在しないという邪義であります。

また、「彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もない」などと虚勢を張って勝ち誇っていますが、それは真逆な話で、4月3日の日達管長と浅井昭衛氏のやり取りを見るかぎり、日達管長と阿部教学部長の吹聴する、「御本尊のおわします所は、いつでも、何処でも事の戒壇」という邪義は、完全に破折されてしまったのでありますが、日達管長と阿部教学部長の二人は、ニセ戒壇正本堂の建設にかこつけて、前代未聞の邪義を垂れ流しつづけ、宗門古来の伝統教義を完全に破壊してしまったのであります。

いわゆる、「事の戒壇=富士山天母ヶ原の国立戒壇」を「事の戒壇=大石寺境内のニセ戒壇正本堂」とすりかえてしまったのであります。

阿部教学部長云く、「天母山の問題がありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)と。

日寛上人云く、「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し」(寿量品談義)と仰せになられ、何百年も前から彼等の垂れ流す邪義を前もって破折されているのであります。

まさしくこの頃の日達管長は、浅井昭衛氏に会えば宗門古来の正義を取り戻し、池田に会えば池田の邪義に同調して、進んで邪義を垂れ流すという、まさに風にそよぐ芦のようだったと揶揄されています。

亦あるときは国立戒壇を否定して、悪ガキの捨て台詞のような言辞を垂れ流しているのであります。

云く、「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は、理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在この戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実の世界に於いて我々は信心の誠を捧げていかなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)と。

上記のような言辞を猊座にあったお方が発せられた言葉とは、とうてい信じがたいのでありますが、拙者は、日達管長の大聖人様に仕え奉る信心を疑いたくなるのであります。それと合わせて当時、宗門には約一千名の僧侶がいたにも拘わらず、日達管長のこうした妄論をたしなめる僧侶はみな口を閉ざし、一人として存在しなかったのは、これまた不思議であります。ついでにいえば、日達管長の教義歪曲と独走を許し、宗門の曲りを止められなかった全ての責任は、僧侶ひとり一人が負わなければならないのでありあす。

日達管長のいう、「現在この戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう。」あるいは、「何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、いったい誰に向かって、こうしたはしたない下卑た言葉を発しているのでしょうか。

日達管長は、御本仏大聖人様が三大秘法抄で仰せの、「事の戒壇」が単なる「理論上のこと・・・・」等という浅ましい発言をしています。これを黙って聞き流すことができますか! これは嗤うべき没論理であり、詭弁、妄論の最たるものであります。また妙信講はこの時期、国立戒壇を捨てないという理由で、五年間に亘り神聖なご登山が禁止されていたのであります。

謗法与同が極に達した日達管長は、年来の心臓病の悪化が高じて、この年の春頃から近くのフジヤマ病院に入院して治療に専念していたところ、昭和54年7月22日の未明、仏罰の故か、誰もいないところで激烈な発差に見舞われ、七転八倒の苦しみの中に多臓器不全を併発し、あっけなく黄泉の国に旅立ってしまったのでありますが、拙者は信徒のはしくれとして、日達管長の余りにも厳しい臨終の最期に、同情の念を禁じ得ないのであります。願わくば、臨終に至る前に、些かなりとも富士門流の正義を取り戻されて、善き臨終を遂げていただきたかったと思っています。

しかも、厚顔無恥といおうか、日蓮正宗から破門されていながら、なお、日蓮正宗を詐称し、勝手に顕正会などと名乗っている。(※平成八年以降は宗教法人を取得し、「冨士大石寺顕正会」と自称している)ため、構成員のほとんど大半は、この一派がすでに即身成仏の血脈の断絶した、異流義の門外漢と成りはてていることに全く気付いていない。これを、このまま放置すれば、彼らのみならず多くの人達が成仏への道に迷う結果となるは自明である。そこで、これまで浅井一派が当方との誌上法論を逃げている経緯(『暁鐘』昭和五十九年一月号にに詳しい)や、浅井と息子の克衛が苦し紛れの讒言を吹聴している現状(顕正会機関誌「顕正新聞」昭和六十三年九月二十五日号に代表される)を鑑みて、この際、彼らの妄説の根源を一気に摧破すべく、小稿を起こすことにした。なお、この内容の大半は、別段、目新しいものではない。すでに何年も前に『暁鐘』誌上に掲載せる小論等を、何も知らぬ浅井一派の末端会員に、一篇に集め、加筆し、まとめ直したものである。について

話は前後しますが、当時の妙信講は、広宣流布の暁の、「国立戒壇」が、大聖人様の終窮究竟の御本願であることを誰よりも固く信じ奉り、御遺命守護に命を懸けて闘う、富士門流唯一の正しい講中だったのでありますが、ニセ戒壇正本堂も完成し、宗門の邪義が一山を覆い尽くす中で、一人妙信講の存在は、目の上のたんこぶのような邪魔な存在になってきたのであります。宗門は池田の意を受けて、妙信講に何かにつけて陰に陽に様々な嫌がらせや妨害の限りを尽くし、昭和49年8月12日、遂に、講中解散処分を内容証明郵便で通告してきたのであります。

解散宣告書には次のように記されていました。

宣告書 講頭 浅井甚兵衛

「主文、講中解散に処する。右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などをおこなった。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許しがたいものである。従って、七月三十一日をもって弁疏の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする理由は見当たらず、また情状酌量の余地も全くないものである。よって、宗規第百六十四条(旧第百六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。」 昭和四十九年八月十二日   日蓮正宗管長 細井 日達

それでは此処で、昭和四十七年四月二十八日に発布された彼の有名な訓諭をお改めて拝見することにします。

云く、「さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起こせる正本堂はここに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。日達、この時に当たって正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護借建立は、未来において更に交布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期されんことを」と。

ここで猊下の発せられた訓諭に些かもケチを付けるつもりは毛頭ありませんが、それにしても池田大作に対するリップサービスとは言え、酷い訓諭を垂れたものです。大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる事の戒壇について、「三大秘法抄の意義含む現時おける事の戒壇」とか「未来において更に交布への展開を促進」等とされていますが、「事の戒壇」に「現時」あるいは「未来・・・」とかの区別がある筈はないのであって、何とも掴み所のない矛盾だらけの言辞を並べていますが、どこを探せばニセ戒壇正本堂が、三大秘法抄の意義を含んだ建物だというのでしょうか、広宣流布の暁の本門事の戒壇とは、そんないい加減な曖昧なものではありません。更には、「未だ謗法の徒多きが故に」または「八百万信徒の護借建立」などといった訓諭なるものは、未だ広宣流布は達成していないことを自ら認めた事になっています。

それに恥も外聞もなく、「宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」等と豪語したものの、ニセ戒壇正本堂は、建築からわずか二十六年にして、跡形もなく解体撤去を余儀なくされているのであります。此処で云う後代の誠証とは、後代の誠の証明という意味になりますが、よくぞこんなデタラメな訓諭を発する事ができたものよと思うばかりでありますが、皮肉にも、鳴りもの入りで建てた正本堂なる建物は、ニセ戒壇であることを、後代の誠証とする羽目になってしまいました。

改めて三大秘法抄の事の戒壇義を拝見する事にします。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つべきのみ事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。

また、「七月三十一日をもって弁疏提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする理由は見当たらず、また情状酌量の余地も全くないものである」等としていますが、ここで浅井会長の反論を見ることにします。

云く、「文書配布におよんだことは処分に該当するゆえ、弁疏を提出せよとの通告が来た。『弁疏』とは〝云い分け〟である。御遺命を守護する者が、御遺命を破壊する者に云いわけをする必要がどこにあろう。ゆえに私は『弁疏』のかわりに、宗務当局の無道心を強く責め懺悔訂正を迫る書状送った。これで処分は当然と思っていたところ、この書状を見た早瀬総監・阿部教学部長は細井管長に辞表を提出し、いずくかに姿を消してしまった。御本仏の御遺命に背くことの恐ろしさを、肌身に感じたのであろう」(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)と。

「辞表を提出して姿をくらました二人は、密かに有馬温泉に逃げこんで身を隠し、ほとぼりの冷める二週間の間、毎日お湯に浸かって酒を飲み、温泉旅行を楽しんでいたとの事でありますが、二週間もの間毎日お温泉に浸かって酒を楽しんでいれば、坊主頭の彼等は、茹でダコそっくりになっていたものだろう。」と会場を笑わせていました。

解散宣告書を受け取った直後の8月20日、ただならぬ緊張感の中で、妙信講は豊島公会堂において急遽臨時幹部会を開催し、浅井昭衛本部長は次のような、歴史的な宣言をしています。云く、「妙信講は断じて解散せず」と。

「今晩は、ついに大きな山場を迎えました。五月の第十六回総会で御遺命守護を誓い、『徹底してその悪を断ち、国立戒壇を宗門の公論とする』と決意して以来、この事あるをすでに覚悟しておりました。いやこのような事態が出て来なければ妙信講の御奉公は本物ではないとすら思っておりました。『徹底して悪を断つ』には、悪をおもてに出さなければなりません。いよいよそれが出てきたのであります。思えば、講中解散ということは、妙信講にとって死罪を意味する。およそ宗門七百年の歴史において、大聖人の御遺命を正しく守って解散させられた講中がどこにありましょうか。

御遺命を曲げ、キリスト教の神父を正本堂に招いた者はほめられ、条理を尽くし身命も財も抛って法を守る者は死罪に処せられる。まさしく、『末法濁悪の未来』との仰せが、まず正系門家の中に現われてきた、いよいよ広宣流布・国立戒壇建立の日近い前兆であります。へらぬ口のようでありますが、御遺命たる国立戒壇の正義を守って死罪に処せられるなら、これに勝る喜びはないと私は思っております。

だが、妙信講は今の腐った宗務院につくってもらったのではない。昭和三十二年八月三日、先代御法主・日淳上人の命により出発した講中であります。日淳上人は『法華講とは墓檀家のことではない、熱原の伝統を継ぐものである。妙信講は闘う法華講となって御奉公せよ』と講頭先生はじめ数名の幹部を本山に招かれ異例の認証式を行ない、自ら辞令をくだされたのであります。

日淳上人は宗門の将来を憂えておれれた。果たして将来、学会の横暴を押さえられるか、今日の宗門になることを深く憂えておられた。妙信講は宗門のかかる時に身命を賭して御奉公すべく、日淳上人によってつくって頂いた講中でありますれば、このように腐った宗務院の命令においては、妙信講は断じて解散いたしません。」(大拍手)と。

浅井本部長は、当時、一万二千の妙信講員との間で、固い固い約束を取り交わしているのであります。

ところが坊主が指摘するとおり、浅井昭衛氏は昭和57年10月9日、講員との固い約束を一方的に破棄し、突如として妙信講名を、「日蓮正宗顕正会」と教団名を改め、外へ飛び出してしまったのであります。日淳上人から信徒団体として講の認証式まで開いて戴き、「熱原の法華講の命を継ぐ闘う法華講となって御奉公せよ。」との懇請にも似た激励を賜わりながら、その名誉ある立場と、尊い名称をドブに捨てて、事実上妙信講は解散し、僧侶の存在しない新興の在家教団として再出発したのでありますが、浅井本部長の最大の誤りは此処にあったのであります。

浅井本部長は臨時幹部会の席で、「妙信講は断じて解散いたしません」等と、一万二千の講員との間で交わした固い約束は完全に破られ、見事に反故にされたのであります。そればかりか、平成8年1月25日には新しい宗教法人資格を取得し、総幹部会の席上、今度はまたまた、「冨士大石寺顕正会」と再び名称を改めて今日に至っているのでありますが、ほとんどの顕正会員は、内の妙信講員の立場と、外の顕正会員の立場の違いがまるで理解できていないのであります。

現在の顕正会員は、妙信講の延長線上にある存在などと確信し、疑念を持っている者は一人もいないようであります。それは、浅井昭衛氏自身が本気でそう思っているのかも知れませんが、それこそが大きな間違いなのであります。その立場の違いを分かり易く説明するならば、妙信講は宗門の中で名誉ある存在として、また、日蓮正宗の信徒として堂々と信心活動ができたのであります。しかし、別法人を作って外の顕正会員となってしまった以上、彼等はその瞬間から日蓮正宗の信徒ではなくなっているのであります。要するに日蓮正宗とは完全に袂を分かちた、別の宗教法人に所属する存在となってしまったという事であります。

これは僧侶の居ない別の宗教法人組織に所属する事になった者が、別法人の御本尊を拝み、別法人の教義を真似て本流は自分達の方だと騒いでいるようなものです。

思い起こせば、ここに至るまでの妙信講の激闘の歴史を振り返れば、宗門内では次のような事が囁かれ、宗内を二分するような動きさえあったのであります。それは、宗門僧侶の中でも、〝妙信講の言っている事が正しい〟と言いだす者が続々と出てきたのであります。

上記に見るように、ニセ戒壇正本堂以来、日達管長・阿部教学部長他数人を除いて、妙信講と宗門僧侶との関係は、決定的な亀裂はなく、むしろ多くの僧侶が妙信仰の主張を高く評価し、陰ながら妙信講に親しみを持って応援していた僧侶も数多くいたのであります。

その動きを敏感に感じ取った日達管長は、全僧侶を集めて、「僧侶の中で未だ『妙信講のほうが正しい』などと云って、若い者を指導している者があるのは、まことに残念だ。」(大日蓮 昭和51年7月号)などと、日達管長を嘆かせているのであります。

つづけて、「今の若い人達の中には妙信仰の宣伝に染まった人もあると聞いております。また『国立戒壇が正しいのであって、宗門が間違ったんだ』というようなことを云ったというひとのことも聞いております。(そのうような人は)どんどんやめて頂いて妙信講へ行って結構です。妙信講でも僧侶が少ないから募集しているでしょう」(大白法 昭和54年6月16日号)と。

教団名を二度も変えて、冨士大石寺顕正会なる宗教法人を設立して会長職に治まった浅井昭衛氏は、会員の志気を鼓舞する時の常套句として、「広宣流布の暁には、天生ヶ原までの四キロの道のりを顕正会全員で涙の行進をしたい。」あるいは、「広宣流布が成就するの日、全顕正会員は富士大石寺に詣で、全員で、光り輝く御生骨を紅涙の中に拝見させて頂こうではありませんか。」(平成28年4月25日顕正新聞)などと叫んでおられますが、果たしてそんな事が可能なのでしょうか? 浅井会長はなにか、大きな勘違いをなされているのではないでしょうか。

拙者は何も数の事を言っているのではありません。そもそも日蓮正宗の信徒でなくなった他門流の者が、御生骨を拝観したり、大石寺に詣でることが可能なのか、何か、悪い夢でも見ているのではないでしょうか。浅井会長が様々な希望を織り交ぜて、会員の夢をかき立てている願望は、日蓮正宗の信徒でなければ実現不可能な事柄なのです。

いま宗門は、顕正会のことを指して二言目には、「富士大石寺を詐称するサル真似集団」などと揶揄し、「国立戒壇しか能がない」等と悪口中傷しているのであります。一方顕正会のほうは宗門を目の敵にして、故日達管長ならびに前日顕管長二人の大謗法をやり玉に挙げ、非難中傷合戦を繰り広げ、双方の争いがいつ収束するとも分からない常態の中では、如何なる願望や夢を語っても、実現性のないはかない夢物語で終わることを知るべきであります。

富士門流の古の言い伝えとして広宣流布の暁には、日本の皇室に、御開山日興上人の後身が、本化聖天子として御出現されて勅宣を発せられて国立戒壇が建立され、宗門には第三祖日目上人が、一閻浮堤の御座主として再誕せられて世界の安寧を御祈願なされると聞きおよんでおりますが、顕正会はその時、如何に対応するつもりなのでしょうか、尊貴なお二方とも依然として反目を繰り広げるつもりなのでしょうか?

いま顕正会は、会員数二百万人は目前、カウントダウンに入ったなどとして、会員獲得に気勢を上げて全国規模で会館を建て、日布上人のお筆による紙副の御本尊を大量に複写し、国立戒壇を目指して日夜奮闘しているようですが、あれ以来、僧侶は一人も存在しない歪な在家集団となってしまいました。

講中解散処分を受けた妙信講が顕正会となって、三大秘法の広宣流布を成し遂げる。果たしてそうした前代未聞の壮大な大事業が、顕正会の手によって実現するのでしょうか、大いに疑問の残るところであります。

過ぎ去った過去を回想しても何も始まりませんが、妙信講は絶対に解散してはならなかったのであります。仮に、不都合があるならば、妙信講は妙信講のまま、宗教法人格を取得し、内に有って諫曉団体として僧侶と学会員を折伏し、妙信講の主張する国立戒壇に賛同する御僧侶に対しては、寺院を建てて御供養に励み、真の僧俗一致を貫けば良かったのであります。

妙信講が内に有って、国立戒壇の旗を高らかに掲げて御遺命守護に闘っていたなら、今日のような、「富士大石寺を詐称するサル真似集団」などといった、恥ずかしい嘲りや非難が巻き起こる事は決してなかった筈であります。かつて妙信講が内に有った時、数多くの僧侶が陰ながら妙信講の主張に耳を傾け大いに賛同の意を示し〝妙信講の言っている事が正しい〟として、本山を二分するような動きに、日達管長を狼狽させ、嘆かせていた事さえあったのであります。

しかしながら顕正会の浅井会長は、宗開両祖あるいは日目上人、日寛上人等の上代の高僧を除いて、現代の僧侶を端から小バカにし、幹部の首を簡単に切りまくる傲慢な性格は性癖の故か、如何ともしがたいものがありますが、浅井会長は残念を通りこして、支部長全員の首を切り、支部制を廃止すると同時に壮年部を廃止して、年老いた壮年を若い男子部組織の中に混在させる等々、再び取り返すことのできない大きな誤りを犯しつづけているのであります。





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キリストの教神父を招いた理由は本宗の伝統精神なんだぜ!

2017年06月05日 04時15分07秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.19~21)に、「四、キリスト教神父云々について」と題して、堕落した坊主らは、またまた呆れ返るような言い訳と邪義を垂れ流しています。

云く、「浅井等は、『正本堂の完工式には、キリスト教の神父が邪法の法服を着て出席した。これは邪宗邪義を容認する謗法行為である。』等と大石寺を非難する。しかしながら、正本堂完工式は、大御本尊を正本堂に安置申し上げる前に、建物だけを披露する形で行われたもので、出席については、建設工事関係者・地元市関係者・報道陣・駐日各国外交官等、要するに信仰上の立場を離れた社会的立場・資格ににおいて参加を認めたものだった。その中に、バチカン大使館からの強い希望で参加した、バチカンの駐日外交官二名がいたのである。

これを指して浅井等は、『キリスト教の神父が』云々と非難しているわけだが、こうした社会的・世間一般的な意味で本宗の境域へ参詣してくる場合には、いかに謗法者とはいえ、将来の順延に通ずるものであるから禁制すべきではない、というのが第九世日有上人の『化儀抄』や五十九世日亨上人の『富要集』等にも示されている、本宗の伝統精神なのである。その旨、大石寺では再三にわたって浅井等を諭したが、何としても自らの非を認めまいとする頑迷な浅井等は、これを社会的立場の参加ではなく宗教上の立場の参加であった、と強弁して『邪法の法服を着て』等と言い出したのである。

これとて、専門家の指摘によれば、バチカン外交官が著ていたのは、単なるローマンカラーと背広であり、いわゆる法服・祭服などではないということだから、まったくお話にならない。浅井等の大石寺非難などというものは、所詮、この程度のものであるという、よい実例である。ともあれ、今日の浅井一派は、『日蓮正宗』や『富士大石寺』の名を詐称し、あたかも大石寺の認める正しい組織であるかのごとく装っているが、実態は、以上述べてきたような妄説に基づいて日蓮正宗富士大石寺を誹謗し、創価学会と同様、御法主上人猊下を口汚く罵って、僧侶不要の在家仏教路線をひた走っているのである。(むろん、個々の会員が顕正会を脱会し、正宗に帰伏することについては、別な話だが)。その現実を盲目的な会員達に知らしめ、折伏していくことが肝要であろう。」等と。

上記のように坊主らが必死になって言い訳をしています。正本堂の完工式の法要に参加したキリスト教神父は、「バチカン大使館からの強い希望で参加したのである。」等と苦しい言い訳をしていますが、真に、正本堂の完工式を開催するだけの式典ならば、坊主らがいうように、建設工事関係者・地元市関係者・報道陣等、要するに信仰上の立場を離れた社会的立場の者だけの参加に制限すれば良かったのであります。それに屁理屈の上塗りをして、「バチカンからの参加したキリスト教神父は、外交官として出席した」などと屁理屈に屁理屈を重ねた言い訳をし、問題を政治・外交の問題にまで広げて開き直っていますが、単なる正本堂の建設をお祝いするだけの式典ならば、たとえニセ戒壇正本堂の完工式だろうが、こけら落としの法要だろうが、事もあろうに、外道のキリスト教神父を、謗法禁断の正系門家の聖域に招き入れて、御本仏大聖人様の御顔に泥をぬりつけ、自らの謗法行為を正当化しているのでありますが、こうした思い上がった無神経な行為は極限の大謗法を犯している事となり、後々に取り返しのつかない災いを招く事になるのであります。
   
