中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

北欧音楽祭すわ

2018年10月09日 16時57分37秒 | 日記
北欧音楽祭すわを訪ねた。

これは下諏訪で行われている、諏訪交響楽団の武井勇二さんが実行委員長になって、すでに20年つづいている音楽祭だ。
これは岡谷市出身の指揮者・渡邉暁雄を顕彰して、企画されたものだ。

渡邉は戦後の日本の音楽界を牽引した指揮者であり、東京芸術大学では、岩城宏之や山本直純などの門下生が輩出する。

父忠雄は岡谷市出身で、下諏訪のキリスト教会に入り、牧師となってフィンランドに渡る。フィンランド神学校を出たのち、フィンランド人のシーリと知り合い、二人は当時としては珍しい国際結婚をしている。二人は岡谷に戻り、二人の男子をもうける。その次男が暁雄である。ちなみに兄は共同通信社にjはいり、ロンドンに長く居住しジャーナリストとして活躍した。

母シーリは、日本に来るときに、キャンドル立てがついているアップライトピアノを持ってきた。当時、日本にはピアノもろくにない状態。これは、のちにピアノ界の大御所井口基成の最初のピアノとなった。基成の父は日本キリスト教団の熱心な信者で、渡邉家と知り合いになった。そんな縁で、子供たちが音楽をするというときにこのピアノが井口家にもらわれていったのだった。このあたりは、現在「モーストリー・クラシック」で連載中の「鍵盤の血脈」を読んでいただきたいとおもいます。

さて、母である声楽家のシーリの才能と影響をうけて、
暁雄は、東京芸術大学を出て、ニューヨークのジュリアード音楽院に学んだ。

北欧音楽祭すわの名誉会長である暁雄の長男でピアニストの康雄によると、暁雄は、ピアノもヴァイオリンもうまかったそうだ。
彼は、芸大のヴァイオリンに学び、のちに井口基成と桐朋学園を創立する斎藤秀雄らと、室内楽運動などもしていた。

戦後になって、ジュリアードで指揮を学んだ。ここで暁雄は、劇場経営や楽団経営を学び、指揮をも学んだ。
これは日本人指揮者としては、初留学となる。

このときの知識をもちかえり、渡邉は、日本フィルハーモニー交響楽団の創立にかかわる。

康雄によると、「父と二人でタクシーにのって喋っていると、運転手さんに、日本語がお上手ですね、なんていわれる時代で、父はハーフということでいろいろ苦労したと思います」という話が、音楽祭のパーティーであった。
そうだよね、いまでこそ、認知されているけれど、大坂なおみさんとか、・・・日本人の優勝と騒がれているけれど、彼女も結構差別という目にあったと聞いています・・・それがときをさかのぼって、昭和の最初なのですから、当然、差別のなかで育ったはずです。

ただ面白いのは、暁雄さんが結婚した相手が、元総理大臣鳩山一郎の娘。最初は節子さんと恋に落ちたらしい。しかし、彼女は白血病で早くになくなった・・・。
その彼女にピアノを教えていたのは、井口基成の妹の愛子・・・・・鳩山家とはいろいろ縁が深い井口家ですが、これも「鍵盤の血脈」に譲りましょう。もうだいぶ前にこのことや、基成が芸術院賞をとったときのパーティーは鳩山御殿でした、という話を書きました。戦時中であるにもかかわらず、基成は酒を集め、寿司をにぎらせ・・・・。

暁雄は、それでも情熱的に、節子と結婚、亡くなってからは、なんとその妹の信子と結婚したのです。
何しろ、かっこいいです。

(続く)