亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

坊主は重箱の隅を突いて赤恥を晒している

2014年05月28日 09時06分48秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.87~93)に、六、『大坊棟札は日興上人筆』という誤まり」という表題を付けて、坊主らは浅井会長を黙らせるには、これ以外に方法は無いとばかり青筋立てて力んでいます。

云く「浅井にとって、大坊棟札は、天母山築檀を宗開両祖以来の教義とするための、唯一の文証である。これが後世の偽作ということになれば、浅井は、自説に破綻をきたしてしまう。ゆえに、彼は、死に物狂いで棟札偽作を否定せんとするものである」等として、大坊棟札に記された、署名の誤り、日付のずれ、内容の不審、書風の真贋、花押の欠如、等々を挙げて棟札が贋作であることを立証すべく、日亨上人の鑑定書おぼしき直筆の感想文を紹介しながら、浅井会長が主張する全ての論拠を槍玉に挙げ、大坊棟札の存在そのものを完全否定しています。

日亨上人の云く「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊なるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし。石田博士も予と同意なり。徳川時代のもの」と。

然しながら、この大坊棟札そのものをニセ物扱いして全面否定するところに、どれほどの意味があり、どれほどの価値を見出すことができるというのでしょうか! 大いに疑問の残るところであります。このような内向きの暴露的・自虐的信心には、外へ向かって打って出る折伏の精神は何処にも存在しない故に、功徳は一切生じないのであります。大坊棟札に記された貴重な内容は、大聖人様の三大秘法の義を余すとこ無く、正しく伝えて、来るべき広宣流布に備えての重々の訓戒が記されているのであります。

例えば、広宣流布の時には天母ヶ原一帯は、一大宗教都市が形成されることを予測され、大坊棟札には「六万坊の坊舎を建てる必要」があると記され、大石寺は来たるべき広宣流布に備えて「修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し」等と記されているとのことであります。

故に第六十五世を継がれた日淳上人は「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と仰せられ、大坊棟札に記された一文を引かれて、元朝勤行の謂れをひも解かれ、大坊棟札を真正な重宝として取り扱われ、決して贋作呼ばわりなどしてはおられないのであります。

このように大坊棟札に記述された内容は、ことごとく日蓮大聖人様の三大秘法義を正しく伝え、富士門流が広宣流布へ向かって闘いを進めるに当たって、真に有益な大事が記されている以上は、日亨上人や邪義班の坊主らが是れを目の敵にして、贋作呼ばわりする神経を疑うのであります。このような生産性のない下らない議論は、即刻止めるべきであります。

惜しむらくは、日亨上人に至っては本件の大坊棟札に限らず、本門戒壇建立地の天母ヶ原についても、「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべしや」(富士日興上人詳伝)と仰せられたとしていますが、富士山南麓の広博の地たる天母ヶ原を寸地と決めつけて、本門寺の戒壇=国立戒壇建立地にケチをつけられている貫主上人は、日亨上人唯一人であります。その御先棒を担いで大騒ぎをしているのが、他ならぬ邪義班の坊主らであります。

ところが、第五十六世を継がれた日応上人は「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原ともうす曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって----」と御示しなのであります。

日応上人は「富士山の麓に天生ヶ原ともうす曠々たる勝地あり」(御宝蔵説法本)と仰せられ、片や、日亨上人に至っては、「空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべしや」(富士日興上人詳伝)と、真逆なことを仰せられる。この相違、何とも理解に苦しむところであります。

日本の名山たる富士山の南麓は、富士山を背にして遥か正面に雄大な太平洋をのぞみ、駿河湾まで広がる緩やかな天母ヶ原の名を冠する広大な丘陵地は世界にも類例を見ない、戒壇の大御本尊様がお住まいになられる本門寺の戒壇=国立戒壇の金剛法座としては、是れに比類する所は二つとして存在しないのであります。この絶景の地を目の当りにすれば、今さら論ずるまでもない話であります。広宣流布の暁には、この自然豊かな地に国立戒壇とともに、時の天皇陛下のお住まいになられる王城も隣接して築城されるのであります。この未曾有の仏事が事相となる日を想像すれば、全身がぞくぞくする感動と感涙を抑えきれない、未曾有の凄い時代の当来を想像するのであります。

仮に、大坊棟札に御本仏大聖人様の三大秘法義に、真っ向から背逆する邪義が羅列されているものなら、大いに贋作呼ばわりして焼却処分にでもすれば良いだけの話しであります。ところが大坊棟札には、三大秘法の正しい法義が整然と示されている稀有の重宝というべきものであります。是れを目の敵にして贋作呼ばわりする坊主の神経こそ、大いに問題にすべきなのであります。

何故に唯一の正系門家を誇る御本仏大聖人様の嫡流の日蓮正宗の信心が、このような内向きの重箱の隅を突くような、下劣な信心姿勢に陥ってしまったのでしょうか! 元々富士門流の信心は、法華折伏・破権門理の宗旨を掲げる唯一つの宗門なれば、あの日達以来の邪義を一刻も早く一掃して、本来の上代の清らかな宗開両祖の源流に立ち帰へり、速やかに外の邪宗・邪義の撲滅に打って出るべきであります。

唯一の正系門家の信心が、大聖人様以来の真っ直ぐな信心に住して、本門寺の戒壇=国立戒壇を目指して闘っていた頃の貫主上人の御教導は、本門寺の戒壇=国立戒壇を達成する大願を異口同音に叫ばれ、信徒も愚直にそれに信伏随従する信心で、身に余る妙々の功徳を得て、一人残らず成仏させて戴いたのであります。

悲しいかな今日の宗門は、日顕をはじめ日如に次ぐ能化といわれる高僧らが、若い所化小僧を些細なことに因縁を付け目に余る殴る蹴るの暴力を振るっている異常な暴力シーンがユウチュウブ動画や朝日新聞等で報道されるという、まことに破廉恥な実態が報道されていますが、大聖人様の御顔に泥を塗るに之に過ぎたる冒涜は無いのであります。

法を下げるにも限度を超えたものがあります。是れ、須らく悪僧日達が垂れ流した国立戒壇を否定する邪義と「事の戒壇」に二重の義があるとする己義・邪説が根源なのであります。御書には「源濁れば流れ清からず」あるいは「根本滅するに於いて、豈枝葉栄へんや」との御金言がありますが、今こそ、この御教示を謹んで深く味わうべきであります。











本門戒壇は天母原ではなく、富士大石寺境内でいいんだ

2014年05月24日 17時51分14秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.85~87)に、五、「天母山戒壇は富士の教義という妄想」という表題を付けて、坊主らが顕正会の浅井会長を誹謗しています。

要するに坊主らの難癖は、浅井会長が主張する広宣流布の暁の本門戒壇建立の場所は、明らかな間違いだとして騒いでいるのでありますが、「天母山」戒壇説については、あの日達が昭和45年4月3日、浅井会長を本山呼びつけて『大御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』と記された御宝蔵説法本を持ち出して来て、これは日応上人の直筆の本だと嘘をついて、「戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇と言っていいのです」等と声を荒げて、浅井会長を法主の権威でねじ伏せようとしたことがありましたが、それは日応上人の御筆のものではなく、第六十世日開上人の御宝蔵説法本だったのであります。