当日、ニセ戒壇正本堂完工式の式典に招かれたキリスト教神父は特別な歓待を受け、最前列の貴賓席に少なくとも五人~六人が写真に納まっているのでありますから「バチカンの駐日外交官二名がいた」とする坊主らの言い訳は嘘八百ということであります。その上、当日は別な御本尊を奉掲して未だ信心していない謗法者を対象に、御開扉を恭しく行ったと云われていますが、未だ未入信の大謗法の連中に御開扉を行なうこと事態、大きな間違いを犯している事になるのでありますが、坊主らはその間違いに気が付かないほど信心が腐っていたのであります。式典の開始と共に長い勤行がはじまった時には、工事関係者はもとよりキリスト教神父たち謗法者は、勤行が終わるまでの長い間、それこそ身の置き所がないほど、これから何が始まるのかなどと疑心感に駆られ、どぎまぎしながら身の処し方に戸惑いを感じていたのではないでしょうか。

それに今日の宗門に巣食う堕落した坊主らは、自らの腐敗と堕落を正当化するために、わざわざ日有上人の「化儀抄」や日亨上人の「富要集」を持ち出して、屁理屈を正当化しようと躍起のようですが、化儀抄の引証文の解釈そのものが間違っているのであります。

坊主らが引用した日有上人の化儀抄108条には次のようにあります。「法華宗の御堂なんどへ、他宗他門の人参詣して、散供まいらせ花を捧ぐる者あり。之を制すべからず。既に順縁なるが故なり、但し、大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養申せとあらば、一向取り次ぐべからず。謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云々」とあります。

化儀抄で仰せられる意味はこういう意味なのであります。

例えば、日蓮正宗の本山あるいは末寺に他宗他門の者が参詣して、散供米や花などを供えて手を合わすことがある場合、その行為を禁制する必要はない。それらの者は、すでに順縁の者であるから一向に構わない。但し、供養の品々を僧侶に依頼して、御本尊様へお供えして下さいと頼まれる事があった場合、それは謗法者からの供養であるが故に絶対に取り次いではならない。仮に僧侶がそれを取り次いで供養の品々を御本尊様へお供えした時は、僧侶は謗法を犯す事になるから与同罪を被ることになる」と仰せられているのであります。

ところがニセ戒壇正本堂の完工式に派遣されたキリスト教の神父らは、バチカン市国、あるいはアメリカ合衆国から、それぞれの国を代表して派遣されて来たキリスト教会を代表する神父達であります。いわば彼らは骨の髄までキリスト教に染まりきった選りすぐりの外道の権化であります。たとえ彼らが戒壇の大御本尊のもとに案内されたとしても、恭しく信を垂れるような心根などさらさら持ち合わせていない謗法者をとらまえて、「順縁の者」と言えるのでしょうか。坊主らの言い訳は、無知の信徒には通ずるかも知れませんが、御本仏大聖人様の御目を誤魔化すことはできないのであります。

そもそもニセ戒壇正本堂の完工式を利用して、バチカンやアメリカからキリスト教神父を招請した理由は、彼の池田大作が世間の妙利におぼれて、来るべきノーベル平和賞を獲得しようとする手の込んだ布石だったのであります。宗門の堕落した坊らは、池田の曲がった心から発せられる卑しい根性が、諂いのあまり見抜けなかったのか、似非信徒池田の要請を唯々諾々と受け入れて、キリスト教の神父を喜んで招き入れて平然としているのであります。

またそれを、「将来の順縁に通ずるものであるから禁制すべきではない、というのが第九世日有上人の『化儀抄』の御教示」などと化儀抄に記された御教示を曲げて引証するとは恐れ入りました。兎にも角にも池田に諂って、宗門の犯した大謗法を正当化して、何とか切り抜けようとする邪義坊主の卑劣な魂胆は、大聖人様が決してお許しにならないのであります。(敬称は略す)





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大坊棟札は贋作と決めつけ、天母ヶ原戒壇説を否定する坊さんの邪義

2017年05月30日 14時14分22秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.15~17)に記された次の邪義は、「三、天母山戒壇説について」と題して、大草氏と坊さんたちは、顕正会の主張は、すべて邪義だと宣伝しています。

云く、「浅井等は、広宣流布の暁に建立すべき戒壇の場所は、大石寺の東方四キロにある天母山である。それは宗開両祖以来の本宗の教義である」と主張し、『大石寺大坊棟札』の裏書きを証拠として挙げる。この大坊棟札とは、第二祖日興上人の御筆といわれるもので、その裏書の文に『天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり』とあることから、天母山戒壇説の論拠にされているわけだが、この裏書は、実は日興上人の御筆などではなく、後世の贋作である。

その証拠として、棟札というからには大石寺大坊の上棟時に入れる筈なのに、裏書きの日付は、大石寺大坊の完成より半年も後になっており、その文字の書体も、棟札の日付より七年後に生誕した尊円法親王の書風が、さらに徳川時代に至って変形した、いわゆる〝御家流〟と呼ばれる書体であり、そのうえ、日興上人御自身の御署名が、正しくは日興と書かれるべきところを日○と間違えており、その後に必ず加えられるべき花押(御判)すらないのである。

このような贋作をもって、天母山戒壇が宗開両祖以来の本宗の教義である。とするのは、それこそ多くの人々を欺く誑惑に他ならない。では、天母山戒壇説が、いったい、どこから言い始められたものであるかというと、大聖人の滅後二百年頃、他門流の京都要法寺の僧であった左京日教が、大石寺・重須方面へ来て、本宗に帰依し、その数年後に著わした『類聚翰集私』という書に、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(富要集二巻三二三㌻)と、天母山とは述べてはいないが、『天生原』云々と述べているのが最初である。

しかしながら、この『類聚翰集私』とういう書は、日教師が大石寺で学んだ教義のみならず、日教師自身の偏った主観も加えて述べられているため、少々注意を要する書であって、なかんずく、この『天生原』云々の箇所については、五十九世日亨上人が、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(冨士日興上人詳伝二六八㌻)と。

つまり、六万もの仏教建造物が建つほどの広大無辺な場所は何処にも存在しないとして、明確に、日教師の主観による偏った説であることを指摘されているのである。さて、この日教師の説により、さらに八十年後、京都要法寺の日辰が『御書抄・報恩抄下』を著し、その中で重須方面での伝聞に、『富士山の西南に山あり。名おば天生山と号す。此の上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本において仁王門を建て、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立』云々と、はじめて『天生山』に戒壇建立と云う説を書いた。

その源が、前述した左京日教師の謬説にあることはもちろんで、これが天母山戒壇説の発生した経緯である。したがって、天母山戒壇説は邪義であり、それが、いつしか本宗の教義のごとく伝わったものといえよう。こうした歴史的検証を無視して、日辰より後代の、天母山戒壇説を用いた文献や、すでに贋作と判明せる裏書きなどを、平気で振り廻す浅井等の感覚は、もはやまじめな求道者のそれではない。まさに、本宗法義を惑乱する、魔の所業である」等と決めつけ、浅井会長の「天母ヶ原」戒壇説を得意満面で否定しています。

それでは坊さんたちが展開する大坊棟札贋作説等について、拙者が反論を加える事にします。

どこまでも邪義をつらぬく坊さんたちの指摘によれば、顕正会の浅井氏は、「大石寺の東方四キロにある天母山である。それは宗開両祖以来の本宗の教義である」と主張しているなどと誹謗していますが、浅井氏は天母山戒壇説を一度たりとも主張した事実はありません。浅井氏の主張は最初から一貫して天生ヶ原戒壇説であります。以前にも触れたと思いますが、大石寺東方四キロの天母山は、中心に約せば山となり、麓に約せば原となると書いた筈です。

それに坊さんらの主張によると、大聖人様滅後の二百年間は、富士門流の大石寺には、富士山天生ヶ原の戒壇説は存在しなかったことになっていますが、御開山日興上人の大坊棟札裏書きには、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」と記されている等といっています。是れ、第一の矛盾であります。そのうえ、「大聖人様滅後、二百年後に他門流の京都要法寺の佐京日教師が大石寺・重須方面へ来て、本宗に帰依し、『類聚翰集私』なる書のなかで、天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり。と、天母山とは述べてはいないが、『天生原』云々と述べているのが最初である。」としています。そして、広宣流布の暁に建立される、「事の戒壇」の建立地について、「天生ヶ原」と言い出したのが要山の日教師が最初で、それより八十年後におなじ要法寺の日辰が、天母ヶ原戒壇説を報恩抄下に、天生ヶ原と書いたのは、左京日教師の謬説を真似たものだとしています。そうすると富士門流には大聖人様滅後、200年+80年=280年間は、天生ヶ原戒壇説は元々なかったことになりますが、大きな矛盾が生じます。

そもそも御開山日興上人が大坊棟札に裏書きされた文言には、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」の御文が記されている事実こそ、軽々に否定できない最も大切な御文なのであります。それを一口に贋作などと誹謗して、笑い飛ばす堕落僧の幼稚な態度こそ大聖人様に対し奉る背逆行為であり、これを大謗法というのであります。こうした坊さんたちの道念の無い腐った信心には、憐れみさえ覚えるのであります。

ここで云う、「天母ヶ原」とは、日本第一の名山たる富士山の南麓の景勝地のことであります。ゆえに大聖人様は此の地をつい指して三大秘法抄に、「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられています。この地は、雄大な富士山を背にして南面に広がる広大な広野は、駿河湾まで伸びる絶景の地と云われています。故にこの地は古来より、「天子南面に住す」と謂われ、王城の立つ所といわれている由緒ある宝土であります。

ゆえに御開山日興上人は、大聖人様の御意を帯して斯く仰せであります。「仏法と王法とは本源体一なり。居所随って相離るべからざるか。乃至、然れば駿河の国富士山は広博の地なり。乃至、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」(富士一跡門徒存知事)と御教示であります。

浅井会長は上記の御文を釈して云く、「明文白義天日の如し、全く王仏冥合の事相、大聖人の御本願を此処に拝し奉る。仏法・王法本源体一の金文をただ理に約した一往の通義に拝し止まってはなるまい、これぞ本国土妙・王法の淵源を明かし給う御文ではないか。されば事の広宣流布の時来たれば、天子自ら本門戒壇を丑寅の方角に望み、王城を築き一所に居し、身を賭して守護し(本門戒壇の大御本尊)給うのである。事相の王仏冥合、三大秘法抄の明文、ここに豁然として輝く思いである」と。

つづけて、「しからば本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに、「無辺行・日興上人の垂迹・本化聖天子」と。そしてその時の、「御法主上人は日目上人」(正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う)と。

また、第五十六世日応上人は、「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布と云う。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・」(御宝蔵説法本)と仰せられているのであります。

ところが邪義に染められた坊さんは、『天生ヶ原』云々の箇所については、五十九世日亨上人が、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(富士日興上人詳伝二六八㌻)等と日亨上人が仰せられている御筆記が有るとして、富士日興上人詳伝を持ち出して、それを証拠としているようですが、仮に、日亨上人がそのような事を仰せられたとしたら、宗開両祖の御意に背反する言辞であり、それは大きな間違いであると指摘しなければならないのであります。

おおよそ、富士山麓の広大な「天生ヶ原」を寸地などとケチをつけられたのは、富士門流七百年の歴史の中で、おそらく日亨上人だけだと思われるのでありますが、それそのものが間違いで、それには大きな意味があると思われるのであります。

また、大坊棟札に裏書きされた、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」の御文があるとすれば、それも強ちに否定はできませんが、一考を要する問題であります。それに、要法寺の左京日教師が、「類聚翰集私」に書いた、「六万坊を立て」の文言を沈思黙考するに、真意を計りかねているところでありますが、大坊棟札の裏書にもあるとおり、富士門流では二祖日興聖人以来、天母原戒壇説が早くから囁かれていたものと思われます。

大坊棟札の裏書きや日教師のいうとおり、仮に、六万坊の坊舎を建てるとして単純計算した場合、6万坊×1人=6万人、6万坊×10人=60万人、6万坊×100人=600万人となり、誰が考えてもバカげた話であります。如何に広宣流布したとしも、全世界から多くの信徒が幾度にも分けて御開扉を受けるにしても、それは物理的に無理な話であります。

ここで大きな疑問を感ずるのは、五十九世日亨上人が、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(冨士日興上人詳伝二六八㌻)とされた引用箇所の中に、「天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らす事大なり」とありますが、(中略)の所の文言を見なければ、堕落した坊さんたちの話を一概に鵜呑みにはできないのであります。

日亨上人は、日教師の富士門流の法義に反した何らかの大きな間違いを指摘されて、「日教の意を見るべし、空談にせよ如何に重畳しても、摩天楼にしても・・・」と仰せられたのであって、今日の坊さんが解釈しているような、天生ヶ原を、「寸地」として表現されたお書き物があるからと云って、「天生ヶ原」戒壇説を笑って、反対する坊さんの話の方が疑わしいのであります。日亨上人が佐京日教師の書いた類聚翰集私の中にある、「六万坊」を批判される前に、それ以前に存在する大坊棟札裏書きに記された、「六万坊」の記述を批判してやり玉に挙げるべきが、当然と思われるのでありますが、大坊棟札には一切批判を加えておられません。可笑しいですね。これではまったく平仄に合わないのであります。

坊さん自らが指摘していますように、「この『類聚翰集私』とういう書は、日教師が大石寺で学んだ教義のみならず、日教師自身の偏った主観も加えて述べられているため、少々注意を要する書」などと偉そうに記しながら、自らが注意を怠り、日教師の文章に溺れてデタラメな解釈をした上、大謗法を犯しているのが現在の坊さんの哀れな姿なのであります。

日亨上人は逆説的に、如何に広博な天生原と雖も、「六万坊」もの坊舎を建てるとしたら、「寸地」になる。と仰せられているのであります。

序でに申し上げれば、「六万坊」という表現は、「数多くの坊舎」という意味であって、何も天生ヶ原に六万坊もの坊舎を建てるという意味ではないのであります。

御本仏大聖人様が三大秘法抄に、「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、」と勧奨遊ばされた本門戒壇建立の場所とは、富士山の、「天母原」のことであります。故に、第二祖日興上人に御下命された一期弘法抄には、「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御示しなのであります。

それを坊さんらは、京都要法寺の日教が、「類聚翰集私」の中で本門戒壇の場所について、「天母原」と述べたのが最初だと言っているのでありますが、ウソをつくにも大概にしなければなりません。坊さんが言っていますように、左京日教なる者は、邪僧日向の流れを汲む京都要法寺の他門流の僧であります。それが、「大聖人様滅後二百年頃大石寺・重須方面に立ち寄った序に本宗に帰依した数年後に、類聚翰集私の中で述べたのが最初だと嘘をついているのでありますが、他門流の京都要法寺には、元々血脈相承は存在しない宗派であります。

左京日教師は、本宗に帰依して初めて富士門流の法義を学んだからこそ、「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」との文を、「類聚翰集私」に自分なりの思いをおり混ぜて記すことが出来たのであって、第三祖日目上人の天奏に御共申し上げた日尊師が開基となった要法寺には、最初から血脈相承は存在していなかったのであり、ましてや広宣流布の暁の、「天生ヶ原」戒壇説などは元々存在してはいなかったのであります。

大聖人様以来の富士門流の大石寺には、第二祖日興上人が賜った一期弘法抄を見るまでもなく、広宣流布の暁に建立される本門寺戒壇は、富士山麓の、「霊山浄土に似たらん最勝の地」である、「天生原」ということが決まっているということであります。今の坊さんの言っていることは、完全な間違いであります。

ここで再度申し上げるならば、「天母山」も、「天生ヶ原」も、同じ場所の事であります。すなわち中心に約せば、「山」となり、麓に約せば、「原」となるのであります。

次に、「三堂」とは、①本門事の戒壇堂 ②大聖人様の御影堂 ③垂迹堂などの建物のことであります。したがって、広宣流布の暁に建立される最も大切な本門戒壇堂の建立の地は、大坊棟札にあるごとく、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」との書き置きは、「六万坊」の解釈を誤らない限り真正であり、宗開両祖の意を帯しているのであります。

ここでもっとも大切な事は、大坊棟札の日付や筆跡云々ではなく、広宣流布の暁に国家的に建立される本門戒壇堂建立の、「場所」に言及しているこそが一番大切なのであって、今の堕落した坊さんらは、国家的に建てられるべき国立戒壇に反対したいがために、あえて、「天母ヶ原」を否定し、大坊棟札の日付のズレ等を持ち出して贋作呼ばわりをしていますが、この卑劣な態度こそ、木を見て森を見ない典型であります。

彼の第六十五世日淳上人は、今日の坊さんらが口を曲げて大坊棟札を贋作などと誹謗するバカげた態度を誡める如く、大坊棟札の存在は、富士門流に伝承された真正な御宝物として取り扱われているのであります。

日淳上人の云く、「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日、思いつきで執行されたというものでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります。大石寺大坊棟札に、『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つべし』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と仰せられているのであります。

先ほども触れましたように、そもそも、「天生ヶ原」が存在する場所は、富士山以外には存在しないのであります。邪義の虜となった坊さんらが垂れ流す、京都要法寺の佐京日教師が、「天生原」と述べたことが最初だったというのは嘘八百であることが解ります。

御本仏大聖人様以来、富士門流の歴代先師上人は異口同音に、本門戒壇の建立地は、日本の名山たる、「富士山」南麓の天生ヶ原との伝承を堅く御守りしてきたのであります。

一期弘法付嘱書に云く、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状をまもるべきなり。 弘安五年九月  日 日蓮在御判   血脈の次第 日蓮 日興」と。

次に第二祖日興上人の仰せを拝します。

云く、「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山にたてらるべきなり」(門徒存知事)と仰せであります。

つづけて、「国主此の法を立てられる時は、当国天母原に於いて、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」(大石寺大坊棟札)と。

次に第九世日有上人の仰せに云く、「もし国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置すること御遺状の面に分明なり」(御物語抄)と。御遺状とは、大聖人様より第二祖日興上人が賜わった一期弘法抄の御事であります。

次に第二十六世日寛上人の云く、「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり、御相承を引いて云く、『日蓮一期の弘法、乃至、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり云々』」と仰せられるのであります。

つづけて三十七世日琫上人の云く、「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り、此の時において富士山の麓に天生原に戒壇堂を造立あって、・・・・」(御宝蔵説法本)と。

さらに第五十六世日応上人の仰せには、「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇建立あって、・・・・」(御宝蔵説法本)と。

それに対して、要法寺の日教師が書いた類聚翰集私を見た日亨上人は、『この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべきや』(富士日興上人詳伝二六八㌻)の文を挙げて、天生ヶ原戒壇説を批判されているとして、坊さんらは鬼の首でも取ったかのようにはしゃいでいますが、当の日亨上人も次のように、国立戒壇を宣揚しておられるのであります。

第五十九世日亨上人の云く、「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華十一号)と。

亦云く、「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。

三大秘法の広宣流布の暁の大本門寺建立の場所は、富士山天母ヶ原以外には存在しないのであります。この最終の戒壇を、唯一、「事の戒壇」と称するのであります。







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大草一男氏と堕落したお坊さまたちの恐るべき邪義とは

2017年05月23日 11時21分55秒 | 亡国の坂道 
暁鐘編集室から発刊された「摧破異流義考」(P.13~14)に記された邪義の第二弾として「一、戒壇の法義の開き方について」と題して、妙観講の大草一男氏と邪義で固まったお坊さまたちは、次のようなとんでもない頭破七分の戒壇義を書き連ねています。そうした一連の邪義は、顕正会が宣揚する国立戒壇論を誹謗したものでありますが、彼らの展開する理解しがたい言語明瞭意味不明な邪義には、読者の便を図るため数字と太文字を用いて記すことにしました。

大草氏とお坊さま云く

①「まず、浅井等は、『三大秘法のうち本門(事)の戒壇は、広宣流布の暁に初めて建立されるものであり、それ以前に大御本尊が安置せられる処は、その意義が本門事の戒壇に通ずるというだけであって、本門事の戒壇とは称さない。したがって、“大御本尊まします処(※当時は富士大石寺正本堂)は、いつ何時なりとも本門事の戒壇”とする。大石寺の立場は大聖人の仏法に違背している」等と主張する。そして、大聖人の『三大秘法抄』に〝国主ほか一国の大衆が妙法に帰伏した時に本門事の戒壇を建立すべきである〟等と示される御金言や、この御金言を引いて、そのまま本門事の戒壇の説明に代えられた二十六世日寛上人の御指南、さらに日寛上人の御指南を基として示された後代の上人方の御教示を、自説の根拠として挙げるのである。仏法の道理に暗い初学の人々は、ほとんど、これに引っ掛かって迷いを起すようである。しかしながら、この主張には、基本的に大きな誤まりが存している。」について

