亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

天母原戒壇説は邪義だと吹聴する坊主の無責任

2014年09月27日 08時21分34秒 | 亡国の坂道 
本項は、坊主らが『続・摧破異流義考』で、①~⑧まで述べている(P.123~124)中に記された「日因上人御指南をも改ざん」したとする、⑥の部分でありますが、坊主らは天母原戒壇説を徹底して反対しながら、完全に葬り去るつもりで、浅井氏を貶める卑劣な誹謗記事を書いています。

⑥云く「浅井等は『続・摧破異流義考』で、三十一世日因上人の『富士記』の文を引いて大石寺即本門寺と論じたことにつき、『これ切り文である。この後文で日因上人は・・・・』等といって、なんと、二十三ページも後の(研究教学書の頁数による)直接、関連しない文を引いたばかりか、その引用文も前後を入れ替えて書き下し、文意を改竄するという、あくどい手口を用いた。すなわち『本門ノ戒旦院ヲ立テ天母原ニ六万坊ヲ立テ』の文を、『本門の戒壇院を天母原に立て六万坊を立つ』と書き下しているのだが、この文の正しい書き下しは、『本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て』であり、もとより天母原に戒壇建立などという意味はどこにもないのである。浅井等の発表することを、そのまま鵜呑みにすると、とんでもない誤りを犯す、という端的な例である」等と。

ここで坊主らが主張するような「本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て」では、文法的にまるで日本語になっていないのであります。何故ならば、そもそも広宣流布の暁に建てられる本門寺の戒壇建立の場所は、富士山の中でも最高の景勝地たる南麓の天母ヶ原に建てられることは、宗開両祖の時代から伝承されている大事であれば、それに付随する様々な伽藍の建立も戒壇堂にほどよく隣接して立てられるのは当然であります。そういう事からすれば、坊主のいう「本門の戒壇院を立て天母原に六万坊を立て」では、戒壇堂は別な所(大石ヶ原)に建て、御影堂と垂迹堂並びにそれに付随する宿坊などは、遠く離れた場所(天母原)に切り離して建てられる御文の意味になるのであります。

要するに坊主らは、広宣流布以前に本門戒壇と称して(元々大石ヶ原と云われている大石寺境内の外れにニセ戒壇正本堂なる)奇抜な建物を立てて広宣流布を偽り、内には八百万の純真な信徒の信心を破り、外には国家をもペテンにかけて宗開両祖の御本願を弊履のごとく踏みにじり、天母ヶ原戒壇説は本宗の教義ではないとして、口をへの字に曲げて葬り去ったのであります。

しかしながら第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と御教示せられているのであります。

つづけて四十四世日宣上人は「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の時則ち霊山浄土也(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇建立ある」(世界之日蓮)と。

亦、第四十八世日量上人は「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし」(続摧破異流義考)と。

更に、第五十六世日応上人は「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって」(続摧破異流義考)と。

ところが六十六代の日達によると、天母ヶ原本門戒壇説を否定せんが為に、第五十九世日亨上人の御指南を悪用して、次のような珍説を展開しながら、八百万もの純真の信徒の信心を欺いたのであります。

云く「堀猊下が、四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えると、其れよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります。北は一の竹よりも北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯をさしてもいいのであります。この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原大構想である。天母原こそ、ここにありと信じてこそ、真実の我々の心である」等と。

つづけて「そこで今、天母原について、字義的な面から考えて見ると、天とは、一と大の合したもので、至上最大とう意義、また生とは、生ずる、蘇生するの意義(これが転じて母という字を用いる場合がでてくる)原とは、厂すなわち岩、岩の下に泉があることをさしており、源、根源という意義を表している。また、実際の地名としては、前にも触れたとおり、富士山下に天母原という特定の場所を見出すことはできない。これに、前述した四神相応の勝地という意義、大石ヶ原の地名、また大石寺即本門寺という御歴代上人の御指南等々を思い合わせるとき、天母原とは、まさに大石寺を中心とする広大な大石ヶ原の勝地を指すものと拝して差し支えないのである」と。

日達の子供だましとも思える解説は、日亨上人の御教示を引用しながら、諸橋国語大辞典の漢字の由来を交えて日達独特の独断的な解説を試みながら、大石ヶ原こそが、天母ヶ原との驚くべきこじ付けを展開し、天母ヶ原戒壇説を完全否定しています。大石寺の境内の外れに俄かに建てたニセ戒壇正本堂が「広宣流布の暁の本門事の戒壇」などと牽強付会しているのでありますが、坊主らは悲しくもその邪義を宗門古来の教義として、正当化しているのであります。

