亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

国立戒壇を屁で笑い大坊棟札は贋作などと騒ぐ禿人たち

2018年02月22日 12時51分12秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.42~45)に「大坊棟札の裏書きについて」と題して、禿人たちは次の如く記しています。

云く「なお、また浅井らが、天母山戒壇説を宗開両祖以来の正義なりとする根拠として、金科玉条のごとく尊ぶ、『日興上人お筆の大石寺大坊棟札裏書き』であるが、棟札というからには大石寺上棟の時に入れる筈なのに、裏書きの日付は、大石寺が完成した正応三年十月十三日より半年も後の正応四年三月十二日となっており、文字の特徴も徳川時代のもの、内容的にも疑義が多い。そして、何よりきわめつけは、日興上人の御名の文字が、日興と書かれるべきところ、日〇と間違えているのである。日興上人の御筆であるならば、どうしてこのようなことがありえようか。

また、本来末尾には筆者の自署・花押が記されている筈なのに、『日興日目』という不自然な記名のみあって花押がどこにもない。これも日興上人の御筆ではない証拠である。姑息にも、浅井は、この件を当方から突かれることを察知して、六十五世日淳上人がこの裏書きの一部、『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し』箇所を引用せられていることを挙げ、『この裏書きを後世の偽作というのは日達上人の大嘘だ』などと強弁しているが、日淳上人は元朝勤行のいわれを述べられる中で、この裏書きのうちの、本宗教義と合致する箇所を引かれただけであって、もとより、裏書きの真偽を論ぜられたわけではない。このような、全く論証性に欠けた反論は、単なる子供騙しであって、恥の上塗りと知るべきであろう。

また、裏書きに対する疑義は、日達上人が初めて示されたのではない。本宗の碩学・五十九世日亨上人も、すでに、『この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りに似せるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし』と仰せられ、この棟札と称するものは、表が模刻された略式本尊で、棟札としての意義を具足しておらず、裏書きの文は徳川時代の御家流の文字で、全く信用するに足らず、だだ全体の形ばかりが棟札らしく似せてあるだけの代物、と断ぜられている。

浅井昭衛は、こうした日淳上人御教示を知っていながら、なお自らの己儀を通すために、あろうことか、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、日達上人を大嘘つきであるこにしてしまったのである。こんな不正直の代名詞のような悪人が、もとより難信難解・甚深甚深の正法を、正しく信解できよう筈がない。

堤婆達多は、六万蔵を暗記しながらも、正直な信なき故に無間に堕ちたが、丸暗記だけが得意で、不正直を絵に描いたような浅井昭衛も、この堤婆の先例を『敢えて人の上と思し食すべからず』(御書877㌻である。)」などと、口をへの字に曲げて悪態をついています。

いま禿人(とくにん)たちが主張する大坊棟札に対する大げさな決めつけは、問題の本質を論ずることなく、単なる状況証拠と思しき現状をつなぎ合わせて大坊棟札の真贋について、ああでもない、こうでもないと騒ぎ立て、浅井氏を非難中傷しているのでありますが、禿人たちが主張していますように大坊が建立された時期は、御開山日興上人が御存生の時の正応三年十月に建立された建物であるならば、その大坊の屋根裏に取り付けられた棟札は、大坊を立て替えする時に出てきた棟札である筈であります。だとするならば、たとえ、棟札に刻まれた建立時期のずれ、花押の有無、あるいは書体の真贋などは、いまさら問題にすべき事柄ではありません。

それを禿人たちは鬼の首を取ったような大騒ぎをして「大坊棟札に刻まれた年代がおかしい」「文字が徳川時代の御家流の書体に似ている」あるいは「日興上人の花押が無いうえに日興ではなく、日〇と記されているのは贋作の証拠だ」などと取るに足らない問題を取り立てて、浅井氏を非難中傷しているのでありますが、それは単なる彫刻師の誤りか、あるいは当時は、花押などを抜いたその種の棟札も一般的に存在したかも知れないのであります。それを禿人たちは実にくだらないどうでもいいような問題を取り上げて、大げさに騒ぎ立てる態度こそ木を見て森を見ない典型であります。

