ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

四辻に

2017-04-30 04:21:09 | 






四辻に かつてありにし 木を思ふ     夢詩香






*久しぶりに俳句です。わたしの感触では、短歌より俳句の方が難しいですね。他の友達は、あまりやりたがりません。17文字では言葉が少なすぎると思うらしい。情感をこめようと思えば、どうしてももう少し言葉が欲しい。

現象の断片を切り取って、印象を焼き付け、高い意味をそこにこめようとすると、俳句は嫌に痛いものになります。短すぎるところが、上のほうより、下に流れていくことがある。つまりは、結構簡単にできるものなので、それに大きな価値を置きすぎると、いやに傲慢になってくる。馬鹿がつけこめるスキが出てくるという感じです。

俳句詠みはこれで高いものになったつもりで嫌なことをしてはならない。気をつけねばなりません。実際、松尾芭蕉はそれほど高い人格ではありませんよ。名句というものも残しましたが、わたしはあまり評価しません。



よくみれば 薺花さく 垣ねかな    芭蕉



「薺」は「なずな」です。わたしとしては、これよりも、このブログの一番最初に取り上げた、友人の句の方に深い愛を感じますね。芭蕉は薺が咲いているなあと見ているだけだが、友人はなずなの咲く身に深く心を注いでいる。おまえは野のすみっこにいるが、確かに白いのだと。

俳句は短さのゆえに、人間をつけあがらせときがあります。こんな簡単なことで、偉いものになれるのはいいと、思い込まれると苦しい。

まあそれくらいにして、表題の句にいきましょう。

最近、近くの四辻の角に新しいガソリンスタンドができたのですが、わたしたちはそれを見て、大変がっかりしました。なぜならそのガソリンスタンドがあったところには、かつて、とても美しい心を持ったセンダンの木があったからです。

かのじょが生きていたときは、よくそのセンダンの木と心を交わしていました。よく写真に撮る近所の公園のセンダンの木ではありませんよ。全く別の木です。公園のセンダンの木は、かのじょと友情を交わしたことで、とても立派なことをやり、センダンとしてはとても優れた木になりました。四辻にかつてあったセンダンの木は、あのセンダンの進歩に感動して、自分もそれにならおうとしていたのです。その霊魂の努力する気持ちに、かのじょは感動して、応援していたのです。

ですから、あの木がなくなって、ガソリンスタンドができているのを発見したとき、わたしたちはとても残念に思ったのです。また、かのじょが愛していた木が消えてしまったと。

木は恨まないでしょうが、人間はもう少し感性を高め、彼らの気持ちを理解するべきですね。わたしとしては、あの木にずっとあそこにいてもらって、霊魂として成長していく姿を見ていたかった。それはかのじょの希望でもありましたから。

伸びていくのは木の丈だけではない。霊魂の丈も、伸びていくのだ。そういう姿を見るのはうれしかった。それが消えてしまったのは、とてもつらい。

かのじょが愛していたあの木が、どんな木であったのか。それを少しでも語りたくて、この句を詠んだのです。







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