そして日達の後を託されたと称して猊座を簒奪した阿部日顕は「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を詔継され、時に当たって仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徹するも大石寺であることを拝信すべきである」(国立戒壇の誤りについて)と。

更に悪乗りが高じて云く「天母山の問題もありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)と。

このように日顕は日達の邪義に悪乗りして、大聖人様の御金言を無慚に破壊してしまったのであります。

御開山日興上人は正系門家の憲法とも謂われている二十六箇条の遺誡置文の冒頭に「富士の流義聊かも先師の御弘通に違せざる事」と厳誡為されいるのであります。ところが、六十六代の日達と六十七代の日顕の二人は、三大秘法義の尤も大切な本門戒壇の建立地を、富士山最勝の地たる南麓の天母ヶ原から、無慚にも、大石寺境内の外れにある信徒の大半が土葬で葬られた、臭骨に穢れ臭気芬々と漂う、大規模墓地を掘り起こした跡地と改変してしまったのであります。

我等凡夫の帰命依止の御当体たる本門戒壇の大御本尊様が、このような汚れた所に御移しされて、極限の辱めを強いられているのであります。かつてのニセ戒壇正本堂の須弥壇の位置が、あるいは現在の奉安堂の須弥壇の位置が正にその所なのであります。戒壇の御本尊様に対し奉る此れに勝る冒涜はないのであります。これほどの恐るべき大謗法を犯しながら、何が広宣流布の達成なのでしょうか、何が功徳を頂戴なのでしょうか! 背筋が凍るとはこの大謗法であります。

今日の宗門は、月例登山会と称し、あるいは○○上人の何回忌記念登山等と謳い、盛んに登山会を繰り返し、御開扉と称して坊主が食うための御開扉料稼ぎに血道をあげています。是れ戒壇の大御本尊様を営利のための利用であります。信徒は強引に毎月のように強要される登山会に辟易し、怨嗟の声をあげながら戒壇の大御本尊様への参詣を繰り返していますが、戒壇の大御本尊様をそのような穢れた所に長期に亘って据え奉って置きながら、あれこれ功徳をおねだりするとは、罰当たりの最たるものであります。

今我々が何をさて置いても喫緊に解決しなければならない最大事は、一刻も早く戒壇の大御本尊様を清浄の御宝蔵に御遷座申し上げて、これまでの罪過を深謝し、身魂に徹して大罪を償うことであります。それ以外に己の罪を滅する方法はないのであります。

何時までもこの大罪を放置するか、この許されざる罪過は、早晩間違いなく、個人も、宗門も、国家も取り返しのつかないほどの、大災を千里の果てより招く事になるのであります。





坊主らは大坊棟札を贋作呼ばわり

2014年09月20日 11時35分30秒 | 亡国の坂道 
本項は、坊主らが『続・摧破異流義考』で①~⑧まで述べている(P.122~123)中に記された「大坊棟札裏書きに拘る無知を糺す」とした、⑤の部分の坊主らの誹謗記事であります。

⑤云く「浅井等の無学・狂乱ぶりのきわめつきは、日興上人筆に見せかけた大坊棟札裏書きの件である。『続・摧破異流義考』において、同書裏書きに対する五十九世日亨上人御教示を引用した中で、『御家流』『薬研彫り』のルビ(ふりがな)に誤りがあったといって、鬼の首を取ったかのごとく大騒ぎをしたばかりか、当方が『徳川時代の御家流文字は日興上人の時代から歴として存在した。それは紛れもない事実、この責任はどうとってくれるのか』等と得意になって喚き散らしている」等と。