それは兎も角、その時、浅井会長の反論に遭って逃げ場がなくなった日達が日辰以来の「天母山」戒壇説を口走ったのであります。それを坊主らは鬼の首を取ったごとく、顕正会の浅井会長の発言だとして因縁をつけ、「天母山」戒壇説は間違いだ、妄想だとして騒いでいるのであります。

昭和45年4月3日の本山に於ける、日達と浅井会長のやり取りの一部(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)を再現すると、次のごとくであります。

対面所にお出ましの細井日達管長は、『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』を片手に振りかざし、照れくさそうな笑みを浮かべつつ、「よく書けていますね、誰もこうは書けないでしょう。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」と云われた。思いもかけぬお言葉であった。だが、次いで云われた。

「この中に引用の先師の『御宝蔵説法』は日応上人のものですね。あれには省略されている部分がある。これがその原本です。大事なものだから人に見せるべきではないが、この中に、戒壇の大御本尊まします所は、『事の戒壇』とあるのです」甚だしい非礼・僭越とは思ったが、ことは重大である。私は敢えて、「お見せ頂けますか」と願い出た。

猊下は、「大事なものだから全部は見せられないが」と、前後の行を両手で隠しつつ、その部分だけを見せて読み上げられた。(日達のやることはセコイですね~)

「『大御本尊いま眼前に当山に在します事なれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから、戒壇の大御本尊まします所は御宝蔵であれ、奉安殿であれ、事の戒壇といっていいのです」

「原本」といって示された毛筆の本は、日応上人の御筆跡ではなかった。いずれにしても、文の全体を拝見しなければ部分の文意はわからない。私はお伺いした。

「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それまで御本尊まします御宝蔵・奉安殿を『義の戒壇』と申し上げてきたのではないでしょうか-------」

猊下は怒り色を面に表し、「あんた、二座の観念文になんてあります。『事の一念三千』とあるでしょう。戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊まします所は事の戒壇なのです」

「お言葉ですが、『事の一念三千』の『事』とは、文上脱益理の一念三千に対して、『事』と仰せられたので、これは法体の上の立て分けかと思われます。したがって、いま戒壇における、『事』と『義』の立て分けとは、次元が異なるように思われますが------」

「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇といっていいのです」

怒気を含む強い調子で、同じ言葉を繰り返された。

しかし、「いつでも、どこでも事の戒壇」となれば、御遺命の戒壇と正本堂の区別がつかなくなる。最も重大な核心はここにある。私は詰めてお伺いした。

「では、御遺命の事の戒壇はどうなるのでしょうか。正本堂は果たして三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された事の戒壇なのでしょうか」

猊下は困惑の色を示ししばしば沈黙されたが、やがて意を決したように、「広宣流布の時の事の戒壇は国立ですよ」と明確に云われた。重ねて念を押させて頂いた。

「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」

「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」と。

以上のやり取りのごとく、天母山戒壇説を主張していたのは、浅井会長ではなく、この時点では、日達の方が天母山戒壇説を強力に主張していたのであります。ところが、それも日ならずして豹変し、ニセ戒壇正本堂が本門戒壇堂に当たる建物、等とした邪義を展開するようになるのでありますが、日達は遥かそれ以前に、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)等と、驚くような邪義を垂れ流していたのであります。

浅井会長は、「天母山は中心に約せば山となり、麓(ふもと)に約せば原となる」と仰せになられていますように、本門寺の戒壇=国立戒壇建立の場所は、物理的実状から考えれば、広博の天母ヶ原となることは当然でありますゆえに、浅井会長が天母山戒壇を主張する筈は有り得ない話であります。

昭和四十七年四月二十八日、管長職に在った悪僧日達は、日蓮正宗・細井日達の名を以て、将来に亘って取り返しのつかない「訓諭」の形を用いて邪義を内外に宣揚したのであります。訓諭とは、天皇陛下の詔勅に値すると謂われるくらい権威のある、貫主としての最高の指南書と云われるものであります。

訓諭に云く「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時に於ける戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。

ところが後に日達の後を継いだと称して猊座を簒奪した日顕は、教学部長をしていた当時、日達に対する胡麻磨り三昧が高じたか、次のように仏法を曲げて大聖人様に背くことが当然のごとく、血脈を受けた貫主の権限を最優先すべしとしているのであります。

云く「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処かであるかは、唯授一人の血脈を詔継され、時に当って仏法上の決栽を示し給う現法主日達上人の御指南を基とすべきである。天母山の問題もありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであるという事が現在、御法主上人猊の御指南であったわけでございます」(大日蓮 昭和49年8月号)等と。

要するに本門戒壇の建立に当っては、大聖人は一応富士山と定められてはいるが、時に当って、その権限を有するものは大聖人ではなく、血脈を継承した貫主の胸先三寸に在るのだと言っているのであります。しががって、天母山の問題はあるものの、そんなものは大聖人が「霊山浄土に似たらん最勝の地」と言っていたかも知れないが、現下の実状を考えれば、大石寺境内の臭骨に汚れた墓地だった場所が、最も相応しい、事の戒壇の建立地であると言っているのであります。

良くもこれほどまでに大聖人様の仰せを蔑ろにして仏法を曲げることができるものです! 大聖人様は三大秘法抄に、本門戒壇建立に当っては、「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」と仰せ給い、二祖日興上人に対しては一期弘法付嘱書に、より具体的に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と誠誡し給いて「時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と厳誡せられているのであります。

日本国の名山たる富士山の中でも「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、南麓の天母ヶ原以外には何処にも無いのであります。

依って、第二十六世日寛上人は「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と、富士山麓の最勝の地たる天生原を御示しなのであります。

つづけて第五十六世日応上人は「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立有りて」(御宝蔵説法本)と仰せられています。

第六十世日開上人は「本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし、又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊今眼前に当山に在す」(御宝蔵説法本)と。

広宣流布の暁に本門寺の戒壇=国立戒壇が建てられる時は、本化聖天子たる時の天皇陛下(無辺行菩薩の後身・再誕日興上人)が本門戒壇の大御本尊と共に寝起きをともにあそばされ、国家を代表して戒壇の大御本尊様を御守護申し上げることになっているのであります。その時の御座主は、浄行菩薩の垂迹・日目上人なのであります。

云く「本門寺建立の時は、新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内・山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として菅領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし」(日興跡条々事)と。

亦云く「「仏法と申すは本源体一なり。居処随って相離るべからざるか、乃至、然れば駿河の国富士山は広博の地なり。乃至、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり」(富士一跡門徒存知事)と。

この事相、何と表現すれば良いのでしょうか、思わず背筋に強烈な電流が走り、抑え難い身震いとともに大感動を覚えるのであります。

この事相を讃嘆して浅井会長の云く「明文白義天日の如し、全く王仏冥合の事相、大聖人の御本願を此処に拝し奉る。仏法・王法の本源体一の金文をただ理に約した一往の拝しに止まってはなるまい。これぞ本国土妙・王法の淵源を明かし給う御文ではないか。されば事の広宣流布の時来たれば、天子自ら本門戒壇を丑寅の方角に望み、王城を築き一処に居し、身を賭して守護し給うのである。事相の王仏冥合、三大秘法抄の明文、ここに於いて豁然と輝く思いである」と。

