夕べはネット上の読書会でした。
今月の課題本は、『自閉症のDIR治療プログラム』です。
話が盛り上がって夜中の一時まで(これは毎月のことですが)
スカイプで話し合っていました。読書会の話題はまた別の記事で書きますね。
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前回の続きです。
母 「小学生の算数の教え方って?」
息子 「かけ算の文章題を教える時に、『かける数』『かけられる数』って
言葉を使って教えるよね。
それが、わかりにくいんじゃないかって議論をネットでやっててさ。
それを見てて、言葉を多用し過ぎる弊害というか、
確実性を高めようとして
言語化できない概念まで言葉で表現しようとすることで、
子どもの学習能力を落としているよなぁと思ってさ。
言語はある意味、記号に過ぎないんだから、
言語化できない直観で捉えるようなものまで
言語化しようとすれば、自然に発展するものを
小さな枠に押し込めてしまうことにも起こるんだなって感じたんだ」
母 「言語化できない直観で捉えるもの……?」
息子 「そう、さっきの『かける数』『かけられる数』にしても、
もし子どもの目の前に皿やかごに同じ数ずついちごを入れたものを見せたとするよね。
子どもはそれを目にするだけで、直観的に『かける数』にあたるものと、『かけられる数』にあたるものの
違いを感じとって、
自分に求められていることを直観的に理解することができるはずだよ。
それを『かける数』『かけられる数』という言葉に言いなおして、
伝え間違いが起こらないように確実性を高める時、
実際には、子どもが自分で目で見て感じとっているものと、
その言葉をつなげることができないまま、そこが切断された状態で
学習が進みがちなんじゃないかな。
子どもには子どもだけが持っている直観的な理解の仕方があるように思うよ。
それは学習の根っこの部分とつながってる。
大人の考え方の多くは、より確実にしようとするあまり、
言語化した時点で、大きな樹の葉っぱの部分になってしまう。
そうして葉っぱの部分を繰り返し教えて定着させることが
教育だと思われているけれど、
やっぱり何度も根っこに立ちかえることだって必要なんじゃないかな?」
もう一回だけ続きます。
「紙皿の中心と数学の概念」
http://www.todai-papa.com/2011/01/post-5618.html
という記事で書いた話にもつながりそうですね。
和算で定義は悟るものだったという話については、藤原正彦さんの「天才の栄光と挫折~数学者列伝」の関孝和の章で読みました。
それにしても、相変わらず息子さんの切れ味が鋭くていいですね。先日のクローズアップ現代でゲーミフィケーション特集を見て、息子さんが将来生み出すゲームがますます楽しみになりました。
NHK クローズアップ現代
ゲームが未来を救う!?
~広がるゲーミフィケーション~
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3147