瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想合宿レポート06

2008年03月03日 | 瞑想合宿レポート
今回の合宿は、すべり出しが比較的順調だった。3日目には少食の効果が現れてきたのか、体の感覚もすっきりしてさらにサティが続くようになっていた。

しかし、4日目の午後から、瞑想がこれまでになく大きく乱れ始めた。座禅でも歩行瞑想でも、一呼吸ごと、一歩ごとに思考・妄想が次から次へと溢れてくる感じになった。仕方なく妄想が出るごとに立ち止まって確認した。ほとんど一歩ごとに立ち止まる状態だった。それでもなお止めどもなく妄想が現れては消えた。ついに妄想が出るごとに一つひとつノートに書きとめることまでした。ほとんど瞑想とは言えない状態だったかもしれない。

そこまでやってやっと、湧いては消える思考・妄想の傾向が自覚できた。ほとんどすべての思考・妄想が、人に少しでも高く評価されたい自分、価値ある人間と思われたい、思いたい自分に関係していた。

「あの時の自分の言動を、Aさんはどのように理解してくれて、どんな評価をしてくれたのだろうか。きっとこんなふうに思ってくれたにちがいない‥‥。」

「あの時、Bさんはあんなふうに言ったが、考えてみればそれは私を見下したような傲慢な言い方だ。とても悪意のある言い方だ。そういうことを露骨に断定的にいうBさんは、どうしようもない失礼な奴だ‥‥。」

まあ、こんな妄想のたぐいが延々と続くのである。

グリーンヒル瞑想合宿レポ ート08

2006年09月02日 | 瞑想合宿レポート
◆忠告
これまで数回の瞑想合宿の体験から、瞑想そのものに無意識的なものを浮上させる働きがあるという実感はあった。その働きは、禅宗の座禅でも、ヨーガの瞑想でも、瞑想である以上は共通にもっているだろう。何かに集中すれば思考は多少とも抑えられるから無意識的なものが浮上しやくなる。

しかし、深い層から浮上してきたイメージや感情に対して、これほど統合された仕方で適確に対処していく方法が、ヴィパーサナー瞑想以外にあるのだろうか。たとえあったとしてもサティという手段を持たないかぎり、きわめて一面的なものになるのではないか。

腹の動きや足裏感覚のようなセンセーションにサティが保たれる。身体感覚へのサティが深まれば自我の働きが抑えられて心の深層への扉が開かれやすくなる。一方、集中が乱れて妄想が出現したとしても、それはそれでサティがなされる。妄想に対してサティが持続されれば、その根元にある執着へと洞察を深めるチャンスとな。どちらにせよサティが保たれていれば、深い洞察への道に通じている。

さらに、センセーションへの集中が深まれば深まるほど、自我の働きは抑えられて、より深い層からイメージが浮上する可能性が高まるだろう。そこでもまたサティは力を発揮する。

先生はいう、「客観化、対象化することがサティの本質だから、そのサティがピュアに保たれているときには、たとえ一時的であれ、エゴ性は弱まる。エゴの裁量は抑えられ、深い無意識から浮上するような、エゴに不利な情報でもしっかりと捉えられる。

エゴが必死で隠し、抑圧していて見たくないものは、エゴ性が強ければ浮上しない。徹底的な客観視の態度を貫いて無意識の世界を追求していけば、自我意識やエゴ性が根底からくつがえされるものだって出てくる可能性がある。

ラベリングなしでサティをずっと保つのはかなりむずかしい。興味をそそられるイメージがチラッと見えたようなとき、エゴが強まってサティを忘れ、エゴの範囲を一歩もでない探索で終わってしまうこともある。あるいは、エゴがいかにも満足するようなストーリーが出てきて終わりになる。エゴの範疇内でやっているかぎり、本当にエゴを超越するような仕事ができるわけがないのです。」

以上は、「今の石井さんの状態だったらちゃんとラベリングに頼って、絶対にサティが壊れない状態でやった方がいいでしょう」という忠告の言葉でもあった。

グリーンヒル瞑想合宿レポート07

2006年08月30日 | 瞑想合宿レポート
◆サティを保ちつつイメージを追求(続き)
この話が印象的だったのは、4回目(天女)の合宿で自分が天女と一体となって空を舞うイメージを見たとき、「イメージ」とサティして、一瞬迷ったあと腹の動きに戻ってしまい、そのためこの体験が未消化のまま終わったと感じた経験があるからである。心随観では、中心対象に戻らずに心の状態にぴったりくるラベリングを追求し続けることがあるし、自分でもそうすることはあった。しかし、展開するイメージについても中心対象に戻らずにラベリングで追い続ける仕方があるというお話は、「なるほど」と興味深く感じた。さらに地橋先生は、サティがそのイメージ展開にどのようにともなうかが、きわめて大切で微妙な問題であるという。

「イメージを見ているんだという気づきを保っていなければヴィパッサナーとは言えない。サティがなければ自分の心の世界をエゴが探究するだけの作業になってしまう。イメージの連続探究をしていてもちゃんとラベリングはして、マインドフルネスを保ちつつやった方が、全然ラベリングをしないでイメージの展開を見て行くよりよい。」

