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むじな@金沢よろず批評ブログ

台湾、国際情勢、アニメなどについて批評

民進党結党20周年記念式典

2006-09-29 00:03:54 | 台湾政治
台湾のリベラル与党、民主進歩党は28日午前、台北市の圓山飯店(グランドホテル)1階(実際には2階だが)敦睦庁で結党「20周年記念大会」を開いた。会場は20年前に結党大会が行われたのと同じ部屋。式典は午前10時20分過ぎから12時半ごろまで開かれた。
出席したのは、結党時からの党員363人と、青年民主聯盟代表約100人。結党の際に協力した外国人2人(シーモア教授ら)も招かれた。

結党時からの党員は、現在では政府や党の上層部になっている人も多いが、ほとんどは屋台引きなどの庶民層。当初は青年聯盟の成立大会だけを行うとしていたが、わりと直前になって突然やはり記念式典を主体にすることに切り替えた。このあたりの行き当たりばったりさは台湾人ならでは。

ただ、それはそれとして、式典自体は、けっこう良かったと思う。
陳水扁総統は来賓祝辞として、1.新憲法制定、2.台湾名による国連加盟申請、3.国民投票による国民党の不当資産追討の3点を今後の重点項目としてあげるとともに、「中国と台湾は完全に異なる国」と指摘した。
また、游錫コン・党主席は、民進党が今後10年で取り組むべき課題として、「台湾を普通の国にすること」を挙げ、台湾においてはすでに族群の問題は存在せず、アイデンティティの混乱を解決し、台湾アイデンティティを確立することが必要だと指摘した。

ほかにも行政院長の蘇貞昌、高雄市長候補の陳菊、台北市長候補の謝長廷らも演説、途中に民進党結党大会の記録ビデオが放映された。ここで、陳水扁(短期投獄)と陳菊(美麗島事件で投獄)は当時まだ獄中にあったことを注意する必要があるだろう。
ビデオでまだまだ若かりしころの游、蘇、謝が出てくる場面や、各人の演説の前後における、会場の拍手の大きさを観察していると、なんと謝長廷が一番大きかった。もともと地盤の台北市の党員が多いためもあるかも知れないが、民進党内の人脈・基盤経営という意味では、謝長廷が一日の長があるためだろう。游錫コンへの拍手の大きさは二番手だった。蘇貞昌はパラパラ。
聯合報や中国時報あたりは、「蘇が圧倒的に人気があって、游、謝はあまりない」と書き立てていて、それを信じ込んでいる人がわりといるようだが、それには大いに疑問がある。そもそも、聯合報や中国時報の民進党関係の報道はウソばかり書いているわけだから、「逆神」というか裏読みする必要があるのではないか?
もっとも、私自身は蘇貞昌もそれほど嫌いではない。行政能力というか細かな目利きという点では一番だろう。だが、あまり哲学は感じられない。そういう点では、陳水扁と似ている。
一方では、游錫コンにも魅力があって、たしかにそれほど奥の深さはないものの、農民経験もあり、地に足がついていて素朴で独特の味わいがあるし、謝長廷はよく勉強していて哲学もあるという点で、決して無視できないはずである。

ここで、話を游錫コンに戻すと、彼がアイデンティティの部分にやたらこだわったのは、16日の「台湾社」の集会で同主席が赤シャツ隊の「陳水扁打倒」運動について、「中国人が台湾人をいじめている」と批判したことについて、野党系のメディアはもちろん、党内で「族群対立を煽るもので、民進党が04年に採択した族群平等の決議文に反する」という的外れな批判に応える意味があった。
「中国人が台湾人をいじめている」というのは明らかにアイデンティティとしての中国(中華人民共和国も受け入れる)と台湾の意味であって、族群としての外省人VS本省人の話ではない。中国人=外省人の意味ではない。
そんなことは現状の台湾では当たり前のことで、いまどき、統一派・中国意識と外省人とは必然的関係がなく、外省人の若い世代の多くは「中国人ではなく台湾人」という意識のほうが多い。
事実、先日、台湾のテレビ討論番組で、林正杰が金恆[火韋]を殴りつける事件があったが、この場合両方とも血統的には外省人であるが、林が統一を主張して、金が独立を主張するなど、アイデンティティは完全に逆である。
また、外省人の中には、明確に独立派で台湾人・反中国の立場を示す人がかなり多く、ほかにも謝志偉、陳師孟、周玉寇、黄光芹らもそうだ。
その反対に、「血統」ではホーローのはずだが、台湾人であることを否定して、中国人にアイデンティティを持ち統一を強硬に主張している陳映真、陳明忠らの例もある。
つまり、「中国人が台湾人をいじめている」といったからといって、それは「外省人が本省人をいじめている」意味に解釈できないのである。
だから、游錫コンの発言をもって「族群への偏見と対立を煽る」という批判は、まったくの的外れである。
それどころか、「中国人と台湾人」という言葉を聞いて、即座に「外省人と本省人」を連想し変換し、「族群対立だ」と決め付けている人のほうが、むしろいまだに族群対立意識を持っているだけのことである。
まあ、しかし最近、台湾ではこの手のパターン、すなわち「自分のほうが当てはまっている悪い癖を、他人になすりつけて論難する」輩がやたら多いなあ。国民党教育が利いているんだろうか?
「反腐敗、陳水扁打倒」運動を見ても、「副総指揮」をやっていた女性は、地方議会議長選挙をめぐる買収事件に関与して有罪が確定しているように、「おまえが腐敗反対をいう資格があるのか?」という類の人物がやたら多い。「陳打倒」運動を指揮している施明徳も、女性との不倫、ハデな女性遍歴、金遣いの荒さ、借金踏み倒しなど、素行の問題が指摘されている。張富忠も妻が陳水扁政権下で長年教育部次長(日本の昔の文部次官)を務め、学校新設をめぐって収賄疑惑が指摘されている。さらに、運動に参加したのは多くが国民党反動派の議員であり、肉親や本人が不正まみれである。むしろ、自分のほうが真っ黒けっけで、怪しいからこそ、話題をそらすべく、自分の疑惑を相手に擦り付けて、ウソも百万回つけば真というべく大騒ぎする。
今回游錫コンを「族群対立を煽る」と批判した人間も同じことである。要するにそんなこといっている本人が「中国人と聞けば外省人を連想する」という族群意識にとらわれているだけのことである。

ただし、アイデンティティにこだわり、「台湾意識を今後10年で定着させる必要がある」という主張にも、問題があると思う。前回の記事でも指摘したように、アイデンティティももはや解決されているからだ。
別に民進党が叫ぶまでもなく、いまや台湾住民の9割は「台湾は中国と違う独自の国」という意識を持っている。もちろん、その中にもグラデーションともいえる微妙な違いがあって、左は中国との文化的紐帯を完全に断ち切ろうとする考えから、右は戦後の「中華民国」体制や外省人が持ち込んだものをできるだけ守ろうとするまで、さらにその中間にさまざまな濃淡と段階がある。しかし「中華人民共和国とは異なる民主体制を確立した」という点では、前記の左も右も一致していて、それが9割を占めている。そういう意味での台湾アイデンティティはもはや確立されている。むしろアイデンティティを必要以上に叫んで、その中にあるニュアンスや重点の違いをあまりつつくのは得策とは思えない。
実際、游錫コンがアイデンティティ問題を強調していた間、会場にいた若者たちの反応を見ていると、かなり白けた空気が流れていた。
それは彼らの台湾アイデンティティが薄いからでも弱いからでもない。逆に、国民党教育を受けてきた游錫コンの世代よりもさらに、素朴かつ強烈に台湾と中国は違う国だという確信を持っている。いやむしろそうだからこそ、台湾の若者にとって中国が「完全な外国」になっており、むしろ中国を過度に意識することに違和感を感じたり(「なんでそんなに中国にこだわるの?単なる外国の一つでしょ?」みたいに。日本人が韓国人の建前論としての過剰な反日論に違和感を感じるのと似ているかもしれない)、台湾アイデンティティのスローガンを叫ぶことに、物足りなさを感じているのではないのか?

そういう点では、アイデンティティを強調するやり方も疑問があるし、現実には意味がない。現在の世論や民意は、そういう意味で民進党よりはるかにラジカルかつ急激に「台湾主体意識」を確立してしまったのだ。
だから民進党が台湾アイデンティティを語るときに、若者を中心とした支持者、多くの大衆は、「その先」を期待しているのである。
「台湾は中国と異なる国だ」というなら、どういう意味で異なるのか、異なる内実を充実させることが望まれているのだ。こうした民意に民進党は応えていないような気がする。

民進党、今日で結党20周年 改めて中道左派リベラル政党として再生を

2006-09-28 00:45:25 | 台湾政治
前日もお伝えしたが、台湾の民主進歩党がきょう9月28日で結党20周年を迎える。その記念行事が28日から30日にわたって台北および高雄で行われる。
28日は党設立の会場となった圓山飯店(グランドホテル)1階で午前10時20分から記念式典が開かれる。陳水扁総統らの挨拶や20年の歴史を振り返って音楽を流す。式典は12時過ぎまで。午後は引き続き「台湾青年民主聯盟」の会員代表大会が開かれる。
29日は国際事務部(国際局)主催の各国外交使節向けのパーティが行われる。
30日午後3時半から7時過ぎは場所を高雄市に移して「台湾站起来!(台湾よ立ち上がれ)」と題した行進と集会がおこなわれる。

成立から20年で人間でいえばちょうど成年だが、党としては曲がり角を迎えているといえる。
政権獲得から6年を経て、実際にはさまざまな成果を挙げているにもかかわらず、アカウンタビリティに欠けるため、支持者だけでなく一般国民に広く民進党の価値や実績を理解させるにいたっていない。
さらに陳水扁総統の政治家としての迫力の無さもあって、そうした弱点を巧みについてくる国民党反動派のメディアや政客の攻撃に立ち往生しているように見える。
しかし、民進党が結党したこと自体とその後の活動によって国民党の独裁体制に風穴を開け、民主化を進めるにあたって大きな貢献があったことは、国民党反動派すらも認めている事実である。政権をとってからも、政府の効率アップ、透明性、産業構造転換、貧富格差縮小、多文化主義推進などで成果を挙げている。
だが、それにもかかわらず現在はいまいち党勢が振るわない(ように見える)。それは政権をとってから、本土・独立志向以外に明確な理念の軸を提示してこなかったことにも問題があると思う。ところが、結党時点で民進党が提示した理念軸は、台湾人による本格的土着政党という本土性・独立志向以外にも、環境・人権に見られる進歩リベラル志向も存在していた。

民進党が政権について、さらに04年に陳総統が再選を果たしてからは、台湾社会の本土意識とか台湾独立志向は強化され、それは若い世代を中心としたコンセンサスになっている。台湾は台湾人の国となったのである。民進党の訴えは成功したのである。
ところが、民進党はなぜかそうした成果に自信を持てず、いや、台湾意識を受け入れた社会の現実に気づくことなく、一方の野党の国民党主席がたまたま中国人性が強い反動的な馬英九であることに目を奪われたのか、「台湾社会にはまだまだ台湾意識が定着しておらず、それを訴えないといけない」とばかりそればかり強調してきた。
それが認識としてズレているのだ。台湾が主権独立国家で、中国とは異なるという意識は台湾社会に着実に定着しているのである。民進党に言われなくても、9割以上の人はわかっている。
04年立法委員選挙と05年県市長選挙における民進党の「失敗」、および最近の民進党の党勢「低迷」は、民進党が掲げてきた本土化理念が破れて、国民党の馬英九一派が主張する「統一」が受け入れられたのではなく、まったくその逆で、民進党の台湾主体・台湾本土の主張が当たり前になったからこそ、それ以上のものを提示しなかった民進党が飽きられたのである。その一方で国民党は主席が統一派であるにもかかわらず個々の立法委員やまして県市長は本土派だったから現実的な建設政策を提示して勝ったのである。
つまり、民進党は皮肉なことに、これまでの台湾化の訴えが成功しすぎてしまったために、次に続く新たな理念を示すのが遅れ、社会に乗り越えられてしまったのである。

