瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」:限りあるもの(2)

2007年01月31日 | 瞑想日記
「私」(という観念)には、いつか終わりが来る。それはやがて滅び、あとかたもなく消えていく。そのことに気づくとき、「私」(という観念)が成り立つのに確たる根拠は何もないことにも気づく。

問題は、この事実をどれだけ深く気づくかだろう。たんに観念的に分かっているだけの場合と、ごまかしようもなくその現実の前に立たされる場合との間には、大きな開きがある。「私」(という観念)がやがては消滅することを如実に実感してしまえば、それにしがみつくことはもはや無意味となるのだろう。

私自身、観念的に分かっているだけの場合とほとんど違いがないから、いまだに「私」にしがみついている。しかし、サティは確かに、「私」という観念の根拠のなさ、虚構、幻想、はかなさ‥‥という性質に気づかせる働きをもっている。思考に埋没せず、そのつど思考にサティをしていると、「思考する私」、「思考としての自我」が相対化され、その無明の姿が見えてくる。

心の痛みや苦しみに気づくだけではなく、傷ついたり、苦しんだりしている「私」にそのつど気づきが入るなら、痛みや苦しみは「私」を解き放っていくための学びの機会となっていくのだろう。

「私」:限りあるもの

2007年01月30日 | 瞑想日記
日常の中でできるかぎり自分の想念・思考に気づいていこうとする意欲は再び強くなっている。多くの思考は、自我を弁護したり、確認したり、強化したりする働きを背後に隠し持っている。そういう思考の働きにもそのつど気づいていく。

「自我」が働いている姿をそのつど気づくようにしていると、「自我」つまり「私」の限界を感じることも多くなる。「私」は必ず終わるものであること。肉体の死とともにであれ、他の形によってであれ、「私」は必ず挫折するということ。「私」の企図も、必ずどこかで途切れ、挫折する、「私」という観念ともに。

その事実をできるかぎり深く感じることが、「私」を明け渡す準備になっていくのだろう。そして時が満ちたとき、「私」は明け渡されていくのだろう。

昨日の夢に象徴されるような突如として襲ってくる「不条理」、あるいは子供をめぐる問題での苦しみ。だからこそ余計に何かにしがみついて苦しんでいる「私」を感じる。

生きることの苦しみに、ごまかさず直面することで「私」という思考が限りあるものであることが次第に実感されていく。

洪水あるいは津波の夢

2007年01月29日 | 夢日記
午前2時半ごろだったかに夢の恐怖の中で目覚めた。洪水の夢、あるいは津波の夢だったかもしれない。

小さな山の中腹にある友人宅を訪れていたようだ。窓から、下を走っている川が見える。それほど大きくはない。右側に低い山が見え、川はその下のトンネルをくぐって走っている。雨が降っており、荒涼とした雰囲気だ。

突如、左側の河口の方から恐ろしい水量の流れが押し寄せてきて、右側の山のトンネルを破壊する勢いで遡っていく。それを見て、深い絶望的な恐怖に囚われる。

気づくと家の右手、上方からも激しく水が流れ始めていて、家が押しつぶされると直観する。とっさに傾いた家の床の上の方に這い上がった。

実際に布団の中で体を急に移動させたらしい。足を変にねじったらしく、最近痛めている右太ももの付け根に痛みが走った。「痛い!」と声を出しながら目覚めた。恐怖の実感が残っている。

この恐怖を私はつねに抑圧しているのだ。生きている以上、地震、津波、火災、病気、交通事故、テロ、戦争‥‥と、いつ何時、命の危機が訪れるか分からない。生きているということは、そのように理不尽なことなのだ。そのことに私は深い怒りを感じている。ここにも私の抑圧があるようだ。その怒りが夢のテーマになったことも何度かあった。

しかし、恐怖や怒りは抑圧せずに直面すべきものだと思う。本当の意味でこの「不条理」に直面し、「自己」が挫折したときにこそ、開かれてくるものがあるのだろう。

「思考する自我」を見渡す視点

2007年01月28日 | 瞑想日記
サティへの意欲が低下している大きな理由は、「思考する自我」としての私を相対化する視点を見失っているからかもしれない。

調子がよかった頃は、サティが入るとともに「思考に埋没する自我」である私を突き放して見る視点が実感されていた。それは、私が一瞬一瞬どのような傾向のことを考えているかという内容が見えてくるというだけではなかった。「思考する私」を上から全体として見ているような視点があった。この視点が確たるものになれば、もはや思考のコントロールは不可能ではない、という感覚もあった。

なぜそれを見失ったのか。それだけサティが少なり、思考に埋没している時間が多くなったからか。はっきりとは分からない。サティが多くなれば、思考を突き放して見る視点も強まり、さらにサティへの意欲が高まるという相乗効果はあっただろう。注意しておきたいのは、「思考する自我」を上から見る視点を自覚すること自体が、さらに「自我」にとっての「成果」と感じられていることだ。そこにもまたサティが入っていかなければならない。

「思考する自我」を相対化して見る視点を忘れていたと気づいてからは、意識的にそういう視点を取り戻そうとしている。サティへの意欲も回復しつつある。

からだの感覚の観察

2007年01月25日 | 瞑想日記
最近ずっとサティが低調で、とくにここに書くべき新たな発見もなかった。サティを真剣にしようとする意欲も低下している。サティを真剣に行っているときは何かしら「やりがい」を感じている。自分の進歩や気づきに得意になっている「自我」がいる。サティへの意欲の中では、「自我」が「やりがい」や「満足」を感じるから、という部分が意外と大きいと感じた。

職場への行き帰りの歩行中(あわせて40分くらい)は、サティをしている。しかし思考も多い。そういう場合は最近、切り替えが早い。背後の気分にサティをしていく。「思考を楽しんでいる」「(思考を押さえつけて)サティしたくない」「自分に強要するような)サティはいやだ」等々、その時々の自分の気持ちに気づいて行く。すると抵抗なく感覚対象へのサティも始まる。

『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』ウィリアム・ハート著(春秋社、1999年)を読み直した。といっても以前に読んだときに線を引いたところを拾い読みしただけだが。それでも、あらためてなるほどと思うことが多かった。それなりに瞑想経験が増しているから以前とは自ずと感じ方が変化しているのだろう。

今回とくに印象に残ったのは、「からだの感覚の観察」の重要性についてである。

「‥‥、からだの感覚は心とつよく結びついており、呼吸と同様、現在の心の状態をそのまま反映する。思考、意見、空想、感情、記憶、願望、不安、といった対象物が心に接触すると、感覚が生じる。思考、感情、心の動き、すべての心の対象物がからだの感覚を引き起こすのである。したがって、からだの感覚を観察することによって心の観察ができることになる。‥‥自己を本質を知り、それにに正しく対処するためには、ふだんはほとんど感じとれないような微細な感覚にまで気づく必要がある。」p127 

怒って、「怒り」とラベリングしてもなかなか怒りがおさまらないとき、怒っている自分の体の感覚の変化を観察し始めると、不思議と怒りが収まることが多い。自分自身でも何度か経験した。

ともあれ、気分転換のためにも、日常生活の中で「からだの感覚」の観察の機会を少し増やしてみようと思った。