亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

新年を迎えて

2019年01月01日 06時51分42秒 | 亡国の坂道 
明けましておめでとうございます。昨年は「摧破異流義考」に記載された坊主が振りまく邪義について、数々の間違いを糺して参りましたが、坊主らはその続編として「続・摧破異流義考」(P.67~70)と題して〝浅井昭衛の悪義の根を絶つ〟等と銘打って、性懲りもなく再び邪義を書き連ねていますので、本年はその邪義の根を徹底して絶つことにしました。

坊主云く「前著『摧破異流義考』を刊行してから三ヶ月余、顕正会・浅井昭衛は、ようやく反論らしきものを『顕正新聞』(第457号)に発表した。題して、〝誑惑正当化のこじつけ論理を破す〟。三ヶ月もかけただけあって、この内容には、浅井が苦心惨憺して作った悪義が出尽くしており、浅井自身、これを『まさに御遺命守護の決定版、ミサイルともいうべきもの』と自賛し、さらに取り巻きの太鼓持ち達にも、『誰人も反論できぬ明快な破折』『細井管長の己義も、先生の深き御見識により、まさに太刀をもって瓜を切るごとく打ち砕かれ』『口真似の輩も同時に串刺し』等と絶賛しめている。そこで、この浅井の悪義の決定版ともいうべき妄説の誤りを糺し、もって悪の根を完全に断ち切るものである」等と。

一、「事の戒壇の定義」という誤り

およそ『事の戒壇』とは、広宣流布の暁の国立戒壇である。事相(事実の姿)に立てられるから、『事の戒壇』という。これが本宗伝統の定義である。」これが、浅井の妄説の根源ともいうべき誤りである」と。

法体が事なる故に事の戒壇

坊主云く「そもそも、大聖人の御金言におけるかぎり、『本門事の戒壇』とは、迹門理の戒壇に対し、かくいうのであって、それは『三大秘法抄』にも、「此の戒法(※大聖人の本門事の戒壇)立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじ」云々(御書1555㌻)と、両者を対比していることからあきらかであろう。

この迹門理の戒壇と本門事の戒壇という、事・理の相違は何によるものか、まさしく戒体(戒の功徳を生ずる本体・法体)それ自体の相違(迹門は理の一念三千、本門は事の一念三千)によるのである。ゆえに、延暦寺戒壇は事相の上に建つといえども、それをもって事の戒壇とは称さない。法体が理である故に、事相の上に建つ、建たぬに関わりなく、あくまでも理の戒壇なのである。

また同じく、本門事の戒壇についても、法体が事である故に事の戒壇と称する、ということは当然であろう。これが、大聖人の御法門における、本迹・事理の基本的なさばきであり、御先師日達上人の戒壇に関する御教示も、これに則ったものである。すなわち、本門事の戒壇とは、事の一念三千の御当体たる大御本尊おわす故に、かく称するのであり、たとえ、これが事相の上に建立される時(広宣流布の暁)を迎える以前であれ、以後であれ、法体が事である故に、あくまでも事の戒壇である、との道理を示されたのである。」について

坊主らの邪義には驚きましたね。此処が最も大切なところであります。坊主の主張する邪義に決して騙されてはなりません。坊主らは、法華経「迹門理の戒壇」と「本門事の戒壇」の経相の違いを並べて得意満面になって事・理を論じていますが、此処は体相の違いや経相の違いを論ずる処ではありません。

本来法華経、本門「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に、国家的に建立される本門寺の戒壇を建立する「時」を論ずる問題であります。それを「迹門理の戒壇」と「本門事の戒壇」を対比して、法体の違いを論ずるのはナンセンスというより、次元が異なるこ話であることを理解しなければなりません。

即ち三大秘法の「事の戒壇」とは、あくまでも広宣流布の暁に、国家意思を表明して、国家的に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇を「事の戒壇」とお呼びするのであります。

それを坊主らは、広宣流布も達成されていない、現在の戒壇の大御本尊おわします所を無視して、戒壇の「事」・「理」を論じていますが、これが大きな間違いなのであります。広宣流布するまでの間、戒壇の大御本尊のおわします所は「義理の戒壇」すなわち「義の戒壇」となるのであります。

二十六世の日寛上人は、その大事を文低秘沈抄と法華取要抄文段に次のように御教示であります。

文低秘沈抄に云く「夫れ本門の戒壇に事有り、義有り、所詮義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義戒壇に当たる故なり。例せば文句第十に『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮堤の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時をまつべきのみ、事の戒法と申すは是れなり』等云々。宗祖云く『此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅して、三業の悪転じて三徳を成ぜんのみ』云々」と。

上記の御文を要約しますと、本門の戒壇には「事の戒壇」と「義の戒壇」が有ると仰せであります。最初に「義の戒壇」を説明するに当たり、天台の法華文句第十の文を引いて「仏其の中に住す、即ち是れ塔の義」と仰せでありますように、広宣流布するまでの間、戒壇の御本尊様は、塔の中に秘仏としてお住まいであるから、是れを「義の戒壇」と称するのであります。

つづけて「事の戒壇」の説明については、三大秘法抄の御文を引用されて説明に代えておられますように、広宣流布の暁に、天皇陛下の勅宣を賜り、御教書たる国会の議決を経て建立される戒壇を、唯一「事の戒壇」と申し上げるのであります。

次に法華取要抄文段の御教示を拝することにします。

云く「当に知るべし、本門の戒壇事有り、理有り。理は謂わく、義理なり。是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名付けんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり。教に云く『当に知るべし、是の処は即ち道場』とは是れなり。天台云く「仏其の中に住す。即ち是れ塔の義」と。

次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」と。

法華取要抄の御教示を要約します。「三大秘法で云う本門の戒壇には「事の戒壇」と「義の戒壇」が有るが、是れは事中の事理のことであって、迹門の理の戒壇のことを言っているのではない。決して其の名に迷ってはならない。此処で云う戒壇に安置される本尊そのものは、事の一念三千の当体であり、事の法体には違いはないが、広宣流布するまでの間は、此の本尊のお在する処は、義の戒壇と名付ける以外にないのである。また義の戒壇とは、本門の本尊の所住の処を指すのであるから、義理において事の戒壇となるのである」と。したがって天台大師が「仏其の中に住す。即ち是れ塔の義」と云っているとおり、広宣流布するまでの間は、塔の中に(秘仏として)お住まいになられる御本尊であるから「義の戒壇」となるのである」と。

次に「正しく事の戒壇とは、三大秘法抄で仰せの戒壇、すなわち、王法と仏法が合する時代相が顕われ、王法と仏法が冥合した時に天皇陛下の勅宣と御教書たる国会の議決を経て、富士山天生ヶ原に国家的に建立される本門寺の戒壇を「事の戒壇」と謂うのである」と仰せであります。

したがって、浅井氏が冒頭に述べられた戒壇義は、まったく正しいのであります。坊主が主張している内容は邪義であり、次元の異なる話を持ち出して、大事な仏法を曲げて解釈し、御法門に理解力の薄い信徒を騙そうとしているのでありますが、いくら坊主が尤もらしく御金言を引いて説明をしようとも、彼らの言っている事は完全な間違いであります。論より証拠、「一切は現証に如かず」と仰せられるごとく、悪僧日達以来、邪義に一色に染められた宗門は、爪の垢ほどの功徳も消え失せた結果、一人の成仏も適わない宗門になり果てた体たらくを見るべきであります。

根源の事の戒壇

坊主云く「さらに日達上人は、これを「根源の事の戒壇」と称され、本門戒壇大御本尊の当体および所住がこれに当たる、と明かされている。

まず、戒壇大御本尊の「当体」が直ちに根源の事戒に当たる、とは、本来、三秘総在の大御本尊の当体には題目も戒壇も具足するが故であり、次に、戒壇大御本尊の「所住」が根源の事戒に当たる、とは、依正不二(依報は正報に従う)の法則によるものである。この「根源の事の戒壇」の法義が、嫡々御歴代を経て相伝されてきた法門であることは、すでに二十六世日寛上人の『門弟秘沈抄』に「広宣流布の根源・・・・根源とは何ぞ、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と言うなり」(聖典855㌻)と、戒壇大御本尊の所住の処が根源であることを示されているにより、窺い知ることができよう。

以上が、日達上人が御教示あそばされた「根源の事の戒壇」の法義であるが、道理・文証ともに、天日を仰ぐがごとく明らかではないか。これを「細井管長の己義」と誹謗し、あくまでも「事相に立てられるから事の戒壇、これが本宗伝統の法義」「広宣流布以前は断じて事の戒壇とは云えぬ」という浅井は、所詮、習いそこないの門外漢にすぎない。」について

坊主は何度言っても解らない。三秘総在の御本尊に題目と戒壇が備わっているのは当然であります。然らば、三秘を六秘に開いた場合の本尊は、「法の本尊」と「人の本尊」に分かれます。すなわち法の本尊とは、法華経本門寿量品の文低に秘沈された事の一念三千の南無妙法蓮華経となり、人の本尊とは、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人となるのであります。

次に題目とは、信の題目と行の題目に分かれ、信の題目とは、目の前に掲げられた御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、行の題目とは、御本尊の無いところで、南無妙法蓮華経を諳(そら)んずる。あるいは折伏を行ずることをいうのであります。

戒壇は「義の戒壇」と「事の戒壇」とに分かれるのであります。そこで初めて六秘が成立するのであります。即ち「義の戒壇」とは、広宣流布するまでの間、戒壇の大御本尊のお住まいになられている所を「義の戒壇」と申し上げます。そして「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に富士山天生ヶ原の戒壇にお出ましになられた御本尊の在所を、唯一「事の戒壇」と申し上げるのであります。

ところが日達や坊主らの解釈によりますと、三秘を六秘に開いた場合の戒壇は「事の戒壇」と「事の戒壇」だけであって「義の戒壇」は絶対に存在しないとういう邪義であります。何度もいいますが、三秘・六秘の開合の法門を論ずるときは、本門戒壇の大御本尊のみに限定して、三秘・六秘を論ずる法門であります。それを日達や坊主らの主張によりますと、「義の戒壇」は存在しないことになります。そこで悪僧日達と坊主らは、他所から別の本尊を持ち出してきて、是れを「義の戒壇」と称しているのでありますが、これはまんざら間違いではないものの、三秘・六秘の開合の相を論ずるときは、本門戒壇の大御本尊一幅に限定して論ずるものであります。さもなければ五大秘法か、変則的な六大秘法となり、下手をすると七大秘法となってしまうのであります。

それに坊主らは、日寛上人の文低秘沈抄の「広宣流布の根源・・・・根源とは何ぞ、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と言うなり」の御文を引いて、戒壇の大御本尊は広宣流布の根源なることを持ち出してきましたが、顕正会も、誰も、広宣流布の根源に迷い、信仰の根源を否定している者は、何処にもいないのであります。坊主は何を勘違いしているのでしょうか!

日蓮正宗の僧侶たる者、固い志を立て、尊い一生を捧げて迷える大衆を救うべく、御本仏大聖人様の嫡流たる富士門流の僧侶の身となりながら、大聖人様の窮竟の御本願たる国立戒壇に反対するという、何とも取り返しのつかない事をしてしまいました。こうした極重の大謗法から一刻も早く決別されて、大聖人様からお褒めを賜わり、一切大衆から感謝され重んじられるような、正道の呂たらん事を念願しています。是れこそが新生日本の夜明けとなるのであります。

立正安国論に云く「若し執心翻らず亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」と。

本年は拙者の意見が間違いっていると思われる方は、それを糺して下さることを大いに期待しています。振るって、貴方(貴女)の御意見をお聞かせください。








コメント

顕正会を誹謗する大白法其の二

2018年12月14日 17時41分41秒 | 亡国の坂道 
次に「国立戒壇」に執着する浅井として

つづけて坊主云く「この指導では浅井は、相も変わらず『国立戒壇』への執着を見せている。浅井は最近、宗門の各誌で掲載される、現在では国立とは国が建設し、国が管理すること。本門の戒壇堂にそぐわないとの指摘を意識してか、国立戒壇といっても、なにも国家の費用で建立し、これを国家が管理するなどというものではない。(同)などとし、それはまさしく『勅宣並びに御教書を申し下して・・・』との仰せのままに、『国家意思の表明』を必要手続きとして建立される戒壇だから、『国立戒壇』と呼ばれて来たのであります。(同)と弁明した。

しかし、国語辞典で『国立』を見れば、『国が設立・維持・管理すること』(新潮国語辞典 第二叛)とあり、誰もが『国家の費用で建立し、国家が管理する戒壇』と解釈するだろう。また、『三大秘法抄』の、『勅宣並びに御教書』(御書 1595㌻)とは、東大寺等の小乗戒壇や延暦寺の大乗戒壇建立の際から踏まれている、朝廷の勅令によって建立される手続きである。そもそも、『国立戒壇』なる名称は御書のどこにもなく、明治時代に、国柱会の田中智学によって初めて使われたものである」について

坊主らは今頃になってこんな事を言っています。「国立戒壇は、国家が管理することとなり、本門の戒壇堂にそぐわないと宗門が各誌で指摘した」というのは真っ赤な嘘であります。そもそも三大秘法は日本国の国教として国家を挙げて尊崇すべき大仏法であれば、国立戒壇を建立して戒壇の大御本尊様の御守護と施設の管理は国が関与するのは当然であります。坊主らはあくまでも国の関与を嫌い、戒壇の大御本尊は坊主の独占物のように思っているようですが、それは大きな間違いであります。また「『国立戒壇』なる名称は御書のどこにもない」などと云うに至っては呆れてしまいます。御本仏大聖人様が顕わされた「立正安国論」の御教示そのものが、まさしく国立戒壇を建立して、現当二世にわたって仏国の実現を強く勧奨せられた一大指南書であることが、今の坊主にはまったく理解できないのであります。

彼の英邁な第二十六世の日寛上人は、立正安国論を「此の論、首(はじめ)に居(おく)事」と仰せられ、次のごとく御指南されているのであります。

「およそ此の論はこれ国主諫暁の書、兼識差(けんしんたが)わざるの判なり。いわんや句法玉を潤し義勢地を震う。ゆえに師自賛して云く『白楽天の楽府にも超え、仏の未来記にも劣らず』と。此に三意あり。一には彼は前代に託して諷諭し、これは直ちに災難の起こりを示す。二には彼はその言に用捨あり、これは強言を以て暁諫す。三には彼はただ世間政道の誤りを糺す、これは現当のために謗法の罪を糺す。あに楽府に勝れたるにあらずや。他国侵逼・自界叛逆の兼識・秋毫(けんしん・しゅうごう)も差(たが)わず。寧ろ仏の未来記にも劣らざるにあらずや、以てこの論・首に居くこと、誰かこれを疑うべけんや」と。

「首」とは最上位の意であります。御書四百余篇の代表、つまり「立正安国論」は最上位に位置する書であると仰せられているのであります。したがって大聖人様の御化導は、まさしく立正安国論に始まり、立正安国論に終わると云われていますように、此の世に国家と人類のあるかぎり、国家の興亡・盛衰と個人の幸・不幸の根本原理は、この立正安国論に全てお示し下されていることを知るべきであります。しかるところ三大秘法は、国立戒壇を建立して国家的に尊崇する事によって、はじめて仏国が実現し、国家の永遠の安泰と、個人の幸福がもたらされるということであります。

その大事を安国論の巻末に「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく仰ぐべし」との御教示を深く味わうべきであります。 

また、坊主が認めていますように「延暦寺の大乗戒壇は朝廷の勅命によって建立された」等と記していますが、朝廷の勅令による戒壇とは、専制時代に於ける国主の勅命によって建立される戒壇であります。それに対して民主政体の今日、国家的に建立される戒壇については「勅宣並びに御教書」と仰せの如く、天皇陛下の詔勅と国会の議決という民主的な二重の国家的手続き経て建立される戒壇となるゆえに、宗門ではこの戒壇を端的に国立戒壇と通称してきたのであります。ところが今の坊主には、専制時代と民主政体における戒壇建立の手続きと手法の違いがまるで解っていないのであります。

ところで浅井昭衛氏の国立戒壇論は、坊主が指摘するとおり、次のような戒壇論を展開しています。

浅井氏云く「『国立戒壇』とは、国費によって立てる戒壇の意ではない。広宣流布の暁の事の戒壇は、全国民の燃えるような赤誠の供養によるべきである。また国立戒壇とは、国家権力による強制を意味しない。信仰は強制によってなし得るものではない。あくまでも一対一の折伏により全国民が三大秘法を受持する時が広宣流布であり、その時が戒壇建立の時だからである」(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求むP.191)等と記されています。しかしながら浅井氏の国立戒壇論は幼稚というか、残念ながら認識が少々甘いのではないでしょうか!

そもそも大聖人様が一期弘法付嘱書と三大秘法抄で仰せ遊ばす戒壇とは「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇の戒壇を建立せらるべきなり」と仰せのごとく、全国民の燃えるような戒壇建立への願望が前提となって、広宣流布の暁に、日本国の本有の国主たる天皇陛下の発せられる勅宣と御教書たる国会の議決という国家的な二重の手続きを経て建立される戒壇は、正しく国教樹立の宣言とも云うべきものであって、この戒壇の建立を基点として、愈々新世紀の建設と併せて未曾有の文化の発展と、わくわくするような希望溢れる日本民族の力強い興隆が始まるのであれば、国が口先ばかり出して、国家財政の伴わない国立戒壇なんて絶対に有り得ないのであります。

いずれに致しましても、国語辞典を引いて坊主が国立戒壇に反対する理由は「国が設立・維持・管理すること」になれば、御本尊に自分たちの手が届かなくなる。「主権在民の民主主義の世の中では憲法で信教の自由が保障されているのであるから、国があれこれ口出しをするような国立戒壇なんて有り得ない」などと、くだらない屁理屈を並べて国立戒壇に反対し、民衆立戒壇を主張しているのでありますが、坊主が主張する民衆立戒壇なるものは、かつてのニセ戒壇正本堂と同じ類いの戒壇となり、池田大作と悪僧日達が言っていた舎衛の三億、つまり全人口の3分の1の入信で広宣流布などというバカげた広宣流布説であります。したがって坊主の云う広宣流布とは、残るところの3分の2の人々は、信仰に無関心な者たち、あるいは未得道の雑多な爾前権教に執着する者たち、さらには三大秘法には絶対反対の者等が占める世の中を広宣流布だと言っているのでありますが、こんな世の中は異常気象による災害は毎年のように繰り返され、詐欺や殺人等の様々な凶悪犯罪は無くなるどころか、日に日に増大するばかりの殺伐とした時代の延長でしかなく、新たに戒壇を建立する意味はまったくないのであります。

大聖人様が定められた広宣流布とは、国立戒壇の建立を一点に見つめて大折伏を敢行し、三大秘法の流溢を以て建立する戒壇であります。すなわち諸法実相抄で仰せの「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」と仰せられる時代相が顕われた時、天皇陛下をはじめ、国政の衝にあたる各大臣も、全国民も、本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え「有徳王・覚徳比丘」の故事にあるような、戒壇の大御本尊様を守護するにおいては、身命をも惜しまぬという国家的な護法心が日本の朝野にみなぎった時、全国民の燃えるような供養と国家の財政を以て建立する戒壇であります。その時建立される国立戒壇こそ、三大秘法の防非止悪の秘術に依って「大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇」が事相となり「吹く風枝をならさず雨壊を砕かず世は義農の世となりて」と仰せられる、戦争による大量殺戮や飢餓に疫病等、毎年繰り返される自然災害による恐怖から解放された、真の平和国家が実現するのであります。

それに反して大聖人様の窮竟の御本願たる国立戒壇を放棄した信心は無気力と惰性に流され、広宣流布という大目的を失った信徒は、坊主が食うためのお囲い者でしかなく、信心による功徳の感激と歓喜は完全に失われた結果、肝心な折伏は進まなければ、爪の垢ほども功徳のない組織は沈滞するばかりで覇気もなく、広宣流布はまったくの夢物語となってしまいました。その結果、本門戒壇の大御本尊に対する恋慕渇仰の信心は観念的なものとなってしまい、自らの身命を賭しても御本尊お護りするという、有徳王・覚徳比丘の古事にあるような護法心が日本の朝野にみなぎるなんて、絶対に有り得ない姿となってしまったのであります。

坊主はその大事が理解でいないばかりに「浅井は、相も変わらず『国立戒壇』への執着を見せている」などと非難しているのであります。邪義に染まった坊主から非難されるようになった最近の浅井氏は、宗門の腐敗堕落と邪義を追求し、教義歪曲を糺すことを完全に諦めてしまったようでありますが、それをよい事に、こうした不埒な坊主が袈裟の権威を笠に着て、言いたい放題の邪義を垂れ流しながら浅井氏を攻撃しているのであります。結課的に見れば、未だに坊主の一人も折伏できない状態では、これまでの浅井氏の宗門に対する諫めは、何かが足りなかったか、生煮えだったということであります。

大聖人様の仏法は何処までも破邪・立正の闘いを貫かなければならない、謂わば攻めの宗教なのであります。悪僧日達以来曲がったままの宗門の邪義を糺すことは勿論のこと、世の中に害毒を流し続け、人々を不幸のどん底に陥れる邪義・邪宗に対しては、決して追撃の手を緩めてはならないのであります。邪宗・邪義を撲滅する破邪の闘いがあってそこ立正が顕現し、安国が実現するのであります。その闘いは、宗門の中で妙信講が起こさなければならなかったのであります。

思い起こせば、初代講頭浅井甚兵衛氏が率いていた妙信講は、日淳上人から講の認証状まで賜わり「熱原の法華講の命を継ぐ講中となって、将来の宗門を外護して頂きたい」と、懇請にも似た激励を受け、宗門の中では最も期待された模範の講中と云われる名誉ある立場を与えられていたのであります。それが浅井昭衛氏の時代になると、日淳上人の温情あふれる御慈悲を仇で返し、講員との固い約束をも破って、妙信講の名を捨てて外へ飛び出したのであります。外へ飛び出した信講は、顕正会へと名前を変えて宗門とは完全に縁を切ってしまったのでありますが、何故に妙信講という法華講の名誉ある立場を捨てて、僧侶のいない外の顕正会へと変身する必要があったのでしょうか、これが最大の誤りであり、取り返しのつかない間違いだったのであります。

それで浅井氏は「広宣流布の暁には顕正会員全員で御生骨を拝観したい」あるいは「天母ヶ原までの四キロの道のりを全員で涙の大行進をしたい」などと叫んでおられますが、宗門と完全に縁を切ってしまった者たちに、果たしてそんな願いが叶うのでしょうか。不思議であります。

浅井氏は内の妙信講の名を捨て、顕正会と名称を変えて外へ飛び出した理由について「顕正」とは「日蓮大聖人の御遺命の正義を顕わすための団体」などと言っておられますが、妙信講を名乗っていたのでは御遺命の正義を顕わす事ができなかったとでも言いたいのでしょうか、まことに取り返しのつかない事をしてしまいました。古の富士門流の上代に目を転じて、大聖人様をはじめ日興上人・日目上人等の艱難辛苦の激闘の御一生に思いを馳せ、今日の宗門僧侶の腐りきった実体を併せ見る時、浅井氏の軽率な行動には、長嘆息とともに暗澹たるものを感じています。  

それでも最近の顕正会は、ようやく会員数二百万を達成し、次の目標として三百万を目指して新たな折伏戦を展開されたようですが、そんなケチな事を言っている場合ではないのであります。仮に、浅井昭衛氏が妙信講として、宗門の中で国立戒壇を掲げて今日のような果敢な折伏戦を展開していたなら、その成果はあらゆる方面に劇的な変化をもたらしていたものと思われるのであります。

第一に、いま宗門に所属する約一千名に及ぶ日達・日顕の邪義に染められた坊主は勿論、正信会を結成して未だに宗門と争っている二百人を超す坊主と、正信会が占拠している全国30ヶ寺に及ぶ約十万人を数える正信会に所属する信徒は間違いなく宗門への回帰が叶っていたものと思われます。第二には、池田大作に騙されて宗門から離れていった八百万人の学会員と、世界192ヶ国におよぶ約四百万人のSGI会員は正宗信徒としての帰属が実現し、これらの僧俗が一結して折伏戦が世界的に展開されていたなら、大聖人様の御本願たる国立戒壇論はとっくの昔に宗門の公論なっていた筈で、今日では三千万人~六千万人を優に超す、折伏が適っていたものと思われるのであります。

その一方、国立戒壇の実現を目指して政界進出を果たした創価学会・公明党の存在は如何にと想像するに、今日の自民党を政権を尻目に国政を担う大政党として発展していたか、あるいは分裂を繰り返して消滅していたかは想像の域を出ませんが、いずれにしても、国政に対しては想像を超える甚大な影響をもたらしていたものと思われます。 

それは置くとして、いまの坊主らは、二言目には国立戒壇は「国が設立・維持・管理すること」になるとして反対していますが、本門戒壇の大御本尊様は一閻浮提総与の御本尊と謂われ、全世界の人々に等しく与えられた御本尊であります。したがって邪義を垂れ流す坊主だけに特別に与えられた彼らの占有物ではありません。ただ出家僧侶には伝持付属といって、三大秘法を生々世々に正しく相伝受持し、令法久住せしめる使命のみが与えられているのであります。

ここで仏法の付嘱について一言申し上げれば、次の三つがあるのであります。①弘宣付嘱・②伝持付嘱・③守護付嘱であります。

①弘宣付嘱とは、僧俗全員に広宣流布を命じられた付嘱のことであります。具体的には一期弘法付嘱書の「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり」とあるのがそれであります。これは別しては二祖日興上人御一人に付与されたもので、総じては、僧俗全体に広宣流布を命ぜられた付嘱の事であります。
 
②伝持付嘱とは、池上相承書のことであります。「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。・・・」の御文がそれに当たります。これは僧侶だけに与えられたもので、二祖日興上人以来の歴代上人が大聖人様の三大秘法を正しく相伝受持し、生々世々に相継いで令法久住せしめる事をいうのであります。

③守護付嘱とは、安国論に御示しの如く、仁王経に云く「仏破斯匿王に告げたまわく、是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼に付属せず、何を以ての故に、王の威力無ければなり」とありますように、国主・為政者および在家の信徒に対し、三大秘法を守護せよと命ぜられたものであり、袈裟を着た出家僧侶には悪人と戦って仏法を護るだけの実力を持ち合わせていない故に、守護付属は与えられていないのであります。したがって、国立戒壇が建立された時には、天皇陛下と共に国家が国の威信をかけて戒壇の御本尊を御守護申し上げ、国が施設を監理するのは当然であります。

それに坊主らが云うように、国立戒壇は「国柱会の田中智学によって初めて使われたものである」については、先般のブログで詳述したので簡単に触れておきますが、彼の六十五世を継がれた日淳上人は「田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものである事は明白である」(興尊雪寃録)と指摘せられ、元々国立戒壇論は、大聖人様以来の富士門流・日蓮正宗の根本宗旨であることを強調せられて、悪僧日顕と坊主が垂れ流す邪義を一刀両断のもとに、完膚なきまでに粉砕せられているのであります。

また、嘗ての創価学会ですら本会発刊の「日蓮正宗創価学会批判を破す」の中に、国立戒壇について、次のように記しているのであります。

「国立戒壇こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そして、その場所も、富士山と明白に御指示になっている。また、あらゆる正資料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命を受けて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を重ねてきたことは明白になった。近ごろは田中智学門流でさえも、囀っているではないか」と。

さらには「国柱会の田中智学は、富士の正義を盗み、三大秘法抄によれば富士に本門戒壇を建立すべきだ、などと主張した」(大白蓮華 昭和35年6月号)と。

今日の宗門は、そうした歴史的事実を覆い隠し、日達・日顕の発する邪義に洗脳された、ろくでもない坊主たちの巣窟となっているのであります。元々田中智学なる人物は、日蓮宗・身延派の坊主だったのでありますが、大正三年ごろ還俗して国柱会を結成した男です。そもそも身延の元をたどれば、二祖日興上人へ叛逆した五老僧の一人、民部日向が開基なのす。そんなところには「国立戒壇論」なるものは初めから存在していなかったのであります。

次に伝統教義にない「国立戒壇」として

つづけて坊主云く「大聖人が示される名称は、あくまで、「本門寺の戒壇」(同)1675㌻である。それを『三大秘法抄』や『一期弘法付嘱書』の御書の名を挙げて、あたかも大聖人が「国立戒壇」の語を御遺命として残された、伝統教義のようにごまかしているのである。さらに浅井は、文証として「国立戒壇」の語を使われている、日亨上人、日昇上人、日淳上人、日達上人の御指南を挙げ、「このように、およそ血脈付法の正師にして、国立戒壇を熱願されなかった貫首上人は、七百年間、一人としておられない(顕正新聞 平成30年7月5日付)と述べている。

たしかに、浅井が列挙する御指南のように、本宗において昭和中期頃に便宜上、用いられたこともあったが、主権在民となり、信教の自由が保障された今日、時勢にそぐわず、さらには伝統教義ではない「国立戒壇」の名称は、使用しなくなったのである。ましてや、その名称すらなかった時代に「国立戒壇」を熱願したり、宿願とする御法主上人がおられるはずもない。その証拠に、「国立戒壇」の名称が世に出る以前は、御書はもちろん、御歴代上人の御指南にも「国立戒壇」の表記は一切ない」について

坊主の云う邪義と屁理屈もここまで来れば、もはや手の施しようもありません。坊主らは大聖人様が「一期弘法付嘱書」と「三大秘法抄」の両抄を以って、広宣流布の暁に建立する戒壇は「本門寺の戒壇」と断定しておきながら「国立戒壇」を否定していますが、坊主のいう「本門寺の戒壇」と「国立戒壇」は、同義語なのであります。池田大作の邪義に染められた坊主には、依義判文の意味がまるで理解できていないのであります。

池田の云く「戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇』といってきました。しかし、どこを捜しても、御書には『国立戒壇』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです。いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。ですから、皆さん方は『創価学会は国立戒壇建立が目的である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。其れが本門の戒壇堂である。これでもう決定されたのですと。私ども創価学会員ならびに日蓮正宗信徒の真心の結集によって、本門の戒壇堂は、もうできてしまうのです。・・・・国家予算によって国立戒壇が建立されるということはありえないのです」(聖教新聞 昭和40年9月22日)と。

莫迦を云うのも大概にしなければなりません。ニセ戒壇正本堂が「本門の戒壇堂」である道理はありません。そもそも大聖人様が一期弘法付嘱書で仰せられる「国主此の法を立らるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」との仰せと、三大秘法抄に御示しの「勅宣並びに御教書を申し下して」建立する戒壇とは、まさしく国教の樹立に他なりません。したがって両抄で仰せられる戒壇とは、国立戒壇のことであります。

ところが坊主らは「主権在民となり、信教の自由が保障された今日、時勢にそぐわなくなった」などと言って、国立戒壇に反対していますが、彼らは憲法を主、仏法を従とした本末転倒した考えに陥り、憲法を絶対的な不磨の大典の如く崇め、仏法は憲法の下に従属すべきものと決めつけていますが、これを称して転動の衆生と呼び、催尊入卑の典型と言うのであります。

仏法は、過去・現在・未来の三世を貫く国家の興亡盛衰と個人の幸・不幸の根本原因を仏様が説き明かされた永遠不滅の経典であります。それに対して憲法は、迷いの凡夫が作った国の基本法とも云うべきもので、如何なる憲法と雖も時の政権によって都合よく改正され、場合によっては、独裁政権によって廃止される事だってあるのであります。それをいまの坊主らは「主権在民だ、信教の自由だ、国立戒壇は時勢にそぐわない」などと目を三角にして騒ぎ立て、憲法は絶対の不磨の大典、仏法は憲法の下に従属するものと捉えて軽賤したうえに、大聖人様が定められた本門寺の戒壇=国立戒壇を徹底して虚仮にしているのであります。

此処で信教の自由について一言申し上げれば、例えば、大麻・アヘン・コカイン等の麻薬については、国家が麻薬取締法によって、これ等の使用を厳しく取り締まっています。それは麻薬は人間を根本からダメにし、家庭を崩壊させ、廃人にしてしまうからであります。宗教もそれと同じで、間違った教義を展開する邪教は、長い年月を掛けて一族郎党を、何代にも亘って不幸のどん底に陥れてしまうのであります。したがって、国家がその事の重大性を認識し、宗教の正邪に理解が及ぶならば、信教の自由なるものは、憲法の条文から削除されるのは当然であります。ただ悲しいかな、人間の内面の自由ばかりは、如何なる法律を以ってしても、是れを取り締まったり、制限を加えることはできないのが現実であります。

つづけて本門寺の戒壇を建立せらるべきなりとして

最後に坊主云く「大聖人の御遺命は、ひとえに一天四海広宣流布である。そして、その広布の暁に本門戒壇の大御本尊を御安置申し上げる「本門の戒壇堂」の建立である。建立の形態や手続き等に関しては、その時代の状況に則って、時の御法主上人のご判断によって決せられるから心配無用。破門され、大御本尊から離れた浅井ら顕正会が叫ぶ「国立戒壇」は、叶うことのない幻想なのである」等と記して、国立戒壇を主張する顕正会を笑い飛ばしています。

坊主の云うように「大聖人の御遺命は、ひとえに一天四海広宣流布である」については当然の事であります。それに坊主の云う「本門の戒壇堂」とは、一期弘法付嘱書で仰せの「本門寺の戒壇」のことだと思われますが、坊主は「本門寺の戒壇」と「本門の戒壇堂」は、まったく異なる戒壇であるごとき説明をしていますが、坊主のいう「本門の戒壇堂」なるものについては、如何なる性質の戒壇なのか、詳しい説明を是非とも聞きたいものであります。

それに広宣流布は「時の御法主上人のご判断によって決せられるから心配無用」などと喜んでいるようですが、日達や日顕のような悪貫主が再び出てくると、時の貫主が、国民の三分の一にも満たない時期を指して、広宣流布は達成と宣言する事ができます。坊主のこうした一方的な断定は、悪僧日顕が言い出した邪義であります。

日顕云く「いつが現実的な『(広宣流布の)暁』であるか、さらに広布の時期とその建物建立の前後等の決定は、一に法主上人の御判断によるべき処である」(国立戒壇の誤りについて 昭和47年6月刊)と。それを今の坊主は鸚鵡返しに叫んでいるのであります。広宣流布とは、どこから見ても万人が異論なく五官で感ずるものであります。

最後に当流行事抄の一節を拝読して終わりたいと思います。

寛尊云く「行者応に知るべし、受け難きを受け、値い難きに値う、曇華にも超え、浮木にも勝れたり、一生空しく過ごせば万劫必ず悔ゆ、身命を惜しまず須く信行を励むべし、円頂方袍にして懶惰懈怠の者は是れ我が弟子に非ず、即ち外道のでしなり云々。慎むべし、慎むべし、勤めよや、勤めよや」と。

此処で仰せられる「円頂方袍にして懶惰懈怠の者」とは、仏法の事は二の次にし、己が食うために出家して、頭を丸めた職業坊主のことであります。

いま宗門の中で大聖人様の御本願たる「国立戒壇」に反対し、邪義を振りまく坊主らを外道の弟子とまで仰せであります。また、法華経を杖として地獄に堕ちる者があると云われていますが、それは、せっかく富士門流生粋の日蓮正宗の僧侶となりながら、邪義を吹聴する坊主のことであります。それに、これらの坊主が垂れ流す邪義に踊らされて、国立戒壇に異を唱える愚かな在家信徒のことをいうのであります。

賢明な皆様は大切な一生を空しく過ごして、決して万劫悔いることのなきよう、大聖人様の御本願は那辺にあるかを知る事こそ最も大切であります。大聖人様の御本願を正しく信受し、大海を思うがままに遊戯する、功徳溢れる人生を満喫されんことを心から念願するところであります。





コメント

顕正会を誹謗する大白法其の一

2018年12月01日 07時47分51秒 | 亡国の坂道 
宗門から発行されている平成30年10月1日付の新聞「大白法」に「異流義破折188」と題して、顕正会が主張する国立戒壇に坊主が誹謗記事を掲載していましたので、今回はそれを紹介しながら坊主の邪義を破折するとともに、最近顕正会の浅井会長が繰り返し宣伝している広告文一辺倒には、拙者も少々疑問を感じていますので、率直な感想を述べてみたいと思います。

坊主云く「浅井は、広告文と遥拝勤行で広宣流布はできる。この大道は大聖人様が教えて下さったもの。これこそ広宣流布の最終段階の戦いの姿である(顕正新聞 平成30年7月5日付)と指導している。浅井の著書の新聞広告(その著書ですらない)と遥拝勤行で、何を広宣流布するというのだろうか。

しかも「この大道は大聖人様が教えて下さった」などと言っているが、当然のことながら日蓮大聖人の御金言にそのようなものはない。これが「広布最終段階の戦いの姿とは、何ともみすぼらしい姿である」について

坊主が指摘していますように、浅井氏がいう「広告文と遥拝勤行で広宣流布はできる」なんて、幼稚というか甘いですね。そんな広告文の配布だけで、三大秘法の広宣流布が達成できるとは少々バカげています。

その広告文と称するものは大小合わせて二種類あるそうですが、拙者はその何れも見たこともありませんが、広告文の中で強調されている内容には、次の三つが挙げられているようです。

①臨終の相。②立正安国論の予言的中。③国家権力も御頸切れず。とした、これら誰人も否定できないの三つの現証を示した上で、日蓮大聖人こそが末法の唯一人の仏様である事を立証されているとのことであります。

これらの三つはいずれも厳粛に受け止めなければならない真実を解説したものであれば、誰人も否定する事はできません。しかし、大小二種類の広告文を配布することがこれからの広宣流布の闘いの全てであるかのように会員を指導し、宗門の教義歪曲と腐敗堕落には完全に口をつぐみ、まるで他人事のように無関心を決め込むのは、少々呑気すぎるのではないでしょうか? 