つづけて「無知な浅井等のために教えておくが、そもそも御家流は、鎌倉時代の尊円法親王の書風(清蓮院流)が、後世、低俗化し、江戸時代には全くの実用書に堕したものをさすのである。また、尊円法親王が誕生(西暦1298年)したのは、大坊棟札の日付(正応4年=1291年)より七年後であるのに、どうやって、その書風を大坊棟札裏書きの筆致に顕わすことができると云うのか。本当に、馬鹿も休みやすみ言うべきで、この責任はどうとってくれるのか、というのはこちらの台詞である。なおまた浅井等は、『続・摧破異流義考』に提示せる日亨上人御教示中、『正応4年己丑3月12日』と、正応4年の干支が誤っている(正しくは辛卯)に目をつけ、『重大な干支を日亨上人ほどの碩学がなぜ聞き間違えたか、説明せよ』などと啖呵を切っているが『報恩抄文段』中の『妙楽大師、夢に証真に告げて云く。此れはこれ臨時の失錯、不慮の筆謬なり、取捨情に任せて、改定を憚ること勿れ等云々』の事例と同様、人界所具の仏界ゆえの『臨時の失錯・不慮の筆謬』と拝するものであり、このことが日亨上人の御遷化に傷をつけるものなどでないのはむろんである。だいたい浅井等は、こうした非難を得意中の得意としているが、それは法義でも何でもない。単に、あげ足取りや粗捜ししかできぬ小人たる証明、というほかない。大坊棟札について、さらに申し添えておくならば、これまで再三にわたって指摘し続けているように、裏書きに記された日興上人御名の署名が間違っているということは、同裏書きが日興上人の御筆などでない、真っ赤な偽せ物であるという歴然たる証拠ではないか。『その教学は富士の地下水まで達し』『相伝書の内容を宗内でただ一人確認できる』ほどの浅い先生、いったいこれをどのような詭弁を弄して説明してくれるのか、その説明を鶴首して待っても、回答が示される日は永遠に来るまい」等と。

これ等の上記の坊主らの誹謗記事に対して、浅井会長の反論は次の如くであります。

云く「細井管長は日亨上人の御文を引いて、上人が大坊棟札を否定しているかのごとく云っているが、引用の御文を見る限り、少しも『偽作』などとは云っておられない。上人はただ、棟札の書風について『御家流やや豊なるふう』と云われているだけである。これを以って細井管長は『御家流というのは、すなわち徳川時代という意味です』と短絡しているが、とんでもないことである。日亨上人は、日興上人の天賦の名筆の書風をかく表現されたのである。かかる日亨上人の例は他にもある。日興上人直筆の安国論写本が玉沢妙法華寺に蔵されているが、これの写本の筆致について日亨上人は『玉沢のは、軟かな豊かな王朝末の写教様である』(立正安国論解題)と表現されている。細井管長の論法を以てすれば、この御写本もまた、〝王朝末とは藤原時代です、だから偽作〟ということになるではないか。さらに、細井管長が引いた日亨上人の御文は、例によって出典を隠しての切り文である。これでは日亨上人の文意は不明である」と鋭く反論されています。

つづけて「『丑寅の勤行怠慢なく』との御文は、この大坊棟札にしかない。自分自身で『日興上人の御遺命』といった大坊棟札を、都合が悪くなればたちまち『偽作』という。破廉恥とはまさにこのことである」と坊主らの恥知らずな御都合主義と大謗法を厳しく指摘されています。

第六十五世を継がれた日淳上人は、大坊棟札については「偽作」などとは片鱗も申されることなどなく、御開山二祖日興上人が、後世の貫主上人方への遺言として御残しになられた大坊棟札は、真正な宝物(ほうもつ)として大切に取り扱われ、次のごとく仰せであります。

云く「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と。

大聖人様の一期の御遺命たる国立戒壇を否定する坊主らが、行き着くところ、己の傲慢からくる大謗法と勝手な都合に合わせ、やがて「一期弘法付嘱書は偽書だ、三大秘法抄は偽書だ、日興上人の遺誡置文は偽書だ」などという、とんでもない事を口走るようになるのであります。

日興上人遺誡置文に云く「御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事」と。

今日宗門の中において、大坊棟札を偽物呼ばわりする悪僧は、大聖人様の弟子でもなければ、決して御開山日興上人の末流でもない、これ等の悪僧は日達の弟子であって、即刻宗門から追放しなければならない、恐るべき悪知識の者と断ずる以外ないのであります。










天母山戒壇説は要法寺日辰の邪義だなんて

2014年09月13日 11時51分11秒 | 亡国の坂道 
本項は①~⑧まで坊主らが述べた中の(P.120~121)④の部分の、坊主らの意味不明の誹謗記事であります。

坊主らは「天母山戒壇は本宗教義にあらず」として、顕正会の浅井氏を引き合いに出して謗法の限りを犯しています。それも結論として何が言いたいのか、坊主らが議題に挙げた項目の一々は支離滅裂で、問題を系統立てて掘り下げる事すらできていません。それを証明するために、坊主らが挙げた問題を記して、頭破七分に見舞われた実体を明らかにしたいと思いますが、それにしても下記の坊主の挙げた文章に目を通して、意味の理解できる者は、頭破七分に犯された者のみが理解できる文章だと思われます。