今日の狭隘な大石寺の周辺には、王城を隣接して築城することは物理的には絶対不可なのであります。坊主らが仏法を曲げるのも好い加減にしなくてはならないのであります。






性懲りもない邪義には癖々してきた

2014年05月19日 10時34分47秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.78~85)に、四、「日相上人文書について」の迷妄と題して、「浅井が破門された翌年にあたる昭和五十年、本宗に蔵する数多の古文書の中から、四十三世日相上人御筆の御書科段『三大秘法の事-----大弐阿闍梨(日寛上人)御講聞書』が公表された」と称して、是れが日相上人の直筆に依るものとして掲げ、それを目にした浅井は、この内容に衝撃を受け、次のごとき疑難を加えてきた」等と、またまた大騒ぎをしています。

それは坊主らの次のような記述に依るものです。云く「日相上人の御文書には、『大弐阿闍梨御講』とあって、この御法門が寛尊より口述で伝承(口伝)したことを示している」(P.82)との記述に対する感想を浅井会長が述べたものであります。

浅井会長の云く「あたかも日相上人が日寛上人の御説法を直接聴聞して書き留めたようにとれる。しかし第四十三世日相上人は、日寛上人の入滅四十四年後に出家されてた御方である。どうして直接聴聞することができようか。またこの古文書が「最近で出てきました」などというのも、いかにもウサン臭い」と。

そこで坊主の頭に血が上り「この日相上人文書が近年公表されたことをもって「いかにもウサン臭い」などというのは、『百六箇抄』や『本因妙抄』(いずれも大正十年の宗学要集、昭和十一年の宗学要集を経て、日亨上人により公開された)を疑う他門流の論法と何ら変わるところがない。もし、本気で疑わしいというのなら、筆跡等の上から明確な根拠を挙げていうべきで、軽々しい邪推に依る疑難は慎むべきである」等と、目を三角にして的外れの非難を浴びせています。

しかしながら浅井会長が仰せの疑難は、日相上人の御講聞書の真贋を指摘されたものではなく、日相上人が聞書の中で仰せられる三秘総在の戒壇の大御本尊を、六大秘法と開いた場合の法門上の捌きは宗門七百年来の伝統教義を踏まえた形で表現為されたものであるのに対し、坊主らは、戒壇の大御本尊の御座所を「根源の事の戒壇」としているのでありますが、そのような邪義は、今さら取り上げる問題ではないので「最近出て来た」という事に引っ掛けて、それを「いかにもウサン臭い」と言ったまでの話であります。

即ち日相上人は御講聞書の中で、本門戒壇について「在々處々安置之處ハ理の戒旦也」と仰せられ、次に「富士山戒旦ノ御本尊在處は事ノ戒旦也」と筆写せられているにも拘らず、坊主らはその御文をとらまえて、これは「根源の事の戒壇を示された御文である」と称しているのでありますが、何処をどう読めば「根源の事の戒壇を示された御文」に読めるのでしょうか! 謗法の罪過が災いすると、本当に頭がおかしくなる良き事例であります。

つづけて浅井会長は、さらに坊主らの無能をからかうつもりで、真偽をおりまぜながら次のように仰せです。

云く「この文書について、細井管長は二つの誤りを犯している。一つには、この文書があたかも日寛上人の御本意(阿部管長は『密意』といっている)を伝えているごとく扱っていること。二つには文意の取り違えである」として問題提起をしています。

はじめに「一についていえば、あの用意周到な日寛上人が、このような形で、大事のご訪問を後世に伝えられるわけがない。日寛上人の御法門は、六巻抄および重要御書の文段に尽き、それ以外にはない。(中略)日寛上人がどうしてメモのごとき日付も署名もない文書で、大事の御法門を後世に伝えようか。しかもこの文書は上人の直筆でもない。後世の日相上人が、御自身の勉学のために作られたメモにすぎないではないか。焼灼たる六巻抄等、寛尊の御本懐の重書を差し措き、かかる後世のメモに御本意ありとするのは、いかにも見えすいた謀りといわねばならない」等と仰せられ、坊主の無能と不真面目な所行を叱りつけているのであります。

つづけて「第二の文意の取り違えについて、細井管長は『戒壇の御本尊安置の処が事の戒壇である』と言っていわけであるが、もしそうならば、三大秘法抄の御遺命は必要なくなってしまうではないか。日寛上人がこのようなことを仰せられるわけがない」と。

此処で日相上人が御講聞書に記された三大秘法の開合の相を拝見したいと思います。

はじめに本門の本尊については「人本尊=日蓮大聖人」-「法本尊=事の一念三千の本尊」とされ、本門の題目については「信行=智妙」-「口唱行=行妙」とされ、本門戒壇については「在々處々安置之處ハ理の戒旦也」と仰せられ「富士山戒旦ノ御本尊在處は事ノ戒旦也」と明確に御示しになられ、広宣流布の暁の本門寺の戒壇の御事を筆写せられて、事・理の戒壇の違いを表記為されているのであります。まさしく日相上人の示された三大秘法の開合の相は、宗門古来の正しい伝統教義そのものであります。

そういう事からすれば、邪義班の坊主らが鳴り物入りで、大弐阿闍梨号を名乗られていた頃の日寛上人の御講聞書を筆写されたとする、日相上人の御筆記を敢えて持ち出して大騒ぎをする意味は何も無かったのであります。これこそ、バカを絵に画いたような構図であります。

ところが坊主らの邪義に依ると、日相上人の御筆記の中に「富士山戒旦ノ御本尊在處は事ノ戒旦也」と仰せられている御文は「根源の事の戒壇」のことを示し、広宣流布の時には別の「事の戒壇」が有るとした邪義を垂れ流しているのであります。要するに坊主らは「事の戒壇」には、二重の義があるとして、頑迷にも間違いだらけの邪義・邪説を、口角泡を飛ばして宣伝しているのであります。

此処でもう一度、日相上人が御講聞書で仰せられた、本門戒壇についての御教示についてお浚いすれば「在々處々安置之處ハ理の戒旦也」と「富士山戒旦ノ御本尊在處は事ノ戒旦也」と、分けて仰せられている御筆記に細心の注意を払うべきであります。

日相上人が本門戒壇について御示しの真意は「在々處々安置之處ハ理の戒旦也」とは「義の戒壇」の御事であります。広宣流布するまでの間の本門戒壇の大御本尊の御座所を御示しになられた御文なのであります。即ち、戒壇の大御本尊様はある時は土蔵に、ある時は校倉に、ある時は御宝蔵にと、塔の中に秘仏としてお住まいになられているのであります。そのお姿を日相上人は「在々處々安置之處ハ理の戒旦也」と筆記せられているのであります。

同じく本宗第六十四世の日昇上人は、昭和三十年に新築された奉安殿の落成慶賛文で「義の戒壇」について、次のような訓戒を垂れられています。

云く「夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生帰命の法体、一宗依止の当体なり。宗祖大聖人弘安二年十月十二日之を建立して、血脈付法の二祖日興上人に身に宛て給わるところなり。上人身魂を尽くして護持し大石の寺に奉安し、一閻浮提の座主日目上人に付嘱してより、血脈の法主瀝世に奉戴し、或る時は校倉を、或る時は土蔵を宝蔵として奉安し、専心に守護し、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。----- 血脈付法の法主を継げる日昇-----『時を待つべきのみ、事の戒法とは之なり』の金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖尊の法魂安穏に常住し給わんことを」(奉安殿落成の慶賛文)と仰せられています。是れ即ち「義の戒壇」であります。