それよりも何よりも、御本仏大聖人様の「御本願は那辺にあるのか」「一期の御遺命とは何か」といった問題を探求し、命かけて大聖人様の御本願と御遺命を死守する事こそ最も大切な事柄なのであります。それをないがしろにするばかりか、今の坊主たちは一番大切な「御本仏の一期の御遺命」たる広宣流布の暁の「国立戒壇」を鼻紙のようにゴミ箱に捨て去るという、最大の悪事を犯しつづけたまま未だ反省するどころか、目を剥いて国立戒壇に反対し、口角泡を飛ばして御本仏の御本願に背逆して大謗法を犯しつづけて緊張感のないだらけた狂態をさらしていますが、こうした崩れた生活態度こそが天下に様々な災いをもたらす事になのであります。御本仏大聖人様の嫡流を誇っていた富士門流の僧侶たる者が、いま、禿人と呼ばれる所以が其処に存するのであります。

禿人とは、Wikipediaによれば、「頭髪を剃って外見だけ出家者のすがたをしているが戒を破り教えを守らない者、もしくは生活のためだけに僧となった者を罵る語。「如是之人名禿人」とあり、破戒・謗法を行う者、あるいは飢餓で困り食事のみを求めて髪の毛を剃って出家しただけの者を指す」等と記していますが、門外漢ながら驚くほど見事な指摘をしております。

それはしばらく置くとして、近年我が国の世情に目を転ずれば、政治は腐敗して国民を騙すことに重きをおき、官僚は政権に跪いて国民に嘘をつくという。まるで人心は禽獣にも劣り、国土は悪鬼乱入によって、年々歳々繰り返される自然災害の増大と凶悪罪の頻発を見れば、世は正に末世のごとき様相を呈しています。最近の異常気象による災害は、数多くの命と住居と家族を奪い、郷土は跡形もなく破壊され、不幸に泣く人々は後を絶ちません。加えて多くの悪人たちが暗躍して種々の凶悪犯罪に手を染め、無辜の人々が様々な犯罪に巻き込まれて尊い命を奪われるという、殺人事件の起こらない日はないほど異常な状況に晒されています。

こうしたなかで大聖人様が立正安国論で仰せの警告に従って、大聖人様御在世当時の世相と今日の世情を比較・概観すれば、安国論御勧由来には「正嘉元年八月二十三日の戌亥の時前代に超えたる大地震、同二年八月一日大風、同三年大飢饉、正元元年大疫病、同二年四季に亘って大疫病已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せつけて種々の御祈祷有り、爾りと雖も一分の験も無く、還って飢疫等を増長す」等と仰せられ、まったく手の付けられないような惨状をそのまま描写せられておられます。大聖人様はこれらの惨状を御覧になられて立正安国論を以て、時の国主・北条時頼を諫暁遊ばされ、正法治国・邪法乱国の根本原因を明快に明かされた後、安国を得る方法は、速やかに念仏、真言、禅、律等の邪教に対する施を止め、正法たる三大秘法を立てて、国を安んずる事を勧奨遊ばされているのであります。

その立正安国論の冒頭には「近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に允てり、死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢えて一人も無し」と当時の惨状を指摘され、つづけて「顧れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連る、三宝世に在し百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰え其の法何ぞ廃れる、是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや」と、大聖人様は旅客の言葉を以て問を起こされ、答として「些か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てて相去り聖人所を辞して還らず、是を以て魔来り鬼来り、災起り難起る」と、災難や不幸の起こる根本原因は、世の中に間違った邪義・邪宗が蔓延しているにも拘らず、万民がそれら邪教を尊崇している実態を挙げられ、これらの謗法を止めなければ、後に自界叛逆・他国侵逼の二難が必ず起こることを、問答形式を以て時の国主を諫暁せられたのであります。