云く、④「天母山戒壇説についても、浅井等は、『続・摧破異流義考』中に引用せる『日蓮正宗鋼要』の文を挙げ、『これまたお得意の切り文である。正確な文証を挙げれば次の如く』などといって、実際の当方の引用箇処とは異なる文を引くという誑惑をやってのけ、しかも、『鋼要』中の『(戒壇建立の詳細は)日興上人に口伝せられて、その伝統の上人の腹中に存するのであろうが、場所だけは天母原と後世にいっておる』の文を、巧みに『その口伝が後世あらわにされて『天母原』といわれている』等と粉飾している。ちなみに、この文は、天母原を後世にいわれるようになったことを仰せられたにすぎず、『口伝が後世あらわさにされて』等というのは、浅井等の勝手な文意の改竄である」などと。

上記の坊主らの誹謗記事を読んで、意味のわかる者は殆どいないものと思われますが、これこそ、頭破七分に犯された高等精神病患者の見本のような文章であります。「引用箇処」は、引用箇所の間違いだと思われますし「その伝統の上人の腹中に存するのであろうが」とは、一体何方のことを指しているのでしょうか? 文の全体に目を通して見ても、全然意味が理解できないのであります。このような訳の解らない文章しか書けない能無し坊主らが、袈裟の権威に身を包み、信徒の尊い供養で大飯を喰らっているのであります。

つづけて「さらに浅井等は、自ら、日相上人による日寛上人御講の筆写を『日相上人のメモ』などと述べたことも忘れ、『摧破異流義考』中に日東上人による日寛上人御説法の聴聞記を『日東上人の仰せ』として引用せることについては、『これまた大ペテン・大誑惑。なんとこれは日寛上人の御指南なのである』等と、実に馬鹿げたことをいっている。そのうえ、日東上人の同書中に、天母山戒壇説を挙げた後、『尤も辰抄の如きなり』と仰せられし文意を、『たまたま日辰も同じ趣きを云っている』等と無理に解釈しているが、その文における『尤も』の二字は『ただし、そうはいっても』という逆接の表現である故、この文の正意は、『ただし、そうはいっても、これ(天母山戒壇説)は日辰の御書抄の説をそのまま述べたものであるが』とならねばならない。すなわち、この御教示は、まさに、天母山戒壇説が本宗古来の教義ではなく、日辰の創唱たることを明かされたものなのである。かくのごとく、日本語も読めず、まったく文意を逆に読み違えて、一人よがりな批判を展開するに至っては、もはや呆れてしまって言葉もない」等と。

坊主が云うように「もはや呆れてしまって言葉もない」とのことですが、そうであるならば、これ以上くだらない意味不明の誹謗記事を書くのは止め給え、と言いたくなるのであります。

上記に書き連ねた坊主らのいわんとしている事を少々解説するなら、ここに出てくる日辰とは、京都要法寺の広蔵日辰のことでありますが、その日辰は、様々な邪義を構えて大聖人様のお立てになられる教義に迷いを生じて「摂折一致」や「一部読誦」等の邪義を宣揚した僧侶でありますが、その前に、日辰のことに触れるには、同じく要法寺の佐京日教という僧侶の事に触れなければならないのであります。その佐京日教師は、大聖人様滅後二百年頃、京都要法寺から富士方面に遊びに来た序に富士門流に帰依した数年後に「類聚翰集私」なる書を上梓しています。その類聚翰集私の中で、いわゆる、広宣流布の暁の本門戒壇は「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」(富士集学要集第二巻)と記しているのであります。それから約八十年後に例の広蔵日辰が同じく「富士山の西南に当たりて山あり、名をば天生山と号す。この上において本門寺の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において仁王門を建立し、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立」(報恩抄下)と記しているのであります。

故に第二十九世日東上人は「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に仁王門を建つなり、尤も辰抄の如きなり」と仰せなのであります。

