むじな@金沢よろず批評ブログ

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中国と「市場」に過大な期待を抱くCIAの手先の限界? 映画「ダライ・ラマへの10の質問」

2008-07-18 03:41:47 | 世界の民族・言語問題
台風が近づいて時々大雨が降る18日、光点台北で米国のドキュメンタリー映画「達喇蟆十問(10 Questions for the Dalai Lama、ダライ・ラマへの10の質問)」を見た。私はチベット独立を支持するが、正直いって(だからこそというべきか)それほどダライラマ14世は好きではない。ただチベット問題についてアウトラインを描いているだろうと思ってみた。映画としての出来はよい。ただ、制作人がしょせんは米国人という点で、思想的・内容的には薄っぺらいものだったし、それからダライ・ラマ14世の中国と「市場」というものに対する甘すぎる幻想というか期待を見せ付けられて、14世に対する私の評価をますます下げた。

もちろん、だからといってダライラマのいっていることのすべてが同意できないわけではなかった。中共が何かという暴力を使うのは、「むしろ彼らの弱さの証明なのです」という点は同意できるし、監督の「あなたは非暴力というが、ヒトラーなどのようなどうしょうもない暴力に対して無防備では限界があるのでは」と突っ込んだ質問に対して、さすがにちょっと考え込んだ後で「自分を守るための正当防衛は必要」、また「ガンジーも非暴力路線を主張したが、英国はそれでも司法の独立が存在した。われわれの相手は違う」と指摘していたことはその通りだと思った。
しかし、私が同意できるのはそこまで。彼の主張する徹底的な「非暴力」「憎悪の相手には、むしろ微笑みと理性の説得で応じることこそ、力になる」というのは、それこそ相手が英国だったら通用する論法であって、相手が史上最悪の殺人集団・中国共産党では、説得力どころか、何の力にもならないことは、この間の中国化が進行するチベットの現実が証明している。

つまり、ダライラマの主張は単なる御伽噺でしかない。

実際、彼自身1951-59年にいたる中共の横暴なやり方に煮え湯を飲まされてきたわけだが、それでいて、ここまで能天気なのは、彼の知能に問題があるのではないか?
もっとも、それは彼が所詮はCIAの手先であるに過ぎないという事実を考えれば、納得が行くのかも知れない。
要するに、CIAにとっては、所詮、ダライラマは中国を揺さぶるための道具に過ぎず、かとって企業利益を優先させる米国にとってそれ以上の中国に対する敵対と抵抗をしてもらっては困るのだ。CIAに身も心も依存しているダライラマには、「御伽噺の平和主義」を主張するしか能がないのだろう。

しかし、監督がいみじくもヒトラーの例を挙げて、本当の悪魔に対する抵抗権の留保を指摘したように、中国に対して「微笑みと理性の説得のほうが力になる」というのは、はっきりいってどうしょうもないバカだとしかいいようがない。そんなこといっているから、チベットは国を失ったのだ。
だからといって、ここで私は石原慎太郎のように日本の国防強化を主張したいのではない(日本はすでに大国だ、チベットとは違う)。
しかし、いくら外交交渉するといって、「善意なるもの」がまったく通用しない相手が、世の中に存在するという性悪説や警戒心をもって、交渉に当たるのが最低限身を守るには必要なことだ。
そして、強大な武力をもつ悪意の相手に、抵抗権を放棄して、理性や対話を説いても意味がない。相手が自分と同じ善意を持っていると期待するのは間違っている。

大体において、1951-59年の間に、中共に付け入られる隙を与えすぎてしまったのは、当時まだ若すぎたとはいえ、ダライラマ14世が中共に「善意」を期待し、中共がいう平等思想に仏教の平等思想を投影して幻想を抱いて、中共を引き入れてしまったことに原因がある。つまり、90%以上はダライラマの甘さが招いた災いに過ぎない。彼の甘い考えは、その後も一貫しているが、はっきりいって、国を失わせてしまったという点では、チェンバレンよりもよっぽど悪い。

そうやって中共に煮え湯を飲まされてきたダライラマが、いまだに中国の善意を信用して、無防備で交渉に臨み、無防備であるがゆえに台湾独立否定発言も含めた、仲間を売るような行為を平然とやっているのは、はっきりいって信念と誠意がないというべきだろう。
チベット亡命政府を多くの独立派台湾人が支援してきた好意に対しては背信を行いながら、自らの同胞をたくさん殺戮してきた中共には「誠意、理性、善意」を媚を売るのは、はっきりいって偽善以外の何者でもない。
亡命チベット人の青年による急進独立派勢力の中にはダライラマを否定する動きもあるのも当然だろう。