だが、だからといってこれで国民党が支持されていると見るのは拙速である。立法委員や県市長においては、国民党は馬英九が前面に出ることもなく、議員や県市長候補の個人の人脈で、しかも地方建設を前面に打ち出した現実路線が支持されたのであって、もし08年に予定通り総統選挙があるとして、「終極的統一」を公言し、中国人性を打ち出す馬英九氏が支持を受けるとは思えない。
馬英九氏が、もし国民党への支持を「国民党の統一理念への支持」だと勘違いしているとしたら、それこそ躓きの石となるだろう。
国民党に入れている選挙民も実は民進党の台湾本土・独立志向の理念を受け入れていて、そのうえで民進党が台湾本土の理念ばかり語っていることに飽きて、現実路線を提示した地方の国民党議員個人を支持しただけのことであって、統一を主張するような馬英九にはそっぽを向くことは確実だ。
だからこそ最近の一連のごたごたで、中国国民党の支持率も徐々に下がっているのが現実で、「本土派だが民進党に失望したが、馬英九も納得できない」本土派保守層が現在政治勢力としては空白状態になっていて、おそらくその穴を王金平らの国民党本土派が来年には新たな勢力を立ち上げて埋めることになるかも知れない。

だとしたら、これは民進党としては大きな転機である。いや、すでにその前兆が現れている以上は、民進党も一日も早く「台湾独立志向・主体意識」だけでなく、別の次元の理念を新たに打ち出す必要がある。それは結党以来掲げているもう一つの理念軸であるリベラル進歩志向だと思う。
王金平らの勢力が顕在化すれば、民進党は「台湾本土」というだけでは差別化できないし、ヘタをすれば埋没しかねない。
そこで考えられるのは、やはり結党当初から持ってきたもう一つの軸であるリベラル進歩主義志向であろう。
もちろん、台湾本土派の選挙民の中で、保守志向のほうが多数を占めるだろうから、リベラル進歩主義色を強く打ち出すことは、単に「多数派を取る」という選挙戦術に着目するなら、それほど得策ではない。しかし、だからといってこれまでのように「台湾本土色」だけを売りにする戦術も王金平相手には使えない。
だとしたら、やはり差別化や政党政治本来の政策競争を深めるという意味でも、王金平らが中道右派・現実主義・企業寄りの成長路線を取るのであれば、民進党は中道左派・弱者重視の分配路線を打ち出すのが賢明かつ理想的な選択だということになる。

民進党がこれまで「台湾本土」を強調してきたが、それは、国民党独裁時代に中国化が強制され、台湾住民のアイデンティティに混乱と亀裂がもたらされた問題があったからである。ところが、ここ数年で台湾アイデンティティの確立という民進党の目標はほぼ達成されてしまった。
つまりアイデンティティの問題はほぼ解決されている。ここで、台湾がいまだに国際的に認知されていないという現実は、それは台湾人自身だけで決められず相手がいる問題だから、ここでは問わない。ここで言いたいことは、少なくとも今日の台湾国内的には、統一志向の大中国主義者など5%と数えるくらい少数になり、アイデンティティは台湾人、台湾のクニ(国民国家という意味ではなく)という方向で定着していることは事実なのである。

だとしたら、これからの台湾における政党の競争と対立軸は、アイデンティティではなくて、普通の民主主義で行われているような社会政策の左右対立に移るだろう。
民進党が結党の理念にもどって中道左派に立ち、新たに登場するであろう中道右派勢力と競争する。そうしてこそ台湾はやっと安定した民主主義システムが機能する。もちろん、それでも1-2割くらい「中国国民党」が残るだろう。しかし、その程度の規模で異なるアイデンティティがあっても大勢には影響しない。
民進党には是非とも進歩志向の中道左派政党として再生を図ってもらいたい。

蔡依琳の台湾語「墓仔埔也敢去」聴いた

2006-09-28 00:42:17 | 台湾音楽
きょうコンビニ寄ったらラジオか有線で蔡依琳が歌う台湾語歌謡「墓仔埔也敢去」が流れていた。
(既報)アイドル歌手蔡依琳、はじめて台湾語歌を出す予定
2006-09-03 02:36:15 / 台湾その他の話題
http://blog.goo.ne.jp/mujinatw/e/391c0bfd62d51bb64bad972dc526ac34
もともとテンポの速い歌謡曲だが、伍佰の編曲でアップビートになっていた。
まあ、確かに台湾語が南部の人みたいにばっちりという程ではないが、若い女の子のアイドルとしてはいいんじゃないの、と思った。少なくとも秀蘭瑪雅の初期のころよりはいい(当たり前か、それに褒め言葉になってないかも)。若い女の子が苦手なkaN2の鼻母音もちゃんと出ていたし。もともと家では使っていたみたいだからな。
このノリで、今後は楊丞琳とか林志玲とかS.H.E.(この場合はHebeが客家人なので客家語でも)あたりも台湾語の歌を出してほしいものだ。

明日、民主進歩党結党20周年

2006-09-27 01:41:43 | 台湾政治
明日28日は、台湾の進歩的与党・民主進歩党の結党20周年だ(いわゆる日本の新聞用語では前打ち)。

そうかあ、結党当時は私もハタチと若かったんだよな(シミジミ)。
当時は日本の朝日と読売が比較的台湾の民主化運動の動きをよく報じていて、日本の新聞でそれを知って、さらにその後、同じく当時はまだ台湾民主化に好意的でリベラルだった香港系雑誌を手に入れて、台湾独立派の留学生といろいろ語り合ったものだ。
それから、翌年87年2月上旬に、米国と日本を巡回訪問した民進党の幹部訪問団の歓迎会が東京の台湾料理店で開かれることを知り、図々しくもお邪魔した。そのころは、台湾に関心のある日本人など微々たるもので、日本人の若者が飛び入りでやって来たのは歓迎された。ただ、当時は北京語もあまりできず、台湾語はぜんぜんわからない状態で、なんとか日本留学経験者や英語が少しはできる人と話をしたが、それがその後の因縁の始まりとなった。
その直後に初めて訪台して、早速初日に、日本で知り合った民進党政治家や党本部を訪問したのは言うまでもない。
しかし、結党当時はまだ戒厳令下で、非合法だったわけで、その後も国民党独裁政権下の監視下にあったが、それもまたスリリングであった。
懐かしい。

内閣制論と台湾意識の伸張 「倒扁運動」の予期せぬ”効果”

2006-09-24 01:17:04 | 台湾政治
なんども指摘していることだが、「倒扁運動」はそれ自体は訴えの内容も行動方式もおかしい。
たとえば、選挙で選ばれた大統領を任期途中で辞めろとか、道徳性などという封建的な概念を持ち出すところもおかしい。そもそも、そもそも赤い服を全員が着たり、やっていることが中国共産党のゲリラ戦術そのものだし、参加者もどうみても外省人反動派が主体で、04年に連戦が負けた後の国民党反動派の抗争の延長という感じだ。合法的な手段である罷免が成立しなかったからといって街頭抗争という手段に訴えるのは選挙をやっている民主国家にあるまじきこと。
ただし、冷静に見ていると、彼女ら・彼ら自身の意図とは別に新たな効果とか意味が出てきていると思う。
一つは、議院内閣制移行に向けた改憲論が民進党や国民党の一部に台頭してきたこと。もう一つは台湾意識の伸張である。

まず、議院内閣制については、従来民進党や国民党など主要勢力は否定的だった。
もっとも、中華民国憲法本文の制度設計では、大統領は議員団である国民代表大会による間接選出であり、その憲法上の権限はフランス並みでかなり限られたものだったのだが、蒋介石時代には憲法は運用停止で大統領独裁、さらに民主化以降は総統直接選挙にしたことから、大統領権限は強くなる一方で、実質大統領制に近い半大統領制(二重首長制)となってきた。
同じような歴史的背景や経緯を持つ韓国も似ている。
ただ、ここに来て民進党や国民党にも内閣制に変更しようという声が台頭しつつある。
これはある意味では、「倒扁」運動がもたらした効果かも知れない。
というのも、「倒扁」運動は陳水扁には道徳的に問題があるとして(この場合の道徳というのが蒋介石が持ち込んだシナ封建思想であるのは問題だが)、国の最高権力者には道徳性が必要だと訴えていること。さらに、道徳的に問題があるなら、最高権力者はそのつど交代させるべきであると主張しているからである。
ところが、普通は国民の直接選挙で選ばれた大統領には、「問題があるから辞めさせる」ということはありえない。大統領を選んだのが議会と同じく国民である以上、任期途中で大統領に国民のある部分が不満を感じても、それで辞めさせられるわけがない。そもそも大統領制や半大統領制は、そんな制度設計にはなっていない。
そういう点では、「倒扁」運動側の訴えは(半)大統領制という制度を理解していないっ非常識だということができる。
ただし、かといって、彼らの言っていることをさらに根源的に考えてみると、なるほど、彼らは必ずしも大統領制にこだわっていないことがわかる。
つまり、大統領には最高の道徳性を求めるとともに、最高権力者は常に適格性が判断され、民意や議会の動向によって交代させることが可能だという思想が垣間見える。

だとすると、これを満足するシステムは、議院内閣制しかない。
典型的にはドイツやイタリアに見られるのだが(最近はフィンランドもこれに移行しつつある)、大統領はあくまでも儀礼的な存在で実質権限はないが、高度の道徳性(この場合の道徳性はシナのそれではなくて、近代的なそれ)が要求される。ドイツのヴァイツゼッカーが好例だ。
首相は一義的には国会(あるいは国会だけ)に責任を持ち、国会から不適格を認定されたら、解散することもできるが、辞任しなければならない。
まさに「倒扁」運動側の要求にぴったりではないか?

もちろん、「倒扁」運動側の中核部分に入っている勢力は、国民党反動派であり、彼らは馬英九を08年の総統にと考えているはずだ。
だが、「倒扁」運動の要求を論理的に見ていくと、08年の総統選挙などいっそのこと廃止して、大統領は立法院と地方議会の代表からなる間接選出として儀礼的な存在にして、行政権力はすべて国会が選出する首相が持つという方式が適していることになるのだ。
もちろん、これは国民党反動派とその代表格である馬英九にとっては望ましくない制度であり、彼らが権力を握る希望は限りなくゼロになってしまうのであるが、とにかく「倒扁」運動が求めていることを素直に解釈すれば議院内閣制に移行して、総統選挙を廃止するしかないことになる。

しかも、実際、大統領選挙や(半)大統領制というのは、もともと国論を単純に二分し、二極化対立を生む一方で、行政と立法が異なる政党が占めた場合国政の麻痺や不安が続きやすい。
だから、米国をほぼ唯一の例外として、大統領制や半大統領制は安定しないシステムとなる。米国の場合は政党が弱く、政党の対立構造が明確ではないから、それでも機能するが、大抵の国では国政不安定化が、大統領独裁化を招くか、あるいは議院内閣制に移行するケースが多い。

特に台湾のように、藍緑対立、族群対立などの単純に分化しやすい問題を抱えているところでは、そもそも(半)大統領制は禁じ手なのである。
もちろん、台湾の場合は中国の脅威など軍事安保的な要素から、統帥権を明確にし強い大統領権限への欲求があるのは確かだし、だからこそ民主化以降も強い大統領権限が保持されてきたのだが、ただそれだけに着目して、恒常的な国政の安定を犠牲にするのは、結果的には安全保障も阻害される。実際、兵器購入予算が国民党の嫌がらせで通らないのが現実である。(ただし私自身は兵器によって安全保障という発想は時代遅れだと見ているが、それはともかく)。
しかも、藍緑のクリーヴィッジは実際には国家アイデンティティや族群のクリーヴィッジを反映していない。緑側が台湾独立ないし本土派であることは明確であっても、藍の全体が中国統一志向だとはまったくいえないからである。国民党の立法委員89人の中には、少なくとも20人は台湾本土派がおり、地方派閥出身なら中国志向とはいえないと考えるとすれば実に65人くらいは本土派とみなしうるからである。
しかも桃園県長の朱立倫は血統的には外省人とはいえ、思想は本土派に近く、さらに他の多くの国民党所属の県市長も本土派が多い。
だとしたら、現在の藍緑の対立は、本来台湾にある統一・独立の対立がそのまま反映されているのではなく、それが歪曲されたうえに抽象化され、実質的にはそれほど変わらない国民党本土派と民進党との間で政党の名前による溝を作り、さらにそれが抽象化された次元での対立を激化させているといえる。要するに、実質的な意味がないのである。

