瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

意識の表層の発光

2009年12月06日 | 瞑想日記
◆人の心は、無限に深い広がりをもっているのだろう。ちょうと三角形の底辺がなく、その先は深い闇に包まれているように。三角形の突端のほんのわずかな部分が意識と呼ばれ、そこは絶えず気ぜわしく発光していて、静まるときがない(脳内おしゃべり)。

その発光をひとまず静める。それが瞑想の第一歩だ。そうすると、突端から奥へと無限に広がる領域への視界が少しずつ開けていく。何度か10日間の瞑想合宿に参加して感じたのは、やはりある期間の集中的な瞑想は、自分でも気づかぬうちに心の広大な領域へのドアを開くということだ。ただし、そのドアを開け放したままに保つのは難しいことなのだが。

意識の表層の気ぜわしい発光を静めて、心の奥深い領域に静かに分け入っていくこと。このこと自体の意味に「抵抗感」があるわけではない。どこかに気づかぬままの「抵抗感」がわずかでも存在すれば、それは瞑想の妨げになるから、徹底的に気づき、その無意味さを自分に納得させておかなければならない。もちろん分け入っていく過程で新たな様々な「抵抗」は発生していくのだろうが。

今日は、起床時に60分瞑想。

抵抗感を感じる必要はない

2009年12月05日 | 瞑想日記
今週も、平日は瞑想の時間をとらなかった。今日は、起床後に50分。

前回「何かひとつの対象に集中しようとすることで、自然に湧きあがる様々な思考や感情を抑圧してしまうことへの抵抗感がかすかにある」と書いた。それは、私の集中力が弱く、「集中しよう、しよう」と力むからそう感じていたのだと思う。集中力が充分について力む必要がなくなれば、そうした抵抗感も消えるはずである。

力みなく集中するときは集中する。しかし必要とあれば心を、気づきの方向へ自在にシフトすることもできる。そんな感じがあるだろうと予感した。

サマタ瞑想は、集中の極みで主観と客観が融合するサマーディを目指し、それのみをゴールとする。ヴィパッサナー瞑想は、集中とともに観察を重要なファクターとする。特定対象に集中するだけでなく、心の内外に生起する一切の現象を、公平に、無差別に、あるがままに気づくことを重視する。もちろん、瞑想しようとする動機に隠されたエゴも観察され、あるがままに気づかれていく。

集中するときは集中するが、心の一切の現象を、公平に、無差別に、あるがままに気づくことも随時、自在になされる。そんな状態になれば、集中への抵抗感を感じる必要はないであろう。

来週は、平日にもぜひたとえ10分でも瞑想の時間をもちたい。