それではこれから拙者が、大草一男氏と偉いお坊さまたちが垂れ流す邪義を破折する事にします。

①に対する破折

大草一男氏や堕落したお坊さまたちは、顕正会が、御本仏大聖人様から御開山日興上人へ賜った「一期弘法付嘱書」や富士門流が御相伝書として七百年のあいだ最も大切にしてきた「三大秘法抄」あるいは、日寛上人の御指南、歴代正師の御筆記を自説の根拠にていることが間違いだと言っています。 彼らは恐ろしいことに、大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せの本門事の戒壇を真っ向から否定して、宗門七百年来の伝統教義を歪曲しておきながら、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇としたことが正しかったと言っているのであります。ニセ戒壇正本堂こそ邪義の根源なのであります。それほど正しい正本堂ならば何故に解体撤去しなければならなかったのでしょうか! 宗門は、後年、修羅と悪竜の合戦を繰り広げ週刊誌の餌にされた後、袂を分かち、あの建物は似非信徒池田大作氏の怨念がこもっているという理由で、ニセ戒壇正本堂は解体撤去しましたが、正本堂以来の邪義は依然として、現在もそのまま生き続けてさまざまな弊害をまき散らしているのであります。

それに「仏法の道理に暗い初学の人々は、ほとんど、これに引っ掛かって迷いを起すようである。しかしながら、この主張には、基本的に大きな誤まりが存している。」などと誹謗していますが、国立戒壇のどこが誤りで、「仏法の道理に暗い初学人々」とは、いったい誰人のことを指して誹謗しているのでしょうか! そもそも出家僧侶たる者、すべての世俗の執着を捨てて、迷える一切衆生を救わんと護法の為には身命をなげうって殉教の精神に立ち、世のため人のため僧道をまっとうしなければならない立場の者が、欲望肥大と不勉強と堕落の故に、あろうことか、大聖人様の究竟の御本頑たる国立戒壇に異を唱え、富士門流の七百年来の根本教義を歪曲した揚げ句、宗門を未曾有の混乱に陥れた末に、未だに取り返しのつかない大きな誤りを犯しながら太平楽を決め込んでいるのであります。 

つづけて云く、「この主張には、基本的に大きな誤まりが存している。」などと大上段から振りかぶって、たいそう御慢心のご様子ですが、彼らは、大聖人様が相伝書としてお顕わしになられた一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄、日寛上人の御指南、あるいは歴代先師の御筆記等が間違いだと言っているのであります。もはやこうなったら気違いに刃物で手が付けられません。御開山日興上人は今日のような富士門流の法門に乱れが生ずることを慮られて「富士の流義些かも先師の御弘通に異せざる事」と、二十六ヶ条の遺戒置文の冒頭に厳戒せられているのであります。

そもそも富士門流の本門事の戒壇に関する邪義の発端は、六十六代を継いだ細井日達管長がエセ信徒の池田大作氏に阿諛迎合した姑息な解釈から始まったのであります。すなわち“大御本尊まします処(※当時は富士大石寺正本堂)は、いつ何時なりとも本門事の戒壇”とする。邪義はここから始まったのでありますが、それはあくまでも「事の御本尊」であって、たとえ本門戒壇の大御本尊様がおわします所と雖も、決して「事の戒壇」とは言わないのであります。大聖人様・日興上人の御在世には、本門の本尊と本門の題目は確立したと雖も、時至らず、本門事の戒壇だけは、広宣流布の暁を待って、後世の末弟に託されているのであります。そのことを一期弘法付嘱書に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇建立すべきなり。時を待つべきなり。」と仰せられているのであります。

また、「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に時の天皇陛下の勅宣を奉戴し、国家意思の公式表明によって建立される最終の国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と称するのであります。そのことを三大秘法抄に「勅宣並びに御教書を申し下して」と御教示なのであります。すなわち「事の戒壇」とは、こうした「勅宣並びに見教書」という二つの国家的手続きを経て、事相に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇のみを「事の戒壇」と称するのであります。

したがって堕落したお坊さまたちが宣伝する、本門戒壇の御本尊の在所は、「いつ何時なりとも本門事の戒壇」とする解釈や説明は、完全な間違いであり、とんでもない邪義なのであります。そもそも、このような邪義を構えるに至った発端は、創価学会の政治進出を助けるた為の、戒壇義の歪曲に端を発しているのであります。その元凶が池田大作氏であり、池田氏に諂って創価学会の振りまく邪義に追従した六十六代を継いだ日達管長であり、ニセ戒壇正本堂だったのであります。

日達管長以来堕落したお坊さまたちが展開する上記の邪義を破折するために、日寛上人が法華取要抄文段で仰せられた、本門の戒壇義についての御教示は次の如くであります。

云く、「当に知るべし、本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、義理なり。是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり。経に云わく「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」とは是れなり。天台の云わく「仏其の中に住す、是れ塔の義」等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処皆是れ義理の戒壇なり」と。御教示であります。

「次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云わく、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり等云々」と。御教示であらせられます。

要するに、日寛上人は広宣流布以前の事の御本尊の御座所は「事中の理」と定義せられ、道理としての義理の戒壇、即ち「義の戒壇」とせられ、広宣流布の暁に日本国の名山、富士山の最勝の地たる天生ヶ原に、事相に建てられる本門寺の戒壇=国立戒壇を「事中の事」即ち「事の戒壇」と御教示なのであります。

序に申し上げますが宗門は現在、あのニセ戒壇正本堂以来、依然として堂々と邪義を垂れ流しています。平成29年5月16日付の大白法によれば、教学欄の「基礎講座29」には(宗旨の三箇)三大秘法の本門の戒壇義が取り上げられていますが、その解説はニセ戒壇正本堂以来の邪義が述べられています。云く、「戒壇の大御本尊の住処は、現時における事の戒壇に当たります。現在の奉安堂は、戒壇の大御本尊が安置されている故に、現時における事の戒壇」等と決めつけていますが、これが正本堂以来日達管長が吹聴した邪義の根源なのであります。

もう少し解り易く説明するなら、日寛上人は義理の戒壇を説明するに当たり、天台の法華文句十の文を引かれ「仏其の中に住す、是れ塔の義」と釈されていますように、広宣流布以前の本門戒壇の御本尊の御座所は、塔の中にお住まいであるから、あくまでも秘仏なのであって、たとえ正宗信徒と雖も見世物のように、軽々に御開扉してはならないとの御意であります。

然ればどのように拝するかと申しますと、戒壇の大御本尊は広宣流布するまでの間は、御宝蔵の奥深くに秘蔵厳護申し上げ、遠くから閉扉のまま、遥拝申し上げる姿が正しいのであります。

その理由を申し上げますと、私達が毎日朝夕の勤行の際に寿量品を読んでいますが、その中に、「若見如来。常在不滅。便起憍恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之心。」と説かれています。この文を要約しますと次のごとくであります。

「若し如来、常に在って滅せずと見ば、便(すなわ)ち憍恣を起こして、而も厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わず」とありますように、毎月毎月当たり前のような顔をして御開扉を受けているうちに、戒壇の御本尊様に対する恋慕渇仰の想いがうすくなり、慣れを生じて怠惰な心を起こさしめ、厳粛な御開扉に於いても緊張感のない、欠伸の出るような崩れた勤行になってしまうということであります。

今日の大欲不知足の堕落したお坊さまたちは、未だ、秘仏であるところの本門戒壇の大御本尊を営利の具として利用し奉り、お金儲けに狂奔し、内拝と称して怨嗟の起こるような御開扉を繰り返して不敬を重ねているのでありますが、そのような不敬冒涜を重ねて平然と構えるなら、信徒は信徒で即物的な功徳をおねだりする信心に堕し、疑問を持つ者は一人としてい居ない。このような崩れた信心は根本的に間違いであり、何等の功徳は生じなのであります。

それに対して広宣流布の暁に本門寺の戒壇堂に御出ましの御本尊は、「三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり。」と仰せられていますように、日本、印度、中国の三国ならびに全世界の人々のために、広く開かれた本門事の戒壇となるのであります。まさしく本門事の戒壇とは、日本だけのもの、また日本国を閉鎖してしまう意味ではなく、しかも人界ばかりでなく、天界まで利益する未曾有の戒壇となるのであります。日本国は大聖人様の御出現の根本の妙国なるゆえに、全世界を代表して戒壇の大御本尊様を御守護申し上げる使命と責務が存するのであります。  

②「すなわち浅井等は、本門(事)の戒壇を論ずるにあたって、まず、未来広宣流布の暁に建立される建造物を根本として、そこから、広宣流布の以前は、いまだその戒壇が存在していなけれども、大御本尊安置の処が戒壇の意義に通ずるのである、という論の開き方をしているわけである。が、もとより本門の戒壇は、本門の題目と共に、三秘総在の大御本尊の一事に具わり収まっているのであり、これこそが日蓮正宗の宗旨の根本なのである。つまり、大御本尊のまします処、そこが本門(事)の戒壇であり、これを根本として、さらに将来、広宣流布が達成した時には、世の中の信仰の中心・根本を象徴する戒壇の建造物を建てる(これを大聖人はあらかじめ「本門寺の戒壇」と名付けられている)、と開くのが、法門の正しい筋道であり、大聖人の御誠意であるとも申せよう。」について

②に対する破折

堕落したお坊さまたちが上記のようなくだらない邪義を展開する理由は、戒壇の大御本尊様は、事の一念三千の御当体そのものでありますから事の本尊となる。その大御本尊のお在す所は、即「事の戒壇」とする短絡的な発想に依るものです。不勉強の大草氏と堕落したお坊さまたちには日寛上人の御教示に理解が及ばないのか、広宣流布以前の「大御本尊のまします処、いつ如何なる所と雖も本門(事)の戒壇である。」などとした前代未聞の邪義を真顔で振りまいてるのであります。そして「将来、広宣流布が達成した時には、世の中の信仰の中心・根本を象徴する戒壇の建造物を建てる(これを大聖人はあらかじめ「本門寺の戒壇」と名付けられている)」そですが、二度目に建てる事の戒壇とは、本山の何処に建てるのでしょうか? 「これこそが日蓮正宗の宗旨の根本」であるとしいますが、 今の堕落したお坊さまたちは、日達管長以来富士山天生ヶ原の戒壇は絶対反対なのであります。

それを代弁して阿部日顕教学部長云く、「天母山の問題もありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます。」(大日蓮 昭和49年8月号)等と。最近世間を騒がしている日達管長の教義逸脱を、忖度したような邪義が述べられています。

それにしても、現在の大石寺境内に合計二度も本門事の戒壇を建てなければならないのですから、騙されている信徒はまだしも、いい加減辟易しますよね。大聖人様は一期弘法付嘱書にも三大秘法抄のいずれにも、二度にわたって本門事の戒壇を建てなさいとは仰せ遊ばされてはいないのであります。

大聖人様から御開山日興上人が賜った一期弘法付嘱書には「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。」と御下命遊ばされ、三大秘法抄には「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、」の御文こそ、広宣流布の暁に日本の名山たる富士山の天生ヶ原に本門寺の戒壇建立の勧奨であり、本門戒壇の大御本尊様が永遠にお住まいになられる戒壇堂、すなわち〝建造物〟を建立せよという御命令であります。その戒壇と雖も、あくまでも広宣流布の暁に建立される国家的戒壇である故に「時を待つべきのみ」と厳誡せられ、その戒壇を「事の戒法・事の戒壇」と仰せられるのであります。それ以前の戒壇は、どこまでも「義の戒壇」とする立て分けが、七百年来の富士門流の正しい戒壇義なのであります。

堕落の極みにあるお坊さまたちは、大聖人様以来の富士門流の教義を正しく展開する浅井氏にとんでもない誹謗を加えていますが、一期弘通付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる広宣流布の暁に国家的に建立される「本門寺の戒壇」とは、戒壇の大御本尊様が末法万年尽未来歳まで、お住まいになられる富士山天生ヶ原に建立される御座所のことでありますから〝建造物〟のことであります。

そもそも三大秘法抄は、一期弘法付嘱書の助証と謂われているほどの御相伝書であります。大聖人様から二祖日興上人が唯授一人の血脈相承として賜った御相伝書が、一期弘法付嘱書のみで終わっていたものなら、末代の多くの弟子たちは「本門寺の戒壇」について迷いや争いを生じ、大聖人様に対して、「どうして大聖人は『本門寺の戒壇』とは如何なるものなのか、はっきりと書き遺して置いて下さらなかったのだろうか、一期弘法付嘱書なんて偽書ではないか」などと邪智を逞しゅうして、さまざまな誹謗する者が出てくることを慮られ、その時の備えとして、三大秘法抄を在家代表として下総在住の太田金吾殿を選ばれ、本門寺の戒壇=本門「事の戒壇」について将来過ちを起こさぬよう、戒めを籠めて賜った重書なのであります。よって此の三大秘法抄が、一期弘法付嘱書の助証と謂われる所以がそこにあるのであります。

その御文を本抄の末文に次のように記されています。

「予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き遺し候。一件の後は秘して他見ある可からず。口外も栓無し」と。

「此の法門」と仰せられる御文こそ、本門寺の戒壇=国立戒壇のことであります。その国立戒壇について異議を生じ、宗門がただならぬ状況に置かれている今日、我ら末弟に書き遺し置かれたものとして拝すべきでありますが、堕落した今日のお坊さまには、それが理解できていないのであります。

ここで改めて一期弘法付嘱書と三大秘法抄でお示しの「本門寺の戒壇」についての御教示を拝見したいと思います。

はじめに一期弘法付嘱書、「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

第五十六世日応上人は御付嘱状について斯く仰せであります。「日蓮一期の弘法」とは、この戒壇の大御本尊は宗祖日蓮大聖人様出世の御本懐なるがゆえに『日蓮一期の弘法』と云うなり。これを白蓮阿闍梨日興に付嘱し、事の広宣流布の時、富士山に本門戒壇を建立すべし、なかんずく我が門弟たる者、この状を守り、少しも違背すべからず、と制誡し給うなり」(御宝蔵説法本)と御指南されています。 

次に三大秘法抄、「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪に未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。

大聖人様は一期弘法付嘱書には「事の戒壇」について、「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり。」と御教示せられ、また三大秘法抄には「事の戒壇」について、「勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。」と仰せ遊ばすのであります。

依って富士門流の歴代血脈付法の御正師方は、広宣流布の暁の本門「事の戒壇」=「国立戒壇」について夫々次のように仰せであります。

第二十六世日寛上人

「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法乃至国主此の法を立らるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』云々」(報恩抄文段)と。

第五十六世日応上人

「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって-----」(御宝蔵説法本)と。

第五十九世日亨上人

「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天公布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華 11号)と。

「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の1ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。

「宗祖所弘の三大秘法は難信難解なり。(中略)何に況んや、天下一同他事を捨てて、専ら此の本尊に向かって此の題目を唱うべき本門戒壇国立は、至難中の至難に属するものをや」(富士大石寺案内)と。

第六十四世日昇上人

「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり、国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)と。

第六十五世日淳上人

「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布の祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つべし』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と。

つづけて「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(日淳上人全集)と。

第六十六世日達上人

「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行にに徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

つづけて「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

さらに「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところが、このお方は信徒団体の金力と奢侈に溺れ、後に次のように豹変するのであります。

云く、「日本の国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない。」(昭和45年5月3日総会)と。

つづけて「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」(大白蓮華 201号)等と、ニセ戒壇正本堂が建設されれば、教化の儀式も定まり、王仏冥合も成って、広宣流布も達成するんだそうです。

ここで言う「教化の儀式が定まる」とは、ニセ戒壇正本堂の邪義が定着するという事であります。呆れましたね。これだけは日達管長の予言が見事に的中しました。

かつての創価学会も日蓮正宗の信徒団体でしたから、当然の如く国立戒壇を高々と宣揚して折伏戦を展開していました。

第二代会長戸田城聖氏

「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」(大白蓮華 昭和31年3月号)と。

「我等が政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華 昭和31年8月号)と。

第三代会長池田大作氏

「『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是れなり』の御予言こそ遺された唯一の大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華 昭和31年1月号)と。

「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華 昭和31年4月号)と。

こうして創価学会が御本仏大聖人様の究竟の御本願であるところの国立戒壇を前面に掲げ、老いも若きも国立戒壇建立に向けて、燃えに燃え全学会員が火の玉となって国立戒壇建立に寝食をなげうって闘ったからこそ、全員が身に余る功徳を頂戴し、昭和20年7月、戸田城聖氏の学会再建から池田大作氏が国立戒壇から決別する昭和45年5月までの僅か25年足らずの間に、じつに八百万世帯という前人未踏の驚異的な折伏を達成しているのであります。

ところが、この頃から創価学会の政治進出が本格化するに連れて、宗教団体が政治に関与する事に批判が強まり、藤原弘達氏の著書「創価学会を斬る」に対する言論出版妨害事件が勃発、併せて、日本共産党の谷口善太郎氏からの創価学会の政治進出に対して、憲法違反ではないか等の質問主意書が国会に提出されるなど、世間はようやくさわがしくなり、池田会長を国会に呼んで、国立戒壇の意義について問い質そうという動きになってまいりました。

それに驚いた学会は、4月23日国会に対して次のような回答を寄せて、世間を欺き難局を乗り切るのであります。

1. 本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

2. 既に現在、信徒八百万人の参加によって、冨士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和47年10月12日は完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。

3. 一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。

等という邪義を以って、国会を欺いたのであります。

そうして昭和45年5月3日、創価学会は日大講堂で第33回本部総会を開催し、国立戒壇を全面否定するに至るのであります。来賓として出席した第六十六世日達管長は、学会の池田会長に諂い、次のような歴史的な発言をするのであります。

云く、「日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』なんてあり得ないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では『国立戒壇』という名称は世間の誤解を招くし、かえって布教の邪魔になるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」等と世間に約束してしまったのでありますが、この時の日達管長の公式宣言を分岐点として、富士門流、すなわち日蓮正宗の信心が根本から狂いはじめるのであります。

大聖人様は立正安国論の中で、仏法と国家の関係、すなわち邪法乱国・正法治国の根本原因を金光明教、大集経、仁王経、薬師教等の四経の経文を引かれて、災難興起の原理を説き明かされています。また立正安国論の題号が示すとおり、唯一の正法たる三大秘法を国家的に立てて、国家安泰の原理をお示しでありますように、国を安んずることを究極の御本願と為されているのであります。したがって、日達管長が吹聴するような「明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります」などという話は世間を欺くための詭弁であって、無知な信徒を騙すための邪義だったのであります。決してこうした悪質な諛言に騙されてはならないのであります。

立正安国論には国家安泰の原理を「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下太平ならん」とお示しになられ、個人に対しては、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の言、信ずべく崇むべし」と仰せられるのであります。個人が身の安全を約束されて幸福を享受できる最大の条件は、国家が平和である事が絶対の条件とされていますように、個人の幸福はその中に包含されるからであります。

よって立正安国論で仰せられる眼目は、念仏・真言・禅・律等の熟脱の仏法、あるいは間違った思想を撲滅して、唯一の正法たる三大秘法を国家的に信奉して、国家・国土を永遠に安穏ならしめることを勘奨為されています。仏家の通軌から立正安国論の文意を衣文判義して名称を付するなれば、国を安ずることを目的とした立正安国論の趣旨は、国立戒壇ということに集約されるのであります。したがって日達管長が取って付けたように垂れ流す「明治より前には、そういう名称はなかったのであります」という話は、宗教に無知な大衆と信徒を騙すための完全なまやかしであることが解ります。

また大聖人様は別な角度から、常忍抄には次のように仰せであります。「日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず、所詮末法の今に譲り与えしなり」と。

ここで仰せの第三の法門に対する第一とは、第一の権実相対の法門のことであります。次の第二の法門とは、本迹相対の法門のことであります。次の第三の法門とは、種脱相対の法門を指しています。この種脱相対の法門こそ第三の法門なのであります。よって、この三大秘法を「日蓮が法門」と仰せなのであります。

また、四十九院申状には「第三の秘法今に残る所なり。是れ偏に末法闘諍の始め、他国来難の刻、一閻浮提の中の大合戦起こらんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり」と仰せられ、同じく申状に「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と御教示であります。

日本国の国教とすべき、末法万年の尽未来歳までの国家と人々を救いきっていく、法華経本門寿量品の文底に秘沈された事の一念三千の御本尊であれば、広宣流布の暁の戒壇は、本門寺の戒壇=国立戒壇でなければならないのであります。

③「浅井等の主張は、この辺の筋道を理解できずに、逆転した法門の開き方に固執し、かえって大聖人の御誠意を誹謗するのである。これでは、大御本尊の当体に三秘が闕減なく収まるという、三秘総在の法義に乱れを生じ、どこまでも大御本尊を根本として一切の法義を開いていく、本宗の教義と信仰を狂わせることとなってしまうのである。なお、付言しておくならば、本宗上古の時代においては、謗法者からの法難も多かったため、大御本尊はあくまでも秘蔵の扱いで厳護されてきた。それ故、『三大秘法抄』にせよ、日寛上人の御指南にせよ、文の面に、大御本尊安置の処が本門事の戒壇、というような直接的表現を用いられることはなかったものと拝せられる。が、一方、内々の御弟子に対する口述の中では、こうした配慮は当然のことながら無用であった筈で、事実、日寛上人の講ぜられた『三大秘法の事』の聞書きには、はっきりと「戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と仰せられているのである」について