それを生んでいる制度的な欠陥は、大統領直接選挙と大統領権限が強い半大統領制にある。
議院内閣制に移行させれば、議会にも責任感も生まれ、さらに極端な対立や主張は敬遠され、中道的で協調的な勢力や政治家を主体に、そうした人物が行政のトップになりやすい。
もしそうでないことがわかれば、首相に不信任をつきつけて辞めさせることはいつでも可能である。
立憲君主国のほとんどは議院内閣制であり、さらに(半)大統領制に失敗した民主国家の多くが議院内閣制に移行したのは、議院内閣制がいかに安定的で穏健な性質を持っているかを物語っているといえる。

確かに国家元首を国民が直接に選び、選ばれた彼・彼女に強い権限を持たせるという現在の台湾の制度は、それが下からの民主化の流れの中で勝ち取られたという点も含めて、それ自体としては民主主義の極致ともいえる。しかし、いかんせん(半)大統領制は制度設計に無理が多すぎる。しかも台湾住民の多くは対立に疲れつつあるのだ。
そういう点では、「倒扁」運動が意図しなかった実質的な効果として、内閣制移行のための憲法論議が高まりつつあることは、結果的には良かったといえるかもしれない。


それから、台湾意識の伸張というのは、「倒扁」運動の本質や中核を考えれば意外な感じがするかもしれない。しかし、これも「倒扁」運動の過程では意外にも観察されたことである。
確かに、「倒扁」運動では、外省人保守派・反動派の参与が目立ったし、「台湾国人民は雨を恐れない」と叫んだ「倒扁」運動本部幹部が会場からブーイングを浴びる一方で、「中国人」「中華民国万歳」と叫んだ外省人政治家や芸能人は拍手を受けるなど、「倒扁」運動の色彩は、従来の国民党反動派集会の延長であり、深藍色が濃いといえる。
ところがである。
一方では、穏健な形での台湾主体・本土性の主張も、実は浸透し、使われているのである。
たとえば、「北原山猫」という深藍系統の原住民のポップスバンドがいて、今回も集会に参加していた。ところが、彼らの歌の中には原住民の各部族の名前が散らばれていて、それは北原山猫そのものの政治性を無視すれば、台湾独自性の突出と原住民に対する再認識につながるものである。
また、テレビ中継を見ていると、会場でよく流れた歌としては、台湾語の「望春風」「黄昏的故郷」「媽媽請li也保重」、北京語の「美麗島」「緑島小夜曲」など、かつては党外や民進党がよく歌ったものが多かった。まずこれが10年前なら間違いなく外省人や国民党系の集会では排斥され、民進党の集会だと思われたはずである。それが今回は外省人にも何の抵抗もなく受け入れられていた。
さらに15日のデモの最後には施明徳は「台湾の自由、民主、人権、平和、主権のため」の運動だと演説で表明した。それを外省人も多いはずの観衆も拍手を送っていた。

ひょっとして、「倒扁」運動本部の一部は、「倒扁」を叫ぶことで、深藍を引き寄せて、彼らに台湾主体性を徐々に植え付けることを狙っているのでは?と思えるシーンが多いのである。施明徳も長年の女と物への浪費から金に困って国民党の買収を受けたという噂があるとしても、それでも美麗島事件以前からの筋金入りの台湾本土派であり、今回の発言の端々にもその色彩は否定できない。また、王麗萍は今回「台湾国」と叫び、呂秀蓮系の「台湾心会」の地方幹部も務めていて独立派であることは間違いないし、簡錫[土皆]も左派独立派ともいえる思想を持っていて、台湾本土社民主義政党の立ち上げを狙っていることは知られている。だから、この間も民進党関係者が、施明徳などへの批判とは対照的に簡に対する批判は微妙に避けているように見える点でも、実は面白い構成になっているのだ。

これまでこうした緑系統が「倒扁」運動本部に入っていることを一部の軽率なメディアは「緑の中も分裂していて、陳水扁は孤立化している」と書いてきたが、実に皮相的な見方だといわざるを得ない。
そもそも街頭運動を展開しても陳水扁を辞めさせられるわけがないことは、深藍の人間だってわかっている。それでもこの運動に引き寄せられ、台湾語の歌や「台湾の主権」という施明徳の言葉に何の抵抗も覚えなくなっていくことで、結果的には台湾意識を知らず知らずに植えつけられているといえまいか?

もちろん、「倒扁」運動本部の幹部がそこまで策略を練って考えているというのは考えすぎだろう。多分、緑系の幹部の多くは単に陳水扁が嫌いなだけでやっていると考えられる。しかし、結果的な効果を見ると、外省人反動派が台湾語の歌や台湾主権なる言葉に何の抵抗も感じることなく、それらを受け入れている光景は実に意味深長だといえる。
これが、初めから民進党政権や緑陣営が企画したイベントや集会だったら、深藍の反動派は受け入れようとはしなかったに違いない。ただ、「陳水扁辞めろ」と叫ぶ集会だからこそ、本来は拒絶してきたはずの台湾本土の価値をも受け入れてやすくなっているのである。
「倒扁」運動本部の幹部の思いや想定、あるいはこれを民進党叩きの道具に利用しようと考えている反動派政治家たちの思惑とは裏腹に、実は今回の運動で、深藍や外省人反動派の民衆も着実に台湾本土の価値を受け入れるようになっているのだ。

これは逆に台連あたりも「利用」すべき方法かも知れない。つまり、わざと「陳水扁は不適格で辞めろ」と叫び、アホな反動派を引き付けて、徐々に台湾本土の価値を吹き込み、洗脳していくのである。
実際現在台連かそれに近い緑系の外省人知識人の中には以前は、外省人の典型の深藍だったのが、一挙に民進党を通り越して台連や強い独立派となっている例が多い。黄光芹がそうだし、周玉寇がそうだ。
だとすれば、深藍の連中は、伊達に「中華民国」という強い国家民族意識を持っているだけに、意外に簡単に、深緑、強い独立派の信者になることは可能だろう。
後世の歴史は、「倒扁」運動を深藍勢力が台湾本土の価値を受け入れ、台湾にアイデンティファイするための通過儀礼だったと記すかも知れない。

台湾は策謀を練っても常に裏目に出たり、逆の効果が発揮される社会である。だからこそ中国共産党の統一工作も裏目に出ることが多いのだが、現時点で見ると、今回の「倒扁」運動もその一つになっているといえる。
そういう点では、どうせ陳水扁は辞めさせられないし、馬英九の評判も低下するし、内閣制論も高まってくるだろうし、「倒扁」運動は続けてもらったほうがいいかも知れない(笑)。

施明徳の「倒扁」運動の結果は、意外なことに馬英九の後退をもたらした

2006-09-23 16:56:23 | 台湾政治
施明徳が8月9日に発起し、9月9日から総統府前で座り込みをはじめ、15日には大々的なデモや各地への分散なども見られる「倒扁(陳水扁打倒)」運動。
実態は、国民党でも本土派・穏健派はまったくノータッチで、外省人の中でも特に反動的な勢力ばかりが投入していることは何度も指摘しているが、15日の大デモを過ぎて、ここに来てどうも雲行きが、反動派にとっては不利、民進党にとっては有利な方向に流れ始めてきている。

そもそも施明徳が始め、反動系メディアが煽り、馬英九ら反動的な勢力が陰に陽に加わってしつこく展開されている「倒扁」は、そこであおりたてた勢力は、陳水扁や民進党をたたき弱体化させることで、国民党が非合法的な手段で権力を奪取してしまおうと考えたはずである。
そのため、「数は力」とばかり、人をとにかく集めることが優先され、国民党系のメディアは新聞が毎日7面、テレビが24時間そればかり中継することで、宣伝煽動して、耳目を集めることに傾注した。
確かにそのおかげで、15日に呼びかけられた「囲城」(総統府包囲)行動の際には、主催者側100万人(明らかにウソだろう)、警察側推計36万人(これも誇張、警察は国民党系だからな)で、おそらく現実には15万人から20万人だろうと見られるが、確かにそれでもすごい人出だったことは間違いない。
ここで出てきたのが若者や女性が多く、しかも中産層が主体だったというのが特徴だ。そういう意味では座り込み時点で主体を占めた外省人反動派は15日のデモでは埋没したといえる。
しかし、問題はそこにある。
15日に参加したのが若者や女性が主体で、しかもどうみても大して考えていないで単に興味本位で参加していたのが多数だったということは、この運動が「本気」度と切迫感を大いに低減したことは間違いない。
陳水扁がレームダックになっているとはいえ、それでも陳水扁をわざわざ辞めさせようなどという奇特な考え方を持った勢力はせいぜい台湾全体の5%を占める反動派に過ぎないのだが、むりやり嵩上げした結果、焦点がぼけてしまい、単なるお祭りになってしまったのである。
もともと台湾は若者にとって娯楽の場が少ない。私も以前若いおねえちゃんと遊びに行こうとして結局普通に食事、映画、カラオケに行く以外に大した娯楽の場がないので困ったことがある。台北にはお台場や表参道がないのだ(当たり前か)。
それでいて、タイやフィリピンならそんなもんだと諦めもつくだろうが、台湾の場合、準先進国になっているし、日本の情報もあふれている。そうすると、東京を意識して「娯楽の場がない」というのは強く意識されるようになる。
つまり、若者には格好のファッションというか娯楽媒体になったのだ。
だから、参加した人たちの多くは、なぜ陳水扁が辞めなければいけないのか、ろくにわかっていない。とくかく赤い服(台湾では共産党を連想させるのでタブーだった)を着けたり指を下に向ける動作が物珍しかったから参加しただけなのだ。多分、その中の半分くらいは「喉元過ぎれば」じゃないが、昨年末の選挙や今年末の選挙には民進党に入れたりしているのだろうし、陳水扁支持派がたとえば2・28人間の鎖みたいな運動をやれば、それもそれで参加するだろう。いや、そちらのほうもむしろ本気を出して、今回の赤いデモは単に興味本位でしかないのだ。
つまり、「やる気」や気迫がないのである。これではいくら数だけ集めても質が伴っていないのだからどうしょうもない。
だから、15日という大きなヤマ場を過ぎたあたりから、この運動は一挙に縮小、盛り下がりの傾向を見せている。

それに、もともと選挙で選ばれた大統領をどんな理由であれ選挙以外の方法でやめさせるという発想は尋常ではない。
そんなことがまかり通るなら、台湾では総統選挙なんて要らない。内閣制のほうがいい。内閣制なら「良くない」と思えば辞めさせることもできるからだ。
実際、民進党や国民党の一部からは、内閣制への改憲案の声も出てきている。
ところが、内閣制になったら、08年に総統になるつもりでいる馬英九は困る。困るが、もしこのまま「陳水扁は駄目だからやめさせよう」などといい続けたら、「だったら、そもそも駄目なヤツが選ばれる可能性が高く、任期途中でやめさせにくい制度である大統領制よりも、大統領はドイツやイタリアみたいに象徴にして、内閣制にしたほうがいいではないか」という議論になるのは当然だろう。

