[われ異邦人なる汝等にいふ、我は異邦人の使徒たるによりて己が職を重んず。]
magnify という語はモルモン書ヤコブ書1:19 (2:2) に、magnify our office の形で出てくる。普通、現代英語でmagnify は make large 「大きくする」という意味である。それで昭和訳は、「私たちは力いっぱいの努力をした」と訳されていた。現在、平成訳は「自分たちの務めを尊んで大いなるものとした」となっている。
magnify は、聖典でも「大きくする」という意味で使われることがある。例、歴代志上29:25、創世19:19、教義と聖約132:64。しかし、聖書や末日聖典では多く、特に目的語に「務め、召し」(office, calling) がくるときには、ローマ11:13の”I magnify mine office” (τὴν διακονίαν μου δοξάζω [doxazo]) の表現を引き継ぐものと考えられる。これは留意すべき大事な点である。
ところでこの "magnify (δοξάζω, 英語で extol, 「讃美する」) one’s callingは"、もう過去の話になるが、教義と聖約84:33 の和訳に「全力を尽くして遂行する」と訳されたことがあった。(同じ表現が24:3, 66:11でも使われた。1967年昭和訳)。それで真面目な日本人が懸命に教会の責任を果たそうとして、疲れ切ってしまうことが生じた。
今は「尊んで大いなるものとする」訳され、「讃美する」と「大きくする」の両義を折衷したものとなっている。英語 magnify の歴史を見てみると、14世紀末に「称賛する、賛美する」という意味で用いられ、1660年代になって「拡大する」という意味が加わり英語独特の発展をとげている。
1989年ヒンクレー第一副管長は、総大会の説教で magnify の聖書の用法「尊ぶ、重んじる」にも触れて説教している。
[参考]
ローマ11:13の翻訳
「わたしの務を光栄とし」(口語訳)
「自分の務めを光栄に思います」(新共同訳)
「自分の務めを重んじています」(新改訳)
「敬重我的職分」(中国語訳[和合本])
現代英語訳モルモン書ヤコブ1:19
“We worked very hard … (L.M.Anderson, 1995)
“We increased in our commitment…. (T.B.Wilson, 1998)
この二つの訳では「拡大する」という現代の意味でとらえている。
www.etymonline.com
沼野治郎「全力を尽くして召しを遂行する - - しかし、中庸を忘れないで」モルモンフォーラム10号(1993年春季)
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召しを重んじると拡大するというニュアンスから、上から言われてハイハイと勤めを行うのでなしに、積極的に召しを遂行していくの意味は含まれてはいないだろうか。
逆はお役所仕事に相当する。
全ての責任は下の者に負わせよ、全ての名誉は上の者が受けよ、がモルモン教会の運営スタイルなんですね。ひどい話です。
http://www.geocities.jp/waters_of_mormon/forum/index.html
モルモンフォーラムを取り上げさせて頂いたきっかけにもなった記事です。
昔は結構な原理主義者で教会の責任に苦しみを感じていたので救われた思いがありました。
現在のフランス語の語感からも「称賛する、賛美する」という意味があります。
又、画家が王様を前にして肖像画を描く時、その王様への尊敬、偉大さ、栄光「らしさ」などを描く状況にこの言葉も使われると思います。
一方、実際にその人、物がその状況になくても、例えば「大きくみせる、かける」と言ったニュアンスで使われる意味合いもあると思います。
おそらく、この使用法から英語の「大きくする」が生まれ、発展したのではないかと想像します。
ですがモルモン教会用語は英語が起源であると見るべきであり、聖書のように千数百年前の外国語の語義を意識する必要はありません。
理由の説明は不要だと思います。
http://www.thesaurus.com/browse/magnify
「Magnificent Seven」
彼らが戦ったように職務を果たしてこそ初めて自分の召しを magnify したと言えるでしょう
やはり「全力を尽くして遂行する」は正しい意訳なのでは?
> やはり「全力を尽くして遂行する」は正しい意訳なのでは?
以上のような直感的論理はよく理解できます。実際、現代英語の語義に向かう傾向というか影響を私も認めます。
しかし、「モルモン書のどのページにも聖書(欽定訳)の痕跡(echo)が見られ聖書の影響を強く受けていることがわかる。それと19世紀アメリカの英語の両方が組み合わされている」(M.D.トマス)(当ブログ2011.12.16記事)こと、「ジョセフ・スミスが聖書の本文を分解・再構成して新しい物語を生成した」と捉える研究者もいることに注目しています。BofM(JS)は過小評価も過大評価もできない書物(人物)だと思います。(当ブログ2008.7.12記事)
それで、バプテスマ、愛(慈愛)などは聖書に遡り、偽善売教(priestcraft) ,神権時代(ldsが言う語義、教義と聖約)などは聖書に遡らない語になります。私は重要な語彙は聖書の語彙に遡って語義を確認することが欠かせないと考えています。エンダウメントもルカ24:49 endue (力で覆われる)に遡ることが分かります。
adieuについては、弁護しようと思いません。JSが少し気取って「さらば」と書いたものと見ています。(今日、普段人々が別れる時、滅多に「さようなら」と言わないで、いろんな言い方をするように、adieu も英語に入っていたと説明する人もいます。)
ま、ほとんど神権者は聖見者でない(そのタイトルを持った召しではない)わけですから、御旨を求め霊感を受け正しく対処できるようにふだんからそいういう態度を持って信仰深くあるというのがマグニファイになるんではと。全力で、へたばるまでとか、霊感も何も無視とかは避け、賢くあれと。
このヒントは、エテル書「3:24 見よ、あなたが書き記す言語はわたしがすでに乱したので、わたしは自分がふさわしいと思うときに、あなたが書き記すこれらのことを、これらの石によって人々の目に明らかにさせよう。」で、maginify が使われてて、これらの石によって聖見者たちの目にマグニファイさせようと、たまWEB風訳となるんだが、はたして?!