ここで坊主らがまたまた頓珍漢な寝言を垂れています。云く『尤も』の二字は『ただし、そうはいっても』という逆接の表現である故、この文の正意は、『ただし、そうはいっても、これ(天母山戒壇説)は日辰の御書抄の説をそのまま述べたものであるが』とならねばならない。すなわち、この御教示は、まさに、天母山戒壇説が本宗古来の教義ではなく、日辰の創唱たること明かされたものなのである。かくのごとく、日本語も読めず、まったく文意を逆に読み違えて、一人よがりな批判を展開するに至っては、もはや呆れてしまって言葉もない」等と日本語にならない屁理屈を垂れ流していますが、日東上人が仰せられた「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に仁王門を建つなり、尤も辰抄の如きなり」と日東上人が仰せられた御文の意味は、坊主らが解説するような意味は何処にも存在しないのであります。

ここで日東上人の仰せられた「尤も」の意味を解説するまでもありませんが、その「尤も」の意味は「要法寺の日辰が広宣流布の暁の戒壇堂に関する建物全体の伽藍は、日辰の云う通りであろう」と、単なる日辰の説明を肯定的に捉えて、日東上人が感想を述べられている御文なのであります。

それを坊主らは、あれこれ屁理屈をつけた揚句、日辰の天母山戒壇説は「本宗古来の教義ではない」などと結論付けているのであります。

その上、邪義班の坊主らは、佐京日教師や、広蔵日辰の天生山戒壇説を全面的に否定し、天母山戒壇説は、本宗の教義ではない」などと、口をへの字に曲げて誹謗中傷しているのであります。

しかしながら、大聖人様滅後二百年頃に要法寺の佐京日教師が富士方面に遊びに来たついでに富士門流に帰依した後、彼の書いた「類聚翰集私」の中に、天生原戒壇説が堂々と記されているとしたら、広宣流布の暁の天生原戒壇説は、御開山日興上人の時代から元々富士門流に存在したということであって、それを真っ向から反対する方が間違っているのであります。左京日教師は、何もない所から突如として、天生原戒壇説を思いついたとでもいうのでしょうか! 

大聖人様から第二祖日興上人への一期弘法付嘱書には「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と記されているのであります。亦三大秘法抄には「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可きものか」と仰せれれているのであります。

日興上人はこの一期弘法付嘱書の中にある「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御付嘱状に基づき、より具体的に富士山の中でも霊山浄土に勝るとも劣らない、最勝の地たる南麓の天生原を、本門事の戒壇建立地として定められているのであります。今邪義班の坊主のいっていることが完全な間違いなのであります。

扨て京都要法寺の起源でありますが、第三祖日目上人が正慶二年の二月、これまで天下を統一していた北条幕府が滅亡し、京都の朝廷が政権を掌握するという、いわゆる「建武の中興」が成ったのであります。日目上人はこの好機を逃すことなく、後醍醐天皇に対する天奏を決断為されるのであります。この時日目上人はすでに七十四歳の御高齢にも拘わらず、日尊、日郷の二人の弟子の助けを杖とされて、国家諫暁に向かわれるのであります。

しかも日目上人は、御老齢に加え度重なる奥州下向と、四十二度にも及ぶ国諫のため、くるぶしを痛められ、その上、右のわき腹まで痛められていたとのことであります。「是れも左つぶぶしを十余日病みて、右のそばばらを労候なり」と。

総本山を旅立たれて翌年の十一月、寒風の中、日尊、日郷が日目上人を支える中、老脚の足を踏みしめて京都へ向かわれる途中、雪深き美濃の垂井にさしかかった時、伊吹山から吹き下すみぞれまじりの寒風に、手足凍えて一歩も進まず、終に垂井の宿で壮絶な御遷化を遂げられたのであります。

「臨終の御勤めましまして、両眼眠るが如く、口辰誦するが如くに、息止みたもう」(家中抄)と。

この時、御所持の申状に云く「日蓮上人の弟子日目、誠惶誠恐謹んで言す。乃至、法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え、国も栄えん。---- 日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ」と。

その後、日目上人にお供した日尊は京都に残り要法寺の開基として、折伏弘教に務められるのであります。その要法寺の第十九代の住職を務めたのが日辰なのであります。

一方の日郷は、日目上人の御灰骨を胸にいだき本山へ帰郷し、第四祖の日道上人へ御報告を済ませた後、しばらくして日郷は、日道上人との間で唯授一人の血脈相承は、自分が日目上人より受けたと称して問題を起し、本山から追い出され千葉県の保田に居を移して、三大秘法の宣揚に務めるのであります。今日の保田の妙本寺は、日郷の開いた日蓮正宗の末寺となっているのであります。

