2)択法(ちゃくほう)覚支dhammavicaya-sambojjhanga
英語ではinvestigationとなっている。ただ瞑想におけるinvestigationは、思考によってなされるものではない。それは現象するものの特性についての直感的な洞察である。洞察は、一言でいえばダンマ(現象、こころ、もの)についての洞察なのだが、択法においてはさらに特別な意味があるという。個々の対象にユニークな状態や性質である。つまりヴィパッサナー瞑想の実践によって対象の共通の特性とともに個別的な特性も明らかになっていくのである。択法覚支によってダンマの真の性質が明らかになる。
◆暗闇を排除する
dhamma vicayaがあるところ、気づきの領野が照らし出される。それによって観察対象が照明されて、その真の性質が理解される。高度なレベルでは、周囲の闇が完全に排除され、心はニッバーナまでを貫く。
◆混乱をなくす
真っ暗な部屋を移動しようとすると、どこかにぶつかりはしないかとこころが混乱してしまう。同様にdhamma vicayaがないと、修行者の心は、湧出する疑いにカオスと混乱の状態となる。魂はあるのか、無常や苦の教えは真実なのか、実体としての自己は存在するのではないか、ニッバーナなどおとぎ話の類ではないか等々。
dhamma vicayaがあれば、すべては明るく照らされて、こころは存在するものを明確に見ることができる。心的、物質的現象の本性を理解する。もはや壁に突き当たることはない。
☆スマナサーラ長老の『ついに悟りを開く・七覚支瞑想法』での記述と比べて見よう。サティが充分に出来るようになると、いきなり「なるほど、こういうことなのか」と見えてくるものがある。たとえば聞こうとする意識、音、音に伴う感情、それらが分離してはっきりと認識できるようになる。それが択法の意味だ。
たとえば「痛み」と観察をして、頭で分析するのではなく、「気づき」だけをしていると、自動的に瞬間的に「分析的に」に純粋な痛みと心による付加との違いが見えてくるのだという。
いわゆる「行住坐臥」の四つをきちんとサティしていくと、やがて「身体という物質の働き」と「心という精神的な働き」の波は、しっかりと区別して認識できるようになる。心と身体の働きが別々にきれいに見えてくる。つまりナーマ・ルーパの区別である。
こうして比べて見ると、択法(ちゃくほう)覚支の意味がより明確になるだろう。
英語ではinvestigationとなっている。ただ瞑想におけるinvestigationは、思考によってなされるものではない。それは現象するものの特性についての直感的な洞察である。洞察は、一言でいえばダンマ(現象、こころ、もの)についての洞察なのだが、択法においてはさらに特別な意味があるという。個々の対象にユニークな状態や性質である。つまりヴィパッサナー瞑想の実践によって対象の共通の特性とともに個別的な特性も明らかになっていくのである。択法覚支によってダンマの真の性質が明らかになる。
◆暗闇を排除する
dhamma vicayaがあるところ、気づきの領野が照らし出される。それによって観察対象が照明されて、その真の性質が理解される。高度なレベルでは、周囲の闇が完全に排除され、心はニッバーナまでを貫く。
◆混乱をなくす
真っ暗な部屋を移動しようとすると、どこかにぶつかりはしないかとこころが混乱してしまう。同様にdhamma vicayaがないと、修行者の心は、湧出する疑いにカオスと混乱の状態となる。魂はあるのか、無常や苦の教えは真実なのか、実体としての自己は存在するのではないか、ニッバーナなどおとぎ話の類ではないか等々。
dhamma vicayaがあれば、すべては明るく照らされて、こころは存在するものを明確に見ることができる。心的、物質的現象の本性を理解する。もはや壁に突き当たることはない。
☆スマナサーラ長老の『ついに悟りを開く・七覚支瞑想法』での記述と比べて見よう。サティが充分に出来るようになると、いきなり「なるほど、こういうことなのか」と見えてくるものがある。たとえば聞こうとする意識、音、音に伴う感情、それらが分離してはっきりと認識できるようになる。それが択法の意味だ。
たとえば「痛み」と観察をして、頭で分析するのではなく、「気づき」だけをしていると、自動的に瞬間的に「分析的に」に純粋な痛みと心による付加との違いが見えてくるのだという。
いわゆる「行住坐臥」の四つをきちんとサティしていくと、やがて「身体という物質の働き」と「心という精神的な働き」の波は、しっかりと区別して認識できるようになる。心と身体の働きが別々にきれいに見えてくる。つまりナーマ・ルーパの区別である。
こうして比べて見ると、択法(ちゃくほう)覚支の意味がより明確になるだろう。