本項は、坊主らが『続・摧破異流義考』で、①~⑧まで述べている(P.123~124)中に記された「日因上人御指南をも改ざん」したとする、⑥の部分でありますが、坊主らは天母原戒壇説を徹底して反対しながら、完全に葬り去るつもりで、浅井氏を貶める卑劣な誹謗記事を書いています。
⑥云く「浅井等は『続・摧破異流義考』で、三十一世日因上人の『富士記』の文を引いて大石寺即本門寺と論じたことにつき、『これ切り文である。この後文で日因上人は・・・・』等といって、なんと、二十三ページも後の(研究教学書の頁数による)直接、関連しない文を引いたばかりか、その引用文も前後を入れ替えて書き下し、文意を改竄するという、あくどい手口を用いた。すなわち『本門ノ戒旦院ヲ立テ天母原ニ六万坊ヲ立テ』の文を、『本門の戒壇院を天母原に立て六万坊を立つ』と書き下しているのだが、この文の正しい書き下しは、『本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て』であり、もとより天母原に戒壇建立などという意味はどこにもないのである。浅井等の発表することを、そのまま鵜呑みにすると、とんでもない誤りを犯す、という端的な例である」等と。
ここで坊主らが主張するような「本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て」では、文法的にまるで日本語になっていないのであります。何故ならば、そもそも広宣流布の暁に建てられる本門寺の戒壇建立の場所は、富士山の中でも最高の景勝地たる南麓の天母ヶ原に建てられることは、宗開両祖の時代から伝承されている大事であれば、それに付随する様々な伽藍の建立も戒壇堂にほどよく隣接して立てられるのは当然であります。そういう事からすれば、坊主のいう「本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て」では、戒壇堂は別な所(大石ヶ原)に建て、御影堂と垂迹堂並びにそれに付随する宿坊などは、遠く離れた場所(天母原)に切り離して建てられる御文の意味になるのであります。
要するに坊主らは、広宣流布以前に本門戒壇と称して(元々大石ヶ原と云われている大石寺境内の外れにニセ戒壇正本堂なる)奇抜な建物を立てて広宣流布を偽り、内には八百万の純真な信徒の信心を破り、外には国家をもペテンにかけて宗開両祖の御本願を弊履のごとく踏みにじり、天母ヶ原戒壇説は本宗の教義ではないとして、口をへの字に曲げて葬り去ったのであります。
しかしながら第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と御教示せられているのであります。
つづけて四十四世日宣上人は「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の時則ち霊山浄土也(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇建立ある」(世界之日蓮)と。
亦、第四十八世日量上人は「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし」(続摧破異流義考)と。
更に、第五十六世日応上人は「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって」(続摧破異流義考)と。
ところが六十六代の日達によると、天母ヶ原本門戒壇説を否定せんが為に、第五十九世日亨上人の御指南を悪用して、次のような珍説を展開しながら、八百万もの純真の信徒の信心を欺いたのであります。
云く「堀猊下が、四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えると、其れよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります。北は一の竹よりも北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯をさしてもいいのであります。この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原大構想である。天母原こそ、ここにありと信じてこそ、真実の我々の心である」等と。
つづけて「そこで今、天母原について、字義的な面から考えて見ると、天とは、一と大の合したもので、至上最大とう意義、また生とは、生ずる、蘇生するの意義(これが転じて母という字を用いる場合がでてくる)原とは、厂すなわち岩、岩の下に泉があることをさしており、源、根源という意義を表している。また、実際の地名としては、前にも触れたとおり、富士山下に天母原という特定の場所を見出すことはできない。これに、前述した四神相応の勝地という意義、大石ヶ原の地名、また大石寺即本門寺という御歴代上人の御指南等々を思い合わせるとき、天母原とは、まさに大石寺を中心とする広大な大石ヶ原の勝地を指すものと拝して差し支えないのである」と。
日達の子供だましとも思える解説は、日亨上人の御教示を引用しながら、諸橋国語大辞典の漢字の由来を交えて日達独特の独断的な解説を試みながら、大石ヶ原こそが、天母ヶ原との驚くべきこじ付けを展開し、天母ヶ原戒壇説を完全否定しています。大石寺の境内の外れに俄かに建てたニセ戒壇正本堂が「広宣流布の暁の本門事の戒壇」などと牽強付会しているのでありますが、坊主らは悲しくもその邪義を宗門古来の教義として、正当化しているのであります。
