脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

人間とは、先ずは個人存在である。そして社会存在(システム)が半分である。

2015年04月13日 00時43分27秒 | コギト
先週、アメリカ在住の弟一家・三人が帰国して、我が家に逗留した。
滞在中は、弟夫婦ともに日本の旧友との親交に忙しく、夫婦は個別に家
を出たり入ったりしていた。彼等も携帯電話を持ってはいるが、日本で
の回線から掛けるには、特別な手続きをしないと、繋がらないらしい。

そのため帰国中は、電話がある家庭が、連絡拠点として必要となる。
すると必然的に実家の家人は、彼らのための電話番にされてしまう。
見知らぬ声の、主婦っぽい女性から電話が入り、弟の奥さんの友人だっ
たが、待合せした駅は、何線の何駅だったかと尋ねられた。

そんなことを問われても、当人同士の約束事など私が知るはずもない。
私は、弟の細君の個人日程を知らないし、待ち合わせが何駅の何処だか
など全く与かり知らぬ話である。最も、電話を掛けてきた相手も、彼女
の日本での連絡先が、我が家しかないので、仕方なく電話してきた様子
ではあった。

今の社会において、個別に直に繋がれないことは、不便なことなんだな
と改めて思った。携帯電話がないと、用件を伝えるためには、誰か仲介
(連絡)役が必要となる。そんな第三者を常に確保しておくことは困難で
あるし、連絡経路も迂回することになる。

個人と個人がダイレクトに繋がれる状態であること、そんな通信インフ
ラが当然の前提である社会に我々は暮らしている。それは一面では、家
族や家庭より個人が前面化(主体化ではなく。)しつつあることだが、他
方ではその個人は、ネットワーク社会の細胞のような存在体である。

個別の顔を持ちながらも、その生は全体の微小部分細胞でしかない人間
存在、それのネットワークでしかない全体社会。ここで主体となるのは
全体社会であり、個人は部分としてそれに従うだけである。これは、日
本の保守的な政治状況の話ではなく、大袈裟に言えば、これこそが現代
文明の潮流として行き着きつつある人類社会の姿であると思う。

ここで重要な事は、社会とは個人の集合体ではないという事態である。
また社会とは、寧ろ様々なシステム(経済であれ教育であれ通信であれ等
々)の束としての<システム>総体のことである。現代とは<システム>
ばかりが当然のように超然と、人間社会に君臨している時代なのだ。

ところで、日本でも半年先には、国民への個人番号制度が始まるそうで
ある。個人の人間存在の全部が、社会や国家の一部なのではない。せい
ぜい半分であると言いたい。現今の国家・社会による個人管理の流れで
は、個人存在というものが、益々<システム>に抹消・抹殺、蹂躙され
ていくような危険な予感がする。

コンピュータ・テクノロジーと効率や合理性を追求した管理主義の結託
は、生身の人間を<システム>に同化させ<システム>に閉塞させる。
現代人は抗いようもなく<システム>帝国主義の下を生きねばならない。
やがては、「全体社会=<システム>、の幸福な笑顔のためには」人間
は奴隷であれという笑止な転倒に行き着かないかと、私は妄念を抱いて
いる。

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