「摧破異流義考」(P.87~93)に、六、『大坊棟札は日興上人筆』という誤まり」という表題を付けて、坊主らは浅井会長を黙らせるには、これ以外に方法は無いとばかり青筋立てて力んでいます。
云く「浅井にとって、大坊棟札は、天母山築檀を宗開両祖以来の教義とするための、唯一の文証である。これが後世の偽作ということになれば、浅井は、自説に破綻をきたしてしまう。ゆえに、彼は、死に物狂いで棟札偽作を否定せんとするものである」等として、大坊棟札に記された、署名の誤り、日付のずれ、内容の不審、書風の真贋、花押の欠如、等々を挙げて棟札が贋作であることを立証すべく、日亨上人の鑑定書おぼしき直筆の感想文を紹介しながら、浅井会長が主張する全ての論拠を槍玉に挙げ、大坊棟札の存在そのものを完全否定しています。
日亨上人の云く「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊なるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし。石田博士も予と同意なり。徳川時代のもの」と。
然しながら、この大坊棟札そのものをニセ物扱いして全面否定するところに、どれほどの意味があり、どれほどの価値を見出すことができるというのでしょうか! 大いに疑問の残るところであります。このような内向きの暴露的・自虐的信心には、外へ向かって打って出る折伏の精神は何処にも存在しない故に、功徳は一切生じないのであります。大坊棟札に記された貴重な内容は、大聖人様の三大秘法の義を余すとこ無く、正しく伝えて、来るべき広宣流布に備えての重々の訓戒が記されているのであります。
例えば、広宣流布の時には天母ヶ原一帯は、一大宗教都市が形成されることを予測され、大坊棟札には「六万坊の坊舎を建てる必要」があると記され、大石寺は来たるべき広宣流布に備えて「修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し」等と記されているとのことであります。
故に第六十五世を継がれた日淳上人は「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と仰せられ、大坊棟札に記された一文を引かれて、元朝勤行の謂れをひも解かれ、大坊棟札を真正な重宝として取り扱われ、決して贋作呼ばわりなどしてはおられないのであります。
このように大坊棟札に記述された内容は、ことごとく日蓮大聖人様の三大秘法義を正しく伝え、富士門流が広宣流布へ向かって闘いを進めるに当たって、真に有益な大事が記されている以上は、日亨上人や邪義班の坊主らが是れを目の敵にして、贋作呼ばわりする神経を疑うのであります。このような生産性のない下らない議論は、即刻止めるべきであります。
惜しむらくは、日亨上人に至っては本件の大坊棟札に限らず、本門戒壇建立地の天母ヶ原についても、「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべしや」(富士日興上人詳伝)と仰せられたとしていますが、富士山南麓の広博の地たる天母ヶ原を寸地と決めつけて、本門寺の戒壇=国立戒壇建立地にケチをつけられている貫主上人は、日亨上人唯一人であります。その御先棒を担いで大騒ぎをしているのが、他ならぬ邪義班の坊主らであります。
ところが、第五十六世を継がれた日応上人は「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原ともうす曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって----」と御示しなのであります。
日応上人は「富士山の麓に天生ヶ原ともうす曠々たる勝地あり」(御宝蔵説法本)と仰せられ、片や、日亨上人に至っては、「空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべしや」(富士日興上人詳伝)と、真逆なことを仰せられる。この相違、何とも理解に苦しむところであります。
日本の名山たる富士山の南麓は、富士山を背にして遥か正面に雄大な太平洋をのぞみ、駿河湾まで広がる緩やかな天母ヶ原の名を冠する広大な丘陵地は世界にも類例を見ない、戒壇の大御本尊様がお住まいになられる本門寺の戒壇=国立戒壇の金剛法座としては、是れに比類する所は二つとして存在しないのであります。この絶景の地を目の当りにすれば、今さら論ずるまでもない話であります。広宣流布の暁には、この自然豊かな地に国立戒壇とともに、時の天皇陛下のお住まいになられる王城も隣接して築城されるのであります。この未曾有の仏事が事相となる日を想像すれば、全身がぞくぞくする感動と感涙を抑えきれない、未曾有の凄い時代の当来を想像するのであります。
