亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

悪僧日達と坊主らは天生ヶ原は無いものとしてしまった

2018年06月09日 09時42分21秒 | 亡国の坂道 
摧破異流義考(P.45~48)に「天生原について」と題して、坊主たちは次のように記しています。が、坊主たちのだらだらした講釈を最後まで読み通していくと、いったい彼らは何が言いたいのかサッパリ解らなくなるので一節ごとに彼らの矛盾を指摘し破折を加えていくことにしました。

坊主云く「以上のごとく、天母山戒壇説が、本宗本来の教義によるものでないことは明白である。しかしながら、二十六世日寛上人の『報恩抄文段』に、『事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり』と仰せられ、左京日京師が使った天生原(天母原)の名を用いられていることについては、さらに、また一考をようする。すなわち、四十八世日量上人の御指南に『本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし』また、五十六世日応上人御指南に『富士山の麓に天母ヶ原ともうす嚝広たる勝地あり、茲に本門戒壇建立あって』云々等と述べられているように、日寛上人をはじめとして御歴代上人方の御筆記中においては、ほんとんどすべてが天生原と示されており、天母山説をとってはおられないのである」について

当たり前ではありませんか! 何度も申し上げていますように天生原とは、富士山の南面に広がる広大な裾野のことです。この裾野は日本一の名山たる美しい富士山の稜線に沿って下ったところに一段高くなった丘を天母山と称し、その丘から流れるようななだらかな丘陵地は駿河湾までつづく広大な領域を指しているのであります。この丘は、昔から天生原と呼ばれてきました。その天生原は現在の大石寺から東方4キロの所に位置する場所にあって、大聖人様が三大秘法抄の中で「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」と仰せられていますように、広宣流布の暁に本門寺の戒壇=国立戒壇、を建立するには最も相応しい金剛宝座と言われている場所のことです。

また御開山日興上人が賜った一期弘付属書に「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とあるごとく富士門流の数多の貫首上人は大聖人様の御在世からの伝承にしたがって、広宣流布の時に建てられる本門寺の戒壇は、富士山天生原に建立すべきことを異口同音に叫ばれておられます。したがって二十六世日寛上人も、三十七世日琫上人も、四十四世日宣上人も、四十八世日量上人も、五十六世日応上人も、五十九世日亨上人も、六十四世日曻上人も、六十五世日淳上人等のすべての貫首上人が、広宣流布の暁の本門寺の戒壇建立場所は、富士山天生原と仰せられているのであります。

つづけて坊主云く「さらに、四十四世日宣上人におかれては、『今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもとに天母ヶ原に本門戒壇堂建立ある』(世界之日蓮)と仰せられ、大石寺が未来の本門寺戒壇、そして、その在処は天生原であることを御教示され、また、日達上人も、日亨上人の御指南を引用して、『堀猊下が四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えると、それよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります、北は一の竹よりも北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯をさしてもいいのであります。この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ヶ原の大構想である』天生原こそ、ここにありと御指南あそばされているのである」について

坊主には恐れ入りましたね。日亨上人と堀猊下は同一人物なのであります。それを恰も別人のように見せかけて「日達上人も、日亨上人の御指南を引用して『堀猊下が四神相応の地として、乃至大石ヶ原の大構想である』と仰せられている御文が存在するかのごとく書き連ねていますが、坊主は第一に、堀日亨上人が記されたとする御文の出典を明らかにすべきであります。第二には「天生原こそ、ここにありと御指南あそばされているのである」との文は、堀日亨上人が記された御文ではなく、悪僧日達が勝手に後から付け加えたものであります。それに坊主が引用した堀日亨上人の御文を見れば、大括弧で括られた引用文は「すなわち四神相応の大石ヶ原の大構想である」で終わっているのであります。よってその後につづく「天生原こそ、ここにありと御指南あそばされているのである」と記された文を見れば、悪僧日達が後から挿入した文を悪坊主がそれを引用した文であることが分かります。

かつて日亨上人は本門事の戒壇について「この戒壇について、事相にあらわれる戒壇堂と、義理の上での戒壇とも思えるものが二つがある。事相の堂は将来一天公布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民に至るまで受戒すべき所であるが、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義にあたるのである」(正宗綱要)と仰せられています。即ち昭和39年の春まで、創価学会が寄進した元の石造りの大客殿が存在していた所にあった御宝蔵を義の戒壇とせられ、一天公布の時、富士山下(天母ヶ原)に勅命を賜って広宣流布の暁に建立する事の戒壇堂は最終の戒壇であるが故に、完全に場所を区別されておられるのであります。したがって現在の大石寺の寺域は、本門寺の戒壇堂を建立すべき場所ではありません。