翻って日相上人が「富士山戒旦ノ御本尊在處は事ノ戒旦也」と仰せられている御教示はまさしく広宣流布の時の「事の戒壇」であります。そのお姿は広宣流布が達成された暁に、富士山天母原にお出ましになられ、本門寺の戒壇=国立戒壇に永遠にお住まいになられるお姿を「富士山戒旦ノ御本尊在處は事ノ戒旦也」と御講聞書に筆写せられたものであります。

坊主らが垂れ流す「事の戒壇に二重の義がある」などとするバカげた話は、日達が池田大作の施す奢侈に溺れ、例のニセ戒壇正本堂を広宣流布の事の戒壇」などと宣伝するために、池田大作の意向に沿って構えた己義・邪説だったのであります。悲しいかな、悪僧日達は、彼の日昇上人が先の奉安殿落成慶賛文の中で訓戒された「必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後々の法主も一心同体たるべきと確信す。願わくば宗祖大聖尊の法魂安穏に常住し給わんことを」との血を吐くような、御本仏大聖人様に対し奉る至誠を弊履のごとく踏みにじり、宗門七百年の清浄無染の大石寺を土泥の山としてしまったのであります。

あろう事か悪僧日達は、似非信徒の池田大作と共謀して、本門戒壇の大御本尊が清浄の奉安殿に広宣流布するまでの間、安息の場として安穏に常住し給わんことをとして念願して建立した塔から引きずり出して、キリスト教神父で汚されたニセ戒壇正本堂に強引に遷座せしめ、外道の神父を含む多くの謗徒の目に晒し、辱めを受けさせたのであります。

このような大謗法は如何なる理由を以てしても許される筈はなく、御本仏大聖人様に対し奉る最大の冒涜に当たるのであります。まさしく背筋が凍るとは是れであります。

御本仏大聖人様の嫡流を誇る唯一の正系門家と謂われる日蓮正宗の教義が、時の貫主によって、似非信徒の池田大作の傲慢におもねる余り、三大秘法抄で仰せの戒壇義を徹底して破壊してしまったのであります。このような大それた大謗法により、日本国は、愈々千里の果てより、取り返しのつかない災いを招き寄せる事になるのであります。








どこまで三大秘法義を曲げれば気が済むのか

2014年05月14日 18時01分57秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.74~78)に、三、「歴代御教示」についての曲会と題して、「日寛上人の『六巻抄』は、本宗相伝による教学を、はじめて体系化して示され、以後の本宗教学の理論的支柱となった重書である」とし、「しかしながら、この『六巻抄』における教学体系の表面には、根源の事の戒壇の法義は明確に示されていない」等と重ねて間違ったことを言い張っています。

その理由として「『六巻抄』の理論的体系は、不相伝家なるが故の他門流の邪義に対し、これを破折するため、御書の文証を基準として組み立てられた。そのため、事の戒壇についての御教示も、広布事相の戒壇を示された『三大秘法抄』の御文をもって、直ちに事の戒壇の文証とせられ、あえて根源の事の戒壇に関する御教示を差し控えられたのである。したがって、日寛上人以降の御歴代におかれても、こうした『六巻抄』の理論的体系を基として、戒壇についての御教示を展開あそばされた故に、あたかも、広布事相上の戒壇を基本の事の戒壇として、それ以前は、戒壇大御本尊所住の処を(義理が事の戒壇にあたる故に)義の戒壇とするの表現が拝せられる。しかしながら、これは、戒壇に関する法義の全てを、未だ明かすべき時至らざるの間の、時代に応じた御教示たることを知らねばならぬのである」等と性懲りも無く、いつもと変わり映えのない邪義・邪説を書き連ねています。

そこで浅井会長に対して「前著の『摧破異流義考』においても、“御歴代のどなたが仰せである。だから宗門古来からの定義である”等と強弁しても無意味である旨、述べておいたのだが、またしても浅井は、五十九世日亨上人が御登座前に著述された『日蓮正宗鋼要』からの引用文を挙げ、次のごとく断定した」として、浅井会長が述べられた正論を紹介しながら、改めて誹謗中傷を繰り返しています。

邪義班の坊主らは、日亨上人に限らず、貫首職に就かれる前と貫首職に就かれた後の御教示について、何故か区別し、如何に貫首職に就かれる前の御教示が正しい御教示であったとしても、その御教示を間違った御教示のごとくやり玉に挙げて非難しているのでありますが、以前であろうと、以後であろうと、一貫して正しい御教示であれば、其れを区別したり、非難する姿勢こそ非難されるべきであります。

浅井会長の云く「すなわち、事の戒壇とは広布の暁の国立戒壇、義の戒壇とはそれまでの戒壇の大御本尊のまします処、また嫡々書写の本尊所住の処も枝流として遠くその義の戒壇に当る。-----しかるに今、細井管長は、“戒壇の大御本尊まします処はいつでも事の戒壇”と言い出された。これでは御遺命の戒壇がぼけて、わからなくなってしまうではないか。明らかに為にする己義と云わねばならない」と正論を述べられているのであります。

ところが此の正論に対し、邪義班の坊主らは口をへの字に曲げて浅井会長の解説に異を挟み、悪質な誹謗中傷を加えています。

云く「何を言っても耳に入らない。浅井の異常な独善性には、まったく閉口されるが、このように、“どなたが仰せである、だから古来からの定義である”という一点を強調し、会員達を欺く以外、もはや、彼の主義主張と、彼の生活基盤である会組織とを、維持することができないのであろう。ともあれ、この浅井説につき、一点だけ破折を加えておく」などとして、凡そ、正系門家の出家僧侶らしからぬ、驚くような無能な論を繰り返し、浅井会長を虚仮にしています。

つづけて「浅井は、根源の事の戒壇の法門が説かれることにより、「御遺命の戒壇がぼけて、わからなくなってしまう」と思っているようだが、そもそも宗祖御遺命とは広宣流布による立正安国(正法を立てて国土を安穏にすること)であり、大本門寺戒壇建立は、その御遺命達成を象徴する目標を示されたものである。しかして、肝心な、国土を安穏にする功徳は、広宣流布すべき根源の法体-----戒壇大御本尊に具わっているのであって、なにも、戒壇の建造物自体にその功徳がある訳ではない。この点をしっかり弁えておらぬから、何か、事相に立てる戒壇それ自体に国土安穏の功徳があって、それ故に、これの建立を宗祖が御遺命されているかのごとき、本末転倒の心得違いが起きるのである。されば、根源の事の戒壇の法門が明かされたとて、なにも、宗祖の御遺命たる広宣流布・立正安国がぼけて、わからなくなる』ことはありえぬし、むしろ、ことさらに『御遺命の戒壇』云々といって、建築物それ自体に重大意義があるかのごとく強調する浅井の説こそ、広布の根源にあたる戒壇大御本尊の功力を『ぼけて、わからなく』してしますのではないか」等と、お門違いの無能さを曝け出しています。