http://classic.scriptures.lds.org/
これ読まれたことありますか?
http://mormonstories.org/baseballbaptisms.html
とは思いますが・・・・・・。
baseball baptism -->> 拙速~
拙速 http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/s/%C0%DB%C2%AE
拙速 バプテスマ
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%8B%99%E9%80%9F%20%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E
その記事、サンストーン誌'93年12月号で読みました。日本の拙速伝道についても触れていますね。もうこのような手法で布教が行われることを、日本ではもちろん、途上国でもゆるしてはならないと思います。
その国の若者をexploit(くい物にする), abuse(濫用、虐待)することになる、といった表現で批判しています。
もう随分昔の話ですが、二言目には教会を嫌うお休み会員を滅びの子呼ばわりするので、滅びの子とは重大な意味を持つから安易に使うべきでないと公然と意見をしたら、口論になってしまい、いつの間にか私が神権指導者を批判をする悪人(言葉遣いをちょっと強めに注意しただけなのに)ということになってしまったことがある。
それで、いくら何でも人を貶める印象操作は正直の律法に反するよと強めに注意したら、次のレッスンをすっぽかして行方不明となり、その方は二度と教会には来なくなってしまったという苦い思い出がある。
そういう似た経験が何度かあって、ある種のタイプの教会員に共通してるのが、中央幹部は完全だから間違うはずがないとか、教会は完全だから間違うはずがないとか一途に信じており、そういう人に限って、長い信仰生活の後にある日突然信仰が切れてしまって、教会を攻撃する側に回ったりするのです。
そしてプロフィールを調べてみたら、案の定80年代前半の改宗者ということが殆どだったりするのです。
やっている(この場合上の者が改めている)姿を見るということが必要ということに・・・
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9B
>公然と意見をしたら、口論になってしまい、
>いつの間にか私が神権指導者を批判をする
>悪人(言葉遣いをちょっと強めに注意した
>だけなのに)ということになってしまった
>ことがある。
へぇへぇお気の毒でおますなぁ・・・
80年代の改宗者は物分かりが悪ぅおます
せやけど、その人らと同じくらいあんさんも物分かりが悪ぅおまっせ
わてが教会や幹部を批判してたら、あんさんもわてを悪人扱いしてんのちゃいますん? あんさんの目にも梁はありますねんで
>上の指導者から、やってみせられ、言って聞かせられて、させてみせてもらい、ほめてもらってという経験をする土壌が欠如で、ポッキリということでしょうかねぇぇ。
まさにその通りで、口論で負けたことが悔しかったというよりは、監督さんが改宗して1年未満でも正しいものは正しいと正常な判断をしてくれたことがよほど腹が立ったのでしょう。
当人さんは正当な教育が欠如したせいで、基本知識も、愛の実践も不十分のまま神権者になってしまい、誰かの体育会系の悪い指導見本を全力で信仰していただけで、そこそこまで登りつめてしまって、精神疲弊しまっていたところで、みんなのおる前で新参者に論破されただけのお気の毒な方だったのかも知れません。
今でこそ、そんな神権指導者はいなくなりましたが、大祭司で聖典は棒線と書き込みでまっかっかのくせに、日や月や星の光栄が、最期の審判の後にやってくることを知らなかった指導者とか、不活発になったら自動的に星の光栄や外の暗闇に落とされて、永遠に地獄を味わうことになると、本気かつ全力で思い込んでる定員会の会長さんとかゴロゴロいましたよ。
>日や月や星の光栄が、最期の審判の後にやってくる
>ことを知らなかった指導者とか、不活発になったら
>自動的に星の光栄や外の暗闇に落とされて、永遠に
>地獄を味わうことになると、本気かつ全力で思い込んでる
>定員会の会長さんとかゴロゴロいましたよ。
モルモン教会が初期のキリスト教会に一番近いらしいですから、初期のキリスト教会もきっとそうだったのでしょう?
それは、その方の責任じゃなくて、そう教えられていたからじゃないですか?