こんな有様だから邪義坊主に、広告文の文章もゴーストライターが書いたような、あらぬ疑いをかけられ、小バカにされた揚げ句「何ともみすぼらしい姿」などと虚仮にされるのであります。

かの伝教大師が法華経迹門円頓の戒壇を比叡山に建立する時でさえ、念仏・真言・禅・律等の邪宗の坊主らが寄ってたかって猛反対をくり広げ、様々な妨害を限りを尽くしてきた歴史を振り返れば、そんな広告文の配布のみで、三大秘法の広宣流布が達成されるなんてことは絶対に有り得ないのであります。

大聖人様は伝教大師の法華経迹門の戒壇について「設い日蓮生死不定たりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か。伝教大師、御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定・慧は存生に之れを弘め、円戒は死後に之れを顕わす、事相たる故に一重の大難之れあるか」(富木殿御返事)と仰せられているのであります。

つまり、伝教大師が法華経迹門の円頓の戒壇を叡山に建立する直前になっても、様々な妨害があったことを例に挙げられ、次のように仰せられています。

「諸人手をたたき舌をふるふ、在世には仏と堤婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死にき。されば他宗にはそむくべし、我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ、あらおそろし、おそろしと、罵りあえりき」(報恩抄)と。

この御文は釈尊の建てる戒壇と、堤婆が建てる二つの戒壇があったことを事例として挙げられ、堤婆と釈尊の争いの中でそこばくの者が死んでいった。それを思わせるように、すでに東大寺に華厳宗の戒壇が有るにも拘わらず「伝教大師がこれから建てようとする叡山の円頓の戒壇には絶対に反対すべきである。不思議ではないか、天台大師すら建立できなかった円頓の戒壇を建てるとは」等と罵りを受け、伝教大師が叡山に法華経迹門の戒壇を建立する時には、国を挙げて誹謗中傷する者との間で熾烈な戦いが有ったと仰せられ、次いで、大聖人様御自身の生死については、いつ臨終を迎えるかは不明であるけれども、三大秘法の「事の戒壇」を建立する時には、それにも増して、一重の大難があると仰せられているのであります。

大聖人様はその事を三大秘法が宣流布して本門寺の戒壇=国立戒壇が建立されるまでの戦いについて、如設修行抄に次のように御教示であります。

「然るに今の世は闘靜堅固・白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有りて正法を背きて邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱れ入りて三災七難盛んに起これり。かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不詳なれども、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起こし、忍辱の剣をひっさげ、一部八巻の肝心妙法五字の旗を指し上げて、未顕真実の箭をはげて、大白牛車に打ち乗って権門をかっぱと破り、かしこへ押しかけここへおしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに、或いはにげ、或はひきしりぞき、或は生け取りにせられし者は我が弟子となる。或はせめ返し、せめをとしすれども、敵は多勢なり、法王の一人は無勢なり、今に至るまで軍やむ事なし。法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、云々」と仰せであります。

また二十六世日寛上人は六巻抄を次期貫首の日詳上人へ託されて云く「此の六巻の書の獅子王ある時は、国中の諸宗諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず、尤も秘蔵すべし、秘蔵すべし」と。

つづけて云く「此れは是れ偏に広宣流布の為なり」と。

日寬上人が此処で仰せられる「国中の諸宗諸門の狐兎」とは、国立戒壇に目を剥いて反対する、念仏・真言・禅・律等の邪宗連合のことであり、それに日蓮宗を名乗る、身延・中山・池上等、あるいは世間から進歩的文化人と云われている学者や弁護士、あるいは市民団体の者どもが一党して、総本山に襲来して、国立戒壇に反対の大規模なデモや論争を仕掛けてくるということでありますが、悲しいかな現在の日蓮正宗の坊主らは、いま顕正会が叫んでいる国立戒壇論は、国柱会の田中智学の模倣などと鼻でせせら笑っていますが、元々国立戒壇は富士門流の独特の根本宗旨なのであります。国柱会の田中智学のほうが日蓮正宗の教義を盗んで真似たのが事実であって、いまの坊主らは不勉強のあまりそんな歴史的事実を笑い飛ばして、彼の悪僧日顕が妙信講対策に言い始めた嘘に、完全に騙されているのであります。

かつての日蓮正宗は広宣流布を一点に見つめ、国立戒壇を高々と掲げて折伏戦を展開していたのでありますが、六十六世の日達管長と、その後を継いだ六十七代の日顕管長の二人の悪僧の出現に依って、国立戒壇は日蓮正宗の教義ではなく、田中智学の模倣のごとく叫ばれるようになった結果、宗門にはそんな心配や危惧は夢々なくなりました。日寛上人が仰せられる御教示は、宗門がいささかも曲がっていない、富士の清流そのままに、大聖人様の御本願であるところの本門寺の戒壇=国立戒壇を目指して、僧俗が一結して闘っている姿を前提として「国中の諸宗諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども、敢えて驚怖するに足らず」と仰せられたものであります。

大聖人様の究極の御本願は広宣流布の暁に、富士山天母ヶ原に国立戒壇を建立し、仏国土を建設して日本国を永遠に安泰ならしめることにあります。然らば今こそ、外には日本国中の邪義・邪宗を撲滅する戦いを展開し、内には、大聖人様以来の富士の清流を取り戻す闘い、すなわち国立戒壇を高々と掲げて、日達管長・阿部管長ら二人の悪僧から吹き込まれた邪義を糺す闘いには、決して手を緩めてはならないのであります。

顧みれば創価学会の政治的野心から圧倒的な数の力のもとに、大聖人様一期の御遺命たる国立戒壇の大目的が抹殺されんとする時、たったお一人で御遺命を命がけで護り抜かれのは、妙信講の浅井昭衛氏だったのであります。それがこのところ、例の広告文の事しか念頭にないのか、宗門の腐敗堕落を糺弾し、邪義を破折する声はまったく途絶えてしまったようです。

妙信講から顕正会へと名前を変えた浅井会長は、何十年ぶりかに思い出したように、数々の謗法を繰り返していた阿部日顕に対して「最後に申すべき事」と題した対決申し入れ書を、平成17年3月25日と同年4月27日に、二度にわたって提出したことを最後に、宗門の腐敗堕落と、邪義を攻め正すことを完全に諦めてしまったようですが、之が大きな間違いのなのであります。

当時の阿部日顕は池田大作と共謀して、大石寺開創七百年の昭和六十五年には現在の大石寺を「富士山本門寺」へと寺号の変更をすべく、あらゆる準備を整えて二人三脚で本門寺寺号公称の実現を目指して一体となって進めて来たのでありますが、昭和六十五年(平成二年)の十月、全国の僧侶と数千人の信徒が会場を埋め尽くす中、池田が待ちに待った大石寺開創七百年の法要の席で、いよいよ「富士山本門寺」へと寺号公称を内外に向かって公式に宣言することになっていたところ、日顕は、すっかり安心しきって椅子に踏ん反り返っていた池田の不意を衝いて「寺号公称は一天四海に光被の行きわたる時」として、池田の一世一代の夢を完全にぶち壊す話を始めたのです。それこそ有頂天になっていた所で梯子を外された池田の頭は真っ白になって目のやり場を失いました。これが引き金となって日蓮正宗と創価学会との間で決定的な亀裂を生む大事件へと発展したのは皆様のよく知るところであります。

その後日顕は、平成六年十一月五日には学会に反旗を翻した悪徳弁護士の山崎正友と共謀して、身延山久遠寺の住職、志魔防住職ほか、山梨県の布教師会長、佐藤順映らの八人を本山に招き、その翌年の六月六日には、次期管長に就任することが決まっていた田中日淳を含む高僧ら一行を総本山に丁重に招き入れて酒宴を張って彼らを歓待し、身延山に学会批判の一大勢力になって貰うべく、山崎を通じてこれらの坊主に働きかけるなどして、小樽法論の問題に話が及ぶと「板本尊偽作論(本門戒壇の大御本尊)に対する批判の掘り下げが足りない。これからも本腰を入れて取り組んで欲しい」などと山崎を通じて身延の坊主に嗾ける等、日顕は本門戒壇の大御本尊様にも攻撃を仕掛けるよう、驚くべき悪事を画策していたのであります。

話は変わりますが大聖人様は文永十一年の三月、約三年に亘る佐渡流罪が赦免になって鎌倉に帰られた後、幕府より出頭命令を受け、四月八日、平左衛門尉をはじめとする幕府の要人らと対面されました。竜口法難のときは面を怒らせ、威丈高であった平左衛門尉は、以前とは打って変わって態度を和らげて大聖人様を丁重に殿中に迎え入れ、爾前得道の有無や蒙古来襲の時期などについて質問してきました。

その質問に対して、大聖人様は次のように答えておられます。

真言・念仏・禅等の爾前経では絶対に成仏できないことを強く言い切られ、次いで「経文にはいつとは見へ候はねども、天の御気色いかりすかなからす、急に見へて候。予も今年は過ごし候はじ」(撰時抄)と、蒙古の襲来が年内に迫っている事を断言せられ、同年五月、世の中に災いをもたらす謗法と隔絶する意味を込められて、身延山へ入山されるのであります。

その様を光日房御書に「三月二十六日に鎌倉へ入り、同じ四月八日に平左衛門尉に見参す。本より期せし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ」と仰せられ、古事に倣って、五月に身延山に入られ、これまでの諫暁を止められいますが、大聖人様の御本意は、三度諫めてなお鎌倉に留まるならば、邪義を振りまく謗法と併存することになる故に、鎌倉を去られたのであります。

振り返れば当時妙信講の浅井昭衛氏は、第一回諫暁として、昭和45年3月25日「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を日達管長をはじめ創価学会首脳12人に送付し、時の管長猊下と学会首脳を震え上がらせました。第二回目の諫暁として、昭和46年11月15日、池田大作に対して「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を送りつけ、池田がまき散らす邪義を徹底して粉砕されました。第三度目の諫暁として、平成2年4月「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」を池田と猊座を簒奪し邪義を振りまく阿部日顕に送付して両者の間に疑心暗鬼を起こさしめ、修復しがたい亀裂を生じさせました。その後、平成17年4月27日、日顕に「最後に申すべき事」と題した〝対決申し入れ書〟を突きつけて、これまでの謗法を厳しく追及すべく対決を申し入れましたが、それに驚いた日顕はだんまりを決め込んで逃げに逃げ、俄か作りの若手坊主をかき集めて「邪義破折班」なるものを結成し、その者どもに対応させて、口をして鼻のごとく雲隠れしたまま今日に至っているのであります。

大聖人様が仰せられた「三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべき」ではありませんが、まさか浅井会長は御本仏日蓮大聖人様が鎌倉を去られ身延山へ入られた時の古事にならって、悪僧日顕と坊主らの腐敗堕落を責め、宗門の教義歪曲を糺す戦いに完全に終止符を打たれたとは思いたくはありませんが、それ以来広告文の出来映えばかりを強調せられて、未だに邪義を垂れ流している宗門に対しては、黙して語らずでは何とも釈然としないものを感じています。
つづく





コメント

国立戒壇に反対する坊主は三宝には含まれない

2018年10月17日 12時27分14秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.65~66)に坊主らは「むすび」と題して、次のような悪態をついて摧破異流義考の執筆を終えていますが、之れが富士門流、日蓮正宗の僧侶が使う言葉かと思うと品位を疑いたくなります。今回も下劣な言葉遣いで顕正会の浅井昭衛氏の悪口を掲載していますが、それも「破邪新聞」が報じた記事を紹介する形を取りながら責任の所在を曖昧にしているのであります。そもそも「破邪新聞」とは、宗門の腐敗堕落と、金取り主義と、権威主義を批判する目的で作られたような得体の知れない新聞で、いわば宗門は、この新聞の存在を徹底して嫌っていました。それが顕正会を攻撃する目的なら何でも有りで、「昨日の敵は今日の友」よろしく、この新聞が報ずる与太話を紹介しながら浅井氏を誹謗中傷しています。こうした節操のない坊主を禿人と呼ぶのであります。

坊主云く「以上、日蓮大聖人以来御歴代上人の御教示を拝し、日蓮正宗を詐称せる浅井昭衛一派の戒壇論、猊座誹謗、師敵対の妄説の大筋を摧(くじ)いた。かつて、浅井一派を脱退せる幹部の言によれば昭和五十一年当時、浅井一派の内部では、『浅井親子は熱原三烈士の生まれ変わりであろう。その証拠に、甚兵衛・昭衛・信衛と、皆、百姓のような顔つきをしているではないか』という、吹き出したくなるような話が、真面目に、公然と流れていたようである(破邪新聞より)。

其れが最近では、浅井が、事あるごとに、『いよいよ日目上人御出現の大瑞。顕正会の使命は日目上人御出現までの露払い。広宣流布・国立戒壇が実現する時には日目上人が出現する』等と叫び、同時に、宗門・御法主上人を徹底して罵るものだから、とうとう幹部の中からは、『浅井先生御自身こそ日目上人の再来という見方もある』との声が出ているとのことである(浅井昭衛が望むなら証言も提示しよう)。について

昭和五十一年と云えば妙信講が創価学会池田大作の意を受けて講中解散処分を受けて二年目に当たる年であります。丁度その時期は、創価学会の顧問弁護士を務めていた悪徳弁護士の山崎正友が先導して、東京練馬区常盤台の本部会館(現在の東京会館)の大広間に掲げてあった「第六十世日開上人の御筆による紙幅の御本尊を返却せよ」あるいは山崎弁護士が作文した文章を日達管長猊下がそのまま書き写し、妙信講員の一人ひとりに日達猊下からの直々の手紙として差し出された悪質な事件がありました。

それには「妙信講は解散処分に付したのだから妙縁寺の所属を離れて、都内に散在する妙縁寺以外の常泉寺・常在寺・妙光寺・蓮華寺の四ヶ寺に六十日以内に所属替えの申し出がなければ、日蓮正宗の信徒資格を失う」という脅し文句が記されていました。妙信講員の中にはそうした脅しに怯えて所属替えを申し出たり、退転する者など一人も無いばかりか、日達の所行をあざ笑い、学会が宗門の名を語って仕掛けてきた、御本尊返却訴訟を勝ち抜くために、妙信講は鉄石の団結を以って、一丸となって闘っている時でした。

それと併せて妙信講は、広宣流布の暁には本化聖天子様が出現されるという言い伝えを素直に信じ、日目上人が再誕されるまでの露払いをさせて戴くという決意も固く、また、日淳上人との固いお約束を果たすべく、三千世帯の折伏を目指して孤軍奮闘している時でした。そのような時期の妙信講の折伏活動を取上げて、坊主が次のような悪口を並べています。

幹部の脱退者の中に「浅井親子は熱原三烈士の生まれ変わりであろう。その証拠に、甚兵衛・昭衛・信衛と、皆、百姓のような顔つきをしているではないか」などと言う者も現われた。あるいは「浅井先生御自身こそ日目上人の再来という見方もある」などという幹部がいたとか、破邪新聞の記事を紹介するようなポーズを取りながら「浅井昭衛が望むなら証言も提示しよう」等と、いつの間にか坊主らは、浅井氏の悪口を発信する主導的な態度に取って代わっていますが、坊主の卑劣さが此処に現われています。

それは兎も角、日蓮正宗には古くからの言い伝えとして、次のような逸話が語り継がれていました。

「広宣流布の時には御開山日興上人が、日本の皇室に本化聖天子として御出現になられて国立戒壇の建立について勅宣を発せられる。それと併せて第三阻日目上人が、一閻浮堤の御座主として再誕せられ、世界の平和を祈願される」と。

ところが坊主の主張によると、広宣流布の時には日目上人がお出になられるという逸話も、浅井昭衛氏の作り話のような言い方をしていますが、坊主らは御開山日興上人が後事を託された「日興跡条々の事」で仰せられた冒頭の大切な御文を、真っ向から否定しているが如くであります。

日興跡条々の事に云く

一、「本門寺建立の時、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内、山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として菅領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし」と。

すなわち、広宣流布の暁には、日本国乃至世界中の山寺等に於いて、半分は日目の嫡子分として管轄して行きなさい。残る所の半分は、本宗の僧侶達で監理して行きなさいと仰せられています。

したがって、日本国が広宣流布した時には、あらゆる宗派の神社仏閣は日蓮正宗一つに統合されて、全国の神社仏閣には摘々書写の御本尊が掲げられるようになるのであります。したがって、その内の半分は、日目上人の摘々の弟子方で御本尊と寺や神社を管轄下に置き、残る所の半分は自余の大衆、つまり日目上人嫡々の弟子以外の僧侶達でこれ等を掌握・監理してゆきなさい。と仰せなのでありますが、今の坊主らには、その大事が全く理解できていない故に、「広宣流布・国立戒壇が実現する時には日目上人が出現される」という逸話も浅井昭衛氏の作り話の如く誹謗しています。さらには「浅井先生御自身こそ日目上人の再来という見方もある等と、顕正会の内部で幹部が噂していたかの如く、破邪新聞が報じていると批判しているのでありますが、そんな愚かな幹部は、昔も今も一人として存在しないのであります。

因みに浅井昭衛氏が日目上人の国諫と折伏弘通の事跡について、妙信講員を指導される時のお話は粛然として襟を正し、涙なくして拝聴する事のできない、富士の清らかな源流の中で日目上人が如何に国諫にお心を砕かれ、如何に三大秘法を立てる事に心血を注がれていたか、浅井昭衛氏が日目上人の尊い御振舞に触れる際の情熱を込めたお話は、聞く者をしてその場に居合わせるような臨場感にあふれ、厳粛な空気に包まれるのであります。

この際、坊主のふざけた批判を封ずる意味で、その一端をこの機会に紹介する事にします。

浅井氏云く「思えば、本門弘通の大導師として二祖日興上人は「未だ広宣流布せざる間は身命を賭して随力弘通を致すべき事」の遺誡を残し給い、それを身を以て実践遊ばしたのが第三阻日目上人であられた。日目上人の御徳は二祖上人が御付属に当たっての証文たる「日興跡条々事」の末文の賛嘆に明らかである。

「右日目は十五の歳日興に値うて法華を信じてより已来七十三歳の老体に至るまで敢えて遺失の義なし、十七歳日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って此の如く書き置く所なり、仍って後の為に証状件の如し」と。

此の御文を拝して「十五の歳よリ七十三歳の御老体に至るまで敢えて遺失の義なし」との部分に自分は殊に強い感動を憶えた。六十年の長きに亘って一分も法に違う事なき等は凡夫には到底不可能に属する。或る時は信じ、或る時は疑い、或る時は止まり、或る時は曲がる。これが凡夫の常である。法を持するに厳格なる二祖上人のこの御賛嘆こそ日目上人がいかにただ人ならぬ行体堅固の聖僧であられたかの証明である。

即ち御本仏の御在世に於いては大聖人・二祖上人の代官として身を捨てて園城寺の申状を朝廷に献じ、その後の国諫実に四十二度の多きに及ばれたとのことである。五十九代日亨上人の御伝によれば、「師(日目上人)は若いときから、東は陸の奥・西は京都周辺までも再々往復せられて、いつとはなしに足の踝(くるぶし)等を痛めながらも、数十回の国諫に充分の成果がえられぬのに煩悶せられ、後醍醐天皇が記録所を復興して鋭意皇政を強められ、ついに武家の正慶二年・公家の元弘三年に北条氏を滅亡して王政復古におよべるを好機とし、公家の奏聞に成功し園城寺申状を明確にすべく、持病の足痛と七十四歳の頽齢とをかえりみず、十一月の寒天に日尊日鄕の両人を伴侶の杖とたのみて京都へ急がれ、老いの弱脚を踏みしめ不便の宿りを重ねて、ようやく美濃の高原にさしかかった時、いぶきおろしに雪をまじえて面を向くべくもなく、ついに・・・・・・」と仰せである。

この年の二月には日興上人が御遷化せられている。富士一門の唯一人の棟梁たる御法主、然も七十四歳の御老齢、例え大石寺に安居せらるるとも誰が懶惰と思い、誰が懈怠と云うであろうか。しかるにもったいなくも老弱の御身体を自ら鞭打ち敢えて諫暁の長途を企て給うた。再び還るべからざるを既にお覚悟の上である。遂に中途の雪中に体力お尽き遊ばし、垂井の宿で尊・鄕両師の御守護申し上げる中に安詳として御遷化遊ばしたのである。

その最後の御様は「臨終の御勤めましまして両眼眠るが如く、口唇誦するが如く息止みたまう。その時御所持の御申状の御文に云わく「日目、先師の地望を遂げんがために後日のの天奏に達せしむ」と。嗚呼、日目上人のこの御振舞いを偲び奉るとき涙せぬ者は信心なき輩の姿である。妙信講の精神はここに立ち、ここに存するのである」云々と。

この浅井昭衛氏の講演を拝聴し、或いは一読するならば、坊主の批判が如何にナンセンス、如何に間違っているか、また、この時期に「脱退者が現われた」あるいは「幹部の中に浅井を日目上人の生まれ変わり」などと言う幹部がいた。などと云う坊主の誹謗中傷は、まったくの口から出任せの嘘である事が解ります。それに、おつむの悪い坊主が鼻息を荒くして「浅井昭衛が望むなら証言も提示しよう」などと書いていますが、そんなくだらない事は書かないで、ここでキッパリと当時の証言者の氏名と顔写真を明示してみたら良いのであります。

つづけて坊主云く「こと、ここに至って、浅井昭衛の邪悪な慢心の正体が明らかではないか。はっきり言う、浅井昭衛よ、一閻浮堤の座主きどりはやめよ!!日目上人がご迷惑である。日蓮大聖人は、『佐渡御書』に『出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり。法然が一類、大日が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加へて、権経の弥陀称名計りを取り立て、教外別伝と号して、法華経を月をさす指、只文字をかぞふるなんど笑う者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし』(御書581㌻)と仰せであるが、おそらく、この浅井昭衛という輩の過去の姿として、もっとも考えやすいのは、むろん熱原三烈士でも一閻浮堤の座主日目上人でもなく、かの三位房日行であろう」について

坊主は知ったか振りを決め込み「佐渡御書」の一節を引用しながら浅井氏を誹謗していますが、その肝心な佐渡御書には「出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是れ仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり」と仰せられ、出家した僧侶の堕落を責められている御文を取り上げて、在家の浅井氏を非難しているのでありますが、日蓮正宗の坊主もここまで来れば手の施しようもありません。笑ってやってください。僧俗の見分けも付かない愚かな坊主が清らかな宗門である筈の日蓮正宗を隠れ蓑にして、大聖人様の御遺命を破壊して只飯を食らいながら、回復不能な邪師の巣窟としてしまったのであります。こういう手の付けられない職業坊主を禿人と呼ぶのであります。

それに今までの坊主の主張は「幹部の中からは、浅井先生御自身こそ日目上人の再来という見方もある」との声が出ていた等と破邪新聞の記事を紹介する立場をとりながら、最後には「浅井昭衛よ、一閻浮堤の座主きどりはやめよ!!日目上人がご迷惑である」として、坊主自らが浅井氏を日目上人の生まれ変わり、などと勝手に決めつけて誹謗中傷していますが、顕正会の中には、浅井氏を稀有の指導者として尊敬する者はいても、日目上人の再来等と吹聴するような輩は何処にも存在しないのであります。

さらに坊主云く「奸智に長けるのあまり、師をしのぐ慢心を起こし、論争・演説が好きで、師から与えられた名も勝手に変えてしまう。そして、ついには師を捨てるに至る-----。何やら気持ちの悪いほど、よく似ているではないか」について

ここで坊主が指摘していますように「師から与えられた名も勝手に変えてしまう。そして、ついには師を捨てるに至る」とは、良く言ったものです。

確かに浅井昭衛氏は、昭和31年1月15日、第六十五世の日淳上人から妙縁寺・妙信講としての講中の存在を認証せられ、認証状の授与式まで本山で開いて戴き、再出発を果たした名誉ある希有な講中でした。日淳上人は認証状授与式に於いて、「法華講とは、盆と正月に登山する墓檀家のことではなく、真の法華講とは、熱原の法華講衆に源を発するのである。妙信講は闘う法華講となって、将来本山の外護を担って頂きたい。その為には先ず、三千の折伏を達成してみよ」と仰せられたという。

ところがその後、何を思い付いたのか解かりませんが、浅井昭衛氏は昭和57年10月7日、妙信講は日本武道館で第23回本部総会を開催し、突如として妙信講の名を捨て、内の法華講と決別して、「日蓮正宗顕正会」と教団名を変更し、御恩のある日淳上人の御顔に泥をぬり、外へ飛び出してしまったのであります。その後、平成8年11月8日には再び教団名を改め、「冨士大石寺顕正会」と名乗っています。その結果、坊主らは「日蓮正宗を詐称する猿真似集団」などと嘲り笑っています。

それでも外へ飛び出した浅井会長は顕正会員に対して「広宣流布の暁には顕正会は全員で御正骨を拝観したい」あるいは「天生ヶ原の四キロの道のりを全員で涙の行進をしたい」などと叫ばれていますが、門外へ飛び出して宗門と縁を切った顕正会が、果たしてそんな事が叶うのでしょうか! 浅井会長は何か悪い夢でも見ているのではないでしょうか?

浅井昭衛氏の最大の誤りは、恩徳のある日淳上人の懇請にも似た期待を平然と裏切り、講員との固い約束を反故にして、名誉ある妙信講を解散同様に消滅させて捨て去った事であります。

当時を振りかえれば、日達管長がいかに「法主」の権威を振りかざして国立戒壇を否定しようとも、多くの僧侶の中には「妙信講の言っている事が正しい、国立戒壇が正しい」とささやく者が跡を絶たなかったのも事実で有ります。そのため、日達は「僧侶の中でまだ、妙信講が正しい。などと言って若い者を指導している者があるのは、真に残念」(大日蓮 昭和51年7月号)等と嘆いていたのであります。

したがって浅井昭衛氏が日淳上人の恩徳を大切に思い、講員との固い約束を忠実に守り、日蓮正宗の中で妙縁寺妙信講として国立戒壇を叫び、妙信講の叫びに賛同していた僧侶方と御遺命守護の闘いを展開していたなら、今日のような「日蓮正宗を詐称する猿真似集団」などという嘲りを受けることもなく、僧侶の大半を日達の邪義から解き放ち、宗門の邪教化をくい止めて、真の僧俗一致の広宣流布への闘いが実現していたものと思われるのであります。

大聖人様は仏弟子の孝養について、開目抄には次の如く御教示であります。

「孝と申すは高なり天高けれども孝よりも高からず、又孝とは厚なり地あつけれども孝より厚からず、聖賢の二類は幸の家よりいでたり、何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」と。

顕正会の浅井氏が、邪義を振りまく坊主から「師から与えられた名も勝手に変えてしまう。そして、ついには師を捨てるに至る」などと非難中傷されるのは、誠に残念としか言いようがありません。

顧みれば妙信講が解散処分を受けた当初は、浅井本部長は「妙信講は絶対に解散しない」と講員との固い約束をしていたのであります。

浅井氏云く「講中の解散ということは、妙信講にとって死罪を意味する。およそ宗門七百年の歴史において、大聖人の御遺命を正しく守って解散させられた講中がどこにありましょうか。御遺命を曲げ、キリスト教の神父を正本堂に招いた者はほめられ、条理を尽くして身命も財も擲って法を守る者は死罪に処せられる。まさしく「末法濁悪の未来」との仰せが、まず正系門家の中に現れて来た。いよいよ広宣流布・国立戒壇建立の日近き前兆であります。

へらぬ口のようでありますが、御遺命たる国立戒壇の正義を守って死罪に処せられるなら、これに勝る喜びはないと私は思っております。だが、妙信講は今の腐った宗務院に作ってもらったものではない。昭和三十二年八月三日、先代御法主・日淳上人の命により出発した講中であります。日淳上人は「法華講とは墓檀家のことではない。熱原の伝統を継ぐものである。妙信講は戦う法華講となって御奉公せよ」と口頭先生(故・顧問先生)はじめ数名の幹部を本山に招かれ異例の認証式を行い、自ら辞令を下されたのであります。

日淳上人は宗門の将来を憂いておられた。果たして将来、学会の横暴を抑えられるか、今日のような宗門になることを、深く憂いておられた。妙信講は宗門のかかる時に身命を賭して御奉公すべく、日淳上人によって作って頂いた講中でありますれば、このように腐った宗務院の命令においては断じて解散致しません」(大拍手)と。

最後に坊主云く「三位房の最期は横死であるが、浅井昭衛も、尊い猊座をあそこまで誹謗していては、末路が目に見えるよである。『凡そ謗法とは謗仏・謗僧なり。三宝一体なる故なり』(御書608㌻)との御金言を拝するに、まぎれもなく浅井昭衛こそ謗法者であり、謗法者は一人の例外なく堕在無間というのが仏法の厳しき理である。哀れ、哀れ」と。

坊主らは「真言見聞」の中で仰せられる「凡そ謗法とは謗仏・謗僧なり。三宝一体なる故なり」の涅槃経の御文を引いて、浅井昭衛氏は必ず堕獄する等と決めつけています。そもそも「三宝一体」とは、仏・法・僧の一体をいうのでありますが、仏とは、久遠元初の自受用身、即ち日蓮大聖人様の御事であります。法とは、三大秘法であり、僧とは、御開山日興上人並びに代々の血脈付法の御正師を言うのでありますが、大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇を否定するような日達・日顕管長、あるいはそれに同調する坊主は、三宝に含まないのは当然であります。

最後に日達管長が三宝に含まれない理由として、日達管長の臨終について、現在顕正会の組長を務めている内藤正信氏が、平成30年9月26日、さいたま市民文化センターで行われた総幹部会の席で発表した、貴重な体験談を紹介したいと思います。

「私は平成二十四年、当時同じアパートに住んでいた婦人部の方に折伏され、静岡の自宅拠点において入信せて頂きました。昭和二十五年に富士宮市で生まれ、母が細井日達の縁戚に当たることから、私の両親は大石寺の宿坊で働き、母は法華講に、姉妹は創価学会に所属して、それぞれ広宣流布を見つめ折伏にも励んでおりました。私はなぜかどちらにも入信することなく、小学生まで大石寺周辺に住み、大石寺境内が遊び場になっていました。

そのころ定期的に大石寺の大講堂で戸田第二会長や池田大作が講演している声が聞こえていました。広宣流布を見つめ戦っていたときの家族は一家和楽でしたが、ニセ戒壇・正本堂が建設されたころより、家庭が殺伐とし始めたのです。学会員の妹が「池田先生に正本堂を建ててもらったのに、猊下はなぜお礼の一つもいわないのか」と母を責めると、法華講の母は「じゃあなぜ、御供養などさせたのか。大体、池田が猊下を罵倒することがおかしい」と反論し、学会・宗門の抗争が家庭内にまで及んでいました。

その後、ほどなくして細井日達が富士宮市のフジヤマ病院にに入院した際には、母は三回ほど見舞いに行っておりました。すぐに退院するものと思っていたところ、細井日達は昭和五四年七月に、急遽、激甚の発作に襲われ臨終を迎えたのです。母は突然のことに大へん動揺し、なかでも細井日達が大事な「御相承」を行おうとしていた前日に臨終を迎えたことと、医師が二時間に及ぶ心臓マッサージを施したにもかかわらず蘇生しなかったことに臨終が思うようにならなかった恐ろしさを肌身で感じていました。

母は細井日達の葬儀にも参列し、その臨終の相を眼前にしたそうです。なんとその相は----今まで見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だったとのことです。母は一目見た瞬間、あまりの恐ろしさに親戚の背中に隠れてしまったそうです。

私自身も身震いし、今にして思えば、御遺命を守るべき立場の貫首が御遺命破壊に加担した罪の大きさを思わずにはいられず「一切は現証には如かず」の御金言、御本仏の厳然たる常住此説法を強く噛みしめるものであります」云々と。

