瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

内的なおしゃべりと自我

2008年07月31日 | 瞑想日記
私たちの日常的な思考は、ほとんどの場合、自分の意思でコントロールされているわけではない。何を思考しているのか自分で自覚すらしていない場合が多い。

コントールもされず、自覚すらもされず、えんえんと繰り広げられていく内的なおしゃべり。その時々の内的なおしゃべりは、無自覚な、自我のとらわれや欲望から、濁り水のように次々と発生してくるのだ。

その無自覚的な思考が、心の浄化を妨げる。エゴに発する内的なおしゃべりが続くかぎり、心の濁り、あるいは「無明」が続き、ときに「無明」をさらに深める。

さらに言えば、内的なおしゃべりは、ほとんどが自我への執着から生じるのだ。

だからこそ、日々の瞑想や生活の中のサティによって内面のおしゃべりを少しでも静めることが大切なのだ。心の濁りを清めることが必要なのだ。

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瞑想と浄化02

2008年07月29日 | 瞑想日記
集中がある程度深まらないと、表層の思考を追い続けるばかりで、日常的な意識のレベルから深まっていかない。表層の思考に邪魔されて、深く抑圧された感情は浮き上がってこない。したがって解放も浄化も起こらない。

集中が深まるということは、日常的なとりとめのない思考のざわめきが静まるということだ。そうなってはじめて心の奥に隠されていた感情が浮き上がってくる条件が整う。

ある程度集中が深まれば、抑圧されたものがある程度は浮上してきて、それをきっかけに思考がはじまったりする。サマタ瞑想の場合でも、多くの瞑想者はそういうことを繰り返すだろう。だからサマタ瞑想の場合でも、あるレベルでは、ある程度の集中とある程度の解放・浄化が充分に起こりうるのだ。

集中がさらに深まっていけば、さらに深い抑圧が解放される可能性がある。しかし、サマタ瞑想では、浮上してきたものをしっかりと解放させるための方法がないため、それを無視して集中に戻ろうとするだろう。だから解放・浄化は中途半端にならざるを得ない。集中によって心の表層は澄んでくるが、深く抑圧されたものは浄化されぬまま居座り続ける可能性が高いのだ。

ヴィパッサナー瞑想の場合はどうか。もちろんここでも集中は重視される。しかし、雑念が浮かんだら浮かんだでそれもしっかりとサティされる。集中が深まるにつれて、深いレベルから浮上するものがある。それにも気づきが入る。深いレベルから浮上したものにとらわれそうな状態であれば、心随観によって気づきが深められる。そしてまた集中を続ける。さらに集中が深まれば、より深いレベルでの気づきと浄化が行われる。浄化が進めばさらに集中が深まる‥‥‥。

かなり要約して図式的な表現をしたが、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いは、このようなものだと思う。

最近「浄化」ということに関心があり、瞑想する場合もどこかでそれを意識しているので、整理してみた。

瞑想と浄化01

2008年07月28日 | 瞑想日記
一昨日、瞑想による「浄化」のことに少し触れた。ところで最近、理由があって掲示板(談話室)の昔の書き込みを読み直している。2001/02/04 のSさんの投稿が止と観について触れている。今日、偶然それを読んで刺激された。今日、この日記を書いているのも、その書き込みに刺激されたからだ。自分の中で止と観について確認と整理をしておきたいと思ったのだ。書き込みには次のようにあった。

『「止」は集中力は付くけど、浄化にはならない。
「観」は集中力がなければ、思考に巻き込まれる。

「観」で観察の対象(呼吸や腹の動きなど「中心対象」などと
いいます)を一つ決めて、一通り気付いたら、
そこに戻るようにする方法もありますが、
それを決めない「観」も、その場所を移動させていく方法も
あるようです。

「止」は一点集中(固定)、「観」は分散・拡散した集中の瞑想だ
といわれていますね。』

実に的確な指摘だが、基礎的な知識がないと分かりにくいかもしれない。瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。

これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティの訓練が中心になる。『悟りへの道:上座仏教の瞑想体験』 鈴木一生 (春秋社)では、この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深かった。ヴィパッサナー瞑想の、段階的に非常に体系化された修行法がよく理解でした。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。

止と観の違いは、次のように表現することもできる。瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と智恵(パンニャー)の訓練が含まれる。精神集中(止)は、「平静さの育成」(サマタ瞑想)とも呼ばれ、智恵の訓練(観)は「洞察力の育成」(ヴィパッサナー瞑想)とも呼ばれる。

ところで、かつて『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』を読んで興味深かったのは、サマーディによって得られる心の清らかさは、ほとんどが不純物を抑えこむことで得られると指摘していることだ。サマーディを行うと心の表層が澄んでくるが、不純物は無意識の領域にたまっており、この潜在的な不純物を取り除かなければ、真の心の解放はないという。集中は、他の思いや感情を打ち消して何かに集中するのだから、打ち消されたものが押し込まれるのは当然だろう。

私自身が、精神集中は心の抑圧につながる面があるのではないかと、ずっと疑問をもち続けていた。ヴィパッサナー瞑想は抑圧されたものに気付きをもたらす方法だと知って強い共感を抱いていた。 だからゴエンカ氏のこうしう指摘には、やっぱりという感じで共感する。

ここからが今日思ったことなのだが、確かに集中をあまり厳格に徹底的に行っていると、不純物は心の奥に押さえつけられたままになるだろう。しかし、集中がある程度すすまないと深いレベルの「浄化」も起らない。何度かの瞑想合宿でもそれを強く感じた。この辺、もう少し考察を深めたいのだが、長くなったので明日にまわしたい。

瞑想復活の理由

2008年07月26日 | 瞑想日記
何回か書いたが、最近瞑想が少しずつ復活している。しかし、瞑想への取組み方は、以前とは少し違ったように思う。瞑想をして成果を得ようというような思いが少なくなった。

瞑想することが気持よいからやっているという感じか。心が静まった状態で、時折浮かんでくる思考に気づいて、また腹の動きに戻る。静まりのなかで思考に気づくプロセスそのものが、さらに落ち着きを促すのだ。

自分が自覚しているか否かにかかわらず、日々瞑想を続けることで「浄化」が進んでいくんだろうなという思いもある。ヴィパッサナー瞑想であろうと禅宗の座禅であろうと、伝統的な瞑想を続けること自体が、自ずと「浄化」のプロセスとなっている。それは、古来、無数の修行者が身をもって証し、語り伝えてきたことなのであろう。

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掲示板が動きはじめていた

2008年07月19日 | 瞑想日記
久しぶりに書き込みをしたい。書き込みをしていなかった間、何人かの方々に電話をいただいたり、Eメールをいただいたりして、ご心配をいただいた。(ありがとうございます。元気にやっています。)

帰宅すると、疲れもあって、文章を書き込んだり、更新したりする意欲と気力が以前に比べるとすっかり弱くなっている。瞑想や修行も最近やほとんどやっていなかった。しかし、この数日は、ほんの少しずつだが、瞑想を再開している。

さきほど、久しぶりにサイト『臨死体験・気功・瞑想』に設置してある掲示板を訪れた。書き込みについては制限を設けていたのだが、かいちさんという方の書き込みをきっかけにいくつかのやりとりがあって、少し驚いた。管理人が忘れて放置したような場所で、大切なやりとりが行われていた。

管理人としてそんなに書き込みはできないかもしれないけど、こんな形でゆったりと、自然に再開されていくのもいいかな、と思った。