そして日達の後を託されたと称して猊座を簒奪した阿部日顕は「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を詔継され、時に当たって仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徹するも大石寺であることを拝信すべきである」(国立戒壇の誤りについて)と。
更に悪乗りが高じて云く「天母山の問題もありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)と。
このように日顕は日達の邪義に悪乗りして、大聖人様の御金言を無慚に破壊してしまったのであります。
御開山日興上人は正系門家の憲法とも謂われている二十六箇条の遺誡置文の冒頭に「富士の流義聊かも先師の御弘通に違せざる事」と厳誡為されいるのであります。ところが、六十六代の日達と六十七代の日顕の二人は、三大秘法義の尤も大切な本門戒壇の建立地を、富士山最勝の地たる南麓の天母ヶ原から、無慚にも、大石寺境内の外れにある信徒の大半が土葬で葬られた、臭骨に穢れ臭気芬々と漂う、大規模墓地を掘り起こした跡地と改変してしまったのであります。
我等凡夫の帰命依止の御当体たる本門戒壇の大御本尊様が、このような汚れた所に御移しされて、極限の辱めを強いられているのであります。かつてのニセ戒壇正本堂の須弥壇の位置が、あるいは現在の奉安堂の須弥壇の位置が正にその所なのであります。戒壇の御本尊様に対し奉る此れに勝る冒涜はないのであります。これほどの恐るべき大謗法を犯しながら、何が広宣流布の達成なのでしょうか、何が功徳を頂戴なのでしょうか! 背筋が凍るとはこの大謗法であります。
今日の宗門は、月例登山会と称し、あるいは○○上人の何回忌記念登山等と謳い、盛んに登山会を繰り返し、御開扉と称して坊主が食うための御開扉料稼ぎに血道をあげています。是れ戒壇の大御本尊様を営利のための利用であります。信徒は強引に毎月のように強要される登山会に辟易し、怨嗟の声をあげながら戒壇の大御本尊様への参詣を繰り返していますが、戒壇の大御本尊様をそのような穢れた所に長期に亘って据え奉って置きながら、あれこれ功徳をおねだりするとは、罰当たりの最たるものであります。
今我々が何をさて置いても喫緊に解決しなければならない最大事は、一刻も早く戒壇の大御本尊様を清浄の御宝蔵に御遷座申し上げて、これまでの罪過を深謝し、身魂に徹して大罪を償うことであります。それ以外に己の罪を滅する方法はないのであります。
何時までもこの大罪を放置するか、この許されざる罪過は、早晩間違いなく、個人も、宗門も、国家も取り返しのつかないほどの、大災を千里の果てより招く事になるのであります。
⑥云く「浅井等は『続・摧破異流義考』で、三十一世日因上人の『富士記』の文を引いて大石寺即本門寺と論じたことにつき、『これ切り文である。この後文で日因上人は・・・・』等といって、なんと、二十三ページも後の(研究教学書の頁数による)直接、関連しない文を引いたばかりか、その引用文も前後を入れ替えて書き下し、文意を改竄するという、あくどい手口を用いた。すなわち『本門ノ戒旦院ヲ立テ天母原ニ六万坊ヲ立テ』の文を、『本門の戒壇院を天母原に立て六万坊を立つ』と書き下しているのだが、この文の正しい書き下しは、『本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て』であり、もとより天母原に戒壇建立などという意味はどこにもないのである。浅井等の発表することを、そのまま鵜呑みにすると、とんでもない誤りを犯す、という端的な例である」等と。
ここで坊主らが主張するような「本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て」では、文法的にまるで日本語になっていないのであります。何故ならば、そもそも広宣流布の暁に建てられる本門寺の戒壇建立の場所は、富士山の中でも最高の景勝地たる南麓の天母ヶ原に建てられることは、宗開両祖の時代から伝承されている大事であれば、それに付随する様々な伽藍の建立も戒壇堂にほどよく隣接して立てられるのは当然であります。そういう事からすれば、坊主のいう「本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て」では、戒壇堂は別な所(大石ヶ原)に建て、御影堂と垂迹堂並びにそれに付随する宿坊などは、遠く離れた場所(天母原)に切り離して建てられる御文の意味になるのであります。
要するに坊主らは、広宣流布以前に本門戒壇と称して(元々大石ヶ原と云われている大石寺境内の外れにニセ戒壇正本堂なる)奇抜な建物を立てて広宣流布を偽り、内には八百万の純真な信徒の信心を破り、外には国家をもペテンにかけて宗開両祖の御本願を弊履のごとく踏みにじり、天母ヶ原戒壇説は本宗の教義ではないとして、口をへの字に曲げて葬り去ったのであります。
しかしながら第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と御教示せられているのであります。