併せて浅井会長の講演の一部を紹介することにします。

「きょうの総幹部会も、三百万を見つめた顕正会なればこその、信心の歓喜と広宣流布の大決意みなぎる、素晴らしい総幹部会ですね。大感動しました。

その中でさきほど男子部の内藤正信組長から、細井日達の臨終の相について発表がありましたが、私も始めてこれを聞き、驚きました。私が、細井日達の臨終について知っていたことは----総本山近くのフジヤマ病院に入院していたが、退院の前日に激甚の発作を起こして倒れ、医師が二人で心臓マッサージを交代で二時間ほど施したが蘇生せず、その中に学会の顧問弁護士でありながら学会を裏切って宗門側に付いた山崎正友が、急遽、聖路加病院の日野原院長を呼んで来て診させたが、すでに事切れており、午前五時五分に「死亡確認」となった----ということしか、私は知らなかった。

臨終の相については、宗門側近の誰もが隠して何も言わないので、今日までわからなかった。それを、きょう始めて聞いたのです。発表した男子部組長のお母さんは、細井日達の縁戚だったことから葬儀に参列したとのことでしたね。そしてお母さんから聞いたその臨終の相は「いままでみたこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れて叫んでいるかのような相だった」「母は一ひと見た瞬間、あまりの恐ろしさに親戚の背中に隠れてしまったとのことでしたね。

大聖人様は「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如く有るべしや」(教行証御書)と仰せ下されいるが、臨終の現証ほど大事なものはないのです。

大聖人様の御遺命に背いたことが、いかに重大なことであったか。しかも末端の者ではない。いちばんの最高責任者が大事な御遺命を破壊したのです。私は「御遺命の敵になり畢った」と申しましたが、「一切は現証に如かず」です。まことに大聖人様の厳たるお裁きを拝見した思いであります。そして最も重大なことは「大事な御相承もなし得なかった」ということです。

このことについては、これまで何度も申しておりますが、下種仏法の血脈は、このようなことがあっても断じて断絶するものではないのです。「御相承ができなかった」ということは、大聖人様が、御遺命に背いた細井日達に、また次のさらに腹黒く学会にへつらっていた阿部日顕に対して、御相承の「授・受」をお許しにならなかったのです。

しかし血脈は断じて断絶するものではない。御遺命を堅持遊ばす貫首上人がお出になれば直ちに蘇る。まして、間もなく広宣流布の時には日目上人が御出現あそばす。そのとき、血脈は忽ち蘇るのです。だから少しも心配することはないのです。云々」と。

この度の体験発表は浅井会長も知り得なかった臨終の話として、富士門流の最高位にある貫首が、国立戒壇反対という大謗法を犯した仏罰が死相として現れたという、日達管長の壮絶な臨終の姿が語られていますが、謗法とは真に恐ろしいものであります。

最後に坊主云く「浅井昭衛一派の戒壇論、猊座誹謗、師敵対の妄説の大筋を摧(くじ)いた」などと威勢の良い啖呵をを切っていますが、拙者はこれまでのブログの中で、宗門の間違い、坊主の垂れ流す邪義を徹底して破折してまいりました。特に猊座の尊厳については、大聖人様の代務者として、三大秘法を清く正しく令法久住ならしめる最大の責任を有する尊貴なお立場の方が、まことに恥ずかしい最期を遂げられたことに、信徒の端くれとして、甚深の哀悼を意を表するものであります。







コメント

今度は浅井克衛氏に矛先を向けている

2018年09月29日 04時01分31秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.61~64)に、坊主らは「大石寺の一門となり通す」と題して次のように記して浅井昭衛氏を批判していますが、トンチンカンというか、的外れというか、浅井氏の主張と坊主らの言っていることは、何等変わるものではないにも拘わらず、浅井氏の主張は、あたかも血脈付法の歴代上人の御言葉を否定しているかの如く書いていますが、頭破七分の病に犯されると、表現の違いも見分けが付かなくなるようです。

坊主云く「浅井等の説く師弟相対のあり方の誤りについて述べてきたのであるが、本宗における師弟相対信はいずこに本源を置くべきか。『御本尊七箇之相承』には、「代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典379㌻)と仰せられ、唯綬一人血脈付法の御歴代上人方を日蓮大聖人と拝し、その時代における大聖人の代理者と仰ぐべきことをお示しくださっている。また、三十五世日穏上人は、先師日元上人より御相承を受けられた際の模様を、次のように御教示せられている。

「元師いわく『日蓮が胸中の肉団に秘し持ちたもうところに、唯以一大事の秘法を、ただ今、御本尊並びに元祖大聖人・開山上人御前にして、三十五世日穏上人に一字一問も残さず悉く付嘱せしむ。謹んで諦聴あるべし』とて、すなわち一大事の秘法御付嘱あり。並びに開山日興上人・日目上人・日有上人等御箇條の條々、残さず御渡しあってさて元師のいわれるよう、『この秘伝、胸中に納めたもう上は、日蓮・日興・日目乃至日因・日元その許一体にて候。なかんずく日穏には、当今末法の現住・主師親三徳兼備にして、大石寺一門流の題目は皆、貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候え』との御言葉なり」について

日元上人とは、本宗第三十三世の貫首上人であられます。日穏上人とは、第三十五世の貫首上人であられます。此処では第三十四世の日真上人が抜けて飛び越されていますが、その辺の経緯は何かの事情が有ったのかも知れません。それは置くとして、「元師いわく『日蓮が胸中の肉団に秘し持ちたもうところに、唯以一大事の秘法を、ただ今、御本尊並びに元祖大聖人・開山上人御前にして、三十五世日穏上人に一字一問も残さず悉く付嘱せしむ。謹んで諦聴あるべし』とて、すなわち一大事の秘法御付嘱あり」と仰せられいますように、唯一大事の秘法たる本門戒壇の大御本尊と宗開両祖の御心を帯した富士の清流は、第三十五世の日穏上人の許へ一字一句をあます処なく唯授一人の血脈相承の次第に基づき付嘱為さしめたと、御相承の厳粛な儀式の模様を記されています。

したがって今後は、唯授一人の血脈相承を授けた第三十五世の日穏上人の処に富士の清流はそそがれたので、その清流を汚すも濁すも主師親三徳兼備の日穏上人の双肩に掛かっている。依って貴公の唱える題目と大石寺一門の唱える題目は、大聖人様がお唱え遊ばされる内証深秘の南無妙法蓮華経と聊かの相違しないものと心得て精進していきなさい。と激励されているのであります。

ところで時代は下り六十六世の日達管長に此の御文を当てはめて見た場合、「この秘伝、胸中に納めたもう上は、日蓮・日興・日目乃至日因・日元・日昇・日淳・日達その許一体にて候」と果たして言える状況だったでしょうか、日達管長にあっては御登座直後は確かに富士門流の伝統を引き継がれ、国立戒壇の正義を宣揚せられていたようですが、途中から魔障にたぼらかされて、この御文はまったく当てはまらない現実となってしまいました。さらに言えば、「なかんずく日達には、『当今末法の現住・主師親三徳兼備にして、大石寺一門流の題目は皆、貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候え』」とは、夢にも言えない為体となってしまいました。

その理由は、大聖人様の唯一の御本願である処の、本門寺の戒壇、即ち国立戒壇に反旗をひるがえして戒壇の御本尊様を冒涜したうえ、ニセ戒壇正本堂を指して之れを「広宣流布の事の戒壇」などと、とんでもないことを言い出したのであります。そのうえ、戒壇の御本尊のお在します所は、何時でも、何方でも、「事の戒壇」であって「義の戒壇」は、絶対に何処にも存在しないという邪義をまき散らし、本門戒壇の大御本尊様を最大限軽賤した揚げ句、大聖人様以来滔々と流れ来たった富士の清流を濁流に変え、取り返しの付かないほど宗門を大混乱に陥れて、爪の垢ほとも功徳の生じない今日に至らしめたのであります。

つづけて坊主云く「さらに、日寬上人編『当家御法則』にも、「末法の本尊は日蓮聖人にて御座す也。然るに日蓮聖人御入滅有りて補処を定む、其の次々々に仏法を相属す、当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主に値うは、聖人の生まれ替りて出世し給う故に生身の聖人に値遇し結縁す」(研究教学書9捲740㌻)と示されているが、要するに、何時いかなる状況にあろうとも、富士大石寺の御歴代上人の門流となり通し、けっして離反せぬことこそ、本師日蓮大聖人の御心に適った師弟相対の姿であり、正しく血脈の流れ通う筋目なのである。顕正会員は、浅井を信ずる前に、これら大聖人・御歴代上人の御教示を伏して信ずべきであろう」について

上記の日寬上人が著わされた「当家御法則」を要約すると次のごとくであります。

「末法の本尊は日蓮大聖人である。然るところ大聖人は既に御入滅せられ、日興上人を次の後継者(補処)として定めた。また、日興上人は、日目上人へ、日目上人は、日道上人へ、日道上人は、日行上人へ、日行上人は、日時上人へ、日時上人は、日阿上人へと三大秘法を相嘱された。当代の処に戒壇の大御本尊と富士の法水が存するのである。したがって当代の貫首上人にお値いすることは、まさしく大聖人様にお値する事と同じこととなり、即身成仏の縁を結ぶことになる」と。

しかしながら、悲しいことに七百年の間連綿と受け継がれた富士門流の流れを汲む日蓮正宗は、第六十六世を継いだ日達管長の時代に富士の清流の中に「国立戒壇」否定という毒が入れられ、今日に至るも、その毒を洗い流すことが出来ていません。したがって坊主が言うように「何時いかなる状況にあろうとも、富士大石寺の御歴代上人の門流となり通し、けっして離反せぬことこそ、本師日蓮大聖人の御心に適った師弟相対の姿であり」との主張は少し違うのではないでしょうか、ただ「けっして離反せぬことこそ」大切な事だと思われますが、かりそめにも、間違った貫首の教導に随順するならば、功徳も、成仏も、お預けになるばかりか、仏罰を被ることになるのであります。

したがって仮に顕正会員が何らかの理由で宗門に移籍して信心を持続しながら功徳を得ようとするならば、間違った坊主の信心指導にとらわれる事なく、一人で血脈付法の貫首上人の御教導のまま正しい信心を貫くしか方法は無いのであります。いわゆる間違った信心指導には面従腹背を貫くしかないのであります。また顕正会に在籍したまま信心をつづける覚悟の会員は、浅井会長を通して歴代血脈付法の正しい貫首上人の御教示を胸に浮かべて、日々精進する以外に道はないのであります。

ただ、ここで顕正会で行われている総幹部会や各種の集会で報告されている顕正会員の体験発表を見る限り、いずれも驚異的な様々な功徳の体験が報告されているのも事実であります。それと併せて、人生の総決算とも云うべき、父母や家族が臨終を迎えた時の成仏の妙相が感激とともに語られていますが、それは「千日尼御前御返事」にお示しのとおり「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重きこと千引きの石の如し。善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、輭(やわらか)なる事兜羅綿(とろめん)の如し」の御金言どおりの、素晴らしい成仏を遂げることができたとして、多くの会員が即身成仏の有難さを語っています。

それに反して、宗門では能化と呼ばれていた高僧が死去した時の様相が、機関紙「大白法」で報じれていますが、成仏を遂げたという報道は、今までまったく見たことも聞いたこともありません。これは尤もな話しであります。大聖人様の唯一の御遺命に背いて成仏を遂げるなんて、如何に高僧と雖も絶対にあり得ないのであります。

つづけて坊主云く「なお、浅井は、前掲の『御本尊七箇之相承』の御文の意味について、「よく読んでみれば、法体の付嘱を受けたもうた嫡々代々の上人が書写された御本尊は、ことごとく即戒壇の大御本尊、即日蓮大聖人の御魂と信ぜよとの御意にすぎない」などと述べている。しかるに、浅井のいう、御歴代書写の御本尊に約して即日蓮大聖人の御当体と信ぜよ、との文意は、『七箇之相承』の次上の文に、すでに、「日蓮と御判を置き給う事如何。師の曰わく、首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵・釈・四天・日月等も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等も悉く日蓮なり(長文ゆえに中略)本尊書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん」(聖典379㌻)と示されているのである」について

ここで坊主らは浅井氏の解釈に対して、訳の分からない因縁を付けていますが、はたして坊主らは上の御文の意味が解って引用したものか、それとも適当に取って付けたのかは理解に苦しむところでありますが、此の御文は大きく分けて二つの大事が示されていることになるのであります。

①には、「師の曰わく、首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵・釈・四天・日月等も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等も悉く日蓮なり」とは、御本仏大聖人様の御生命の実体、即ち十界互具一念三千の大聖人様の御生命の本質を説明されているところの御文であります。

②には、本尊書写についての注意であります。即ち大聖人様の顕わされた御本尊は、即久遠元初の自受用身の一身の相貌顕わし給うたものであります。したがって、御本尊の中央に南無妙法蓮華経と認められた真下に、「日蓮在御判」と書かなければ、十界互具の本尊にはならないのであります。依って、南無妙法蓮華経の真下に、仮に「日達在御判」あるいは「日顕在御判」と書いた場合、天神・地神も、こんな可笑しげな本尊は用いないと仰せられているのであります。

すなわち、天界に存在する、諸天善神の働きも完全に無くなるばかりか、こんな本尊らしき下手物を仮に拝んだりすると、未来永劫に堕獄するほどの仏罰を蒙るということを説明されているのであります。

つづけて坊主云く「このことを踏まえ、虚心坦懐に拝するならば、「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」(同㌻)との御文は、御本尊を書写あそばす嫡々御歴代上人の位に約して日蓮大聖人と仰ぐべき文意であること、天日を見るがごとく明々白々ではないか。苦しい言い逃れは、所詮、無理というものである」について

坊主が指摘していますように、浅井昭衛氏は、何ら「苦しい言い逃れ」をしているわけではありません。坊主は何を勘違いしているのでしょうか。ところが坊主に言わせると、「御本尊七箇之相承」の御文を浅井氏が間違った解釈をして、顕正会員に間違ったことを吹き込んでいるごとく書いていますが、
大聖人様の唯一の御本願であるところの「国立戒壇」を否定したり、芸者遊びにうつつを抜かし、あるいはシアトル事件を起こしたり、「勅宣・御教書」を建築許可証などと解釈するような、いかがわしい者は管長と呼ぶのが最もふさわしく、そんな坊主を直ちに「日蓮大聖人と拝し、その時代における大聖人の代理者と仰ぐ」ことはできないのであります。その大事を御開山日興上人は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之れを用う可からざる事」と仰せられているのであります。

坊主云く「また、浅井の息子の克衛にいわせると、前に引用せる『当家御法則』について、「この書の題号は『抜書雑々集』であって、これを『当家御法則』などと称するのは大誑惑で、切腹ものだ」そうであるが、この書を謹写せられた二十九世日東上人は、題号を『当家御法則』と御認めになっておられる。克衛のいう『抜書雑々集』というのは、じつは、同書の副題にあたるものなのである。

また、克衛は、ここに同書から引用した一節も、「日寬上人の文ではなく左京日教師の文であって、日寬上人はこれを破折のために引用されたのである」と強弁するが、克衛は何か夢でも見ているのではなかろうか。いったい、どこに日寬上人がこの文を破しておられるというのか。左京日教師の書中の文とはいえ、これが本宗の信条にも相適う内容である故に、日寬上人が自在に用い、しかも肯定的な意味に構成されているのだから、むしろ、この文は日寬上人の御教示と仰いで、なんら、さしつかえない筈である。笑うべき思いつきはやめるがよかろう」について

ここで坊主らは浅井克衛氏が述べた言葉を引き合いに出して、彼をやり玉に挙げていますが、「当家御法則」なる書については、信徒の端くれとしては目にする機会もありません。ただ憶測をいうなら、題名から判断すれば、日蓮正宗僧侶の規則集とでもいうものだと思われます。それを指して浅井克衛氏が「抜書雑々集」と呼んでいるとして、坊主は克衛氏を非難していますが、坊主も認めていますように、「当家御法則」の副題に「抜書雑々集」として記されているのであれば、克衛氏の指摘もまんざら嘘でないことが読み取れます。

それに克衛氏が述べている一節は、「日寬上人の文ではなく左京日教師の文であって、日寬上人はこれを破折のために引用されたのである」と主張したのに対し、坊主は「克衛は夢でも見ているのではないか」などと毒舌を吐いていますが、坊主は後に「これが本宗の信条にも相適う内容である故に、日寬上人が自在に用い」られたとして、克衛氏が述べた一節は、左京日教師の筆であることを認めています。

さらには、坊主は「日寬上人はこれを破折のために引用されたのである」と坊主自らが、この発言は克衛氏の発言として非難しておきながら、その直後に「どこに日寬上人がこの文を破しておられるというのか」などとトンチンカンなことを書いていますが、まるで日本語になっていません。

そもそも摧破異流義考誌は、多くの顕正会員に読ませるため、顕正会の矛盾を突く為に上梓された本である筈です。であるならば、もっとまっとうな日本語を使うべきだと指摘しておきます。

坊主云く「さらに、浅井昭衛は、何としても御歴代上人を尊崇したくないために、「歴代上人のどなたが『自分は時の大聖人だ』などと云われていようか。そんなことは絶対にない」等として、例証に日達上人お言葉を引いたりしているが、どうやら浅井のような増上慢には、宗教的謙譲心などというものは理解ができぬらしい。あえて浅井のために教えておくと、日寬上人の『当家三衣抄』には、仏法僧のうちの僧宝を日興上人・日目上人以下「嫡嫡付法歴代の諸師」(聖典971㌻)とされており、さらに『真言見聞』に、「三宝一体」(御書608㌻)

と仰せのごとく、仏法僧の三宝はもとより一体と仰ぐのが仏教の基本なのである。これで充分であろう。もっとも、浅井教が外道であれば、仏教の基本もわからなくなって当然だが----。あるいは、何も知らぬ一般会員を欺いているうちに、本当に外道にまで堕ちたものかもしれぬ。ただ、呆れるばかりである」等と言いたい放題の悪口を記しています。

日寬上人の『当家三衣抄』には、仏法僧のうちの僧宝を日興上人・日目上人以下「嫡嫡付法歴代の諸師」と、御示しであられるようです。したがって「僧侶」を三宝の中に含むるとされたのは、あくまでも、血脈付法の正しい貫首上人と、その流れを汲む御僧侶に限るということであります。

七百年来の富士の清流に「国立戒壇」否定という邪義を垂れ流して、日蓮正宗の根本宗旨を破壊するような、日達、日顕という悪僧は、決して三宝の中に含まないのは当然であります。また、摧破異流義考誌に登場して邪義を振りまく坊主らも、三宝に含まれないことをよくよく認識すべきであります。







コメント (1)

バケツ三杯だって、呆れたね

2018年09月19日 14時58分32秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.59~61)に、坊主らは「日精上人の造仏・読誦問題」と題して次のように記しています。

坊主云く「さて、こうした所論をなす浅井昭衛が挙げられるのは、正信会と同様、十七世日精上人が造仏・一部読誦の問題である。それは、日精上人が寛永十四年に大石寺に晋山して御登座(御相承をうけられたのは寛永九年)される以前、住職を勤められていた江戸の法詔寺ほか縁故の数ヶ寺に仏像を造立し、同時に『随宜論』等の著書中にも造仏・一部読誦を論ぜられた、というものである。

浅井は、この問題をことさら取上げて、「間違いだらけである。このような僻事に随ったら大事の仏法はどうなる。ゆえに日興上人は『時の貫主たりと雖も』云々と厳しく戒められたのである」と強調し、さらに、これと同様の非常事態が日達上人の時に再び起こったとして、「日達上人が戒壇に関する御遺命に背いた、デタラメきわまる解釈をした、破廉恥だ、無道心だ」等々と口汚く日達上人を罵り、あげくのはてには「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等という。そして、「このような時は、命を賭して大聖人に忠誠を尽くさなくてはならない」などというのである。

だが、こうした浅井等の主張は、史実を自己に都合よく粉飾・悪用する奸計といわざるをえない。そもそも、日精上人の時代の大衆が、今日の浅井等の如く、「命を賭して」御法主の悪宣伝を広く流したり、「バケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等の事実無根の虚言まで用いて、口汚く御法主を罵っているであろうか。もし、当時の僧俗が、浅井等のいうごとく、「命を賭して」日精上人を批判したのであれば、それなりに記録も残っている筈だが、そのような記録は何ひとつ現存しておらない。

このことは、むしろ当時の僧俗大衆が、日精上人に対し奉り、師弟の礼節・筋目を守って大導師として尊崇申し上げて居た証明といえよう。つまり、浅井の言うごとき、大衆が、「命を賭して」日精上人を諫め闘ったなどという事実はなかったのであり、それにも拘わらず、「大事の仏法はいったいどうなる」というような宗門謗法化の事態はおこらなかったのである。

また、日精上人の造仏・読誦問題そのものについても、今日の宗史研究では疑問符がつけられており、事実、御登座直後の日精上人には、御遷化に至るまでの四十七年間、造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。そればかりか、日舜上人に血脈相承あそばされるまでの九年間には、御影堂・二天門の建立、総門の再建をはじめ諸堂塔の修復に尽力なさり、『家中抄』等、宗史研究に重要な書を御著述、そして、唯綬一人の血脈を承継する御法主として、曼荼羅御本尊を書写あそばされて諸堂に安置され、また信徒に授与されている。

こうした日精上人の多大な功績と、その御威徳について、四十八世日量上人は「諸堂塔を修理造営し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂うべき者か」(聖典761㌻)とも仰せであるが、こうした数々の日精上人の御功績を、また何よりも、血脈相承を継がれた宝器であられることを忘れ、平気で極悪人か魔障のごとく述べた浅井等は、やはり日蓮正宗の外にある門外漢といわねばならぬと思うものである。

いわんや日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門に対し、日精上人の御事を絡ませて誹謗する浅井の説は、まさに荒唐無稽、師敵対の大謗法に他ならない。」等と記しています。

さて、この項では拙者のあずかり知らぬ事ばかりなので、反論は差し控えることにします。そもそも第十七世日精上人が造仏・一部読誦を行い、それを奨励されたという話については、聞いたこともありません。また彼の上人の「随宜論」についても目に触れたこともないので論評のしようもありません。

ただ、浅井昭衛氏は「最後に申すべき事」の中で、「中古の精師の『随宜論』等はさて置く」として、随宜論の存在に触れていますが、坊主は日精上人が「造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。」として、「随宜論」の存在にすら一言たりとも触れていないのは、釈然としないものが残ります。

それと「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」などと、浅井昭衛氏が盛んに宣伝している如く書いていますが、そんな話は一度たりとも聞いたことはありません。したがって浅井昭衛氏がそのような悪言を以て広く吹聴しているならば、何時・何処で、そのような発言をしたのか、その証拠を挙げて明確に示すべきであります。

それに「日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門」とは、何のことはありません。それは、本門戒壇の御本尊の在すところは、いつでも、何処でも「事の戒壇」という邪義であります。

日達云く「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉ってあっても、その御本尊の在すところは何処、何方でも、そのところは事の戒壇であります」(昭和45年4月27日 教師補任式)と。

要するに三大秘法を開いた時には六大秘法となります。つまり本門の本尊には、「法の本尊」と「人の本尊」。題目には「信の題目」と「行の題目」。戒壇には「義の戒壇」と「事の戒壇」になるのでありますが、日達に言わせれば、戒壇は「事の戒壇」と「事の戒壇」ばかりで、「義の戒壇」というものは絶対に存在しないという邪義であります。

日達のこの邪義によって、日蓮正宗は一切の功徳を失い、一人の成仏も適わない宗門と成り果ててしまいました。

詳しくは又の機会に




コメント (1)

顕正会の折伏は何故に進まない?

2018年09月16日 11時53分06秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.56~59)に、「遺誡置文と師弟子の道」と題して、坊主らは尤もらしいことを次のごとく記していますが、今回はどこを切り口にして、坊主らの間違いを糺していくか、躊躇している処でありますが、やはり、上から順に一節づつ切りの良いところで区切って、破折を加えて参りたいと思います。

坊主云く「さて、この師弟相対のあり方についてであるが、五十九世日亨上人は、『有師化儀註解』に「『もたげられたる』とは、もちあげたるなり・興起したるなり・奉上するなり。弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十方の通軌なれば、釈尊は迦葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師に誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等、悉く師に依って行わなはる、師弟の道は神聖ならざるべからず・世間の利害を離れて絶対ならざるべからず(中略)信の手続きに依りて師弟不二の妙理を顕わし・能所・一体の妙義を証する」(富要集一巻124㌻)等と仰せられ、師を尊敬し信じ順うところに師弟の道が成就することを示されている。

しかるに、浅井昭衛は、『日興遺誡置文』の「時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」(御書1885㌻)との一節を引き、〝法主といえども誤りはある、その誤りを命がけで糺し、誤りある師をば捨ててこそ、本師大聖人に対する弟子の道である〟等の師弟論を立てるのである。こうした浅井等の在り方は、決して真の師弟に道ではありえない。」について

坊主らの講釈を聞いていると大概ばかばかしくなるのでありますが、坊主が引用した五十九世日亨上人の「有師化儀註解」の御文は、仏経三千年の通軌を述べられたもので、それはそれで厳粛に受け止めなければならない一応の歴史的事実であります。しかし「有師化儀註解」の中で「宗祖は釈尊に」と記された部分は、久遠元初の自受用身が垂迹して上行菩薩となって出現された姿なのであって、これはあくまでも外用の姿を現じた上行菩薩と釈尊の師弟関係を説明されたものであります。したがって、日亨上人が有師化儀註解の中で「宗祖は釈尊に」と仰せられているところは、上行菩薩が、五百塵点劫本果の釈尊から法華経神力品で三大秘法の付嘱を受ける手継ぎを仰せられているのでありますが、元々大聖人様のご内証は、本地、久遠元初の自受用身であられることを忘れてはならないのであります。

それはそれとして、大事な仏法が曲げられた解り易い事例を申し上げれば、伝教大師が始めて法華経迹門の戒壇を建立した叡山延暦寺は、第三代の慈覚、第四代の智証が真言の邪義を入れて、邪教化が始まったことは、夙に有名であります。

その事実を大聖人様は三大秘法抄に「延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まって第三・第四の慈覚・智証、存の外に本師伝教・義臣に背きて、理道事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論と謗ぜし故に、思いの外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒に土泥となりぬる事云うても余りあり、歎きても何かせん。彼の魔黎山の瓦礫となり、栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」と仰せられ、如何に清らかな清流であっても、途中から邪義が入ると大事の仏法が曲げられるという事例を挙げられています。

したがって、坊主が主張していることは、前回も申し上げましたが、御相承を受ける側の次期貫主が絶対に曲がっていない。これからも曲がらない事が大前提になるのであります。そこで、日蓮正宗の事例を挙げて説明しますと、六十六代を継いだ悪僧細井日達は、御開山日興上人が遺された遺戒置文の意を次のように曲げてしまいました。

「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」の御教示を次のように解釈しています。

①「後世の総本山代表たる貫主であっても、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てて固執するならば、その説は勿論、その貫主を用いてはならない。日興上人は大聖人の仏法を守るためにはかくの如くじつに厳格であったのである」と。

②「これの意味は『貫主であっても、仏法に相違して己義を構えるそういう者を用いてはいけない』というです。貫主は誰を用いてもいいんだ、誰でも用いられる。----しかし仏法に相違して己義を構えた者はこれを用いてはいけないと書いてあるんです。----それを、ただ、貫首が仏法に相違したからこれを用うべからずなどと、何を言うんだかさっぱりわからない」

③「これは『時の貫首は何でもできるけれども、己義を構えて間違ったことをした----己義を構えるといっても、仏法上において化法化儀にわたっての己義を構えた者という意味ですが----そのような者は用いてはいけない。ときの貫首はそれをはっきりして、そういう人物を用いてはいけない』これが本当である」と。

上記の①の解釈をした人と②③を解釈した人物が、まさか、同じ人物とは到底思えないのでありますが、唯授一人の血脈相承を受けた貫首と雖も、魔が入るとこの様に曲がってしまうのであります。したがって、妙信講の浅井昭衛氏が主張していることは全く正しいのであって、坊主の方が間違っているのであります。

今日、曲がってしまった日達の所業をみれば、日達の前の六十五世日淳上人は富士門流の正義を正しく伝承せられ、国立戒壇を高々と掲げて僧俗信徒を教導せられていました。ところがその跡を継い日達は「有師化儀註解」の御文、すなわち「師を尊敬し信じ順うところに師弟の道が成就することを示されている」とした日亨上人の仰せは馬耳東風の如く、見るも無惨に取り返しの付かないところまで曲げてしまいました。その結果、先師日淳上人に背いて邪義を垂れ流しつづけた日達は、広宣流布という目的観を喪失した、功徳のない無気力な姿へと堕落した宗門へと変身させてしまったのであります。

それに反して「時の貫主と雖も仏法に相違して己義を構へば之を用うべからざる事」との御教示を実践に移した浅井昭衛氏の行動こそ正しく賞賛されるべきであって、坊主の主張は誰人にでも当てはまる御教示でないことが分かります。

坊主云く「なんとなれば、まず本宗の御歴代上人は、本仏日蓮大聖人御内証の法体を展転相承され、余の僧俗大衆に法体の功徳(即身成仏の血脈)をお取り次ぎくださる大導師位にましますのである。これは、たとえ、いかなる時代、いかなる状況下においても変わらざる根本であって、この法体を所持あそばされる御歴代上人を、宗祖の御代官(大導師)として伏して尊敬申し上げ、信順しぬくことが、事行の上に師弟相対を顕わす姿なのである。」について

坊主が主張するように貫主が「本仏日蓮大聖人御内証の法体を転伝相承され」たのは紛れもない事実であります。また「この法体を所持あそばされる御歴代上人を、宗祖の御代官(大導師)として伏して尊敬申し上げ、信順しぬくことが、事行の上に師弟相対を顕わす姿なのである」とは、血脈付法の正しい上人に限って言えることであって、如何に法体を所持する貫主とは云え、仏法を曲げるような貫主が法体を所持したところで「事行の上に師弟相対を顕わす姿なのである」にはならないのであって、坊主の引用した文は当てはまらないのであります。

参考までに申し上げれば「御内証の法体」とは、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊の御事であります。

坊主云く「この根本に立ったうえで、前の『遺誡置文』の一節について考えてみよう。この一節だけを取り挙げ、その表面的な文意を見るかぎりにおいては、たしかに「時の貫主の説といえども、もし仏法の大綱に相違する己義であるならば、これを用いるべきでない」との意に拝せられる。が、もとより、このような事態は、日亨上人が『富士日興上人詳伝』に「時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者がにわかに無上位(※大導師位)に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。(中略)いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」と仰せのように、たとえば寛師以前の、本宗教学が整理体系化されておらなかった上古の時代などに、ごく稀に起こりうることに対する備えであって、日常の通例と考えるべきではない。(幸いにして、そのような事例は発生しなかったけれども)

しかも、この『遺誡置文』の次の一項には「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を摧(くじく)べき事」(御書1885㌻)と仰せあって、前の「用ふべからざること」に対し、ここでは「摧(くじく)べき事」と、師弟の厳然たる筋目が立て分けられている。すなわち、弟子分に許されるのは、あくまでも己義を用いぬ事に止まるのであって、これを逆にいうならば、弟子分にある者が貫主(御歴代上人)を摧くことは許されぬ、との師弟相対の深旨が含められているものと拝すべきである。」について

日亨上人が仰せのように『富士日興上人詳伝』に「時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者がにわかに無上位(※大導師位)に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。(中略)いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」とのご指摘が日達の代に実際に起こってしまったのであります。

坊主云く「しかして、貫主の御教示が正義か己義か、その用否を判ずるのは誰かといえば、何よりも第一に後代の御法主上人が判ぜられ、その説を用いられないのであって、これを余の僧俗大衆が軽率に用否を決することは、あまりに分限を超えているといえよう。もし万一、不幸にして、御歴代上人の御教示に何らかの疑問が感じられるとき、弟子分としての取るべき道は、ただただ、何回となく御法主上人に言上し具申させていただくところに尽きるのである。(その中で、かえって自らの捉え方に誤りがあることに気づく場合がほとんど、であろうが。)それが法体御所持の御法主上人に対し奉る、根本の信に住したうえでの、師弟相対の道を弁えた振る舞いである」について

坊主の言っていることは完全な間違いであり、まったく惚けた解説であります。六十六代の日達は、富士門流七百年来の伝統教義を曲げてしまいました。その後を継いだと称する曲がった六十七代の日顕が、先代の日達が曲げた教義を判ずるとは、余りにもバカげた話であります。

それに坊主は置文の「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を摧(くだく)べき事」の一節を改竄して、「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を摧(くじく)べき事」などと、わざわざルビを付けて読む者をミスリードして問題を矮小化していますが、「くじく」とは、「挫く」のことで、一例を挙げれば、柔道の練習中に左足を「挫いた」あるいは「捻挫した」などと表現するところを、「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を摧」(くじく)と読ませて、問題をすり替えています。

そもそも摧(くだく)とは、摧滅する、あるいは、木っ端微塵に打ち壊すことであります。したがって置文の意味は、大勢の者が寄って集って圧力を掛けて仏法を曲げようとする時、貫首たる者、例え大衆の意見たりと雖も、大聖人様の御心に反する意見であるならば、その邪義を敢然と打ち摧いて仏法を護れと、時の貫首に絶大な権限を与えている御文と拝すべきであります。坊主の狡さがこんな処にも現われているのであります。

それに坊主が指摘していますように、「もし万一、不幸にして、御歴代上人の御教示に何らかの疑問が感じられるとき、弟子分としての取るべき道は、ただただ、何回となく御法主上人に言上し具申させていただくところに尽きるのである」との事でありますが、瞬間湯沸かし器の異名を持つ日顕ごときに、その間違いを指摘し、一度たりとも言上具申しようものなら、日顕から、有無を言わさず即刻頸を斬られて還俗させられ、明日から、ただ飯が食えなくなるのが落ちであります。

坊主云く「こうした師弟の道のあり方は、師弟相対を主軸とする法華経、なかんずく師弟相対信の上に建立された本宗の信仰においてこそ、もっとも大切な守るべき姿勢であるといえるであろう。しかるを、「誤れる貫主と命がけで闘うことが本師大聖人に対する弟子の道」などと称し、宗門と対峙して独自の路線を進み、口汚く御法主上人を誹謗したりすることは、まさに師弟の筋目を逸脱した異流義の輩となるのである」などと。

今の坊主が言っていることは、富士門流の僧侶としては、真逆な戯れ言を並べているとしか思えないのであります。

大聖人様は、仏法を破壊する悪僧とは徹底的に闘う必要性を次の如く御教示であります。

「法を壊る者を見て責めざるは、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)と。

「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持擁護すべし」(立正安国論)と。

「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(撰時抄)と。

「獅子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)と。

第二祖日興上人は本項の主題に挙げられた遺戒置文の一節について

「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と誠誡せられているのであります。

浅井昭衛氏の貫首に対する諫めは極めて抑制的で、時の貫首を口汚く罵ったりはしていません。

ただ惜しむらくは、日淳上人から妙信講という名誉ある法華講としての認証を賜り、認証状の授与式まで開いて戴きながら上人の御顔に泥を塗り、恩を仇で返すように教団名を変えて外の顕正会へと飛び出してしまった事は、大きな間違いだったのであります。まことに取り返しの付かないことをしてしまいました。返す返すも残念という以外に言葉もありません。

結局教団名を変えて外へ飛び出した顕正会には、坊さんは一人も居ません。言わば在家だけの歪な教団となってしまいました。

ここで創価学会と顕正会の折伏数を比較して見ますと、創価学会は昭和21年の7月から戸田城聖氏が逝去する昭和33年4月2日までのわずか12年の間、国立戒壇を高々と掲げて75万世帯の折伏を成し遂げ、その後を引き継いだ池田大作は、昭和35年5月3日から昭和45年5月までの、都合24年間のあいだに、800万世帯という驚異的な折伏を敢行しています。

一方の妙信講(顕正会)は、昭和17年に発足、昭和32年8月には新しい妙信講として再建されました。その時の講員数は350名だったそうです。その後、昭和49年8月12日、講中解散処分を受けた時の講員数は、12,000名でした。その後、昭和57年10月9日、顕正会へと教団名を変更して外へ飛び出し、顕正会発足から61年を経た、平成30年7月25日現在、総会員数200万名を達成したと発表しています。

創価学会は、24年間のあいだに800万世帯を折伏、一方顕正会は61年間かけて200万人を達成、この数字を大雑把に1年毎に換算しますと、学会は1年間に約333,333人の折伏を成し遂げた計算になります。それに対して顕正会は、1年間かけて、学会の十分の一にも満たない、わずか、32,786人しか折伏が出来ていないのであります。

これは、双方のおかれた環境を無視して、一概に並列に並べて数だけを論ずることはできないとは言え、大きく分けて言えることは、創価学会は宗門の中で国立戒壇を掲げ、日蓮正宗の信徒団体として活動していました。しかし顕正会は、同じく国立戒壇を高々と掲げながらも、外へ飛び出して宗門とは完全に縁を切って、独自路線を走り続けています。

顕正会の折伏が予想に反して進まない最大の理由は、こんな処に有るのではないでしょうか?

