亡国の坂道

日蓮大聖人の云く、「仏法漸く転動しければ世間も又濁乱せり、仏法は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」と。

キリストの教神父を招いた理由は本宗の伝統精神なんだぜ!

2017年06月05日 04時15分07秒 | 亡国の坂道 
「摧破異流義考」(P.19~21)に、「四、キリスト教神父云々について」と題して、堕落した坊主らは、またまた呆れ返るような言い訳と邪義を垂れ流しています。

坊主云く「浅井等は、『正本堂の完工式には、キリスト教の神父が邪法の法服を着て出席した。これは邪宗邪義を容認する謗法行為である。』等と大石寺を非難する。しかしながら、正本堂完工式は、大御本尊を正本堂に安置申し上げる前に、建物だけを披露する形で行われたもので、出席については、建設工事関係者・地元市関係者・報道陣・駐日各国外交官等、要するに信仰上の立場を離れた社会的立場・資格ににおいて参加を認めたものだった。その中に、バチカン大使館からの強い希望で参加した、バチカンの駐日外交官二名がいたのである。

これを指して浅井等は、『キリスト教の神父が』云々と非難しているわけだが、こうした社会的・世間一般的な意味で本宗の境域へ参詣してくる場合には、いかに謗法者とはいえ、将来の順延に通ずるものであるから禁制すべきではない、というのが第九世日有上人の『化儀抄』や五十九世日亨上人の『富要集』等にも示されている、本宗の伝統精神なのである。その旨、大石寺では再三にわたって浅井等を諭したが、何としても自らの非を認めまいとする頑迷な浅井等は、これを社会的立場の参加ではなく宗教上の立場の参加であった、と強弁して『邪法の法服を着て』等と言い出したのである。

これとて、専門家の指摘によれば、バチカン外交官が著ていたのは、単なるローマンカラーと背広であり、いわゆる法服・祭服などではないということだから、まったくお話にならない。浅井等の大石寺非難などというものは、所詮、この程度のものであるという、よい実例である。ともあれ、今日の浅井一派は、『日蓮正宗』や『富士大石寺』の名を詐称し、あたかも大石寺の認める正しい組織であるかのごとく装っているが、実態は、以上述べてきたような妄説に基づいて日蓮正宗富士大石寺を誹謗し、創価学会と同様、御法主上人猊下を口汚く罵って、僧侶不要の在家仏教路線をひた走っているのである。(むろん、個々の会員が顕正会を脱会し、正宗に帰伏することについては、別な話だが)。その現実を盲目的な会員達に知らしめ、折伏していくことが肝要であろう。」等と。

上記のように坊主らが必死になって言い訳をしています。正本堂の完工式の法要に参加したキリスト教神父は、「バチカン大使館からの強い希望で参加したのである。」等と苦しい言い訳をしていますが、真に、正本堂の完工式を開催するだけの式典ならば、坊主らがいうように、建設工事関係者・地元市関係者・報道陣等、要するに信仰上の立場を離れた社会的立場の者だけの参加に制限すれば良かったのであります。それに屁理屈の上塗りをして、「バチカンからの参加したキリスト教神父は、外交官として出席した」などと屁理屈に屁理屈を重ねた言い訳をし、問題を政治・外交の問題にまで広げて開き直っていますが、単なる正本堂の建設をお祝いするだけの式典ならば、たとえニセ戒壇正本堂の完工式だろうが、こけら落としの法要だろうが、事もあろうに、外道のキリスト教神父を、謗法禁断の正系門家の聖域に招き入れて、御本仏大聖人様の御顔に泥をぬりつけ、自らの謗法行為を正当化しているのでありますが、こうした思い上がった無神経な行為は極限の大謗法を犯している事となり、後々に取り返しのつかない災いを招く事になるのであります。
   
当日、ニセ戒壇正本堂完工式の式典に招かれたキリスト教神父は特別な歓待を受け、最前列の貴賓席に少なくとも五人~六人が写真に納まっているのでありますから「バチカンの駐日外交官二名がいた」とする坊主らの言い訳は嘘八百ということであります。その上、当日は別な御本尊を奉掲して未だ信心していない謗法者を対象に、御開扉を恭しく行ったと云われていますが、未だ未入信の大謗法の連中に御開扉を行なうこと事態、大きな間違いを犯している事になるのでありますが、坊主らはその間違いに気が付かないほど信心が腐っていたのであります。式典の開始と共に長い勤行がはじまった時には、工事関係者はもとよりキリスト教神父たち謗法者は、勤行が終わるまでの長い間、それこそ身の置き所がないほど、これから何が始まるのかなどと疑心感に駆られ、どぎまぎしながら身の処し方に戸惑いを感じていたのではないでしょうか。

それに今日の宗門に巣食う堕落した坊主らは、自らの腐敗と堕落を正当化するために、わざわざ日有上人の「化儀抄」や日亨上人の「富要集」をの一節を持ち出して、屁理屈を正当化しようと躍起のようですが、化儀抄の引証文の解釈そのものが間違っているのであります。

坊主らが引用した日有上人の化儀抄108条には次のようにあります。「法華宗の御堂なんどへ、他宗他門の人参詣して、散供まいらせ花を捧ぐる者あり。之を制すべからず。既に順縁なるが故なり、但し、大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養申せとあらば、一向取り次ぐべからず。謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云々」とあります。

化儀抄で仰せられる意味はこういう意味なのであります。

例えば、日蓮正宗の本山あるいは末寺に他宗他門の者が参詣して、散供米や花などを供えて手を合わすことがある場合、その行為を禁制する必要はない。それらの者は、すでに順縁の者であるから一向に構わない。但し、供養の品々を僧侶に託して、御本尊様へお供えして下さいと頼まれる事があった場合、それは謗法者からの供養であるが故に絶対に取り次いではならない。仮に僧侶がそれを取り次いで供養の品々を御本尊様へお供えした時は、僧侶は謗法を犯す事になるから与同罪を被ることになる」と仰せられているのであります。

ところがニセ戒壇正本堂の完工式に派遣されたキリスト教の神父らは、バチカン市国、あるいはアメリカ合衆国から、それぞれの国を代表して派遣されて来たキリスト教会を代表する神父達であります。いわば彼らは骨の髄までキリスト教に染まりきった選りすぐりの外道の権化であります。たとえ彼らが戒壇の大御本尊のもとに案内されたとしても、恭しく信を垂れるような心根などさらさら持ち合わせていない謗法者をとらまえて、「順縁の者」と言えるのでしょうか。坊主らの言い訳は、無知の信徒には通ずるかも知れませんが、御本仏大聖人様の御目を誤魔化すことはできないのであります。

そもそもニセ戒壇正本堂の完工式を利用して、バチカンやアメリカからキリスト教神父を招請した理由は、彼の池田大作が世間の妙利におぼれて、来るべきノーベル平和賞を獲得しようとする手の込んだ布石だったのであります。宗門の堕落した坊主らは、池田の曲がった心から発せられる卑しい根性が、諂いのあまり見抜けなかったのか、似非信徒池田の要請を唯々諾々と受け入れて、キリスト教の神父を喜んで招き入れて平然としているのであります。

またそれを、「将来の順縁に通ずるものであるから禁制すべきではない、というのが第九世日有上人の『化儀抄』の御教示」などと化儀抄に記された御教示を曲げて引証するとは恐れ入りました。兎にも角にも池田に諂って、宗門の犯した大謗法を正当化して、何とか切り抜けようとする邪義坊主の卑劣な魂胆は、大聖人様が決してお許しにならないのであります。(敬称は略す)