此処で邪義班の坊主らの無能と認識不足について、上記の見当外れの邪義に、次の四項目を設けて徹底して破折を加え、この機に、邪義の根を完全に切断することにします。

①「大本門寺戒壇建立は、その御遺命達成を象徴する目標を示されたものである」について

坊主らは、広宣流布の暁に「勅宣並びに御教書」を以て、大本門寺の戒壇=国立戒壇を建立することが、単なる「御遺命達成を象徴する目標を示されたものである」との浅薄な認識しか持ち合わせていないようですが、バカ丸出しであります。

国立戒壇を建てることは、日本国の柱を立てて、仏国を実現することになるのであります。そのことを下種本仏成道御書に斯く仰せであります。

「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頸切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり。此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人(しびと)なり、日蓮は日本の人の魂なり」と仰せ下さるのであります。

御本仏大聖人様が斯く仰せ下さる御文を、あえて下手な解説を試みれば、次のごとくであります。

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」とは、日本国の人々が日蓮大聖人様を国家的に尊崇して永続的に栄えるか、それとも捨てて亡国の苦悩を味わうかは、偏に日蓮大聖人様を国家の柱として立てるか、立てないかで決まるのでる。譬へば、家に柱が無ければたもたない。人に魂が無ければ死人と同然であるごとく、日蓮大聖人は日本国の人々の魂であり、柱である」と。

御本仏日蓮大聖人様の三大秘法を国家的に立てて、御守護申し上げることは、仏様を魂とする国になるという事でありますから、国立戒壇を建てて尊崇申し上げれば、その時、日本国の魂は、戒壇の大御本尊となるのであります。まさしく仏様を魂とする国は仏国であります。その時、戦争や飢餓や疫病等の三災七難から解放された仏国土が顕現するのであります。そのことが国立戒壇の秘術なのであります。

そのことを安国論に「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち、三界は皆仏国なり。仏国其れ衰えんや、十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん」と仰せのごとく、国立戒壇建立の功能は、三大秘法の甚深の妙用に依って、国自体が、防非止悪の働きを顕現する当体となるのであります。

今日の国際社会は、まさしく弱肉強食の食うか、食われるか、の様相を呈していますが、同じように、日本国内の実態も弱肉強食の社会そのものであります。ところが国立戒壇建立の妙用は、是れを一変するような、防非止悪の自利・利他の働きに変わるのであります。

例えば国立戒壇の妙用は、国家に於いては慈悲の政治が行われ、自国の利益のために他国を害するような事は無くなり、弱い者が社会から虐げられるようなことは当然無くなるのであります。依って、日常茶飯事と化した殺人や強盗、放火や汚職、或は年老いた老人を騙して金品を騙し取る“振り込め詐欺”等の凶悪犯罪は、国立戒壇建立の力用によって、朝露のごとく、雲散霧消してしまうのであります。

この時、日本国が歴史認識や従軍慰安婦、あるいは靖国等の問題で国際的反日包囲網の中で嘲りを受け、内には自虐史観と贖罪意識で打ちひしがれた日本国内の様相は一変し、国家と日本の朝野に国民の迸るような自信と生命力がみなぎり、希望に満ちた無限の可能性が拓かれる事となるのであります。それは新たな文明開化とも云うべき様々な文化の発展と共に、妙法による産業革命がもたらされ、力強い民族の興隆がはじまるのであります。まさしく血涌き、肉躍る国家と民族の勃興であります。これこそが新時代の夜明けであり、新しい平和な時代の幕開けであります。何と素晴らしい前代未聞の時代の到来ではありませんか! 

今日の冷厳な国際社会の日本を見る目は、反日から親日へと変貌し、親しみと尊敬の羨望の眼で迎えられ、国際社会から名誉ある地位を与えられ、日本の王仏冥合の姿を各国が研究し、その要諦を尋ね、良き手本として各国が先を争って、日本国の生まれ変わった姿を見習い、三大秘法(本門文底下種の法華経)を受持することになるのであります。この時、世界中で巻き起こっている地獄・餓鬼・畜生の三毒にどっぷり浸かった、悲惨な戦争と、飢餓と貧困は一掃されるのであります。

此処で云う民族の興隆や文明発展は、決して荒唐無稽な観念論ではないのであります。インドで発生した釈迦仏法は、法華経(迹門文上の法華経)伝播の中ですでに歴史が証明しています。それは、仏教を基に発展したガンダーラ文明や、インダス文明が挙げられますように、我が国に於いては、聖徳太子の時代に発展・開花した、絢爛豪華な飛鳥文明や、天平文化がそれであります。

そのことを四十九院申状に「夫れ仏法は王法の崇尊によって威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と仰せなのであります。

王法とは一国の政治、あるいは国家、国主の威光勢力等を云うのであります。依って、国家の政治の目的は、国の安泰と国民の幸福を実現することにあります。而して是れを実現するには、国家が正しい仏法を立てなければ叶わないのであります。此処に王仏冥合の絶対的必要性が存するのであります。

広宣流布の暁に大本門寺の戒壇=国立戒壇を建立することは、国家としてそれほど重大な事なのであります。それを坊主らは、単に「大本門寺戒壇建立は、その御遺命達成を象徴する目標を示されたものである」等とする認識しか持ち合わせていないとは、呆れて二の句が出ないのであります。今の宗門にはこのような愚人しか居ないのであります。

本宗の第五十九世を務められた日亨上人の遺稿に、「嗚呼、愚人はいやだ、グータラベーはいやだ。国に多くなれば、国を危うくし、宗門にはびこれば、宗門を亡ぼすかも知れぬ」と仰せでありますが、正に時に当って、まことに味わい深いお言葉であります。

②「なにも、戒壇の建造物自体にその功徳がある訳ではない」について

坊主らは此処で大きな間違いを犯しているのであります。顕正会は一度たりとも「戒壇の建造物自体にその功徳がある」などとは言ってはいないのであります。

大本門寺=国立戒壇の建立は、国家的に三大秘法を守護して御本仏大聖人様を尊崇するか、しないか、という重大問題なのであります。坊主には、立正安国論で仰せられる正法治国・邪法乱国の原理がまるで理解できていないために、斯様なくだらない事しか頭に浮かばないのであります。また坊主には、御本仏大聖人様の御魂を国家的に国立戒壇を建てて尊崇申し上げることと、私的に貧弱な戒壇を建てて尊崇することの軽重すらも、まるで理解できていないのであります。御本仏日蓮大聖人様の敬い方を間違えると、反って仏罰を被る事にもなるのであります。

云く「かかる日蓮を敬うとも、悪しく敬はば国亡ぶべし」(下種本仏成道御書)とは是れであります。

③「何か、事相に立てる戒壇それ自体に国土安穏の功徳があって、それ故に、これの建立を宗祖が御遺命されているかのごとき、本末転倒の心得違いが起きるのである」について

広宣流布が達成された暁に、大本門寺の戒壇=国立戒壇を建てて三大秘法を国家的に護持することで、はじめて仏国が実現するのであります。坊主には、御本仏大聖人様の究竟の御本願が分かっていないので「本門戒壇の建立を宗祖が御遺命されているかのごとき」等と能天気なことを口走る事になるのであります。

④「ことさらに『御遺命の戒壇』云々といって、建築物それ自体に重大意義があるかのごとく強調する浅井の説こそ、広布の根源にあたる戒壇大御本尊の功力を『ぼけて、わからなく』してしますのではないか」について