日目上人御所持の申状にもありますように、人が栄え、国が栄えるには、三大秘法を立てる以外にない事が大聖人様の教えであります。当然の事として、日尊、日郷の二人の弟子も日蓮大聖人様の末弟として、広宣流布の暁の富士山本門寺の戒壇=国立戒壇の大事を骨身に染みて熟知しているからこそ、大聖人様の御本願を高らかに掲げて折伏弘教に励んでいたのであります。

当然の事として、日目上人の国諫状にも「日目先師の地望を遂げんが為に、後日の天奏に達せしむ」と仰せられているのであります。日目上人が仰せの「先師の地望」とは、他ならぬ国立戒壇の異名なのであります。

ところが国立戒壇を創価学会の政治選挙のために売り渡した六十六代の悪僧日達は、勝手なこじつけをして云く「要法寺の書籍が大石寺に移された頃から要法寺の法門が入ってきてしまい、六万坊とか天生原、天生山という説が伝わってきた。(中略)だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちにそのままとっていいというんじゃない。やはり、日興上人、日有上人までは立派な本宗の御法門である。それをとって、よくかみ分けて進んで行かなければならない」(摧破異流義考)などと、婉曲に日辰の展開する広宣流布達成時の富士山天母山戒壇論が、あたかも間違いであるかの如く強調しながら、己の邪義を正当化しようとしているのであります。

そして六十六代の日達ときたら、信徒団体の池田大作に諂い、金力と身に余る奢侈に籠絡された揚句、学会の政治選挙のために、大聖人様の究竟の御本願たる国立戒壇を永久放棄し、三大秘法義を根本から破壊してしまったのであります。それが今日の何ら功徳の無い、無気力な養老集団と成り果てた日蓮正宗の哀れな姿なのであります。

振り返って日蓮正宗の歴史を俯瞰する時、窮乏のあまり、三大秘法の令法久住が危ぶまれる時代が長くつづいたことは歴史的事実であります。そのような中で、本山の貫主上人を京都の要法寺から迎え入れた時代がありました。

それは第十五世の日昌上人から始まり、第十六世日就上人、第十七世日精上人、第十八世日盈上人、第十九世日舜上人、第二十世日典上人、第二十一世日忍上人、第二十二世日俊上人、第二十三世日啓上人の方々でありますが、彼の九人の上人方々は、一旦、要法寺から離れて大石寺の貫主に就任された後は、一糸乱れず異口同音に大聖人様の究竟の御本願たる広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇を宣揚為されて、三大秘法の正義を護り抜かれているのであります。

それが今日の邪義班の坊主らに言わせると、国立戒壇は京都要法寺の日辰の創唱などといった邪義を吹聴しているのでありますが、これは国立戒壇を否定するが為の邪義なのであります。国立戒壇こそが大聖人様の御本願なのであります。今こそ唯一の正系門家と謂われる御本仏日蓮大聖人様の嫡流の富士大石寺の信心が、日本国の運命を左右することを深く思うべきであります。

大聖人様は「宅に柱なければたもたず。人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平の左衛門既に日本の柱をたおしぬ」と仰せのごとく、柱の無い日本国はいつまでも国際社会から嘲りを受けて漂流するだけとなるのであります。国に柱が無ければ日本は必ず傾くのであります。国立戒壇建立こそが国に柱を立てることなのであります。



無知蒙昧な坊主が嘘八百を垂れ流している

2014年09月04日 12時47分13秒 | 亡国の坂道 
本項は①~⑧までの(P.120)③の部分に当たる誹謗記事でありますが、邪義班の坊主らは、此処でも浅井会長が発言したこともない嘘とデタラメな文言をおりまぜて、見当外れの誹謗を繰り返しています。

坊主の云く③「浅井等は、日寛上人の口伝を日相上人が筆写された『大貳阿闍梨御講の聞書』を否定せんとして、『御講とは、あくまでも大衆に向かってやるもの』などという子供騙しな稚拙を述べた上、『日寛上人の学頭時代の呼称“大貳阿闍梨”とあるから、学頭時代の御講である』『小見出しをつけてはいろいろな覚えが書いてあるからメモ書きにすぎぬ』『どうして〝理の戒壇〟に対して〝事の戒壇〟と、〝壇〟の字が抜けているのか』『大事な法門だというなら、数百年間、どこに保管されていたかもわからない、などということがあるか』等といっている。だいたい、御開山日興上人の『白蓮阿闍梨』に始まり、日寛上人の『大貳』『大貳阿闍梨』等、宗門の古き時代においては御登座の前後に関わらず阿闍梨号を用いる習慣であった、ということすら知らぬ、こんな無知な者が法義を云々しては笑い者となるだけである。『小見出しをつけているからメモ書き』などというのも、科段の形式すら知らぬ初学者のいうことで、この論法でいけば寛尊の御書文段や『御義口伝』すらも『メモ書き』と下すことになる。『〝壇の一字がぬけている〟』にしても、表現の重複を避けた省略法は、宗祖の『聖人御難事』における『余は二十七年なり』にも見られるところであって、これに難癖をつける手口は他門流の輩となんら変わらない。同書の所伝についても、『どこに保管されていたかもわからない』などというのは、単に浅井等が知らぬだけであって、宗門においては明確になっている故、妄りな邪推は赤恥をかくだけである」等と。