日達云く「そこで今、天生原について、字義的な面から考えてみると、天とは、一と大の合したもので、至上最大という意義、また生とは、生ずる、蘇生するの意義(これが転じて母という字を用いる場合が出てくる)、原とは、厂すなわち岩、岩の下に泉があることをさしており、源、根源という意義を表わしている。また、実際の地名としては、前にも触れたとおり、富士山下に天生原という特定の場所を見出すことはできない。これに、前述した四神相応の勝地という意義、大石ヶ原の地名、また大石寺則本門寺という御歴代上人の御指南等々を思い合わせるとき、天生原とは、まさに大石寺を中心とする広大な大石が原の勝地をさすものと拝してさしつかえないのである』」について

ご覧のように日達という悪僧は、広宣流布の時の天母ヶ原戒壇説を否定するため、天母ヶ原は何処を探しても存在しない幻の土地としてしまったのであります。そこで日達は、諸橋大辞典を持ち出して来て、天母ヶ原を字義的に考えるとしてこれを分解、訳の分からないことを言い始めて、天母ヶ原という土地は元々存在しない土地であるから、天母ヶ原とは、現在の大石寺を中心にした広大な大石が原の事であると言い出したのであります。

そうしたところ坊主らは今頃になって日達が言い始めた荒唐無稽なこじつけで固めた邪説を受け売りして「富士山下に天生原という特定の場所を見出すことはできない」などととんでもなことを言っていますが、天母山が創価学会の寄進により本山の所有に帰した時、柿沼広澄総監は一文を寄せています。云く「日達上人猊下の御徳によって天母山が日蓮正宗の所有に帰したことは事は一文慶賀にたえない。・・・・私はその天母ヶ原に登り、富嶽に対してひそかに念願する所があります」と仰せられ、柿沼総監が寄せた一文の中に、天母山と天母ヶ原が一所(ひとところ)にあることが証明されています。

また創価学会の仏教哲学大事典の天母ヶ原の項には「静岡県富士宮市にある安母山(大石寺の東方四キロ)の一帯をいう」とありますように、大石寺と天母ヶ原には四キロの隔たりがある事が記されています。

そもそも悪僧日達や坊主らが天母ヶ原の存在を否定し無き物にしたい理由は、大石寺の境内のはずれに建てた偽戒壇正本堂を広宣流布の「事の戒壇」としたいが為の邪念から出た思いつきだったのであります。

つづけて坊主云く「分を超えて述ぶるを畏れるも、このことは、要するに、本宗七百年の歴史の途中から天母山説が混入してしまい、後代の御法主上人方は、本宗のもともとの教義にはないことであるけれども、いちおう前代からの伝である故、これを軽々になさらず、会通を加えられて、広域をさす表現として天生原の呼称(ひいては天生原即大石が原という解釈)を用いられたものと拝するのである。それは、大聖人の『予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違わざれば、且く世間普通の義を用うべきか』(御書 1221㌻)との御金言、また本宗伝統の厳格なる師弟相対信を想い合わせれば、至極当然のことであるが、浅井ごとき増上慢には、こうした絶対の師弟の道を踏まれる御歴代上人の御苦衷など、窺い知ることすらできぬであろう」等と浅井氏の主張を口汚く罵っています。

坊主はデタラメなことを言ってはいけません。「本宗七百年の歴史の途中から天母山説が混入してしまい」などと言っていますが、先にも触れたとおり、大聖人様は三大秘法抄に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」と御教示であり、一期弘法付属書には「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきものなり」とあるごとく、日本国の第一の名山とは富士山であり、富士山の最勝の地とは、南獄天母ヶ原以外には存在しないことからすれば、「天母山戒壇説が京都要法寺から入ってきた」というのは、日達や坊主の言っていることは完全なウソだという事が分かります。

それに坊主らが引用した「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違わざれば、且く世間普通の義を用うべきか」(御書 太田左衛門尉御返事)の御文を引用して、天母ヶ原戒壇説を否定するとは恐れ入りました。

此処で注意しなければならないことは「強ちに成仏の理に違わざれば」とありますように、広宣流布を否定し、天母ヶ原戒壇説を否定することは、間違いなく「成仏の理に違う事」になるのであります。それを立証するように、現在の大石寺の信心は、邪僧日達以来成仏を遂げる僧族信徒は一人も居なくなっているのであります。

三大秘法の内、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇=国立戒壇建立の場所を否定すことは、大聖人様の御本願に背逆する最大の大謗法に当たる行為であります。

何度も申しますが大聖人様は広宣流布の暁の本門寺の戒壇は、三大秘法抄に「霊山に似たらん最勝の地」と仰せられています。それを真っ向から否定して、土葬で葬られた死人の肉体が腐乱した土壌は、臭骨が漂う穢れた土地であります。その墓地を掘り起こして建てた正本堂なる偽戒壇を建てた場所が何故に「霊山浄土に似たらん最勝の地」なのでしょうか、そんな事がある筈はありません。