③に対する破折

まさしく邪義の塊のようなお坊さまたちが振りまく邪義を代弁した大草一男氏の言辞は言語明瞭意味不明ですね。「この辺の筋道を理解できずに、逆転した法門の開き方に固執し、かえって大聖人の御誠意を誹謗するのである」とは、いったい何を言わんとしているのか理解に苦しむのであります。大草一男氏が強調している「大御本尊の当体に三秘が闕減なく収まるという、三秘総在の法義に乱れを生じ、どこまでも大御本尊を根本として一切の法義を開いていく、本宗の教義と信仰を狂わせることとなってしまうのである」とは、まるで逆さの論理ではありませんか! 戒壇の大御本尊様には当然の事として三秘が闕減なく揃っているからこそ、富士の流義そのままに法義を展開すれば、けっして法義に乱れは生じないのであります。それを、大草一男氏と堕落したお坊さまたちは、三秘を六秘に開いたら(義)と(事)ではなく、(事)と(事)になるという邪義を振りまくから法義が乱れてしまったのであります。

大草氏と大石寺のお坊さまたちが「大本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇である」とする邪義を破折するのに、難しい論理は、まったく必要ないのであります。それは本門戒壇の大御本尊様を、三秘・六秘と開いていった場合、三秘総在の本門の本尊は、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三大秘法となります。それを更に開いた場合、本門の本尊は「人」の本尊と「法」の本尊になり、本門の題目は「信」の題目と「行」の題目になり、本門の戒壇は「義」の戒壇と「事」の戒壇となって、六大秘法となるのであります。これが正しい三大秘法開合の相であります。

ところが大草氏とお坊さまたちは、本門の戒壇は「の戒壇」と「の戒壇」だけだと云って「義の戒壇」は存在しないと言って、胸を張って、邪義を垂れ流しているのでありますが、ちゃんちゃら可笑しいではありませんか! 謗法充満の広宣流布もしないうちから、本門事の戒壇が存在するのだそうです。笑ってやってください。

お坊さまたちのいう「『“大御本尊まします処(※当時は富士大石寺正本堂)は、いつ何時なりとも本門事の戒壇”とする大石寺の指南は真正』」とする解釈は完全な間違いであります。これを「大聖人の仏法に違背している」と指摘した、顕正会の批判は全く正しいのであります。

そこで「義の戒壇」は如何にと問い質せば、歴代書写の御本尊を他所から持ち出して来て、それが「義の戒壇」だと言うのでありますが、それはまんざら間違いではないものの、三秘・六秘の開合の相を論ずる時には、本門戒壇の大御本尊様のみに限定して論ずる法門なのであって、他所から別の御本尊を持ち出して来て、是れが「義の戒壇」だとするのは大きな誤りなのであります。

こんな莫迦なお坊さまたちが袈裟の権威を笠に着て、邪義をどんどん垂れ流しているのであります。したがって、お坊さまが展開する三大秘法開合の相は、五大秘法か、あるいは下手をすると七大秘法となってしまうのであります。

繰り返しますが、本門「事の戒壇」とは、日本国の広宣流布の暁に全世界の人々の為に、日本国が、国家の威信と経済と信徒の浄財を以って、戒壇の大御本尊様が永久にお住まいに為られる祭壇、すなわち戒壇堂を建立することであります。それを曲げて堕落したお坊さまたちは、広宣流布の達成に関係なく「事の戒壇」は、元々三秘総在の御本尊の中に存在するといった邪義を展開していますが、広宣流布も達成していない段階で、本門「事の戒壇」が、御本尊の中に備わっているという、邪義を吹聴しているのであります。

それに大草氏と頭破七分のお坊さまたちは空恐ろしいことに「日寛上人の講ぜられた『三大秘法の事』の聞書きには、はっきりと戒壇の御本尊在所は事の戒なり」と仰せられているのである」などと、とんでもない邪義を書き連ねていますが、これを称して罰当たりの典型を呼ぶのであります。

大草氏と堕落したお坊さまたちは「日寛上人が講ぜられた『三大秘法の事』の聞書きには、はっきりと『戒壇の御本尊在所は事の戒なり』と仰せられているのである」等と御文を改竄した切り文を記載して得意満面の様子ですが、是れを称して純真な信徒を騙すのもいい加減にせよ! と云いたいのであります。

日寛上人が講ぜられた「三大秘法の事」を聴講した当時の某門弟が書き遺した聞書きを、後年、日相上人が筆記されたとする本門戒壇に関する戒壇義は、次のように記されています。

本門戒壇についての原文は「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒旦也」とあります。

つまり「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」とは、広宣流布するまでの長い間、本門戒壇の大御本尊は、ある時は土蔵に、ある時は校倉に、亦ある時は御宝蔵に、奉安殿にと、時代の要請に応じて、お住まいが変わっていらっしゃることを仰せなのであります。すなわち「義理の戒壇」の説明であります。

次に「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒旦也」の御文ですが、邪智に長けたお坊さまたちは日寛上人が「『戒壇の御本尊在所は事の戒なり』と仰せられているのである」などと、卑劣にも「富士山」の三文字を切り捨てて御文を改竄し、呆れ返るよな切り文を施した邪義を列記しているのでありますが、こうした姑息な邪義を絶対に許してはならないのであります。

日寛上人こそ、御自身が講ぜられた「三大秘法の事」の御文が、後世の堕落したお坊さまたちから改竄せられて、こんな形で悪用されるとは夢にも思わなかったに違いありません。今日の邪智に長けたお坊さまが悪意を以って垂れ流す卑劣な邪義には、腰を抜かさんばかりに驚かれているのではないでしょうか!

今日の堕落した卑劣なお坊さまたちが書き連ねた「戒壇の御本尊在所は事の戒なり」の御文の頭には、元々「富士山」の三文字が冠せられているのであります。

すなわち原文は「富士山戒旦ノ之御本尊御在所ハ事ノ戒旦也」となっているのであります。ここで言う「富士山戒旦」とは現在の大石寺の境内を指しているのではありません。大聖人様が三大秘法抄に「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられた、富士山麓の景勝地たる天生ヶ原に広宣流布の暁に建立される本門寺戒壇=国立戒壇の御事であって、決して、広宣流布以前の戒壇の御本尊の御座所のことを言っているのではありません。

第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは、富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(法恩抄文段)と仰せであります。

卑劣にして救い難い今日の間違った堕落したお坊さまたちから、決して騙されてはならないのであります。

④「以上のことから、大本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇でありそれが、さらに広布の時を持って「本門寺の戒壇」と顕れる、という大石寺の指南は真正であり、これを「大聖人の仏法に違背している」などと誹謗する浅井は、まさに、〝未だ得ざるを是れ得たりと謂う〟増上慢であることが明白である」について

④に対する破折

頑迷なお坊さまたちは何度言っても富士門流の正義が理解できないようです。「大御本尊まします処は、いつ何時なりとも本門事の戒壇でありそれが、さらに公布の時を持って「本門事の戒壇」と顕われる」のだそうです。ちゃんちゃら可笑しいですね。

「本門事の戒壇」は、二度に亘って建立しなければならないとは呆れましたね。そんな事は、絶対にあり得ないのであります。ニセ戒壇正本堂以後、こうした今まで聞いたこともない邪義を垂れ流すから、今日折伏は全く進まなくなっているのであります。

大草一男氏やお坊さまに言わせると、現在建っている奉安堂は、「現時における『事の戒壇』」なのだそうです。前出の大白法にも同じ趣旨の邪義が延々と述べられていますが、日暮れて道尚遠しの感を深くしております。それでいて、本門義の戒壇を論ずるに当たっては、他所から担ぎ出してきた歴代嫡々書写の御本尊の在所を義の戒壇だと言ってみたり、下記に示した日寛上人の文底秘沈抄と依義判文抄を引いて、義の戒壇の説明に代えていますが、堕落したお坊さまたちにはその矛盾にまったく気がついていないのです。

始めに文底秘沈抄に云く、「所謂戒壇とは、即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」(六巻抄 P.61)と。

上の御文を解説するまでもありませんが、日寛上人ははっきりと、「本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり」と仰せられています。その本門の御本尊様は、現在奉安堂に御安置せられてありますが、その本門の本尊の所住の処が、何故に、突如として「事の戒壇」になるのでしょうか、此れを矛盾同着の邪義というのであります。

次に依義判文抄に云く、「本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり」(同 P.104)と。

此処で日寛上人は、「本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり」と御教示せられ、本門戒壇の御本尊様のお在します処は、「義として、本門事の戒壇」と仰せられているのであって、戒壇の大御本尊様の所住の処を直ちに「事の戒壇」とすることを、ずばりと否定されているのであります。

今日の邪義に染まったお坊さまに言わせると、現在の奉安堂は「事の戒壇」であるから、広宣流布した時には、もう一度頑張って「事の戒壇」を建てるのだそうです。こんな間尺に合わない事など叫んでみたところで、富士門流古来の正しい戒壇義を信受している者は、誰が本気で取り組みますか! こんなアホな事ばかりを垂れ流しているから折伏は進まないし、誰も燃える者がいないのであります。

こうして正宗信徒は一番大切な根本教義たる三大秘法の戒壇義に背反しているが故に、一切の功徳を喪失し、成仏を遂げることが叶わなくなっているのであります。

大聖人様は種種御振舞御書に、「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且く禁をなして、国をたすけ給えと日蓮 がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、法に過ぐれば罰あたりぬるなり」と。づづけて、「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」と御教示であります。今こそこれらの御文を、今一度深く味わうべきであります。










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今後、国立戒壇は言いません。捨ててしまいました。

2017年05月01日 08時49分07秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.15~17)には、「二、国立戒壇の語の要否について」と題して、妙観講の大草一男氏は、宗門のお坊さまたちを代表して次のような邪義を記していす。

これらの邪義を破折するに当たっては、読者の便を図るため、大草一男氏が受け売りして記した邪義と破折箇所に、数字と太文字を使用しました。

①「浅井等は、『広宣流布の暁の戒壇は、日本国家が建立する国立戒壇である。近代の御先師上人方も、皆、国立戒壇と云ってきたのに、大石寺ではこれを捨ててしまった。これは仏法を曲げる行為である』等と主張し、近代の上人方の御指南を証拠として引用する。これまた、初学の人々が騙されやすい、言葉に捉われた論議といえよう」について

①に対する破折

御本仏大聖人様は三大秘法が日本国に広宣流布し、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様を日本国の国主たる天皇陛下が此の三大秘法を御用いの時は「事の戒壇」として、日本国の名山たる富士山に国家的に建立する本門寺の戒壇、即ち国立戒壇を建立することを「一期弘法付嘱書」をもって、二祖日興上人へ御下命為され、更に「三大秘法抄」には、太田金吾殿を在家の代表として、広宣流布の進展と共に王仏冥合が成った暁に、国家的に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立することを勧奨遊ばされているのであります。その事は「立正安国論」で、国家と宗教の関係、即ち邪法乱国・正法治国について詳しく御教示くだされ「一期弘法付嘱書」と「三大秘法抄」の両抄で具体的実践をうながし給い、国立戒壇建立を大聖人様の終窮究竟の御本願と為されているのであります。

ところが第六十六世を継いだ日達管長は「日本の国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」(創価学会第33回総会)として、日蓮正宗の最大の信徒団体の長(おさ)の立場にあった創価学会・池田大作氏の施す金力に心をとろかされて、日本国の国父を気取る池田氏の慢心を助け、政治権力を手中にしようとする彼の政治的野心に手を貸し、あろうことか、御本仏日蓮大聖人様の御心に背反して御遺命を売り渡して諂いを重ね、三大秘法の戒壇義を曲げた揚げ句、世間におもねた日達管長一流の諛言を垂れ流して、これこそが唯一正しい大聖人様の御法門だと称して、上記のような驚くべき邪義・邪説を展開するようになったのであります。こうした取り返しのつかない妄言に依って、下種仏法の三大秘法義が、間違った時の貫首一人の邪義によって蹂躙された結果、回復困難な状態にまで破壊されてしまったのであります。

大聖人様の究竟の御本願は、富士門流に七百年の間、色も香りも味も失わないまま堅持されてきた国立戒壇義が、六十六世を継いだ日達管長の手に依って無惨に破壊された理由は、日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会の政治選挙にあったのであります。そうした日達管長も、先代の第六十五世の日淳上人から唯受一人の血脈相承を受けられた直後には、富士の清流そのままに国立戒壇を高々と宣揚されていたのであります。

云く、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

それに対して、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)等と。

つづけて大草一男氏は国立戒壇について次のような屁理屈を述べています。云く「近代の上人方の御指南を証拠として引用する。これまた、初学の人々が騙されやすい、言葉に捉われた論議といえよう」などと。

莫迦を言ってはいけません。大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇は、初学も、後学もないのであります。仮に、大聖人様の終窮究竟の御本願たる国立戒壇が間違いであるならば、それでは大聖人様の御本願はいったい何か、ということを具体的に示さなければならないのであります。大草一男氏は、近代の上人方の御指南はすべて間違いだとでも言いたいのでしょうか! 彼の創価学会ですら、近代上人方の御指南を正しく信受して、次のような正論を展開していたのであります。

云く、「国立戒壇こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華 昭和31年4月号)と。

富士門流の嫡流すなわち日蓮正宗から国立戒壇を捨て去ったならば、何も残らないばかりか、大聖人様の忍難慈勝の御振る舞い、あの身の凍るような極寒の佐渡の御流罪も、絶体絶命の竜の口の頸の座の巨難も水泡に帰してしまいます。いま、大草一男氏と理境坊の小川穴道師を取り巻くお坊さまたちは、宗門を代表して、こうした邪義を「摧破異流義考」なる冊子の中で垂れ流していますが、如何に宗門が大聖人様の御心に背逆しているか、背筋が凍る思いであります。

②「我が日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて、国立戒壇という名称を使っていた。しかし、大聖人は、世界の人々を救済するために、〝一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし〟と仰せられている。このことからすれば、国立戒壇という名称は、本来、不適当であった。明治時代には、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので、本宗でも使用したが、もとより、明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は、国立戒壇という名称は使用しないようにする」(要旨・昭和四十五年五月三日、日達管長の講演)について

②に対する破折

大草一男氏は日達管長が垂れ流した邪義を受け売りしながら得意満面の様子です。云く、「〝一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし〟と仰せられている。このことからすれば、国立戒壇という名称は、本来、不適当であった」等とした日達管長が言い放った邪義を引用しながら、元々国立戒壇は本宗の教義ではなかったことにするための裏付けにしたいようですが、そもそも日達管長の観心本尊抄の解釈そのものが間違っているのであります。

大聖人様は観心本尊抄の中で、「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の御文の前文で、本門戒壇の大御本尊の御事を次のように説かれておられます。

「是くの如き本尊は在世五十年に之無し、八年の間にも但だ八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す、此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」とお説きになられた後に、「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と宣言遊ばされた御文に注目すべきであります。

すなわち、「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の御文を以って、愈々本門寺の戒壇=国立戒壇に住される大御本尊をお顕し遊ばされるのであります。したがって「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の御文を以って、広宣流布の暁に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立し、国家的に戒壇の大御本尊様を秘蔵厳護すべきことを一期弘法付嘱書を以って、二祖日興上人に御下命遊ばされているのであります。
日達管長が引用した〝一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし〟の御文を以って、「このことからすれば、国立戒壇という名称は、本来、不適当であった」などとする解釈はまさしく間違った論理の展開であります。〝一閻浮提第一の本尊〟が日本国に立つからこそ、三大秘法は、日本国の国教とすべき宗教なのであって、広宣流布の暁の大御本尊様が住まいになられる御座所は、絶対に国立戒壇でなければならないのであります。日達管長の御文の解釈は逆さまの論理の展開であり、大間違いの最たるものと指摘せざるを得ないのであります。国立戒壇を捨て去ったことが、逆に、「布教の妨げ」になっている事実を知るべきであります。

③「日本国体が叫ばれていた明治時代において、本宗の本門寺戒壇思想に影響を受けた他門流の田中智学が、はじめて〝国立戒壇〟なる語を使いはじめ、これが世情に合致して広く用いられるようになったため、本宗でもこの語を自然に使用するようになったのであって、これは、まさに大聖人が、『予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか』(御書 1222)と仰せられる、弘教のためのに用いた〝世間普通の義〟であったのである」について

③に対する破折

明治という時代の風潮に乗って国立戒壇なる語を使用したに過ぎないとは恐れ入りました。これも大聖人様の御教示を日達管長一流の詭弁で貶めた邪義の典型であります。そんな言い訳は子供だましの戯れ言であります。一期弘法抄・三大秘法抄で仰せられる広宣流布の暁の本門寺の戒壇は、日本国の本有の国主たる天皇陛下が三大秘法を受持する事が条件となっています。そのことから富士門流では王仏冥合が成った時に建立される本門寺の戒壇を端的に国立戒壇と呼称してきたのであります。それを明治という時代的風潮に乗って国立戒壇と呼んだにすぎないとは、詭弁以外何ものでもありません。広宣流布の闘いは、大聖人様の御本頑たる広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇を高々と掲げて折伏戦を繰り広げることが立正安国論の御趣旨であって、単なる〝世間普通の義〟である理由(わけ)がないのであります。

次に、「他門流の田中智学が、はじめて〝国立戒壇〟なる語を使いはじめ、これが世情に合致して広く用いられるようになったため、本宗でもこの語を自然に使用するようになった」とは呆れましたね。ここで注意しなければならない事は、この御文の冒頭に「本宗の本門寺戒壇思想に影響を受けた」と有りますように、田中智学は本宗の本門戒壇論、即ち、国立戒壇論に大いなる影響を受けて、国立戒壇論を真似したのであって、最初に国柱会の田中智学が国立戒壇論を創唱したのではありません。むかし子供のカルタ遊びに「頭隠して尻隠さず」というのが有りましたが、日達管長はもう少し上手なウソで僧俗信徒を騙せば良かったのですが、田中智学が「本宗の本門寺戒壇思想に影響を受けた」では、頭も尻も丸出しの言い訳であります。本門寺の戒壇=国立戒壇思想は、元々本宗独特の法門であることを証明したことになってしまいました。

田中智学は以前、日蓮宗身延派の僧侶だったので有りますが、五老僧の一人といわれた民部日向を開基とする身延山には最初から国立戒壇論は存在していないのであります。僧道を途中で投げ出して還俗した田中智学は明治十三年に「蓮華会」を作り、二年後の明治十五年八月に本宗の末寺、横浜の南区にある久遠寺の本門講の信徒と教義論争をすることになったのが始まりであります。これがいわゆる〝横浜問答〟といわれるものです。この頃の彼は、田中巴之助を名乗っていました。宗派の勝劣を決する教義論争となると一信徒では荷が重すぎることから、本宗から第五十二世を継がれた日霑上人が筆戦で応ずることになったのでありますが、田中巴之助は本門戒壇論になって、日霑上人から初めて国立戒壇論を耳にするのであります。法論に行き詰まった彼は住居を引き払って行方をくらました後、明治三十五年に「本化妙宗式目」並びに、明治四十三年に「日蓮聖人の教義」なる本を著し、この頃から田中智学を名乗り、彼は著書の中で盛んに国立戒壇論を叫ぶようになったのであります。

その後、大正十三年に「日本国柱会」を立ち上げ、戦前には八紘一宇を創唱し、日蓮主義を掲げて国立戒壇論を盛んに叫び、日本軍の将校や士官の中にも、田中智学の日蓮主義に心酔する者も数多くいたのであります。しかしながら、国立戒壇を掲げるには日本国の中心となる御本尊が必要になってまいります。田中智学は、本門戒壇の御本尊にはとても手が届かない。そこで本門戒壇の本尊に代わる本尊として、佐渡始顕の本尊を編み出すのであります。

この事について本宗第六十五世の日淳上人は、このように仰せられています。「田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明白である。ただ本尊段において佐渡始顕の本尊を立てるのは、日蓮正宗に何とか対抗せんとの窮余の考えからである」(「興尊雪寃禄」の妄説を破す)と。

また、かつて創価学会もこのように叫んでいました。「じつに、国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そして、その場所も、富士山と明白に御指示になっている。また、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命を受けて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近ごろは田中智学門流でさえも(国立戒壇)囀っているではないか」等と。

ところがあろうことか、創価学会の政治進出が本格化するにつれて国立戒壇が選挙に不利だとなると、創価学会は宗門にさまざまな圧力をかけて、国立戒壇を捨てさせてしまったのであります。創価学会の身に余る手厚い奢侈に溺れた六十六世の日達管長と六十七世の日顕管長のお二人は、学会の圧力に屈して御本仏大聖人様の御心に背逆し、富士門流が七百年来最重要の根本教義としてきた広宣流布の暁の本門の戒壇義を歪曲した揚げ句、国立戒壇を弊履のごとく捨ててしまいました。国立戒壇を捨てた日達管長は「毒を食らわば皿までも」の比喩を地で行くように、進んで創価学会の意を汲んで、次のような邪義を宣伝するするようになったのであります。