拙者は、顕正会が一刻も早く発足当時の内の妙信講へと還ることを念願しています。妙信講当時の原点に還る英断は、多くの大切な会員の為、宗門の為、広宣流布の為、大きく言えば国家繁栄の為に必要なのであります。

この大事を決断できるお方は、先行きのみじかい、お歳を召された浅井昭衛会長にしかできない、残された最後に残された大仕事であります。くれぐれも晩節に誤りなき事を念じています。

富士の麓に七百年 日蓮正宗興せ いざ






コメント

日蓮正宗の邪義を糺す闘いはこれからだ

2018年09月01日 13時29分58秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.55~56)に「四、浅井等の血脈軽視・猊座冒涜について」と題して大見出しをつけ、その横に太文字の小見だしで「血脈は師弟相対のなかに」として、次のように記しています。

云く「大石寺から離反した浅井昭衛一派は、自らを正当化すべく、日蓮大聖人御入滅後も、大聖人から直接に大衆(なかんずく浅井一派)へ血脈が流れることにしようとしておる節があるが、これは大いに誤っている。」

第九世日有上人は、「師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の南無妙法蓮華経」(聖典978㌻)

「師弟相対する処が下種の体にて事行の妙法蓮華経となる」(聖典978㌻)

「手続きの師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我弟子も此くのご如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云々」(聖典974㌻)

註、「代代上人のもぬけられたる故に」とは、ゲンゴロウや蝉の幼虫の抜け殻が幼虫そっくりである如く、師弟不二の姿を形に例えて表現した事例のこと。

「先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり」(聖典977㌻)

等々と仰せられ、師弟(仏界と九界)が相対するところが十界互具・事の一念三千であり、しかも、現在の師(大石寺受持たる血脈付法の御法主上人)に信順して師弟相対する姿を通じ、御本仏日蓮大聖人に師弟相対するところが事行の妙法蓮華経であって、そこに即身成仏が存する、と御示しくださっている。

また、「蓮盛抄」にも「止観に云はく、『師に値はざれば、邪慧日に増し生死月に甚だしく、稠林曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し』云々。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧ろ輙く自己を本文とせんや」(御書29㌻)

と仰せのように、大聖人の教義を学び御内証の法体を信ずるといっても、そこに現実の師を仰がなければ、知らず知らず自己の知恵を中心として法を見る-----いわば己心中心の信仰に陥って邪見が増長しいくこととなり、けっして大聖人に師弟相対する姿とはならないのである。

したがって、我々大聖人御入滅後の衆生は、大聖人御内証の法体を継承される御当代上人を大導師と仰ぎ、師弟の誠を貫いていく姿を通じて、はじめて御本仏大聖人に師弟相対することができ、そこに御内証の法体から即身成仏の血脈を取り次いでいただける、と銘記せねばならない。」等と尤もらしいことを記しています。

拙者は上記に示された日有上人が仰せられた聖典の御文と蓮盛抄の御教示については、何等異議をはさむものではありません。まったくそのとおりだと思っています。

それはそれとして日蓮正宗が唯一正系門家と謂われて来た所以について、改めてお示しすることにします。

日蓮正宗が正系門家を呼ばれてきた所以は、次の三つが挙げられるのであります。

① 日蓮正宗には、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊存様がまします故に
② 日蓮正宗には、唯授一人の血脈相承が連綿と伝持されて来た故に
③ 日蓮正宗には、大聖人様の御願業たる国立戒壇を七百年来堅持して来た故に

以上の三つは、御本仏日蓮大聖人様から第二祖日興上人が賜った一期弘法付嘱書を謹んで拝見すれば、その三つが整然と示されています。

はじめに一期弘法付嘱書

「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に是れを付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」

       弘安五年九月壬午 日    血脈の次第 日蓮  日興 と。

「日蓮一期の弘法」とは、①の本門戒壇の大御本尊の御事であります。

「白蓮阿闍梨日興に是れを付嘱す」とは、②の唯授一人の血脈相承の御事であります。

「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とは、③の国立戒壇の御事であります。

次に第二祖日興上人から第三阻日目上人への御相承について

日興跡条条事の一文の中に

一、日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし。

このみじかい御文の中に整然と、①、②、③の全てが御示しになられている事が良く分かります。

そして結文に云く

「右日目は十五の歳日興に値い法華を信じて以来、七十三歳の老体に至るまで、敢えて遺失の儀なし。十七の歳日蓮聖人の所(甲州身延山)に詣で御存生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり。仍って後の為、証状件の如し」と。

上記の讃文は、第二祖日興上人が大聖人様の顕わされた三大秘法を、如何に末永く清く正しく令法久住せしめるかについて、御心を砕かれていたかを窺い知るに、大切な御文と拝することができます。

そして日興上人は晩年に至って、富士門流の憲法とも謂うべき二十六箇条にわたる大切な遺誡置文の中で、次のようなお言葉を以って、三大秘法に値遇することの難しさを御示しであります。

云く「夫れ以みれば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照らし久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、於戲(ああ)仏法に値うこと希にして喩(たとえ)を曇華の蕚(はなしべ)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、爰(ここ)に吾等宿縁深厚なるに依って幸いに此の経に遇い奉ることを得、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」と。

そして条目の冒頭には

一、富士の流義聊かも先師の弘通に緯ぜざる事。

一、当門流に於ては御書を心肝に染め、極理を師伝して若し間有らば台家を開く可き事。

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。

中に至り

一、五人の立義一一に先師の御弘通に違する事。

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。

一、謗法と同座す可かざる与同罪を恐る可き事。

等々書き残されて謗法を厳戒せられておられます。依って富士門流の日蓮正宗は、大聖人様御存生以来七百年、謗法厳戒・師弟不二・血脈付法を旨とし、特に本門寺の戒壇=国立戒壇は大聖人様の唯一の御遺命として大切に伝承せられ、日蓮正宗に於いては、何をさておいても是れを最大事の宗是として来たのであります。

故に第六十四世日曻上人は、昭和三十年十一月奉安殿の落慶式に於いて、次のような慶讃文を発せられています。

云く、「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して、血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給わるところなり。上人身魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮堤の座主日目上人に付嘱してより、血脈の法主歴世に奉戴し、或る時は校倉を、或る時は土蔵を宝蔵として奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れリ。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。---- 血脈付法の法主を継げる日曻 ----『時を待つべきのみ、事の戒法とは是れなり』の金言を身に体して、必ず来たるべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきを確信す。願わくば宗祖大聖尊の法魂安穏に常住し給わんことを」(奉安殿落慶慶讃文)と。

この凜乎たる叫びこそ本門戒壇の大御本尊様にお仕えし奉る一糸乱れず異口同音のお姿であり、歴代貫首上人の御心でありました。

したがって日曻上人の跡を継がれた第六十五世日淳上人は

「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知事の文について)と。

つづけて「この元朝勤行とても----二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と。

また日淳上人は一期弘法付嘱書の御文と立正安国論の精神を咀嚼せられて、次のように仰せられておられます。

云く「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮 昭和32年1月号)と。

その跡を継がれた第六十六世の日達上人も御登座直後には、歴代先師上人と同じく「国立戒壇」を高々と宣揚せられていたのであります。

云く、「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行の徹底邁進せられんことを願うものであります」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

亦云く、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。

つづけて云く、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところが日達上人はこの頃から最大の信徒団体であった創価学会会長の池田大作に対する阿諛迎合が目に付くようになり、池田が要求する全国法華講連合会の結成に協力することとなったのであります。それまでの法華講は、全国に散らばる末寺ごとにばらばらに設立された「〇〇講」「△△講」といった講の集まりで、いわば墓檀家のような存在であったものが、創価学会の組織に見るように上意下達で、宗門の意向を迅速に伝え、バラバラな講を一つにまとめることで大きな力を発揮し、信心指導を徹底できるなどの理由から、昭和37年7月31日、総本山で全国法華講連合会結成大会を開き、会長に日達猊下の伯父に当たる平沢益吉氏を任命、企画部長に柳沢喜惣治氏をあて、昭和39年4月には法華講総講頭に創価学会の会長、池田大作を任命し、法華講員に対する一切の指導を池田に一任する事にしたのでありますが、真の狙いは、創価学会の選挙を勝たせる為の組織作りだったのであります。

池田はそれに先立ち昭和36年11月には公明政治連盟をつくり、参議院に院内交渉団体を結成するなどして政治進出を本格化さる準備を整えてきました。それに合わせるように日達管長は池田と度々海外旅行に出かけるなど、二人の間は急速に蜜月関係になって行きました。この頃から日達管長は学会の施す奢侈に心を蕩かされたか、管長の言動に著しい変化が現われて来るのであります。

昭和38年7月15日に発布された訓諭を見れば、日達管長の変貌ぶりが良く分かります。

云く「倩々惟みるに下種本仏の利生漸く閻浮を光被せん機運の洋溢する方今を迎へ得しは、是れ後五百歳中広宣流布の金言を体し、地涌の眷属たる自覚のもと打って一丸、克く折伏逆化に邁進する創価学会の出現によるところと謂うべきなり。夫れ創価学会々員捨身弘法の熱誠たるや、宗門の古今に全く類を絶せる熾烈さにして----その行業は正しく大聖人の御嘉納遊ばさるるところにして、宗門緇素の等しく満腔の敬意を表さずんばあるべからざるところなり。若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護借建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ公布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂うべし」(大日蓮 昭和38年8月号)と。

日達管長は、冗談にしても、かりそめにも、創価学会に対して悪口を言う者は、無間地獄に堕ちるとまで訓諭を以って、内外の創価学会へ対する批判を封じ、褒め言葉一色になっていくのであります。

云く「今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大将として広宣流布に進軍しております」(大白蓮華 昭和39年1月号)と。

つづけて云く「かかる時期に、池田先生は、世界の人々に謗法を撰捨し正法の南無妙法蓮華経を撰取せしむるため、進んで本撰時抄講義を出版せられたことを、私は深く感謝するのであります。要するに池田先生は、久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経を、今の時に広宣流布せしめようとする念願のほか、なにもないのであります」(昭和39年11月、撰時抄講義録発刊の序)と。

このように日達管長の発言は池田礼賛の諛言が次々と飛び出すようになり、その後、こんな事まで言い出したのであります。

云く「思えば昨年の春、会長池田先生との談話の時に、私が、『すでに広宣流布しておる』語ったら、会長は、『そうです。舎衛の三億です』と即座に答えられたので、私はその見識に内心感歎したのである。この世が広宣流布になっても、舎衛の三億のごとく、また鬱単越のごとく、正法を見ず、聞かず、信ぜざる人々も残ることは必定である」(大白蓮華 昭和40年1月号)と。

亦云く「而して大聖人は、本門戒壇の御本尊を建立遊ばされて世界の人々の地獄の道をふさぎ、成仏の道を開かれて『今者は已に満足』と、法体の広宣流布をなさったのであります。茲に会長池田先生が化義の広宣流布の為め、戒壇の御本尊安置の正本堂建立を誓願したのであります。此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本尊も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して、南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)と。

さらに「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮堤第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。

明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では、『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称は使用しないことにいたします。創価学会においても、かつて『国立戒壇』という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その、〝国立〟なる名称を使用したにすぎないと思うのございます。今日、世間の人々が、〝国立〟という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います。

その本門の大御本尊は『日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり』と仰せられる大聖人の一身のご当体でありますから、本門戒壇の大御本尊のところは、すなわち、事の戒壇であります。今まさに、わが大石寺に正本堂が建立中であります。この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのでありますから、その時は正本堂は本門事の戒壇であります。その正本堂は、池田会長の発願と、全信徒八百万の純真なる日蓮正宗の信徒の浄財による、いわば八百万民衆の建立であります」(大日蓮 昭和45年6月号)と。

日達管長の邪義と諛言は遂にこんな所まで来てしまいました。第二日興上人の違誡置文の冒頭には「富士の流義聊かも先師の弘通に緯ぜざる事」と厳戒せられていることなどまるで眼中にない如くであります。また本項の冒頭に坊主が挙げた日有上人が御示しになられた聖典の数々は、第六十五世を継がれた日淳上人の時代までは固く守られてきた有効な御文でありましたが、それには唯授一人の血脈相承を受ける側の次期貫首上人(日達管長)が、先師の弘通に聊かも違背していないという前提があって、はじめて成り立つ御文なのであります。

ところが日達の時代になると立宗以来堅持されてきた、国立戒壇の③を、民衆立の戒壇などと改変して、国立戒壇を永久放棄してしまいました。それ以後の宗門は目も当てられない惨状を呈しています。まさしくこれは大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇、即ち日蓮正宗が唯一の正系門家と謂われてきた歴史を完全に破壊したこととなり、これにより、大聖人様の唯一の御遺命たる「国立戒壇」という大目的を永久放棄した結果、無気力にして、まったく功徳のない宗門になってしまいました。一旦、御本仏大聖人様の御心に背いてしまったなら、自らその間違いを正さない限り、一切の功徳は生じなくなるのであります。     

その跡の六十七代を継いだと称する阿部日顕に至っては、昭和53年2月7日、今まで日達猊下から疎んじられてきた日頃の鬱憤を晴すためか、腹心の川辺慈篤房と帝国ホテルで密談した際、「Gは話にならない。人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ」「Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだろう」等と日達管長の悪口を散々言いふらした序でに「戒壇の御本尊は偽物」「鑑定の結果それが分かった」等との謗言を吐いて戒壇の大御本尊様の存在①を否定し、川辺房が腰を抜かさんばかりに驚かせています。

それにつづいてこの坊主は日達管長が急死したことを奇貨として、「昭和53年4月15日に血脈相承を受けていた」などと自己申告の形で猊座に登り②を否定、その直後から一山の大衆から唯授一人の血脈相承の授受に関する拭いがたい疑惑を持たれながらも平然と、27年間もの長きに亘り猊座を簒奪し続け、宗門を未曾有の混乱に陥れてしまいました。それに日顕という坊主は、猊座に着く以前から池田大作の意を受けて、昭和47年6月には「国立戒壇論の誤りについて」と題する悪書を発刊していますが、この坊主はその中で「国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っています」などと記して、③には目を剥いて反対しているのであります。それから四年後の昭和51年2月には、またもや「本門事の戒壇の本義」なる謗書を発刊して、国立戒壇を日蓮正宗から完全に抜き取ってしまいました。結局、阿部日顕という悪僧は、日蓮正宗が唯一の正系門家と謂われてきた①、②、③の全てを否定しながら、未だに世に憚っているのであります。

そうした大謗法者の阿部日顕から宗門の後を託された、第六十八代目の日如管長は、表だって国立戒壇に反対はしていないとは云え、遠慮の故か、諂いかは解りませんが、阿部日顕の犯した謗法を指摘し、それを咎めたり諫めることなど一切していません。それどころか、日如管長は或る時、所化小僧を集めてこんな発言をして、悪僧日顕を褒め称えて喜ばせています。

云く、「君たちは日本一の果報者である。御隠尊日顕上人猊下から三大秘法抄の講義を受ける事ができるということは、一生の宝としていきなさい」(取意)と。これには驚きましたね。

日蓮正宗の六十八代目を託された日如管長は、先代の日顕管長から次期貫首職を譲り受けたとたとは云え、そもそも日顕を名乗る坊主は大聖人様に反旗をひるがえし、国立戒壇を目の敵にして、立正安国論並びに三大秘法抄の精神をめちゃくちゃに破壊した希代の悪僧と云われた人物であります。そんな坊主を持ち上げて、純粋無垢な若い所化小僧らに対し、持ち前の邪義が刷り込まれることが解っていながら、三大秘法抄の講義をさせるとは、開いた口がふさがりません。

かりそめにも、日如管長に大聖人様にお仕えする忠誠心の欠片でもあるものなら、日顕のような悪僧は御開山上人が遺された違誡置文の精神に則り、擯籍処分に付して宗門から追放しなければならなかったのであります。

悪僧日顕は三大秘法抄の御金言、即ち、御本仏大聖人様の発せられる文々句々を次の如く改変して、獅子身中の虫と云われた坊主は、正系門家七百年の歴史の中では、日顕を除いては誰ひとりいなかったのであります。

例えば「国立戒壇」を「民衆立戒壇」「国主戒壇」などとこじつけ、「王法」を「あらゆる社会生活の原理」と歪曲。「王臣」を「民衆」と欺き、「有徳王」を「池田先生」と諂い、「覚徳比丘」を「日達上人」と持ち上げ、「勅宣・御教書」を「建築許可証・あるいは必要ない」等と言ってのけ、「霊山浄土に似たらん最勝の地」を「大石寺の墓地の跡地」と偽り、「時を待つべきのみ」を「前以て建てて良い」として開き直り、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇と宣揚していたのであります。

大聖人様は曽屋殿御返事の中で次のように御教示であります。

「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」と。

日如管長は上記の御文をどのようなお気持ちで拝読されているのでしょうか? 日興上人以来の富士門流の清らかな清流は、これらの悪僧たちによってかくの如く汚染され、汚され、目も当てられない濁流となってしまいました。これを取り戻すには「百年河清を待つ」ではありませんが、中からの変革は至難の技と思われます。ここまで曲がった日蓮正宗の曲がりを糺すには、外の顕正会が内の妙信講となって、力強い諫暁をする以外にはないのであります。

ただ顕正会については坊主が指摘していますように「蓮盛抄」に仰せられた如く「『師に値はざれば、邪慧日に増し生死月に甚だしく、稠林曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し』云々。凡そ世間の沙汰、尚以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧ろ輙く自己を本文とせんや」の御文のとおり、いずれ長い年月の流れの中で、師のいない顕正会が次第々々に曲がって行くのは避けられないものと思われます。それを避けるためにも顕正会は、勇気を以て初心に還へる決断をしなければなりません。

それには如何なる万難をも排し、誰人が如何なる反対を叫ぼうとも、大恥を忍んで元の妙信講、出発の原点たる、日淳上人から正式に講の認証状を賜った講中、すなわち「日蓮正宗妙縁寺妙信講」の名誉ある、内の妙信講へ立ち還るべきであります。そのとき顕正会は、新しく生まれ変わった妙信講として軌道修正が適い、相乗効果と相まって、より大きな力を発揮する事ができるのであります。

そして原点の法華講へ立ち還った妙信講が叫ぶ国立戒壇に賛同する御僧侶に対しては、寺院を建てて御供養に励み、宗門の曲がりをこれらの御僧侶と一緒になって真の僧俗和合の闘いを始め、富士の清流を取り戻す闘いを開始しなければなりません。この闘いは大聖人様の御本願たる国立戒壇を一刻も早く取り戻し、国立戒壇を宗門の公論とする未曾有の闘いであります。

この闘いの幕が切って落とされた時、池田大作に騙された八百万の学会員を救い、不幸にあえぐ日本国民を救い、年々繰り返される三災七難等の地震や風水害から解放された、真の平和な日本国の夜明けが始まるのであります。

此の国を憂い、国の発展を願う闘いを単なる夢で終わらせてはならないのであります。

安国論に云く「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」と。










コメント

反省なき坊主を叱る

2018年08月15日 14時57分43秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.52~54)に戒壇「建立の意味について」と題して、これが日蓮正宗の僧侶のいう言葉かと思うと、まさに世の中は「末法濁悪の未来」と仰せられた感を深くするのであります。邪義も屁理屈もここまでくると落胆を通り越して褒めてやりたいような気分になりますが、超嘆息を繰り返しながらやり場のない憤りを覚えるばかりであります。特に赤文字で示したところは、袈裟をまとった天下一品の詐話師のいう矛盾に満ちたウソと屁理屈であります。今回はこれら坊主の欺瞞と屁理屈に反論を加え、反省なき坊主が垂れ流す間違いを指摘し、邪義を破折したいと思います。

坊主云く「なお、浅井は、正本堂建立に関して、『未だ広宣流布の時至らざる以前に、究極の建物だけは建ててよい、という文証・道理があったら出してみよ。大聖人は広布の時を待てと仰せなれば、建物を先に建ててしまうことは御金言違背である』等々いっている。これも、たま一文一句に拘泥して、大聖人が、『本門寺の戒壇を建立』と仰せられた『建立』の二字を、ともかく『建築する』という狭い意味にのみ限定して思い込むからいけない。そもそも、『建立』という語の元意は、はじめて現れる、確立するの意であり、その用い方によって、さまざまな意味を表すのである。たとえば『百六箇抄』の『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書1699㌻)との御文における『建立』とは、建築することではなく、御本尊を安置するという意であるし、その他にも、御本尊の御図顕や、一国に仏法が広宣流布することを『建立』と表現された御文等、例を挙げれば枚挙に暇がない。について

坊主は偉そうに建立の意味について「安置する」「はじめて現われる」「確立する」の意などと偉そうにご高説を垂れていますが、之が第一の間違いであります。大聖人様が百六箇抄での中で、「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」と仰せられている御文の意は、広宣流布の暁に最終的に建てられる本門寺の戒壇、即ち国立戒壇の建立に係わる事柄に限定遊ばされて「建立」と仰せられているのであります。それを平然と無神経に「安置」という軽い言葉に置き換えて本門寺の戒壇を軽賤するばかりか、ニセ戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇として建て「仏教三千年史上空前の偉業」などとバカ騒ぎしておきながら、その重大な誤りを単なる言葉の問題にすり替えて、仏法上の大罪を逃れようとすること事態狂喜の沙汰であります。今日の日蓮正宗の坊主の狡さをここに見るこ思いであります。

此処で坊主のいう「安置」という語彙には、軽賤した薄っぺらな意味しかありません。それに比べて「建立」と仰せられる語彙には、荘厳(そうごん)、厳か(おごそか)、重層(じゅうそう)、等の重みのある意味を含んでいます。日本語の語彙すら理解していない坊主だからニセ戒壇正本堂を建てて、是れを御遺命の本門寺の戒壇の本堂と詐称するつもりでいたのであります。

参考までに日本国語辞典と広辞苑を開いて見ましたが、「建立」とは、1 「寺院や堂・塔などを建てること」「寺を建立する」2 「心の中である物事をつくり上げること」例えば、(兄さんは神でも仏でも…権威のあるものを―するのが嫌いなのです)等と記されていますように「建立」の意味を「安置」「はじめて現われる」「確立する」などと解釈して、いまだに大謗法を犯しながら、したり顔しているのは日蓮正宗の坊主くらいのものなのです。

序でに一言つけ加えれば、「『建立』の意を「安置」「はじめて現れる」「確立する」と表現された御文等、例を挙げれば枚挙に暇がない」等と知ったかぶりを鼻にかけていますが、それほど多くの例文があるなら、例文の一つでも示して貰いたいものであります。

坊主云く「しからば、御遺命の『本門寺の戒壇を建立』という場合はいかん、というに、その主たる意味は、建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく、まさしく、公布の時至って、一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである。」について

ここで坊主の邪説を一瞥すると、広宣流布の暁に本門寺の戒壇を建立する国家的最大事を「建築物を建てること自体の重要性を示されたものではなく」等と、とんでもない勝手な断定を下していますが、頭破七分の坊主には本門寺の戒壇を建てて、根源の御本尊様を日本国の柱として尊崇申し上げる意義がまったく理解できていないのであります。本門寺の戒壇とは、尊極無上の戒壇の御本尊様が末法万年の尽未来歳まで永遠にお住まいになられる住居のことであります。そんな大事が理解できないで坊主の何処に、ただ飯を食らって富士門流の袈裟を着する資格があるというのでしょうか!

御本尊様と吾々凡夫を同列に並べて論ずるは不見識の誹りを免れませんが、迷いの凡夫に取っても、吾々が生きていく上に於いて、食・衣・住といわれる三大要素の一つである住居は、決して欠くことのできない大切な要素の一つであります。坊主らは出家した時からただ飯を食いながらまじめに勉強することもせず、寺に無償で住み着いているからその大事が理解できず、戒壇の大御本尊様のお住まいは、何処でも構わないくらいに考えている性か、ニセ戒壇正本堂に戒壇の御本尊様を押し込め奉って、平然として暴言が吐けるのであります。是れを称して軽賤謗法というのであります。

それでいて「一閻浮提の人々が大御本尊まします本寺に詣でるならば、事の戒法の大功徳がはじめて全世界に光被する、という本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存するのである」とは呆れましたね。ここで言う「大御本尊まします本寺」とは、何を意味するものでしょうか? 国立戒壇を建てて戒壇の大御本尊様を国家を挙げて尊崇せずして「事の戒法の大功徳が全世界に光被する」なんて絶対に有り得ない話であります。亦「本門寺戒壇の意義の顕現にこそ主眼が存する」なんてバカげた話であります。そもそも「本門寺の戒壇」とは私的な戒壇ではなく、国家的に建立する国立戒壇のことであります。

大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇に目を剥いて反対している坊主には、四十九院申状で仰せられる「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護によって長久す」の意味がまったく理解できていないのであります。

坊主云く「しかるを、建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議に固執する浅井は、本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかったか、あるいは勝他の念から何かと難癖をつけんとする修羅の境涯に住しているのか、いずれにせよ幼稚この上ない人間ではある。」について

坊主が今頃になって「建物を先に建てるか、後に建てるか、などという論議に固執する浅井」とは、おかしな話であります。彼らは広宣流布の兆しもないうちからニセ戒壇正本堂なる化け物のような建物を建てて、広宣流布は達成したなどと酒宴を張って大騒ぎをして喜んでいたのであります。そんな坊主が浅井氏をやり玉に挙げて「本宗信仰の根本がまったく身に染まっていなかった」とか「勝他の念から何かと難癖をつけんとする修羅の境涯に住している」などと言えた柄ではありません。妙信講の浅井昭衛氏こそ、曲がり行く富士門流の姿を憂いて一人身を捨てて諫暁に立たれたのであります。その人に対して「幼稚この上ない人間」などと眼を三角にして誹謗していますが、幼稚で能なしなのは袈裟を着た坊主の方なのです。

坊主云く「また、かくえいば、浅井は、『戒壇建立の手続きたる「勅宣並びに御教書」はどうした、国家意思の表明なくして戒壇は建たぬ』 等というのであろうが、幾度も述べているように本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄なのであり、また、その時に重要なのは、広宣流布の達成という厳たる事実であって、それが自ずから国家意思を表すことに通じていくともいえよう。」について

またまた、坊主は今頃になって「本門寺戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄」とか「広宣流布の達成という厳たる事実」等と解ったような台詞を並べていますが、本門寺の戒壇の顕現は広宣流布が達成された時に初めて実現するのであります。そんな分かりきった事をねじ曲げて広宣流布は達成したとして大騒ぎをしていた坊主が、「本門寺の戒壇の顕現は未だ将来に属する事柄」とは驚きを通りこして開いた口がふさがりません。

思い出したくもありませんが坊主らは、舎衛の三億、つまり日本の総人口の三分の一が信心することで広宣流布は達成だとして、広宣流布の定義を改変したのは悪僧日達管長だったのですが、坊主らはそれ以前からニセ戒壇正本堂を事の戒壇の顕現等と称して、信徒を騙し国家をだまし大宣伝していたのであります。その者たちが今頃になって「自ずから国家意思を表すことに通じていくともいえよう」などと言っていますが、厚顔無恥もここまで来れば立派なものであります。たったの三分の一の人たちの入信で「国家意思を表すことに通じていく」といえるのでしょうか、いったい坊主のオツムはどうなっているのでしょうか!

坊主云く「大切なのは、勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の決議であるなどとこじつけることでもなく、まず一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立することである。また、『時を待つべきのみ』の御金言のままに、かかる状態が確立するときの早からんことを待望して、折伏弘教に挺身し続けている我が日蓮正宗は、浅井ごときに時代錯誤の守文の徒から、御遺命破壊などと誹謗されるべき謂われは何ひとつとしてないのである。」について

坊主らは大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「勅宣並びに御教書」を捉えて「勅宣を出すために天皇制を復活させることでもなければ、幕政下における御教書を今日の国会の決議であるなどとこじつけることでもない」等とトンチンカンなことを書いていますが、それは完全な思い違いであります。今日の民主政体においても、天皇陛下の勅宣(みことのり)は、厳然と発せられているのであります。

「勅宣」を現代的に約せば、天皇陛下の発せられる「詔勅」のことであり、平易に申し上げれば天皇が発せられる「御言葉」を文書化したものを「勅宣」あるいは「詔勅」と云うのであります。次に「御教書」とは当時でいえば、幕府の発する「命令書」のことであります。専制下においては、幕府の発する命令書によって国の意思決定が為されていました。ところが現代では国家としての国家意思の表明は、国の最高の決議機関であるところの国会で決められているのでありますが、坊主はそれを「こじつけ」などと非難しているのであります。議会制民主主義国家において、国会の議決以外の方法で国家意思の表明を顕わす手段があるとしたら、その方法を具体的に示すべきであります。バカ坊主もここまで来れば救いようがありません。

未だ三分の一以上の入信では「一国の動向が正法によって決せられるだけの、確たる状態を確立すること」などできないのであります。結句は残るところの三分の二を折伏して、広宣流布を実現しなければ「確たる状態を確立する」には至らないのでありますが、悪僧日達と坊主らの主張は、池田大作流の舎衛の三億説に与同して、三分の二を折伏する必要はなく、「三分の一以上の折伏で広宣流布は達成、確たる状態の確立が成る」と言っているのであります。

坊主云く「自らの偏狭さを省みることも能わず、とんでもない言いがかりをつけるのはたいがにするがよかろう。しかも、こうした恐るべき増上慢の上から、さらに邪推に邪推を重ねた浅井は、『日達上人が御遺命を破壊して正本堂を建立したのは学会の権力への諂いであり、公布の解釈をごまかしておいて、公布でもないのに昭和六十五年に大石寺を本門寺に改称せん、との大陰謀が今なお宗門ぐるみで進められている』等、甚だ勝手な憶測に基づく筋書きを作り出している。」そして、『顕正会が日蓮正宗にあるかぎり、このような誑惑の完結は断じて許さない』等と、優宗護法の士を気取って激をとばしているのである。」について

坊主が指摘していますように、悪僧日達は似非信徒の池田大作に諂い、大聖人様の御遺命たる国立戒壇を永久放棄して広宣流布を誤魔化し、まったく功徳のない無気力な宗門にならしめたのは事実であります。そのうえ三分の一の折伏も達成しないうちから、昭和六十五年には大石寺の寺号を富士山本門寺へと改称すべく、着々と準備を整え、その下地を作ったのは他ならぬ悪僧日達だったのであります。

日達云く「日本国の全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることがでいたとき、その時こそ日本一国は広宣流布したと申し上げるべきであると、思うのであります。その時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります」(大日蓮 昭和50年1月号)と。

つづけて日顕云く「御法主上人猊下には、昨年十一月十七日の創価学会の本部総会において、広宣流布は近きにありと高唱あそばされ、日本全国民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南遊ばされました。----吾々正宗の僧俗は、本仏大聖人の御遺命たる一期弘法抄の『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』の金文が、七百年後の今日、現実にどのような形で実現されるものであるかを待ち望んでおりました。----このたびの大指針こそ、あらゆる点から考えて世界公布の一大基盤としての日本広布に関する、本仏大聖人の大慈悲に尤も適合し奉るものと拝するのであります。また大聖人の御遺命・御金言を、現実の広布の上に指南遊ばされる唯一人の御方こそ、血脈付法の法主上人にあられます。----国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵もなく----常楽をかなでる幸福な社会が顕われる事を確信いたします。また全信徒の指導者たる法華講総講頭・池田大作先生も至極お元気で、----猊下と宗門を常にお守りくださっておられます。この僧俗一致の姿こそ大本門寺建立につながる広布の基盤であります。吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、----邁進致そうではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)と。

上記に見るように本門寺改称の大陰謀は、日達と日顕の諛言にあるとおりであります。ゴマすり三昧の日顯は日達が示した大指針に則って、現在の大石寺の寺号を本門寺へと改称すべく、池田と二人三脚でその実現を目指して、死に物狂いの奔走がここから始まるのであります。

この頃の池田大作の慢心は頂点に達し、「昭和五十二年路線」といわれる教義逸脱問題を引き起こしてその責任を追及され、池田は会長職を辞任せざる得ない状況にまで追い込まれるのであります。当時池田の大謗法は、御本尊の模刻事件にはじまり、南妙法蓮華経の商標登録、会長本物論の出来等々これらの問題が次々と明るみにでて表面化し、坊主らは今こそ池田を追い落とす絶好のチャンスとして捉え、池田に反旗を翻す坊主が結集して檀徒会(後の正信会)を結成するに至るのであります。

ところが池田は悪僧日達に詫びを入れて、昭和53年11月17日には、代表幹部二千名を率いてお詫び登山をしたのでありますが、問題はくすぶり続け、翌年の昭和54年4月24には創価学会の会長職と法華講総講頭を辞任せざるを得なくなり、第四代会長に北条 浩氏を選任し、名誉会長という職に退かざるを得ない状況に追い込まれています。

一方悪僧日達管長は、大聖人様の唯一の御本願たる国立戒壇を永久放棄し、富士門流七百年来の根幹教義を徹底して破壊するという、取り返しの付かない大罪を犯した咎で仏罰を被り、昭和54年7月22日の未明、入院中のフジヤマ病院で心臓病の悪化と腸不全を起こし、七転八倒の苦しみの中に壮絶な最期を遂げているのであります。猊座にあられた御方がこんな非業の死を余儀なくされるとは、やはり謗法は怖いものです。