つづけて四十四世日宣上人は「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の時則ち霊山浄土也(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇建立ある」(世界之日蓮)と。
亦、第四十八世日量上人は「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし」(続摧破異流義考)と。
更に、第五十六世日応上人は「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって」(続摧破異流義考)と。
ところが六十六代の日達によると、天母ヶ原本門戒壇説を否定せんが為に、第五十九世日亨上人の御指南を悪用して、次のような珍説を展開しながら、八百万もの純真の信徒の信心を欺いたのであります。
云く「堀猊下が、四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えると、其れよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります。北は一の竹よりも北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯をさしてもいいのであります。この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原大構想である。天母原こそ、ここにありと信じてこそ、真実の我々の心である」等と。
つづけて「そこで今、天母原について、字義的な面から考えて見ると、天とは、一と大の合したもので、至上最大とう意義、また生とは、生ずる、蘇生するの意義(これが転じて母という字を用いる場合がでてくる)原とは、厂すなわち岩、岩の下に泉があることをさしており、源、根源という意義を表している。また、実際の地名としては、前にも触れたとおり、富士山下に天母原という特定の場所を見出すことはできない。これに、前述した四神相応の勝地という意義、大石ヶ原の地名、また大石寺即本門寺という御歴代上人の御指南等々を思い合わせるとき、天母原とは、まさに大石寺を中心とする広大な大石ヶ原の勝地を指すものと拝して差し支えないのである」と。
日達の子供だましとも思える解説は、日亨上人の御教示を引用しながら、諸橋国語大辞典の漢字の由来を交えて日達独特の独断的な解説を試みながら、大石ヶ原こそが、天母ヶ原との驚くべきこじ付けを展開し、天母ヶ原戒壇説を完全否定しています。大石寺の境内の外れに俄かに建てたニセ戒壇正本堂が「広宣流布の暁の本門事の戒壇」などと牽強付会しているのでありますが、坊主らは悲しくもその邪義を宗門古来の教義として、正当化しているのであります。
そして日達の後を託されたと称して猊座を簒奪した阿部日顕は「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を詔継され、時に当たって仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徹するも大石寺であることを拝信すべきである」(国立戒壇の誤りについて)と。
更に悪乗りが高じて云く「天母山の問題もありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)と。
このように日顕は日達の邪義に悪乗りして、大聖人様の御金言を無慚に破壊してしまったのであります。
御開山日興上人は正系門家の憲法とも謂われている二十六箇条の遺誡置文の冒頭に「富士の流義聊かも先師の御弘通に違せざる事」と厳誡為されいるのであります。ところが、六十六代の日達と六十七代の日顕の二人は、三大秘法義の尤も大切な本門戒壇の建立地を、富士山最勝の地たる南麓の天母ヶ原から、無慚にも、大石寺境内の外れにある信徒の大半が土葬で葬られた、臭骨に穢れ臭気芬々と漂う、大規模墓地を掘り起こした跡地と改変してしまったのであります。
我等凡夫の帰命依止の御当体たる本門戒壇の大御本尊様が、このような汚れた所に御移しされて、極限の辱めを強いられているのであります。かつてのニセ戒壇正本堂の須弥壇の位置が、あるいは現在の奉安堂の須弥壇の位置が正にその所なのであります。戒壇の御本尊様に対し奉る此れに勝る冒涜はないのであります。これほどの恐るべき大謗法を犯しながら、何が広宣流布の達成なのでしょうか、何が功徳を頂戴なのでしょうか! 背筋が凍るとはこの大謗法であります。
今日の宗門は、月例登山会と称し、あるいは○○上人の何回忌記念登山等と謳い、盛んに登山会を繰り返し、御開扉と称して坊主が食うための御開扉料稼ぎに血道をあげています。是れ戒壇の大御本尊様を営利のための利用であります。信徒は強引に毎月のように強要される登山会に辟易し、怨嗟の声をあげながら戒壇の大御本尊様への参詣を繰り返していますが、戒壇の大御本尊様をそのような穢れた所に長期に亘って据え奉って置きながら、あれこれ功徳をおねだりするとは、罰当たりの最たるものであります。
今我々が何をさて置いても喫緊に解決しなければならない最大事は、一刻も早く戒壇の大御本尊様を清浄の御宝蔵に御遷座申し上げて、これまでの罪過を深謝し、身魂に徹して大罪を償うことであります。それ以外に己の罪を滅する方法はないのであります。
何時までもこの大罪を放置するか、この許されざる罪過は、早晩間違いなく、個人も、宗門も、国家も取り返しのつかないほどの、大災を千里の果てより招く事になるのであります。