「上級者で絶対にサティを失わない人ならラベリングなしでサティを保持できるだろう。しかし、けっこうきわどい。多くの場合、最初はラベリングなしのサティモードでやっているはずでも、どこかでサティモードは消えます。自分の自我意識・表面意識の盲点になっているところまで心の世界を完全に対象化しようというのはかなり高度な仕事だから、それをやるときには絶対にサティモードを失わないでやった方が結果的にはいい仕事ができると思う。そのためにも、ラベリングを形だけでも出していれば絶対にサティモードは失わないという証拠にもなるし、一時的にまき込まれても引き戻される。」

「ここはきわどいとところですが、エゴにとって面白いイメージが出てくるとどうしても食いつきたくなる。自分のテーマになっている問題が劇的なイメージとして出てきた瞬間に、客観視のモードが崩れて、主観的なモードになってのめり込んでいくようなことがおきかねない。そうすると、エゴ性が強まった状態でのイメージの探索になるから、エゴが許容できるイメージしか見えなくなる。」

グリーンヒル瞑想合宿レポート06

2006年08月28日 | 瞑想合宿レポート
◆サティを保ちつつイメージを追求
5日目、少し集中が深まったときにまた別のイメージを見た。同じイメージが何回か出たのだが、そのつど「イメージ」とサティして腹の動きに戻った。結果的にはこのイメージはその後とくに深まりや展開はなかったのだが、これに関してその日の面接で地橋先生が語ってくれた話が印象的だった。前日の面接での話とも関連していた。

「集中が高まってくるとたいていの人は、体感や心の状態などの総体的な印象によって、サマーディのファクターが成長してきたと分かるでしょ。そのように集中が深まってくると雑念の干渉が少なくなるので潜在意識の層からイメージなどが浮き上がりやすくなる。そのときサティがちゃんと機能しているかいないかが、サマタとヴィパッサナーのサマーディの違いを示すといってもいい。そこからサマタ的なサマーディの深め方とヴィパッサナー的なサマーティの深め方とは完全に分かれます。」

「マハーシ方式では、初心者にインストラクションをする場合は、サティの仕方としてそのつど中心対象に戻すオーソドックすな方法をまず指導します。ピンポンのように「イメージ」→「腹」→「イメージ」→「腹」‥‥と戻すマハーシの基本をまず学びなさいといいます。しかし、心随観で徹底してやろうという場合には、いちいち腹(中心対象)帰るのはわずらわしい。そのつど中心対象に帰らず、イメージが浮かんだ瞬間に「イメージ」、つづけてそのまま「イメージ」「イメージ」‥‥とラベリングを継続する仕方もあります。」

「あるサマーディ感覚のなかで無意識の世界が提示してくるイメージを次々ととらえられるような状態になったとき、しっかり自覚したうでそのイメージを連続的に見て行くという修行の設定の仕方もあんです。ただそのときにラベリングをしないと、マインドフルネスを全く失った状態になる危険性がある。」

グリーンヒル瞑想合宿レポート05

2006年08月27日 | 瞑想合宿レポート
◆自己催眠?
2日目に最悪の状態から立ち直って、今回は抜け出すのが早かったなとホッとした。しかし、確かに一時はよかったが、その後がそれほどよかったわけではない。歩行瞑想は妄想のオンパレード、座禅も眠気にやられることが多かった。また、「今回の合宿のテーマは身随観の基本に帰ることだ」という自覚が合宿中にあったわけではなかった。

4日目の夕方、15分ほどの仮眠をとったあとの座禅中に少し深い瞑想状態を経験した。一瞬、脳の一点を中心に自分の体とその周囲の「気」が整ったような感覚があった。と同時に腹の動きがとても軽やかになった。腹の皮が絹のように薄く、滑らかに動いていて気持ちよかった。しばしその感覚を味わっっていた。しかし何かが違う感じがした。「自己催眠」とサティしていた。これは現実の腹の動きではない。脳が作り出した心地よいイメージ。現実の腹に戻らなければ‥‥。「イメージ」「イメージ」とサティした。絹のような軽やかな腹の動きは消え、現実の腹の動きに戻った。

その日の面接で地橋先生にこのときのことを報告すると、先生は次のように語ってくれた。

「ヴィパッサナーのいちばん陥りやすい罠は、妄想が作り出す映像とかビジョンですよ。ある程度集中が高まってくると仏さんが現れたり、観音さんが現れたりするけれど、そういうのは、どれほど鮮明でも妄想だとわかるじゃないですか。ところが、腹部感覚のイメージ、実際の腹を感じずにイメージでふくらみ縮みの映像が出てきて、それがすごくリアルだったら、これがいちばん気づきにくい。すごくまぎらわしい。ここからヴィパッサナーがサマタになってしまうケースが多い。腹や足裏の感覚映像に集中がかかって現場を忘れてしまう。そこで現実に帰ることができれば素晴らしいが、そのまま集中、統一が高まって、現実から離れてしまうケースは何例もあります。」

さらに翌日の面接では、イメージの展開へのサティに関して実に示唆的なアドバイスをいただいた。