摧破異流義考(P.59~61)に、坊主らは「日精上人の造仏・読誦問題」と題して次のように記しています。
坊主云く「さて、こうした所論をなす浅井昭衛が挙げられるのは、正信会と同様、十七世日精上人が造仏・一部読誦の問題である。それは、日精上人が寛永十四年に大石寺に晋山して御登座(御相承をうけられたのは寛永九年)される以前、住職を勤められていた江戸の法詔寺ほか縁故の数ヶ寺に仏像を造立し、同時に『随宜論』等の著書中にも造仏・一部読誦を論ぜられた、というものである。
浅井は、この問題をことさら取上げて、「間違いだらけである。このような僻事に随ったら大事の仏法はどうなる。ゆえに日興上人は『時の貫主たりと雖も』云々と厳しく戒められたのである」と強調し、さらに、これと同様の非常事態が日達上人の時に再び起こったとして、「日達上人が戒壇に関する御遺命に背いた、デタラメきわまる解釈をした、破廉恥だ、無道心だ」等々と口汚く日達上人を罵り、あげくのはてには「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等という。そして、「このような時は、命を賭して大聖人に忠誠を尽くさなくてはならない」などというのである。
だが、こうした浅井等の主張は、史実を自己に都合よく粉飾・悪用する奸計といわざるをえない。そもそも、日精上人の時代の大衆が、今日の浅井等の如く、「命を賭して」御法主の悪宣伝を広く流したり、「バケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等の事実無根の虚言まで用いて、口汚く御法主を罵っているであろうか。もし、当時の僧俗が、浅井等のいうごとく、「命を賭して」日精上人を批判したのであれば、それなりに記録も残っている筈だが、そのような記録は何ひとつ現存しておらない。
このことは、むしろ当時の僧俗大衆が、日精上人に対し奉り、師弟の礼節・筋目を守って大導師として尊崇申し上げて居た証明といえよう。つまり、浅井の言うごとき、大衆が、「命を賭して」日精上人を諫め闘ったなどという事実はなかったのであり、それにも拘わらず、「大事の仏法はいったいどうなる」というような宗門謗法化の事態はおこらなかったのである。
また、日精上人の造仏・読誦問題そのものについても、今日の宗史研究では疑問符がつけられており、事実、御登座直後の日精上人には、御遷化に至るまでの四十七年間、造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。そればかりか、日舜上人に血脈相承あそばされるまでの九年間には、御影堂・二天門の建立、総門の再建をはじめ諸堂塔の修復に尽力なさり、『家中抄』等、宗史研究に重要な書を御著述、そして、唯綬一人の血脈を承継する御法主として、曼荼羅御本尊を書写あそばされて諸堂に安置され、また信徒に授与されている。
こうした日精上人の多大な功績と、その御威徳について、四十八世日量上人は「諸堂塔を修理造営し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂うべき者か」(聖典761㌻)とも仰せであるが、こうした数々の日精上人の御功績を、また何よりも、血脈相承を継がれた宝器であられることを忘れ、平気で極悪人か魔障のごとく述べた浅井等は、やはり日蓮正宗の外にある門外漢といわねばならぬと思うものである。
いわんや日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門に対し、日精上人の御事を絡ませて誹謗する浅井の説は、まさに荒唐無稽、師敵対の大謗法に他ならない。」等と記しています。
さて、この項では拙者のあずかり知らぬ事ばかりなので、反論は差し控えることにします。そもそも第十七世日精上人が造仏・一部読誦を行い、それを奨励されたという話については、浅井昭衛氏から聞いたこともありません。また彼の上人の「随宜論」についても目に触れたこともないので論評のしようもありません。
ただ、浅井昭衛氏は「最後に申すべき事」の中で、「中古の精師の『随宜論』等はさて置く」として、随宜論の存在に触れていますが、坊主は日精上人が「造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。」として、「随宜論」の存在にすら一言たりとも触れていないのは、釈然としないものが残ります。
それと「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」などと、浅井昭衛氏が盛んに宣伝している如く書いていますが、そんな話も一度たりとも聞いたことはありません。したがって浅井昭衛氏がそのような悪言を以て広く吹聴しているならば、何時・何処で、そのような発言をしたのか、その証拠を挙げて明確に示すべきであります。
それに「日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門」とは、何のことはありません。それは、本門戒壇の御本尊の在すところは、いつでも、何処でも「事の戒壇」という邪義であります。
日達云く「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉ってあっても、その御本尊の在すところは何処、何方でも、そのところは事の戒壇であります」(昭和45年4月27日 教師補任式)と。
要するに三大秘法を開いた時には六大秘法となります。つまり本門の本尊には、「法の本尊」と「人の本尊」。題目には「信の題目」と「行の題目」。戒壇には「義の戒壇」と「事の戒壇」になるのでありますが、日達に言わせれば、戒壇は「事の戒壇」と「事の戒壇」ばかりで、「義の戒壇」というものは絶対に存在しないという邪義であります。
つまり八百万の学会員と僅かの法華講員で建てたニセ戒壇正本堂も「事の戒壇」という邪義であります。日達のこの邪義によって、日蓮正宗は一切の功徳を失い、一人の成仏も適わない宗門と成り果ててしまいました。
