瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

相対化する眼

2006年03月31日 | 瞑想日記
一方に、初めがあり、終わりがある自分の人生、限られた時間の間を生きている自分の人生を相対化して見る眼がある。他方に、それを忘れて埋没して生きている自分がある。

相対化する眼から見ると、この短い時間の中で繰り返される泣き笑いは、前後を裁断されたつかの間の舞台で演じられる、ささやかな芝居のようにはかない。

しかし、相対化する眼を忘れると、芝居の中のひとつひとつにむきになって執着している。ただ、最近はその執着の度合いが少なくなってきたようだ。

相対化する眼をしっかりと見開いておこう。それが気づき、マインドフルネス、すべてを公平に、等価に見る眼に連なっているのだろう。

偉大な探究4

2006年03月30日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より
《要約》非二元的な伝統の観想において、山を見ているとき、あなたは現在の知覚のなかに何の努力もなく安らいでいる。このとき、突然、山がすべてであり、あなたというものはいなくなる、あなたの分離した自己の感覚は、突然、完全になくなっている。すべてが瞬間、瞬間に生起しているだけである。あなたは、完全に気づき、完全に意識している。すべては、完全に自然であり、普通である。しかし、あなたはどこにもいない。

これは、仏教徒が「一味(ワンテイスト)」と呼ぶものである。この状態に入らなければならないように見える。ある門を通過しなければならないように見える。しかし、いったん通り過ぎ、振り返ると、そこに門はない。そもそもこの状態を離れたのではなかった(「無門関」=門のない門)。だから入ることもできないのである。

ではなぜ修行をするのか。修行も「偉大な探究」であり、失敗するに決まっている。しかし、まさにそこがポイントである。

「愚行に固執する愚か者は賢者になる」。非二元的な瞑想では、この愚行を加速する。「スピリット」を得るために、瞑想に瞑想を重ねてみる。こうして愚行をやってみよ、と。しかし、それはできない相談であり、あなたは自分の足にたどり着くことはできな。「スピリット」にたどり着くことはできない。

もし、これが明白でなければ、試みてみよ。非二元の瞑想は、不可能なことをなそうとする真剣な努力なのであり、あなたが完全に消耗し、疲れはてて座り、つくづくと自分の足を眺めるまで、続くのである。p356-358(『統合心理学への道』より)

これが、ウィルバーのひとつの答えである。修行は、精根尽きて、自我の努力が放棄されるまで続く。非二元の伝統は、ある意味で逆説的な仕方で、人を修行にかかわらせるのだろうか。「自分が、ことをなしてやろう」などという思いが、完全に手放されるまで続くのだろうか。

ただしウィルバーが説く瞑想の意味は、もちろんこれだけでない。

何が変わったのか

2006年03月29日 | 瞑想日記
この一・二年で自分の中の何が変わっただろうか。ときどきしっかりと自覚化しておくことが大切だ思った。

ひとつはコンプレックスの自覚化だろう。コンプレックスの代償という意味での行為もめっきり少なくなったような気がする。もし、そうした動機に駆り立てられたとしても、すぐ自覚化できる(サティできる)ようだ。

上とどこかで関係していると思うが、家事などでのどんな些細な仕事もほとんど労をいとわなくなった。瞑想であろうと、自分の大切な研究であろうと、こうしてパソコンに向かうことであろうと、洗濯物を干すことであろうと、自分の中ではあまり優劣の序列がなくなった。

同じように、職場で自分に与えられた仕事に、自我の利害関心を超えて打ち込んでいくという姿勢も、おそらく実践のなかで徹底していくことになるだろう。

自分の中のこうした変化は、つねに自覚化して、さらに徹底させていくことが重要だなと思った。

偉大な探究3

2006年03月29日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より
《要約》「偉大な探究」を止めようとする努力もまた、それ自体、探究である。

もし「スピリット」が偉大な探究の未来の産物といて見出されることがないのであれば、選択肢は、たった一つしかない。「スピリット」は、たった今、十全に、完全に、現前しており、そしてあなたは、それに完全に気づいているはずだ、ということである。そして、秘密とは、常に現前しているこの状態を認識することであって、未来において、「スピリット」が現前するように仕組むことではない。

この、常に現前する「スピリット」を、ありのままに認識することが、偉大な非二元の伝統なのである。西洋のプロティノスからエックハルトまで、東洋のナーガールジュナからイェシェ・ツォギャルまでの非二元の伝統の核心は、絶対的なリアリティと相対的な世界とは「二つではない」(非二元)ということである。

ところが、わたしたちは、「今」という「現前」に安らぐ以外は、何でもするのである。わたしたちは、「純粋な現前」に安らぐことはない。いつもどこか別の場所に行きたいと願う。偉大な探究はゲームである。それも終わることのない形をとる。p354-356(『統合心理学への道』より)

『存在することのシンプルな感覚』は、前にも書いたようにウィルバーの膨大な著作からのアンソロジーである。その最後に『統合心理学への道』の終章「常に、すでに」が収録されているわけだ。

ところで『統合心理学への道』の第10章は、まさしく「瞑想の効果」と題され、瞑想が論じられている。偉大な探究は「スピリット」の大いなる敵とされながら、しかし一方でウィルバーは、瞑想の効果を熱心に語っている。この包括性こそが、ウィルバーの魅力であり、また深く信頼できるところだと感じる。

朝夕の瞑想

2006年03月28日 | 瞑想日記
◆瞑想
久しぶりに朝夕とも瞑想。それぞれ30分くらい。やはり毎日続けていると思考は少なくなる。足を組み、背骨を伸ばして自然の呼吸にまかせ、腹の動きに集中する。この姿勢と腹への集中が脳にリラックスをもたらすのだろう。脳の心地よいバイブレーションを感じる。それが、丹田や両手の気のバイブレーションと共鳴する感じだ。毎日、一定時間続けることが大切だとあらためて感じる。再び忙しくなっても、気持ちがあれば時間はつくれるだろう。

朝は食事をせず、昼も少ない。そのため最近は、帰宅時に間食して、瞑想の時間を逸してしまうことが多かった。食べたくともサティをしっかりして、たとえ10分でも瞑想しよう。

夕方は、瞑想の前に軽くヨーガやゆる体操をする。ヨーガをすればしたで体が硬いのを感じてしまう。

◆本のこと
大型書店に立ち寄り、ゆっくりと本のチェックをする余裕もあった。買ったのは三冊だが、いずれ書いたいと思って書名をメモした本は、10冊くらいか。宗教、精神世界、哲学、心理学などの書棚をじっくり見るだけでも刺激になる。

最近はずっとケン・ウィルバーの『統合心理学への道』を読んでいる。電車の中の20分~30分だけなのでなかなか進まない。他の本も平行して読んでいるからなおさらだ。読めば読むほどウィルバーはじっくり読んでいきたいという思いを強くする。