仮に、大坊棟札に御本仏大聖人様の三大秘法義に、真っ向から背逆する邪義が羅列されているものなら、大いに贋作呼ばわりして焼却処分にでもすれば良いだけの話しであります。ところが大坊棟札には、三大秘法の正しい法義が整然と示されている稀有の重宝というべきものであります。是れを目の敵にして贋作呼ばわりする坊主の神経こそ、大いに問題にすべきなのであります。
何故に唯一の正系門家を誇る御本仏大聖人様の嫡流の日蓮正宗の信心が、このような内向きの重箱の隅を突くような、下劣な信心姿勢に陥ってしまったのでしょうか! 元々富士門流の信心は、法華折伏・破権門理の宗旨を掲げる唯一つの宗門なれば、あの日達以来の邪義を一刻も早く一掃して、本来の上代の清らかな宗開両祖の源流に立ち帰へり、速やかに外の邪宗・邪義の撲滅に打って出るべきであります。
唯一の正系門家の信心が、大聖人様以来の真っ直ぐな信心に住して、本門寺の戒壇=国立戒壇を目指して闘っていた頃の貫主上人の御教導は、本門寺の戒壇=国立戒壇を達成する大願を異口同音に叫ばれ、信徒も愚直にそれに信伏随従する信心で、身に余る妙々の功徳を得て、一人残らず成仏させて戴いたのであります。
悲しいかな今日の宗門は、日顕をはじめ日如に次ぐ能化といわれる高僧らが、若い所化小僧を些細なことに因縁を付け目に余る殴る蹴るの暴力を振るっている異常な暴力シーンがユウチュウブ動画や朝日新聞等で報道されるという、まことに破廉恥な実態が報道されていますが、大聖人様の御顔に泥を塗るに之に過ぎたる冒涜は無いのであります。
法を下げるにも限度を超えたものがあります。是れ、須らく悪僧日達が垂れ流した国立戒壇を否定する邪義と「事の戒壇」に二重の義があるとする己義・邪説が根源なのであります。御書には「源濁れば流れ清からず」あるいは「根本滅するに於いて、豈枝葉栄へんや」との御金言がありますが、今こそ、この御教示を謹んで深く味わうべきであります。
云く「浅井にとって、大坊棟札は、天母山築檀を宗開両祖以来の教義とするための、唯一の文証である。これが後世の偽作ということになれば、浅井は、自説に破綻をきたしてしまう。ゆえに、彼は、死に物狂いで棟札偽作を否定せんとするものである」等として、大坊棟札に記された、署名の誤り、日付のずれ、内容の不審、書風の真贋、花押の欠如、等々を挙げて棟札が贋作であることを立証すべく、日亨上人の鑑定書おぼしき直筆の感想文を紹介しながら、浅井会長が主張する全ての論拠を槍玉に挙げ、大坊棟札の存在そのものを完全否定しています。
日亨上人の云く「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊なるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけたることのみ棟札らし。石田博士も予と同意なり。徳川時代のもの」と。
然しながら、この大坊棟札そのものをニセ物扱いして全面否定するところに、どれほどの意味があり、どれほどの価値を見出すことができるというのでしょうか! 大いに疑問の残るところであります。このような内向きの暴露的・自虐的信心には、外へ向かって打って出る折伏の精神は何処にも存在しない故に、功徳は一切生じないのであります。大坊棟札に記された貴重な内容は、大聖人様の三大秘法の義を余すとこ無く、正しく伝えて、来るべき広宣流布に備えての重々の訓戒が記されているのであります。
例えば、広宣流布の時には天母ヶ原一帯は、一大宗教都市が形成されることを予測され、大坊棟札には「六万坊の坊舎を建てる必要」があると記され、大石寺は来たるべき広宣流布に備えて「修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し」等と記されているとのことであります。
故に第六十五世を継がれた日淳上人は「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」(大日蓮 昭和34年1月号)と仰せられ、大坊棟札に記された一文を引かれて、元朝勤行の謂れをひも解かれ、大坊棟札を真正な重宝として取り扱われ、決して贋作呼ばわりなどしてはおられないのであります。