教義と聖約に書いてあるように、滅びの子となる条件に「聖霊を受けた後、それを否定した人々」と言うのが有ります。
会員は全員バプテスマを受けた時に、「汝聖霊を受けよ」と按手礼で聖霊を受けます。
その後、教会に来なくなったと言う事実は、「聖霊を否定した」あるいは、その様に成ってしまう、と言う考えもあながち否定はできないでしょう。
ジョセフ・フィールデング・スミス大管長は、「人が教会を去るのは、ほとんど例外なく罪の為である」と言っています。
古い熱心な会員の方が、教会に来なくなる人を、何とか引き留めようとするのは、この様な教えを受けていたので、「その人が不幸な状態にならない様に何とかしなければいけない」と言う信仰上の使命感が有ったためとも言えるのではないでしょうか?
もし問題が有るとすれば、その時々で安易に解釈を変え、その変更を認めず以前からそうであったように装う姿勢の方じゃ無いですか?
Rさんは以前から、「その時々によって教義は変わるものだ」と、教会の教義変更を正当化していますが、そのうち、あなた自身が、後輩から「あなたの信じている教義は間違っていますよ、そんなこと教会では教えてないですよ」と言われる時がきっと来ます。
その時に備えて、今から良い言い訳を考えておいた方が良いと思います。
>「あなたの信じている教義は間違っていますよ、
>そんなこと教会では教えてないですよ」
>と言われる時がきっと来ます。
わはははは! その通りですね。
教会の教えは永遠に変わらぬ真理だと真面目に信じていたのに、ある日突然言うことがコロッと変わる・・・でも教会は何の責任もとってくれません。
まぁでも昔の指導者の教えを信じていている頑迷な人であっても、それを純真に思い込んでる人を私は責める気にはなれません。もうお亡くなりになりましたが安芸さんとかね。あの人はコーラ?絶対にダメです!と断言し、自分もかくあるべく努力していました。
まぁ知恵の言葉に対する考え方は私と異なりますが、彼のそういう姿勢には頭が下がる思いでありました。純粋に信じている人にわざわざモルモン教会は間違ってるよなんていうのもどうかな、と彼のような人を見るたび思うのですが。
ただ私には絶対に許せない人種がいて、モルモン教会の方針が変わったのではない、教会員が勝手に勘違いしていただけだ、教会は何も悪くない、アメリカではちゃんとやってる等と卑劣な擁護にはしる人たちね。
この手の輩は、あらゆる意味で信仰の敵だと思います。
多くの宗教で見受けられる事象です。
誰しも最初は原理主義的信仰からはいるのでしょうが、徐々に懐の深い信仰へと脱皮していくのでしょうね。
それを妨げるのは、「高慢」でしょうか。
https://apps.lds.org/cws/jp/index.php/2011-01-17-05-53-00/185-2011-02-09-07-47-33/837--1
聖典と預言者に対する原理主義的アプローチを避ける
聖典の目的は人々が福音を理解するように助け、「みたま」のささやきに彼らの心を開くことである。末日聖徒の擁護者ロス・バーロンがかつてこう言った。「教会は、聖書に基づいていない。教会は、聖書が基づくもの、つまり預言者を通して与えられる啓示に基づいている。」*57聖典は目的への手段であり、救いの源ではない。伝統的な言葉の意味での「歴史」でなく、むしろ神がどのように人々とかかわってきたかの記録である。科学的な記録でもないし、全ての質問に対して答えているというわけでもない。(全ての質問に対して答えているなら、絶えざる啓示は必要がないだろう。)預言者モルモンによると、聖典には時折、間違いがある。言い換えると、完璧ではない。そのように、過去も現在も預言者は、神に指示され、霊感を受けた指導者であるが、完璧ではない。
〜〜〜〜〜
最近福音の研究のページをみたら「 歴史に関する疑問についてはどうでしょうか。」という動画が追加されていました。
自分の思い描く理想の教会歴史でなかったことに心をざわつかせる会員も多いのですね。
大管長が承認した。。というのが印象的でした。
https://www.lds.org/topics/essays?lang=jpn#media=
この“尊んで大いなるものとする”は、英語で一語なんですよねぇぇ、“MAGNIFY”って。
〜〜〜〜
2年前に考察してるんですね。
良い意味で多様的なかたですねぇ^^
ヒンクレー管長の説教が有名ですが歴代の大管長が召しに関連付けてmagnify使ってるんですね。
>心をざわつかせる会員も多いのですね。
教会が教えてきた歴史が事実でなかったことに不信感を抱いているんだと思うよ、そこ重要だから、間違えないでね。
>Rさんは以前から、「その時々によって教義は変わるものだ」と、教会の教義変更を正当化していますが、そのうち、あなた自身が、後輩から「あなたの信じている教義は間違っていますよ、そんなこと教会では教えてないですよ」と言われる時がきっと来ます。
どっこいそうはならないでしょうね。 というかここ100年は基本的には基本狭義はそうは大きく変更されてはいないのですよ。 肌の呪い等の教義は別としてですけど。
それに原理主義に固まってませんので、変更されたと気づいた時点で教会における教義の変遷の歴史をみなさんの前でつらつらと述べるのみです。
確かに・・・基本狭義・・・は・・・
等と言う、誤字に上げ足を取るつもりは有りません。
それよりも、モルモンに「基本教義」なんて有るんですか?