そういう点で、現在、陳水扁を引きずりおろして、馬英九が権力奪取をしようと図った「倒扁」運動は、彼ら自身の目論見や目算からは外れた(しかし社会的には正しい)方向に流れつつある。
しかも、今回の運動の結果、実は馬英九の支持ががた落ちしているのである。それはなぜかといえば、国民党主席と台北市長を兼任する馬英九は、主席としては陳水扁打倒を煽りたいのだが、行政首長としてはあまり度が過ぎたことができない。そうすると、主席としての「倒扁」の役割は、緑陣営はおろか混乱を嫌がる国民党穏健派にも嫌われ、かといって市長として抑制する役割は今度は「倒扁」側に軟弱だと嫌われることになる。実際、施明徳は馬英九のことを「それでも男か」と一喝している。
日本ではいまだに馬英九に人気があると思っているアホが多いようだが、それは日本人は変化が激しい台湾の動きについていけないで、「5月ごろの情報」そのままで判断しているからである。実は馬英九の声望は、党主席になってからは、たまに上昇することがあっても、基本的には下降トレンドが続いていて、訪日で大失態を演じた7月以降は下がる一方なのだ。そして、今回の運動が起こってからの二股膏薬から、国民党反動派内部からも批判が起こっているのである。
だから22日付けのリンゴ日報で、浅緑系の司馬文武こと江春男は「聯合報は読売新聞社説を引用して陳水扁を死体化(実はこれは死に体を故意に誤訳したもの)だと書いたが、実際は死体化が進んでいるのは馬英九であり、国民党である」と指摘している。
今回、馬英九らの国民党反動派と、それを支持する多くのメディアは、「倒扁」運動を煽って、民進党を追い詰めたつもりだった。確かに8月9日に施明徳が声をあげて、さらに9月15日のデモに至る流れまでは、そうなる可能性もゼロではなかった。ところが、15日を過ぎてからの展開は、明らかに馬英九ら反動派の大失敗となっている。

おそらく馬英九らは焦りすぎたのだろう。
なぜなら07年末の立法委員選挙では定数半減の小選挙区制で争われることになるからだ。ところが地方派閥連合体ともいうべき現在の院内国民党にとってはこれが命取りとなるのである。地方派閥の共存は今までの中選挙区だからこそ可能だったし、定数が225もあったから可能だった。定数半減で小選挙区になれば、現職議員は単純計算でいっても半分が落ちるが、国民党の派閥競合を考えればそれ以上に国民党にとっては損失となる。
民進党は逆に有利だ。というかそもそも定数半減は民進党に有利になるように考えられたのだから。民進党はすでに党内予備選挙の手続きで候補者を絞りこんでいる。現職で候補にならなかった場合には別のポストを用意しているし、候補からもれて独自に立候補しても民進党議員の場合は個人票は少ないから脱党できない。
国民党は日本の自民党に近い保守政党のパターンで、候補者個人や派閥で成り立っているが、民進党はかつての社会党に近い理念政党、革新政党のパターンで、候補者個人ではなくて民進党の持つ理念性が支持されているのだ。
この点を日本人の多くはわかっていない。
つまり、来年末の選挙を前にして国民党は候補者調整段階に仲間割れして大分裂する。そうでなくても、選挙になれば大敗を喫する可能性が高いのである。馬英九らとしてはこのまま指をくわえて見ていたら、来年末にはすべて終わる。だから今のうちに民進党に揺さぶりをかけて、呂秀蓮を代理総統にして、さらに呂のスキャンダルも言い立てて呂を辞めさせて総統補欠選挙に持ち込むか何かして、早めに政権を奪取しようとしたのである。

ところが、焦り過ぎたり、策を弄しすぎるとロクなことはない。特に台湾みたいに、ふにゃふにゃとした社会で、策を弄しても、その策が成就することはまずない。
15日を過ぎて現在の状況や今後の展望は、馬英九のさらなる地位と支持の低下、国民党穏健派・本土派の地位上昇であろう。

そういう意味で施明徳が陳水扁打倒とともに表向きは掲げた「反腐敗」も、実は逆の効果をもたらすことになりそうだ(これも台湾らしいのだが)。
反腐敗というなら、いくらグレーゾーンがあったとしても、実は今のところ台湾政界では陳水扁政権や民進党に勝るクリーンな勢力はない。国民党は地方首長の汚職事件、馬英九市長の特別予算使い込みなど、はるかに腐敗は深刻である。
しかし、そんな陳水扁政権すら駄目だというなら、実際には残りの勢力は「汚職と腐敗」だらけなのだから、今後は腐敗度は問題にならないことになる。
そして、現在注目すべきことは、今回の一連の騒動で、沈黙を守っている集団がいるということだ。それは国民党穏健派本土派である。地方首長でも実務的で地道にやっている桃園県、新竹市、苗栗県、花蓮県、嘉義市の主張はいずれも国民党だが穏健派・本土派で、今回の騒動には一切タッチしていない。こうした勢力はクリーンでは決してないが、かといってめちゃくちゃダーティでもない。淡々と地方建設をやっているだけである。
これはいわば「台湾本土保守穏健中道右派勢力」というべきものだろう。これがおそらく07年には頭角を現すのではないか。
そして実は民進党の一部もこれを恐れている。そうなると唯一の本土勢力としてのお株を奪われかねないからだ。
台湾はどんどん本土化、台湾主体意識が強まっているのに、民進党はそれを掬いきれておらず、取りこぼしが多い。台湾主体意識はいまや8割前後に達しているが、民進党の支持率は4割にとどまっている。それはなぜか。民進党にある独特の癖やアク、いわば中道左派リベラル色が、保守志向の本土派を近づかせない原因になっていると思う。
ちなみに私自身はリベラルだからこそ台連や国民党本土派よりも、民進党のほうが好きなのだが、しかし、世の中はどこでもそうだが、保守的な選挙民のほうが実際には数が多い。
つまり民進党がリベラル中道左派色がある限り、台湾主体意識の強まりにもかかわらず永遠に保守層の支持は得られにくいことになる。
もちろん保守層であっても、台湾本土意識をより重視する勢力はそれでも民進党を支持する。それも大体4割のうちの10-15%分は占めるだろう。
とすれば、台湾派の中のリベラル派は多く見ても30%程度で、保守派は50%前後を占めることになる。統一志向は2割も満たない。

台湾の政治的クリーヴィッジ(分裂・亀裂)は台湾独自性か中国統一志向かで分かれているといわれているが、実際には現在の政党の分岐はそうなっていない。民進党が台湾独自派であることは論をまたないが、国民党は全体が統一派ではなくてその中でも台湾独自派の保守層=保守本流と中国統一志向の反動派が共存しているわけである。
今回の騒動や混乱は、民進党自身の力を殺ぎ、失望を招いた側面は否定できない。その点では陳水扁への反対派は、民進党の力を殺ぐという目的の一部は達成したことになる。
しかし、台湾本土派はいかに民進党に失望しても、馬英九の国民党を支持するわけがない。しかも、その馬英九も国民党内ではほとんど支持基盤がなく、国民党も内部の亀裂が明確になりつつある。つまり、現状では本土派で民進党に失望しつつも「中国」国民党も支持できない層や馬英九を嫌っている層はかなり多いことになり、それは政党としては空白地帯になっているのである。
だとすれば、08年までにはその空白を埋める動きが出てくるだろうし。政治的クリービッジをもっと明確に整理されるだろう。つまり、政治勢力としては、民進党に代表される台湾本土独自主体派のリベラル勢力、国民党本土派に代表される台湾本土独自主体派の保守勢力、それから馬英九に代表される古い大中国統一ファッショ志向の反動勢力である。
そして、おそらく政治的クリービッジの本質を考えれば、本土派リベラル派と保守派が緩やかな連合体を組んで統一派反動勢力を撃破することになるだろう。
台湾において、大中国反動派の存在こそが問題である。しかしそれは本土派保守派が反動派と手を切ることで解決するだろう。そして、08年以降は本土派のリベラルと保守の競争が焦点になる。
そうなることが見えているからこそ、馬英九らは焦っているのだ。だからなんとしても国民党本土派を割らせないために、盛んに王金平の動きを報道してつぶそうとしている。しかし世の中の流れはいかに策を弄しても変えられるものではない。
そして、今回の騒動こそは、馬英九らの運の尽きへとつながっているのである。

自由時報の平埔族特集と科學人雜誌「多樣性台灣」特集号

2006-09-23 16:55:29 | 台湾言語・族群
23日付けの自由時報は、A16「生活新聞」面で巴宰(パゼヘ)と邵(サウ)という二つの平埔族の母語継承や祭祀について大きく特集している。
http://www.libertytimes.com.tw/2006/new/sep/23/today-life3.htm
巴宰耆老教母語 奉獻餘生等無人
〓括12族 40種語言 原住民語言教材出版

http://www.libertytimes.com.tw/2006/new/sep/23/today-life4.htm
祖靈祭爐主從缺 邵族先生媽斷層

まあ、それにしてもパゼヘの表記の巴宰っておかしいよな。台湾語音を基礎にしたものなんだけど、ヴァサイかと思ってしまう。もっとも中文だと巴則海という別の表記もあるんだけどね。いずれにしても間抜け。漢字ってちゃんと音を表記できないから、不便だよな。


また「科學人」雜誌(サイエンティフィック・アメリカン)台湾中文版は、特刊4号(9月出版)という特別号で、「多樣性台灣」と題して地理、生物、人文の各分野での台湾の独自性と多様性を専門家に書かせている。この中でも、台湾人のDNA分析で非漢人であることを発表して有名になった林媽利(林マリー)氏がやはりDNAから見た台湾人の系統とオーストロネシア系種族の拡散について、平埔族言語を研究する言語学者の李壬癸氏が言語面から見た台湾のオーストロネシア系種族の移動変遷について書いている。
ほかにも動植物、地層、海洋、経済、外国人新移民などについても取り上げられており、なかなか面白い。
台湾の独自性探求といえば、最近、外省人保守派に近いビジネス雑誌「天下」ですら台湾をテーマにした叢書を出している。

そういう意味ではもはや「台湾の独自性」というのは、台湾社会の最大公約数、コンセンサスになっているのである。
好むと好まざると、これが現実であり、時代の流れなのだ。

ローマ教皇の軽率な発言、中東のキリスト者の立場を無視

2006-09-20 03:50:48 | 世界の政治・社会情勢
ローマ教皇ベネディクトゥス16世が12日、ドイツ南部で行った神学講義で、イスラーム教を「邪悪で残酷」と表現した中世ビザンチン帝国皇帝の発言を引用したことで、イスラーム世界の憤激を招いている。教皇庁は釈明したが、教皇自身による謝罪を要求する声が広がり、17日教皇自身が「謝罪」した。

しかし、末尾に引用した教皇の元発言の内容を読めばわかるが、どうみても教皇はイスラームのジハードの概念をちゃんと理解せずに、西欧人の伝統的な偏見に立ってそれを「理性」の立場で批判するという傲慢な立場を開陳しているとしか思えない。これはまさに「他宗教への批判」であり、「宗教間の真の対話」が可能になるどころか、イスラームへの偏見と憎悪を煽っているようなものである。ところが、「謝罪声明」でも、「引用に過ぎない」といっている。これでは単なる醜い開き直りであって、真の釈明や謝罪になっていない。数ある歴史的文献からわざわざその部分を引用した以上、イスラームへの偏見を煽ろうとした意図は明らかではないのか。ベネディクトゥス16世は全面的かつ誠意ある謝罪を行うべきである。

私自身もキリスト者であるが、宗教的真理を追求するものとして、過去キリスト教がイスラーム教との関係で行ってきた過ちを強く反省すべきだと考えている。
この教皇の発言は二ケーア公会議以来続いた本質的でない神学論争と東方教会との喧嘩別れ、十字軍、魔女狩り、異端審問にいたるカトリック教会が行ってきた罪深い歴史に対する省察を欠いた、あまりにも軽率な十字軍的な発言である。

先代の教皇ヨハネス・パウルス2世は、カトリックの教義そのものは保守的で、解放の神学派の抑圧を進めた一方で、異なる宗派や宗教との対話、平和の価値は大切にし、イスラームを攻撃した十字軍については公式に謝罪し、ギリシャ正教会や東方教会との分裂の修復に努めるなどして、イスラームなど他の宗派・宗教の人々からも敬愛を受けていた。だから、先代教皇の薨去の際には、イスラームの各宗派からも弔意が伝えられ、世界の要人葬儀の歴史としても最大規模の弔問団が各国から訪れた(台湾も国交を維持していることから、陳水扁総統が参列した)。
また、今年初めのムハンマド戯画騒動の際にも、フランスなどのカトリック教会は戯画掲載を信仰への冒涜として非難する立場を明らかにしたこともある。
今回のベネディクトゥス16世の発言は、ヨハネス・パウルス2世や各地カトリック教会の血のにじむような努力を水泡に帰しかねない軽率な暴言である。