このように大坊棟札に記述された内容は、ことごとく日蓮大聖人様の三大秘法義を正しく伝え、富士門流が広宣流布へ向かって闘いを進めるに当たって、真に有益な大事が記されている以上は、日亨上人や邪義班の坊主らが是れを目の敵にして、贋作呼ばわりする神経を疑うのであります。このような生産性のない下らない議論は、即刻止めるべきであります。
惜しむらくは、日亨上人に至っては本件の大坊棟札に限らず、本門戒壇建立地の天母ヶ原についても、「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに、空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべしや」(富士日興上人詳伝)と仰せられたとしていますが、富士山南麓の広博の地たる天母ヶ原を寸地と決めつけて、本門寺の戒壇=国立戒壇建立地にケチをつけられている貫主上人は、日亨上人唯一人であります。その御先棒を担いで大騒ぎをしているのが、他ならぬ邪義班の坊主らであります。
ところが、第五十六世を継がれた日応上人は「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天生ヶ原ともうす曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって----」と御示しなのであります。
日応上人は「富士山の麓に天生ヶ原ともうす曠々たる勝地あり」(御宝蔵説法本)と仰せられ、片や、日亨上人に至っては、「空談にもせよ、天生原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎を建設せらるべしや」(富士日興上人詳伝)と、真逆なことを仰せられる。この相違、何とも理解に苦しむところであります。
日本の名山たる富士山の南麓は、富士山を背にして遥か正面に雄大な太平洋をのぞみ、駿河湾まで広がる緩やかな天母ヶ原の名を冠する広大な丘陵地は世界にも類例を見ない、戒壇の大御本尊様がお住まいになられる本門寺の戒壇=国立戒壇の金剛法座としては、是れに比類する所は二つとして存在しないのであります。この絶景の地を目の当りにすれば、今さら論ずるまでもない話であります。広宣流布の暁には、この自然豊かな地に国立戒壇とともに、時の天皇陛下のお住まいになられる王城も隣接して築城されるのであります。この未曾有の仏事が事相となる日を想像すれば、全身がぞくぞくする感動と感涙を抑えきれない、未曾有の凄い時代の当来を想像するのであります。
仮に、大坊棟札に御本仏大聖人様の三大秘法義に、真っ向から背逆する邪義が羅列されているものなら、大いに贋作呼ばわりして焼却処分にでもすれば良いだけの話しであります。ところが大坊棟札には、三大秘法の正しい法義が整然と示されている稀有の重宝というべきものであります。是れを目の敵にして贋作呼ばわりする坊主の神経こそ、大いに問題にすべきなのであります。
何故に唯一の正系門家を誇る御本仏大聖人様の嫡流の日蓮正宗の信心が、このような内向きの重箱の隅を突くような、下劣な信心姿勢に陥ってしまったのでしょうか! 元々富士門流の信心は、法華折伏・破権門理の宗旨を掲げる唯一つの宗門なれば、あの日達以来の邪義を一刻も早く一掃して、本来の上代の清らかな宗開両祖の源流に立ち帰へり、速やかに外の邪宗・邪義の撲滅に打って出るべきであります。
唯一の正系門家の信心が、大聖人様以来の真っ直ぐな信心に住して、本門寺の戒壇=国立戒壇を目指して闘っていた頃の貫主上人の御教導は、本門寺の戒壇=国立戒壇を達成する大願を異口同音に叫ばれ、信徒も愚直にそれに信伏随従する信心で、身に余る妙々の功徳を得て、一人残らず成仏させて戴いたのであります。
悲しいかな今日の宗門は、日顕をはじめ日如に次ぐ能化といわれる高僧らが、若い所化小僧を些細なことに因縁を付け目に余る殴る蹴るの暴力を振るっている異常な暴力シーンがユウチュウブ動画や朝日新聞等で報道されるという、まことに破廉恥な実態が報道されていますが、大聖人様の御顔に泥を塗るに之に過ぎたる冒涜は無いのであります。
法を下げるにも限度を超えたものがあります。是れ、須らく悪僧日達が垂れ流した国立戒壇を否定する邪義と「事の戒壇」に二重の義があるとする己義・邪説が根源なのであります。御書には「源濁れば流れ清からず」あるいは「根本滅するに於いて、豈枝葉栄へんや」との御金言がありますが、今こそ、この御教示を謹んで深く味わうべきであります。