坊主には、下種の御本仏様に対する拝し方が、まるで理解できていないから「建築物それ自体に重大意義があるかのごとく強調する浅井の説こそ」等と軽率な、馬鹿げたことが口をついて出て来るのであります。

広宣流布を目指し、国立戒壇建立に向けて日夜折伏戦に精進する実践行為が、何故に「戒壇大御本尊の功力が『ぼけて、わからなく』してしまう」ことになるのでしょうか! 坊主は折伏もぜず、信徒の供養でただ飯を喰らい、三大秘法を歪曲して地獄の道案内人に堕してしまったから、何が正義で、何が間違いなのか「ぼけて、わからなく」なってしまったのであります。

さらには、戒壇の大御本尊の在所は、何時でも、何処でも「事の戒壇」となれば、宗門が七百年の間、唯一の大目的、唯一の宿願として来た「事の戒壇」はすでに出来上がってしまった事となり、改めて「事の戒壇」を建てる必要と目的が「ぼけて、わからなく」なってしまったのであります。その悪弊が、今日の邪義と無気力と養老の腐敗堕落を誘発し、折伏なんて誰もやる気をなくしてしまった根本原因が此処に在るのであります。

このような邪義を垂れ流す坊主の責任を徹底して追及し、唯一の正系門家と謂われる日蓮正宗を一刻も早く甦えさせる必要があるのであります。今こそ三大秘法の教義歪曲を一掃して、功徳溢れる宗門に根本から立て直さなければならないのであります。

次に浅井会長は、第二十六世日寛上人、第三十七世日琫上人、第六十世日開上人方の「義の戒壇」に関する御説法を拝し、次のごとく正しく解説しておられます。

はじめに、第二十六世日寛上人の御説法

云く「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊住する上は、その住処は戒壇なり」(寿量品談義)と。

次に、第三十七世日琫上人の御説法

云く「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇はなけれども、此の戒壇の御本尊ましますことなれば、この処即ち本門戒壇の霊地にして、真の霊山・事の寂光土なり」(御宝蔵説法本)と。

最後に、第六十世日開上人の御説法

云く「事の広宣流布の時、勅宣御教書を賜り本門戒壇建立-----其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、いま眼前に当山に在すことなれば、此の所則是れ本門寺の戒壇なり」(御宝蔵説法本)と。

浅井会長の解説

云く「すなわち国立戒壇たる亊の戒壇が将来建てられることを大前提として、未だ時至らざるゆえに事の戒壇こそないが、そこに安置し奉るべき戒壇の大御本尊いまここにましますゆえ、この所は“義において事の戒壇”との御意を示されたものである。(中略)すなわち“直ちに事の戒壇はないが、戒壇の大御本尊ましますゆえにその義(意味合い)がある”という御意である。これを義の戒壇と申し上げるのである」と。浅井会長の義の戒壇に対する解説は、宗門七百年来の正義であり、三上人方の御意そのものであります。

ところが邪義班の坊主らは浅井会長の解説に異議をはさみ、驚くような意味不明の邪義を垂れ流しているのであります。その上、坊主らは、またまた関係のない穴文を挿入し、読む者をして混乱に陥れようとの魂胆が見え隠れしていますので、肝心な処を抜粋して、その誤りを破折することにしました。

坊主の云く「『御宝蔵説法』については、嫡々御歴代に相伝の意味をもって伝わる重々の御法門であり、『寿量品談義』は、御登座前といえども、日寛上人の御講述である故、浅井のいうごとき義が説かれているわけではない」等と。

坊主らの日本語は分かりづらいですね~、「御登座前といえども、日寛上人の講述である故、浅井のいうごとき義が説かれているわけではない」等と、何とも訳の解らない日本語を使っていますが、此の文を読んで意味が理解できる者は皆無だと思われるのであります。まさしく坊主の日本語は、ジャパ行きさんの日本語の如くであります。

この意味が通ずる言い方としては「御登座前といえども、日寛上人の講述である故、浅井会長の解説のごとく、宗門七百年来の正しい義の戒壇義が説かれている」となれば、立派な日本語となるのであります。

坊主らに言わせると、日寛上人の御講述が、あたかも間違っているが如き言説を弄していますが、日寛上人の御講述だからこそ、真実、甚深の正義が説かれているのであります。坊主は、日本語を一からやり直した方が良さそうです。

つづけて云く「御三師の御教示は、いずれも、“未だ広布の時至らぬ故に、事相の上に本門戒壇は建立されていないが、根源の本門戒壇大御本尊まします以上、この処は本門事の戒壇、事の寂光土である”と示されたもので、要するに広布の以前(事相に戒壇が建つ以前)であっても、戒壇大御本尊所住の処は根源の事の戒壇なることをあかされているのである。文章まことに明白、何らの説明も要しない」等と。

こうなってくると、「バカに付ける薬はない。馬鹿は死ななきゃ治らない」との論語を思い出すのであります。

そして亦、改めて思い出したのでありますが、当時、妙信講の浅井講頭が、昭和45年3月25日付けで、第一回目の宗門諫暁書として「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を提出しました。ところが、それに対する反論を試みるべく、第六十六世を継いだ日達管長がが、昭和45年4月3日の早朝、浅井甚兵衛顧問先生と浅井講頭の二人を本山の大奥に呼び出し、その面談の席で、日達は、先の第六十世日開上人の御宝蔵説法本を持ち出し、姑息にも、両手で前後の御文を隠しながら「いま眼前に当山に在すことなれば、此の所則是れ本門寺の戒壇なり」の御文を示して、いわく「正本堂だって、事の戒壇と言えますよ! 正本堂を事の戒壇と呼んで何が悪い」等と怒気を含んだ声で、「この本は寛尊より、もっと古い物です!」などとウソをついて、浅井甚兵衛顧問先生と浅井講頭を騙しにかかった事件がありましたが、今日の日蓮正宗の邪義は、この時から始まったのであります。何とも無慚な話であります。

最後に、本宗切っての大学匠と謂われた第五十九世日亨上人の「事の戒壇」に対する正義を示して、本項の破折を終えることにします。

云く「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが、事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。






宗門の邪義は回復不能の域に達したようだ

2014年05月09日 08時51分18秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.70~74)に、二、「事・義の立て分け」の曲会と題して、浅井会長の正論に難癖をつけ、とんでもない邪義・邪説を振りまいています。

云く「浅井は『戒壇の事と義の立て分けを改めて示す』として、日寛上人の『法華取要抄』を引き、次のごとくいう」として、浅井会長が仰せられる正論を紹介しながら、それにケチをつけ、邪義を並べて散々腐しています。

浅井会長の云く「初めに、戒壇の大御本尊まします処を『義の戒壇』とされ『故に当山は本門戒壇の霊地なり』と仰せられている。次に、嫡々書写の本尊所住もまた枝葉として義の戒壇に当る旨を仰せられている。義の戒壇の詳細はかくの如くである。そして次文に事の戒壇について正しく『事の戒壇』とは、秘法抄に云く云々と国立戒壇を仰せられている。日寛上人の事と義の定義、まことに明々白々である」と、宗門七百年以来の三大秘法の正義を簡潔に述べられています。