ヒトラーを防げなかった人類は、結局、中国共産党に対しても同じ過ちを繰り返しているのだ。

その点では、監督の主張は同意できるが、しかし所詮は世界観が単純でナイーブな米国人だと思った。
それは、エルサレムに長年住んで同じように記録映画をとった過程で、イスラーム教原理主義者を念頭に「神の名前で平気で人殺しをする場面を見て、宗教とその経典そのものに疑問を抱いたが、仏教はあなたのように平和主義だ。もし中東に仏教がもっと広まっていたら違っていたかもしれない」みたいなことを言っていたのは、さすがバカなアメリカ人の面目躍如たるものがある。

「イスラームは攻撃的だが、仏教は平和的」なんて、それこそ仏教とは遠い社会にいるセム一神教社会の勝手な妄想だろうが。
オウム真理教は何?オウムみたいな現代の例に限らず、仏教だって初期のころは暗殺教団だったわけだし、現在でもインド、スリランカなどには仏教系狂信集団がうようよいる。
しかも、日本の仏教だって、信者はともかく、僧侶は生臭が多くて、キリスト教徒の米国人が勝手に美化するほど、「仏教はいいが、イスラームはひどい」というのは、それこそ米国人の勝手な決めつけに過ぎない。
そもそもイスラームのほうが攻撃的だというのは、それこそ偏見と思い込みだ。
主に沙漠乾燥地域に広まっている宗教としてのイスラームは、むしろ水が少ない乾燥地域で起こりがちな激烈な生存競争に対して、厳しい戒律を課すことによって、競争の激化を防ぐ役割を果たしているといえる。もし、中東にイスラームがなかったら、中東の紛争はもっと激しいものになっていただろう。
しかも、中東の紛争は、米帝のバカげた介入によってより激化していることを忘れてはならない。その張本人である米国人が、米帝の不当な介入を反省せずに、「イスラームが悪い」式の言説を喧伝するのは、はっきりいってどういう了見だろうか。信じられない。
この点はダライラマはやんわりと「私の知り合いのイスラーム教徒は寛容な人が多い」と反論していたが、この点は、ダライラマのほうが正しい。
米国人とか米国で教育を受けた人間には、やたらとイスラームを敵視するバカが多いが、それこそチベット文化を尊重しようとせずに破壊してきた中国共産党と同類であることが、このバカな米国人の監督にはわからないに違いない。

それから、バカな米国人監督は、インド独立の父をガンジーだと思っているらしいし、非暴力運動の引き合いにガンジーを持ち出していたが、それこそ英語国民の無知と偏見だ。
実際に、インド独立を促進した最大の立役者は、ガンジーのような甘っちょろい「非暴力主義者」ではなく、ナチスや日本やソ連などの悪魔とでも手を握ってでも英帝の暴力に対して戦うことを決意し、実際にも戦ってきたチャンドラ・ボースなのだから。
ガンジーがインド独立の父だというのは、ボースを否定したい英米帝国主義者の悪質な宣伝である。
その延長線上に、CIAはダライラマをして非暴力を説かせているが、実際、古今東西の独立・解放運動で、非暴力で成功した試しなどない。古くはアイルランド、インド(チャンドラ・ボース)、最近では東チモール、南アフリカの黒人、バルト三国など、結局、国際社会は「血であがなう」ことでしか、圧迫された集団の自立を認めないのだ。
#ちなみに、チャンドラ・ボースについては、今の日本では安倍晋三が賞賛したり、右系がなぜか勘違いして顕彰する傾向が強いが、ボース自身はあくまでも社会主義者であった。事実、現在ボースの後継を名乗る西ベンガル地域の地域政党は、急進左派政党である。

そういえば、映画の中でもダライラマは「暴力は短期間しか効果をもたらさない」といっていたが、1959年から数えて50年近くの時間は、特に寿命が短いチベット人にとって、「短期間」などとはいえないはずだ。
中共に対して「非暴力、平和、微笑み、理性による対話」を掲げるダライラマの主張は、中共にとっては軽蔑の対象でしかない。だから、そんなアマちゃんな主張をしているダライラマが生きている限り、チベットは自由になることはないだろう。もちろん、死んだら死んだで問題なのだが、今のダライラマの主張が誤っていることは、チベットが独立なり高度自治なりに向けて何の進展も見せていない現実が証明している。

抵抗権を放棄した時点で、悪意あるものたちは、それを奴隷を受け入れたと見做すだけなのだから。自分が善意だからといって、相手も同じだと考えるのは浅薄である。

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