瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

代用品への執着

2009年06月28日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『A New Earth』(訳書は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』)より

Whatever the ego seeks and gets attached to are substitutes for the Being that it cannot feel.
Whenever you completely accept a loss, you to beyond ego, and who you are, the I Am which is consciousness itself, emerges.

「エゴが求め執着するものは何であれ、それが感じることのできない「大いなる存在」の代用品である。
喪失を完全に受け入れるとき、あなたはエゴを超え、あなたという存在が、意識そのものである「私はある」ということが、出現する。」

これもおそろしくシンプルな真理を語っているのだということは分かる。エゴは、求め執着するが、結局それらはすべて幻のように消えていく。そのことがどれだけ実感として分かるか。幻のように消えていく代用品に執着しているのだということが、どれだけ深いレベルで分かるか。

そのためには喪失を完全に受け入れる。Surrenderする。抵抗をやめる。するとエゴが消える。エゴが消えると代用品でない、「大いなる存在」が現れる。

◆藤沢の日大生物資源科学部キャンパスで行われた、ある学会に参加した。学会のようなものは、ほとんど出ないのだが、友人の発表に少しかかわっていたので、それを聴きにいった。何人か旧知の方々ともお会いした。個人的にじっくり話しをする機会もあった。せっかくの機会を、自分を虚しくして聴くということがどれだけできたか、あまり徹底していなかったことを反省した。

最初に心の状態をサティ

2009年06月26日 | 瞑想日記
◆『尼僧の告白―テーリーガーター 岩波文庫 青 327-2
朝、家を出る寸前に「今日はどの本を持ってでようか」と一瞬考えて手にとったのが、『尼僧の告白・テーリーガーター』(中村元訳、岩波文庫)だった。一度、目を通したことはある。電車の中で少し読んだ。私自身が少しずつ変わっているので以前とは違う読み方になる。

「4、ティッサー(尼)よ。学ぶべきことを学べ。適当な時機が汝のそばを通り過ごすことのないように。一切のくびき(束縛)から解き放されて、汚れ無き者として、この世で日を送れ。」P9

「6、ディーラー(尼)よ。もろもろの想いの静止である楽しき止滅を体得せよ。無上の安穏である安らぎを得よ。」P9

以前だったら、この文から体験的に何かしら共感することはできなかっただろう。今は、自分なりのレベルで、自分なりに感じることがある。

学ぶとは戒・定・慧の三学のこと、くびきとはけっきょくは煩悩のことだという。煩悩はどこから来るのか。日常的な「もろもろの想い」から来る。想いが自我を虚構し、自我が想いを紡ぎ出して自らを強化しようとする。それが煩悩と苦しみのおおもとだろう。

想いの静止は、まさに日々めざすところだ。しかし、静止しようとする思いがまた自我を強化する。そのような観察からヴィパッサナー瞑想も生まれていったのだろう。

◆最初に心の状態をサティ
何回も書いたことがあるが、サティをしようと思っても、とてもめんどうくさく感じ、くだらぬ脳内おしゃべりに安易に耽っていたいときがある。そうしていた方がまがりなりにも楽で楽しいからだ。そんなとき、まずいちばんに、そういうありののままの自分にサティし、ラベリングする。そのこと自体はめんどうではない。むしろ楽しい。すると次のサティに楽に進んでいくことが多い。というより、これまでいつも100パーセントそうだった。

なぜだろうか。どちらにせよサティは善心所だから、そこから好循環が始まりやすいのか。しかも自分の心の状態へのサティだから、すごく効果があるのか。

「想いの静止」は、無理やり思考を止めようと戦うことではない。まさに自分の思いにサティすること。「サティしなくちゃ」という想いの裏に「めんどうくさい」という想いがあるなら、その想いにサティすること。すると「めんどうくささ」が不思議と消える。サティへの抵抗感がなくなる。

器さまへ

2009年06月25日 | サイト更新管理
コメントありがとうございました。パソコンの不都合で、コメント欄にお返事できないので、ここにさせていただきます。

>読んで同感し、感謝しています。

私の覚え書きに近い文章が、何かしらお役にたてたなら、大変うれしく思います。

>本当の私という奥深さはやはりすべてに繋がる空間・領域・場と認識しておこうと思います。

すべての経験を成り立たせる場としての意識というのは、本当に不思議ですね。客観科学によって対象的にあつかうことのできない純粋主観とでもいうのでしょうか。限りなく奥深いもの。そして個別性、個人的束縛から解放された純粋主観は、純粋主観というあり方において、すべての個々人の中にあるそれぞれの純粋主観と
まったく区別なく同じひとつの主観なのでしょうね。