此処で云う「天変地夭」とは、天体と地上の異変、すなわち地震、火山の噴火、疫病の流行等を指し、「二離璧を合せ五緯珠を連る」とは、太陽と月は平常に輝き、火星、水星、木星、金星、土星などの五星も泰平の相を示して運行していること。また、仏・法・僧の三宝も世にましまし、八幡大菩薩も釈尊に百王まで守護する請願を立てているが、未だ百王に至っていないにも拘らず、此の世は早くも衰えてしまった。これはいったい如何なる法が廃れたために、こうした禍が毎年繰り返されるのであろうか、との旅客の問に対し、大聖人様は金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の経文を引かれて、災難興起の由来と根本原因を経証を以って詳しく御教示遊ばされておられます。

また安国論には「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」仰せられています。此処で云う「謗法の人を禁める」とは、前文に挙げた念仏、真言、禅、律等の爾前権経を拠りどころにして、飯を食らっている坊主に対する布施を止めることを示し、それに対して「正道の侶」とは、末法只一人の御本仏日蓮大聖人様の御事を指すのであります。ただ総じては、三大秘法を正しく広める日蓮正宗の御僧侶を含めて正道の侶と云いたいところでありますが、いま、その者たちが富士門流七百年来の伝統教義を歪曲するという重大な過ちを犯しているところに、今日の大きな問題が潜んでいるのであります。

話は変わりますが、かつて日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会は、戸田城聖氏が逝去して間もなく、昭和三十三年の初頭から政治進出を本格化させていました。その根本目的は、広宣流布を早めるために多くの同志を国会に送り、国立戒壇の建立を実現することだけが当初の目的だったのであります。それゆえ戸田氏の亡き後、池田大作は次のような講演を繰り返し、創価学会の選挙について次のように会員に語りかけていました。

云く「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのであります」(大白蓮華 昭和34年6月号)と。

つづけて「所詮、王仏冥合の実践の関所ともいうべき選挙戦は、日蓮大聖人の至上命令である。だれが、なんと批判しようが、末法の救世主日蓮大聖人の大精神おば、われわれ地涌の菩薩は、断固、選挙を通して正義を貫き通そうではないか」(大白蓮華 昭和36年6月号)と。

さらには「私どもの選挙戦は、他の政権欲を考えておる政治、選挙と違います。第一番目に、日蓮大聖人の御遺命である王仏冥合をめざしての、世界最高の崇高なる選挙戦であり、政治であります」(聖教新聞 昭和38年4月4日)等と声を大にして叫んでいました。

つまるところ創価学会の選挙戦は、日蓮大聖人様の御遺命たる国立戒壇を達成するための選挙ということで学会員は使命感に燃え、選挙戦を闘うことは折伏の功徳とまったく同じ功徳があり、自らの宿命転換につながる仏道修行と指導されていたのです。そのため、多くの婦人は家事を投げ出して選挙運動に没頭し、あるいは幼児を抱えた婦人は高熱の乳飲み子を背中に背負って投票依頼に明け暮れる。また勤め人は投票日に合わせて有給休暇を取り、そうした制度のない職場に勤務する者たちは、上役や同僚の目を気にしながら欠勤や早退するなどして選挙運動に多くの時間を割いたのです。それに自営業者は開店休業も同様に、商売そっちのけで選挙運動に奔走して票の獲得をするといった、創価学会の選挙はそれこそ、自分たちの宿命転換を図る絶好のチャンスと捉えて選挙戦に臨んだのであります。

とにかく学会の選挙戦は日頃の折伏活動と相まって、激増する学会員の爆発的な信仰のエネルギーを選挙戦に駆り立てることに成功した池田は得意満面となって鼻高々だったのです。ところが、国立戒壇を掲げて選挙戦を闘って見ると、一般の多くの有権者は創価学会をきらって、学会員以外の投票は殆ど見込めないという、当初の予想とは打って変わって、世の識者や世間の猛反対に会う事となり、国立戒壇を前面に掲げての選挙戦は、甚だ不利だということが解ってくると、あれほど熱心に叫んでいた国立戒壇を池田はあっさり捨ててしまいました。こうした苦い選挙戦を契機に、手段と目的が完全に入れ替わってしまったのであります。