そもそもベネディクトゥス16世は、台湾・中国との関係では、カトリック教会を弾圧している中国との国交回復にきわめて積極的で、台湾を切り捨てようともしている。この点でもヨハネス・パウルス2世が人権問題を理由に中国との国交回復には慎重で、ソ連東欧の民主化を進めたこととは対照的ですらある。ベネディクトゥス16世は青年時代に不承不承だったかもしれないが、ナチス青年隊に属したこともある。そのときの独裁賛美の頭がいまだに頭にこびりついているのかも知れない。いずれにしても、ベネディクトゥス16世は先代に比べて、あまりにも質が低いといわざるを得ない。

それから、今回のイスラームとの関係でいうならば、表題にも掲げたように、イスラームが主流の中東地域は、そもそもキリスト教の発祥の地であり、そこにはいまだに多くの宗派と信者が存在しているという現実を忘れてはならない。
中東のキリスト者はイスラームの波の中で、イスラームとの共存共栄を実践してきた。
特にレバノンではマロン派が人口の2割、その他のキリスト宗派を合わせれば35%以上とかなりの割合を占めている。マロン派は典礼はシリア正教など初期キリスト教の要素を保ちながら、ローマカトリックに帰依し、教皇の権威と教義を奉じる一派である。
また、エジプトにはローマカトリックには属せず独自の教団組織と教義を持つが、信者数ではマロン派を上回るコプト教徒がいる。パレスチナにもキリスト者は多い。
そうした中東のキリスト者が、今回の教皇の不用意な発言のせいで、隣人であるムスリムから不必要な疑念を受ける羽目になっているのだ。
参照:Pope remarks worry Christians in Mideast(http://news.yahoo.com/s/ap/20060918/ap_on_re_mi_ea/muslims_pope_3 By ANNA JOHNSON, Associated Press Writer Mon Sep 18, 7:14 AM)

イスラーム教側は、日頃キリスト教の教義や教徒の存在に対して敵意や排斥行動を見せることはない。私が中東に行って、シーア派やスンナ派の人たちと知り合いになって、私がキリスト者であることを明らかにしても彼らはそれを尊重する。
そもそもイスラーム教の伝統的な教義や発想では、キリスト教も同じセム一神教で、同様な教義と経典を奉じる兄弟だという意識がある。だから、イスラーム教徒は普段はキリスト教徒への反感や敵意など見せることは無い。

そうであれば、わざわざ他の宗教の側からわざわざ相手を貶めたり、挑発したりする必要はない。

ところが、キリスト教原理主義者のブッシュや今回の教皇のように、キリスト教徒側が挑発的な発言をしたら、当然イスラーム側の憤激を買うことになり、そのとばっちりは、中東のキリスト教徒にも降りかかってくることになる。
実際、十字軍を見ても、近代以降西欧による中東侵略を見ても、キリスト教側の横暴さや加害のほうが目立つ。まして、西欧帝国主義侵略と分割の最初のターゲットになったのが中東であることを考えれば、キリスト教陣営はイスラーム教に対してもっと謙虚かつ細心の気遣いを行う義務がある。
そもそもキリスト教の教義の根幹は博愛である。まして起源を同じくするイスラームへの偏見や憎悪を煽るのはもってのほかであろう。そういう意味では、私にはブッシュやベネディクトゥス16世こそが、イエスを誘惑したサタンと同種の反キリスト者に見えて仕方がない。


産経新聞より(教皇の呼称は法王のママ、ローマ教皇庁の公式の日本語呼称は教皇であって、仏教用語の法王ではない、こうした日本の新聞用語も当事者の希望を認めない一種の傲慢な態度だといえる):

■ローマ法王(ママ)が神学講義で語った問題の部分(抜粋):
 私は以前、ビザンチン帝国のマヌエル2世パレオロゴス皇帝とペルシャ人が1391年に交わした対話に関する書籍を読んだ。皇帝は対話の中でジハード(聖戦)について言及した。宗教と暴力の関係について皇帝が語った内容はこうだ。「ムハンマドが新しくもたらしたものを私に見せよ。邪悪と残酷さであり、彼が教えた信条を剣で広めたということだ」
 皇帝はこう述べた後、なぜ暴力を通じて信条を広めることが非理性的であるかを説明した。暴力は神の本質に反するものである。皇帝はこうも語った。「神は血を喜ばないし、非理性的な行動は神の本質に反する。誰かに信条を伝えようとする者は暴力や脅威を使わずに、的確に理を説かなければならない。理を説くには武器は必要ない」
 書籍の編集者はこう語った。「ギリシャ哲学の素養がある皇帝は、理性に基づかずに行動することを神の本質に反すると知っている。だがイスラムの教えでは、神は絶対的に超越した存在だ。その意思はわれわれが理解できるものではない」
 今回の講義は(他宗教への)批判ではない。理性という概念を考えるためのものだ。そうすることで今、必要とされている宗教間の真の対話をすることが可能になる。

■ローマ法王庁(ママ)の釈明の要旨:
 宗教間の対話を好むという法王(ママ)の立場は明確だ。法王は昨年のイスラム教代表との会合で、キリスト教徒とイスラム教徒の対話は軽んじることはできないと断言している。
 レーゲンスブルク大学で引用したビザンチン帝国皇帝の発言は法王の意見ではない。法王は一般的な宗教と暴力の関係を学術的な文脈で使用したまでだ。ただ、暴力のために宗教を動機とすることは拒絶する。
 (法王は)発言がイスラム教徒を攻撃するかのように聞こえたことを非常に遺憾に思っている。神への侮辱と、神聖なものを軽視することを自由の行使だとする風潮を排除するよう西洋文化に警鐘を鳴らすことが法王の務めだと思う。

台湾メディアの一方的な報道こそが緑陣営の暴発を招いた

2006-09-20 03:49:14 | 台湾政治
9月16日台湾独立派団体の連合組織「台湾社」が総統府前ケタガラン通りで連日の「倒扁(陳水扁打倒運動)」に対抗して、民主的に選ばれた政府を擁護する集会を開いた。この過程で、24時間「倒扁」運動ばかり「報道」している中天、東森の二つのニュースチャンネルの中継カメラが民衆によって包囲、駆逐された。
その後、「倒扁」側は運動を台湾各地に拡散させることを企図、18日に高雄市、19日に台南市でそれぞれ集会を開くことを計画した。しかし高雄市は民進党の葉菊蘭代理市長が申請を「混乱を招く」として却下した。
これに対して高雄市の「倒扁」運動支部は無謀にも非合法で座り込み集会を始めたところ、緑陣営の民衆との乱闘になり、結果的に「倒扁」側は緑陣営の民衆の抗議に追われる形で集会継続を諦めた。
19日の台南市では民進党の市長は集会を許可したが、緑陣営の民衆が「倒扁」側集会を取り囲み、やはりこれも「倒扁」側の退散で終わった。
その過程では激昂した民衆によって、「倒扁」側の車両が破壊されるなどした。

「倒扁」側は15日に台北市内で行った「囲城」(総統府包囲)デモが20万人以上の参加者を集めて気勢が上がったと勘違いして、緑陣営支持層が多い南部でも運動を展開して、緑陣営の分裂と動揺を狙ったようだが、その目論見はもろくも敗れてしまった。
これを「暴力」として非難することは簡単だ。だが、過激な行動を生んだものは何か、それをまず考えなければならない。

ここで少し話がそれる。
似たような事件はちょうど12年前の9月にに起こったことがある。1994年9月25日、当時成立したばかりの統一派政党・新党が高雄市の労工公園で集会を開いたとき、やはり民進党支持の民衆が会場を取り囲み、新党関係者は退散するという事件が起こっている。労工公園はまさに美麗島事件の際に集会が行われたところで、いってみれば民主化運動・台湾意識の聖地なのだ。新党はそうした「敵の総本山」に食い込めば、自らの勢力拡大にとって有利だと判断したのだろうが、そんなに世の中は甘くない。

今回の「倒扁」運動も、実態としては、国民党の中でもさらに一部の大中国・統一志向による非合法的な陳水扁政権打倒の権力闘争である。
9日から連日連夜、台北市の一部を占拠して、大きなスクリーンや舞台を設置して「陳水扁やめろ」と叫ぶ。こんなことが可能なのは、どうみても「大きな力」が働いていることは明らかである。
それがバレバレであるのは、国民党反動派の息がかかった多くのテレビニュースチャンネル(TVBS、中天、東森)、新聞(中国時報、聯合報)が大げさに伝え、煽りたてていることからも明らかだ。
何しろ、テレビニュースチャンネルの偏りぶりは異常だ。24時間会場を生中継し、この話題ばかり一方的に伝える。この運動に批判的な大多数のサイレントマジョリティや緑陣営の不満は一切伝えないし、まして台湾や世界のほかの重要なニュースはまったく伝えない。
中国時報や聯合報なども毎日6-8面を割き、一方的にこの運動を賛美する記事ばかり垂れ流している。香港系リンゴ日報は社説では煽っているものの、意外に紙面は比較的「冷静」でせいぜい2面くらいしか割いていない。
TVBS、中天=中国時報、聯合報には香港経由で中国資本が大量に流れこんでいると見られている。香港のメディアも連日この話題ばかり大げさに伝えているようだ。
以上のことから、この運動の背後にいる勢力はあまりにも明らかである。それは国民党反動派と中国共産党である。

しかも聯合報はこの運動が反動的なものであることを「白状」する記事を書いている。18日付けで「靜坐人潮昨再湧現 非常「布爾喬亞」(昨日の座り込み、盛り上がり再び、非常にブルジョア的」という見出しで、このデモに参加しているのが台北の中産層を中心としていて、緑陣営の集会の主体である労働者などと異なり、きわめて「高尚」だ、などと「自賛」しているからである。
たしかに、これは事実である。つまり、今回の座り込みに連日参加できるというのは、その時点で、有閑階級であるのは明らかである。暇で金がなければこれほど無意味な運動に毎日やってこない。つまり、国民党を支持し、共産党ともつながる勢力はまさに有閑階級による反動的な本質を持っていることを、聯合報は自ら認めているわけだ。
これは最近の中国共産党が資本家を大量に入党させ、国際資本による労働者搾取を奨励している傾向と軌を一にするものだ。
たしかに、15日には若者や女性が多く参加した。しかし、これをもって、「新たな市民運動」と勘違いしてはならない。台北は若者にとっては娯楽の場所が少ない。参加した若者は、いずれも単なる「ファッション」としてとらえていて、たいした意味も考えずに、久しぶりに起こった「お祭り」に便乗しただけのことである。
この運動の本質は国民党反動派とそれに追随するマスコミが結合し、さらに中国共産党の支援を受けた奪権闘争である。15日に膨れ上がった部分の多くは単なる「娯楽を求めた便乗組」である。いずれにしても、歴史的な意味なまったくない。日本の某通信社は「総統批判の声の広がりを反映した」などと書きたてたが、それはまったく台湾の実情と物事を本質を理解できていない誤った見方だといえるだろう。