Rさん!モルモンの基本教義って何ですか?
それにしても、Rさんは正直と言うか純心と言うか・・。
>というかここ100年は・・・
って短すぎ!(笑)
そんなん原理主義以前の問題だわ。
「真理は現在も過去も未来も変わらない事実である」ってモルモン教義の大前提が崩壊してるのに安穏としてるんだから、こりゃもう「シオンでは何事もみな宜しい」って感覚麻痺にならざるを得ないわね。
そんなモルモン教義について感じるのは、最近話題になってる『江戸しぐさ』と同じだなと言うこと。なんでも『江戸しぐさ』なる作法が昔の日本にはあったのだと、あちこちでまことしやかに紹介されているのだけれど、実はそんなもの無いのね。歴史学者さん達はみんな批判してるんだけど。一読するとちょっと良い話に思えるんで、結構口コミで広まってるのね。これ実態は、某団体が勝手に作り上げたものなんだけど、とうとう教科書にまで載ってしまったと言う笑えない話。(詳しくは検索して見てね)
モルモン教義も、ちょっと良い話に聞こえるエピソードを織り交ぜながら、真実だよ、キリスト教だよと言い続ければ、何人かは信じ込んでくれるかもです。ただ、信じ込んだ相手を裏切ったらアカンと思うけどね。
先に答えを出してしまう様で面白くないかもしれませんが・・・。
モルモンの基本教義が有るとすれば。
「御霊の導きにより真理を悟りなさい」だと思います。
平たく言うと「みんな勝手に解釈しろ!」です。
と言うのは、モルモンの教会幹部は一切教義の質問には応じません。
「分からないことが有れば、地元の指導者に聞きなさい」って事です。
でもね、その地元の指導者も、誰からも質問には答えてもらえないので、「自説」を述べるにとどまるしかない。
100人に聞けば100通りの解釈が返ってくる。
だから、このブログの参加者も「俺の言い分が正しいのだ!!」って開き直れるわけです。
こう言うとね、「教会幹部は、大会のお話しや、テキストの中で教義を説明している」とおっしゃる人が居るのですが、ところが、預言者が大会で話した内容すら「それは公式見解と認められたわけじゃない。」とか、「その時代はそうだったけど今は違っている」とかぬかす・・じゃなかったおっしゃる方が居まして。
結局のところ、それぞれが自分に都合よく解釈してるだけ、って言うのが実態ですね。
あんさんもわても、NJさんも、オムナイはんも、みんなみんなみたまの導きを受けてますねん。
「だから、みたまの導き受けてたら、教会が正しいって分かるよね、幹部が正しいって分かるよね?、ね?、ね?」って睨み効かせてくるのがモルモン指導者なんですわ~
「わ、分かります、正しいです」って答えたら
、にっこり笑って「ホンマええ人や、祝福あるよ」ってなでなで(按手聖任?)してくれます。
「ワカラン、だって矛盾してるやん」って答えたら、「あんたはみたま受けてない、そんなんみたま違う」と激怒して、他の会員には「もうあの子と話したらアカンよ、あの子は原理主義者で教会をバカにしてるだけの子やから」
これマインド・コントロールのテクニックね
まぁ、簡単に言いますと、職・召しに召されて、そして(賛成の)支持されることとその召しを尊び大いなるものとすることとはイコールではないという当たり前の話なんですが。
召されても選ばれるところまでに至るには(ヨハネ黙示録17:14、第2ペテロ1:10)尊び大いなるものとする過程があるわけでしょうし、その過程は一人一人顔も素性も違うように皆それぞれ異なるんだと・・・
教会幹部とか教会の高い召しだと100%御旨にそって大いなるものとしているとヒラ会員は受け取るんでしょうが、やはり幹部にも人それぞれ個性があるんでしょうと・・・
どのように裁かれるのか、たまWEB関知するところではありませんが、モルモン書からひとつ言えてそうと思えるのは、ニーファイの弟ヤコブの例で、“03 わたしの弟のヤコブもまた、わたしが贖い主にまみえたと同じように、すでに贖い主にまみえている。”(第2ニーファイ11)というのが、ひとつの基準といいましょうか、そういった経験からすれば、尊んで大いなるものとする底力が常人とは違ってくるのかなぁと。
ま、普通、支持する側は、信義というかベストを尽くしてやってもらってるんだろうと、そういう感じでは・・
それ以上のことは、同じ定員会同士とか縁者でもない限り内輪のことはわからんわけでね・・・
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/298d7e21d5f35b27b88cb68e2a289168
そりそろ気づかれてはどうでしょうか。モルモンの基本教義とは、非常に少なくて子供でも理解できることだけなのです。