ところが邪義班の坊主らは、浅井会長の正論に難癖をつけ「この浅井の解釈は、切り文と歪曲によって構成されたものである」等として、日寛上人の「法華取要抄文段」の御文を引いて、驚くような邪義を展開しているのであります。

云く「『事中の事・理』すなわち、根源の事の戒壇を基本として、さらに広布事相上に建つ戒壇があることと、義理において根源の事戒に当る理(義)の戒壇があることを略示され、後者については迹門理戒にまぎらわしいので『義の戒壇と名づけ』る旨、示されている」として「浅井は、当抄の引用に際して、故意にこの文を除き、次下の文から引用しているが、それは、この「事中の事・理」という御教示が事の戒壇に二重の意のあることを顕わしており、浅井の立論にとって甚だ都合が悪いかである」等と、何とも訳の解らないとんでもない屁理屈をつけて、おぞましい邪義を展開しているのであります。

ここで邪義班の坊主らが言わんとしている邪義は、言語明朗・意味不明の間違いだらけの噴飯もので、屁理屈で構成された邪義であります。

日寛上人の法華取要抄文段には次のようにあります。「本門戒壇に事あり、理あり。理は謂く、義理なり。これ則ち事中の事・理にして、迹門の理戒に同じからず。その名に迷うこと勿れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ」の御文を挙げながら、邪義班の坊主らは下記に性懲りもない邪義を垂れ流しています。

法華取要抄文段の「本門戒壇に事あり、理あり」と仰せられた日寛上人の御教示を勝手に「本門戒壇に事あり」と切り文にして、それを「根源の事の戒壇」と解釈しているのであります。その上驚くべきは「『事中の事・理』という御教示が事の戒壇に二重の意のあることを顕わしておる」などと、とんでもない間違いを犯して邪義を宣揚し、未だ七百年来、聞いたこともない邪義を垂れ流しているのであります。そして「根源の戒壇を基本として」将来、広布事相上に建つ戒壇がある。と結論付けているのでありますが「根源の事の戒壇」なるものは何処にも存在しないにも拘らず「根源の事の戒壇」と、将来広宣流布の時の「事の戒壇」の二つがあると主張しているのであります。

そもそも広宣流布以前には「根源の義の戒壇」は存在すると雖も「根源の事の戒壇」なるものは存在しないのであります。将来広宣流布の暁に国立戒壇が立てられた時には「国立戒壇」を称して「根源の事の戒壇」と呼ぶことがあるかも知れませんが、広宣流布するまでの間は「根源のの戒壇」は存在しますが「根源のの戒壇」なるものは決して存在しないのであります。

つづけて坊主云く「義理において根源の事戒に当る理(義)の戒壇があることを略示され、後者については迹門理戒にまぎらわしいので『義の戒壇と名づけ』る」などと、まことに理解しがたい紛らわしい邪説を披歴しています。だいたい日寛上人仰せの法華取要抄文段の内、何処から何処までが前者で、どこからの御文が後者に当たるのか、その解説を最初からはぐらかしておきながら、偉そうな邪義を垂れ流しているのであります。ここで邪義班の坊主らの邪義を要約するならば、三秘総在の本門戒壇の大御本尊を、一大秘法、三大秘法、六大秘法という具合に開いた場合、事の戒壇が二つ有って、義の戒壇は存在しないと言っているのであります。

そして義の戒壇は、嫡々書写の本尊を義の戒壇としているのであります。結局邪義班の坊主らが展開する開合の法門は、事の戒壇が二つもある変則的な六大秘法となり、他所から持って来た本尊と合わせて、合計七大秘法となるのが正しい解釈で、浅井会長の解説は、とんでもない間違いだと騒いでいるのであります。

更に坊主云く「根源の事の戒壇を基本として、さらに広布事相上に建つ戒壇があることと、義理において根源の事戒に当る理(義)の戒壇があることを略示され、後者については迹門理戒にまぎらわしいので『義の戒壇と名づけ』る旨、示されている」というものですが、坊主らの主張を読んで、これを理解できる者は百人の内、百人が理解できないのであります、坊主らは、遂に頭破七分の様相を露わにして参りました。まことに謗法は恐ろしいのであります。

ここで邪義班の坊主らの間違いを改めて指摘するならば、その第一は「根源の事の戒壇を基本として、さらに広布事相上に建つ事の戒壇がある」という邪義と、第二は「義理において根源の事戒に当る理(義)の戒壇があることを略示された」という邪義であります。

邪義班の坊主らが必死に誤魔化そうとしている邪義こそ、此処で指摘した第二で主張している処であります。すなわち「義理において根源の事戒に当る理(義)の戒壇があることを略示された」という処であります。この戒壇こそが、広宣流布が達成するまで間、戒壇の大御本尊様の御座所のことで、これを「義の戒壇」とお呼びするものであります。日寛上人はこのことを「これ則ち事中の事・理にして、迹門の理戒に同じからず。その名に迷うこと勿れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ」と重戒為されているのであります。

坊主らが垂れ流す屁理屈を理解できる者は、国内の一流の国語学者でも歯が立たない珍論ではないかと思われるのであります。まさしく頭破七分の見本であります。そもそも三大秘法に「根源の事の戒壇」なるものは、何処を探しても存在しないのでありますが、あの六十六代の悪僧日達が池田大作に諂って、例のニセ戒壇正本堂を「一期弘法抄・三大秘法抄の意義を含む現時おける事の戒壇」(昭和47年4月28日の訓諭)というとんでもない邪義を吹聴しはじめた時から、「事の戒壇」に、二重の義があるという邪義を盛んに宣伝するようになったのであります。

邪義班の坊主らの許しがたい邪義は「顕正会の浅井会長は、日寛上人の法華取要抄文段の「本門戒壇に事あり、理あり。理は謂く、義理なり。これ則ち事中の事・理にして」の御文を意識的に隠して『義の戒壇』『事の戒壇』を論じている」などと難癖をつけているのでありますが、邪義班の坊主らは、法華取要抄文段の御文を引用しながら、解釈そのものが端から間違っているのであります。これを頭破七分の仏罰とでもいうのでしょうが、此の御文の正しい解説は、先のブログで詳述したとおりであります。

つづけて邪義班の坊主らが引用した次下の御文も「義の戒壇」を証明する文証として挙げた御文でありますが、結論として最後は見事に脱線しているのであります。

日寛上人は文底秘沈抄で次のように御教示であります。云く「初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ちこれ義理、事の戒壇に当るなり、経に云く『当に知るべし、この処は即ちこれ道場』とはこれなり、天台云く『仏其の中に住す、即ちこれ塔の義』等云々。故に当山本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり」との御文は、本門戒壇の大御本尊に限定した上で「義の戒壇」を論じ、さらに嫡々書写の本尊も枝葉として「義の戒壇」に当たると仰せられているのでありますが、その御文が頭破七分の咎により、まるで読めなくなっているのであります。