要するに池田大作の政治志向は政治権力を奪取することが主目的となり、国立戒壇は反って邪魔な存在となってきたのです。それ故に、時の経過と共に池田の信仰心は上辺だけのものとなり、囲繞する学会員から寄せられる敬愛は、己自身にそなわる本然的な人徳と思い込むといった高上がりを起こして次第に歪んだものになっていきました。そうして池田は宗門から国立戒壇を捨てさせるために、昭和39年5月3日の創価学会の本部総会に於いて、国立戒壇に代わる堂宇として、正本堂の建立について初めて言及し、宗門をはじめ学会員を驚かせています。

云く「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。・・・正本堂の建立は事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」(聖教新聞 昭和39年5月5日)と。

日達管長はその話を承けて「今回、池田会長の意思により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」等と謝礼を述べた後、昭和40年9月に発布された正本堂の供養勧募に係る訓諭では「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限りを尽くして供養し奉り、信心の一端を抽んでられん事を望む」とした訓諭が発せられました。その訓諭を目の当たりにした学会員は、一眼の亀が浮木に会うような、今生人界の思い出として捉え、死力を尽くして正本堂建立の御供養に進んで参加したのであります。

それから数ヶ月後に開かれた第一回目の正本堂建設委員会が品川の妙光寺で開催された際、池田は正本堂の寄進者である自分の席が日達上人より、一段下座に用意されていたことから腹を立て、頭から湯気を立てて怒り出し、正本堂建設委員会の開催のための準備に当たった妙光寺の柿沼広澄住職を関係者の面前で声を荒げて面罵し、鶴の一声で委員会を流会させてしまったのです。わざわざ本山から日達上人が列席していたにも拘わらず無駄足を踏ませて帰してしまいました。後日、柿沼住職はその責任を取らされ、総監職を辞任せざるを得ない状況に追い込まれてしまったのです。

この頃から池田は本山に対する専横を益々強め、正本堂寄進の発言から一年も経たないうちに次のように豹変し、驚くべき発言をしています。池田は国立戒壇の衣を完全に脱ぎ捨て、建築中の正本堂を指して、此れが本門の戒壇に当たると言い出したのであります。

云く「正本堂の建立は、事実上の本門戒壇の建立を意味いたします。このことは日達上人のご説法によっても、明らかであります。戸田先生もわれわれも、いちじ、『国立戒壇』といってきました。しかし、どこを探しても、御書には『国立戒壇建立』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです。いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。ですから、皆さんは『創価学会は国立戒壇が目標である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。それが本門戒壇である。これでもう決定されているのですと。私ども創価学会員ならびに日蓮正宗信徒の真心の結集によって、本門の戒壇堂は、もうできてしまうのです。・・・国家予算によって、国立戒壇が建立されるということはありえないのです」(聖教新聞 昭和40年9月22日)と。

そうしたところ池田の発言にダメ押しをかけるように、日本共産党の谷口善太郎氏から、創価学会が主張していた国立戒壇について、船田衆議院議長に質問趣意書が提出されたのです。池田はこうした国会の動きに大いに驚き、昭和45年4月14日、宗務院の早瀬総監と阿部教学部長を学会本部に呼びつけ、次のような申し入れをしています。

池田「国立と云うと追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人も現猊下も国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠の蒐集)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方が良いと思うがどうか? もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になっていまう」

早瀬「非常に重大な事である。充分猊下にお伝えし、申し上げる。その上で御返事する」

池田「非常に急ぐので早く願いたい。(中略)また何等かの方法で、この件につき宗門内の統一を願いたい。今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。(中略)猊下よりそう言うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい」等と。

早速本山は日達管長猊下出席の下に学会と緊急会議を開き、池田大作の要望を受け入れ、大聖人様窮竟の御本願たる国立戒壇を捨て去るという背反を平然とやってのけ、4月23日、次のような邪義に染められた報告書を国会に提出して国を欺いたのであります。

1.「本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

2.既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和47年10月12日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。

3.一時本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である」と。

そればかりか、池田の権勢欲と政治志向は宗門全体を巻き込んで、大聖人様の宗旨の根本たる、富士門流七百年来の教義逸脱と宗門に対する圧力と専横が一段と強められていくのであります。中でも三大秘法の最大事であるところの「国立戒壇」を捨てた後はそれに代わる建物として寄進した正本堂は昭和47年10月12日に完成しました。これには学会員から三百五十億円という巨額の資金を集めて宗門の境内の外れに正本堂なるニセ戒壇を建て、それを広宣流布の「事の戒壇」と偽ったのであります。