云く「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない」「明治以前には国立戒壇という言葉は無かった。国立戒壇はかえって布教の邪魔になるから今後は国立戒壇は言わない」(創価学会33回総会)等といった邪義を不動のものとして定着させてしまったのです。それにつづく日顕管長も「浅井一派の国立戒壇論は、田中智学の思想の模倣であって、その酷似するところは驚くほかはない」(国立戒壇の誤りについて)等と驚くべき邪義をまき散らしたまま現在に至り、未だに正宗信徒を騙しつづけているのであります。

大聖人様は観心本尊抄に次のように仰せであります。「墓ないかな天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて、還って彼等が門下と成りぬ」と。

一念三千という法門は天台大師が創唱した独見の法門なのであります。それを華厳宗の澄観と真言の善無畏三蔵に盗み取られて、それぞれの自宗の骨目としたのであります。後に、天台宗の末学は、一念三千の法門は華厳宗と真言宗が本家だと思い込んでるのであります。それを彷彿とさせる事件が、今日の日蓮正宗の僧俗信徒の全てが、「国立戒壇は本宗の教義ではなく、国柱会の田中智学が創唱した国立戒壇を、顕正会の浅井氏が田中智学のモノマネをして、日蓮正宗を攻撃している」等と、本気で思い込んでいるのでありますが、この論理は、天台の一念三千を華厳宗や真言宗に盗まれて、一念三千は華厳宗や真言宗が本家本元だ、といって天台の末学が思い込んでいる姿と変わらないものとなってしまいました。こうした真逆の思い込みは決して笑い事では済まされない、まことに空恐ろしい取り返しの付かない由々しき問題となっているのであります。

四悉檀とは、遍く衆生に功徳を施すことで、布教の方法を次の四つに分けた弘教法のことであります。世界悉檀、為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀の四つ弘教方を簡単に説明しておきます。

世界悉檀とは、衆生の求めに応じて法を説くことです。為人悉檀とは、相手の機根に応じて法を説くことであります。この世界・為人の両悉檀は摂受門となるのであります。次の対治悉檀とは、相手の貪・瞋・愚の三毒を退治すること。すなわち、貪欲の者には身の不浄を説き、瞋恚の者には慈悲心を起こさしめ、愚痴の者には因果応報の起因を教える等のことであります。第一義悉檀とは、相手の誤りを直ちに指摘して強折する弘教方であります。よって、対治・第一義の両悉檀は折伏門となるのでありますが、四悉檀を用いて国立戒壇を否定する道具に持ち出すとは呆れましたね。

また大聖人様の御本願たる国立戒壇を放棄した邪義が、「強ちに成仏の理に違わない」とは恐れ入りました。国立戒壇は大聖人様の究竟の御本願であり、宗門七百年来の根本教義であります。御本仏大聖人様の肝心要の化儀(教義)を歪曲するならば、一切の功徳を喪失する事となり、成仏など絶対にあり得ない、当然の帰結として成仏の理に違うことになるのであります。

立正安国論のお言葉の中に、「辛きを蓼葉に習い臭きを溷厠に忘る」とありますが、蓼(たで)の葉を食べて生きる昆虫は、蓼の葉の辛いことが分からなくなっている。また臭い溷厠(便所)に長くすわっていると鼻がバカになって便所の臭ささを感じなくなる。という事であります。それは取りも直さず、大聖人様の御本願たる本門の戒壇義を歪曲して、一切の功徳を失った宗門の信心に慣れてしますと、日蓮正宗の信心とは、こんなものだと思い込んで、何ら不思議も不平も感じなくなるという事であります。

大聖人様の三大秘法の信心を決してなめて掛かってはなりません。大聖人様の御本願成就をお手伝いする真っ正直な信心には、それこそ凡智では計り知れない甚大な大功徳と、押さえがたい大歓喜が生ずるのであります。

かつて創価学会の戸田城聖氏が昭和33年3月、総本山に寄進した大講堂が落成した直後、こけら落としに約二千名の学会員で大講堂を埋め尽くした集会の席で、他の幹部の話を鷹揚に構えて聞き流していた戸田会長は、最後に演壇に立って並み居る参加者の顔をゆっくり見わたすや、「どうですか、皆さんのなかにまだ御本尊様から功徳を戴いていない方はいますか? 功徳を戴いていない方は手を上げてください。遠慮は要らないから正直に手を上げなさい。だれもいないか。凄いでしょう! 御本尊様の功徳は」と問いかけたところ、聴衆はいったい何を言い出すかと思って静まりかえっていた。そのとき、会場のどこからか、さざ波のような拍手がはじまり、やがて拍手は会場を揺るがすような大拍手となった。戸田会長は満足げに拍手を制止しながら、「皆さん方が戴いた功徳は、わしが頂戴した功徳から見れば、ほんの鼻くそのようなものだ。わしが戴いた功徳はこの大講堂くらいの大きなものだ。なんと有り難いことか、この御本尊様は」と言って、分厚いレンズの眼鏡を外して、涙でぬれた頬をハンカチで拭きながら、日ごろ豪放磊落な戸田会長が、辺りを憚ることなく大粒の涙を流しながら肩をふるわせて泣いていた。その光景を目の当たりにした会場は一瞬にして感激のるつぼと化し、並み居る学会員は理屈ぬきで全員が泣いた。そんな話が戸田会長が亡き後も長く語り継がれていたことを思い出します。

おそらくその時の戸田城聖氏は自らの人生を振り返り、御本尊様の大功徳で苦難と挫折を乗り越え、創価教育学会から創価学会へと名前を変えて再出発した学会の再建も軌道にのり、組織も盤石に発展してきたことに思いを巡らして、御本尊様への感謝の気持ちをからだ全身で味わっていたのかもしれません。

とにかくこの頃の学会の地区別に行われる座談会は、活気に満ちた功徳の体験で満ちあふれていたのであります。それを証明するかのように、戸田城聖氏が昭和21年7月、中野(豊玉)刑務所から出獄して、間もなく創価学会の再建に取りかかった、昭和33年4月2日に逝去するまでのわずか12年足らずの間に、ほとんど何もないところから、実に、75万世帯という大折伏を敢行しているのであります。そうした戸田城聖氏の創価学会再建への闘いは、国立戒壇を前面に掲げての折伏戦だったのであります。

④「しかして、時代が遷り変り、民主主義の定着した今日においては、かえって国立戒壇の名称がそぐわなくなったため、大石寺では、本来の意味合いにおいて、この際、国立戒壇という名称を使用しないことに決定されたのである。こうした背景を弁えず、近代の上人方の仰せの中に〝国立戒壇〟の語があるからといって、「現在の大石寺は国立戒壇を捨てて仏法を曲げた」などという戯言に騙され、乗せられてはいけない」について

④に対する破折

民主主義の名を借りて国立戒壇を捨てるとは呆れましたね。云く「民主主義の定着した今日においては、かえって国立戒壇の名称がそぐわなくなったため、大石寺では、本来の意味合いにおいて、この際、国立戒壇という名称を使用しないことに決定されたのである」こんな屁理屈は理由になりません。国立戒壇はたとえ、専制政治であろうが、民主政治であろうが、その名称がそぐわなくなる事なんてあり得ないのであります。

去る昭和45年4月、日本共産党の谷口善太郎氏から、創価学会の政治進出は憲法違反ではないか、あるいは、国立戒壇は憲法違反に当たるのではないか。との質問主意書が国会に提出されたのであります。

その時、政府答弁として、次のような答弁が為されています。

「現行憲法の下においては、国が国立の宗教的施設を建設することが許されないのであるから、そのような違憲の事項を実現することを目的とする政治活動を行うこともまた憲法上許されないのではないかという点にある思われるが、事理としては憲法を改正しなければ実現することができない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行うことが直ちに憲法違反になるわけではない。このことは、現に、政治活動として憲法改正の主張をすることが赦されていることからみても明らかであろう」等と。まことに理路整然とした政府答弁でありました。

これは公明党が政治活動として国立戒壇の実現を目指して活動をすることは、一向に憲法違反には当たらないという政府見解であります。ましてや、日蓮正宗が宗教目的として国立戒壇を叫ぶのに、何ら憲法違反の問題は生じないということであります。

ところが創価学会は、日蓮正宗に国立戒壇を捨てさせるために「若し、国立戒壇を言い続けるならば宗門は憲法違反で解散させられる。たとえ公明党がつぶされようと、学会が解散させられようと、日蓮正宗さえ安泰ならばよい。それが学会精神である。お山を守るためには、今後は国立戒壇を絶対言わぬように」と。世間の法律に疎いお坊さまたちは、一人残らず学会の詐術にはめられてしまったのであります。

そもそも国立戒壇は御本仏大聖人様の究竟の御本願であって、富士門流日蓮正宗の最大・最終目的すなわち、広宣流布の暁に国立戒壇を建立する事が宗門の究極の目的だったのであります。彼の創価学会が戸田城聖氏の手によって再建された後、それを引き継いだ池田大作氏が昭和45年5月まで、通算して四半世紀足らずのわずかな期間に「国立戒壇」を前面に掲げて、実に八百万世帯という前人未踏の大折伏を成し遂げているのであります。ところが創価学会が政治選挙のために国立戒壇建立という唯一の大目的を捨てた途端に、折伏に対する意欲は、燃えさかる大火が忽ち消え去るかのように、一切の功徳を失ってしまった厳しい現実を見るべきであります。

世間には「画竜点睛を欠く」あるいは「仏造って魂入れず」という諺がありますが、日蓮正宗から「国立戒壇」を捨て去った姿は、まさしく「画竜点睛を欠く・仏造って魂入れず」の諺どおり、いかに折伏の大事をさけぼうとも何処か締まらない何かが抜け落ちたような空疎な感を深くしておりますが、大聖人様の御本願をないがしろにした折伏活動は、当然のこととして歓喜も功徳も生じないのであります。

いま宗門は来る平成33年を期して、宗祖日蓮大聖人御生誕八百年を慶祝し、全国の法華講員は、彼の日顕御院尊猊下が下した法華講員八十万人体勢の御命題を達成などと称して、全国の法華講支部が夫々目標を掲げて折伏推進を訴えていますが、果たしてその目標を達成することができるか否か、そもそも日顕御院尊は、御本仏大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇を真っ向から否定し、御本仏大聖人様の御心に敵対して、今日の功徳のない無気力な宗門にならしめた張本人でります。そんなお方が、法華講員八十万体勢の御命題を下すなんて、心ある人は笑っています。国立戒壇を放擲した今日、講員は笛吹けど踊らず、掛け声ばかりが虚しく聞こえる今日この頃であります。御本仏大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇に背反して最終目的を喪失した折伏活動は、単なる勢力拡大を計るための信心活動となってしまい、法華講員の燃え上がるような大歓喜と躍動感は、何処を探してもなくなっている事を知るべきであります。

⑤「〝国立〟といえば、むろん、国家予算の中から国費ももって立てることを意味するが、大聖人が良く過去の例証として挙げられる、伝教大師(日本天台宗の祖)が日本に法華経を流布し勅許を得て建立した迹門戒壇は、国費をもって立てたものではなく、当時の日本天台宗の宗門で立てたものである。宗門で立てた以上、これが国立戒壇ではないのは当然で、日本天台宗でも国立などと称していない。これを指摘したところ、浅井等は「自分達が、いつ、国費で戒壇を建立せよなどと云ったか。国立といっても、国費で立てるわけではない」と苦しい言い逃れを始めた」について

⑤に対する破折

ここで大草氏は法華経迹門の叡山の戒壇を事例として引き合いに出し、叡山の戒壇は宗門立戒壇だったとしていますが、この戒壇はあくまでも、インド応誕の釈尊の熟脱仏法の戒壇であります故に、国立戒壇ではなく宗立戒壇で終わっているのであります。

そもそも大草一男氏は、熟脱仏法と下種仏法の違いすら理解が及ばないようです。熟脱仏法はインドの迹仏の説いた法華経であって、伝教大師が建てた法華経迹門理の一念三千の戒壇は、熟脱の法華経の戒壇であるため、白法隱没・天台過時の仏法なる故に釈尊滅後二千年で仏力・法力が消滅し、消え行くことになっているのであります。故に、伝教大師の立てた法華経迹門円頓の戒壇と雖も国立戒壇ではなく、宗立の戒壇となっているのであります。

それに比して大聖人様の下種仏法は、末法万年尽未来歳までの衆生を救いきって行く法華経本門寿量品の文底に秘沈された事の一念三千の三大秘法であります。故に広宣流布の暁の本門寺の戒壇は、必ず、国立戒壇でなければならないのであります。まさしく広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇は、国民大多数の浄財による燃えるような道念から迸る御供養と国家の財政負担を合わせた、まさに挙国一致の世紀の戒壇建立となるのであります。

したがって広宣流布の暁に富士山天生ヶ原に建立される国立戒壇は、日本国が国の威信をかけて積極的に関与する本門寺の戒壇=国立戒壇である故に、天台大師や妙楽大師は、末法に未だかつてない未曾有の三大秘法が広宣流布する。自分たちはそのような大功徳のある大法に巡り会うことができないことを悔やみ、三大秘法に巡り会うことを恋い願って、法華経第七薬王品には次のように云っているのであります。

云く「後の五百歳の中に、閻浮提に於いて広宣流布して断絶せしむることなけん等云々」天台大師此の経文を受けて曰く「後の五百歳、遠く妙道に霑わん云々」妙楽云く「末法の初め妙利無きにあらず、且く大教の流行す可き時に依る故に五百と云う等云々」と。

宗門で立てた以上、これが国立戒壇ではないのは当然で、日本天台宗でも国立などと称していない。これを指摘したところ、浅井等は「自分達が、いつ、国費で戒壇を建立せよなどと云ったか。国立といっても、国費で立てるわけではない」と苦しい言い逃れを始めた」との事でありますが、その真偽については拙者の知る処ではありません。しかしながら大草一男氏が指摘するようなことが実際に有ったのなら、いつ、何処で、いかなる論争の時に発言したのか、具体的に明らかにしなければ成りません。仮に、浅井会長がそうした発言をしたとすれば、失礼ながら浅井会長は、未だ国立戒壇の意味が真に理解できていないのであります。

壮大な国立戒壇という性質を考えれば、単に国家が口だけ出して、財政負担を負わない国立戒壇は、道理としては有り得ないのであります。また、国家が単なる口先だけで、国家財政の伴わない戒壇は、当然の事として国立戒壇とは云わないのであります。仮初めにも、国があれこれ口を出すだけの戒壇ならば、一宗派に対する限度を超えた内政干渉で終わってしまうのであります。

国家が国立戒壇に深く関わり、世界の人々の為に国家の威信を掛けて三大秘法護持を日本国の使命とするゆえに、「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)と仰せられるのであります。




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摧破異流義考と題する悪書発刊について

2017年04月12日 11時13分31秒 | 亡国の坂道 
近年顕正会の独走的な折伏による会員数の爆発的な増加に驚き、危機感を持った日蓮正宗のお坊さまたちが結集して邪義の上塗りをしています。

その筆頭ともいうべき理境坊の大草一男氏と小川只道御尊師さまを中心に、若手のお坊さまたちが焼きもちを焼いて「摧破異流義考」と題する邪義で塗りつぶされた間違いだらけの冊子を発刊し、顕正会の悪口を並べ立てていますが、恐れ多くもこれらの邪義の出所は、実は信徒の尊敬を一身に集め、信徒を正しく教導して功徳を得さしめ、信徒の一人一人を即身成仏の境涯に導かなければならない重い立場にあるお坊さまたちが邪義をまき散らしているのであります。それを大草一男氏がそのまま代弁しているのでありますが、この機会にお坊さまたちが垂れ流す邪義を徹底して粉砕し、御本仏大聖人様の三大秘法の正義を簡潔に示すと共に、宗開両祖以来の富士門流の正しい教義の一端を明らかにしていきたいと思っています。

先ず「発刊に当たって」と題して、次のような過去の事例を挙げて、顕正会をやり玉に挙げています。

大草一男氏云く「日蓮正宗が今日まで七百星霜を経てくる中で、信仰の根本・主体を、あるいは見失い、あるいは異解する者達が、時として現れた。

そうした者たちの中には、大石寺からの再三にわたる注意・教導にも拘わらず、あくまでも自己の主張を譲らず、ついに破門されて本宗から分裂していった者もある。例えば、江戸時代における、三鳥日秀の率いる三鳥派や、賢樹日好・後藤増十郎等の流義による完器講などがそれで、彼らは、三秘のうちの本門題目の修業を、勝手に「妙法」二字の数編口唱に変更したり、我が身を三宝のうちの仏宝、もしくは僧宝であると僭称したり、ついには、正しき大御本尊まします大石寺を、「謗法の地であるから参詣してはならぬ」等と宣伝し、自ら大聖人の正系門流を名乗って、本尊をも恣(ほしいまま)にしたのである。

これら、日蓮正宗から分裂し、まったく異なる流義と成り果てた輩を、一般に〝異流義〟(富要集九巻214ページ参照)と呼ぶ。彼らは、大聖人が「かかる日蓮を用ひるとも、あしくうやまはば国亡ぶべし(御書1066ページ)と仰せのように、自分では日蓮大聖人の仏法を正しく信仰しているつもりであっても、その実、大聖人を悪しく敬う------すなわち、大聖人の根本・主体に背く大重罪を犯しているのである。

さて、近年、日蓮正宗内から発生した新たな異流義として、顕正会がある。事の起こりは、昭和45年頃、本宗信徒であった印刷屋の浅井昭衛率いる一派(当時・妙信講)が、正本堂建立に絡んで、本門戒壇に関する六十六世日達上人の御指南に異義を挟んだことから始まった。浅井等は、総本山からのたびたび重なる教導・説諭を無視して、一般世間に向かい、あたかも日蓮正宗が大聖人以来の仏法を曲げたかのごとく宣伝活動を続け、さらには総本山や正宗寺院に対して、右翼顔負けの街宣車を用いた嫌がらせをなし、とうとう大量逮捕者まで出す集団暴行事件を引き起こして、昭和49年、日蓮正宗から破門されるに至ったのである。

破門後の浅井等は、昭和五十七年以降、勝手に「日蓮正宗顕正会」などと名乗り、平成八年からは「冨士大石寺顕正会」などと改称したが、もちろん、これは日蓮正宗とも富士大石寺とも一切無関係な詐称である。

また浅井等は、三鳥派や完器講を真似たわけではないだろうが、勝手に毎日の勤行を略式に変更し、観念文を改変したり、僧侶不要論を立てたりと、例に漏れず異流義の様相を深めつつある。もし、これをこのまま放置しておけば、浅井一派(顕正会)が本宗の正式な信徒団体であるかのごとく錯誤し、たぼらかされる人々が、増え続けるであろう。そのような事態となったら、見ながら放置するの失、我々も許されざる謗法与同となる。そこで、過去に弊社より発行した顕正会破折の論文数編に、多少の加筆訂正を加え、顕正会を折伏する書として一冊にまとめ、発刊することにした。本書が広く活用されれば望外の喜びである。  平成十年十一月二十日  暁鐘編集室」等と。

ところが、本書は平成十年十一月に発刊されたとは言え、不可解なことに、発刊からわずか三年も経たない内に廃刊に追い込まれているのであります。そのため、本山の売店に廃刊の理由を問い質して見ても、ただ、「急に入荷しなくなった」の一点張りで、それ以上の事は解らないとのことであります。その後、暁鐘編集室に廃刊の理由を問い合わせたところ、逆に質問者の、氏名、所属寺院等を執拗に問い質される始末で、まるで埒があきません。兎に角、逃げの一手に終始しているありさまなのです。摧破異流義考誌の編集にたずさわっていたお坊さまたちが胸を張って云う「本書が広く活用されれば望外の喜びである」と宣した発刊の辞は、一体どうなってしまったのでしょうか!