ところで、最初の話に戻る。
もちろん、暴力は遺憾である。しかし、こうした暴力を生んだのは、もとよりマスコミが一方的に「倒扁」側に肩入れしたことから起こったものだ。
民衆は自らの意見や意思が正当かつ公平に扱われないとフラストレーションを高めるものだ。
かつて南米の軍事政権下で極左ゲリラが蔓延したのも、中東などにおいて欧米メディア覇権への反感が強く反欧米感情に流れやすいのも、いずれも国の体制やメディアが異なる意見を反映できないために起こる当然の反応であり代価である。
今回、台湾のメディアの多くは、メディアとして最低限守るべき報道の中立公正性を完全に無視し、報道と論評を混同し、一方的な報道姿勢をとった。
「倒扁」運動に参加していない市民のほうが多く、参加していない人たちは運動を苦々しく思っていることを無視して、一方的に一部の「声の大きな群衆」の声だけを大きく報道する。そして、それに反対する意見は、それが暴力に訴えたときだけ「反対派は暴力分子だ」という形で伝えるだけである。
この一方性は、欧米メディアの多くが一昔前いや現在でも中東やイスラームがらみの報道をするときに行っている一方的な姿勢とまったく通じる態度である。
台湾は「倒扁」や赤服や青陣営の声だけが存在するわけではない。緑も中南部を中心に大きな勢力があるし、ノンポリや中立的な人も最近では増えているのである。
「倒扁」に積極的に参加する人以外の人にとっては、「倒扁」運動ばかり報道するメディアは害毒以外の何者でもない。それが「倒扁」側に肩入れしてばかりいるメディアや「倒扁」運動側には理解できていないようだ。

それにしても、16日、18日の高雄、19日の台南と続いた緑陣営の鬱積した不満の爆発・暴発にもかかわらず、前記統一派メディアは一向に報道姿勢を反省しようとしない。これではますますフラストレーションは高まるばかりだろう。
まあ、それでもいいのかもしれない。「倒扁」側は是非とも無意味な騒動を続けて欲しいと思う。
しょせんは台北市にいる一部「ブルジョア」(聯合報の言)が国民党反動派や共産党の使唆で動いている少数の動きに過ぎない。少数の人間が、これほど自己中心的な動きを続ければ続けるほど、中南部を中心とした緑陣営の凝集を強めることになり、また中立的な人たちも「倒扁」運動への憎悪を持つだけだろう。そして、この運動に肩入れしているのが明白な馬英九はじめ国民党反動派の支持基盤は失われるのである。
民進党の上層部には「このまま続けたいなら、続ければよい。馬英九の評判はどんどん落ちて、08年には馬が当選する見込みはまったくなくなるだろう。そうでなくても、台湾では台湾意識がどんどん強まっている。このまま馬英九系統がヘタな動きをしてくれれば、民進党にとっては都合が良い」という見方も出ているくらいだ。

南アフリカの現実を描く映画「ツォツィ」

2006-09-17 15:13:40 | 世界の政治・社会情勢
南アフリカはアパルトヘイトが撤廃され、黒人が大統領になる民主国家となったが、経済的にはいまだに旧支配層の白人が握り、黒人の多くは極貧の生活を強いられている。南ア・英国合作映画「ツォツィ(Tsotsi、台湾華語名:幫暴徒)」は、ヨハネスブルク郊外のソウェト地区を舞台に、19歳のギャングの親玉的存在のツォツィ(これはまさにスラングで殺し屋を意味する)が強奪した車に置かれた赤ん坊を家に連れて帰って育てるうちに、徐々に人間としての優しさに目覚める姿を描いている。

英語公式HP: http://www.tsotsi.com/english/index.php
IMDB: http://www.imdb.com/title/tt0468565/

Thug (International: English title) (literal English title)
Runtime: Canada:94 min (Toronto International Film Festival) / USA:94 min
Country: UK / South Africa
Directed by Gavin Hood
Genre: Crime / Drama
Cast overview, first billed only:
Presley Chweneyagae .... Tsotsi
Terry Pheto .... Miriam
Kenneth Nkosi .... Aap
Mothusi Magano .... Boston
Zenzo Ngqobe .... Butcher
Zola .... Fela
Rapulana Seiphemo .... John Dube
Nambitha Mpumlwana .... Pumla Dube
Jerry Mofokeng .... Morris
Ian Roberts .... Captain Smit
Percy Matsemela .... Sergeant Zuma
Thembi Nyandeni .... Soekie
Owen Sejake .... Gumboot Dlamini
Israel Makoe .... Tsotsi's father
Sindi Khambule .... Tsotsi's Mother

ちなみにIMDBによれば、使用言語は英語、ズールー語、コサ語になっているが、どうも英語以外で使われているのは、ズールー語を基盤としたピジンであるツォツィタール語(Tsotsitaal)らしい(ウィキペディア英語版参照: http://en.wikipedia.org/wiki/Tsotsitaal
これは、まさにソウェト地区を中心に発生したもので、Zulu, Sotho, Tswana, Afrikaans, Englishなどさまざまな言語が話されている大都市環境の中で生まれたピジン言語だ。
(ところが、Ethnologueによると、この言語は80年代まで使われていたが、今はほぼ絶滅したと書かれている。http://www.ethnologue.com/14/show_language.asp?code=FLY。としたら、言語はやはりズールー語か。一体、何なんだ?)

ちなみにズールー語にはコイサン語族の影響というか基層の反映として、独特の吸着音(舌打ち音、クリック音ともいう、ただし舌だけでなくて、唇で鼓の擬音を出すときも該当する)がある。日本語ではチェッと舌打ちしたり、太鼓の真似てポコポコと舌鼓や唇鼓(?)を打つときに使うが、これを正式の言語音として使う言語は南ア、ナミビア、ボツワナなど南部アフリカに集中している。
IPAではʘ ǀ ǃ ǂ ǁなどと表記する。
私のような言語ヲタには興味が尽きない言語音だ。事実かつて私もこれにはまったことがあって、ズールー語と同じ系統に属するコサXhosa語(ネルソン・マンデラやデズモンド・ツツらの母語でもある)の入門書をロンドンのFoylesやDillon’s(今は改名したらしい)で買い集めたこともある。
ただ、この吸着音がこれでもかと頻出するのは、典型的に見られるのは、ブッシュマンとかホッテントットと呼ばれるコイサン系の人たちの言語である。かつて「ブッシュマン」という映画を見た人は覚えていると思うが、あそこでニカイさんがポコポコ舌鼓を駆使してしゃべっている面白い音感のする言語がある。あれが典型的な吸着音言語だ。実際、コイサン語族の言語には、言語名自体がこの音を含むものもある(ナミビアの=/KX'AU//'EIN、!XÓÕなど。しかも!XÓÕは吸着音を他の子音や吸着音と組み合わせて多用し、さらに声調もあるらしい)。ただ、コイサン系言語の話者人口はあまり多くないので、吸着音を持つ言語としてメジャーなのは、1000万人を超えるコサ語やズールー語ということになる。
もっとも、ズールー語や「ツォツィ」に出てくるツォツィタール語では吸着音の種類はあまり多くないので、吸着音を楽しむ観点から見るとつまらないが、そうした言語ヲタ的な議論はこの辺までにして、映画の内容に戻ろう。

映画の筋は次のとおり:
南アフリカの400万都市ヨハネスブルグ。世界最悪の犯罪都市とも云われるこの街に生きる19歳のTsosi(ツォツィ)は、ギャングのリーダー的存在。毎日のように恐喝、強盗、殺人を起こしている。ある日仲間との諍いの後、近郊の高級住宅街に迷い込み、帰宅した女性の車を奪おうと試みるが、その過程で女性を銃で撃ち、重傷を負わせたうえで、車を奪って逃走する。車を捨てて中にあった金目のものや食料を持って去ろうとしたとき、後部座席には生後間もない赤ん坊が乗っていた。凶悪犯のTsotsiもさすがに見捨てることもできず、赤ん坊を紙袋に入れて、スラム街の自宅に戻る。ところが、赤ん坊の扱い方もしらない彼は途方にくれた。そこへ赤ん坊を背中に負ぶった若い未亡人が水汲みしているのを見つけ、後をつけてその女性の家に押し入り、母乳を与えることを強制した。なんとか赤ん坊と共に暮らしていくうちに、今まで人の命など何とも思わなかったTsotsiの心に変化が生まれ、人間としての情に目覚め、ついには赤ん坊を元の家に戻した。そこへ赤ん坊の親を警備していた警官の通報で警察が集まり、Tsotsiは両手を挙げて逮捕を予測されるところで映画は終わる。
アフリカ映画として初めてアカデミー賞を受賞したという。

ここで描かれているのは、近代的なビルが立ち並び欧米と同じような水準にあるヨハネスブルグの街並みと、主人公たちの住むソウェトなどの貧しい黒人地区とのあまりにも大きな格差だ。主人公は今でこそ小さな掘っ立て小屋に住んでいるが、少年時代は家庭内暴力に辟易して家出し、土管の中で生活していた。
また、主人公が赤ん坊を奪った高級住宅街の住人は、まさに黒人の中の富裕層である。白人と黒人の格差だけでなく、黒人内部の格差も進んでいるわけだ。おそらく所得格差は数千倍にも上るだろう。
これがまさに民主化され黒人自身の政権が生まれたはずの南アフリカで展開されている現実である。ただ、映画は英国資本で制作されていることもあってか、そのあたりの現実はやや抑制された描き方になっている。
ただ抑制された中でも、やはり考えさせられるものがある。根本的な原因は何なのか。

そういう点では、現在台湾で起こっている陳水扁の腐敗がどうだとか、そうした問題は、あまりにも視野が矮小かつ偏狭というしかない。「腐敗」を問題にするなら、腐敗を防止するための制度を議論すべきであり、さらにもっと根源的なグローバル資本主義の問題を問うべきだろう。しかも陳水扁の「腐敗」を問題にしている側が、台湾資本が労働コストに注目して中国に進出し、中国の労働力を搾取している現実には、むしろ構造腐敗の旗振り役になっているのは、お笑いというしかない。

「ホテル・ルワンダ」も「ツォツィ」も、共通する問題点が描かれている。それは欧米を中心とした先進国の横暴であり、その非情酷薄さである。
この映画も、もっと多くの台湾人や日本人が見るべきだと思う。
(ちなみに、この映画の華語題名は幫暴徒だが、紅幫暴徒には特に見てみらいたいと思う)

映画「ホテル・ルワンダ」

2006-09-17 15:11:05 | 世界の民族・言語問題
これは深刻な映画である。世界的に話題になっている映画「ホテル・ルワンダ(Hotel Rwanda、台湾華語名:盧安達飯店)」(南アなど合作、2004年)のことだ。1994年4月から7月にかけての内戦で100万人の殺戮が起こったルワンダにおいて、ベルギー系ホテル(オテル・デ・ミル・コリンヌ Hotel Des Milles Collines)を舞台に、有能な副支配人がエスニックを問わずホテルに避難してきた1200人あまりの同胞や他のアフリカ人の命を救い出した実話をモチーフにした話である。
ルワンダは人口870万人、一人当たりGDPがほぼ220ドル、平均寿命が44歳とサハラ以南アフリカでも最も貧しい国の一つ。宗教はカトリックがほぼ過半数で、あとはプロテスタントや土着宗教など。
「民族」分布としては、フツ(Hutu)族が84%、ツチ(Tutsi)族が15%、一般にピグミーと知られるトゥワ(Twa)族が1%だとされている。
内戦は、ベルギー植民地時代に優遇されてきた少数派のツチ族に対するフツ族の憎悪が爆発したものだが、問題はフツ族過激派がラジオを通じてツチ族を「ゴキブリ」、それをかくまう穏健派フツ族も「裏切り者、同じゴキブリ」と呼んで、殺戮を煽動したことが悲惨な憎悪と殺戮の連鎖につながったという点だ。メディアの恐ろしさである。
ただ、私は映画を見るまでは、「アフリカの特定の国のマイナスの出来事を描くのは、アフリカ差別を煽ることにならないだろうか」という一抹の危惧を抱いていたのだが、しかし映画ではルワンダの矛盾をでっち上げてきたベルギーやフランスといった大国や、国連平和維持軍に代表される国際社会が、ルワンダの内戦が始まると「国内の選挙票につながらない」としていとも簡単に見捨ててしまった事実を浮き彫りにしており、そういう点では無意味な民族憎悪が帝国主義の身勝手な思惑で創造され、さらに放置されるという本質を描いていたといえ、秀逸だといえる。