こうして国立戒壇の衣を脱ぎ捨てた池田と日達管長は、詭弁の上に詭弁を重ねるといった矛盾を繰り返しながら、富士門流七百年の伝統教義は破壊されていくのであります。

そして池田は創価学会の政界進出の目的について、世間のさまざまな批判を躱すために、ついに本音を吐露することになるのであります。

云く「創価学会の政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない。あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門、学会の事業とは無関係であることを確認しておきたい。我々は、此れまで公明党のために一生懸命応援し、守り育てて参りました。だが第三政党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒を見るとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判を受けるのも当然の理でありましょう。そこで、これは提案になりますが、創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原則を、更に貫いてもらいたいのであります。・・・党としては一切、宗教上の問題を政治の場で論議する必要はない。また、あってもならない。また、宗教上の目的を党の目標とする必要はないし、すべきでもない。あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守し、宗教的には中立を貫き、政教分離でいけばよいと思うのであります」(大白蓮華 昭和45年6月号)と。

この発言によって、国立戒壇は完全否定される事となるのでありますが、日達管長は池田の発言を裏書保証するように、次のごとく述べています。

云く「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一本尊此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどとは仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔になるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。創価学会においても、かつて『国立戒壇』という名称をつかったこともありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるがゆえに、その〝国立〟なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。今日、世間の人々が、〝国立〟という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います」(大日蓮 昭和45年6月号)等と。

ここで池田の云う、政教分離の話は、まんざら分からないまでもありませんが、当初の創価学会の選挙戦は広宣流布を早めるための選挙であり、大聖人様の御本願を達成するための選挙だった筈です。それ故に学会員は己の生活を犠牲にして公明党の票を獲得するために日夜奔走してきたのです。それが大衆福祉のための選挙戦だったと聞かされた時には、唖然として全身から力が抜けおちるような、失意のどん底に突き落とされてしまいました。考えてみれば八百万学会員は、池田と一握りの幹部の権力欲を満たすための道具として、ただ奉公させられたに過ぎなかったのであります。いわば創価学会の選挙は一方的に奉仕させられただけで、宿命転換につながる仏道修行などといって踊らされ学会員は学会員は見事に梯子を外されたのであります。

そうした間違いを厳しく指摘し、命がけで大聖人様の御本願と三大秘法の戒壇義をたった一人で守り抜いた勇気ある方こそ、妙信講の浅井昭衛氏だったのであります。残念ながらその時、宗内には正系門家としての教義逸脱の問題を指摘し、伝統教義の曲がりを掣肘し、身を捨てて大聖人様の御遺命を護る正僧と呼ばれる僧侶は、池田の威を恐れて只の一人もいなかったということであります。まさしく当時の宗門は全ての坊主が日達管長・阿部教学部長の垂れ流す邪義に同調し、池田大作礼賛の空気一色に塗りつぶされていたのであります。したがってこの時期、へたに国立戒壇の「こ」の字を口に出そうものなら、国立戒壇に反対する坊主たちからそれこそ、寄ってたかって袋叩きにされるような空気に支配されていたのであります。

そのような中でも妙信講の浅井昭衛本部長だけは、大聖人様の御本願はどこまでも、広宣流布の暁の国立戒壇であることを訴え、宗門と創価学会の誤りを追求し、一人正義を訴えていたところ、昭和49年8月12日、宗門は池田大作の意向を受けて、国立戒壇の旗を高々と掲げる妙信講を解散処分に付し、浅井甚兵衛講頭と浅井昭衛本部長を含む妙信講幹部十数名の信徒資格を剝奪し、除籍処分にしたまま今日に至っているのでありますが、それ以来今日に至るも、唯一富士門流を誇る日蓮正宗の中には、国立戒壇を叫ぶ僧侶や信徒は一人もいなくなるという、異常な事態がつづいているのであります。