そうしたところ、日達の急死を奇貨として日顕を名乗る坊主が、「考えて見たら昨年の4月15日に日達上人から唯受一人の相承を受けていたことを思い出した」等といって、自己申告の形で次期管長職に就いたのです。さあ~それからが大変です。日達管長~日顕への唯受一人の血脈相承の授受が無かったのではないか、という疑いから本山に在勤の坊さんと、全国末寺の坊さん達が一斉に騒ぎ出したのですが、日顕は此の騒ぎに乗じた坊さんたちの頸を片っ端から切りまくり、擯斥処分という最も重い処分を下して宗門追放に打って出たのです。その数200人を超したと言われています。

そして昭和59年1月2日には、池田大作の55歳の誕生日を選んで、彼を再び法華講総講頭に任命し、日達が示した本門寺改称の条件である「僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ」の「信徒の指導者」を復活させているのであります。池田はニセ戒壇が建設された年から7年後の昭和54年いわゆる七つの鐘の年辺りから本門寺改称への陰謀を実現すべく、昭和65年に狙いを定めてこんな発言をしています。

池田云く「昭和54年(七つの鐘の年)から、もう十一年目までのばしてみると、その十一年目が正応十月十二日、いまの日蓮正宗総本山大石寺が創立されてから、ちょうど七百年目にあたります。----その年は、また不思議に昭和六十五年、1990年、創価学会創立六十周年、戸田先生の三十三回忌、またその年は、私は会長に就任して満三十年目です。これを目指して、まあー五十周年とかさ、七つの鐘の終りとか、七百遠忌とかあるが、そんなものはバーッと通り越して、それ一点に大きい焦点を内証に秘めて、再び創価学会の万年の完璧な礎を、そこに焦点として、築いて進みたい。----私の今の熱烈たる、真剣勝負はそこにあります」(昭和51年 学会本部総会)と。

その後、日顕は平成二年(昭和65年)の春、次のようにうちわばなしを得意になって披瀝しています。

日顕云く「九月に総講頭・池田先生の発願によりまして、まだこれは内定でありますが、だいたい判っていおることは、大文化祭をちょうど広くなったこの客殿の前の広場で行うことになっております。これにはずいぶん大勢の人達もみえることになっておりまして、池田先生の構想においては、下種の意味においてはできるだけ世界の著名人も聖域に参加させ、この盛儀を見せたいというようなこともあるようでありまして----」(大日蓮 平成2年2月号)と。

顕正会の浅井会長はそれを受けて平成2年7月8日横浜アリーナにおいて本門寺改称の陰謀を粉砕するとして、二万人を結集して大総会を開きました。その時の浅井会長は「もし池田が本門寺改称を強行するならば、そのとき全顕正会員はこぞって大石寺に総登山して、二十万顕正会の全員が戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋め尽くし、信心の力を以て本門寺改称の陰謀を断固粉砕しようではないか、顕正会が日蓮正宗にある限り、このような、誑惑は断じて許さない。いや、大聖人がお許しあそばすわけがない。このような大それた悪事をなす者はまさに、『大謗法者』といわざるを得ない」と。叫んだのであります。

しかし坊主が指摘していますように浅井会長がこの時「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような、誑惑は断じて許さない」などと発言したことは大きな間違いだったことは認めざるを得ません。顕正会の浅井会長はこの時すでに、講員との固い約束を反故にして、内の妙信講の名誉ある名を捨てて、勝手に外へ飛び出して宗門とは完全に縁を切り、顕正会へと名を変えて坊さんの居ない新興の在家教団へと変身していたのであります。

それは置くとして平成二年十月十二日、総本山に於いて大石寺開創七百年慶讃大法要が行われ、その席で池田は一世一代の夢であった現在の大石寺を「富士山本門寺」へと改称すべく、手に汗握り胸を躍らせ、登壇の機会を今やおそしと待っていました。池田の発言の前に日顯は内陣の中央に進み出て、厳かに次のような訓示を垂れて、一世一代の池田の夢をぶち壊したのであります。

日顕云く「宗祖大聖人は一期弘法抄に云く『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法と云ふは是れなり』と。この深意を拝孝するに、仏意の明鑑に基づく名実共なる大本門寺の寺号公称は、事の戒法の本義更に未来に於いて一天四海に光被せらるべき妙法流布の力作因縁に依るべし。然れば吾等淳善の仏子として、この開創七百年を機とし、一層の正法流布に邁進せんことを誓い奉る者なり」と。

さすがの悪僧日顕も三分の一の折伏も成就しない段階で広宣流布を確定し、大石寺の寺号を富士山本門寺へと寺号の改変は、大聖人様への叛逆につながることを恐れたか、日顕らしい真にわかりにくい言葉の言い回しで池田の一世一代の夢の実現はこのとき絶たれ、彼は見事に梯子を外されてしまったのであります。

この時行われた大石寺開創七百年慶讃大法要が失敗に終わったことが元で、宗門と創価学会が袂を分かつこととなり、修羅と悪龍の合戦、両者食うか、食われるか、の凄絶な戦いが始ったのは皆様のよく知るところであります。

坊主云く「しかし、門外漢の浅井昭衛よ、つまらぬ心配は無用である。すでに述べてきたように、宗祖御遺命は何ら破壊などされておらぬし、また、本宗に戒壇の大御本尊を血脈嗣法の御法主上人ましますかぎり、浅井のいうような〝昭和六十五年に本門寺への改称という大陰謀と誑惑の完結〟などの事態もありえぬのだから。そんな余計な心配より、異流義と成り果てた、自らの後生を、深刻に心配する方が急務であろう」等と記しています。

御本仏大聖人様の唯一嫡流を誇っていた富士門流の日蓮正宗の僧侶が、斯くも白々しいウソと邪義を並べ、未だにヌケヌケと一分の反省の色を見せない為体を見ると、まさに世は末世、末法濁悪の感を深くせざるを得ません。

昨今の世相を指摘するまでもなく、災害は年を経るごとに多発し、政治は腐敗して官僚は国民に平然と是れ又ウソをつく、道徳は乱れて凶悪犯罪は目を覆うばかりの惨状を呈しています。世の中のすべての悪の根源は、正宗坊主の教義歪曲にあることを今こそ味識すべきであります。そうした現実には我れ関
ぜず、何処吹く風かを決め込み、年々再々やってくる大災害に多くの人々が命を落とし、家族を奪われ郷土を破壊されようとも、心を痛める僧侶は皆無となっているのであります。

立正安国論に大集経を引いて云く「仏法実に隠没せば、鬚髪爪(しゅほっそう)皆長く、諸法も亦忘失せん」と。
  
正しい仏法が一国社会から隠没すれば、人々の鬚(ひげ)、髪(かみ)、爪(つめ)、はだらしなく伸び、貪・瞋・痴(むさぼり)・(いかり)・(ぐち)の三毒は強盛となり、世間の道徳や国法も乱れると仰せであります。

また、御妙判に云く「仏法ようやく転動しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲がれば影ななめなり」と。










コメント

舎衛の三億で広宣流布とは呆れたね

2018年08月02日 13時38分30秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.49~52)に「三 戒壇建立の時期について」と題して、今頃になって坊主らは、半分どこかで聞いたような正論らしきものを述べていますが、悪僧日達の御指南と称するものは池田大作が広宣流布を誤魔化すために「舎衛の三億」の逸話を持ち出して創作した邪義であります。その邪義を坊主が主権在民の今日に当てはめれば、大聖人様の教えを現代に移した正論だとして日達の振りまく邪義を称揚し、浅井昭衛氏を守文の徒などと誹謗しています。

云く「大本門寺戒壇が事相の上に顕現するのは、すでに明らかなとおり、広宣流布達成の時である。しからば、それは何時、どのような状況となった時をさすのであろうか。大聖人は、これを『三大秘法抄』に、『王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時』(御書 1595㌻)と仰せられ、また『一期弘法抄』に、『国主此の法を立てらるれば』(御書 1675㌻)と仰せられている。

すなわち、仏法と一切世間の法とが深く冥合し、国の主権者および一般民衆の多くが三秘を受持し、しかも仏法を断絶せしめないだけの確固たる外護の体制が成った時、その時を広宣流布達成の時とせられているのである」

  日達上人の御指南   

「こうした大聖人の御金言を体され、日達上人は、昭和四十九年十一月十七日、広宣流布の意義について、『日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に、純粋な、しかも確実な信心をもって、本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱え奉ることができた時、その時こそ、日本国は広宣流布したと申し上げるべきことである』と御指南あそばされた。

この御指南は、要するに、今日の日本国の主権者が、天皇でも幕府でもなく、国民であるという、主権在民の現実を鑑みられた上で、さらに、一国に正法が流布され渡り、実質的に、正法によって一国の動向が決せられるまでの状態(『全人口の三分の一以上の人達』)が実現した時、しかも末法万年の先々までも、この正法正義を断絶させぬという確固たる状態(『純真な、しかも確実な信心をもって』)を作り上げた、まさにその時を、広宣流布達成の時と御示しになったのである。

前の大聖人の御金言と照らし、拝するならば、この日達上人御指南は、大聖人の御聖意をそのまま現代に移して展開せられたもので、その間に豪の異なりも存してはいない。

しかるに、浅井昭衛は、これを、『広宣流布のごまかし、考えるだに恐ろしい御遺命の破壊である』として、『諸法実相抄』の、『広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱えん事は大地を的とするなるべし』(御書 666㌻)の一節を引き、『必ず、上一人より下万民まで、一人残らず正法を信ずる時が来る。それが広宣流布である。この御金言が信じられないか』等々と強弁するのである。

この守文の徒ともいうべき偏頗さこそ、浅井教学の何たるかを如実に物語るものといえよう。もし、御金言をどうしても信じられないか等というなら、『災難退治抄』の『日本国中の上下万人深く法然上人を信じ』(御書 196㌻)との仰せ、また『選時抄』の『上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰せ給ふ』(御書 845㌻)『日本国は皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる』(御書 853㌻)等の仰せを、浅井は、いったい、どのように信ずるのであろうか。

これらの御金言は、いずれも、一国の動向を左右するほど広く流布していることを強調して、かく形容せられているのであり、前の『諸法実相抄』の御文も、また同様である。一文一句にのみ拘泥して、御聖意を読み誤り、かえって、大聖人の血脈を継承せらるる御法主に対し謗言を恣にする・・・・こうした浅井の姿勢こそ、浅井らが異流義化した根元であって、未だ得ずこれ得たりと謂うとは、まさに、浅井のためにあるような経文ではないか」等と口を極めた誹謗を繰り返しています。

此処で云う「日達上人の御指南」なるものは、似非信徒池田大作が創作した詭弁を上塗りしたものであります。

はじめに「舎衛の三億」とは、見仏聞法至難の譬えのことであります。

大智度論に云く「舎衛の中に九億の民あり、三億の民は眼に仏を見、三億の民は耳の仏有りと聞くとも、しかも眼に見ず。三億の民は聞かず見ず。仏、舎衛に在すこと二十五年、しかも此の衆生は聞かず見ず。何に況んや遠き者をや」と。

この意味が池田が発する詭弁になると、見仏聞法の至難、いわゆる「舎衛の三億」の逸話が次のように創作されるのであります。

云く「釈尊在世において、全インド中、もっとも釈尊に縁深き仏国と称せられた舎衛国に『舎衛の三億』という原理があります。すなわち、その民衆の三分の一は仏を見、仏の説法を聞いて信仰しました。つぎの三分の一は仏を見たが法を聞かなかった。残りの三分の一は仏を見たことも、法を聞いたこともなかったといわれております。いま、われわれの化義の広宣流布、王仏冥合の実践をば、その方程式にあてはめてみるならば、学会員が日本の総人口の三分に一となり、さらに、信仰はしないが、公明党の支持である人たちが、つぎの三分の一となり、あとの三分に一は反対であったとしても、事実上の広宣流布なのであります。王仏冥合の実現は、この舎衛の三億を築けばよいのであります」(大白蓮華 昭和40年9月号)と。

日達の云う広宣流布説は、池田流の舎衛の三億説をそのまま模倣した、瓜二つの邪説であることがよく分かります。これは御本仏大聖人様が御示しになられた、広宣流布の姿とは天地雲泥の違いがあるほどの邪義であり、悪僧日達は大聖人様の弟子ではなく、池田大作の弟子になり下がり、大聖人様の唯一の嫡流と謂われてきた正系門家の富士門流日蓮正宗が、池田教一色に染め上げられてしまったと言っても過言ではありません。その結果、「源濁れば流れ清からず」と仰せのとおり、一切の功徳を失い、成仏を遂げる者など一人も存在しない宗門となってしまいました。

考えて見て下さい。全国民の三分の一が入信で広宣流布達成などと叫んでいますが、残る三分の二は、信心にはあまり関心のない者とか、信心には大反対の者たちとか、いずれにしても未入信の者たちで大半が占められるということであります。これで広宣流布ならば、念仏・真言・禅・律等々のあらゆる邪教と共存する事になるのでありますから、大聖人様の命がけの御化導を水泡に帰せしめる事となるのであります。まさしく悪僧日達や坊主らの主張は狂人の戯言であります。

そのような時、胡麻摺り三昧の日顕は、池田と日達の垂れ流す邪義を異様に称揚していたのであります。

云く「ここに猊下は、正本堂建立第三年に当たる本年十一月十七日、名古屋における創価学会総会におかれまして、将来の広宣流布に関する大綱を御示し遊ばされました。これは宗門七百年の歴史において、実に未曾有とも云うべき重大な指針であり、我々一同この大目標の御指南を賜わった事に深い意義と喜びを感ずるものでございます」(大日蓮 昭和50年1月号)と。

つづけて云く「御法主上人猊下には、昨年十一月十七日の創価学会本部総会において、広宣流布は近きにありと高唱あそばされ、日本全国民衆の三分の一が純真かつ確実な信心を持った時は広宣流布であり、またその僧俗の関係首脳協議の上で本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南遊ばされました。---吾々正宗の僧俗は、本仏大聖人の御遺命たる一期弘法抄の『国主此の法を立らるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』の金文が、七百年後の今日、現実にどのような形で実現されるものであるかを待ち望んでおりました。---このたびの大指針こそ、あらゆる点から考えて世界公布の一大基盤としての日本広布に関する、本仏大聖人の大慈悲に尤も適合し奉るものと拝するのであります。

また大聖人の御遺命・御金言を、現実の公布の上に指南あそばされる唯一人の御方こそ、血脈付法の法主上人にあられます。---国中の三分の一に満ちたとき、他の宗教や政治に対する圧力は微塵もなく、---常楽をかなでる幸福の社会が顕われることを確信いたします。また全信徒の指導者たる法華講総講頭・池田大作先生も至極お元気で、---猊下と宗門を常にお守り下さっておられます。この僧俗一致こそ大本門寺建立につながる公布の基盤であります。吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進いたそうでではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)等と。

日顕という悪坊主は読んでいて気恥ずかしくなるようなお世辞を使って邪義を垂れ流す池田と日達を喜ばし、邪教と共存する姿を手放しで喜んでいる様子が良く分かりますが、この茶坊主の諛言を赤文字でお示ししたごとく、そうした口の裏には近き将来、大石寺の寺号を本門寺に変更しようとする空恐ろしい陰謀が隠されているのであります。

それは大聖人様が一期弘法抄で仰せられる「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御文と、百六箇抄の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」の御文をニセ戒壇正本堂に当てはめ、純真な罪のない信徒を手玉に取り、広宣流布を詐るという驚天動地の大陰謀だったのであります。

話を本題に戻します。このような状態の中で何が「一国に正法が流布され渡り、実質的に、正法によって一国の動向が決せられるまでの状態(『全人口の三分の一以上の人達』)が実現した時、しかも末法万年の先々までも、この正法正義を断絶させぬという確固たる状態」が保たれる等と果たして言えるのでしょうか! 開いた口がふさがらないとはこの事であります。

大聖人様が三大秘法抄で仰せられる「王仏冥合」とは、一口で言い表せば、王法であるところの政治と、三大秘法の慈悲の精神が融合した政治、つまり、万人に福利をもたらす理念に基づいた政治体制のことでありますが、仮に創価学会の池田大作が作った公明党が総人口の三分の一の賛成を経て、国会の議席数もそれなりに獲得して彼らなりの理想の政治が一時的に行われたとしましょう。しかし、昔から政治の世界は一寸先は闇と言われていますように、残る三分の二の人口が、公明党に反対だったり、政治に無関心だったりするような層が占める体制の中では、政権がいつ反対勢力からひっくり返されるか分からない。

ましてや、このような体制の中で「実質的に、正法によって一国の動向が決せられるまでの状態、しかも末法万年の先々までも、この正法正義を断絶させぬという確固たる状態」が確保できて、末永く続くとでも思っているのでしょうか!

要するに彼らは大聖人様の御本願たる国立戒壇に反対したいが為に、このような邪義を編み出したのであります。 

大聖人様は二年半に及ぶ佐渡流罪を終えられて鎌倉にお帰りになられ、文永11年4月8日、殿中において平頼綱(平左衛門)に対する三度目の諫暁に立たれた時、その時大聖人様は二度目の蒙古襲来を警告せられました。幕府は念仏宗や真言宗の者たちと一緒になって国家安泰の祈りをしてくれるならば、一寺を建立して莫大な引き出物と多くの田畑を寄進することを申し出たのでありますが、大聖人様はその要請を断られて同年6月には身延へ入られたのであります。果たせるかな、その年の11月には二度目の蒙古襲来を受け、日本国は危急存亡の危機を迎えているのであります。

大聖人様が幕府の要請を受け入れ、謗法と同座して国家の祈りをすることは毒と薬が併存することとなり、三大秘法を立てる事にはならないからであります。今、悪僧日達や坊主が主張するように、総人口の三分の一の入信で事実上の広宣流布達成などと叫んでいる様は、まさしく邪教と仲良く共存した中で、広宣流布が実現すると言っているバカげた話なのであります。

大聖人様は日本国が広宣流布に至る過程と仏国実現の原理について、次のような御教示を下されています。

如説修行抄には「念仏・真言・禅・律等の八宗十宗の敵人をせむるに、或いは逃げ、或いはひきしりぞき、或いは生け捕りにせられし者は我が弟子となる。或いは攻めかえし、攻め落としすれども、かたきは多勢なり、法王の一人は無勢なり。今に至るまで軍やむ事なし。法華折伏破権文理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなく攻め落として法王の家人となし」云々と。

大聖人様は広宣流布に至るまでの正法流布の闘いは、念仏・真言・禅・律等の邪教は本より、あらゆる悪思想との折伏戦は上記に記されたような、熾烈な闘いを経なければ絶対に実現しないことを指摘せられ、「終に権教権門の輩を一人もなく折伏して、三大秘法を受持させなさい」と仰せられているのであります。

諸法実相抄には「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人三人百人と次第に唱えつたふるなり。未来も又しかるべし。是れ豈地涌の義に非ずや。剰え広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」と仰せられ、三大秘法の広宣流布は大地を的として弓を引いた場合、矢は大地という的から絶対に外れる事がないように、日本国の広宣流布は必ず実現すると断言せられておられますが、坊主らは此の御金言が信じられないばかりか、ウソだ、有り得ない話だ、などと騒ぎたて、池田の言う「舎衛の三億」が達成された時が、事実上の広宣流布だと宣伝しているのであります。

それにしても呆れたのは、坊主が引用した災難退治抄の「日本国中の上下万人深く法然上人を信じ」の御文、或いは選時抄の「上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰せ給ふ」の御文、或いは「日本国は皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる」等の御文を引き合いに出し、大聖人様が諸法実相抄の中で仰られている日本国の「広宣流布は大地を的とするなるべし」との御教示も、三大秘法が日本国中に必ず広まるという大ボラと願望を述べた単なる形容詞のごとく誹謗していますが、とんでもない罰当たりであります。坊主がそうした断定を下すに至った発端は、彼の池田大作が始めた舎衛の三億の逸話をもじった邪義と、悪僧日達が池田に諂って、法主の権威を笠に着て、広宣流布の定義を勝手に変更した邪義から始まっているのであります。

悪僧日達と坊主らは種々御振舞御書で仰せの「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」の御文の意がまるで理解できていないのであります。

此の御文を端的要約しますと、日本国の平和的存続は大聖人様の三大秘法を国の柱に据えるか、しないかで決まるのである。例えば家に柱がなければたもたない。人に魂がなければ死人(しびと)と同じである。日蓮は日本国の魂である。となるのであります。

その事は取りも直さず、本門戒壇の大御本尊を国家的に受持して守護するならば、日本国の魂は戒壇の大御本尊となるという事であります。まさしく戒壇の大御本尊を魂とする国は、即仏国であります。

したがって本門戒壇の御本尊を魂とする国は仏国である故に、三災七難等の災厄に見舞われることなど夢にも無く、隣国から武力に依る脅しや侵略を受けることの無い豊かな平和国家が築かれるという事であります。

その事を四十九院申状に「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護によって長久す」と仰せなのであります。

亦立正安国論には「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし」仰せられているのであります。

日蓮大聖人様は、似非信徒池田大作の先導する謗法に追随して、堕落した坊主の行状について次のように戒められています。

「南岳大師の四安楽行に云はく「『若し菩薩有りて悪人を将護し治罰すること能わず。乃至其の人命終して諸悪人と俱に地獄に堕せんと。』此の文の意は若し仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず、詐って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と俱に悪道に堕つべしと云う文なり。今真言・念仏・禅・律の謗人をたださずんば、いつはて慈悲を現ずる人此の文の如くなるべし」(聖愚問答抄)と。

此の意を要約しますと、南岳大師の四安楽行には、「若し菩薩がいて悪人を擁護して罰してたださないならば、その人は命が終わって諸悪人とともに地獄に堕ちる」とある、この文の意味は、もし仏法を修行する人がいて、謗法の悪人を罰しただすことをしないで、ただひたすら観念・思惟の行に専念し、邪法と正法、権教と実教のたて分けもしないで、さも慈悲のあるようなふりをして人を欺く者は、もろもろの悪人とともに悪道に堕ちるというものである。今、真言・念仏・禅・律の邪宗謗法の人々の誤りを糾明せず、詐って慈悲の姿を現ずる人はこの文のようになるのである。」となるのであります。




コメント

坊主の邪義と昭和47年4月28日の訓諭の矛盾を衝く

2018年07月28日 09時24分56秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.48~49)に「現時における事の戒壇」と題して、坊主たちは次のように記しています。

坊主云く「以上、縷々述べてきたが、今日、天母山戒壇説などを得意満面に振りかざし、本宗が宗祖以来の伝統を忘失したかのごとく、とんでもない言いがかりをつけて、『この戦いは、大聖人がなさしめているのである』等々と、何か、自分達が宗祖遺命を果たす特別な任にでもあたっているかのように思い込んでいる浅井らは、文字どおりの勉強不足、未だ得ずをこれ得たりの増上慢と呼ぶ他はない。いずれにしても、本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗冨士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁に『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する、本門寺戒壇の前身なのである。これに関連して、昭和四十七年四月二十八日の、戒壇に関する日達上人訓諭を拝したい。

『正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり』

この御教示について、重ねて説明しておくと、先ず第一に、大石寺正本堂には戒壇の大御本尊が御安置せられており、大御本尊まします所は何時いかなる場所であっても事の戒壇である、との根源の意義の故に 第二には、『百六箇抄』の一節に 『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書 1699㌻)とあるが、大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に正本堂を現時における事の戒壇とされたのである。(※だが、平成三年、大謗法と化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広布達成の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に本門寺本堂=広布の事相における戒壇となる可能性は失われた)。

じつに、正義は明々にして赫々ではないか。こうした日達上人御指南を『御遺命破壊』などと誹謗する浅井の妄説は、まさに言いがかりの浅い狂学である」などと口をへの字に曲げて悪態をついていますが、坊主のこうした堂々巡りの邪義の展開には、又かという思いとともに日暮れて道なお遠しの感を深くするばかりであります。

坊主の云うことが振るっています。(平成三年、大謗法と化した創価学会が本宗より破門となり、これに伴って広布達成の時も遠のいたことで、正本堂が近い将来に本門寺本堂=広布の事相における戒壇となる可能性は失われた)とは呆れましたね。

そもそも創価学会と坊主らは一緒になって正本堂なるニセ戒壇を建てて広宣流布を偽り国立戒壇を完全否定したと思ったらその後、銭ゲバ事件を起こして週刊誌の格好の餌食にされた揚げ句、世間の笑いものに晒された宗門が、今頃になって「大謗法と化した創価学会が本宗より破門」などと偉そうなことを書いていますが、邪義にまみれた坊主らに他人の事が言えた柄ではありません。「本宗より破門」と言えば聞こえは良いですが、真相は学会から見捨てられてもぬけの殻同然の宗門に残ったのは、たった一握りの邪義を刷り込まれた旧信徒と呼ばれていた法華講員と、欲望肥大の邪義にまみれた大飯食らいの坊主ばかりだったのであります。

こうした坊主らこそ宗祖以来の伝統を忘失して土葬の墓地を掘り起こして、あのニセ戒壇正本堂を建て広宣流布が達成された等と称して、信徒と国家を騙してウソをつき、信徒の浄財で昼に夜に酒宴を張ってドンチャン騒ぎを繰り広げていた狂態を晒したと思ったら、両者は修羅と悪龍の合戦を思わせるような食うか食われるかの大喧嘩を繰り広げて逆上した日顕は「正本堂は池田の怨念がこもった建物だから取り壊してしまえ」などと叫び、ニセ戒壇正本堂は是れまた信徒の浄財で跡形も無く木っ端微塵に破壊したものの、肝心要の大聖人様以来の富士門流の命とも言うべき最も大切な国立戒壇は捨て去ったまま、今日に至っても、未だに邪義を垂れ流している事を忘れてはならないのであります。

先ず始めに彼の正本堂の建設について創価学会の池田大作は、昭和39年5月3日、創価学会の本部総会において、次のような発言をしています。

池田云く「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。・・・・正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりになります。したがって全体的な御供養といたしましては、今度の正本堂の御供養だけで、いっさい将来はいたしません」(聖教新聞 昭和39年5月5日)と。

当時の学会員は池田大作の発言にありますように「広宣流布の体制としてはこれが最後、あとは本門戒壇の建立を待つばかり」との話を耳にした当時の学会員の誰もが理屈抜きにある種の驚きにも似た、何とも名状しがたい緊張感を覚えたのは事実であります。

それは今まで常識では考えられないようなすし詰め状態以上の中で行われていた奉安殿での御開扉は、このところ学会員の爆発的な増加によって、物理的には完全に飽和状態になっていたため、本門戒壇堂が建立されるまでの間、今度の正本堂の御供養によって、より大きな「大奉安殿」が建設されるものだとばかり、すべての者がそう思っていた筈であります。

拙者もこの最後の正本堂の建設には真心からの御供養を以って参加させて戴きたいと願っていたところ、翌年の昭和40年9月になって、今度は、日達猊下からそれに追い打ちを掛けるように、次のような訓諭が発布されたのであります。

云く「日達、此の正本堂に本門戒壇の大御本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限り尽くして供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」と。

池田大作の発言によると正本堂の御供養をもって、これが最後、次は「本門戒壇堂の建立を待つばかりになります」とあり、それにつづく日達猊下は「宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限り尽くして供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」した訓諭が発布されたものだから、当時の日蓮正宗の僧俗信徒はこの好機こそ今生人界の思いで、二度と再び巡り合う事のできない人生最大・最後のチャンスと捉え、ある若者は結婚式の費用を御供養に充て、亦ある者は生命保険を解約して勧募に応え、また多くの老人たちは葬式費用の備えとして貯蓄していた定期預金や預貯金解約し、預貯金の無い者たちは質屋に行列をつくるといった、それこそ正本堂の建設に希望の胸を膨らませ、正本堂の完成の日が一日も早からん事を願って、心ある学会員の全ての者が死力を尽くして正本堂の御供養に応えたのであります。

その結果、正本堂の建設のために集まった資金は、昭和40年10月9日~12日迄のわずか4日間で、実に355億3600万円余りという途方もない膨大な建設資金が集まり、五年余りの時間をかけてこれを完成させたのでありますが、それに気をよくした池田大作と細井日達管長は途中で気が変わり、建設中の正本堂をさして、是れを広宣流布の時の本門事の戒壇堂と言い出したのであります。

池田云く「正本堂の建設は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」(第一回正本堂建設云委員会直後の発言)と。

日達管長もそれに呼応して「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)と。

つづけて「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊の在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇あります」(昭和45年4月27日 教師補任式)と。

このように豹変した池田大作と日達管長は詭弁に詭弁を重ねながら純真な信徒を手玉に取り、世間の国立戒壇に対する非難をかわすとともに大聖人様の窮竟の御本願たる富士門流七百年来の最重要教義として伝承されてきた国立戒壇を永久に放棄するという暴挙をやってのけ、完全にこの宗旨を抹殺してしまったのであります。

そうしたところ坊主らは、今頃になって摧破異流義考誌(P.48~49)に、こんな事を書いています。

坊主云く「今日、天母山戒壇説などを得意満面に振りかざし、本宗が宗祖以来の伝統を忘失したかのごとく、とんでもない言いがかりをつけて、『この戦いは、大聖人がなさしめているのである』等々と、何か、自分達が宗祖遺命を果たす特別な任にでもあたっているかのように思い込んでいる浅井らは、文字どおりの勉強不足、未だ得ずをこれ得たりの増上慢と呼ぶ他はない」等と口をへの字に曲げて浅井昭衛氏の批判を繰り返していますが、邪義破折班の坊主こそ「文字どおり勉強不足」なのであります。浅井昭衛氏の主張は終始一貫、広宣流布の暁に国家的に建立される本門寺の戒壇堂建立場所は、富士山麓の天母ヶ原と叫びつづけているのであって、天母山戒壇説を主張しているのは、彼の悪僧日達管長だったのであります。

昭和45年4月3日、妙信講の本部長を務めていた浅井昭衛氏と浅井甚兵衛講頭が日達管長から呼び出されて本山の対面所で「正本堂に付き宗務当局に糺し訴う」と題する諫暁書に難癖をつけようとして、日達管長は法主の権威を笠に着て、説諭を試みたものの失敗に終わるのでありますが、その時のやり取りを再現すると次のようになっています。

日達「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その本尊まします所は事の戒壇なのです」

浅井「御言葉ですが、『事の一念三千』とは、文上脱益理の一念三千に対して『事』と仰せられたので、これは法体の上での立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『事』と『義』の立て分けとは、次元が異なるようにおもわれますが・・・・・」

日達「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです」

「怒気を含む強い調子で、同じ言葉を繰り返された」

「しかし、『いつでも、どこでも事の戒壇』となれば、御遺命の戒壇と正本堂の区別がつかなくなる。最も重大な核心はここにある。私は詰めてお伺いした」

浅井「では、御遺命の事の戒壇はとうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法昭に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」

「猊下は困惑の色を示され、しばし沈黙されたが、やがて意を決したように」

日達「広宣流布の時の戒壇は国立ですよ」と明確に云われた。

「重ねて念を押させて頂いた」

浅井「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」

日達「正本堂は最終の戒壇ではありません。公布の時は天母山に建てられるのです。だから私は正本堂について『須弥壇の形にする』と説法したのです。」

とありますように、浅井昭衛氏が天母山戒壇説を唱えているのではなく、悪僧日達管長が天母ヶ原戒壇説を否定して、天母山戒壇説を言い張っているのでありますが、これも、浅井氏から追いつめられて今まで池田と二人で富士門流の重大教義を歪曲してきた事実を厳しく指摘された事が引き金になって、咄嗟に間違って発言したものと思われるのであります。

それは最後に浅井本部長からだめ押しを押されるように、やんわりと皮肉られ「猊下の御本意を伺い、こんな有り難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思い込んでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達「いや、私から間違わぬう、よく伝えておきます」と。

「猊下は明言された。そして最後に『妙信講の信心に、私は負けました』とまで仰せられた」

このように、日達はその場しのぎに、心にもない軽い言葉を口にしてその場を繕って逃げる算段ばかりを考えていたようですが、えせ信徒の池田大作に諂って一度心変わりした日達は、死ぬまで大聖人様の御心に背いて天母ヶ原戒壇に反対し、突然死を余儀なくされるという仏罰をこうむり、まことに悲惨な最期を遂げているのであります。

つづいて「いずれにしても、本門戒壇の大御本尊まします我が日蓮正宗冨士大石寺こそ、本門事の戒壇の根源にして、広布達成の暁に『一期弘法抄』『三大秘法抄』に御示しの意義を顕現する、本門寺戒壇の前身なのである」について

確かに坊主が述べていますように、現在の大石寺の存在する場所は大石ヶ原の一角にあり「本門寺戒壇の前身なのである」としていますが、それはそのとおりであります。本門戒壇の御本尊様は、日本国の広宣流布が達成された暁には、富士山天母ヶ原に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇堂にお出ましになられ、世界の人々の懺悔滅罪の根本道場として始めて公開される事になっているのであります。

次に「この御教示について、重ねて説明しておくと、先ず第一に、大石寺正本堂には戒壇の大御本尊が御安置せられており、大御本尊まします所は何時いかなる場所であっても事の戒壇である、との根源の意義の故に」について

ここで坊主の言っていることは悪僧日達以来の邪義であり、悪僧日達の受け売りであります。

本門戒壇の御本尊様の在所には「義の戒壇」と「事の戒壇」の二つがあり、いまさらその違いについて説明するまでもありませんが、宗門七百年来の定義は、広宣流布するまでの間、戒壇の御本尊様のおわします所は「義の戒壇」と呼称してきたのであります。そして広宣流布の暁に富士山天母ヶ原に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇を唯一「事の戒壇」と申し上げてきたのであります。

このことを日淳上人は「王法と仏法が冥合して国主が此の御法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる、それを『事の戒壇と申す』と仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従ってその以前は、御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。よって此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。

それに対して悪僧日達は「戒壇の御本尊様のおわします所は、いつでも、何方でも事の戒壇」などという邪義を吹聴するようになりました。それは創価学会の選挙を勝たせるために考えついた教義解釈の変更だったのでありますが、日達という悪僧は、御本仏大聖人様の御定めより、似非信徒池田大作の要求を重んじたのであります。

次に「第二には、『百六箇抄』の一節に 『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり』(御書 1699㌻)とあるが、大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に正本堂を現時における事の戒壇とされたのである」について

悪僧日達と坊主らは百六箇抄にある「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」の御文を引用して「大石寺正本堂は、近年における急速な広布進展の相に鑑み、やがて広布の時至れば大本門寺本堂となることを期して建てられた、今日の大石寺の本堂としての堂宇であるが故に正本堂を現時における事の戒壇とされたのである」などと百六箇抄の一節を悪用したことを白状しています。

この事を分かりやすく説明しますと「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」との御教示は、読んで字のごとく、三大秘法の広宣流布の暁に御安置される戒壇の大御本尊様の在所は、富士山麓の天母ヶ原に建立される本門寺の本堂なのであると、大聖人様ご自身が百六箇抄の中で明確にお定めになられている金文を悪用して、本門戒壇の御本尊様をニセ戒壇正本堂に押し込め据え奉った悪事を正当化するために、上記の金文を引用して、ニセ戒壇正本堂の本堂が恰も百六箇抄の御文どおりの建物だと思わせようと広宣流布を偽り、多くの僧俗信徒を騙しつづけていたということであります。

それではここから悪僧日達管長の発した昭和47年4月28日付の訓諭の矛盾について、破折を加える事にしますが、その前に、一期弘法抄と三大秘法抄の金文を拝したいと思います。

一期弘法抄「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状をまもるべきなり」(弘安五年九月  日)と。

三大秘法抄「戒壇とは王法仏法に冥事仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時をまつべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国ならびに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天天皇・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」(弘安五年卯月八日)と。

悪僧日達云く「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり、すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」等と自賛していますが、ニセ戒壇正本堂は、何処を探しても一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含んだ建物ではありません。日達管長のこうした邪義によって、日蓮大聖人様の嫡流を誇っていた宗門がおかしな方向へ走り出し、国家が傾いて行くのであります。

当時の学会員の総勢は約800万人として、正本堂の御供養に参加した者はその内80%だとすると、わずか640万人足らずの学会員と僅か一握りの法華講員で建てた正本堂が何故に「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」と言えるのでしょうか!