わざわざ中央幹部にきかなくったって、地元の現役の指導者なら、何も見なくても誰でもすぐに答えられることばかりであり、彼らが答えられないものは、そもそもモルモンの教義の範疇になくて、それ以上は単なる個人見解であると考えて差し支えないのではないでしょうか。
すなわち宣教師が日々教えている内容と神殿で学ぶ内容と誓約。 ただそれだけ・・・。 他には何にもなし。
エクステンドの教義は学問であり、基本教義に反しないような一般キリスト教の理解と同じでよいかと思います。中にはジョセフスミスやブリガムヤングの見解と大幅に異なるかも知れませんが、あまり気にしなくても良いのではないでしょうか。 所詮は科学ではない学問ですから、様々な意見があったほうが面白いじゃないですか。
>すなわち宣教師が日々教えている内容と神殿で学ぶ内容と誓約。
子供はエンダウメント受けられないだろ
そもそもエンダウメント受けるには宣教師の教えることは一通り聞きましたレベルでは無理 それ以上のモルモン教義を実践してないと受けられないし、エンダウメントの内容は神殿以外で話をしてはいけない
またエンダウメント自体が大きく変更されている ここ100年で基本教義の変更はないとか言ってるがそれは認識不足 これまでの発言から考えるとあなたはエンダウメントで首切りのしぐさをやりながら『命を失う方が良い』って誓約してないね
サタンがキリスト教の聖職者を手下に使ってアダムとイブのところに遣わす場面があったのも知らないみたいだね あなたの理屈だとこれらは基本教義のはずだがあなたは知らない
もちろんあなたが勝手に線を引いてここまでが基本教義だと自分で考えるのは好きにしてくれて構わないけれど、それは公式な教義じゃない
あなた達がしばしば決めつけている教会幹部の個人的見解ってヤツと同じだよ それどころか何の権威もないだけ聞くに値しない
わっぜか深かっ考察とお見受けいたしましたぁ。
地震兵器とか月の住人とかなければ。。良い指導者に。。なんて思いました^^;(失礼)
JJJ!ビックリポンやぁ(@@;
それはお目々汚しでした。
わたくしも学ばせていただきます。
失礼ながら、出始めの頃は、ネットオタクの超変人って感じで、接近しない方が良いって言うよりも、接近不能って感じでした。
宇宙人かとも思ったけど、モルモンが地球外に伝道した話は聞いていなかったので、たぶん地球人の中の変種だと認識していました。
それから十年、数日前に、ひょっとしたら、この方は、普通の地球人では無いだろか?と思うようになり、今日に至って、変人かもしれないけど、奇人ではないと認識を変えました。
ひょっとしたら、貴人?偉人?粋人?の類かも知れない?
ただ、いずれにしても接近不能は変化せず・・・。
ここを読むと、モルモンの「召し」「責任」に対する姿勢がよく分かる。
すなわち、召しを果たすのは、「自分が他の人達の罪の責任をかぶることが無いように、」と言う動機からである。
ヤコブも「民の血が私の衣にかかることのないように、力のかぎり働いた」と言っている。
召しを果たすのは、「自分が熱心に召しを果たすことによって、多くの人が幸福になれる」と言う動機ではなく、あくまで、他人の罪まで背負い込んでしまう危険性が無いように、自分の身を守る。
自分さえ昇栄出来ればいいのだ!って事だ。
自分は、指導者から特別な人間として召しを受けたのだから、その事を大事にして(召しを尊んで)自分の昇栄の為に頑張りましょう。
と言うのが、この聖句の意味じゃなかろうか?
愛は愛を呼び覚ますんでしょうか、愛には愛で答えようとするみたいな。
そういうのが基本にあって正しい道を説くみたいな、悪に対し妥協を許さないみたいな、かつ神の恐るべき正義をも十分理解してるんでしょうね。
それでこそ力の限り働けるのかぁぁ・・・ま、ジョセフのとか読んでの受け売り理解ですがな。
>エンダウメントで首切りのしぐさをやりながら『命を失う方が良い』って誓約してないね
>サタンがキリスト教の聖職者を手下に使ってアダムとイブのところに遣わす場面があった
つまりそんなことはどうだって良い内容だと大管長が判断されたので消えてしまったわけですよ。
言い方を変えたら、ジョセフスミスは尊い基本教義を回復したが、同時に有害だったりくだらないものも教会に沢山残したってことですよ。
そして福音の回復はジョセフの代で終わったわけではなくて、現在進行形ですから教会を擁護するもなにも、シンプルになってきた今が最もマシな状態で19世紀のころの教会が一番ダメな状態だったとしか思えないのです。
もっと
善き人と
なりましょう
皆さん
クダラナイ
あれこれ
言うよりも
有意義な
コトを
したほうが
自分のために
なると
思いまする。
http://www2.ezbbs.net/16/darebuta/
LDS聖書研究会に皆さんいるんですかね??
