まだむ日記

マダムの日常生活と大好きな旅行の日記です。

懐かしいアルチのホテル

2010-08-21 | 日常


 ホテルの夕食は 春巻き、野菜団子、焼ソバ、我々の口に会う食事でホッとする。

私にはマトンの肉は胃にもたれてどうにも馴染めない。

その点 ここのホテルの料理は本当にありがたい。

ホテルの食堂の壁には 年に1度はこの村にも訪れるという

ダライ・ラマ14世と村人達、勿論このホテルのオーナーも写っている写真が掛けてあった。

ダライ・ラマ14世と言えば チベットを思い出すことがある。

ダライ・ラマ14世が1959年インドへ亡命した後 次のダライ・ラマを選ぶ時

チベットが選んだ子どもは消えてしまい、中国側が擁立した子どもが

その地位に着いたのは誰もが知っていることであるが

漢民族の我々のガイドに そのことを質問したが何も応えてくれなかった。


チベットで後継者の選び方(ダライ・ラマ14世の時)

1935年7月6日、チベット北部アムドのタクツェルの小さな農家にて9人目の子供として生まれた。

なお 生家は小農であったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。

貴族階級でもない。わずかな土地を人に貸し、自分達でも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており

ゾモというヤクと牝牛の雑種を5~6頭、80頭あまりの羊や山羊、2~3頭の馬、2頭のヤクを

飼っていたいたという。

生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという。

幼名はラモ・ドンドゥブとなずけられた。これはΓ願いを叶えてくれる女神」という意味である。

見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという。

3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が

派遣した捜査隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。

お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に

頭の向きを北東に変えたこと。

他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのをΓ視た」

続いて 青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘の上につづいている

映像をΓ視た」、そして最後に変な形をしたΓ桶」のある小さな家をΓ視た」ことだという。

僧は Ah 地名アムドの A だと確信して捜査隊をそこへ派遣したという。

Ka の文字はクムブクの K に違いないと思ってクムブクにやってきた捜査隊は

クムブクの僧院が青くて3階建てであることを発見してその読みが正しかったと確信する。

捜査隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた。

捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。

また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、

いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという。

上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、

この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの

転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ

(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。


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