その上「すなわち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とありますが、ニセ戒壇正本堂は広宣流布の兆しも見えない内から前以て建てたことになっていますが、一期弘法抄と三大秘法抄の戒文には「時をまつべきのみ」との御文に反して建てたニセ戒壇が何故に、両抄の意義を含んでいると言えるのでしょうか? 

ところが悪僧日達の訓諭では「但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」とありますように、謗法の徒多きが故に等と言っていますように、自らが広宣流布は達成されていないことを証明しています。そんな中で「安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」等と述べていますが「須弥壇は蔵の形式」とは、御宝前の前に開閉の扉を付けただけのことで、相続信徒を欺く日達特有の詐話師の言であります。そんな事など垂れたところで何の付け足しにもならないばかりか、言語道断、戒壇の大御本尊様に大恥を掻かせて御顔に泥を塗っただけで、自らが無限に罪障を作るだけで終わっているのであります。

大聖人様は一期弘法抄の冒頭に万感の意を込められて「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」と仰せられています。その意を簡単に解説しますと「日蓮一期の弘法」とは、大聖人様30年の忍難慈勝の御化導を一つに括られて、出世の御本懐たる本門戒壇の御本尊は、第二祖白蓮阿闍梨日興上人へ付嘱したと仰せられっています。

次に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時をまつべきのみ。・・・・就中我が門弟等此の状を守るべきなり」とありますように、広宣流布の暁に日本国の本有の国主たる時の天皇陛下がの三大秘法を受持した後、勅宣を発せられて富士山天母ヶ原に本門寺の戒壇=国立戒壇を建立すべきである。その時が来るまで「時を待つべきのみ」と仰せられ、事の戒壇と称してニセ戒壇を建ててはならないと戒められています。このように大聖人様が固く戒められた意向に背いて建てた正本堂が、何故に一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む本門寺の戒壇と言えるのでしょうか、ウソをつくにも大概にしなければなりません。

さらに三大秘法抄には「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とあります。王法とは総じては、国家の統治主権、国家権力、政治などを指しますが、此処では一国の政治を王法としています。したがって「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」とは、日本国の王たる天皇も、国政の衝にあたる各大臣も全国民も三大秘法の南無妙法蓮華経と唱え、広宣流布の暁に日蓮大聖人の仏法(三大秘法)と政治が冥合することに依って、真の国家安泰が達成され、永遠の平和国家がもたらされるこを言いますが、ニセ戒壇正本堂が建てられた時は王法と仏法が冥合した事相もなければ、王臣万民が三大秘法を受持したという姿相は夢にも存在しなかったのであります。

次に「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とは、有徳王・覚徳比丘の故事にあるごとく、本門戒壇の御本尊様を守護するにおいては身命をも惜しまぬという護法心が日本国の朝野にみなぎった時のことであります。大聖人様はかかる国家状況が、末法濁悪の未来に必ず現出することを断言せられ、その時を、戒壇建立の「」と定め給うておられるのであります。

悪僧日達は、未だにこの「」も到来していない事を百も承知しながら正本堂なるニセ戒壇を建て、之を本門寺の戒壇と偽り、一期弘法抄並びに三大秘法抄の金文を破壊し、大聖人様以来富士門流の清らかな清流を、取り返しのつかないほどの汚れた濁流にしてしまったのであります。

次に「勅宣並びに御教書を申し下して」について、勅宣とは、日本国の本有の国主たる時の天皇陛下の勅であり、御教書とは、現代的に約せば、国家としての公式の意思表明でありますから国会の議決で国家の意思が決められることをいうのであります。そうした二重に亘る国家的手続きを経た上で戒壇を建てる事によって、はじめて仏国が実現するのであります。ニセ戒壇正本堂はそうした手続きを一切無視して建てたものだから災いを招くこととなり、建設からわずか二十六年にして消滅する事になったのであります。

次に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」とあります。

ここでは先ず本門寺の戒壇建立に係る「戒壇建立の場所と本門寺の戒壇に係る御利益」についての御指南であります。

霊山に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」と御教示でありますから日本国の最勝の地とは、富士山麓の天母ヶ原を指していることは言を俟たないのであります。亦「事の戒法」とは、凡夫を仏にして下さる空前絶後の未曾有の国家的戒壇だから事の戒法とお呼びするのであります。

故に日寛上人は御相伝に基づき「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と仰せられ、日応上人も「富士山の麓に天母ヶ原とも申す嚝々たる勝地あり、ここに本門戒壇建立あって・・・・」(御宝蔵説法本)と仰せられているのであります。

そして日寛上人は本門戒壇を建立するに当たっては、依義判文抄の中で三位日順の心底抄を引かれ「戒壇の方面は地形に随うべし。国主信伏し造立の時至らば智臣・大徳宜しく群義を成すべし、兼日の治定は後難を招くにあり、寸尺高下注記するこ能わず」を仰せられいますが、日達管長はこれ等の仰せを悉く無視してニセ戒壇を建てたのであります。

それにニセ戒壇正本堂を建てた所は以前、正宗信徒が土葬で葬られた墓地があったところなのです。そんな死人の腐乱した臭肉の漂う穢れた場所が「霊山に似たらん最勝の地」であるわけがありません。

広宣流布の暁の本門寺の戒壇とは「三国並びに一閻浮堤の人・懺悔滅罪の戒法のみならず」とありますように、世界の人々が三大秘法を信受して懺悔滅罪を祈願する根本道場のことであります。即ち南条抄に仰せられる「若し此の霊場に一度も詣でん輩は、無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん」云々との御教示が事相となるのであります。

次に「大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」とは、三大秘法の及ぼす御利益は人間界ばかりか、自然界にも及ぶ広大無辺の大利益であります。今、世界的な異常気象が騒がれていますが、我が国に於いても今年の豪雨災害は、西日本一帯に未曾有の甚大な被害をもたらし、多くの人命と財産と郷土が失われてしまいました。その根本原因は立正安国論にお示しのとおりでありますが、三大秘法が広宣流布した暁には妙法の力用によってこれ等の災害は本より、あらゆる凶悪犯罪は夢のごとく雲散霧消して、平和な楽土が現出するのであります。

如説修行抄の一節にあるごとく「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉るらば、吹く風枝をならさず雨塊を砕かず、代は義農の世となりて今生には不詳の災難を払い長生の術を得、人法共に不労不死の理顕われん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり」と御教示でありますように、中国の古代に三皇五帝と謂われる時代に伏羲・神農という皇帝が釈迦の法華経を元にに善政を敷いていた時代がありました。その時代は、来る年も来る年も五穀の豊穣がつづき、五風・十雨と謂われるような五日に一度そよ風が吹き、十日に一度しとしとと雨が降る。そのような平和で豊かな時代が日本の国土に顕われると仰せなのであります。

今生には不詳の災難を払い長生の術を得」とは、個人に於いても国家にあっても、不詳の災難に遭うことのない平和な社会の中で、幸福な生活が約束されるということであります。

また「人法共に不労不死の理顕われん時」とは、大聖人様の仏法は本因妙の仏法であります故に、釈迦仏法のように、正像二千年で法力が失われることのない末法万年を照らす大仏法という事であります。しがたって此の三大秘法を実践する個人に於いても、決して行き詰まることのない幸福を得ることが出来るということであります。

此処で仰せられるように、個々人の幸福と国家の永遠の繁栄は、一に国家的に立てる国立戒壇の建立にあることを知るべきであります。

その大事を四十九院申状に「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護によって長久す」と。仰せられているのであります。







コメント

悪僧日達と坊主らは天生ヶ原は無いものとしてしまった

2018年06月09日 09時42分21秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.45~48)に「天生原について」と題して、坊主たちは次のように記しています。が、坊主たちのだらだらした講釈を最後まで読み通していくと、いったい彼らは何が言いたいのかサッパリ解らなくなるので一節ごとに彼らの矛盾を指摘し破折を加えていくことにしました。

坊主云く「以上のごとく、天母山戒壇説が、本宗本来の教義によるものでないことは明白である。しかしながら、二十六世日寛上人の『報恩抄文段』に、『事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり』と仰せられ、左京日京師が使った天生原(天母原)の名を用いられていることについては、さらに、また一考をようする。すなわち、四十八世日量上人の御指南に『本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし』また、五十六世日応上人御指南に『富士山の麓に天母ヶ原ともうす嚝広たる勝地あり、茲に本門戒壇建立あって』云々等と述べられているように、日寛上人をはじめとして御歴代上人方の御筆記中においては、ほんとんどすべてが天生原と示されており、天母山説をとってはおられないのである」について

当たり前ではありませんか! 何度も申し上げていますように天生原とは、富士山の南面に広がる裾野のことです。この裾野は日本一の名山たる美しい富士山の稜線に沿って下った一段高くなった所にある丘を天母山と称し、その丘から流れるようななだらかな丘陵地は駿河湾までつづく広大な領域は、昔からこの地は天生原と呼ばれてきました。その天生原は現在の大石寺から東方4キロの所に位置す場所にあって、大聖人様が三大秘法抄の中で「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」と仰せられていますように、広宣流布の暁に本門寺の戒壇を建立するには最も相応しい金剛宝座と言われている場所のことです。

また御開山日興上人が賜った一期弘付属書に「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とあるごとく富士門流の数多の貫首上人は大聖人様の御在世からの伝承にしたがって、広宣流布の時に建てられる本門寺の戒壇は、富士山天生原に建立すべきことを異口同音に叫ばれておられます。したがって二十六世日寛上人も、三十七世日琫上人も、四十四世日宣上人も、四十八世日量上人も、五十六世日応上人も、五十九世日亨上人も、六十四世日曻上人も、六十五世日淳上人等すべての貫首上人が、広宣流布の暁の本門寺の戒壇建立場所は、富士山天生原と仰せられているのであります。

坊主云く「さらに、四十四世日宣上人におかれては、『今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもとに天母ヶ原に本門戒壇堂建立ある』(世界之日蓮)と仰せられ、大石寺が未来の本門寺戒壇、そして、その在処は天生原であることを御教示され、また、日達上人も、日亨上人の御指南を引用して、『堀猊下が四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えると、それよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります、北は一の竹よりも北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯をさしてもいいのであります。この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原の大構想である』天生原こそ、ここにありと御指南あそばされているのである」について

坊主には恐れ入りましたね。日亨上人と堀猊下は同一人物なのであります。それを恰も別人のように見せかけて「日達上人も、日亨上人の御指南を引用して、『堀猊下が四神相応の地として、乃至大石ヶ原の大構想である』と仰せられている御文が存在するかのごとく書き連ねていますが、坊主は第一に、堀日亨上人が記されたとする御文の出典を明らかにすべきであります。第二には、「天生原こそ、ここにありと御指南あそばされているのである」との文は、堀日亨上人が記された御文ではなく、日達か坊主が勝手に後から付け加えたものと思われるのであります。それは坊主が引用した堀日亨上人の御文を見れば、大括弧で括られた引用文は「すなわち四神相応の大石ヶ原の大構想である」で終わっているのであります。よってその後につづく「天生原こそ、ここにありと御指南あそばされているのである」と記された文を見れば、日達かあるいは坊主が後から挿入した文であることが分かります。

かつて日亨上人は本門事の戒壇について「この戒壇について、事相にあらわれる戒壇堂と、義理の上での戒壇とも思えるものが二つがある。事相の堂は将来一天公布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民に至るまで受戒すべき所であるが、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義にあたるのである」(正宗綱要)と仰せられています。即ち昭和39年の春まで、創価学会が寄進した元の石造りの大客殿が存在していた所にあった御宝蔵を義の戒壇とせられ、一天公布の時、富士山下(天母ヶ原)に勅命を賜って広宣流布の暁に建立する事の戒壇堂は最終の戒壇である故に、完全に場所を区別されておられるのであります。したがって現在の大石寺は、本門寺の戒壇堂を建立すべき場所ではありません。

日達云く「そこで今、天生原について、字義的な面から考えてみると、天とは、一と大の合したもので、至上最大という意義、また生とは、生ずる、蘇生するの意義(これが転じて母という字を用いる場合が出てくる)、原とは、厂すなわち岩、岩の下に泉があることをさしており、源、根源という意義を表わしている。また、実際の地名としては、前にも触れたとおり、富士山下に天生原という特定の場所を見出すことはできない。これに、前述した四神相応の勝地という意義、大石ヶ原の地名、また大石寺則本門寺という御歴代上人の御指南等々を思い合わせるとき、天生原とは、まさに大石寺を中心とする広大な大石が原の勝地をさすものと拝してさしつかえないのである』」について

ご覧のように日達という悪僧は、広宣流布の時の天母ヶ原戒壇説を否定するため、天母ヶ原は何処を探しても存在しない幻の土地としてしまったのであります。そこで日達は、諸橋大辞典を持ち出して来て、天母ヶ原を字義的に考えるとしてこれを分解、訳の分からないことを言い始めて、天母ヶ原という土地は元々存在しない土地であるから、天母ヶ原とは、現在の大石寺を中心にした広大な大石が原の事であると言い出したのであります。

そうしたところ坊主らは今頃になって日達が言い始めた荒唐無稽なこじつけで固めた邪説を受け売りして「富士山下に天生原という特定の場所を見出すことはできない」などととんでもなことを言っていますが、天母山が創価学会の寄進により本山の所有に帰した時、柿沼広澄総監は一文を寄せて「日達上人猊下の御徳によって天母山が日蓮正宗の所有に帰したことは事は一文慶賀にたえない。・・・・私はその天母ヶ原に登り、富嶽に対してひそかに念願する所があります」と仰せられ、柿沼総監が寄せた一文の中に、天母山と天母ヶ原が一所(ひとところ)にあることが証明されています。

また創価学会の仏教哲学大事典の天母ヶ原の項には「静岡県富士宮市にある安母山(大石寺の東方四キロ)の一帯をいう」とありますように、大石寺と天母ヶ原には四キロの隔たりがある事が記されています。

そもそも日達や坊主らが天母ヶ原の存在を否定し無き物にしたい理由は、ニセ戒壇正本堂を建てた大石寺の境内を広宣流布の「事の戒壇」としたいが為の邪念から出た思いつきだったのであります。

つづけて坊主云く「分を超えて述ぶるを畏れるも、このことは、要するに、本宗七百年の歴史の途中から天母山説が混入してしまい、後代の御法主上人方は、本宗のもともとの教義にはないことであるけれども、いちおう前代からの伝である故、これを軽々になさらず、会通を加えられて、広域をさす表現として天生原の呼称(ひいては天生原即大石が原という解釈)を用いられたものと拝するのである。それは、大聖人の『予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違わざれば、且く世間普通の義を用うべきか』(御書 1221㌻)との御金言、また本宗伝統の厳格なる師弟相対信を想い合わせれば、至極当然のことであるが、浅井ごとき増上慢には、こうした絶対の師弟の道を踏まれる御歴代上人の御苦衷など、窺い知ることすらできぬであろう」等と浅井氏の悪口を書き連ねています。

坊主はデタラメなことを言ってはいけません。「本宗七百年の歴史の途中から天母山説が混入してしまい」などと言っていますが、先にも触れたとおり、大聖人様は三大秘法抄に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」と御教示であり、一期弘法付属書には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきものなり」とあるごとく、日本国の名山たる富士山の最勝の地とは、天母ヶ原以外には存在しないことからすれば、天母山戒壇説が京都要法寺から入ってきたというのは、日達や坊主の言っていることは完全なウソだという事が分かります。

それに坊主らが引用した「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違わざれば、且く世間普通の義を用うべきか」(御書 太田左衛門尉御返事)の御文を引用して、天母ヶ原戒壇説を否定するとは恐れ入りました。

三大秘法の内、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇建立の場所を否定すことは、大聖人様の御本願に背逆する最大の大謗法に当たる行為であります。

何度も申しますが大聖人様は広宣流布の暁の本門寺の戒壇は、三大秘法抄に「霊山に似たらん最勝の地」と仰せられています。それを真っ向から否定して、土葬で葬られた死人の肉体が腐乱した土壌は、臭骨が漂う穢れた土地であります。その墓地を掘り起こして建てた正本堂なるニセ戒壇を建てた場所が何故に「霊山浄土に似たらん最勝の地」なのでしょうか、そんな事がある筈はありません。

それに大聖人様は太田左衛門尉御返事の一節に「強ちに成仏の理に違わざれば」と、厳格な条件を付されているのであります。その大切な金文に違背して信徒の墓地を掘り起こし、その跡地にニセ戒壇を建てて戒壇義を破壊する行為は、成仏の理に違っていることは言うまでもありません。

つづけて云く「なお、本宗御歴代の数多の御筆記中、例外的に、三十五世日穏上人の書の写本といわれる『五人所破抄一覧』、が明らかとなっている以上、曲意をもっての悪用は慎まなくてはいけない。また何よりも、御先師にあたる三十一世日因上人が、大石寺即大本門寺と御教示せられ、さらに後代の御法主であられる四十四世日宣上人が、天母山説を、大石寺即本門寺の在処が天生原という説に是正せられているこを思うべきである」について

坊主の言っていることは支離滅裂ですね。本項の冒頭には「富士山下に天生原という特定の場所を見出すことはできない」と言っておきながら「後代の御法主であられる四十四世日宣上人が、天母山説を、大石寺即本門寺の在処が天生原という説に是正せられているこを思うべきである」としていますが、日宣上人は次のように仰せなのであります。

日宣上人云く「今は是れ多宝冨士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺即ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもとに天母ヶ原に本門戒壇御建立ある」(世界の日蓮)と。

上の御文を要約しますと、現在の大石寺は広宣流布の時には本門寺と呼ぶようになる。すなわち此の寺は霊山浄土であるが、広宣流布の時が来たならば、富士山のふもとに天母ヶ原という所に本門寺の戒壇を建立するのである。と。

日宣上人が仰せられたの御文の中で大石寺のある大石が原と、天母ヶ原の位置を明確に区別せられていることが分かります。

坊主云く「しかるに、これが、勝他の念にかられる浅井昭衛の手にかかると、『日穏上人を要法寺亜流と罵っている、日穏上人を誹謗するつもりか』等と、またまた強引な宗内攻撃の材料とする。いったい、浅井の息子の克衛も同様であるが、自分の己義に都合の悪い御法主の御指南に対しては、口を極めて悪し様に謗り、都合よく悪用できそうな御指南の断片を見つけては、水戸黄門の印籠よろしく仏の金言として振りかざす・・・・このような悪辣なまでの無節操を仏教者と呼べるであろうか。じつに、かの堤婆達多も、浅井親子の悪辣ぶりには唖然とするであろう」について

浅井昭衛氏や克衛氏が三十五世の日穏上人の名を挙げて、宗門の坊主が日穏上人を誹謗したかのごとく書き立てていますが、拙者はそんなことは与り知らぬところであります。仮に、浅井昭衛氏や克衛氏が日穏上人を要法寺の亜流と罵っている事実があるなら、その出典を明らかにする必要があります。

坊主云く「なにも、日宣上人も今日の御宗門も、師弟相対信を弁えぬ浅井ではあるまいし、天母山と云われた日穏上人を罵ったりなどはしておらぬ。常に師の絶対の御徳を仰ぎつつ、どこまでも宗開両祖以来の正義を護持しぬいていく・・・・その峻厳なまでの、弟子としての赤心を知るべきである」について。

この坊主は何度言っても解らない。天母山は頂上に約せば山となり、麓に約せば原となるのであります。それにこの坊主はものの言い方を弁えていない。そもそも自分が所属する所が宗門であるならば、「今日の御宗門も」という表現は完全に間違っています。敬称の付け方も解らない坊主だから仏法を曲げても平然として構えて居られるのであります。

それに言う事が振るっています。「常に師の絶対の御徳を仰ぎつつ、どこまでも宗開両祖以来の正義を護持しぬいていく・・・・その峻厳なまでの、弟子としての赤心を知るべきである」とは恐れ入りましたね。

宗開両祖の御本願は、広宣流布の暁に時の天皇陛下より勅宣を賜り、御教書たる国会の議決を経て本門寺の戒壇=国立戒壇を富士山下の天母ヶ原に建てて日本国を仏国土にすることだったのであります。それを日達という悪僧は、最大の信徒団体であった創価学会の池田大作の施す奢侈と供応に溺れ、諂いが高じて仏法を曲げたが故に、爪の垢ほどもの功徳も無ければ、一人の成仏も叶わない宗門にしてしまったのであります。

曽屋殿御返事に云く「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故とは是れなり」と。

此の御文を要約すれば、如何に法華経を信じていると云っても、大聖人様の御本願たる国立戒壇に反対するような信心では、必ず地獄に落ちることになる。例えば、漆に蟹の足を一本加えることによって、漆がバカになって効果がなくなる。まさにその様は、毒気が深く入って、本心を失う故であるとは是れである。と。

コメント

同じ邪義を繰り返す坊主と顕正会の誤り

2018年02月25日 08時38分53秒 | 亡国の坂道 
元々本ブログは、富士門流すなわち日蓮正宗がニセ戒壇正本堂の建設以来「摧破異流義孝」誌に垂れ流してきた邪義を粉砕する目的で始めたものです。この度(P.22~24)記載されている内容も、今まで垂れ流してきた邪義の繰り返しでありますが、堂々巡りのような重複した内容に辟易している方も多くいらっしゃるものと思われますが、それは、掲載内容に沿って論を進める関係からやむを得ない事情があります。その辺の事情をご賢察の上、お付き合い頂ければ幸いであります。なお、注意を要する処は赤文字を使用し、破折箇所については、太文字で表記するなどして、それらの間違いを破折するとともに、顕正会の誤りについても簡単に触れて見ました。



ーーーー浅井昭衛一派の妄説を摧くーーーー

                               昭和六十三年十月『暁鐘』別冊号
摧破異流義孝

はじめに

宗祖大聖人は『三大秘法抄』に「所説の要言の法とは何物ぞや。(中略)実相証得の当初修行し給う処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(御書1553ページ)「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり」「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替わらぬ寿量品の事の三大事なり」(御書1595ページ)と仰せられ、三大秘法(本門の本尊と戒壇と題目)が、久遠(実相証得のと当初)より常住する法であること、そして、それは大聖人の御一身即本門の本尊の御当体に具備することをお示しである。ゆえに、我が日蓮正宗においては、古来、本門の本尊なかんずく宗祖出世の御本懐たる弘安二年の大御本尊を「三秘総在」とも「一大秘法」とも申し上げ、信仰の根本として尊崇申し上げているのである。

しかるに、浅井昭衛なる増上慢の一在家が(昭和四十九年に日蓮正宗より破門)率いる一派が、この三大秘法総在の深義を弁えず、御先師日達上人・御当代日顕上人猊下の戒壇に関する御指南に異議をはさみ、宗門を誹謗中傷し続けている。彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、哀れ、彼らの末端は浅井から全てを知らされておらず、浅井らに煽動されるまま、目の色を変えて会員増やしに狂奔しているのが現状である。」について

坊主が引用した上の三大秘法抄の御文は、印度応誕の五百塵点本果の釈尊から上行菩薩が三大秘法の付属を受けた法体は、元々久遠元初に妙字凡身の釈尊が所持していた三大秘法を、法華経神力品二十一で上行菩薩が印度の釈尊から付属を受けた儀式を通じて、久遠元初の自受用身が垂迹して上行菩薩として法華経の会座に顕われ、世界悉檀の上からこの三大秘法の付属を受けた手継証明の形を以て末法の一切衆生に信ぜしめんとする大切な御文であるにもかかわらず、それを次元の異なる戒壇の問題にすり替えて浅井氏を非難しています。

それと坊主が引用した三大秘法抄の御文は誤りで、原文は「口決相承せしなり」となっています。御書全集・平成新書が間違っているのです。可笑しな日本語ですね。

それは置くとして、坊主は三大秘法の法体と付属の次第を四句の要法、即ち名・用・体・宗に約して説かれた三大秘法抄の結要付属の重大な御文を故意に戒壇の問題にすり替えて「彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もないのであるが、等と、的外れな邪義を並べて威勢の良いことを書き連ねていますが果たしてそうなのか、それでは拙者がここで坊主の重複する邪義を破折することにします。

御本仏日蓮大聖人様の嫡流を誇る日蓮正宗は立宗より七百年の間、宗旨の根本教義であるところの三大秘法抄で仰せの「事の戒壇」とは、広宣流布の暁に天皇陛下から勅宣を賜わり、御教書たる国会の議決によって富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を、唯一「事の戒壇」と申し上げてきたのであります。したがって富士門流は長い歴史の中で、さまざまな法難の風雪に耐えながらも一点の濁りもなく、国立戒壇思想は、清く正しく連綿と伝持されてきたのであります。

ところが、第六十六代目の貫首職を継いだ細井日達という管長の時代になると、日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会の政治進出が発端となり、世間の国立戒壇に対する非難・中傷を躱す目的から、大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せの戒壇義がとんでもない形に歪曲される事になったのであります。すなわち、「戒壇の大御本尊のまします所は、いつでも、何処でも、事の戒壇」という邪義でありまして「義の戒壇」と称する戒壇は無いものとしてしまいました。

富士門流日蓮正宗の不世出の中興の祖として仰がれている、彼の有名な第二十六世の日寛上人は次のように戒壇義を定義せられています。

云く「義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇にあたるなり。・・・・故に当山は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)と、御教示であります。つまり日寛上人の仰せの意味は、義理の戒壇として、広宣流布が達成されるまでの間、本門戒壇の大御本尊様のおわします所は「義の戒壇」と御教示なのであります。

この御教示を受けて、第五十九世日亨上人は「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と仰せであります。

かつての日達上人も猊座に登られた直後は、宗門古来の正しい戒壇義の伝承にしたがって、次のような正論を展開していたのであります。

云く「広宣流布を待ってはじめて本門寺建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇という事になるのでございます。それまでは戒壇の大御本尊をおしまい申し固く護る。先師方が客殿の後(うしろ)の奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すという事を仰せられて居ります。我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までしまっておくということになる。----戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。ーーーーお出ましは、先ほどから申す所の、いはゆる広宣流布の暁である」(大日蓮 昭和34年9月号)と。

つづけて「真の世界平和は国立戒壇の建設にありと確信して、本年も益々折伏行に徹底邁進されんことを願うものであります。」(大日蓮 昭和35年1月号)と。

また云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります。」(大日蓮 昭和36年5月号)と。

ところが日達上人は、信徒団体の創価学会が施す身に余る奢侈に溺れて、昭和47年10月12日の完成を目指して、総本山の境内のはずれに建設することとなったニセ戒壇正本堂を指して、この建物が広宣流布の時に建てられる「事の戒壇」などという邪義を展開し始めたことから、今迄聞いた事もない邪義が広く宣伝されることとなったのであります。

大聖人様の嫡流を誇る富士門流の中で、最も大切な三大秘法の戒壇義を次のように歪曲した細井日達ごときに上人号をつけてお呼びするのは完全な間違いで、正しい貫首上人と同等に扱うのは恐れ多い故に、以後、日達管長と呼ぶことにしました。

云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」(大白蓮華 201号)と。

富士門流七百年の間、今まで聞いたこともない、こうした「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」あるいは「戒壇の御本尊まします所は、いつでも、何処でも、事の戒壇」等という邪義に異論をはさみ、大石寺の聖地が大謗法のキリスト教神父の土足で汚され、曲りゆく宗門教義の歪曲を糺さんと、身を捨てて大聖人様の御本願たる国立戒壇の御遺命守護に立ち上がったのが、妙信講の浅井昭衛本部長だったのであります。当時、浅井本部長は、昭和45年3月25日、第一回諫暁書として「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を著わし、日達管長はじめ、創価学会首脳12人に送付したのであります。

それに驚いた日達管長は4月3日、さっそく妙信講の浅井甚兵衛講頭、浅井昭衛本部長の二人を本山の対面所に招き入れて説諭を試みたものの、緊張のあまり苦笑いともつかない浮かぬ顔を引き攣らせて、諫暁書を片手にかざしながら席に着くなり開口一番、次のような発言をしているのであります。以下「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」を引用

日達管長「よく書けていますね~、誰にもこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」

日達管長「この中の引用の先師の『御宝蔵説法』は日応上人のものですね。あれには略されている部分がある。これがその原本です。大事なものだから人に見せるべきものではないが、この中に、戒壇の御本尊まします所は、『事の戒壇』とあるのです」

浅井「甚だしい非礼僭越とは思ったが、ことは重大である。私は敢えて『お見せいたでかますか』と願い出た」

浅井「猊下は、『大事なものだから全部は見せられないが』と、前後の文を両手で隠しつつ、その部分だけを見せて読み上げられた」さすがに日達管長、やる事が卑劣というか、せこいですね~

日達管長「『大御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」

浅井「『原本』といって示された毛筆の本は、日応上人の御筆跡ではなかった。いずれにしても、文の全体を拝見しなければ部分の文意はわからない」

浅井「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それまで大御本尊のまします御宝蔵・奉安殿を『義の戒壇』と申し上げてきたのではないでしょうか・・・・」

浅井「猊下は瞋りの色を面に表し」

日達管長「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊のまします所は事の戒壇なのです」

浅井「お言葉ですが『事の一念三千』の『事』とは、文上脱益の一念三千に対して『事』と仰せられたので、これは法体の上の立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における『事』と『義』の立て分けとは、次元が異なるように思われますが・・・・」

日達管長「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです」

浅井「怒気を含む強い調子で、同じ言葉を繰り返された」

浅井「『しかし、いつでも、どこでも事の戒壇』となれば、御遺命の戒壇と正本堂の区別がつかなくなる。最も重大な核心はここにある。私は詰めてお伺いした」

浅井「では、『御遺命の事の戒壇』はどうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」

浅井「猊下は困惑の色を示してしばしば沈黙されたが、やがて意を決したように『広宣流布の時の戒壇は国立ですよ』と明確に云われた」

浅井「重ねて念を押させて頂いた」「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」

日達管長「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです。だから私は正本堂について『須弥壇の形にする』と説法したのです」

浅井「やはりこれが細井管長の本心であった。だが、この本心を宗門で知る者はいない。全信徒は正本堂を御遺命の戒壇と思い込んでいる。私は申し上げた」

浅井「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおりますが、これはいかがしたら・・・・・」

日達管長「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます」

軽いですね~、そんなに簡単に安請負なさって、大丈夫なんですかね~、いずれにしても、日達管長が日応上人の毛筆の御宝蔵説法本として出して来た、説法本の文言の大切な所を隠しながら浅井氏に見せたお書き物は、第六十世日開上人(日顕管長の父)の毛筆による御宝蔵説法本だったのであります。

それには「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なること疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、『若し此の霊場に一度も詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん』」云々と。南条抄の御文を引用された一節が記されてあったのでありますが、日達管長は、傍線の所を両手で隠して浅井氏に見せていたのであります。

すなわちに日開上人の御意は、広宣流布の暁に天皇陛下から勅宣を賜わり、御教書を申し下して、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇を大前提として、その戒壇の大御本尊様が、今眼前におわしますからには、未だ国立戒壇は建立されていなくても、そこへ参詣する者の功徳は、天母ヶ原の事の戒壇に詣でた時の功徳と全く同じであることを「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられたのであって、戒壇の大御本尊のおわします所が、直ちに、事の戒壇と仰せられたものではないのであります。

日達管長と浅井氏は4月3日、上記のようなやり取りをした時、浅井氏の正論にねじ伏せられ、邪義を完全に粉砕されているのであります。面談の席で教義歪曲を浅井氏から指摘されて「いや、私から間違わぬよう、よく伝えておきます。」などと他人ごとのような軽い言葉を返して体裁を繕っていますが、邪義の元凶は日達管長その人だったのであります。あの時の邪義を粉砕された無念の怨みを晴すつもりか、その舌の根も乾かぬうちに、日達管長は、法華講の青年部員をあつめて、国立戒壇と浅井昭衛氏をあしざまに罵った文章を読み上げながら、陰にかくれて浅井氏の悪口を並べ立てていたのであります。

云く「浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し〝私が浅井親子だけに内意を打ち明けた〟などと宣伝しておるのであります。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになっています。何も知らない人達を〝国立戒壇こそ法主の内意である〟などとあざむくことは、卑劣この上ないやり方であり、ことは私の名誉にもかかることであり、放置しておけば、宗門のみならず世間までも騒がせる結果になりかねませんので、私は断固措置をとります。」(大日蓮 昭和50年9月号)などと。

断固措置をとる筈の話は口先だけで、その後再び法華講の青年部をあつめて「大聖人の教えが国立戒壇ならば、その人は世間に向かって言えばいいのです。新しく宗旨を建て、国立戒壇宗というものを建てたんだといって、世間をどんどん折伏して広げて下されば結構だと思います」等と云って、半分投げやりな話に終わっているのであります。

猊座に登られた直後の正論は葬り去られ、次のように変貌したのであります。云く「国教でもない宗教に国立戒壇なんてあり得ない。」(創価学会第33回本部総会)等と。

また云く「此の正本堂が完成した時は、大聖人の教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 201号)と。

追従して阿部教学部長云く「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大洸明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)と。

つづけて云く「戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇である」(本門事の戒壇の本義 昭和51年2月刊行)と。

此処で坊主がいう「三大秘法総在の深義を弁えず」とは、何の事はありません。一大秘法の本門戒壇の大御本尊様を三秘・六秘と開いた場合の戒壇義は「事」と「事」の戒壇となり「義」の戒壇は絶対に存在しないという邪義であります。

坊主云く「彼らの邪義・主張は、すでに日達上人の御代に様々な角度から破されており、付け加えるべき何物もない」などと虚勢を張って勝ち誇っていますが、それは真逆な話で、4月3日の日達管長と浅井昭衛氏のやり取りを見るかぎり、日達管長と阿部教学部長が吹聴する「御本尊のおわします所は、いつでも、何処でも事の戒壇」という邪義は、完全に破折されているのでありますが、日達管長と阿部教学部長の二人はそれ以後も、ニセ戒壇正本堂の建設にかこつけて、宗門古来の伝統教義を完全に破壊してしまったのであります。

いわゆる「事の戒壇=富士山天母ヶ原の国立戒壇」を「事の戒壇=大石寺境内のニセ戒壇正本堂」とすりかえてしまったのであります。

阿部教学部長云く「天母山の問題がありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)等と、何とも締まらない話ですね。

日寛上人は「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し」(寿量品談義)と仰せになられ、何百年も前から彼等の垂れ流す邪義を前もって破折されているのであります。

まさしくこの頃の日達管長は、浅井昭衛氏に会えば宗門古来の正義を取り戻し、池田に会えば池田の邪義に同調して、進んで邪義を垂れ流すという、まさに風にそよぐ芦のようだったと揶揄されています。

亦あるときは国立戒壇を否定して、悪ガキの捨て台詞のような言辞を垂れ流しているのであります。

云く「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は、理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち常寂光・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。もし、現在この戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しいし、ただいつ来るか判らない未来の世界に耽っておるよりも、現実の世界に於いて我々は信心の誠を捧げていかなければならない」(大日蓮 昭和45年7月号)と。

上記のようなはしたない言葉を猊座にあったお方が発せられたとは、とうてい信じがたいのでありますが、拙者は、日達管長の大聖人様に仕え奉る信心を疑いたくなるのであります。それと合わせて当時、宗門には約一千名の坊主がいたにも拘わらず、日達管長のこうした妄論をたしなめなければならない坊主らは全員が口を閉ざし、一人として存在しなかったのは、これまた不思議であります。ついでにいえば、日達管長の教義歪曲と独走を許し、宗門の曲りを止められなかった全ての責任は、坊主一人ひとりが負わなければならないのでありあす。

日達管長のいう「現在この戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことでけになってしまう」あるいは「何も本山まで尊い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうしても三大秘法抄のあの立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にも来なければよろしい。それまで成仏しなければ宜しい」とは、いったい誰に向かって、こうしたはしたない下卑た言葉を発しているのでしょうか!