最初に坊主らは「『御講とは、あくまでも大衆に向かってやるもの』などという子供騙しな稚拙を述べた」などと、浅井会長を槍玉に挙げて誹謗していますが、そもそも御講とは、僧侶の説話を多くの信徒(大衆)が説法として拝聴するものであって、それを「子供騙しな稚拙」な話として、誹謗する坊主の話の方が間違っているのでありますが、確かに今日坊主らが主催する御講なるものは、聞くに堪えない子供騙しのような話ばかりで、何等感動の無い、無味乾燥な話に終始しているのが実態であります。

此処で坊主らが嘘とデタラメを並べて浅井会長を誹謗している事を証明するために、浅井会長が当時仰せられた発言の一部を紹介することにします。

云く「あたかも日相上人が日寛上人の御説法を直接聴聞して書き留めたようにとれる。しかし第四十三代日相上人は、日寛上人の御入滅四十四年後に出家された御方である。どうして直接聴聞することができようか。またこの古文書が「最近出て来た」などというのも、いかにもウサン臭い」等と指摘されているのでありますが、その根拠は、次の文から判断されて指摘されたものであります。

坊主のいう「日寛上人の口伝を日相上人が筆写された」という行であります。第二十六世の貫主職を務められた日寛上人の御説法を、第四十三世を継がれた日相上人が筆写されることは、年代の乖離からいって、物理的には不可能である故に、当然の指摘をされたまでの話であります。

日相上人が日寛上人の御説法を筆写されたとする、お書き物を正確に表現すには「大貳阿闍梨を名乗られていた頃の日寛上人の御説法を拝受された僧侶が、聞書として言い伝えられてきた三大秘法義の御法門を日相上人が筆写された」と記せば良かったのであります。

また、坊主が誹謗するように『どうして〝理の戒壇〟に対して〝事の戒壇〟と〝壇〟の字が抜けているのか』『〝壇の一字がぬけている〟』などとした、浅井会長の発言は一切存在しないのであります。

そこで、第二十六世日寛上人が、大貳阿闍梨の御名をもって講ぜられた御講を、第四十三世日相上人が筆写されたとする聞書は、三大秘法の開合の相を下記に示した如くであります。その聞書を拝見する限り、何も目新しいものはないのであります。下記の三大秘法の開合の相は、参考までに示したものでありますが、坊主らが誹謗を繰り返すように「理の戒壇」「事の戒壇」ともに、戒壇の「壇」の字は元旦の「旦」の字を使用されているもので、坊主が指摘しているような、浅井会長が「事の戒壇」「理の戒壇」の「檀」の字が抜けているなどと言い掛かりをつけた事など、何処にも存在しないのであります。

念のために、日相上人が日寛上人の御説法を聞書として、筆写されたとする三大秘法の開合の相を紹介することにします。

     三大秘法之事   大貳阿闍梨

  凡三大秘法ト者開スレハ六  合スレハ三
        
  本門戒壇 人本尊---日蓮大聖人  法本尊---事一念三千之御本尊
   
  本門題目 信受---智妙  口唱行---行妙

  本門戒壇 在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也  富士山戒旦ノ之御本尊在所ハ事ノ戒旦也 
  
  三大秘法ノ姿如レ是可得意也 

とあるのみであります。特に此処で留意しなければならないことは、大貳阿闍梨日寛上人の御説法は、本門戒壇に対して「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也  富士山戒旦ノ之御本尊在所ハ事ノ戒旦也」と記された処であります。

日寛上人が仰せられる「在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也」とは、戒壇の大御本尊様は、これから遠き将来の広宣流布に至るまでの間、ある時は土蔵に、ある時は校倉に、ある時は御宝蔵に、ある時は奉安殿にという風に、時の流れとともにお住まいをお移しになられている様を「理ノ戒旦也」と仰せられているのであります。