場としての「私」は死なない

2009年06月22日 | 瞑想日記
6月18日付けて引用したエックハルト・トールの言葉、訳の方でいうと以下の言葉。

「『頭の中の声』が私なのではないと実感するということは、何という解放感だろうか。それでは、私とは誰なのか。それを見ている者のことだ。思考に先立つ気づきのことだ。その中で思考や感情や知覚が起る場のことだ。」

ここで真の私とは誰かと問われ、それは「思考や感情を見ているもの、それらが生滅する場」だと答えられる。これもエックハルト・トールがあちこちで何回も繰り返していることだ。

しかし、思考としての私への同一化を解消して、それらが生起する「場」にシフトすることは、言葉はシンプルだが、実際には難しい。いくら「思考としての私」が虚構の産物に過ぎないと頭で分かっていてもだ。

しかし、何がシフトのきっかけとなるか分からない。ちょっとした言葉がヒントになるかも知れない。ちょっとしたヒントが「判じ絵」の秘密が解ける手がかりになるようなものだ。

以下は、自分へのヒントぐらいの軽い気持ちで書いた。

すべての思考や感情が生起する意識の場、それがなければ一切が生起しない、私という現象すらも生起しない場。それは、私という肉体、脳を通して出現するが、同時に私の周囲の人々すべてにも出現している。いや、地球上のすべての人間、意識あるすべての生物に出現している。その意味で、場としての私は、地球上のすべての人、意識ある生物と同じ「私」である。だからこの世に、場としての意識が出現するかぎり「私」は死なない。「私」を、場に生起する私という現象や個々の現象に限定するかぎり、それは消滅する。しかし、場としての「私」は、世界のあらゆるところに出現し、世界を映し続ける。場である限り、「私」は同じひとつの「私」なのだから。世界を映す鏡の機能は、いつの時代も、またどこにあろうと変らないのと同じだ。たとえ表面の濁り具合に違いがあってもだ。場は神でもあろう。いや、濁りを磨けば磨くほど神に近づくのだろう。

「覚醒」の時代

2009年06月21日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『A New Earth』(訳書は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』)より


これまでのエックハルト・トールの本に比べこの本の新しいところのひとつは、人類の歴史、あるいは宇宙の歴史という視点から「覚醒」の意味を述べていることだ。「覚醒」という点からも、今人類は大切なターニングポイントに立っている。このままの意識のレベルでは、地球の存続そのものが危ぶまれる地点にたっている。そして、ブッダやイエスの時代に比べれば、はるかに多くの人々が「覚醒」へと移行しやすい時代になっている。

しかし、私たちの大部分は、まだ「覚醒」に到っていない。次のような意識の状態に留まっている。

Most people are still completely identified with the incessant stream of mind, of compulsive thinking, most of it repetitive and pointless. There is no “I” apart from their thought processes and the emotion that t go with them. (P47)

「ほとんどの人々は、心の絶え間ない流れ、脅迫的な思考にまだ完全に同一化している。思考のほとんどは同じことの繰りかえしで、しかも散漫なのだが。その思考のプロセスや、それに伴う感情を離れて「私」は存在しない。」

しかも私たちは、多くの場合、自分の頭の中が散漫な思考の繰りかえしで占領されていることに気づかない。もしこの思考が、自動的に録音できたり、文字として記録されて、あとからそれを確認したら、その繰りかえし、愚かさ、利己性にびっくりするかも知れない。だからこそ、その脳内おしゃべりに気づいて、自分の真実の姿に直面する必要があるのだ。

そのためには、瞑想がきわめて大切な手段となる。日常生活の中では気づきにくい脳内おしゃべりも、古来からの方法で瞑想を実践するといやというほど気づくことができる。だからこそ瞑想が必要なのだと思う。

ヴィパッサナー瞑想は、その脳内おしゃべりにどう対処すべきか、初心者でもとっつきやすい方法で、一歩一歩指示してくれる。それが私がヴィパッサナー瞑想に引かれる大きな理由だ。

今日は、午前中に50分ほど瞑想。途中から呼吸が本当に小さくなって腹の動きを追うにもかなりの集中が必要になる。しかし、それも逆に集中力を高めるのに良いかもしれない。