それは兎も角、始めに「顕正会の盲説破す」と題して次のような、真偽を織り交ぜたくだらない記事を書き連ねています。

云く「そもそも、浅井昭衛一派(元妙信講=現在は自称・顕正会)問題の発端は、創価学会三代会長・池田大作が昭和四十七年の正本堂建立をもって、強引に広宣流布達成を宣言し、自ら広宣流布の大功労者になろうとしたことにあった。

此の池田大作創価学会の動きに対し「いまだ広宣流布の達成とは考えられない」とする浅井一派が噛みつき、対立が生じたのである。

当時の御法主・六十六世日達上人は「国中に謗法の者が多い故に、いまだ広宣流布は将来に属することである」と裁定されると共に、これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた。

が、自らの浅智慧と棒暗記の教学に溺れる浅井等は、日達上人の御指南を信解できず、かえって、「日達上人が学会の圧力に屈して己義(自己流の誤った教義)を構えた」などと、とんでもない言い掛かりをつけて反抗し、結果的に、大聖人の本来の法義に背反することとなり、昭和四十九年に本宗より破門されてしまったのである。

以下、浅井等が主張する異義について、その概略を述べ、破折を加えることにする」等と、空威張りの宣伝を繰り返しています。

此処でお坊さまたちが日達管長が垂れ流した邪義・邪説を覆い隠し、血眼になって擁護しておられますが、すべてが虚偽なのであります。

云く「当時の御法主・六十六世日達上人は『国中に謗法の者が多い故に、いまだ広宣流布は将来に属することである』と裁定されると共に、これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた」などとあります。

しかしながら、良くもまあ、今頃になってぬけぬけと、こんな嘘八百を垂れ流す事ができるものと感心しています。お坊さまたちのつくられた無謬性を証明するには、余りあるものがあります。

日達管長の云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)などとした邪義を垂れ為していたのであります。良くもこんな邪義を垂れ流す事ができますね。ニセ戒壇正本堂という建物が建築された段階で、広宣流布は達成とは恐れ入りました。こうしたとんでもない邪説を吹聴していたのであります。

それが時が経った今になったら「国中に謗法の者が多い故に、いまだ広宣流布は将来に属することであると裁定されると共に、これに関連する本門戒壇の甚深の法義を体系的に明かされ、かつ、宗内の意見対立を解決すべく苦慮遊ばされた」とは恐れ入りましたね。

このような邪義を垂れ流す管長職の日達さまが日達さまなら、それに連なる一山のお坊さまたちも右へ習えで、先を争ってニセ戒壇正本堂を指して広宣流布の「事の戒壇」と称して、歯の浮くような諛言を垂れ流していたのであります。

下記に挙げたお坊さまたちの諛言はほんの一部に過ぎませんが、当時の宗門は大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「事の戒壇」に関する戒壇義を、上は管長猊下さまから下は所化小僧さまの一人に至るまで、一千人を超すお坊さまたちの全員が、下記のごとき邪義を並べ立てて純真の信徒を欺き、大聖人様に対する背反が一山を埋め尽くしていたのであります。役職は当時を表しています。

始めに早瀬日慈総監の諛言「前代未聞、後代にもなき、正本堂建立発願式に会い遇うことを得て、我等は誠に地湧の眷属たりと、感激に堪えない。---我等僧俗は未曾有の此の盛儀を契機として、更に心を新たにし、猊下と池田先生の姿を鏡として、倍々よき弟子とよき門下との僧俗一致をなして仏道に精進せんことを茲に重ねて誓うものであります」(大白蓮 昭和42年11月号)と。

次に管長職を簒奪したと言われているた阿部教学部長の諛言「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・池田大作先生により、始めてその実現の大光明を顕さんとしている」(同前)と。

次に佐藤慈英宗会議長「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒壇』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅を以って本堂の正本尊つなすべきなり』との御遺命遊ばされた大本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座います」(同前)と。

次に菅野慈雲宗会議員「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。

次に椎名法英「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂建立発願式こそ、三千年の優曇華、一眼の亀の浮木にも超えたる最大歓喜である。-----特に『これが私の今世の最高の使命』とまで叫ばれた池田会長先生の死身弘法のお心には、ただ頭をたれるのみである」(同前)と。

これらの諛言を目の当たりにすれば、当時の宗門のお坊さまたちが如何に曲がり、如何に腐敗堕落していたか、こうした教義歪曲と腐敗堕落は一山を覆い尽くしていたのであります。当時を振り返れば想像を絶するものがあります。而して唯一の正系門家の教義歪曲と腐敗堕落は、恐れ多くも今日に持ち越されたまま常態化されているのでありますが、こうした宗門の誤りと教義歪曲は一刻も早く取り除き、御本仏大聖人様に五体投地の思いで深謝し、本来の富士門流の正義、すなわち御本仏大聖人様の御本頑たる国立戒壇の正義を取り戻さななければ、日本国は取り返しの付かない事になります。

種々御振舞い御書に云く「法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況んや数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり。云々」と。

いま時に当り、正系門家の犯した教義歪曲を後世の歴史家の記憶に長く留め、改めて当時を振り返り、今後の戒めとしたいものでありますが、戒めの前には先ず、今日の宗門の教義歪曲を糺さなければなりません。大聖人様はすでに御存生の時に斯く仰せられているのであります。「はう(法)に過ぐれば罰あたりぬるなり」と。いま、宗門は平成33年、御本仏大聖人様御生誕八百年の慶事を迎えんとしているのであります。それまでにはせめてもの「国立戒壇」の正義を取り戻さない限り、取り返しの付かないような国家的体験を味わう事になるものと思われます。

云く「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と。

宗門の限度を超えた仏法違背には罰が当たるのでありますから、ニセ戒壇正本堂は取り壊し、跡形もなく撤去したと雖も、国立戒壇という大聖人様の御本願に背反した大謗法の信心には、功徳を生ずる道理は完全に無くなっている事を知るべきであります。








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浅井会長による三大秘法抄講義禄の最終回と顕正会の堕落

2017年02月24日 07時45分45秒 | 亡国の坂道 
叡山の迹門の戒壇を破す

本文

『此の戒法立ちて後、延暦寺の階段は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山の座主始まって第三第四の慈覚・智証存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、思いの外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり、嘆きても何かはせん、彼の魔黎山の瓦礫となり、栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし。夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を蹋ましむべしや。』

「此の戒法立ちて後」とは、未だ「事の戒法」たる国立戒壇は建たずとも、弘安二年十月十二日を以って本門戒壇の大御本尊が立てられた以上は、その所住の処は義において本門戒壇なるゆえ、かく仰せ給うのである。大聖人により末法の戒法がかく定められた後は、たとえ不純はなくとも叡山の戒壇は迹門の理戒であるから時過ぎて利益はないところ、その上、慈覚・智証はあろうことか本師伝教・義真に背いて邪宗真言の毒を叡山に取り入れてしまった。よって、嘗っては清浄であった延暦寺の妙戒も土泥となりおわったのである。

「一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人」とは、大聖人の御門下を指す。門下たる者断じて叡山の戒壇に詣でてはいけないと誡め給うのである。しかるに大聖人滅後、ほどなくして日昭・日朗・日向等は「聖人の法門は天台宗なり」として、叡山において弟子を授戒させている。彼らには本抄の仰せが一分もわかっていなかったのである。また、慈覚・智証が伝教大師のでしでありながら、檀那たる国主にへつらい、真言の邪義を本として本師伝教の教をえあなずり戯論と笑ったこと、まことに他人事(よそごと)とは思えない。無道心の者は常に「師をあなずり檀那にへつらう」ものである。いま我が宗門においても、宗務役僧にして、日本一国の広宣流布を〝机上の空論〟と笑い、その暁の戒壇を〝戯論〟とあなずる者がいる。これ、大檀越の学会が選挙のために国立戒壇を捨てるを見てこれにへつらい、本師たる大聖人に背き御遺命をあなずる姿以外の何ものでもない。但し、たとえ伝教の仏法は獅子身中の虫によって曲げられるとも彼は像末過時、末法本仏の遺命だけは断じて曲げられるものではない。大聖人の御威徳は厳然であり、御遺命の正義を守る妙信講は捨身である。必ずや正本堂の誑惑は打ち摧かれ、国立戒壇は実現する。

末法能弘の人を明かす

本文

『此の法門は義を案じて理をちまびらかにせよ。此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りも相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。』

これまで明かされた三大秘法の実体は、よくよく深信に徹して思索をせねばわかるものではない。ゆえに「此の法門は義を案じて理をちまびらかにせよ」と誡め給うのである。それは三大秘法が前代未聞の御法門だからである。まさに然り、本門の本尊は本果の釈尊にあらずして久遠元初の無作三身すなわち末法出現の日蓮大聖人と定め給い、本門の題目は天台の理行・自行に対して自行化他にわたる文底下種事行の題目を高唱され、本門の戒壇においては叡山の戒壇を破して、一国同帰の国立戒壇・事の戒法を明かし給うのである。うかつに文相のみを拝するのみでどうして御聖意が理解できよう。よってかくお諭(さと)し遊ばすのである。

さて、この前代未聞の三大秘法は、二千余年の昔、上行菩薩として日蓮大聖人がたしかに釈尊より口決相承したものである。諸御書には、大聖人が上行菩薩の再誕であることすら間接的なご表現をなされているが、ここはまことに明確である。これによっても本抄の重書たることがわかる。いま大聖人のお振舞いは「霊鷲山の稟承」すなわち神力品の付属に、寸分違わぬ内証寿量品の三大秘法である。神力品には、寿量品の三大秘法を上行菩薩に付属するに、まず四句の要法に約して本門の本尊を付属し、次に題目を勧奨し、次に戒壇を勧奨している。すなわち三大秘法である。いま大聖人一代の御化導の総括たる日興上人への御付属状(一期弘法抄)を拝するにまた同じ。すなわち「日蓮一期の弘法」とは本門の本尊、「本門弘通等」とは所弘即本門の題目、「国主此の法等」とは本門の戒壇。全く神力品の付属と同じである。ゆえに「霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき云々」と仰せられるのである。これらの意は寛尊の依義判文抄にくわしい。

本文

『問う、一念三千の正しき証文如何。答う、次に申し出す可し、此に於いて二種あり、方便品に云く「諸法実相所謂諸法如是相乃至欲令衆生開仏知見」等云々、底下の凡夫理性所具の一念三千か、寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云々、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり。』

三大秘法総在の本門の本尊は人法体一であるゆえに先には人に約して「無作三身」といい、ここには法に約して「一念三千」を明かし給うのである。一念三千の法相は三種に説かれる。すなわち迹門・本門・文底である。迹門の一念三千は諸法実相に約し、本門は因・果・国に約す。而してこの本迹の一念三千をともに文底の一念三千に望んでは理とし、ただ文底の一念三千だけを事とする。これ人法体一なるゆえんである。然るに本抄には二種だけを挙げ給うは、末法は即久遠元初とのゆえである。

久遠元初には能化の名字位の御本仏と、所化たる底下の荒凡夫しか存在しない。「底下の荒凡夫理性所具の一念三千」とは、われら凡夫の一念三千は、あくまで素質として本来具えているに過ぎない。御本尊の妙縁に値わなければ成仏はできない。ここに日蓮大聖人の大慈大悲の御化導があるのである。それを次文に説き給いて云く「寿量品に云く乃至今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」と。「寿量品」とは内証の寿量品、したがって「然我実成仏已来無量無辺」は久遠元初の成道をあらわす。ゆえに「大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千」と仰せられるのである。「久遠実成の当初」とは文上の「五百塵点の当初」と全く同じ、久遠元初の説きを指す。すなわち、釈尊久遠元初名字凡夫の御時に証得し給う一念三千が、本門の本尊・三大秘法として、日蓮大聖人によって末法に弘通されるのである。

まさに日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身であり、五百塵点の当初(そのかみ)以来、毎自作是然以我令衆生得入無上道速成就仏身の大悲願力を以って末法に出現し、自ら身命を惜しまず此の三大秘法を授与せられ給うのである。

本文

『予年来己心に秘すと雖も、此の法門書き付けて留め置かずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き遺し候、一見の後は秘して他見ある可からず、口外も栓無し。』

本抄を著(あら)わされた御意をここにお述べである。まことにこの御文を拝すれば、滅後のことを慮(おもんぱか)られる大慈悲胸に迫るものである。「門下の遺弟」「書き遺し」等のお言葉は、この書が大聖人のご遺言であることをあらわすものでなくて何であろうか。三大秘法の法門において、もし将来誤りを生ぜば、人は悪道に堕し国は傾く、その時になって、大聖人がはっきりと書いておいて下さらぬからである、との怨(うら)みごとが門下の中から出てもすでにおそい、よって未来のために本抄を書き遺すのであると仰せ給うのである。その未来とはまさに今である。あろうことか大聖人唯一の御遺命たる国立戒壇の正義が正系門家より失われんとしているのである。大聖人はいかほどお悲しみであろうか。いまこそ妙信講員は、この三大秘法抄を心肝に染め、〝仏勅を受けて立つ〟の獅子王心を以って歪曲を摧き、大聖人に応え奉らなくてはならぬ。

結文

本文

『法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給えばなり、秘すべし秘すべし。』

諸仏は法華経を説くために出現するといわれるが、なにゆえに法華経がそれほど大事であるかといえば、文底に三大秘法を内包せる経だからである。三大秘法こそ、諸仏諸教の能生の根源・諸仏諸経の帰趣するところである。ゆえに、釈迦仏が法華経を説いたのも、多宝・十方分身の諸仏が証明を加えたのも、実にこの三大秘法が末法に出現することを証明するためである。と。


以上を以って、浅井会長の三大秘法抄の講義は終えられていますが、当時の妙信講員は全員でこうした貴重な三大秘法抄の講義を一年間掛けて会長と共に学ぶ機会があったのであります。

妙信講という講中は、宗門の中では教学に取り組む最も熱心な講中と云われ、それだけに妙信講員は数ある法華講の中でも大聖人様の究竟の御本願は、広宣流布の暁の「国立戒壇」にあり。ということが自然の内に身に染まり、国立戒壇を前面に出して折伏活動に取り組む姿勢は創価学会と共に、他の講中には見られない異彩を放つ存在だったのであります。

そうしたところ、昭和45年当りから宗門最大の信徒団体といわれた創価学会の政治進出が本格化するにつれて、学会が選挙に勝つために国立戒壇を掲げて闘うには世間の抵抗があまりにも強く、むしろ国立戒壇は邪魔な存在になってきました。国立戒壇を捨てないと政治的に不利だという事が解ってくると、国立戒壇を主張する妙信講をつぶしにかかってきたのです。当時管長職を務めていた第六十六世の日達管長は創価学会池田大作の意向を受けて、法華講連合会会長の平沢益吉に憎まれ役を押し付け、無理難題を吹っかけてきました。云く、①「妙信講が国立戒壇を捨てないとの理由で、5年間にも亘る長い間御登山の禁止」②「教学なんて生意気だ止めてしまえ」③「妙信講の青年部は連合会で鍛え直してやるので連合会の青年部会に参加させろ」④「顕正新聞は廃刊にして大白法という立派な新聞を読め」等々、妙信講を潰そうとして様々な圧力をかけてきた末、日達管長は、昭和49年8月12日には妙信講の幹部を除名した上、暴戻にも講中解散処分を通告してきたのであります。

そうした間違った処分に対し妙信講の浅井昭衛理事長は「妙信講は今の腐った宗門に作って貰ったものではない。妙信講は国立戒壇を宣揚する正しい御法主として、信徒の教導に務めて来られた先代の日淳上人猊下から正式に御認証戴いた講中であれば、妙信講は絶対に解散しない」「御遺命を曲げた池田大作を日本から追放するまで闘う」「5年後の昭和56年までに、五万人の大法華講をつくりあげて、必ず御遺命守護完結を期す」あるいは「学会員750万人を一対一の白兵戦を展開して、必ず国立戒壇の正義に目覚めさせる」等と叫ばれていたのであります。

ところが、妙信講は昭和57年10月9日、地涌の菩薩の六万恒河沙の闘いを今に移す等と称して、日本武道館で一万人の総会を開催し、その時、講員には何のまえぶれもなく、今までの妙信講を突然、「日蓮正宗顕正会」と改めたのですが、そのお話を耳にした時、いったい何が起ったのだろうと、正直言って何とも名状しがたい興奮と強烈な衝撃を受けた事を思い出します。その後、平成8年11月18日には宗教法人を取得して、その直後の11月26日に行われた総幹部会の席で、またまた名称を改め、今度は「冨士大石寺顕正会」と再び名前を変えて現在に至っているのでありますが、何とも可笑しなことをするものですね。これではまるで験担ぎですね。「妙信講は絶対に解散しない」等と断言していたものが、数年を経ずして妙信講は二回に亘り名前を変更し、事実上妙信講は解散してしまったのであります。よって、一万八千の妙信講員は、完全に浅井会長から見事に騙されたことになったのであります。

その時の浅井会長の言いぐさがふるっています。云く「日蓮正宗は創価学会の池田大作と修羅と悪龍の合戦を繰り広げ、阿部日顕管長はシアトル事件の醜聞を晒し世間の笑いものになっている。こんな汚れた教団の名前を冠しては、広宣流布は夢物語で終わってしまう。顕正会は日興上人・日目上人がお在した上代の清らかな富士の源流に立ち帰りたい。よって、世間の顰蹙を買って笑い者に晒されているこれまでの日蓮正宗から決別して、今日から『冨士大石寺顕正会』と名称を改めることにしました」等と。

妙信講から顕正会へと変身した顕正会は当然の如く完全な別法人となってしまったのでありますが、浅井会長は何故に「冨士大石寺顕正会」などとした紛らわしい宗教法人組織を作らなければならなかったのでしょうか、それが災いして宗門の坊さんからは、富士大石寺を詐称する猿まね集団などと揶揄され、すっかり笑い者にされてしまっているのであります。

変われば変わるもので、宗門の中で一番熱心に折伏と教学に取り組んでいると言われた妙信講が、顕正会などと名前を変えて宗門を目の敵にして悪口を言いふらし、本流は顕正会だといって騒いでいるのであります。かつての妙信講員が親しみをもって取り組んでいた教学と御書講義は、今や語り草にもならない幻となってしまいました。

さらに浅井会長は平成9年7月16日には、一国諌暁などと称して「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」とした諫暁書と称する本を著わし、新聞各紙に誇大な広告を載せて多くの会員を扇動したのです。

そして平成10年4月10日、突如として、宗門が正本堂に御安置されていた本門戒壇の大御本尊を奉安殿に御遷座したことを何処からか聞きつけて、顕正会では勝手に、誑惑の正本堂から大御本尊様の還御が叶ったと称して浅井会長は涙を流し「御遺命守護完結法要」を行ったりしました。

さらに顕正会は、この時を以って新しい時代に入ったとして朝夕の勤行の方法を改め、朝の勤行は東天に向かって「方便品の十如是」と「寿量品の自我偈」の読誦並びに、御本尊に向かって「方便品の十如是」と「寿量品」の読誦と唱題の二座とし、夕の勤行は御本尊に向かって「方便品の十如是」と「寿量品」の読誦と唱題の一座としました。合わせて観念文も改変した上、「儀礼室」なるものを設置し、法要執行職員(坊さんの代行)として4名を任命し、顕正会員の葬儀・法要の際には、彼らは有髪の僧を演じさせられる事となってしまいました。その内の一人、浅井会長の娘婿となった小峰勝彦氏は長い間、坊さんの真似ごとまでやらされた揚げ句、浅井会長の逆鱗に触れたか、後に粛清されて離婚に至ったのでありますが、小峰氏のご両親並びに兄弟を含むご家族もさることながら、ご本人の心労は察するに余りあるものがあります。

それは置くとして、妙信講は、昭和三十三年一月十五日、第六十五世を継がれた日淳上人から、闘う法華講としての唯一認証状を戴いた宗門の中では稀有な存在だったのであります。彼の日淳上人は、認証状授与式の席で妙信講の講頭に対して厳かに斯く仰せられたのであります。

云く「今まで法華講というのは盆と正月にお寺に来るだけの墓檀家のように言われてきたが、法華講とは熱原の法華講衆にその源を発するのです。妙信講は熱原の法華講衆を鏡として、戦う法華講となって御奉公しなさい。まず三千の弘通を為してごらんなさい。そして将来にわたって宗門を外護してください」と満腔の期待を籠められて妙信講を激励下されたのであります。

そうした妙信講は時の御法主上人猊下より本山で認証式まで開いて戴き、今後の宗門外護を堅くお誓いして、御遺命守護完結に向けて力強く再出発したのであります。それが数年を経ずして何故に、日淳上人と堅くお誓いしたお約束を平然と破り、上人の御慈悲とご期待をかなぐり捨てて、日蓮正宗とは似ても似つかない、お坊さんの一人もいない外の顕正会へと、飛び出して行かなければならなかったのでしょうか?

大聖人様は開目抄に孝養の大事を次のように御教示であります。「孝と申すは高なり天高けれども孝よりも高からず、又孝とは厚なり地厚けれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり、何に況んや仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」とありますが、浅井会長が成人式等で常々孝養の大事と報恩の大切について仰せられるご高説と行動とは、完全に真逆の百八十度も異なる現実であります。

今や、御書講義を一切取り止めて御書をぜんぜん学ばなくなった顕正会は何を目指し、浅井会長は何を為さろうとしておられるのでしょうか! 宗教法人冨士大石寺顕正会としての代表権は早々と世襲で固めて次男坊の城衛氏に譲って、自らは第一線から退いた形を取られていますが、こうした措置は、外には安倍政権の進める防衛政策・経済政策を酷評して大衆を扇動し、内に有っては幹部の首を手当たり次第切り捨てた責任を問われる等、万一の事態に備えた法的(民事・刑事)責任を逃れようと計ったつもりなのか、まったく理解に苦しむところでありますが、穿った見方をするまでもありませんが、何かの弾みで浅井会長が官憲から法的責任を問われる事態が発生した場合、目に入れても痛くない最愛の息子の城衛氏にその責任を被せて、己は逃げる為の次善の策なのでしょうか?

とにかく常人の憶測を越えた下手な小細工ばかりが目に付きます。ここで思い出されるのは、大聖人様が佐渡御書で仰せの「例せば修羅のおごり、帝釈に責められて、無熱池の蓮の中に小身と 成って隠れしが如し」の御教示であります。浅井会長は何に怯えているのか想像も付きませんが、何も起らないうちから安全地帯に身をおいて安心を得ているご様子のようです。

それにわずか一握りの血族だけが職業人として宗教法人顕正会から報酬を得て生活を営んでいる様は、税金を払えば許される問題ではありません。まるで彼らは宗教貴族よろしく在家が宗教で飯を食らい、宗教を生業(なりわい)として当たり前のような顔をしています。さながら生き仏のように目を細めて超然と構え、会員の伏せ拝の送迎に身を委ねて悦に入る浅井会長とは、いったい何を考え何処へ向かおうとしているのでしょうか? 