それに大聖人様は太田左衛門尉御返事の一節に「強ちに成仏の理に違わざれば」と、厳格な条件を付されているのであります。その大切な金文に違背して信徒の墓地を掘り起こし、その跡地に偽戒壇を建てて戒壇義を破壊する行為は、成仏の理に違っていることは言うまでもありません。

つづけて云く「なお、本宗御歴代の数多の御筆記中、例外的に、三十五世日穏上人の書の写本といわれる『五人所破抄一覧』、が明らかとなっている以上、曲意をもっての悪用は慎まなくてはいけない。また何よりも、御先師にあたる三十一世日因上人が、大石寺即大本門寺と御教示せられ、さらに後代の御法主であられる四十四世日宣上人が、天母山説を、大石寺即本門寺の在処が天生原という説に是正せられているこを思うべきである」について

坊主の言っていることは支離滅裂ですね。本項の冒頭には「富士山下に天生原という特定の場所を見出すことはできない」と言っておきながら「後代の御法主であられる四十四世日宣上人が、天母山説を、大石寺即本門寺の在処が天生原という説に是正せられているこを思うべきである」としていますが、日宣上人は次のように仰せなのであります。

日宣上人云く「今は是れ多宝冨士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺即ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもとに天母ヶ原に本門戒壇御建立ある」(世界の日蓮)と。

上の御文を要約しますと、現在の大石寺は広宣流布の時には本門寺と呼ぶようになる。すなわち此の寺は霊山浄土であるが、広宣流布の時が来たならば、富士山のふもとに天母ヶ原という所に本門寺の戒壇を建立するのである。と。

日宣上人が仰せられたの御文の中で大石寺のある大石が原と、天母ヶ原の位置を明確に区別せられていることが分かります。

坊主云く「しかるに、これが、勝他の念にかられる浅井昭衛の手にかかると、『日穏上人を要法寺亜流と罵っている、日穏上人を誹謗するつもりか』等と、またまた強引な宗内攻撃の材料とする。いったい、浅井の息子の克衛も同様であるが、自分の己義に都合の悪い御法主の御指南に対しては、口を極めて悪し様に謗り、都合よく悪用できそうな御指南の断片を見つけては、水戸黄門の印籠よろしく仏の金言として振りかざす・・・・このような悪辣なまでの無節操を仏教者と呼べるであろうか。じつに、かの堤婆達多も、浅井親子の悪辣ぶりには唖然とするであろう」について

浅井昭衛氏や克衛氏が三十五世の日穏上人の名を挙げて、宗門の坊主が日穏上人を誹謗したかのごとく書き立てていますが、拙者はそんなことは与り知らぬところであります。仮に、浅井昭衛氏や克衛氏が日穏上人を要法寺の亜流と罵っている事実があるなら、その出典を明らかにする必要があります。

坊主云く「なにも、日宣上人も今日の御宗門も、師弟相対信を弁えぬ浅井ではあるまいし、天母山と云われた日穏上人を罵ったりなどはしておらぬ。常に師の絶対の御徳を仰ぎつつ、どこまでも宗開両祖以来の正義を護持しぬいていく・・・・その峻厳なまでの、弟子としての赤心を知るべきである」について。

この坊主は何度言っても解らない。天母山は頂上に約せば山となり、麓に約せば原となるのであります。それにこの坊主はものの言い方を弁えていない。そもそも自分が所属する所が宗門であるならば、「今日の御宗門も」という表現は完全に間違っています。敬称の付け方も解らない坊主だから仏法を曲げても平然として構えて居られるのであります。

それに言う事が振るっています。「常に師の絶対の御徳を仰ぎつつ、どこまでも宗開両祖以来の正義を護持しぬいていく・・・・その峻厳なまでの、弟子としての赤心を知るべきである」とは恐れ入りましたね。

宗開両祖の御本願は、広宣流布の暁に時の天皇陛下より勅宣を賜り、御教書たる国会の議決を経て本門寺の戒壇=国立戒壇を富士山下の天母ヶ原に建てて日本国を仏国土にすることだったのであります。それを日達という悪僧は、最大の信徒団体であった創価学会の池田大作の施す奢侈と供応に溺れ、諂いが高じて仏法を曲げたが故に、爪の垢ほどもの功徳も無ければ、一人の成仏も叶わない宗門にしてしまったのであります。

曽屋殿御返事に云く「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故とは是れなり」と。

この御文を要約すれば、如何に法華経を信じていると云っても、大聖人様の御本願たる国立戒壇に反対するような信心では、必ず地獄に落ちることになる。例えば、漆に蟹の足を一本加えることによって、漆がバカになって効果がなくなる。まさにその様は、毒気が深く入って、本心を失う故であるとは是れである。と。