そうしたところ禿人たちが今頃になって、摧破異流義考誌の中で「浅井昭衛は、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、日達上人を大嘘つきであるこにしてしまったのである。こんな不正直の代名詞のような悪人が、もとより難信難解・甚深甚深の正法を、正しく信解できよう筈がない。堤婆達多は、六万蔵を暗記しながらも、正直な信なき故に無間に堕ちたが、丸暗記だけが得意で、不正直を絵に描いたような浅井昭衛も、この堤婆の先例を敢えて人の上と思し食すべからず(御書877㌻である。)」などと、減らず口をたたいて悪態をついています。

禿人たちは三大秘法抄で仰せの戒壇義の歪曲という、極限の大謗法を未だに犯しつづけている大悪事を棚に上げて浅井氏を口汚くののしり悪口を書き連ねていますが、問題はそんな生易しい事柄ではありません。こうしたお門違いの卑劣な態度こそ「毛を吹いて傷を求め、皮を剪りて血を出す」のたとえの如く、大聖人様の正義たる問題を投げ捨てて、平然と誹謗中傷する姿こそが問題なのであります。

ここで禿人たちが言う「浅井昭衛は、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、云々」と言っている御指南の一部とは、大坊棟札の中に刻まれた次の御文であります。

修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し」とある御文でありすが、此の御文こそ、大聖人様の御本願を一刻も早く達成し、何処までも広宣流布を成し遂げようとする御精神が溢れた名文句であります。故に日淳上人は大坊棟札を真正なものとして扱われ、次のように仰せられているのであります。

云く「この元朝勤行とても・・・・二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つべき可なり』とあるのが、それであります」と。

いずれに致しましても、大坊棟札は真正なものであり、富士門流伝わる大切な御宝物(ごほうもつ)として、末永く保管に努めるのが正宗僧侶の責務である筈であります。それを邪宗の坊主が騒ぐならいざ知らず、日蓮正宗の坊主たちが贋作だ、偽物だ等と騒ぐ方が間違いであり異常なのであります。

此処で改めて三大秘法の説明をする事にします。つまり三大秘法とは「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」の三つをいうのでありますが、それを開けば、本門の本尊は「法の本尊」と「人の本尊」に分かれ、それに本門の題目は「信の題目」と「行の題目」に分けられ、戒壇は「義の戒壇」と「事の戒壇」に分かれ、これらを合わせて六大秘法といいます。さらにそれを開けば八万宝蔵になるといわれるものです。中でも「義の戒壇」とは、広宣流布するまでの間の戒壇の御本尊様の御座所を「義の戒壇」と称し、「事の戒壇」とは、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇のことであります。すなわち国立戒壇とは、天皇陛下の勅宣と日本国が国家意思の表明を闡明にして、事実の姿として国家で建てられる国立戒壇を「事の戒壇」とお呼びしてきたのであります。

その大事を日寛上人は「夫れ本門の戒壇に事有り義有り。所詮義の戒壇とは即ち是れ本尊所住の処・義戒壇に当たる故なり。例せば文句十に『仏其の中に住す即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏み給うべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ事の戒法と申すは是れなり』等云々、宗祖云く『此の砌に詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん』云々」(文底秘沈抄)と御教示せられています。

また第五十九世日亨上人は本門寺の戒壇=国立戒壇について「唯一の国立戒壇、すなわち本門寺の戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と仰せられています。

これを承けて第六十四世日曻上人は、昭和三十年に新築された奉安殿の落成式に於ける慶讃文に云く「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給はるところなり。上人心魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮堤の座主日目上人に付嘱してより、血脈の法主歴世に奉戴し、或る時は校倉を、或る時は土蔵を宝蔵として奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れリ。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して建立する所の戒壇なり』と。之は是れ、宗祖の妙法蓮華経が一天四海に広宣流布の時こそ之の時なり。・・・血脈付法の法主を継げる日昇・・・『時を待つべきのみ、事の戒法とは之なり』金言を身に体して、必ず来たるべき国立戒壇の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖人の法魂、安穏に常住し給わんことを」と。

この凜乎たる叫びこそ御本仏大聖人様の窮竟の御本願を戴した姿勢であり、正宗信徒の心情を集約して顕わされた慶讃文であります。そうした深信に大聖人様はおこたえ下さり、御法魂ははじめて安穏に常住し給わることが適うのであります。斯くして富士大石寺の血脈付法の歴代上人は、大聖人様以来の伝統教義たる国立戒壇を一糸乱れず異口同音に叫び、今日まで固く伝持されてきたのであります。