「lds聖書研究同好会」がfacebook に誕生
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/9f9f34119bc9c0f946a724472a4f5f23
うぅんん、このこんてんつは・・・
どんなお題目を掲げようとも、教会がやって来たことを『あれは過去のことだから』『幹部の個人的見解に過ぎないから』『公式でないものを会員が勝手に勘違いしただけだから』なんて見ないふりしてるんじゃ何を研究するんだか。
聖書をちゃんと研究すれば、死者のバプテスマなんて無いこともわかるし、初期のキリスト教会にもっとも近いのがモルモン教会なんて妄言は出てこない。
モルモン教義と聖書の整合をとろうとするなら、無いものを有るかのように愉しむシャーロキアン的な会合にならざるを得ないでしょうねぇ。
スター・ウォーズEp7的新展開ですかね。みんな年取ったなぁ。いや旧Epのキャラの話。
Re:本題について真面目に考えるの段
ですが、ヤコブ書の冒頭部分は例のユダの木とエフライムの木のエゼキエル書にさも似たりなんですよね。オリーブの木の喩えといいシンメトリックです。
ヤコブの名がイスラエルというのも象徴的ですね。
リビングバイブル エゼキエル書3:
17「ちりの子よ。 わたしはおまえをイスラエルの見張り役とした。 わたしの国民に与える警告を、直ちに伝えよ。
18わたしが悪者に、『おまえたちは死刑に相当する。
だから、悔い改めて、自分のいのちを救え』と伝えてほしい時、そのように警告しないなら、彼らは自分の罪のために死ぬが、わたしはおまえを罰する。
彼らの血の責任をおまえに問う。 19だが、おまえがいくら警告しても、彼らが罪を犯し続け、いっこうに悔い改めないなら、彼らは自分の罪のために死ぬ。 しかも、おまえには責任がない。
おまえはできるだけのことをしたのだから。
20もし善良な人が悪を行なっているのに、おまえが警告しないなら、わたしは彼を滅ぼす。 以前の善行は何の助けにもならない。
彼は自分の罪のために死ぬ。 だが、わたしは彼の死の責任をおまえに問い、おまえを罰する。 21もしおまえが警告し、彼が悔い改めるなら、二人とも自分のいのちを救うことになる。」
一方、モルモン書ヤコブは神に召されたと自認する物語が民に向かって自分には何も罪がないと誇っている(又は責任逃れ?)。こんなことをしたのは、イエスを十字架に掛けよと叫ぶユダヤ人たちの前で手を洗ったピラトくらいのものだ。
だいたい自分が教え導くはずの民の前でこう言うこと口にする神経構造を疑う。ウソかホントか分からないが、昭和天皇はマッカーサーに『戦争の責任は全て自分にある、日本国民を許してくれ』と嘆願したと言う。ヤコブが天皇だったらなんと言うのだろう。
このようなちょっとしたところにモルモン書の作者ジョセフ・スミスの考えが表れていて面白いとは思います。
この同好会は名前にひかれて、直解主義の保守的な方が新しく入ってこられます。立ち上げた初めのメンバーはリベラルで、批判主義的アプローチを経た人たちでした。それで、二分されているような感じを受けます。現在構成員74人。
牽制し合って、盛り上がらないことが時々生じています。信条や立場の違うグループが相手を改宗させようと論じ合うようで、容易ではありません。宗教の話題は難しいですね。ここでも同様ですが。
このブログにコメントしている人の中には、保守的な人はいないのではないかと思います。ごくたまに変なこと書き込む人が現れますけれども。
私はこのブログのコメント欄はバランスが取れていて中庸だと思います。NJさんがいろいろな意見に寛大に接しておられるからです。難しいものだと思われることはないのではと考えます。
モルモン書フィクションとする観点ではモルモン書の何をどう信じてるということなんでしょう??
例えば霊とかって信じないほうなんでしょうかね??
探究心旺盛な末日聖徒が直面する関門
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/b788030bf621d6a093294102c32b2f1f
いえいえ、モルモン書をフィクション視することは、米でもまだ研究者の間の話ですから、そこまではいっていないと思います。(ただ、本質的にはそういう位置づけになるでしょうか)。
創世記の記述(エバはアダムのあばら骨から創られたなど)をその通り受けとめたり、全般的に聖書の記述を字義どおり解釈することを直解主義というと思います。
>モルモン書フィクションとする観点ではモルモン書の何をどう信じてるということなんでしょう??