詳しくは又の機会に
坊主云く「さて、こうした所論をなす浅井昭衛が挙げられるのは、正信会と同様、十七世日精上人が造仏・一部読誦の問題である。それは、日精上人が寛永十四年に大石寺に晋山して御登座(御相承をうけられたのは寛永九年)される以前、住職を勤められていた江戸の法詔寺ほか縁故の数ヶ寺に仏像を造立し、同時に『随宜論』等の著書中にも造仏・一部読誦を論ぜられた、というものである。
浅井は、この問題をことさら取上げて、「間違いだらけである。このような僻事に随ったら大事の仏法はどうなる。ゆえに日興上人は『時の貫主たりと雖も』云々と厳しく戒められたのである」と強調し、さらに、これと同様の非常事態が日達上人の時に再び起こったとして、「日達上人が戒壇に関する御遺命に背いた、デタラメきわまる解釈をした、破廉恥だ、無道心だ」等々と口汚く日達上人を罵り、あげくのはてには「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等という。そして、「このような時は、命を賭して大聖人に忠誠を尽くさなくてはならない」などというのである。
だが、こうした浅井等の主張は、史実を自己に都合よく粉飾・悪用する奸計といわざるをえない。そもそも、日精上人の時代の大衆が、今日の浅井等の如く、「命を賭して」御法主の悪宣伝を広く流したり、「バケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」等の事実無根の虚言まで用いて、口汚く御法主を罵っているであろうか。もし、当時の僧俗が、浅井等のいうごとく、「命を賭して」日精上人を批判したのであれば、それなりに記録も残っている筈だが、そのような記録は何ひとつ現存しておらない。
このことは、むしろ当時の僧俗大衆が、日精上人に対し奉り、師弟の礼節・筋目を守って大導師として尊崇申し上げて居た証明といえよう。つまり、浅井の言うごとき、大衆が、「命を賭して」日精上人を諫め闘ったなどという事実はなかったのであり、それにも拘わらず、「大事の仏法はいったいどうなる」というような宗門謗法化の事態はおこらなかったのである。
また、日精上人の造仏・読誦問題そのものについても、今日の宗史研究では疑問符がつけられており、事実、御登座直後の日精上人には、御遷化に至るまでの四十七年間、造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。そればかりか、日舜上人に血脈相承あそばされるまでの九年間には、御影堂・二天門の建立、総門の再建をはじめ諸堂塔の修復に尽力なさり、『家中抄』等、宗史研究に重要な書を御著述、そして、唯綬一人の血脈を承継する御法主として、曼荼羅御本尊を書写あそばされて諸堂に安置され、また信徒に授与されている。
こうした日精上人の多大な功績と、その御威徳について、四十八世日量上人は「諸堂塔を修理造営し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂うべき者か」(聖典761㌻)とも仰せであるが、こうした数々の日精上人の御功績を、また何よりも、血脈相承を継がれた宝器であられることを忘れ、平気で極悪人か魔障のごとく述べた浅井等は、やはり日蓮正宗の外にある門外漢といわねばならぬと思うものである。
いわんや日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門に対し、日精上人の御事を絡ませて誹謗する浅井の説は、まさに荒唐無稽、師敵対の大謗法に他ならない。」等と記しています。
さて、この項では拙者のあずかり知らぬ事ばかりなので、反論は差し控えることにします。そもそも第十七世日精上人が造仏・一部読誦を行い、それを奨励されたという話については、浅井昭衛氏から聞いたこともありません。また彼の上人の「随宜論」についても目に触れたこともないので論評のしようもありません。
ただ、浅井昭衛氏は「最後に申すべき事」の中で、「中古の精師の『随宜論』等はさて置く」として、随宜論の存在に触れていますが、坊主は日精上人が「造仏をなさったり造仏・読誦を勧奨なさった、という記録はまったくないのである。」として、「随宜論」の存在にすら一言たりとも触れていないのは、釈然としないものが残ります。
それと「日達上人はバケツ三杯の血を吐いて地獄に堕ちた」などと、浅井昭衛氏が盛んに宣伝している如く書いていますが、そんな話も一度たりとも聞いたことはありません。したがって浅井昭衛氏がそのような悪言を以て広く吹聴しているならば、何時・何処で、そのような発言をしたのか、その証拠を挙げて明確に示すべきであります。
それに「日達上人が宗開両祖以来の正義に則って体系的にお示しくださった、戒壇に関する真実甚深の御法門」とは、何のことはありません。それは、本門戒壇の御本尊の在すところは、いつでも、何処でも「事の戒壇」という邪義であります。
日達云く「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉ってあっても、その御本尊の在すところは何処、何方でも、そのところは事の戒壇であります」(昭和45年4月27日 教師補任式)と。
要するに三大秘法を開いた時には六大秘法となります。つまり本門の本尊には、「法の本尊」と「人の本尊」。題目には「信の題目」と「行の題目」。戒壇には「義の戒壇」と「事の戒壇」になるのでありますが、日達に言わせれば、戒壇は「事の戒壇」と「事の戒壇」ばかりで、「義の戒壇」というものは絶対に存在しないという邪義であります。
つまり八百万の学会員と僅かの法華講員で建てたニセ戒壇正本堂も「事の戒壇」という邪義であります。日達のこの邪義によって、日蓮正宗は一切の功徳を失い、一人の成仏も適わない宗門と成り果ててしまいました。
詳しくは又の機会に