日達管長は、御本仏大聖人様が三大秘法抄で仰せの「事の戒壇」が単なる「理論上のこと・・・・」等という浅ましい発言をしています。これを黙って聞き流すことができますか! これこそが嗤うべき没論理であり、詭弁、妄論の最たるものであります。また妙信講はこの時期、国立戒壇を捨てないという理由で、五年間に亘り神聖なご登山が禁止されていたのであります。

謗法与同が極に達した日達管長は、年来の心臓病の悪化が高じて、この年の春頃から近くのフジヤマ病院に入院して治療に専念していたところ、昭和54年7月22日の未明、仏罰の故か、誰もいないところで激烈な発作に見舞われ、七転八倒の苦しみの中に多臓器不全を併発し、あっけなく黄泉の国に旅立ってしまったのでありますが、拙者は信徒のはしくれとして、日達管長の余りにも厳しい臨終の最期に、同情の念を禁じ得ないのであります。願わくば、臨終に至る前に、些かなりとも富士門流の正義を取り戻されて、善き臨終を遂げていただきたかったと思っています。

坊主はつづけて、P.23に次のような誹謗をつづけています。「しかも、厚顔無恥といおうか、日蓮正宗から破門されていながら、なお、日蓮正宗を詐称し、勝手に顕正会などと名乗っている。(※平成八年以降は宗教法人を取得し「冨士大石寺顕正会」と自称している)ため、構成員のほとんど大半は、この一派がすでに即身成仏の血脈の断絶した、異流義の門外漢と成りはてていることに全く気付いていない。これを、このまま放置すれば、彼らのみならず多くの人達が成仏への道に迷う結果となるは自明である。そこで、これまで浅井一派が当方との誌上法論を逃げている経緯(『暁鐘』昭和五十九年一月号にに詳しい)や、浅井と息子の克衛が苦し紛れの讒言を吹聴している現状(顕正会機関誌「顕正新聞」昭和六十三年九月二十五日号に代表される)を鑑みて、この際、彼らの妄説の根源を一気に摧破すべく、小稿を起こすことにした。なお、この内容の大半は、別段、目新しいものではない。すでに何年も前に『暁鐘』誌上に掲載せる小論等を、何も知らぬ浅井一派の末端会員に、一篇に集め、加筆し、まとめ直したものである。について

話は前後しますが、当時の妙信講は、広宣流布の暁の「国立戒壇」が、大聖人様の終窮究竟の御本願であることを誰よりも固く信じ奉り、御遺命守護に命を懸けて闘う、富士門流唯一の正しい講中だったのでありますが、ニセ戒壇正本堂も完成し、宗門の邪義が一山を覆い尽くす中で、一人妙信講の存在は、目の上のたんこぶのような邪魔な存在になってきたのであります。そうしたところ宗門は池田の意を受けて、妙信講に何かにつけて陰に陽に様々な嫌がらせや妨害の限りを尽くし、昭和49年8月12日、遂に、講中解散処分を内容証明郵便で通告してきたのであります。

解散宣告書には次のように記されていました。

宣告書 講頭 浅井甚兵衛

「主文、講中解散に処する。右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付「訓諭」に対して異議を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などをおこなった。これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許しがたいものである。従って、七月三十一日をもって弁疏の提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする理由は見当たらず、また情状酌量の余地も全くないものである。よって、宗規第百六十四条(旧第百六十一条ノ三)の二号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。」 昭和四十九年八月十二日   日蓮正宗管長 細井 日達

それでは此処で、昭和四十七年四月二十八日に発布された彼の有名な訓諭をお改めて拝見することにします。

云く「さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起こせる正本堂はここに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。日達、この時に当たって正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。然れども八百万信徒の護借建立は、未来において更に交布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期されんことを」と。

ここで日達管長猊下の発せられた訓諭に些かもケチを付けるつもりは毛頭ありませんが、それにしても池田大作に対するリップサービスとは言え、酷い訓諭を垂れたものです。大聖人様が一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄で仰せられる事の戒壇について「三大秘法抄の意義含む現時おける事の戒壇」とか「未来において更に交布への展開を促進」等とされていますが「事の戒壇」に「現時」あるいは「未来・・・」とかの区別がある筈はないのであって、何とも掴み所のない矛盾だらけの訓諭を垂れていますが、どこを探せばニセ戒壇正本堂が、三大秘法抄の意義を含んだ建物だというのでしょうか、広宣流布の暁の本門事の戒壇とは、そんないい加減な曖昧なものではありません。更には「未だ謗法の徒多きが故に」または「八百万信徒の護借建立」などといった行を一瞥すれば、未だ広宣流布は達成していないことを自ら認めたことになっています。

それに恥も外聞もなく「宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」等と豪語したものの、ニセ戒壇正本堂は、建築からわずか二十六年にして、跡形もなく解体撤去を余儀なくされているのであります。此処で云う後代の誠証とは、後代の誠の証明という意味になりますが、よくぞこんなデタラメな訓諭を発する事ができたものよと思うばかりであります。皮肉にも、鳴りもの入りで建てた正本堂なる建物は、ニセ戒壇であることを、後代の誠証とする羽目になってしまいました。

それはそれとして摧破異流儀考には「七月三十一日をもって弁疏提出を求めたところ、八月七日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする理由は見当たらず、また情状酌量の余地も全くないものである」等としていますが、ここで再び浅井会長の反論を見ることにします。

云く「文書配布におよんだことは処分に該当するゆえ、弁疏を提出せよとの通告が来た。『弁疏』とは〝云い分け〟である。御遺命を守護する者が、御遺命を破壊する者に云いわけをする必要がどこにあろう。ゆえに私は『弁疏』のかわりに、宗務当局の無道心を強く責め懺悔訂正を迫る書状送った。これで処分は当然と思っていたところ、この書状を見た早瀬総監・阿部教学部長は細井管長に辞表を提出し、いずくかに姿を消してしまった。御本仏の御遺命に背くことの恐ろしさを、肌身に感じたのであろう」(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)と。

つづけて「辞表を提出して姿をくらました二人は、密かに有馬温泉に逃げこんで身を隠し、ほとぼりの冷める二週間の間、毎日お湯に浸かって酒を飲み、温泉旅行を楽しんでいたとの事でありますが、二週間もの間毎日お温泉に浸かって酒を楽しんでいれば、坊主頭の彼等は、茹でダコそっくりになっていたものだろう。」と会場を笑わせていました。

解散宣告書を受け取った直後の8月20日、ただならぬ緊張感の中で、妙信講は豊島公会堂において急遽臨時幹部会を開催し、浅井昭衛本部長は次のような、歴史的宣言をしています。

云く「妙信講は断じて解散せず」と。

「今晩は、ついに大きな山場を迎えました。五月の第十六回総会で御遺命守護を誓い『徹底してその悪を断ち、国立戒壇を宗門の公論とする』と決意して以来、この事あるをすでに覚悟しておりました。いやこのような事態が出て来なければ妙信講の御奉公は本物ではないとすら思っておりました。『徹底して悪を断つ』には、悪をおもてに出さなければなりません。いよいよそれが出てきたのであります。思えば、講中解散ということは、妙信講にとって死罪を意味する。およそ宗門七百年の歴史において、大聖人の御遺命を正しく守って解散させられた講中がどこにありましょうか。

御遺命を曲げ、キリスト教の神父を正本堂に招いた者はほめられ、条理を尽くし身命も財も抛って法を守る者は死罪に処せられる。まさしく『末法濁悪の未来』との仰せが、まず正系門家の中に現われてきた、いよいよ広宣流布・国立戒壇建立の日近い前兆であります。へらぬ口のようでありますが、御遺命たる国立戒壇の正義を守って死罪に処せられるなら、これに勝る喜びはないと私は思っております。

だが、妙信講は今の腐った宗務院につくってもらったのではない。昭和三十二年八月三日、先代御法主・日淳上人の命により出発した講中であります。日淳上人は『法華講とは墓檀家のことではない、熱原の伝統を継ぐものである。妙信講は闘う法華講となって御奉公せよ』と講頭先生はじめ数名の幹部を本山に招かれ異例の認証式を行ない、自ら辞令をくだされたのであります。

日淳上人は宗門の将来を憂えておられた。果たして将来、学会の横暴を押さえられるか、今日の宗門になることを深く憂えておられた。妙信講は宗門のかかる時に身命を賭して御奉公すべく、日淳上人によってつくって頂いた講中でありますれば、このように腐った宗務院の命令においては、妙信講は断じて解散いたしません。」(大拍手)と。

浅井本部長はこのようにして、当時、一万二千の妙信講員との間で、固い固い約束を取り交わしているのであります。

ところが坊主が指摘するとおり、浅井昭衛氏は昭和57年10月9日、講員との固い約束を一方的に破棄し、突如として妙信講を「日蓮正宗顕正会」と教団名を改め、外へ飛び出してしまったのであります。日淳上人から信徒団体として講の認証式まで開いて戴き、「熱原の法華講の命を継ぐ闘う法華講となって御奉公せよ。」との懇請にも似た激励のお言葉を賜わりながら、その名誉ある地位と、尊い名称をドブに捨てて、事実上妙信講は解散し、僧侶の存在しない新興の在家教団として再出発したのでありますが、浅井本部長の最大の誤りは此処にあったのであります。

浅井本部長は臨時幹部会の席で「妙信講は断じて解散いたしません」と宣言して、一万二千の講員との間で交わした固い約束は完全に破られ、見事に反故にされたのであります。そればかりか、平成8年1月25日には新しい宗教法人資格を取得し、総幹部会の席上、今度はまたまた「冨士大石寺顕正会」と再び名称を改めたことを発表して今日に至っているのでありますが、ほとんどの顕正会員は、内の妙信講員の立場と、外の顕正会員の立場の違いがまるで理解できていないのであります。

現在の顕正会員は、妙信講の延長線上にある存在などと確信し、疑念を持っている者は一人もいないようであります。それは、浅井昭衛氏自身が本気でそう思っているのかも知れませんが、それこそが大きな間違いなのであります。その立場の違いを分かり易く説明するならば、妙信講は宗門の中で名誉ある存在として、日蓮正宗の中の大法華講として、堂々と信心活動ができたのであります。しかし、別法人を作って外の顕正会員となってしまった以上、彼等はその瞬間から日蓮正宗の信徒資格を失い、法華講員ではなくなっているのであります。要するに日蓮正宗とは完全に袂を分かちた、別の宗教法人に所属する顕正会員となってしまったという事であります。

これは僧侶の居ない別の宗教法人組織に所属することになった者が、別の宗教法人の御本尊を拝み、別法人の教義を真似て、自分達の方が本流だと騒いでいる構図なのです。

思い起こせば、ここに至るまでの妙信講の激闘の歴史を振り返れば、宗門内では、次のような事が囁かれ、宗内を二分するような動きさえあったのであります。それは、僧侶の中でも〝妙信講の言っている事が正しい〟と言いだす御僧侶が続々と出てきたのであります。

上記に見るように、ニセ戒壇正本堂以来、日達管長・阿部教学部長らの数人を除いて、妙信講と宗門僧侶との関係は、決定的な亀裂はなく、むしろ多くの僧侶が妙信仰の主張を高く評価し、陰ながら妙信講に親しみを持って声援を送り、影で応援していた僧侶も数多くいたのであります。

その動きを敏感に感じ取った日達管長は、全僧侶を集めて「僧侶の中で未だ『妙信講のほうが正しい』などと云って、若い者を指導している者があるのは、まことに残念だ。」(大日蓮 昭和51年7月号)などと、日達管長猊下を嘆かせているのであります。

つづけて「今の若い人達の中には妙信講の宣伝に染まった人もあると聞いております。また『国立戒壇が正しいのであって、宗門が間違ったんだ』というようなことを云ったというひとのことも聞いております。(そのうような人は)どんどんやめて頂いて妙信講へ行って結構です。妙信講でも僧侶が少ないから募集しているでしょう」(大白法 昭和54年6月16日号)と。

それはそれとして教団名を二度も変えて、冨士大石寺顕正会なる宗教法人を設立して会長職に治まった浅井氏は、会員の志気を鼓舞する時の常套句として「広宣流布の暁には、天生ヶ原までの四キロの道のりを顕正会全員で涙の行進をしたい」あるいは「広宣流布が成就するの日、全顕正会員は富士大石寺に詣で、全員で、光り輝く御生骨を紅涙の中に拝見させて頂こうではありませんか」(平成28年4月25日顕正新聞)などと叫んでおられますが、果たしてそんな事が可能なのでしょうか? 浅井会長はなにか、大きな勘違いをなされているのではないでしょうか。

そもそも日蓮正宗の信徒でなくなった他門流の者が、御生骨を拝観したり、大石寺に詣でることが可能なのか、浅井会長は何か、悪い夢でも見ているのではないでしょうか。浅井会長がさまざまな希望を織り交ぜて、会員の夢を膨らませている姿は分からないでもありませんが、それは日蓮正宗の信徒でなければ、絶対に実現不可能な事柄なのです。

いま宗門は、顕正会のことを指して二言目には「富士大石寺を詐称するサル真似集団」などと揶揄し「国立戒壇しか能がない」などと悪口中傷しているのであります。一方顕正会のほうは宗門を目の敵にして、故日達管長ならびに前日顕管長二人の大謗法をやり玉に挙げ、非難中傷合戦を繰り広げ、双方の争いがいつ収束するとも分からない常態の中では、如何なる願望や夢を語っても、実現性のないはかない夢物語で終わることを知るべきであります。

富士門流の古の言い伝えとして広宣流布の暁には、日本国の皇室に、御開山日興上人の後身が、本化聖天子として御出現されて勅宣を発せられて国立戒壇が建立され、宗門には第三祖日目上人が、一閻浮堤の御座主として再誕せられて世界の安寧を御祈願なされると聞きおよんでおりますが、顕正会はその時、如何に対応するつもりなのでしょうか、尊貴なお二方とも依然として反目を繰り広げるつもりなのでしょうか?

いま顕正会は、会員数二百万人は目前、カウントダウンに入ったなどとして、会員獲得に気勢を上げて全国規模で会館を建て、日布上人のお筆による紙副の御本尊を大量に複写し、国立戒壇を目指して日夜奮闘しているようですが、あれ以来、僧侶は一人も存在しない歪な在家集団となってしまいました。未だに僧侶の一人も折伏できない顕正会が広宣流布を語るなんて、ちゃんちゃら可笑しいですね。

内にあった妙信講が日淳上人の涙の出るようなお慈悲とご恩を仇で返したうえ、上人の御顔に泥を塗って、勝手に外へ飛び出した顕正会が三大秘法の広宣流布を成し遂げる。果たしてそうした前代未聞の壮大な大事業が、顕正会の手によって実現するのでしょうか、そんな大それた事は絶対にあり得ないのであります。

大聖人様は人の道として決して踏み外してはならない孝養とご報恩について、開目抄に次のように御教示であります。

「孝と申すは高なり、天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり、地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり、何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや、仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」と。

過ぎ去った過去を回想しても何も始まりませんが、妙信講は絶対に解散してはならなかったのであります。仮に、将来的に妙信講の存続に税制上において不都合が生ずるならば、法人格を取得方法もあったかも知れません。それはそれとして、妙信講は妙信講のまま、内に有っては争氏として僧侶と学会員を折伏し、御本仏大聖人様の御本願たる国立戒壇に賛同する御僧侶に対しては、寺院を建てて御供養に励み、真の僧俗一致を貫けば良かったのであります。

かつての創価学会は戸田城聖氏が昭和20年7月、敗戦と同時に豊玉刑務所から出獄すると、早々と創価学会の再建に着手され、戸田氏が逝去する昭和33年4月2日までのわずか13年足らずの短い期間に、何もないところから75万世帯の大折伏を成し遂げ、その後を継いだ池田大作氏は、昭和35年5月~昭和45年5月迄、国立戒壇を捨てるまでの10年間に実に700万世帯、戸田氏の折伏数と合わせて約800万世帯の大折伏を敢行しているのでありますが、戸田氏にしても、池田氏にしても、いずれも国立戒壇を前面に掲げての折伏戦だったのであります。

仮に、妙信講が内に有って国立戒壇の旗を高く掲げて折伏戦を展開していたなら、今頃200万人まで手が届くようになったとか、200万のカウントダウンが始まったなんて、そんなケチな話はあり得ない話であります。妙信講の再建は昭和32年8月だった筈です。それから換算すれば、すでに半世紀の50年以上を経過していることからすれば、3,000万人~5,000万人の折伏ができた筈であります。そればかりか、とっくの昔に国立戒壇が宗門の公論となって、僧俗一致の麗しい広宣流布の体制が整っていたことは間違いないでしょう。

また妙信講が内に有って、国立戒壇の旗を高らかに掲げて御遺命守護に闘っていたなら、今日のような「富士大石寺を詐称するサル真似集団」などといった、恥ずかしい嘲りや非難が巻き起こることは決してなかった筈であります。

それに顕正会の浅井会長は、宗開両祖と日目上人、あるいは日寛上人等の上代の高僧を除いて、現代の僧侶を端から軽賎しています。あわせて昨日まで浸食を擲って闘ってきた同志の首を簡単に切りまくる。こうした傲慢な性格は性癖の故か、如何ともしがたいものがあります。浅井会長は何を考えているのか分かりませんが、ある日突然支部長全員の首を切り、四者別の理想的な支部制を廃止すると同時に、壮年部を廃止してしまいました。

ご覧のように顕正会には、組織を支える重鎮となるべき壮年部員が何処にも存在しない組織になってしまいました。こんな異様な組織編成では社会の信頼を得られる筈はありせん。働き盛りの壮年と頭の禿げた年老いた老人が、私は顕正会の男子部員でございますだなんて、とても恥ずかしくて誰にも言える話ではありません。どこから見てもバカげています。

前人未到の広宣流布という大事業をお達成する為には、老・壮・青の特性を活かした壮年・婦人・男子・女子といった四者別の組織編成、つまり地域名を冠した支部組織こそが必要なのであります。妙信講当時の支部組織の編成は、四者が支部長を中心に地域ごとに新宿支部、早稲田支部、池袋支部、群馬支部、広島支部、高知支部といった支部が編成されていたのであります。ところが今日の顕正会の組織編成は、婦人部、男子部、女子部の三者体制に改編されて壮年部は無くしてしまいました。それ以後の婦人部を含むすべての組織を見わたせば、専ら数字を用いた組織体制になっています。例えば、第18婦人部加茂宮支区、あるいは、27男子部、第118隊、第42女子部、第106区といったぐあいに、まるでどこかの国の軍事組織を連想させられるような組織編成で、親しみも共感も覚えませんね。

ついでに顕正会の怠慢と誤りを一つ付け加えれば、ここ20年以上にわたり、御書講義と称するものは完全に無くなってしまいました。大聖人様は諸法実相抄に次のように御教示であります。

「行学の二道を励み候べし、行学絶えなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」との仰せを破り捨ててしまいました。

そんな事から御書を学ばなくなった今日の顕正会の教学試験といえば、御書から出題される論文記述方式による二級昇格試験は完全に取りやめてしまいました。それに三級、四級、五級、あるいは登用試験はすべて、浅井会長の執筆による「折伏理論解説書」とか、基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」から出題された問題に限定され、それも簡単な穴埋め方式に改変されてしてしまいましたが、これは愚民化政治への転換を計る意味と、血縁のない後継者たちの台頭を完全に遮断する効果を狙ったものだったのです。

そのため、浅井会長だけが雲の上の存在となって、あとは野となれ山となれ、とでもお考えなのでしょうね。浅井会長亡き後は烏合の衆のたとえのごとく、なかば教学を放棄してしまった顕正会は、国内に蔓延する人々を不幸のどん底に陥れる邪教の存在は本より、世の悪思想に対しては、手も足も出なくなってしまうでしょう。まことに由々しき問題を抱え込むことになってしまいました。

ただ惜しむらくは、浅井会長が顕正会で立正安国論の講義録をはじめ、観心本尊抄略拝、開目抄講義録、撰時抄講義録、三大秘法抄講義録、折伏理論解説書、日蓮大聖人の仏法等々、数々の重要御書の講義録を発刊されておられますが、いずれの講義録も御本仏大聖人様の御心に適ったものばかりで、他の追随を許さない見事な講義録であります。それを考えれば、妙信講が宗門の中に有って、浅井昭衛氏が妙信講の講頭としてこれ等の講義録を出版されたとしたら、どんなに素晴らしい結果が齎されたでしょうか! 今日のような腐り切った宗門は絶対に存在しなかったに違いありません。

更に言えば、いま顕正会は基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」と題した書籍の広告文を大量に配布して全国規模で折伏戦を展開されていますが、その広告文には日本国民の開目のメスとして、①人生の目的、②立正安国論の予言的中、③国家権力も御頸切れず、とした、誰人も否定しえない問題を簡潔に小論に纏めた文章で構成されています。浅井会長はこの広告文を指して「大聖人様がこれからの広宣流布への闘いの道標(みちしるべ)を示してくださった」と叫ばれておられますが、こうした闘いこそ宗門の中で果敢に起こし、基礎教学書「日蓮大聖人の仏法」を発行して、妙信講が大聖人様の仏法の正当性を叫べばよかったのであります。

それが宗門と袂を分ち、宗門とは犬猿の仲になって、冨士大石寺顕正会の名前を以って広告文を大量配布し、「日蓮大聖人の仏法」と題した書籍を発刊したとしても、効果は期待薄で浅井会長が叫ぶ「大聖人様がこれからの広宣流布への闘いの道標を示してくださった」などという尤もらしい活動指針も、本を売らんがための仏法利用ではないかと勘繰りたくもなるのであります。

斯く考えれば、浅井会長の甘言に乗せられて顕正会員がこの広告文を大量配布する活動も、広宣流布に名を借りて本を売らんが為の営業活動に駆り立てられているように映る風景は、下衆の勘繰りとでもいうのでしょうか、これは言い過ぎだと分かってはいるつもりでありますが、妙信講が宗門と決別したことは、如何なる事情があるにせよ絶対に避けなければならない問題だったのであります。

浅井昭衛氏が妙信講を捨てた動機は計りかねますが、恩徳ある日淳上人の御顔に泥を塗り、哀願にも似た懇請を平然と捨てて宗門から飛び出し、妙信講と決別した所業は、取り返しのつかない言行不一致な愚行と非難されても致し方ありません。

返す返すも大変な間違いを犯してしまったとしか言いようがありません。



コメント (4)

国立戒壇を屁で笑い大坊棟札は贋作などと騒ぐ禿人たち

2018年02月22日 12時51分12秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.42~45)に「大坊棟札の裏書きについて」と題して、禿人たちは次の如く記しています。

云く「なお、また浅井らが、天母山戒壇説を宗開両祖以来の正義なりとする根拠として、金科玉条のごとく尊ぶ、『日興上人お筆の大石寺大坊棟札裏書き』であるが、棟札というからには大石寺上棟の時に入れる筈なのに、裏書きの日付は、大石寺が完成した正応三年十月十三日より半年も後の正応四年三月十二日となっており、文字の特徴も徳川時代のもの、内容的にも疑義が多い。そして、何よりきわめつけは、日興上人の御名の文字が、日興と書かれるべきところ、日〇と間違えているのである。日興上人の御筆であるならば、どうしてこのようなことがありえようか。

また、本来末尾には筆者の自署・花押が記されている筈なのに、『日興日目』という不自然な記名のみあって花押がどこにもない。これも日興上人の御筆ではない証拠である。姑息にも、浅井は、この件を当方から突かれることを察知して、六十五世日淳上人がこの裏書きの一部、『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し』箇所を引用せられていることを挙げ、『この裏書きを後世の偽作というのは日達上人の大嘘だ』などと強弁しているが、日淳上人は元朝勤行のいわれを述べられる中で、この裏書きのうちの、本宗教義と合致する箇所を引かれただけであって、もとより、裏書きの真偽を論ぜられたわけではない。このような、全く論証性に欠けた反論は、単なる子供騙しであって、恥の上塗りと知るべきであろう。

また、裏書きに対する疑義は、日達上人が初めて示されたのではない。本宗の碩学・五十九世日亨上人も、すでに、『この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りに似せるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし』と仰せられ、この棟札と称するものは、表が模刻された略式本尊で、棟札としての意義を具足しておらず、裏書きの文は徳川時代の御家流の文字で、全く信用するに足らず、だだ全体の形ばかりが棟札らしく似せてあるだけの代物、と断ぜられている。

浅井昭衛は、こうした日淳上人御教示を知っていながら、なお自らの己儀を通すために、あろうことか、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、日達上人を大嘘つきであるこにしてしまったのである。こんな不正直の代名詞のような悪人が、もとより難信難解・甚深甚深の正法を、正しく信解できよう筈がない。

堤婆達多は、六万蔵を暗記しながらも、正直な信なき故に無間に堕ちたが、丸暗記だけが得意で、不正直を絵に描いたような浅井昭衛も、この堤婆の先例を『敢えて人の上と思し食すべからず』(御書877㌻である。)」などと、口をへの字に曲げて悪態をついています。

いま禿人(とくにん)たちが主張する大坊棟札に対する大げさな決めつけは、問題の本質を論ずることなく、単なる状況証拠と思しき現状をつなぎ合わせて大坊棟札の真贋について、ああでもない、こうでもないと騒ぎ立て、浅井氏を非難中傷しているのでありますが、禿人たちが主張していますように大坊が建立された時期は、御開山日興上人が御存生の時の正応三年十月に建立された建物であるならば、その大坊の屋根裏に取り付けられた棟札は、大坊を立て替えする時に出てきた棟札である筈であります。だとするならば、たとえ、棟札に刻まれた建立時期のずれ、花押の有無、あるいは書体の真贋などは、いまさら問題にすべき事柄ではありません。

それを禿人たちは鬼の首を取ったような大騒ぎをして「大坊棟札に刻まれた年代がおかしい」「文字が徳川時代の御家流の書体に似ている」あるいは「日興上人の花押が無いうえに日興ではなく、日〇と記されているのは贋作の証拠だ」などと取るに足らない問題を取り立てて、浅井氏を非難中傷しているのでありますが、それは単なる彫刻師の誤りか、あるいは当時は、花押などを抜いたその種の棟札も一般的に存在したかも知れないのであります。それを禿人たちは実にくだらないどうでもいいような問題を取り上げて、大げさに騒ぎ立てる態度こそ木を見て森を見ない典型であります。

それよりも何よりも、御本仏大聖人様の「御本願は那辺にあるのか」「一期の御遺命とは何か」といった問題を探求し、命かけて大聖人様の御本願と御遺命を死守する事こそ最も大切な事柄なのであります。それをないがしろにするばかりか、今の坊さんたちは一番大切な「御本仏の一期の御遺命」たる広宣流布の暁の「国立戒壇」を鼻紙のようにゴミ箱に捨て去るという、最大の悪事を犯しつづけたまま未だ反省するどころか、目を剥いて国立戒壇に反対し、口角泡を飛ばして御本仏の御本願に背逆して大謗法を犯しつづけて緊張感のないだらけた狂態をさらしていますが、こうした崩れた生活態度こそが天下に様々な災いをもたらす事になのであります。御本仏大聖人様の嫡流を誇っていた富士門流の僧侶たる者が、いま、禿人と呼ばれる所以が其処に存するのであります。

禿人とは、Wikipediaによれば、「頭髪を剃って外見だけ出家者のすがたをしているが戒を破り教えを守らない者、もしくは生活のためだけに僧となった者を罵る語。「如是之人名禿人」とあり、破戒・謗法を行う者、あるいは飢餓で困り食事のみを求めて髪の毛を剃って出家しただけの者を指す」等と記していますが、門外漢ながら驚くほど見事な指摘をしております。

それはしばらく置くとして、近年我が国の世情に目を転ずれば、政治は腐敗して国民を騙すことに重きをおき、官僚は政権に跪いて国民に嘘をつくという。まるで人心は禽獣にも劣り、国土は悪鬼乱入によって、年々歳々繰り返される自然災害の増大と凶悪罪の頻発を見れば、世は正に末世のごとき様相を呈しています。最近の異常気象による災害は、数多くの命と住居と家族を奪い、郷土は跡形もなく破壊され、不幸に泣く人々は後を絶ちません。加えて多くの悪人たちが暗躍して種々の凶悪犯罪に手を染め、無辜の人々が様々な犯罪に巻き込まれて尊い命を奪われるという、殺人事件の起こらない日はないほど異常な状況に晒されています。

こうしたなかで大聖人様が立正安国論で仰せの警告に従って、大聖人様御在世当時の世相と今日の世情を比較・概観すれば、安国論御勧由来には「正嘉元年八月二十三日の戌亥の時前代に超えたる大地震、同二年八月一日大風、同三年大飢饉、正元元年大疫病、同二年四季に亘って大疫病已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き、内外典に仰せつけて種々の御祈祷有り、爾りと雖も一分の験も無く、還って飢疫等を増長す」等と仰せられ、まったく手の付けられないような惨状をそのまま描写せられておられます。大聖人様はこれらの惨状を御覧になられて立正安国論を以て、時の国主・北条時頼を諫暁遊ばされ、正法治国・邪法乱国の根本原因を明快に明かされた後、安国を得る方法は、速やかに念仏、真言、禅、律等の邪教に対する施を止め、正法たる三大秘法を立てて、国を安んずる事を勧奨遊ばされているのであります。

その立正安国論の冒頭には「近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に允てり、死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢えて一人も無し」と当時の惨状を指摘され、つづけて「顧れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連る、三宝世に在し百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰え其の法何ぞ廃れる、是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや」と、大聖人様は旅客の言葉を以て問を起こされ、答として「些か経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てて相去り聖人所を辞して還らず、是を以て魔来り鬼来り、災起り難起る」と、災難や不幸の起こる根本原因は、世の中に間違った邪義・邪宗が蔓延しているにも拘らず、万民がそれらを尊崇している実態を挙げられ、これらの謗法を止めなければ、後に自界叛逆・他国侵逼の二難が必ず起こることを、問答形式を以て時の国主を諫暁せられたのであります。

此処で云う「天変地夭」とは、天体と地上の異変、すなわち地震、火山の噴火、疫病の流行等を指し、「二離璧を合せ五緯珠を連る」とは、太陽と月は平常に輝き、火星、水星、木星、金星、土星などの五星も泰平の相を示して運行していること。また、仏・法・僧の三宝も世にましまし、八幡大菩薩も釈尊に百王まで守護する請願を立てているが、未だ百王に至っていないにも拘らず、此の世は早くも衰えてしまった。これはいったい如何なる法が廃れたために、こうした禍が毎年繰り返されるのであろうか、との旅客の問に対し、大聖人様は金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の経文を引かれて、災難興起の由来と根本原因を経証を以って詳しく御教示遊ばされておられます。

また安国論には「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」仰せられています。此処で云う「謗法の人を禁める」とは、前文に挙げた念仏、真言、禅、律等の爾前権経を拠りどころにして、飯を食らっている坊主に対する布施を止めることを示し、それに対して「正道の侶」とは、末法只一人の御本仏日蓮大聖人様の御事を指すのであります。ただ総じては、三大秘法を正しく広める日蓮正宗の御僧侶を含めて正道の侶と云いたいところでありますが、いま、その者たちが富士門流七百年来の伝統教義を歪曲するという重大な過ちを犯しているところに、今日の大きな問題が潜んでいるのであります。

話は変わりますが、かつて日蓮正宗最大の信徒団体であった創価学会は、戸田城聖氏が逝去して間もなく、昭和三十三年の初頭から政治進出を本格化させていました。その根本目的は、広宣流布を早めるために多くの同志を国会に送り、国立戒壇の建立を実現することだけが当初の目的だったのであります。それゆえ戸田氏の亡き後、池田大作は次のような講演を繰り返し、創価学会の選挙について次のように会員に語りかけていました。

云く「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのであります」(大白蓮華 昭和34年6月号)と。

つづけて「所詮、王仏冥合の実践の関所ともいうべき選挙戦は、日蓮大聖人の至上命令である。だれが、なんと批判しようが、末法の救世主日蓮大聖人の大精神おば、われわれ地涌の菩薩は、断固、選挙を通して正義を貫き通そうではないか」(大白蓮華 昭和36年6月号)と。

さらには「私どもの選挙戦は、他の政権欲を考えておる政治、選挙と違います。第一番目に、日蓮大聖人の御遺命である王仏冥合をめざしての、世界最高の崇高なる選挙戦であり、政治であります」(聖教新聞 昭和38年4月4日)等と声を大にして叫んでいました。

つまるところ創価学会の選挙戦は、日蓮大聖人様の御遺命たる国立戒壇を達成するための選挙ということで学会員は使命感に燃え、選挙戦を闘うことは折伏の功徳とまったく同じ功徳があり、自らの宿命転換につながる仏道修行と指導されていたのです。そのため、多くの婦人は家事を投げ出して選挙運動に没頭し、あるいは幼児を抱えた婦人は高熱の乳飲み子を背中に背負って投票依頼に明け暮れる。また勤め人は投票日に合わせて有給休暇を取り、そうした制度のない職場に勤務する者たちは、上役や同僚の目を気にしながら欠勤や早退するなどして選挙運動に多くの時間を割いたのです。それに自営業者は開店休業も同様に、商売そっちのけで選挙運動に奔走して票の獲得をするといった、創価学会の選挙はそれこそ、自分たちの宿命転換を図る絶好のチャンスと捉えて選挙戦に臨んだのであります。

