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即席の足跡《CURIO DAYS》

毎日の不思議に思ったことを感じるままに。キーワードは、知的?好奇心、生活者発想。観る将棋ファン。線路内人立ち入り研究。

ニッポンの夏のステキなポエム

2011年07月11日 01時31分22秒 | 3.11
今まで何度も紹介してますが、日経ビジネスオンラインの小田嶋隆さんのコラム、冴えてます。

二つあって、まずひとつ目。

梅雨は何やってるんだよ。
まだこの夏の先は長いと言うのに、このクソ暑さの毎日にもう突入ってわけ?
少しは抵抗しろよな!
粘りがない。
簡単に土俵を割っちゃってさ。

エアコンを止めて分かったニッポンの夏の過ごし方
部分的に引用させてもらいます。
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こじつけのように聞こえるかもしれないが、私は、夏がイヤな季節になったのは、実は冷房装置のせいだと思い始めている。
 エアコンディショナーというものがなかった時代、われわれは、夏を「しのぐ」という形で、暑さに対応していた。
 「しのぐ」方法は、細かく拾い上げれば、手法としては山ほどある。
 が、根本は、「生産性を落とす」ことだ。
 最も暑い季節の一番しのぎにくい時間帯は、いろいろなことをあきらめる――これが、夏を「しのぐ」際の基本姿勢だ。といって、夏をやり過ごすことに関して、特段に目新しい決意やコンセンサスを持つ必要はない。真夏の暑さの中に置かれたら、人間は、誰であれ、生存以外のほとんどのことをあきらめざるを得ない。われわれは、生物学的にそういうふうにできているのだ。
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そういえば、以前は皆、まったりボーっとしてたよな。
無駄な抵抗せずに休んだり、夏を特別視してたよな。
強い日差しの下では、蝉の鳴き声だけが響き渡り、ここに出てくるネグロス島のように、ジーンとゆったりした長い時間が過ぎていってたよなあ。

すべては生産性、文明の問題ですね。
夏と言う特別の時期だから、生産性が上がらない時期だから、ここは普段よりもスローダウンするしか仕方ない。
あきらめざるを得ない。

それがいつの頃からか、クーラーが普及してきた頃からなのか、あきらめない夏になった。
しのがない、他の季節と同じ夏になった。
仕事の生産性の話で言えば、小田島さんはこんな風に言っている。
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時代が20世紀から21世紀に移行して行く過程で、オフィスの仕事は、劇的に効率化した。

 たとえば、編集者の仕事で言うと、私が駆け出しだった1980年代は、まだ彼らは書き手のところに直接手書きの原稿を取りに来ていた。
 だから、編集者の仕事のうちのかなり大きな部分は移動時間と待ち時間で占められていた。よって、担当できる著者の数もせいぜい5人程度だった。
 ところが、ファクスが普及し、ワープロが登場し、電子メールが開通すると、編集者は、著者と顔を合わせなくても仕事ができるようになる。原稿の受け取りもメールでオッケー。催促はツイッター経由で圧力をかけておけば足りるし、ゲラもPDFのやりとりでなんとかなる。

 その結果、彼らの仕事が楽になったのかというと、まるでそんなことはない。私が知っているある週刊誌の女性編集者(もう3年以上も一緒に仕事をしているのに、顔を合わせたことはない)は、20人以上の書き手を随時かかえていて、その、それぞれにやっかいな20幾人かの原稿を毎回綱渡りのようにして入稿しているのだという。聞いているだけで神経が磨り減る。毎日卵を産むニワトリとどこが違うんだ?
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皆、自分に照らし合わせてそう思いますよね?
あの頃は、いちいち企画書にしろ見積もり書にしろラフデザインにしろ、アポ取って(取らない場合も多かった。)紙を持って行って説明するのが仕事だった。
メールがないから、何度も電話して、つかまらず、電話で話せるまでに無駄な時間をかなり使った。
電話が仕事の重要な一部だった。
それが、相手が居ようが居まいが、メールで、メール添付で送りつけて、フォローはするもののそれでかなり済んでしまうというのは、どんだけ効率的なのか。
でも、効率的になったことでよかったのか。
儲かったのか。
楽になったのか。
やりたい仕事ができるようになったのか。

このことを、今度の震災が我々に突きつけた、とも言える。

もうひとつ。
復興構想会議が6月25日にまとめた「提言」の話。
ある意味、皆が待ちに待っていた提言。
これを元に日本の未来が垣間見えるはず。

ポエムな「提言」で復興できるの?
これも部分的に引用させてもらいます。
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ある種のポエムは、書き手が何かを隠蔽したいと考えている時に立ち現れる。
 書きにくいことを書かねばならない時や、書くべきことを書かずに済ませようとする時、散文は、詩の似姿をとることで、その場をしのぎにかかるのだ。

 卑近な例では、グラビアのキャプションがそうだ。アイドル水着写真には、必ず編集部のオヤジが書いた似非ポエムが添えられる。
「ク・ミ・コ。声に出して言ってみる。ボクの心の日記帳はキミの名前でいっぱいなのさ」
 こんな詩は単独ではもちろん成立しない。が、グラビアがポエム抜きで成立しないこともまた事実で、結局、グラビアを見ている少年の恥ずかしさは、添えられたキャプションのこっ恥ずかしさで中和しないと解毒できない。そういことなのだ。

 格闘技のイベントでも、リングアナウンサーの語りはいつしかポエムになる。
「孤独な求道者の鉄の意志とぉー、血に飢えたプレデターの魂がぁー いまぁーリングに連なる獣道でひとつになったぁーーー。宿命と呼ぶにはあまりにもうつくしいー、バーリトゥードの旋律がぁ、いまぁー幕を切って落とされたぁああああ」
 こういう時、
「旋律に幕なんてあるか?」
 と突っ込む者はいない。ポエムは、殺伐とした空気を撹拌するための風だ。意味なんか要らない。むしろ、意味は有害。リングサイドの男たちは、あまりにも興奮していて、ポエム以外の日本語が理解できない。それだけのことなのだ。
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もう、たまらん。例の出し方、そして、その具体例が受けに受ける。
電車の中で腹を抱えるように、吹き出してしまう。

ファンタスティックでドリーミングなポエム。
抽象的で、場違いで、他人事で、主語が不明で、冗談のようなこの提言は、果たしてこれからどうなっていくんだろうか?
失敗を重ね、挫折を繰り返し、最後は希望が見えた「プロジェクトX」になるのだろうか?

学者や大学教授だけでなく、岩手、宮城、福島の県知事も名前を連ねているのだから、被災者の気持ちや要望も少しは組み入れられているはず。

この素晴らしきポエムの行く末を、しかと見守りたいと思う。
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