浅井会長が妙信講員と約束していた「妙信講は絶対に解散しない」「御遺命を曲げた池田大作を日本から追放する」「五万人の大法華講をつくり御遺命守護を完結する」等々の約束事はすべて会員を騙すための方便となってしまいました。真の御遺命守護完結とは、云うまでもなく、第六十五世日淳上人が法燈を継がれて富士の清流が蕩々と流れていた往時の清らかな宗門に蘇らせる闘い、即ち、国立戒壇を宗門の公論とする闘いだったのでありますが、そのいずれもが残念ながら虚偽と未完に終わっているのであります。

それらを放擲して講員との約束をすべて反故にした今日の顕正会は、御書を学ぶことを大聖人様より許されなくなったのであります。顕正会の最大の誤りと今日の狂いの原因は、妙信講を認証してくださった日淳上人との堅い約束を平然と破って、上人の温情溢れる御慈悲を仇で返した揚げ句、熱原の法華講の名を継ぐ名誉ある地位をゴミ箱に鼻紙のように捨てたが故の、仏罰であります。

大聖人様は「仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」と御教示でありますように、日淳上人から将来の宗門外護を切望され、宗門の盤石を懇請されたにも拘わらず、それを何の躊躇いもなく反故にして、外へ飛び出して行って太平楽に浸っている不知恩の徒と堕した浅井会長に対しては、大聖人様が絶対にお許しにならないのであります。
   







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浅井会長による「三大秘法抄」の講義禄其の三

2017年02月23日 09時39分22秒 | 亡国の坂道 
本門の本尊を明かす

本文

『寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作の三身の教主釈尊是れなり。寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云々。疏の九に云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密となす、又昔より説かざるを名づけけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す、仏三世に於いて等しく三身あり、諸教の中に於いて之を秘して伝えず」等云々。』

まず本尊の体相を明かし給う。ここに「教主釈尊」とあるから、これは印度出現の法華本門の教主釈尊であるととれば、大謗法となる。文上本門の釈尊なら、すでに上の文に度々あらわれている。それを明かすのに「汝が志無二なれば」等の重誡は不要といわねばならない。

まさに、かかる重誡のうえに明かし給う本尊こそ諸教に秘して説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人の御事なのである。ゆえに日寛上人は「寿量品に建立乃至教主釈尊是れなり」の文意を端的に「我が内証の寿量品に建立する所の本尊はすなわちこれ久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊これなり」と御指南された。「本因妙の教主釈尊」とは大聖人の御事であることは、血脈抄の「我が内証の寿量品とは脱益寿量文底本因妙の事なり、其の教主は某(それがし)なり」の金文に明らかである。

次に、本文を具に拝する。まず「五百塵点の当初」とは久遠元初のことである。すなわち五百塵点のゆえに久遠、当初のゆえに元初である。「此土」とは、総じていえば他土対してこの娑婆世界をいうが、別していえば印度に対してこの日本をいう。まさしくここには、三大秘法有縁の妙国・大日本を指して「此土」と仰せられるのである。この御聖意は日向記に明らかである。すなわち「本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙娑婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり」と。

さらに観心本尊抄には「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月氏・震旦に未だ此の本尊有さず」と、「此の国」とは日本国である。

かくいえば疑問がおきよう。日本が久遠元初以来三大秘法有縁の本国土ならば、成住壊空の四劫はいったいどうなるのか、五百塵点の当初とは地球の成立すをさかのぼること久々遠々の昔のはずである、その頃より日本があるわけがないではないかと。答えるに、たしかに大宇宙は成住壊劫の四劫によって消滅をくりかえしている。ゆえに壊劫の時至れば地球も日本も滅失して無相となる。だがまた成劫の時至れば此の娑婆世界は生じ、日本国は涌出して本の相を現ずるのである。この趣を天台は文句に「問う、劫火洞然として天地郭清す、いかんぞ前仏・後仏此の山に同居し給うや。答う、後の劫立本の相還って現ず、神通を得たる人昔の名を知って以って今に名づけるのみ」と表現している。

この意を以って論ずれば、まさしく日本は久遠元初以来、三大秘法有縁の本有の国土であり、そのゆえに常に日本と名づけられる。これを自然感通という。ここにおいて、日向記の「霊山とは日本国なり」の御意が胸に収まろう。「此土」とはまさにこの本有の妙国日本を指し給うこと明らかである。「有縁深厚」とは、主・師・親の三徳の縁が深く厚い、ということ。三徳有縁は本尊として尊敬すべきである。

「本有無作三身」とは、印度出現の釈尊のごとく三十二相を以って身をかざらず、〝本のままの凡夫のお姿の仏様〟ということである。ゆえに御義口伝に「久遠の事」を釈して「此の品の所詮は久遠実成なり、久遠とははたらかず、つくろわず、もとの儘(まま)と云うなり、無作の三身なれば初めて成せず、是れ働かざるなり、三十二相八十種好を具足せざれば是繕(つくろ)わざるなり、是れを久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり、実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり。」と遊ばす。この御指南によって明らかなように「本有無作三身」とはまさに〝凡夫のお姿の御本仏〟ということである。

さて、「久遠元初以来、日本国に三徳の縁深き、凡夫のお姿の御本仏」とは誰人にてましますか。日蓮大聖人を措(お)き奉って、他にあるべきはずもない。まさしくこの御文は、久遠元初の自受用身の再誕日蓮大聖人を以って末法の本尊とすべしという御意に他ならぬ。念のために、無作三身の教主釈尊とは三十二相の釈迦仏にあらずして、凡夫位の御本仏日蓮大聖人なることの文証を二・三挙げれば、諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏なり」と。

「凡夫は体の三身」の「凡夫」とは別して日蓮大聖人の御事であり、「仏は用の三身」の「仏」とは本果の釈尊のことである。大聖人こそ体の三身・本仏であり、この本仏を妙法蓮華経と呼ぶこと文に在って文明である。船守抄に云く「過去久遠五百塵点のそのかみ、唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」「我等衆生」とは総じての仰せであり、別していえば大聖人御一人であられる。すなわち五百塵点のそのかみの教主釈尊とは日蓮大聖人なりと、まことに明々白々である。

また御義口伝に云く「如来とは釈尊、.総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無の三身なり、今日蓮等の類いの意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」と。

末法の法華経の行者とは日蓮大聖人の御事たるこというまでもない、なれば、日蓮大聖人こそ無作三身であり、そのお名前を南無妙法蓮華経と称し奉るのである。以上列挙の御文を拝すれば、無作三身とは日連大聖人なることは明らかである。されば日蓮大聖人の御当体こそ本門の本尊にてましますのである。ゆえに謹んで御本尊のお姿を拝すれば、中央に「南無妙法蓮華経日蓮在御判」と大書し給うのである。

次に「如来秘密神通之力」の結文と、天台文句の「一身即三身云々」が引かれているが、所印の所以は無作三身の衣文なるがゆえである。先に挙げた諸法実相抄の文と、御義口伝の次の御指南を拝すれば所印の御意を拝することができよう。「建立の御本尊の事、御義口伝に云く、此の本尊の衣文とは、如来秘密神通の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥(たしか)に霊山に於いて面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と。

本門の題目を明かす

本文

『題目とは二の意あり、所詮正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさてやみぬ。正像には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず、是れ理行の題目なり。末法にい入って今日蓮が唱える所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり、名体宗用教の五重玄の五字なり。』

本門の題目とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える修行をいうが、ここは正像ニ千年に天親・竜樹・南岳・天台等が唱えた題目と対比して、大聖人の唱えた給う本門の題目を明かし給うている。正像二千年にも、天親・竜樹・南学・天台等は南無妙法蓮華経と唱えていたが、これらの題目と、末法に日蓮大聖人が唱え出された本門の題目とは全く異なったものである。異なる点は二つある。御文にあって明らかなように、一には、正像の題目は自行ばかりであり、末法の題目は自行化他にわたる。二には、正像の題目は理行であり、末法の題目は事行である。

一について説明すれば、竜樹・天台等は自分だけは南無妙法蓮華経と唱えていたが、人に向かって時機相応の別な法を勧めていた。よって「自行ばかりにしてさて止みぬ」と仰せられるのである。しかし大聖人は、御自身も南無妙法蓮華経と唱え人にこれを唱えんことを勧め給うた。自行も南無妙法蓮華経であられた。よって「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せ遊ばすのである。二について論ずれば、これは唱える題目の法体そのものが異なることを表す。天台等の唱えた題目の法体は、文上脱益の法華経迹本二門の妙法である。ゆえに「理行の題目」と云い、大聖人の唱え給う題目は、その法体寿量文底下種の妙法である。ゆえに事行の題目というのである。これを本文には理行の題目に対して「名体宗用教の五重玄の五字なり」と仰せられるのである。すなわち久遠元初の本因妙下種の題目である。

本門戒壇を明かす

本文

『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり、三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹹み給うべき戒壇なり。』

本門戒壇は大聖人究極の御願業である。これは、本門戒壇の妙用により、日本国を仏国土に、ひいては一閻浮堤(全世界)の仏国土化を事相の上に顕現するものである。大聖人の御在世においては、本門の題目と本門の本尊は顕われ給うとも、この本門の戒壇の一事においては未だ時至らず、よってその実現を未来に御遺命せられたのである。しかしながら、本門の戒壇に安置すべき御本尊だけは、弘安二年十月十二日、末法万年のことを慮(おもんぱか)られ堅牢なる楠木の厚き板に御自らお認(したた)め遊ばされ、未来の御用意と遊ばした。

この御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げる。これぞ三大秘法の随一、大聖人出世の御本懐、日本を始め全世界の一切衆生に授与せられた一閻浮堤総与の大御本尊である。よって聖人御難事には「此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難は申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なり、其の間の大難は各各かつしろしめせり」と。まさしく弘安二年の大御本尊建立を以って出世の本懐と仰せられる。よって日寛上人は「なかんずく弘安二年の本門戒壇御本尊は究竟中の究竟・本懐中の本懐なり、すでにこれ三大秘法随一なり、いわんや一閻浮堤総体の本尊なるゆえなり」と。

而して大聖人はこの御本尊を弘安五年に日興上人にご付属され、本門戒壇の建立を御遺命遊ばしたのである。その御付属状(一期弘法抄)に云く「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せら留べきなり、時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。「日蓮一期の弘法」とは大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事、そして本門の戒壇の建立については「国主此の法を立てらるれば富士山」と仰せられ、委細をすべて日興上人に口伝遊ばされたのである。但し、門家には未だ本門戒壇の何たるかを知る者はいない。よって未来のため、その内容を明かし給うたのが本抄である。本抄が一期弘法抄の助証であるとの意はここにある。実に、御書四百余篇の中に、本門戒壇の異議・内容を明かされたのはこの三大秘法抄だけである。

さて、本門戒壇は、どのような時に、どのような手続きで、どこに立てられるべきか、以下本文にそれを拝する。

まず時については「王法仏法に冥事仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とお定めである。これは広宣流布の暁の、国家と仏法の関係状態を明かされたものである。日本国家がこのような状態になった時が戒壇建立の時と定められたものである。以下一文づつ拝せば「王法」とは、国家統治の最高権力・統治主権・国家権力等の意である。またその活動に約して一国の政治、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等をも意味する。要するに、国家統治に関わる種々の概念を包括した言葉である。

「王法仏法に冥事仏法王法に合して」とは、国家権力が三大秘法を根本の指導原理として尊崇擁護し、また三大秘法が国家の繁栄・国民の幸福のために生かされる状態をいう。これは大聖人の仏法が単に個人の信仰の次元に止まらず、国家次元において受持されるということを意味する。そもそも国家の繁栄は国民一人一人の幸・不幸をその中に包含している。ゆえに大聖人は「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事」と仰せられる。よって、個人が安穏であるためには国家が安泰でなければならない、国家が安泰であるためには王法が仏法に冥ぜざるべからずというのが立正安国論の御趣旨であり、また本抄の御指南である。

さて、王仏冥合の具体的姿はいかにといえば、それを次文に明かし給い、「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と仰せられる。「王」とは国主、「臣」とは国政にたずさわる者、「王臣」の二字の中に全国民が含まれていることは言うまでもない。すなわち、国主も、国政にたずさわる者も、全国民も、心から本門戒壇の大御本尊を信ずるのである。「有徳王・覚徳比丘」とは涅槃経に出てくる故事である。昔、歓喜増益如来の滅後・仏法まさに失せんとする時、覚徳比丘という聖僧あって身命も惜しまず正法を説いた。この時、多くの破戒の悪僧あって怨嫉しこれを殺害せんとした。その時、有徳王がかけつけ、身を以って覚徳比丘を守り、ついに命を失ったが、その功徳により阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生じたという。

この覚徳比丘の姿はまさしく御在世の大聖人のお姿であり、また事の広布の時の御法主上人のお姿である。但し、御在世には国家権力大聖人を守るどころか流罪死罪にし奉ったが、事の広布の時にには王臣一同に戒壇の大補本尊を守護し奉るのである。この時の王臣の三大秘法受持は、ただ護法の大道念より出る純粋なものである。覚徳比丘も法の為・国のため不惜身命の説法なら、護法の有徳王も純粋捨身である。いやしくも為政者が自己の政治野心のために宗教を利用したり、また宗門が権力にへつらって栄達を計ったりするような関係は、大聖人のもっともお嫌い遊ばすところである。王仏冥合の大精神はこの「有徳王・覚徳比丘」の仰せを規範として深く拝さなくてはならない。

末法濁悪の未来に、大聖人の御在世の信心に立ち還って立正安国論の大精神を以って一国を諫める宗門、そしてそれに呼応して本門戒壇の大御本尊を護持せんとする不惜身命の熱誠が一国上下に満ち満ちる時が必ず来る。これが大聖人の未来を鑑み給う御予言であり、御確信であられる。その時が戒壇建立の時なのである。

次に戒壇建立の手続きについては「勅宣並びに御教書を申し下して」の一文がそれに当る。「勅宣」とは天皇陛下の詔勅、「御教書」とは当時幕府の令書、いまでいえば国会の議決がそれに当る。日本一同に信ずる事の広布の時がくれば、国会の議決も問題なくなされよう。要するに、「勅宣並びに御教書」とは、国家意思の公式表明を意味するものである。〝本門戒壇の大御本尊を日本国の命運を賭しても護持し、本門戒壇を建立したします〟という国家意思の表明である。かかる手続きを経て建立される本門戒壇なるゆえ、これを宗門では国立戒壇と称してきたのである。

しかるにいま、世間にへつらって国立戒壇を否定するため、御本仏の聖意を曲げ「勅宣・御教書」を解釈して「建築許可書」などという無道心の麤語(そご)が宗門に横行しているが、これらはまさに魔説と断ずべきである。さらに、本抄に「勅宣」と仰せられた深意を拝するに、当時皇室は幕府に実権を奪われて有名無実・衰微の極にあったのである。しかるにこの仰せあるは、未来を鑑みての深き御聖慮と拝し奉るの他はない。大聖人は一往時の国家統治者を「国主」と呼ばれている。ゆえに北条時宗を指しても「国主」と仰せであるが、再往日本の真の国主は天皇であることの御意は諸御書に明らかである。末法万年に伝わる仏法を守護する王法が、一時の英雄や覇王ではふさわしくない、それらには永続がないのである。日本が三大秘法有縁の妙国ならば、永遠の仏法を守護するに本有の王法が存在しないはずはない。この使命を持っているのが日本の皇室である。この使命あればこそ、世界に類を見ぬ永続をみるのである。

たとえ時により衰微があとうとも、時来たれば必ず仏法有縁の「本化国主」が皇室に出現し、以後万年にわたり、三大秘法守護を以って皇室の唯一の使命とすることになるのであろう。とまれ、本門戒壇の大御本尊御建立の五ヶ月のちに、紫宸殿の御本尊を顕わし給うた御事績と、本抄の「勅宣」の仰せとを思い合わせるに、ただ凡慮の及ばざる甚深の御聖慮を感ぜずにはいられない。

次に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて」とは場所についての定めである。ここには形容詞だけで地名の特定はないが、一期弘法抄の御文よりして、日本第一の名山富士山を指し給うものであることは明らかである。さらに富士山の広博たる裾野の中には、南麓の最勝の地「天生原」がその地域と定められ、歴代御法主により伝承されている。すなわち日興上人は「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於いて三堂並びに六万坊を造営せらるべきものなり」(大坊棟札本尊裏書)と。また日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。

次に「時を待つ可きのみ」とは、門下への勧誡である。勘とは、事の広布は必ず来るによって身命を惜しまず不断に弘通せよとの御激励。誡とは、未だ時の至らざるうちに戒壇を建立することは断じて不可なりとのお誡めである。いま正本堂を見るに、まさしくこの御聖意に背くものである。もし一国の謗法と邪正を決断せぬうちに戒壇を立てれば、一国において邪正肩を並べ、謗法与同の義を生ずるから不可なのである。世間にへつらい謗法呵責の道念を失えばこそ、時至らざるに濫りに立てるなどの違法がなされるのである。論より証拠。正本堂にキリスト教神父を招いた事実こそ、何より謗法与同の実態を雄弁に物語っているではないか。大聖人の御心を冒涜することこれより甚だしきはない。

次に「事の戒法と申すは是なり」とは、迹門の理戒に対して、如上の国立戒壇を「事の戒法」と仰せられるのである。すなわち一国総意の国立戒壇建立により、始めて本門戒壇の大御本尊は公開され、そこにおいて戒義が執行されるゆえである。それまではあくまで内拝であるから義の戒法と申し上げる。「三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給う戒壇なり」とは、本門戒壇の利益広大を仰せ給うのである。この戒壇は日本のためだけではない、中国・印度さらに全世界の人々がここに参詣し、懺悔滅罪・即身成仏を祈る処である。いや大梵天王・帝釈等も来下参詣する戒壇である。まさにその利益の広大なること、人界ばかりでなく天界まで及ぶことを仰せである。

いま、国立戒壇を否定する理由の一つとして、大聖人の仏法は全世界の仏法であるから国立戒壇は不可、などという者があるが、これまた全く為にする己義である。本門の戒壇が日本の国立であるという意は、大聖人の御法を日本だけのもの、日本だけに閉鎖する意味ではない。実に全人類のための大仏法を日本が守護するという意味である。これは、日本が大聖人御出現の本国であり、三大秘法広宣流布の根本の妙国であるから、この義務と大任を世界に対して負うのである。

ゆえに本抄には、日本の広宣流布・王仏冥合を以って国立戒壇を立よとし、それが三国並びに一閻浮提の人々のためであると御意せられるのである。全世界に広宣流布した暁を待って立てよとは全く仰せられていない。本抄に仰せの「王法」とはまさに日本の「王法」、「王臣一同」とは日本のそれ、「勅宣・御教書」とは日本の「勅宣・御教書」なのである。かくのごとき国立戒壇が全世界に開かれるのでる。考えてもみよ。全人類の即身成仏の大法を、全人類のために、国家の命運を賭しても守護する日本は、全世界から感謝されて然るべきではないか。

もし、かかる仏国日本を怨嫉憎悪する他の国家・国民があれば、罪はその方にある。ゆえに本尊抄には「賢王と成って愚王を誡責し」と仰せ給うのである。いずれにしても、御本仏の御遺命のまま、全世界のために国立戒壇を立てるのに、何の遠慮・気がねがいろう。実は国内の選挙のために国立戒壇を曲げたにもかかわらず、その理由を〝世界宗教のゆえ〟などというはまことに見えすいた誑言というべきである。実に国立戒壇こそが、一閻浮提に広宣流布する重大な鍵なのである。

つづく





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浅井会長による「三大秘法抄」の講義録其の二

2017年02月17日 04時05分01秒 | 亡国の坂道 
本化・迹化・他方の菩薩について

ここで三種の菩薩の名のいわれについて説明する。これには二つの義があり、一には菩薩の所住の処に約す。すなわち、本化の菩薩は下方空中に住する。ゆえに下方という。他方の菩薩はこの娑婆世界の外の国土に住する。ゆえに他方という。迹化の菩薩を旧住の菩薩と名づける。

二には仏の本迹の教化に約す。すなわち、下方の菩薩は仏本地教化の菩薩である。ゆえに本化となづける。文殊等の菩薩は仏迹中教化の菩薩である。ゆえに迹化という。他方の菩薩は本地の教化ではなく、迹中の教化でもなく、ただ他方の仏の弟子である。ゆえに他方という。

以上この立名のいわれを知れば、三種の菩薩の親疎を知り、本文の「況や其の以下をや」の御意をほぼしることが出来よう。さらに日寛上人は、迹化・他方を制止してただ本化に付属せられた理由について、十二の釈を挙げ説明しておられる。