結局宗教的な真理をくみ取るということではないでしょうか。隣人愛、奉仕、至高者を認める、戒めを守れば栄える、など倫理・道徳上のメッセージに耳を傾けることに意義があると思います。・・・また、聖書の注解や19世紀西洋社会への警鐘が含まれていると考えられます。
短い文では十分意を尽くせませんが。
同感です。
さらに言えば、問題提起と情報提示ですね。
私も、一時期ブログを始めましたが、長続きしませんでした。ネタが続かないんですね。
それに比べて、コンスタントにネタを提供できるのは、NJさんの研究熱心な姿勢と、たゆまない情報収集からだと思います。
しかし、それよりも大きなNJさんの功績は、「モルモンを客観的に見る」と言う方向を示したことだと思います。
NJさん自身いつの時点からそうなったのか分かりませんが、40年前のNJさんは、もっと主観的にモルモンを見ていたように思えます。
私自身そうでしたが、モルモンに改宗して、自分がモルモンに成って、かなり長い間、モルモンである自分からの目線でしかモルモンを見ることが出来ませんでした。
たぶん、広い意味でのマインドコントロールにはまってしまったのだと思います。
改宗後の自分は、「いかに素晴らしいモルモンに成るか!」「この素晴らしいモルモンをいかに世に広めるのか」「モルモンをどう発展させていくのか」そんな事ばかり考えていたような気がします。
「選民に成った」と言う報酬と、神権者とか、モルモンの中での称賛、指導者とか言う報酬を目の前にぶら下げて、それが行動の動機に成っていたような気がします。
実際問題としても、日本ではマイナーなモルモンに関する情報は、教会側から発信されるもの以外見聞きする事は出来なかった。たとえ、疑問に感じることが有っても、その事を検証する方法を持って居なかったのです。
しかし、インターネットの普及が進み、NJさんや、他の方々の、教会以外からのモルモン移管する情報に接して、やっと、部分的ではありますが、客観的にモルモンを見ることが出来始めました。
私は、このブログの意味は、「モルモンを客観的に検証する」と言うところに有ると思っています。
>モルモンの基本教義とは、非常に少なくて子供でも理解できることだけなのです。
NJさん 曰く
>結局宗教的な真理をくみ取るということではないでしょうか。
お二人の書き込みを見て思い出したTEDがあります。
わが意を得たりの感です。
https://www.ted.com/talks/karen_armstrong_let_s_revive_the_golden_rule?language=ja
これは 宗教歴史家として ある事に気づいてからのことです それとは 「思いやりの心」が 主要な宗教の教えの核心であるという事です どの一つの宗教をとっても その宗教は独自の形で この黄金律を発展させてきました 時には肯定的な言い回しで 「自分にしてもらいたいことを 他人にしてあげなさい」 そして 同じくらい重要なのが これの否定的な言い回しです 「自分にして欲しくないことは 他人にもしてはいけません」 あなたの心と向き合ってください 苦痛と感じることを思い出してください そしてどんな状況であっても そのことを 他人に対しては行わないでください・・
宗教家や宗教のリーダーが集まると たいていの場合 難解な教義についての議論や 憎しみを込めた言葉での応酬や ホモセクシュアルの弾劾 などがはじまります しばしば 人は思いやりを持とうとは思っていません 時々私が感じることですが 宗教家の集会で講演をしていると 反抗的な顔つきをされることがあります 皆 とにかく「正しく」ありたいのです その思いこそが本来の目的を潰してしまいます・・・
今 私たちは選択を迫られています 信仰の心がもつ 独善や偏狭の側面を 強めていくのか もしくは 原点に戻るのか キリストより前の時代の賢者 ラビ ヒレルの頃へと ヒレルはある異教徒からこう問われ 「片足で立っている間に ユダヤ教の教えを暗唱できるか」 ヒレル「自分がされたくないことを隣人にしてはいけない それが教えの全てだ 残りは解説にすぎぬ」
賢者や初期の神父はこう断じました
「どんな解釈であれ 憎しみや尊大の心を増大させるものは まがい物である」・・・
だからさーオムナイさん!
モルモン教って言うのが、その増大させる宗教じゃあ無いんですかって話をずっとしてきたんじゃないですか!
「私たちは唯一正しい教会で、他の教会はすべて間違ってる」って教えが、その憎しみを増大させる根源じゃないんですかって話。
十年以上も話し込んで来たのに、まだ理解できてないんですか?
>「どんな解釈であれ 憎しみや尊大の心を増大させるものは まがい物である」・・・
あれま(^^?
豚師匠への皮肉もちょっぴり込めたつもりでしたが、皮肉も罪とのこと。。対話はなかなか難しい。
●同性愛者も、その子供も教会に入れません
●カトリックは悪魔を基とした憎むべき大教会
こんなことを言ってたら憎しみしか生まれないわね。せやけど、もっと酷いのがあんねんな。一番アカンことや。それはな、それでも信じてきた信者達にこんなことを言う連中や。
『あれは公式なもんちゃうねん、幹部の個人的見解やねん、え?あんたアレ信じてたん?アホやなぁ、ギャハハハハ!』
(≧▽≦)
そらこんな連中が、わしらはリベラルじゃなんじゃ、正しい理解をしてるんや、なんてデカイ面してたら怒り以上の感情か生まれるわね。
けどそう言うところから目を背けないと成り立たないのがモルモン・リベラルっちゅうワケやけど。
『過去のことだから関係ない』
『幹部の個人的見解だから公式なものでない』『教会員が勝手に勘違いしていた、誤解だ』
これらは現実逃避だってことです。今なお多くの、と言うか殆どのモルモン会員が信じていることを棚にあげ、切り捨て、無視をして、自分勝手なこじつけ論法でモルモン教会をキリスト教っぽく見せようとしても、それは空想の彼方、夢物語と言うことです。
ロドニー・スタークやらジミー・ガーターらのモルモン擁護発言をコレクションしてる御仁もおられますが、それってネット右翼の『外国人による日本誉め言葉まとめサイト』並の醜怪さが漂ってますね。だいたい何年も前から同じ引用ばかりなのは、それ以外の発言が存在しないのでしょうかね?