折角の機会なので上記の御文を要約し、邪義班の坊主らの間違いを糺して、日寛上人が仰せられる真意を解説することにします。

「はじめに義理の戒壇とは、本門戒壇の御本尊の所住の処は即ち、これは義理でいう処の事の戒壇に当たるのである。経に云く『正に知るべし、この処を即ちこれ道場』というのである。天台の法華文句十に云く『仏はその中に住している。すなわちこの姿を塔の義と釈するのであって、まさしく広宣流布のその日が来るまでは、どこまでも秘仏なのである』(御開扉と称して、坊主が食うための金儲けのために、毎月のように登山人員を各末寺に強制的に割り当て、戒壇の大御本尊様を利用する、怨嗟の声がでるような罰当たりの御開扉を許してはならない)と。斯くして、富士大石寺は本門戒壇の霊地というのである。その事を良く良く肝に命ずべきである。果敢な折伏戦によって、広宣流布の時が訪れたならば、世界中の山寺等は皆、嫡々書写の御本尊を安置するようになるのである。その処は皆枝葉として『義の戒壇』と称するのである」となるのであります。

ところが邪義班の坊主らは、次のような驚くべき間違った邪義を展開し、浅井会長を誹謗中傷しているのであります。

云く「この文中『本門の本尊の所住の処』を、浅井は『戒壇の御本尊まします処』と解釈しているが、心静かに全体の文意を拝するならば、ここにいう「本門の本尊」とは、特に戒壇の大御本尊を限定して指す意味ではない」すなわち、いまだ日本中が逆縁であった当時において、富士大石寺のみ、大聖人御所立の曼荼羅を「本門の本尊」として安置し、信奉するが故に、大石寺の意義は本門戒壇の霊地に当り、また、順縁広布の時代を迎えれば、大石寺のみならず、各地の寺々にも嫡々御歴代書写の御本尊が安置される故に、それらの寺院の意義も戒壇に当る、との意において義の戒壇を示されたのである」などとまことに解りづらい尤もらしい屁理屈を並べて余計な関係のない冗文を挿入し、読む人をして混乱に陥れているのでありますが、「本門の本尊の所住の処」と「戒壇の御本尊まします処」は、まったく同一の場所ことを指しているのであります。

それを「いまだ日本中が逆縁であった当時において、富士大石寺のみ、大聖人御所立の曼荼羅を「本門の本尊」として安置し、・・・・」などと余計な冗文を挿入して邪義を展開しているのでありますが、大石寺の存在は、逆縁広布の時代であろうが、順縁広布の時代だろうが、本門戒壇の大御本尊まします故に「本門戒壇の霊地」には、変わりないのであります。

結論として邪義班の坊主らは「本門の本尊」とは、大石寺に安置し奉る、大聖人はじめ嫡々御歴代の御本尊を、広く一般的に指す表現であって、これを、とくに戒壇大御本尊に限定する文意はどこにもない」としていますが、これが大きな間違いであり、これが今日の邪義の根幹なのであります。

そもそも日寛上人が此処で「本門の本尊」と仰せられた意味は、本門戒壇の大御本尊に限定された上での御教示であるにも拘らず、邪義班の坊主らは、複数の本尊を指す意味が込められているとして、嫡々歴代書写の本尊も「本門の本尊」と称すると言っているのでありますが、日寛上人が文底秘沈抄で仰せられる真意は「義の戒壇」「事の戒壇」の違いを御教示されているのであります。それなのに邪義班の坊主らは、本門戒壇の大御本尊と嫡々書写の御本尊を同列に並べて「本門の本尊」と決めつけてお呼びするのは、それ事態が間違いなのであります。

嫡々書写の御本尊を「本門の本尊」お呼びするのは、まんざら間違いではないものの、日寛上人が仰せられる真意を歪曲するにも限度を超えています。邪義班の坊主らが、敢えて本門戒壇の大御本尊と、嫡々書写の御本尊を同列に並べる理由は「義の戒壇」を説明するための手段として、このような手の込んだ方法を用いているのであります。邪義班の坊主らは、本門戒壇の大御本尊に限定して「義の戒壇」「事の戒壇」論ずることができないのであります。まさしく驚天動地の新説邪義というべきものであります。

かつて池田大作は平成三年に宗門と大喧嘩をして、宗門から創価学会の解散を勧告された事がありました。その時、池田は「御本尊は全部同じです」などと発言し、学会員に本門戒壇の大御本尊の存在を永久に忘れさせようとして、勤行教本の二座の観念文の中から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除して、解散勧告を無視して独立の道を選んだのでありますが、いま、邪義班の坊主らは、日寛上人が文底秘沈抄や法華取要抄文段の中で「本門の本尊」と仰せられた御教示に対し「大石寺に安置し奉る、大聖人はじめ嫡々御歴代の御本尊を、広く一般的に指す表現であって、これを、とくに戒壇大御本尊に限定する文意はどこにもない」等とする言い草も、池田大作の発言と何ら変わるものではなく、邪義を垂れ流す汚れた命は、池田と同根に在るものと思われるのであります。まことに恐ろしい現実であります。

邪義班の坊主らは、今日の宗門が垂れ流す邪義を教義上と歴史の上から正当化しようと、日寛上人が御存生当時の幕府の宗教政策を事例に挙げながら、言いたい放題のデタラメと嘘を書き連ねているのであります。

云く「日寛上人は、当時の徳川幕府の圧政下において、まだまだ戒壇の大御本尊が秘蔵中の秘蔵の扱いであったため、大御本尊に直接関わる根源の事の戒壇については、詳細を軽々説くことを避け、略示に止められた。これを、時至りて御先師日達上人が、体系的に、余すところなく明示あそばされたのである。すなわち、要を取っていえば、事の戒壇とは、戒壇の大御本尊まします処、いつ何時であろうとも根源の事の戒壇であり、これが広布の暁を待って、事相の上に大本門寺戒壇として顕現する。また義の戒壇とは、戒壇大御本尊の分身散影(枝葉、支流)たる他の数多の御本尊のまします処、その意義が事の戒壇に当たる故に、これを義の戒壇というのである、と。この日達上人の御教示により、まさに、日寛上人の御真意が明瞭になったといえよう」などと、臆面もなくデタラメな嘘八百と、恐るべき邪義・邪説を吹聴しているのであります。

日寛上人は「義の戒壇」「事の戒壇」については略示どころか、簡潔・明快にして、具体的に御示しになられていることは、文底秘沈抄と法華取要抄文段に明らかなのであります。

文底秘沈抄に云く「夫れ本門戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊の所住の処、義戒壇に当る故なり。例せば文句の第十に『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』と釈するが如し云々。正しく事の戒壇とは一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり。但然るのみの非ず梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり』等云々。宗祖云く『此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅して、三業の悪転じて三徳を成ぜんのみ』云々」と明確に御示しなのであります。

次に法華取要抄文段に云く「正に知るべし、本門戒壇に事あり、理あり。理は謂く、義理なり。これ則ち事中の事・理にして、迹門の理戒に同じからず。その名に迷うこと勿れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ち是れ義理、亊の戒壇に当たるなり。経に云わく、『正に知るべし、是の処は道場』」とは是れなり。天台の云わく、『仏その中に住す、即ち是れ塔の義』云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」と。

つづけて「次に正しく亊の戒壇とは、秘法抄に云わく『王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。亊の戒法と申すは是なり』」と。亦云く「問う、最勝の地とは何処を指すべきや。答う、応に是れ富士山なるべし。故に富士山に於いて建立すべきなり」と。

邪義班の坊主らよ! これでも日寛上人は「義の戒壇」「事の戒壇」について「略示に止められた」などという、デタラメな嘘をつき通すつもりですか! 恥を知りなさい。