脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

<親>を絶つこと。

2018年04月01日 21時22分56秒 | コギト
1週間入院して、母の肺炎は一応治ったようだ。老人性の誤嚥性肺炎な
ので、嚥下障害が残る。服薬の際に飲む水でもむせてしまうので、病院
では、水をゼリー状に固めて与えている。こんなんで、また自宅に戻っ
てからの介護は大丈夫だろうか、と少し不安である。

親の介護とは、老親の「老・衰・死」に付き添い、わが身に引き受ける
ことなのだろう。一方で、老い往く母は子供に返ったような、妙に愛ら
しい処も時々あって、胸が痛む。胸が痛いのは、子とは親を最期に「殺
さねば」ならないからだ。

勿論、殺人を犯す話ではない。気持ちの上で親を断ち切る事、親が死ん
で名実ともに自立した一人となる事である。男親が死んだ場合には、そ
んな気分にもなれるのだが、母親というのは、どうにもつい甘い愛着が
絡みついてしまい、親が断ちにくい。

高齢な親の老いや衰えには手を貸してあげられるが、愛着過多な母親の
面倒を見てると、愛情の奈落で一緒に溺れかねないような、切ない辛さ
を背負い込まねば、母の気が済まないようにも思えて、胸が苦しく気が
変になりそうだ。(そう思い悩むのは、私の母親への愛情が何処か歪ん
でいるせいだろうか?)

老い往く母を介護していて、母の中に自分がいる、或いは母を鏡にして
自分を映し出し、母の中に居る<自分>を見つけて喜び、それを好み、
それを愛でているものか。自分の中に居る<母>(の思い出の像)を、現
実の母に見い出しては、愛着を深めてしまうのか。この入れ子となる結
びつきに想い入れを深くすると、人間存在として危機、危険である。

愛着対象として、親は永遠ではないし、子よりも親が先に死ぬ。子は愛
着の対象喪失を辛く胸に刻まねばならない。老・衰・死と並べた時、親
の老と衰には付き合えても、死には気持ちを突き合せたくない。死の時
まで付き合ってはならない。

死は別離であり終焉である。きっぱりと切断されねばならない。親を殺
すこと、親を葬り弔うこと、それはセミが脱皮して殻を破り捨てるよう
に、子の成長や、子のその先の人生を歩むためにも必要なのだ。それは
また、命を運ぶこと、<運命>を肯定することでもある。人は<親>の
海から産まれ、陸に育ち、愛を経て、無心・無私に極まるのが善い。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。