モルモン会員は現実を見なきゃいけないね。もし唯一まことのキリスト教会なら、その会員として相応しい人格を身につけなさいよ。
豚さんはNJさんのブログは客観的と評価されているので、ここから引用してみますね。
このあたりを今一度考察してみては如何でしょう。
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/8a1f4f0a191febdd6b11366f88125f5d
「唯一真」を固執するのではなく、それを超越する時代が到来しているように感じられる。
〜〜〜
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/975062dbfe2a37552200265937bf58aa
それで「真偽」の真というより、「真善美」の真、他との比較というより、それ自身の資質を指すととらえられる、と考えたい私である。
〜〜〜
豚師匠自身も以下のようなコメントを残していますね。
少し古いですが、2007年7月10日にバチカンは「カソリックは唯一真の教会である」との声明を発表したと言うことです。
〜〜〜
近年カトリックの枢機卿様がBYUで講演したり、福音派と共にここにも出てくる「相対主義」について共に学ぶ機会がありました。
師匠もネガティブな教義への固執を乗り越えて乗り越えてRさんの仰る
分かりやすく尊い教えに光を当ててみるのも良いかもしれません。
ご一考ください。
それはね、BYUに招いたのはあくまでショーだからです。それは交流ではない!
なぜオムナイさんやRさんは月に一度でもカトリックへいかないの?どうして自分から交流を始めないの?
どうしてオムナイさんは二言目には「坊主丸儲け」って言うの?
どうしてオムナイさんは、「カトリックのお膝元ローマで犯罪があっても驚きません」って言ったの?
ほらね、すぐに化けの皮が剥がれる善人のフリ、これがモルモン大祭司。
それは、まぁそうですね。鋭いご指摘。
自分のコメント読むと気恥ずかしい。真夜中のラブレターです。
わたし自身は悪い人間であり、当然守っていなければならないほど主の掟と戒めを守ってこなかったです。
えらそうな事は言えません。
預言者オムナイではなく偽善者オムナイです。
そのへんどうなんでしょ??
霊魂、聖霊を始め神格者の存在や奇跡など神秘的な内容(神の顕現経験を含む)は、人によって異なりますが、批判的現代人は不信を一時停止(棚上げに)して信仰の物語の中に身を置き、メッセージをくみ取ろうといたします。
詳しくは、当ブログ 2006.03.01「神学者が見た聖書の読み方」に出てくる「不信(詮索)の一時停止」、2011.08.03 「最初の示現をどう受け止めるか」にある「現象学的留保」などを参照してください。
>分かりやすく尊い教えに光を当ててみるのも良いかもしれません。ご一考ください。
唯一真の教会の教えに「ネガティブな教義」は無いと思いますけどね。
私は、固執しないと良いように利用されるのが嫌なだけです。
他人の意見を都合よく切り取って貼り付けて、利用する人が居ますので。
例えて言うと、憲法について、「改憲反対」と言うのは、実に保守的な意見です。私も「改憲反対」じゃないんです。時代に応じて必要な部分は憲法で有っても改めればいいと思っています。
しかし、口に出すときは「改憲反対」と言います。それは、戦争可能条項を憲法に組み込みたい人たちが、「豚も憲法を変えることに賛成している」と言って利用するのが目に見えているからです。
本来「改憲」か「改憲反対」かに二分すべきではないのに、そうすることによって、自分たちの主張を押し通そうとする人たちが居るので、仕方なく「改憲反対」と言わざるを得ないのです。
私は何度も書いてますように、教会の教義が変わること自体に反対してるわけではありません。
教義の変更について、教会幹部が、きちっと説明すべきだと言っているのです。
過去の過ちを改める事は良い事です。しかし、過去の過ちを正当化することを土台にして、新しい教義が生まれるは、再び過ちを繰り返す原因になります。
物事の経緯を確認することは重要です。
経緯を確認しないまま、現実を認めてしまうのは、非常に危険です。
まさしく!
ヒンクレー管長は他の教派に向かって「唯一まことの教会」というべきではありません、それは他の教派にとって辛い言葉です。と説きました。
豚さんの思想に近いではないですか。
カトリックとプロテスタントも融和できました。
モルモンができないわけはありません。
現実に融和は進みつつありますね。
>というべきではありません、それは他の教派にとって
>辛い言葉です。と説きました。
「辛い言葉」じゃなくて「ふざけた言葉」だと思うよ。
原理主義モルモンが、ソルトレークの末日聖徒に同じ事を言ったら、「辛い言葉」と感じるんじゃなくて、別の感情を抱く、その気持ちね。
>カトリックとプロテスタントも融和できました。
>モルモンができないわけはありません。
モルモンの大祭司であるあなたが、決して自分からカトリックやプロテスタントに訪問することなく、絶えずあてこすり発言ばかりしてるのに、そんなこと出来るの?