本「花の知恵」

   花の知恵  モーリス・メーテルリンク著
 
 高尾歩 訳 1992年 工作舎発行


思い出したついでに再読。

「原題は、L’Intelligence des Fleurs。ですから、本来は、『花の知性』と訳すべきと思う」と、後書で、訳者。  知性とは、物事を論理的に判断してゆくことですから、花は人と同じように、いえ、もっと!? ……

 花には、光の方向へ、精神の方へ向かおうとする植物の生命の
 努力が 結集されているのである。


運命

一切が受容、沈黙、服従、瞑想の印象を与え、ひじょうに平穏な諦観の境地にあるように見える植物界ではあるが、実は、そこでは運命に対する最も激しい、もっとも執拗な抵抗がなされている。

植物の主要器官、栄養をもたらす器官である根は、植物を地面にしっかりと繋ぎとめている。人間はさまざまな掟に圧倒されていて、もっとも重くのしかかっている掟が何であるかを明かすのが難しいが、植物にとってもっとも重い掟といえば明らかだ。それは、植物が終生の不動を宣告されているということである。

それゆえ、漫然と努力するばかりのわれわれ人間と較べて、植物はまず何に対して抗うべきかをよく知っている。そして、植物の執念のエネルギーが根の闇を上がって、やがて器官を形成し、花となって光のなかに咲くさまは、比類ないスペクタルである。

このエネルギーは、ことごとく、ひとつの同じ目的に向けられている。低さという運命を逃れて高みへ向かうこと。重く暗い定めを何とかうまく脱し、自由になり、狭い世界を打ち破り、翼を発明したり翼の助けを借りたりして、できる限り遠くへ逃れ、運命によって閉じ込められていた空間を征服し、自然界の他の領域に近づき、動きのある活気に充ちた世界に入り込んでゆくこと。

植物がこの目的を果たすということは、たとえばわれわれ人間が運命の割り当てる時間を超えて生きおおせるとか、あるいはまた、物質の法則というもっとも重い掟から解放された世界に入り込むことに成功するとかいうのと同じくらい驚くべきことではないだろうか。

花が、人間にとって、反骨精神や勇気、粘り強さ、そして創意工夫の、ただならぬ手本であることが分かるだろう。

人間が、たとえば苦しみや老い、死といった重くのしかかってくるさまざまな必然を取り除こうと、庭に咲く小さな花が発揮するエネルギーの半分でも注いでいたとしたら、人間の運命も今のそれとは大きく異なっていただろうと考えられるのである。

   
想像力

人間の発明が進んでゆくのも、まさにこうして、小さなことの積み重ねによって、やり直しや手直しの繰り返しによってではないだろうか。機械産業の最先端において、点火や気化やクラッチや変速の改良がわづかながらも不断におこなわれてきたことは、誰もが目にしてきたところである。

どうやら本当に、人間にさまざまな考えが浮かぶのと同じように花にも考えが浮かぶものらしい。花は、人間と同様の闇の中を手探りで進み、同様の未知なるもののなかで、同様の障害、同様の悪意に出会う。そしてまた、同様の法則、同様の失望、すぐには手にすることのできぬ困難に充ちた同様の勝利を知っている。

花には、人間の忍耐強さ、粘り強さ、自尊心があるらしい。人間と同様の微妙に異なる多様な知性をもち、人間とほとんど同じ希望と理想をもつらしい。

花は、人間と同様、最後にようやく助けの手を差し伸べてくれる超然たる大きな力に対して闘っているのである。


幸福

「自然」が美しくありたい、好かれたい、楽しませたい、幸福であるところを見せたいと望んで行うことは、人間が「自然」の宝を意のままになし得るとしたら行うであろうことと、ほとんど変わらないのだ、と。

こういう言い方をすると、「摂理」はつねに大河が大きな街の近くを流れるように仕向けるといって感嘆していた、あの司教にいささか似た物言いをすることになるのは分かっている。しかしながら、こうした事柄を人間の視点以外の見方で考察するのは困難である。



楽しいですねえ

いくつもの聖書の言葉が浮かんできますし、

大宇宙の知性も人も花も、細い糸のようなものでつながっているような気がしてきます。

素直な美しい眼差しと、深い知性のひらめきを感じます。この本には、困難を吹き飛ばす力があります。


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