映画の中で、主人公のホテル副支配人ポール・ルセサバギナは当初、命を狙われていたツチ族の妻や家族だけでも救うことを目的としていた。しかし、ホテルのベルギー人支配人はすでに国外に避難し、彼が事実上の支配人となっていた。彼を頼りに集まってきた人々、そして親を殺されて孤児になった子供たちを見ているうちに、行き場所のない人々をすべてホテルに受け入れて匿い、救い出すことを考えるようになった。
ここで同時に描かれたのは国連の無力さと大国の身勝手さだ。ルワンダにはオリヴァー大佐(なんかこれを勤める俳優がブッシュに似ていたw)を代表とする国連平和維持軍が存在していた。大佐は支援と調停を求めるため上司に伝えるが、無視される。だから、大佐は、虐殺に走る民兵を見ても「我々は平和維持軍だ。武器行使はできないし、仲裁もしない」と繰り返すことしかできない。
ポールは広がりを見せる虐殺をブリュッセルにある会社本部に報告する。しかしホテルのチェーン店舗の中で、キガリにあるホテルはあまり重要ではなく、本社の対応も冷たかった。
数日後、ポールたちの元に待ちに待ったベルギーの国連軍が到着した。しかし、それはルワンダ人を助けるためではなく、犠牲者の出ている国連兵士や職員、そしてルワンダにいる外国人を退去させるためのものだった。しかも、外国人といっても、対象は欧米人だけでアフリカ人は含まれなかった。
そこで、ポールは自分ひとりの機転と知恵で避難民を守らざるを得なくなった。
ポールはそこで、それまで築いてきた国内の人脈を利用、さまざまなルートから仕入れたドルやフランなどの外貨、キューバ製葉巻、高級スコッチを「賄賂」として駆使して、虐殺者の民兵指導者を懐柔したり、おべっかやウソをついたり、時には脅したりしながら、最終的にはホテルにいたツチ族を含むすべてのルワンダ人、他のアフリカ人の脱出に成功する。
賄賂を駆使するところはきわめてリアルである。

この映画に描かれていることは台湾でも他人事ではない。歴史を振り返っても、戦後国民党が乗り込んできたあとの1947年に228事件が起こり、外省人とそれに反発する本省人の間で対立が、本省人の外省人に対する反感と、外省人国民党政権による本省人エリートの殺戮につながり、それに対して国際社会がまったく無関心だった、という悲惨な歴史を経験している。さらに、その延長線上に現在外省人既得権益層が中核となって、民主的に選ばれた政府を打倒しようなどという不正常な運動が展開されている。まさに台湾においても、既得権益や大国によって作られた「民族」の亀裂と、それを元にした政治的利益の対立は、現在進行形でもあるのだ。
また、直近ではシオニストとイスラーム過激主義の間の戦争の舞台となったレバノンの事例もあるし、そのレバノンはほんの10数年前まで宗派エスニック対立を名目にした内戦が展開されていた。
日本はそうした対立が一見存在しないように見えるが、実はその裏ではさらに過酷な抑圧が展開されてきたのであって、たとえばヤマト民族そのものの地域的多様性やアイヌ、沖縄など「異質なもの」をすりつぶし、あるいは徹底的な少数者に追い込んで声も上げられないように仕立てていくことで「単一民族国家」という外形が作られてきた。
そういう意味で、この映画に描かれていることは台湾にとっても日本にとっても、世界のあらゆる地域においても、他人事ではないはずだ。台湾では二輪(二巡目)映画館の一つ「大世紀戯院」(台湾電力本社ビルの対面)で22日まで上映されているが、私が見た16日夜は、「ダビンチコード」に引き続いて上映されたこともあってか、50人は下らない観客がいた。そういう点では台湾でもちゃんと考える人がいることには安堵した。しかし、ここ数日台北の街を占拠している例の「赤いTシャツ」姿は皆無だった。あの人たちこそ、この映画を見るべきなのに。
また、やはり「赤シャツ集団」と同じ次元で対立に持ち込んでいる民進党や本土派勢力もより多くの人がこの映画を見て、深く考えなおしてほしいと思った。

英語公式サイト: http://www.hotelrwanda.com/intro.html
日本語公式サイト: http://www.hotelrwanda.jp/
映画データベースIMDB: http://www.imdb.com/title/tt0395169/
日本の映画データベース「映画の森てんこもり」: http://coda21.net/eiga3mai/text_review/HOTEL_RWANDA.htm

上映時間 Runtime: 2:02
製作国 Country: カナダ/イギリス/イタリア/南アフリカ Canada / UK / Italy / South Africa
製作会社Production Company: Kigali Releasing Limited [gb], Lions Gate Films Inc. [ca], United Artists [us]
監督: テリー・ジョージ Terry George (Directed by)
出演: ドン・チードル Don Cheadle as Paul Rusesabagina
    ソフィー・オコネドー Sophie Okonedo as Tatiana
    ニック・ノルティ Nick Nolte as Colonel Oliver
    ホアキン・フェニックス Joaquin Phoenix as Jack
    ジャン・レノ Jean Reno

ちなみに、ルワンダの名誉のために付け加えておくと、現在ではまだまだ自由な体制ではないものの(フリーダムハウス2006年の報告では、http://www.freedomhouse.org/template.cfm?page=22&year=2006&country=7045によれば、7段階で1が最も自由、7が最も不自由)として、政治的権利 6、市民的自由 5で、「不自由」となっている)、民族対立を煽ったり差別を進める言動に対策を設けたり、融和を進めているだけでなく、女性国会議員の比率では目覚しい。
国会(二院制の場合は下院を基準)議員に占める女性の比率は、2003年に行われた選挙の結果、48・8%を占め、二位のスウェーデンを上回って、なんとルワンダが世界一となっているのだ。ちなみに、日本の女性議員の比率は7・1%で世界98位、主要八カ国(G8)では最低( RWANDA LEADS WORLD RANKING OF WOMEN IN PARLIAMENT (Inter-Parliamentary Union<日本語では列国議会同盟>. Press Release, No.176. Geneva, 22 October 2003)。

アフリカの民話といえばオニャンコポン!

2006-09-17 15:10:08 | 芸術・文化全般
「キリクと魔女」はアフリカの民話をモチーフにした創作アニメ映画だが、アフリカの民話といえば、オニャンコポンという名前の最高神の話がある。
参考: http://www.jiten.info/dic/onyankopon.html
ガーナにいるアシャンティ(アシャンテ)族に伝わる創造神、天空神で「偉大な者」の意味で、別名としてポレポレ(万物の創造者)、オトゥムフー(強力な者)、オトマンコマ(永遠の者)、アナンセ・コクロコ(偉大な賢い蜘蛛)、オニャンコポン・クワメ(土曜部に現れる偉大な者)など、日本語だとなんだか、かわいらしいというか、18禁というか、そいう名前になる。
前記参照HPによれば、オニャンコポンははるか昔、人間の近くに住んでいたが、ある老女が主食のヤムイモを叩いていた時、長いすりこぎ棒をオニャンコポンにぶつけてしまったため、天空に去っていった(妖怪サトリか?)。
そこで老女は子供たちモルタルを集めさせ、高く積みあげさせたが、あと少しで届くというところで、老女は一番下のモルタルを一番上に積むように言ったため、モルタルの山は崩れ落ち、落ちてきたモルタルで多くの人が死んだ(この部分はバベルの塔伝説に似ているね)。
しかし、オニャンコポンは決して人間を見捨てたわけではなく、オニャンコポンの子供たちである川と海を人間に贈ったという(これは世界の神話によくあるモチーフだ)。

ファッショ的な「陳水扁打倒」運動 緑陣営も低次元な対抗戦術はやめませう

2006-09-16 05:12:49 | 台湾政治
「倒扁」(陳水扁打倒)を掲げる運動、前回の記事でもこれが国民党反動派による反動的な動きでしかないことを指摘したが、15日夕方から夜にかけて行われた「囲城行動(総統府包囲運動)」を直接目撃したりテレビ報道を見た結果、この運動がファッショ的色彩を一部で帯びている現実を発見した。
私が15日夜西門町で映画を見て、西門駅から中正紀念堂駅経由で帰宅しようとしたとき、西門駅や中正紀念堂駅は赤いTシャツを着た一団で改札口からホームが占拠されていた。しかも、西門駅では列車が到着して降りてくる一段も「赤シャツ隊」でその中の一人が駅のホームであるにもかかわらず「阿扁下台」(陳水扁辞めろ)と北京語と台湾語で叫びだし、それにあわせて下車する一群とホームで待ち合わせていた人たちが唱和して、非常に気持ち悪かった。その場にいた高校生が「怖い」と口にしていたように、はっきりいって一団は狂っている。
知り合いの一人も、その日朝車で総統府前の座り込み現場を通りかかったが、親指を下向きにするポーズをさせようと迫ってくるなど、恐ろしい雰囲気があったという。
また、15日夜の民視ニュースでも、デモ隊がある額縁屋に陳水扁の写真も飾られているのを目ざとく見つけて「恥知らず」などと叫び、その店の女性が抗弁するのを大声で阻止している様が映し出された。さらに陳水扁の写真が飾られたショーウィンドーの窓の外側から陳打倒などのステッカーを張りまくった。これに対して店の主人は機転を働かしてすぐにその場を蒋経国の写真に取り替え、「ほら、逆に蒋経国氏の写真にステッカーがあって、見難くなっている」といい、さらに民視のインタビューに「別に怖くないよ。これで逆にわが店の宣伝になったから」と、にやりとしていた。なかなかの人ダネ。てか、デモ隊はお粗末としか言いようが無い。
要するに、陳水扁打倒デモは、もはやそれとは異なる意見を受け入れようとしないファッショ的極右の狂信的な運動となっているということである。
もちろん、参加者の中には若者の姿も多いし、彼らは楽しそうにやっている。これは、おそらく娯楽が少ない台北で(だってお台場や表参道なんてないし)格好のお祭りを見つけたという感じなのだろう。そういえば家の近所でも中学生がたむろして、「阿扁下台」ごっこやっていた。一種の流行なのだろうし、別に議題は何でも良かったと思われる。
そうした無邪気な若者の参加はまあいいとして、それでも一部コアとなっている深藍の集団には、明確に異論排除のファッショ的傾向があらわになっている。
幸い、15日の日本の毎日新聞などは冷静にもベタ扱いにしているようだし、共同電が例によって国民党ファッショ勢力の太鼓持ちをしている以外はほぼ冷静な反応だが、これは当然だろう。

ただ、一方で私自身賛同できないのは、本土派、緑陣営が16日午後3時から6時まで総統府前で計画している「挺扁(陳水扁支持)」デモである。
もちろん、連日の反動派のデモをテレビニュースで見せ付けられて、南部のコアな支持層を中心に緑陣営に鬱憤が溜まっているから、その発散が必要なのはわかる。私もなぜか今回の動きのあとはこれまで見ていなかったニュースチャネルを見ているので、憤懣やるせ方ない。
しかし、冷静に考えればわかるように、要するにこれまで議会内やメディアなどさまざまな場で常に民進党という改革リベラル政権の足を引っ張り、総統選挙の敗北を認めようとしなかった国民党反動派がその策動の場所をたまたま街頭行動として公然化しただけのことである。そもそも、こうした反動的な動きは、成熟した国ならメディアでは伝えない。
もっとも、日本でも成熟していなかった60年代には反安保闘争のデモを連日過剰に報道してきたものだし、とかく新聞記者というものには(私自身の過去への自戒も込めて)共産主義をはじめとした全体主義や権威主義に流されやすい妙な傾向を持っていることも事実である。
そういう意味では、台湾のメディアはもちろん、日本でも一部権威主義傾向のメディアであるほど、こうした反動的運動を肯定的に報じたい衝動に駆られるのは、わからないではない。

ただ、問題は本土派政治参加者ともあろうものが、わかりきっているのに国民党反動派に偏ったニュースチャンネルをわざわざ見ていて、それにいちいち憤慨していることである。それもまたアホだと思う。そんなに憤激するなら初めから見ないでよい。台湾は多チャンネルだからほかにもいくらでもチャンネルがある。実際、サイレントマジョリティというか、本土派でも普通の民衆はニュースなど見ずに、台湾語や日本・韓国ドラマや米国映画などを楽しんでいるのである。
政治に関心が高すぎると逆にニュースを身勝ちなのかもしれないが、それもそれで本当の大衆から遊離しているといえまいか?
そもそも陳水扁に落ち度があったとしても、だからといって内憂外患に明らかに荷担している証拠がない限り、任期途中でやめろというのは、民主主義や法治主義の発想ではない。その時点で、そんなことを主張しているのは、アホであり、キチガイであり、ファシストであるということである。
であれば、せっかくリベラル改革政権を誕生させた緑陣営は、ニュースなど見ないほうがいい。台湾人に本を読めというのは酷だろうから、あるいは映画やドラマやアニメなどを見たほうがいい。

しかも、現在は緑側がこれまで藍陣営の妨害でできなかった政策や思索を深める絶好の機会ではなかろうか。「鬼のいぬ間に洗濯」ではないが、敵方である深藍が座り込みだのデモだのに忙しく、しかも脊髄反射に陳水扁打倒の呪文を唱えていかにも低能かつ低レベルなことに没頭している。これは緑陣営が自分を高め、これまでできなかったことを行うチャンスではないのか?
そういう意味では、「デモにはデモ」で、人数の多寡だけを競う頭の悪い争い方に汲々とするべきではない。
相手はどうしょうもないアホで狂信者であると見極めて、より高い次元から見下ろし、さらに中長期的に意味のあることを考えるべきなのである。
自分も相手と一緒になってアホになってどうする?!