とにかく学会の選挙戦は日頃の折伏活動と相まって、激増する学会員の爆発的な信仰のエネルギーを選挙戦に駆り立てることに成功した池田は得意満面となって鼻高々だったのです。ところが、国立戒壇を掲げて選挙戦を闘って見ると、一般の多くの有権者は創価学会をきらって、学会員以外の投票は殆ど見込めないという、当初の予想とは打って変わって、世の識者や世間の猛反対に会う事となり、国立戒壇を前面に掲げての選挙戦は、甚だ不利だということが解ってくると、あれほど熱心に叫んでいた国立戒壇を池田はあっさり捨ててしまいました。こうした苦い選挙戦を契機に、手段と目的が完全に入れ替わってしまったのであります。

要するに池田大作の政治志向は政治権力を奪取することが主目的となり、国立戒壇は反って邪魔な存在となってきたのです。それ故に、時の経過と共に池田の信仰心は上辺だけのものとなり、囲繞する学会員から寄せられる敬愛は、己自身にそなわる本然的な人徳と思い込むといった高上がりを起こして次第に歪んだものになっていきました。そうして池田は宗門から国立戒壇を捨てさせるために、昭和39年5月3日の創価学会の本部総会に於いて、国立戒壇に代わる堂宇として、正本堂の建立について初めて言及し、宗門をはじめ学会員を驚かせています。

云く「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。・・・正本堂の建立は事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」(聖教新聞 昭和39年5月5日)と。

日達管長はその話を承けて「今回、池田会長の意思により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」等と謝礼を述べた後、昭和40年9月に発布された正本堂の供養勧募に係る訓諭では「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限りを尽くして供養し奉り、信心の一端を抽んでられん事を望む」とした訓諭が発せられました。その訓諭を目の当たりにした学会員は、一眼の亀が浮木に会うような、今生人界の思い出として捉え、死力を尽くして正本堂建立の御供養に進んで参加したのであります。

それから数ヶ月後に開かれた第一回目の正本堂建設委員会が品川の妙光寺で開催された際、池田は正本堂の寄進者である自分の席が日達上人より、一段下座に用意されていたことから腹を立て、頭から湯気を立てて怒り出し、正本堂建設委員会の開催のための準備に当たった妙光寺の柿沼広澄住職を関係者の面前で声を荒げて面罵し、鶴の一声で委員会を流会させてしまったのです。わざわざ本山から日達上人が列席していたにも拘わらず無駄足を踏ませて帰してしまいました。後日、柿沼住職はその責任を取らされ、総監職を辞任せざるを得ない状況に追い込まれてしまったのです。

この頃から池田は本山に対する専横を益々強め、正本堂寄進の発言から一年も経たないうちに次のように豹変し、驚くべき発言をしています。池田は国立戒壇の衣を完全に脱ぎ捨て、建築中の正本堂を指して、此れが本門の戒壇に当たると言い出したのであります。

云く「正本堂の建立は、事実上の本門戒壇の建立を意味いたします。このことは日達上人のご説法によっても、明らかであります。戸田先生もわれわれも、いちじ、『国立戒壇』といってきました。しかし、どこを探しても、御書には『国立戒壇建立』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです。いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。ですから、皆さんは『創価学会は国立戒壇が目標である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。それが本門戒壇である。これでもう決定されているのですと。私ども創価学会員ならびに日蓮正宗信徒の真心の結集によって、本門の戒壇堂は、もうできてしまうのです。・・・国家予算によって、国立戒壇が建立されるということはありえないのです」(聖教新聞 昭和40年9月22日)と。

そうしたところ池田の発言にダメ押しをかけるように、日本共産党の谷口善太郎氏から、創価学会が主張していた国立戒壇について、船田衆議院議長に質問趣意書が提出されたのです。池田はこうした国会の動きに大いに驚き、昭和45年4月14日、宗務院の早瀬総監と阿部教学部長を学会本部に呼びつけ、次のような申し入れをしています。

池田「国立と云う追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人も現猊下も国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠の蒐集)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方が良いと思うがどうか? もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になっていまう」

早瀬「非常に重大な事である。充分猊下にお伝えし、申し上げる。その上で御返事する」

池田「非常に急ぐので早く願いたい。(中略)また何等かの方法で、この件につき宗門内の統一を願いたい。今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。(中略)猊下よりそう言うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい」等と。

早速本山は日達管長猊下出席の下に学会と緊急会議を開き、池田大作の要望を受け入れ、大聖人様窮竟の御本願たる国立戒壇を捨て去るという背反を平然とやってのけ、4月23日、次のような邪義に染められた報告書を国会に提出して国を欺いたのであります。

1.「本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

2.既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和47年10月12日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。

3.一時本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である」と。

そればかりか、池田の権勢欲と政治志向は宗門全体を巻き込んで、大聖人様の宗旨の根本たる、富士門流七百年来の教義逸脱と宗門に対する圧力と専横が一段と強められていくのであります。中でも三大秘法の最大事であるところの「国立戒壇」を捨てた後はそれに代わる建物として寄進した正本堂は昭和47年10月12日に完成しました。これには学会員から三百五十億円という巨額の資金を集めて宗門の境内の外れに正本堂なるニセ戒壇を建て、それを広宣流布の「事の戒壇」と偽ったのであります。

こうして国立戒壇の衣を脱ぎ捨てた池田と日達管長は、詭弁の上に詭弁を重ねるといった矛盾を繰り返しながら、富士門流七百年の伝統教義は破壊されていくのであります。

そして池田は創価学会の政界進出の目的について、世間のさまざまな批判を躱すために、ついに本音を吐露することになるのであります。

云く「創価学会の政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない。あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門、学会の事業とは無関係であることを確認しておきたい。我々は、此れまで公明党のために一生懸命応援し、守り育てて参りました。だが第三政党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒を見ないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判を受けるのも当然の理でありましょう。そこで、これは提案になりますが、創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原則を、更に貫いてもらいたいのであります。・・・党としては一切、宗教上の問題を政治の場で論議する必要はない。また、あってもならない。また、宗教上の目的を党の目標とする必要はないし、すべきでもない。あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守し、宗教的には中立を貫き、政教分離でいけばよいと思うのであります」(大白蓮華 昭和45年6月号)と。

この発言によって、国立戒壇は完全否定される事となるのでありますが、日達管長は池田の発言を裏書保証するように、次のごとく述べています。

云く「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一本尊此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどとは仰せられてはおりません。日本の国教でもない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には『国立戒壇』という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔になるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。創価学会においても、かつて『国立戒壇』という名称をつかったこともありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるがゆえに、その〝国立〟なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。今日、世間の人々が、〝国立〟という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、当たらないと思います」(大日蓮 昭和45年6月号)等と。

ここで池田の云う、政教分離の話は、まんざら分からないまでもありませんが、創価学会の選挙戦は広宣流布を早めるための選挙であり、大聖人様の御本願を達成するための選挙だった筈です。それ故に学会員は己の生活を犠牲にして公明党の票を獲得するために日夜奔走してきたのです。それが大衆福祉のための選挙戦だったと聞かされた時には、唖然として全身から力が抜けおちるような、失意のどん底に突き落とされてしまいました。考えてみれば八百万学会員は、池田と一握りの幹部の権力欲を満たすための道具として、ただ奉公させられたに過ぎなかったのであります。いわば創価学会の選挙は一方的に奉仕させられただけで、宿命転換につながる仏道修行などといって踊らされた挙句、見事に梯子を外されたのであります。

そうした間違いを厳しく指摘し、命がけで大聖人様の御本願と三大秘法の戒壇義をたった一人で守り抜いた勇気ある方こそ、妙信講の浅井昭衛氏だったのであります。残念ながらその時、宗内には正系門家としての教義逸脱の問題を指摘し、伝統教義の曲がりを掣肘し、身を捨てて大聖人様の御遺命を護る正僧と呼ばれる僧侶は、池田の威を恐れて只の一人もいなかったということであります。まさしく当時の宗門は全ての坊さんが日達管長・阿部教学部長の垂れ流す邪義に同調し、池田大作礼賛の空気一色に塗りつぶされていたのであります。したがってこの時期、へたに国立戒壇の「こ」の字を口に出そうものなら、国立戒壇に反対する坊さんたちからそれこそ、寄ってたかって袋叩きにされるような空気に支配されていたのであります。

そのような中でも妙信講の浅井昭衛本部長だけは、大聖人様の御本願はどこまでも、広宣流布の暁の国立戒壇であることを訴え、宗門と創価学会の誤りを追求し、一人正義を訴えていたところ、昭和49年8月12日、宗門は池田大作の意向を受けて、国立戒壇の旗を高々と掲げる妙信講を解散処分に付し、浅井甚兵衛講頭と浅井昭衛本部長を含む妙信講幹部十数名の信徒資格を剝奪し、除籍処分にしたまま今日に至っているのでありますが、それ以来今日に至るも、唯一富士門流を誇る日蓮正宗の中には、国立戒壇を叫ぶ僧侶や信徒は一人もいなくなるという、異常な事態がつづいているのであります。

そうしたところ禿人たちが今頃になって、摧破異流義考誌の中で「浅井昭衛は、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、日達上人を大嘘つきであるこにしてしまったのである。こんな不正直の代名詞のような悪人が、もとより難信難解・甚深甚深の正法を、正しく信解できよう筈がない。堤婆達多は、六万蔵を暗記しながらも、正直な信なき故に無間に堕ちたが、丸暗記だけが得意で、不正直を絵に描いたような浅井昭衛も、この堤婆の先例を敢えて人の上と思し食すべからず(御書877㌻である。)」などと、減らず口をたたいて悪態をついています。

禿人たちは三大秘法抄で仰せの戒壇義の歪曲という、極限の大謗法を未だに犯しつづけている大悪事を棚に上げて浅井氏を口汚くののしり悪口を書き連ねていますが、問題はそんな生易しい事柄ではありません。こうしたお門違いの卑劣な態度こそ「毛を吹いて傷を求め、皮を剪りて血を出す」のたとえの如く、些細な問題を針小棒大に取り上げて、平然と誹謗中傷する姿こそが問題なのであります。

ここで禿人たちが言う「浅井昭衛は、日達上人に法を付された日淳上人の御指南の一部を故意に悪用して、云々」と言っている御指南の一部とは、大坊棟札の中に刻まれた次の御文であります。

修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し」とある御文でありすが、此の御文こそ、大聖人様の御本願を一刻も早く達成し、何処までも広宣流布を成し遂げようとする御精神が溢れた名文句であります。故に日淳上人は大坊棟札を真正なものとして扱われ、次のように仰せられているのであります。

云く「この元朝勤行とても・・・・二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つべき可なり』とあるのが、それであります」と。

いずれに致しましても、大坊棟札は真正なものであり、富士門流伝わる大切な御宝物(ごほうもつ)として、末永く保管に努めるのが正宗僧侶の責務である筈であります。それを邪宗の坊主が騒ぐならいざ知らず、日蓮正宗の坊さんたちが贋作だ、偽物だ等と騒ぐ方が間違いであり異常なのであります。

此処で改めて三大秘法の説明をする事にします。つまり三大秘法とは「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」の三つをいうのでありますが、それを開けば、本門の本尊は「法の本尊」と「人の本尊」に分かれ、本門の題目は「信の題目」と「行の題目」に分けられ、戒壇は「義の戒壇」と「事の戒壇」に分かれ、これらを合わせて六大秘法といいます。さらにそれを開けば八万宝蔵になるといわれるものです。中でも「義の戒壇」とは、広宣流布するまでの間の戒壇の御本尊様の御座所を「義の戒壇」と称し、「事の戒壇」とは、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇のことであります。すなわち国立戒壇とは、天皇陛下の勅宣と日本国が国家意思の表明を闡明にして、事実の姿として国家で建てられる国立戒壇を「事の戒壇」とお呼びしてきたのであります。

その大事を日寛上人は「夫れ本門の戒壇に事有り義有り。所詮義の戒壇とは即ち是れ本尊所住の処・義戒壇に当たる故なり。例せば文句十に『仏其の中に住す即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏み給うべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ事の戒法と申すは是れなり』等云々、宗祖云く『此の砌に詣でん輩は無始の罪障忽ちに消滅して三業の悪転じて三徳を成ぜん』云々」(文底秘沈抄)と御教示せられています。

また第五十九世日亨上人は本門寺の戒壇=国立戒壇について「唯一の国立戒壇、すなわち本門寺の戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と仰せられています。

これを承けて第六十四世日曻上人は、昭和三十年に新築された奉安殿の落成式に於ける慶讃文に云く「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生の帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給はるところなり。上人心魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮堤の座主日目上人に付嘱してより、血脈の法主歴世奉戴し、或る時は校倉を、或る時は土蔵を宝蔵として奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れリ。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して建立する所の戒壇なり』と。之は是れ、宗祖の妙法蓮華経が一天四海に広宣流布の時こそ之の時なり。・・・血脈付法の法主を継げる日昇・・・『時を待つべきのみ、事の戒法とは之なり』金言を身に体して、必ず来たるべき国立戒壇の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖人の法魂、安穏に常住し給わんことを」と。

この凜乎たる叫びこそ御本仏大聖人様の窮竟の御本願を戴した姿勢であり、正宗信徒の心情を集約して顕わされた慶讃文であります。そうした深信に大聖人様はおこたえ下さり、御法魂ははじめて安穏に常住し給わることが適うのであります。斯くして富士大石寺の血脈付法の歴代上人は、大聖人様以来の伝統教義たる国立戒壇を一糸乱れず異口同音に叫び、今日まで固く伝持されてきたのであります。

それが今、日達管長の諂いによって、信徒団体の政治のために七百年来の宗旨が曲げられ「大聖人の仏法を日本の国教にするなどとは仰せられてはいない」「日本の国教でもない仏法に国立戒壇などということはありえない」「明治時代には国立戒壇という名称が一般的に理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎない」「今後、布教の邪魔になるため、本宗ではそういう名称を使用しない」とは、いったい何事ですか! 

先代の日淳上人は聊かも信徒団体や世間に諂うことなく「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決済裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮 昭和32年1月号)とさえ仰せられているのであります。

それが日達管長に至っては「明治時代には国立戒壇という名称が一般的に理解しやすかった」あるいは「今後、布教の邪魔になるため、本宗ではそういう名称を使用しない」とは呆れましたね。学会宗門は「国立戒壇」を捨てた途端に折伏は完全に行き詰ってしまったではありませんか! これこそが逆さまの論理だったのであります。日達管長の誤った指導方針によって、宗門は完全に目的を失ってしまったのです。その結果、こうした結末を迎えたのでありますが、日達管長は本当に取り返しのつかない罪を犯してしまいました。

大聖人様は安国論に「悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」と仰せられています。つづけて「若し執心翻らず亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」と仰せでありますように、日達管長は、大聖人様の窮竟の御本願であるところの国立戒壇を否定するという、これまでの大謗法が災いしたか、昭和54年7月22日の未明、激烈な心臓発作と腸不全に襲われ、入院中のフジヤマ病院であっけない御遷化を遂げられました。私は一信徒として甚深の弔意を表するととに、教義解釈において大きな誤りを犯され、それを懺悔訂正を為されぬままに、黄泉国へ旅立たれたことを深く悲しむものであります。
 
また日達管長の後を継いだと称する日顕管長は、昭和47年6月に「国立戒壇の誤りについて」と題する謗書と、昭和51年2月には「本門事の戒壇の本義」なる謗書を発刊し、国立戒壇を目の敵にしています。その後、院尊に就かれた後は「観心本尊抄講話」第一巻~第五巻。「妙法七字拝仰」上下二巻。「寿量品説法増補版」上下二巻。「三大秘法義」あるいは「百六箇種脱対見拝述記」等々の膨大な書籍を発刊していますが、この方は、肝心要の大聖人様の御本願であるところの「国立戒壇」については「反対してよかった」などと戯言を述べています。その者が、いくら膨大な御法門書を発刊したところで、果たして、どれほど大聖人様の御意に適った法門書なのか、大いに疑問の残る処であります。

それよりも何よりも、先に発刊した「国立戒壇の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」なる謗書は誤りだった事を公表とすることが先決であります。その後、自ら犯した大謗法の罪の懺悔滅罪を五体投地の思いで願うことから出発する以外にないと思われます。それなくして、先代の日達管長のように、犯した罪を懺悔せぬまま黄泉の国へ旅立つ事にでもなれば、万劫にわたって悔いを残すことになるのであります。

いま宗門も学会も一切の功徳を失い、一人の成仏も叶わない結果を生じさせた根本原因が、まさに、三大秘法義の歪曲、すなわち「国立戒壇」の永久放棄という咎にあることを深く思うべきであります。「師は針のごとく、弟子は糸の如し」とは是れであります。

大聖人様は種々御振舞御書に「かかる日蓮を用ひむるともあしくうやまはば国亡ぶべし。乃至、此の国の亡びん事疑ひなかるけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今まで安穏にありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」と仰せでありますように、ニセ戒壇正本堂は取り壊しとはいえ、三大秘法の戒壇義を偽って、依然として邪義を垂れ流しつづけているところに今日の災いの根源があるのであります。

また災いは、こんな小さな事では終わらないのであります。安国論の仰せには「先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来たらば、其の時何んが為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば、何の所にか世を遁れん」と。




コメント (1)

合意も契約も成立しない、やっかいな人種と売国政治屋

2017年12月30日 14時05分25秒 | 亡国の坂道 
平成15年12月28日、韓国が長年因縁をつけて日本を貶めてきたいわゆる「慰安婦」問題について、最終的不可逆的な解決として、日韓の間で合意が成立しました。それに伴い日本政府は、韓国政府が元慰安婦支援の事業を行うために設置する新財団に、政府予算の中から10億円を拠出して韓国政府に支払いました。

ところが16年12月30日になって、釜山の日本国総領事館の玄関前に反日市民団体の手によって、図々しくも慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたのです。その行為は明らかに、平成15年の12月に交わされた日韓両政府の合意に違反しています。当時の両国政府間の合意は、慰安婦問題の“最終的かつ不可逆的な解決”だったはずでした。そうした国家間の合意を平然とくつがえす韓国国民並びに韓国政府は大いに恥を知るべきであり、またかという思いであります。

釜山市東区の行政当局は当初、反日市民団体のこうした暴挙に対して、少女像を一旦は撤去したものの、予想したとおり世論の高まりに便乗して、翌30日にはあっさり設置許可に転じたのであります。韓国中央政府は釜山の行政当局に対して「市民団体が任意でやる事に対しては、政府があれこれ規制することはできない」などとして、詭弁を弄しているのでありますが、韓国政府は地方の行政当局に対する指導を放棄して、慰安婦像の設置は民間団体の為すがままに黙認を決め込み、問題を矮小化して逃げ回っているのであります。

安倍政権はこうした政府間の合意が守られないことに抗議の意を込めて、1月6日になって長嶺安政駐韓大使の一時的帰国を命じて離任させましたが、当然の対応であります。

そうしたところ、過去10年間にわたり国連事務総長を勤めていた潘基文(パン・ギムン)という男は、次期大統領選に打って出る計算から「日本があれこれ言っているが、10億円が少女像の撤去を前提にした金ならば、金は返さなければならない」10億円は「返すべきだ」と発言しているのです。彼が国連事務総長を務めていた平成15年12月の段階では、日韓両国政府の慰安婦問題について〝最終的不可逆的解決〟を「歓迎する」等と評価していたのです。

そもそも朝鮮半島に住む韓国朝鮮人という面倒な国の人間は、約束事が成立しないばかりか、簡単に前言をひるがえす人種なのであります。それを証明するように、韓国歴代大統領が口裏を合わせたように、就任した直後の常套句を振り返れば、異口同音に「過去の歴史にとらわれず、未来志向で韓日関係を発展させなければならない」等と言っているのです。ところが政権末期になって支持率が下がってくると、いずれの大統領も前言を翻して、反日に転じて日本国のある事ない事、悪口を言ってきた歴史を考えれば、未だ大統領にもなっていない潘基文なる男が「10億円を返せ」などと暴言を吐くことは、容易い事だと思われますが、かりそめにも彼は、国連事務総長を10年間も務めてきた韓国有数のエリート中のエリートと言われた人物であります。その者が、外国公館の玄関前に慰安婦を象徴する少女像を設置する行為が、ウイーン条約に違反している事は知らない訳はないのであります。それが「10億円が少女像を撤去を前提とした為の金ならば、返してやれ」とは、恐れ入りましたね。

安倍総理は釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦像への対抗措置として、一時帰国させている長嶺駐韓大使の帰任時期について「早く帰す必要はない」と明言していたそうですが、政府与党内には二階俊博幹事長はじめ、外務省の幹部は早期帰任を模索していたそうですが、バカを言ってはいけません。そんなことをしたら韓国ばかりか、国際社会から舐められ、日本の外交力の無さを笑われるだけで、大使を召還させた意味がまったく無くなってしまいます。そうした空気さえ読めない二階幹事長や外務省の幹部はこうした、へらず口を慎まなくてはならないのであります。さすがの安倍総理は彼らの意見に耳を傾けることなく「早く帰す必要はない。国民は納得しないし、それはさせない」等と語っていたそうで、韓国側の出方を見極めて判断すれば良いと、早期帰任派をたしなめたそうですが、当然であります。

韓国が国際社会に向かってわめき立てる「旧日本軍が銃剣を振りかざして未婚の女性を手当たりしだい慰安婦狩りして性奴隷にした」などという言いがかりは、安倍総理をして「詐欺師」と言わしめた、吉田清治なる得体の知れない反日の男が書いた本があります。それは「朝鮮人慰安婦と日本人」と「私の戦争犯罪」と題するくだらない創作本です。それに彼は、デタラメな講演を各所で繰り返すことを商売にしていたのであります。その吉田清治なる男は「旧日本軍の命令で済州島に渡り、日本軍が慰安婦狩りをするために、母親にしがみつく乳飲み子を銃剣を振り回して引き離し、トラックに詰め込んで連れ去った」等という、ウソ、デタラメを吹聴して日本を貶めるデマ宣伝を繰り返してきたのであります。そうした吉田清治の悪質なプロパガンダが、旧日本軍の「慰安婦狩り」「性奴隷」として報じられ、こうした嘘とデマが世界中に流布され、国際社会から反感を買い、憎しみばかりが増幅して一人歩きしているのであります。

仮に、吉田清治なる男が吹聴するよな旧日本軍によって慰安婦狩りが行われたならば、韓国の男達はただ指をくわえて、その壮絶な風景をみんなで眺めながら、知らんぷりを決め込んでいたのでしょうか! 韓国はいまになって「日本政府は20万人~30万人の若い女性を慰安婦として強制連行し性奴隷にした」などと国際社会に向かって宣伝を繰り返しているのでありますが、想像するに、仮に、日本の官憲や旧日本軍が慰安婦狩りのために、30万人にも及ぶ若い女性を銃剣を振り回して強制連行したとするならば、一人の慰安婦を連行する時には少なくとも、家族や近隣の人々を含めて、3人~5人の目撃者がいた筈です。そうした場合、少なく見積もって単純計算したとしても、30万人×3人=90万人の目撃者が存在したとしても不思議ではないのであります。ところが驚くことに、強制連行を目撃した者は一人として存在しなかったのであります。

それはばりか、日本国は当時の国際連盟の要請に基づいて、1910年8月~1945年9月までの35年にわたり、現在の南北を合わせた朝鮮半島を統治していたのでありますが、後に南北に分断された反日の北朝鮮からは、今に至るまで「慰安婦を強制連行して若い女性を性奴隷にした」とか「日本の官憲や旧日本軍の慰安婦狩りを目撃した」などという話は一切語られてはいないのであります。

そうした悪意に満ちた一方的なデマを何の検証もなく、半世紀以上に亘り一方的に吉田清治と一緒になってデマを流し続け日本国を売ってきた、あの悪名高い朝日新聞の存在を忘れてはならないのであります。それと併せて絶対に許せないのは、宮沢内閣の時に官房長官を務めた希代の売国奴といわれる、河野洋平なる男が、韓国の非難・中傷に白旗を揚げて発表した「河野談話」といわれる政府見解であります。

当時、河野洋平官房長官が発表した「河野談話」の概要は次のようなものでした。

「いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より調査を進めてきたが、今般その結果がまとまったので発表することとした」等と胸を張って、とんでもないデタラメを世界に向かって発信したのです。

河野官房長官の云く「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理および慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」等と吉田清治が垂れ流すデマと、朝日新聞の報道をそのまま受け売りしたものでした。

つづけて「なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧によるなど、総じて本人たちの意思に反して行われた。いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫(わ)びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちをわが国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴(ちょう)しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい」慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)と。

ところが産経新聞は、平成5年7月25日~30日までの5日間にソウルの太平洋戦争犠牲者遺族会の事務所で行われた、元慰安婦16人の聞き取り調査書を入手し、聞き取り調査の実態を検証したところ、名前も生年月日もあやふやなものばかりで、大半がウソ八百を並べ立てた偽証に基づくものであることを突きとめたのであります。産経新聞は早速そうしたデタラメな調査結果に対し、日本政府の見解を問い糾そうとして河野官房長官に面会を求めたところ、彼は記者会見にも応じもせず、ひたすら逃げ回って、面会の応ずる事は一度もないまま任期を終えているのであります。そればかりか、議員をやめた後は「河野談話」を批判する安倍政権を陰に回って、非難中傷する発言を繰り返しているいるのであります。

この機会に当時の韓国人の二三の代表的な元慰安婦の証言記録と日本政府の調査結果を簡単に紹介しておきます。

尹の証言、「昭和16年3月17日、韓国人と軍人二人が家に入ってきてトラックに乗せられた。その後、下関の紡績工場で2年働いた。また、大阪でも1年半軍人の相手をさせられ、下関でも慰安所で働いた。」

政府の調査結果、「下関と大阪には慰安所そのものが存在しなかった」 

吉の証言、「17歳のころ軍人二人に無理やり車に乗せられて熊本の大きな家で、一日5人の軍人の相手をさせられた。そこに5年ばかりいたが、爆撃らしきものがあったので逃げた。」

政府の調査結果、「熊本には慰安所はなかったので、聞き取りに信憑性はない」

金の証言、「12歳の時巡査と韓国人の通訳について行った。その後、台湾にわたり、藤本という巡査の家で5年間家政婦をしていたが、山の慰安所で11ヵ月働いた。その後、高雄の慰安所で働いたが、お金は一銭も支払って貰っていない」

政府の調査結果、「台湾には慰安所は無く、聞き取りの信憑性は低い」等々であります。

こうしたデタラメな証言記録と、杜撰きわまりない聞き取り調査で強制性を示す証拠もないまま、河野官房長官は「旧日本軍は元慰安婦を強制連行して、心身共に癒やしがたい苦しみを与えた」などといった有りもしないデタラメな話を日本政府の責任として発表しているのであります。それに対して、安倍内閣は平成7年に設立されたアジア女性基金を通じて、元慰安婦に「償い金」を支給しているのであります。また、歴代首相による「おわびの手紙」も送られています。

その後、平成19年にって「政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」として事実上河野談話を全面的に否定し、政府の見解を閣議決定までしているのであります。また、河野官房長官のデタラメな談話は多くの歴史家の研究によって悉く覆され、慰安婦の総数は全体の朝鮮人女性が2割弱だったことも判明しているのです。

また日本政府の発表を裏付ける資料として、1944年8月にアメリカ軍が旧ビルマのミーチーナに於いて、旧日本軍兵士の相手をしていた朝鮮半島出身の慰安婦20人から聞き取り調査をした当時の記録が、アメリカの国立図書館に所蔵されていることが判明しました。その記録文の中に見られる朝鮮半島出身の慰安婦の「住居と仕事の状況」と題した記録文の中には、河野談話が指摘するような、強制性は何処にも存在しない事が歴史的実録として残されていますので、その一部も紹介することにします。

住居と仕事の状況:

「ミーチーナで彼女らは大抵大きな二階建ての建物を宿舎として与えられ、各女性に個別の部屋が割り当てられ、各々の女性は生活し、睡眠をとり、業務に勤めた。ミーチーナでは彼女らの食事は、日本陸軍からの配給が無いため、舎官によって準備され、それを購入していた。彼女らはビルマの他の所と比べて高級住宅地近くに住んでいた。そして彼女らは贅沢に暮らした。それは彼女らの食事や物質は大量には配給されなかったが、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたのである。彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを貰っていた。ビルマに留まっている間は将兵と共に、スポーツイベントに参加したり、ピクニックに行ったり、娯楽、社交ディナー等で彼女ら自身が楽しんだ。彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも自由だった。」等とあります。

民間業者の手でビルマに送られた慰安婦たちの調査記録を見る限り、とても戦地とは思えない。ピクニックが楽しめるような待遇の中で、朝鮮半島出身の慰安婦は他人が羨ましがるような楽しい自由な生活をしていた事が見て取れます。それに反して、日本国を貶める目的で、ウソ八百を並べて国を売るような河野洋平なる売国奴が、平成23年11月3日、天皇陛下から「桐花大綬章」という勲章を授けられているのであります。国を売って勲章を頂戴できる戦後の日本という国は、まことにオメデタイ国になってしまいました。

それで聞き捨てならないのは、当時の岸田文雄外相と尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は、平成15年12月28日の会談後、慰安婦問題の合意を並んで表明したものの、会談の正式な合意文書はなく、記者からの質問も受け付けない異例の形なっているのであります。こんな事だから慰安婦問題がいつまで経っても蒸し返されて、韓国から金をせびり取られる事が永遠に続くのであります。

日韓外交筋の話によりますと、先の合意文書の作成は、韓国国内の世論の動向を懸念する韓国側の要請で最終的に見送られたそうでありますが、岸田外相もバカな話に乗ったのであります。岸田外相は尹炳世外相との会談の席で、あのデタラメな河野談話を追認し「慰安婦の強制連行を日本政府が直接手を下した」とも述べていたのであります。安倍首相は何故に、かつての岸田外相の責任を問おうとしないのか! こんな男が、次期自民党の総裁選に打って出るのだそうです。

韓国人は慰安婦問題を永遠に蒸し返す歴史カードとして、韓国の中部・京畿道出身の議員らが、今度は我が国の領土である島根県の竹島に慰安婦を象徴する少女像を設置するのだそうです。こうした動きに対して岸田議員は「わが国固有の領土である竹島への領有権主張を即刻やめるよう求める」としただけで、竹島に少女像を設置するための募金活動を始めたことについては「報道は把握している。関連動向を確認してみる」と述べるにとどめていますが、10億円にもなる大切なお金は、慰安婦という職業を貧困のために選んだ者、あるいは興味本位で自ら進んでを慰安婦を買って出て、当時の性生活を悦しんだ者達もかなりの数いたものと思われますが、それらの者達が今になって、先を争ってお金を受け取り、反日プロパガンダを繰り返しているのであります。

そしてつい先日、またまた慰安婦問題をめぐる日韓合意に対する韓国政府直属の作業部会が改めて、先の日韓慰安婦問題の合意について、康京和(カンギョンファ)外相が検証結果について、次のような難癖をつけてきました。「先の合意は被害者(慰安婦)との意思疎通が不足していた」として「被害者の意見を充分集約せず、政府間で最終的・不可逆的解決を宣言したとしても問題は再燃するしかない」等と因縁をつけ、再び日本政府から金員をむしり取ろうと企んでいるのです。

ソウル発の聯合ニュースによりますと「旧日本軍の慰安婦問題を巡る韓国と日本の合意で、当時の朴槿恵(パク・クネ)政権が被害者の声に耳を傾けず、秘密交渉が行われていたことを明らかにする韓国外交部長官直属のタスクフォースの検証結果が発表されたことを受け、慰安婦被害者を支援する市民団体『韓国挺身隊問題対策協議会』(挺対協)は記者会見を開き、早期の合意破棄を求めた」と報じ、挺対協は「ボールは文在寅(ムン・ジェイン)政権に投げられた」として「文政権は被害者の要求を受け入れ、合意を無効化し、『和解・癒やし財団』を解散させる一方、日本政府に対し、合意を根拠とした日本軍性奴隷制問題の歪曲・否定、合意の履行強要中止を求めなければならない」等と大統領への要望を報じています。

こうした動きを牽制すると同時に、河野太郎外相は、11月28日、韓国の文在寅大統領が日韓合意では慰安婦問題は解決できないと表明したことについて「断じて受け入れることはできない」と述べるとともに、韓国の対応に抗議したことを明らかにしています。父親の洋平氏が垂れ流したデタラメの「河野談話」で述べた内容を無視するかのように、毅然として語る姿は頼もしくもあり、思想的には洋平氏とは、月とスッポンほど考えを異にしているようです。まさしく日本の外交は、斯くあらねばならないと勇気づけられました。

その後来日した韓国の康京和外相と河野太郎外相との会談の中で、次のようなやり取りがあったことを産経新聞が、12月28日付けの新聞で「慰安婦、再燃は不可避」との大見出しをつけて一面トップで報じていました。

康氏「日韓合意について韓国民は納得していない」

河野氏「納得させるのはそちらの仕事で、こちらの仕事ではない」

康氏「朴槿恵前大統領が勝手に決めて韓国外務省は関与していないので、正当なプロセスを経ていない」

河野氏「首脳同士が合意し、両国外務省が最後は握手した。これを正当なプロセスでないというのであれば今後、韓国とは何も決められない」

康氏は、これに明確な反論はできなかった。この後、安部晋三首相と面会したときも、首相から韓国が合意を破棄したり、見直ししたりしないように強く迫られ、青くなったという。

日本政府はもともと、合意に基づく拠出した10億円を「手切れ金」(高官)と位置づけ、今後、慰安婦問題で何をふっかけられても相手にしない「戦略的放棄」路線を決めていた。今回の韓国による合意検証に関しても「無視する」(別の高官)との姿勢だ。また、合意に当たり米国を「立会人」として引き込み、テレビカメラの前で日韓両国の外相が合意発表するという手順を踏んで、国際社会を証人にした。

つまり「伝統的に自己中心的に物事を考える国」(外務省)である韓国が合意を守らず、再びゴールポストを動かそうとする事態をあらかじめ見越して「かんぬきをかけた」のである。韓国側が、ソウルの在韓国日本大使館前の慰安婦像移設などの約束を果たす以前での10億円拠出には、日本国内に批判の声もあったが、安部首相は最近、周囲にこう語った。

「あの時さっさと払っておいて本当によかった」韓国側はなぜか気づかないが、首相官邸も外務省も含め、日本政府は韓国に冷め切っている。首相周辺は27日、「個人的には日韓関係は破綻していると思うと漏らした」等と報じていました。

いずれにしても、安部首相の後を継いだ総理大臣が腰折れして、韓国に再び頭を下げて大金をむしり取られ、国際社会の笑い者に晒されないよう願いたいものです。

 
  

コメント