まず他方を制止した理由に三つ、本化に付属した理由を三つ、これを他方・本化の前三後三という。

1.他方は釈尊の直弟にあらざるゆえに。義疏第十に云く「他方は釈迦の所化にあらず」等云々。

2.他方は各々任国あるゆえに。天台云く「他方各々自ら任国あり」等云々。

3.他方は結縁の事浅き故に。天台云く「他方は此土に結縁の事浅し」等云々。

1.本化は釈尊の直弟のゆえに。天台云く「これ我が弟子応に我が法を弘むべし」等云々。

2.本化は常に此土に住するゆえに。太田抄に云く「地涌千界は娑婆世界に住すること多塵劫なり」云々。

3.本化は結縁の事深きゆえに。天台云く「縁深厚を以ってよく遍く此土を益す」等云々。

次に迹化本化の前三後三。

1.迹化は釈尊名字即の弟子にあらざるゆえに。本尊抄に云く「迹化の大衆は釈尊初発心の弟子に非ず」云々。「初発心」とは名字即なり。

2.迹化は本法所持の人にあらざるゆえに。本尊抄に云く「文殊観音等は又爾前迹門の菩薩なり、本法所持の人に非ず」等云々。

3.迹化は功を積むこと浅きゆえに。新家抄に云く「観音薬王等は智慧美しく覚えある人々といえども法華経を学す日浅く末代の大難忍び難かるべし」等云々。

1.本化は釈尊名字即の弟子なるがゆえに。本尊抄に云く「我が弟子之を惟え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等云々。

2.本化は本法所持の人のゆえに。輔記に云く「法これ久成の法なるゆえに久成の人に付す」云々。御義口伝に云く「此の四菩薩は本法所持の人なり、本法とは南無妙法蓮華経なり」云々。

3.本化は功を積むこと深きゆえに。下山抄に云く「五百塵点劫已来一向に本門寿量の肝心を修行し習い給う上行菩薩」等云々。

以上を以って「普賢文殊等にも譲り給わず、況や其の以下おや」の御意はあきらかである。

ここで附言せねばならぬことは、「本化は釈尊名字即の弟子」等のことである。上行菩薩は釈尊の弟子であるのに、その再誕たる大聖人が何ゆえに本仏かという疑問が当然おきよう。上行菩薩が釈尊の弟子の立場を取るのはこれ教相の所談である。釈尊一仏を中心とした熟脱の化導の中において、二仏が並出すればその化を破る、よって上行は一往弟子の立場を取り釈尊の久成を明かしてその化を助け、また末法のためには、「子父の法を弘む、世界の益あり」の世界悉檀の上から父子・師弟の姿をとるのである。

もし文底の意を以ってこれを見るならば、上行菩薩の本地は久遠元初の自受用身である。よって、上行の他に名字即本因妙の釈尊はなく、名字本因の釈尊の他に上行はない。実に本課妙の釈尊に対して、本因名字の釈尊を本化上行の名を以って呼ぶのである。すなわち、久遠元初の自受用身、末法に出現して三大秘法を一切衆生に授与せられんに、その手継証明のため、垂迹の身を上行として仮に付属を受けられるのである。されば久遠元初の自受用身は本地、上行菩薩はその垂迹、再誕は日蓮大聖人であらせられる。ゆえに血脈抄には「本地自受用身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」と仰せられる。まさしく、大聖人は外用教相に準ずれば自受用身の垂迹上行の再誕である。よって大聖人を即久遠元初の自受用身、末法下種の御本仏と仰ぎまいらせるのである。

「されば此の秘宝を説かせ給いし儀式は・・・・・」以下は、釈尊が内証寿量品において本門の本尊を説き、その付属の儀式を明かすところである。この儀式は爾前経や法華経を説いた時とは全く異なる。すなわち、説法の場所は寂光本有の国土であり、そこにいらっしゃる教主は本有無作の三身であり、所化もまた同じであると。

「能居の教主は本有無作の三身なり」

この「本有無作の三身」とは、内証寿量品の意を以って、その教主を論じ給うゆえにかく仰せられたものと拝する。このことは日寛上人の次の御指南に明らかである。すなわち法華取要抄文段に云く「もし文上の寿量品の意に拠(よ)れば、能化の教主已(すで)に四十二品の無明を断じて妙覚究竟の位に入る、能化既に爾り、所化亦爾り。もし本化付属の内証の寿量品の意に拠れば、能化の教主五百塵点の当初凡夫の御時、本地難思の妙法を即座に開悟し、名字妙覚の成道を唱うるなり、これを本地自行の成道と名くるなり、能化すでに爾り、所化亦然り」と。

寿量品に説き顕された御本尊について

御本尊が寿量品に説き顕されたということについて少しく説明すれば、正しく御本尊は寿量品の儀式によって顕われるのである。すなわち、宝搭品の時に釈迦・多宝の二仏座を並べ、分身来集し、涌出品の時本化涌出し、寿量品に至って十界久遠の上に国土世間すでに顕われ、一念三千の本尊の儀式すでにここに顕われている。しからば、御本尊は在世今日の寿量品の儀式を移したものと云えば大間違いの謗法となる。今日寿量品の儀式は在世脱益文上寿量品の本尊であり、これ舎利弗・目連等のためである。ここに内証寿量品に説き顕わす御本尊という意味を深く拝さねばならぬ。実に内証の寿量品に説き顕わす御本尊は、今日寿量品の儀式を以って久遠元初の自受用身一身の相貌を顕わすもので、これ正しく末法下種の御本尊である。

「問う、此の御本尊の為体(ていたらく)は今日寿量品の儀式を移すとせんや、久遠元初の本仏の相貌(そうみょう)を顕わすとせんや。もし今日寿量品の儀式といわば、すなわちこれ在世脱益の本尊にして末法下種の本尊に非ず。もし久遠元初の本仏の相貌といわば、二仏並座・本化迹化・身子目連等あに今日寿量品の儀式にあらずや。答う、此の御本尊は正にこれ文底下種の本仏・本地難思境智冥合・久遠元初の自受用身の一身の相貌なり」と。

さらに云く「問う、正しく本尊の為体二仏並座・本化迹化・身子目連等あに今日寿量品の儀式にあらずや。答う、今日寿量品の儀式は文上脱益・迹門理の一念三千教相の本尊なり。もし遺付の本尊は文底下種の本門・事の一念三千の観心の本尊なり、然るに本事已往のもし迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん、ゆえに今日寿量品の儀式を以て久遠元初の自受用身の相貌を顕わすなり、妙楽のいわゆる『雖脱現在具騰本種』之を思い合わすべし」と。以上の御指南を以って、内証の寿量品に説き顕わす御本尊の深意を心解すべきである。此の文底下種の御本尊を神力品において本化上行菩薩に付属せられたのである。また「上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出し」の「寂光」とは仏の住所である。その寂光より出現した上行は、菩薩とは名乗るも実に御本仏たるの意、この辺にも顕われている。

三大秘法の弘通の時を明す

本文

『問う、其の所属の法門仏の滅後に於いては何れの時に弘通し給う可きか。答う、教の第七薬王品に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云々、謹んで経文を拝見し奉るに、仏の滅後正像二千年過ぎて第五の五百歳・闘諍賢固白法隠没の時云々』 

この御文は、三大秘法弘通の時を明かす段である。神力品で付属された三大秘法は釈尊の滅後には、いかなる時に弘通されるのか、との問いを挙げ給い、法華経の薬王品の「後五百歳中広宣流布」の経証を以って、正像二千年を過ぎて、末法の始めの五百年であると断定遊ばしている。

広宣流布の二義について

末法始めの五百年を三大秘法広宣流布の時と仰せられるのは、法体の公布、すなわち日蓮大聖人が御出現せられ、三大秘法を初めて建立遊ばすことを仰せられる。これ流行の始まりである。また逆縁に約すれば広宣流布である。広宣流布には二義がある。一には順縁広布、化儀の広布ともいう。日本国一同に日蓮大聖人を信じ南無妙法蓮華経と唱える時をいう。諸法実相抄の「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」との仰せがこれである。二には逆縁広布、また化儀の広布に対して法体の公布ともいう。これ日蓮大聖人の御化導に対し一国瞋恚(しんに)をおこし怨嫉誹謗の逆縁で満ちることを指す。

顕仏未来記に云く「諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん、此の人は守護の力を得て、本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩・我深敬等の二十四文字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し」と。この順・逆二縁の広宣流布の意を以って「後五百歳中広宣流布」を日寛上人判じて云く「もし逆縁に約すれば広宣流布なり。もし順縁に約すれば未だ広布せずといえども、後五百歳の中より漸々流布疑いなきものなり。もし此の一事虚しくなるならば、世尊は大妄語、法華経も虚説となるべし、いかでか其の義これあるべき、その義なくば日本国一同に流布すべきなり」と。

本文

『問う、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し、機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給うべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給うは教主釈尊の慈悲に於いて偏頗あるに似たり如何。答う、諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照らすと雖も謗法一闡提の濁水には影を移さず、正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶えり、像法一千年には法華経の迹門機感相応せり、末法に入って始めの五百年には法華経の本門前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり、機法相応せり。今此の本門寿量品の一品は像法の後の五百歳機尚耐えず、況や始めの五百年をや、何に況や正法の機は迹門すら尚日浅し、増して本門をや、末法に入ては爾前迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量品の一品に限りて出離生死の要法なり、是れを以て思うに、諸仏の化導に於いて全く偏頗無し等云々。』

前段を受け、疑難を遮して正像未弘・末法流布の意を重ねてお説き遊ばす段である。仏の慈悲というものは平等であるべきに、それほど勝れた三大秘法を、正像二千年の衆生には与えず、末法の衆生にだけと限るのは、偏頗(へんぱ)えこひいきがあるようではないかと。この疑難に対し、「機法相応」を以って〝仏の慈悲に偏頗なし〟とご会通遊ばすのである。すなわち正法千年の衆生の機根に対しては、小乗・権大乗が相応し、像法千年には法華経迹門の教えが衆生の機根と合っている。そして末法に入って始めの五百年-末法万年の弘通であるがその始めに約して五百年というーは法華経本門の前後十三品措(お)いて、ただ寿量品の一品、これ内証の寿量品即三大秘法、を弘通すべきである。末法の衆生の機根とこの法が相応してうのである。

いま、この三大秘法は像法の後の五百年の衆生ですら耐えられない。機根と法がなじまない、病は軽く薬が強いのである。いわんやその前の五百年、いかにいわんや正法千年の衆生は法華経迹門ですら習熟の日が浅い、まして本門はなおさらである。だが、末法に入れば本未有善の荒凡夫にとって塾脱の爾前迹門は全く力がない。ただ下種の三大秘法だけが生死を出離することができる大法であると仰せられるのである。およそ仏の化導は病と薬とのごとくである。病浅ければ薬も小薬、重病には高貴薬があたえられるのである。軽病に強い薬は益がないばかりか、時として害がある。正像二千年の衆生はすでに過去に下種を受けている。よってこの下種を小乗・権大乗あるいは法華経迹門を縁として覚知し、成仏を遂げる機であるから、下種の三大秘法はは最高の大法たりといえども不要なのである。かえって誹謗でもすれば過去の下種善根を破ることになる。ゆえに本尊抄には「謗多くて塾益を破るべき故に之を説かず」と遊ばされている。しかし末法は過去の下種なき荒凡夫、久遠元初と全く同じ機である。よって久遠元初の本法たる三大秘法を以って仏は衆生をお救いになるのである。このように、機法相応を考えれば、仏の慈悲はいつの時代に対しても平等であり一分の偏頗もないのである。

本文

『問う、仏の滅後正像末の三時に於て、本化・迹化の各各の付属分明なり、但寿量品の一品に限って末法濁悪の衆生の為なりといへる経文未だ分明ならず、慥に経の現文を聞かんと欲す如何。答う、汝強ちに之を問う、聞て後に堅く信を取る可きなり。所謂寿量品に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く、汝取て服す可し、差じと憂うること勿れ」等云々。』

釈尊滅後、正法・像法・末法の三時に、本化・迹化がそれぞれ付属を受けて弘通することはよくわかった。すなわち本化が神力品の別付属を受けて末法に、また迹化は属累品の総付属を受け、観音・薬王等の菩薩が南岳・天台等と出現したこともよくわかった。但し、本化上行菩薩への別付属の法体が寿量品の一品(内証の寿量品)であり、この内証寿量品に限って末法の衆生の為であるということは未だはっきりしていない。よって経文の証拠を聞きたい。これ「寿量品一品に限る」という以上、寿量品にその確かな証拠があるはずであるということからの問いである。ここは、いよいよ次文において、内証寿量品に説かれた三大秘法の体を明かす御用意の段であるから、強き決定信を促され「聞て後に堅く信を取る可きなり」と誡め給い「是好良薬云々」の経文をここにお示し遊ばされるのである。

是好良薬について

この「是好良薬」について、天台・妙楽の解釈では、釈尊一代の経教を指したり、あるいは法華経を指したりしているが、これは像法時代の付属に約しているゆえである。今末法本化付属の立場より「是好良薬」を判ずれば、まさしくこれ本門の本尊となる。ゆえに大聖人は観心本尊抄に「是好量薬とは、寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是れなり。此の良薬をば仏猶迹化に授与し給わず、何に況や他方をや。」と御断定遊ばすのである。これぞ神力付属の正体である。寛尊はこの文意を訳して「今の是好良薬は脱益の寿量品の文底、名体宗用教の南無妙法蓮華経これなり」と。さらに是好良薬を以って「名体宗用」等と判じ給うにについては是好良薬とは色香美味皆悉具足であるとして、色は般若即妙宗、香は解脱即妙用、味は法身即妙体、秘密蔵は妙名、依教修行は妙教のゆえに是好良薬は即五重玄であると訳しておられる。

そして寛尊はさらに、この五重玄の深意について「秘事なり」と断られた上で「これすなわち寿量の肝要文底の三身なり、ゆえに知りぬ、久遠元初の受用身・報中論三の無作三身なり、この無作三身の宝号を南無妙法蓮華経とうなり、乃至この無作三身はすなわちこれ末法の法華経の行者なり、もし爾ならば是好良薬の文あに人法体一の本尊にあらずや」と。まさしく名・体・宗・用・教の深意、人法体一の深旨、炳呼として明らかである。ここに至って上文の神力品「如来の一切の所有の法」等の文と、次下の「寿量品に建立する所の本尊は乃至無作三身の教主釈尊」との脈絡、まさに掌中の菓のごとく了了分明である。さて、「是好良薬」が本門の本尊と決定されれば、「今留在此」は御本尊所住の処であるから本門の戒壇、「汝可取服」は取は信心・服は唱題であるから本門の題目であること自ずと明らかである。

三大秘法の正体を明かす

本文

『問う、寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加う可からず、然りと雖も三大秘法の正体如何。答う、予が己心の大事之に如かず、汝が志無二なれば少しく之を云わん。』

寿量品ーいうまでもなく内証の寿量品のことである。この寿量品が末法濁悪のためであるとの経文がいまはっきりと示された以上、自分勝手な批判は一切慎むべきである。しかしながら、その三大秘法の正体とは、いったいどのようなものか。いよいよ三大秘法の具体的な相(すがた)を明かし給う段である。この三大秘法は大聖人の出世の御本懐、心中深秘の大法なるゆえ、これを明かし給うに当り、「予が己心の大事之に如かず、汝が志無二なれば少しく之を云わん」と重誡遊ばすのである。

本門の本尊を明かす

本文

『寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作の三身の教主釈尊是れなり。寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云々。疏の九に云く「一身即三身なるを名づけて秘と為し、三身即一身なるを名づけて密となす、又昔より説かざるを名づけけて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名づけて密と為す、仏三世に於いて等しく三身あり、諸教の中に於いて之を秘して伝えず」等云々。』

まず本尊の体相を明かし給う。ここに「教主釈尊」とあるから、これは印度出現の法華本門の教主釈尊であるととれば、大謗法となる。文上本門の釈尊なら、すでに上の文に度々あらわれている。それを明かすのに「汝が志無二なれば」等の重誡は不要といわねばならない。

まさに、かかる重誡のうえに明かし給う本尊こそ諸教に秘して説かれなかった久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊すなわち末法出現の日蓮大聖人の御事なのである。ゆえに日寛上人は「寿量品に建立乃至教主釈尊是れなり」の文意を端的に「我が内証の寿量品に建立する所の本尊はすなわちこれ久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊これなり」と御指南された。「本因妙の教主釈尊」とは大聖人の御事であることは、血脈抄の「我が内証の寿量品とは脱益寿量文底本因妙の事なり、其の教主は某(それがし)なり」の金文に明らかである。

次に、本文を具に拝する。まず「五百塵点の当初」とは久遠元初のことである。すなわち五百塵点のゆえに久遠、当初のゆえに元初である。「此土」とは、総じていえば他土対してこの娑婆世界をいうが、別していえば印度に対してこの日本をいう。まさしくここには、三大秘法有縁の妙国・大日本を指して「此土」と仰せられるのである。この御聖意は日向記に明らかである。すなわち「本有の霊山とは此の娑婆世界なり、中にも日本国なり、法華経の本国土妙娑婆世界なり、本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり」と。

さらに観心本尊抄には「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月氏・震旦に未だ此の本尊有さず」と、「此の国」とは日本国である。

かくいえば疑問がおきよう。日本が久遠元初以来三大秘法有縁の本国土ならば、成住壊空の四劫はいったいどうなるのか、五百塵点の当初とは地球の成立すをさかのぼること久々遠々の昔のはずである、その頃より日本があるわけがないではないかと。答えるに、たしかに大宇宙は成住壊劫の四劫によって消滅をくりかえしている。ゆえに壊劫の時至れば地球も日本も滅失して無相となる。だがまた成劫の時至れば此の娑婆世界は生じ、日本国は涌出して本の相を現ずるのである。この趣を天台は文句に「問う、劫火洞然として天地郭清す、いかんぞ前仏・後仏此の山に同居し給うや。答う、後の劫立本の相還って現ず、神通を得たる人昔の名を知って以って今に名づけるのみ」と表現している。

この意を以って論ずれば、まさしく日本は久遠元初以来、三大秘法有縁の本有の国土であり、そのゆえに常に日本と名づけられる。これを自然感通という。ここにおいて、日向記の「霊山とは日本国なり」の御意が胸に収まろう。「此土」とはまさにこの本有の妙国日本を指し給うこと明らかである。「有縁深厚」とは、主・師・親の三徳の縁が深く厚い、ということ。三徳有縁は本尊として尊敬すべきである。

「本有無作三身」とは、印度出現の釈尊のごとく三十二相を以って身をかざらず、〝本のままの凡夫のお姿の仏様〟ということである。ゆえに御義口伝に「久遠の事」を釈して「此の品の所詮は久遠実成なり、久遠とははたらかず、つくろわず、もとの儘(まま)と云うなり、無作の三身なれば初めて成せず、是れ働かざるなり、三十二相八十種好を具足せざれば是繕(つくろ)わざるなり、是れを久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり、実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり。」と遊ばす。この御指南によって明らかなように「本有無作三身」とはまさに〝凡夫のお姿の御本仏〟ということである。

さて、「久遠元初以来、日本国に三徳の縁深き、凡夫のお姿の御本仏」とは誰人にてましますか。日蓮大聖人を措(お)き奉って、他にあるべきはずもない。まさしくこの御文は、久遠元初の自受用身の再誕日蓮大聖人を以って末法の本尊とすべしという御意に他ならぬ。念のために、無作三身の教主釈尊とは三十二相の釈迦仏にあらずして、凡夫位の御本仏日蓮大聖人なることの文証を二・三挙げれば、諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏なり」と。

「凡夫は体の三身」の「凡夫」とは別して日蓮大聖人の御事であり、「仏は用の三身」の「仏」とは本果の釈尊のことである。大聖人こそ体の三身・本仏であり、この本仏を妙法蓮華経と呼ぶこと文に在って文明である。船守抄に云く「過去久遠五百塵点のそのかみ、唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」「我等衆生」とは総じての仰せであり、別していえば大聖人御一人であられる。すなわち五百塵点のそのかみの教主釈尊とは日蓮大聖人なりと、まことに明々白々である。

また御義口伝に云く「如来とは釈尊、.総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無の三身なり、今日蓮等の類いの意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」と。

末法の法華経の行者とは日蓮大聖人の御事たるこというまでもない、なれば、日蓮大聖人こそ無作三身であり、そのお名前を南無妙法蓮華経と称し奉るのである。以上列挙の御文を拝すれば、無作三身とは日連大聖人なることは明らかである。されば日蓮大聖人の御当体こそ本門の本尊にてましますのである。ゆえに謹んで御本尊のお姿を拝すれば、中央に「南無妙法蓮華経日蓮在御判」と大書し給うのである。

次に「如来秘密神通之力」の結文と、天台文句の「一身即三身云々」が引かれているが、所印の所以は無作三身の衣文なるがゆえである。先に挙げた諸法実相抄の文と、御義口伝の次の御指南を拝すれば所印の御意を拝することができよう。「建立の御本尊の事、御義口伝に云く、此の本尊の衣文とは、如来秘密神通の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥(たしか)に霊山に於いて面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と。

つづく


 



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