それが今、日達管長の池田大作に対する諂いによって、信徒団体の政治のために七百年来の宗旨が曲げられ「大聖人の仏法を日本の国教にするなどとは仰せられてはいない」「日本の国教でもない仏法に国立戒壇などということはありえない」「明治時代には国立戒壇という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎない」「今後、布教の邪魔になるため、本宗ではそういう名称を使用しない」とは、いったい何事ですか! 

先代の日淳上人は聊かも信徒団体や世間に諂うことなく「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決済裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮 昭和32年1月号)とさえ仰せられているのであります。

それが日達管長に至っては「明治時代には国立戒壇という名称が一般的に理解しやすかった」あるいは「今後、布教の邪魔になるため、本宗ではそういう名称を使用しない」とは呆れましたね。学会宗門は「国立戒壇」を捨てた途端に折伏行は行きづまり、成仏する者は一人として居なくなってしまったではありませんか! これこそが逆さまの論理だったのであります。日達管長の誤った指導方針によって、宗門は完全に目的を失ってしまったのです。その結果、こうした結末を迎えたのでありますが、日達管長は本当に取り返しのつかない罪を犯してしまいました。

大聖人様は安国論に「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」と仰せられています。つづけて「若し執心翻らず亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」と仰せでありますように、日達管長は、大聖人様の窮竟の御本願であるところの国立戒壇を否定するという、これまでの大謗法が災いしたか、昭和54年7月22日の未明、激烈な心臓発作と腸不全に襲われ、入院中のフジヤマ病院であっけない悶絶死を余儀なくされました。私は一信徒として甚深の弔意を表するととに、教義解釈において大きな誤りを犯され、それを懺悔訂正を為されぬままに、黄泉国へ旅立たれたことを深く悲しむものであります。
 
また日達管長の後を継いだと称する日顕管長は、昭和47年6月に「国立戒壇の誤りについて」と題する謗書と、昭和51年2月には「本門事の戒壇の本義」なる謗書を発刊し、国立戒壇を目の敵にしています。それから26年後、院尊に退いた後は「観心本尊抄講話」第一巻~第五巻。「妙法七字拝仰」上下二巻。「寿量品説法増補版」上下二巻。「三大秘法義」あるいは「百六箇種脱対見拝述記」等々の膨大な書籍を発刊していますが、この悪坊主は、肝心要の大聖人様の御本願であるところの「国立戒壇」については「反対してよかった」などと戯言を述べています。その者が、いくら膨大な御法門書を発刊したところで、果たして、どれほど大聖人様の御意に適った法門書なのか、大いに疑問の残る処であります。

それよりも何よりも、先に発刊した「国立戒壇の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」なる謗書は誤りだったことを公表とすることが先決であります。その後、自ら犯した大謗法の罪の懺悔滅罪を五体投地の思いで願うことから出発する以外にないと思われます。それなくして、先代の日達管長のように、犯した罪を懺悔せぬまま黄泉の国へ旅立つ事にでもなれば、万劫にわたって悔いを残すことになるのであります。

いま宗門も学会も一切の功徳を失い、一人の成仏も叶わない結果を生じさせた根本原因が、まさ貫主の三大秘法義の歪曲、すなわち「国立戒壇」の永久放棄という咎にあることを深く思うべきであります。「師は針のごとく、弟子は糸の如し」とは是れであります。

大聖人様は種々御振舞御書に「かかる日蓮を用ひむるともあしくうやまはば国亡ぶべし。乃至、此の国の亡びん事疑ひなかるけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今まで安穏にありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と仰せでありますように、ニセ戒壇正本堂は取り壊しとはいえ、三大秘法の戒壇義を偽って、依然として邪義を垂れ流しつづけているところに今日の災いの根源があるのであります。

また災いは、こんな小さな事では終わらないのであります。安国論の仰せには「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、其の時何んが為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば、何の所にか世を遁れん」と。





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