そして、広宣流布の暁の本門寺の戒壇=国立戒壇をつい指して「富士山戒旦ノ之御本尊在所ハ事ノ戒旦也」と御教示されているのであります。

ところが今日の坊主らは、大貳阿闍梨日寛上人が仰せられた「富士山戒旦ノ之御本尊在所ハ事ノ戒旦也」の御説法は「現在の大石寺の戒壇の御本尊様の在所のことを云い顕わされた御教示」などという、とんでもない邪義を口に筆に宣伝をはじめたのであります。

このような邪義を構える発端は、六十六世を継いだ日達が創価学会の池田大作に諂って、ニセ戒壇正本堂が広宣流布の「事の戒壇」であるとして、誰人も侵せぬ猊座の権威を笠に着て、内の八百万の純真な信徒と、仏法に疎い世間を口先三寸でたぼらかし、池田大作を喜ばすことに目的をすり替えていたのであります。

云く「国教でもない日蓮大聖人の仏法に国立戒壇なんてあり得ない。今建設中の正本堂が大聖人仰せの「事の戒壇」であります」(昭和45年5月3日創価学会総会)趣意と。

日達の最大の目的は、国立戒壇に対する世間の批判的をかわし、正本堂が広宣流布の事の戒壇に当るものだとして、創価学会の政治選挙を有利に進めるための教義歪曲だったのであります。日達という貫主は大聖人様の教義を曲げてまでして、創価学会が選挙に勝利を治める事だけしか考えのおよばない呆れた坊主だったのであります。

その日達の邪義に染められた坊主らは「表現の重複を避けた省略法は、宗祖の『聖人御難事』における『余は二十七年なり』にも見られるところであって、これに難癖をつける手口は他門流の輩となんら変わらない」などと、頓珍漢なことを書き連ねていますが、これ等は引証の誤りともいうべき的外れなものであります。

ここで聖人御難事の一節を拝見したいと思います。

「去ぬる建長五年四月二十八日に安房の国長狭の郡の内東条の郷・今は郡なり、天照大神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり、此の郡の内清水寺と申す寺の諸仏坊の持仏坊の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり。仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年にして出世の本懐を遂げ給う。其中の大難は申す計りなし先々に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。

右大将家とは天下人の源頼朝のことであります。その源頼朝が京都にあった天照大神の御くりやの一部を安房の国に移し、新たに天照大神の御くりやを建てたので「日本第二のみくりや今は日本第一なり」と仰せられているのであります。

天照大神とは、印度に応誕した釈尊が垂迹して、日本国に天照大神として出現された、我が国皇室の先祖のお姿の事であります。その天照大神は、大梵天王・帝釈天王・日・月・四天に次ぐ諸天善神の代表格に位置する日本国の守護神であります。その天照大神が、大聖人様が御誕生になられる直前になって、前以って安房の国に居処を移されて、御本仏大聖人様の御誕生を御守護申し上げるという、御本仏大聖人様と諸天善神の妙契の不思議を深く思うべきであります。

印度の釈尊は十九才で出家し三十歳で成道を遂げ、最後の法華経を説くまでの間、四十二年の歳月を要して法華経二十八品を説いて出世の本懐としました。中国の天台大師は、法華玄義・法華文句・摩訶止観を説いて本懐としたのであります。我が国の伝教大師は、仏法を実践して二十余年を経て、法華経迹門の円頓の戒壇を叡山に建立し、本懐を遂げているのであります。

そこで大聖人様が「余は二十七年なり」と仰せられている所以は、建長五年四月二十八日の立宗宣言の時に初めて、本門の題目たる南無妙法蓮華経を御唱えになられてから、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を御図顕になられるまでの間を振り返られて「余は二十七年なり」と仰せになられたものであって、御本仏としての御本懐を遂げられた時間的なことを表現為されているのであります。しかしながら大聖人様の御本地を尋ねれば、元々久遠元初の自受用身の御本仏様であらせられるのであります。それが日蓮大聖人として、貞応元年二月十六日、安房の国(千葉県)長狭郡東条の郷小湊に再誕為されたということであります。

坊主らは知ったかぶりをして、大聖人様が「余は二十七年なり」と仰せられた理由は、言葉の重複を避ける為に仰せられた等と、まるで頓珍漢なことを記していますが、これこそは、馬鹿を絵に画いたような構図であります。