来年から「台湾」名で国連加盟申請へ しかし国連信仰を見直すことも必要では?

2006-09-16 03:43:56 | 台湾その他の話題
台湾の国連加盟申請が国連一般委員会で却下、総会への上程が14年連続で認められなかったことを受けて、陳水扁総統は13日、ニューヨークと衛星回線で結び、現地記者や議員たちに説明、質疑応答を行った。この中で陳総統は来年からは「中華民国」ではなくて「台湾」の名称で、新規加盟という位置づけをより明確にした加盟申請を行う方針であることを明らかにした。

◆これまでの加盟申請は「中華民国」の名称

台湾は1992年国会の全面改選が行われて李登輝総統が政治的実権を固めたあとの93年から中華民国の名称で加盟申請を行ってきた。ただ当初は外交部官僚の古い思考が残っており、中華人民共和国の中国代表権を認めて国府を追放した2758号決議の見直しを求めるなど、中国の代表権を「中華民国」が奪取することを暗に目指す意図が込められていた。とはいえ、一時期はフィリピン、ラトヴィア、コートジボワール、パプアニューギニア、フィジーなども一般演説で事実上の賛成を表明するなど台湾の国交樹立国以外にもそれなりに賛同国はあった。ただ、その後中国の台頭が明らかになるにつれて、2758号決議の見直しという戦術は通用しなくなり、さらに台湾自体の脱中華民国化が進んだこともあって、徐々に「台湾人民の代表権」という主張にシフトしていった。政権交代で民進党政権になってから、「台湾人民を代表する新規加盟」という方向性はより強まった。
しかしそれでも台湾国内には国民党系保守派を中心に「中華民国」にこだわる勢力も少なくなく、特に外交部官僚にもそうした偏狭な思考に固執する人もいたために「中華民国」という名前での加盟申請を行ってきた。
ただ、今年は「中華民国」は申請書の初出だけで、あとはすべて台湾としてリファーしたり、また初めて加盟申請とは別に「台湾海峡の平和と安全は国連の関心事であることを表明する決議」を求める新たな要求案も提示した。

◆国連加盟ってそんなに意味あるの?

ただし、私が思うに、国連ってそんなに意味があるのかと。特に最近レバノンを舞台にした第6次中東戦争について国連がまったく無力だったこと、最多の分担金を拠出している日本が常任理事国となれないこと、米国が国連を無視してイラク戦争を勃発させたこと、人権委員会の理事国改選で、北朝鮮や中国をはじめ人権蹂躙をしている当事諸国が名前を連ねたこと、国連上級職員の腐敗が蔓延していることなどを考えれば、国連に加盟することが本当に意味我あることなのか大いに疑問である。
そもそも国連は英語名を忠実に訳せば、中国語ではそうなっているように「連合国」である。つまり、第二次大戦中にドイツや日本と戦った連合国が発展してできた、戦争を目的にした組織である。だからこそ日本やドイツを対象とした「敵国条項」が憲章にあったのだし、国連平和維持軍など今ひとつ効果も意味も不明で、かえって戦争を触発しているとしか思えない怪しげな制度があったりするのである。
まして最大の分担金責任国である米国は連続滞納し、現実の最大の分担金拠出は日本であるのに、日本は何の発言権もない。単なる税金の無駄遣いになっている。そういう目にあわされている日本国民として言わせてもらえば、国連に入れてもらえない台湾は、税金を国連にムダ遣いする必要もなく、また主権国家として認められないがゆえにイラク戦争にも派兵する必要もなく、実は得をしている部分もあって、羨ましいと思う。
もちろん、台湾政府の説明では、国連に加盟していないために起こる不利益も当然ある。さまざまな国際条約に台湾が加盟できないが、さりとて加盟していないことによるペナルティや義務だけは課せられるという不合理な側面は否定できない。
しかし、だからといって、それでも台湾は今日まで何とかやってきたのだし、国連にムダな金を使うデメリットのほうを考えれば、実は今のほうが幸運と言えないこともない。
台湾で「国連信仰」が強いのは、間接的に日本の影響もあるだろうが、いまやその日本でも国連への疑問論があり、いっそ脱退して第二の国連を立ち上げたほうがいいのではないかという議論も上がっている。確かに加盟させてもらえないからこそ、より欲求や幻想や期待が強まるのは人間の性といえるかもしれないが、加盟できないデメリットとメリットを考えたら、実際には台湾にとってメリットのほうが大きいのではないかと思う。
というのも、仮に加盟できたとしたら、台湾は豊かな国だから多額の分担金の負担を求められる。ヘタすると日本と同じように、いや、日本と同様に外交ベタだから、外のアジア諸国の分の肩代わりもさせられるだろう。そのくせ、声だけは大きく外交が狡猾な中国と比べて、発言権はない。日本よりもさらに惨めな立場に置かれるのは目に見えているのだ。
もちろん、他のより実務的国際組織、たとえばWHOなどは加盟すべきだろうし、そちらに努力を傾けることは正しいといえる。しかし、ほかの国連傘下組織のUNICEFなどは金ばかり取られるだけであまり意味がない。

◆国連に加盟できなくても立派な国の台湾

それに、本当に加盟したいのであれば、正攻法で「国家として新規加盟申請」に固執するのもどうかと思う。
というのも、米国が「一つの中国」なるフィクションに固執し、それに中国も便乗して横車を押したて、ほかの加盟国もあえて米中の主張に歯向かうべき利益も存在しない現在の国際社会を考えれば、台湾が「主権国家」として「新規加盟」が認められるのは、ほとんど現実的にはありえない。もちろん、国際情勢は変化することもあるから、そのときには台湾が認められるかもしれないが、変化は必ずしも台湾に有利になるとは限らない。逆に中国で共産党政権が倒れた暁には、米国が一挙に台湾を売り渡そうとするかもしれない。
台湾として生存は絶対に必要である。そのためにはWHOをはじめとした国際機構への加盟は必要だし、「国連加盟」もあるいは必要かもしれない。しかし、明らかに不可能な名目と方法にこだわって、結果的に台湾に不利な国際情勢が出現した場合、台湾はすべてを失うことになりかねない。つまり、台湾に必要なことは、国際機関の情報を適切に手に入れる立場やチャネルを確保し、現実の国際社会と折り合いをつけることが可能な方法や名目で国際機関に加盟して、実を確保することではないのか?
名目だけにこだわるのは、むしろ悪しき中華的名分論であって、急進独立派のほうが中華的名分論に毒されているのは皮肉というしかない。そうやって名分にこだわって、何も得られていないのが、現実ではないのか。
台湾は小国である。国際政治は小国に冷たく、不公平にできているのが常だ。幸福の女神が小国に微笑んでくれるのは歴史の中ではほんの一瞬に過ぎない。だからこそ、今回の中東戦争でも国連の1701号決議はどうみてもイスラエルや米国に有利でレバノンに不公平なものが出てきたのである。バルト三国が独立できたのも、ソ連の衰退と解体、それから米国・欧州情勢の偶然が重なった僥倖という側面があった。東チモールにしても冷戦崩壊後に米国など大国にとって「反共インドネシアの統一維持」よりも、「邪魔なイスラーム国家インドネシアから分離した東チモール」のほうが好ましくなったというパラダイムシフトがあったからである。
ただ、台湾の場合はソ連支配下のバルトやインドネシア軍事政権下の東チモールよりは現実にはよほど幸運で、実際に中華人民共和国に支配されるわけではなく、実態としては主権独立国家である。国連や大国がその主権性を「承認していない」という単なる神学論争、抽象的観念論の次元の問題に過ぎない。
しかも台湾の経済水準、市民社会の成熟度、社会全体の力を見れば、実際にはほとんどの国連加盟国、主権国家よりもはるかに実態として強いものを持っている。たとえば皮肉な対照例としては北朝鮮が挙げられる。北朝鮮は国連加盟国であり、世界で160カ国近くと外交関係を持っている。台湾が国連に加盟する見込みもなく、外交関係が24カ国しかないのと比べたら北朝鮮は抽象論のレベルでははるかに優位にある。
ところが実際にはどうか?台湾は確かに経済・社会力に比べれば不利な状況にある。たとえば同じような社会経済レベルにある韓国は、そのパスポートで115カ国をビザ免除もしくは着地ビザで入国できるのに対して、台湾は42カ国しかない。
だが、国連加盟国で表面的には台湾より優位にあって、国家としては堅固なものを持っている北朝鮮はたった17カ国しか自由に行けないことになっている。いや、そもそも北朝鮮公民がパスポートを取得するのは在日朝鮮人などを除けば至難の業であるから、北朝鮮の人たちはほとんど外に出られない。
ところが、台湾は韓国と比べて不公平とはいえ、それでも42カ国にビザ免除や着地ビザで訪問できる。しかも台湾人はそうした待遇になれているから、ビザ取得が困難な地域にもあらゆる手段を駆使して、巧みに食い込んだりしている。なんと台湾人が原則的に入国しにくいレバノンでも、台湾人の在住者は40人程度と、日本の60人程度と比べて遜色がない。しかも日本の外相は国交があってもレバノンを訪問することはあまりにないのに、台湾の外交部長は秘密裏とはいえ今年4月にレバノンを訪問しているのである。
そう考えれると、果たして国連に加盟することとは何か、国際的に主権国家として「承認される」こととは何か、国交を持つこととは何かという根本的な意味を改めて考え直さざるを得ない。
読者の中には北朝鮮との比較対照は極端だと思われるかもしれない。しかし、これをたとえば国際的イメージが良好な小国、たとえばルクセンブルク、セネガル、エストニア、コスタリカあたりと比べて、台湾が実質外交や国際競争力、国際的プレゼンスの点で、遜色があるだろうか?
そう考えれると、台湾は国際的に主権性を認められず、国連に加盟させてもらえないとしても実際には危機に陥ることもなく、きわめて立派にやっているという素晴らしい現実や実態が見えてくるのである。逆にいえば、台湾が国連に加盟したり、国際的に国家として認知されたりすることは、現状と比較してほとんどメリットが増加しない。台湾はそれだけ立派な状態にあるということだ。
だとしたら、「国家として認められていないこと」という名分論にこだわるよりも、その現実と実態に台湾人自身がもっともっと自身を持って、それをアピールすることのほうがより必要ではないのか?

◆台湾は未来の新たな「クニ」の形を示した斬新なモデル

一つは本ブログでも何度か言及していることだが、台湾は「国家性」「主権性」という中小的なものに依拠することなく、現実なる高度な市民社会を基礎にして民間の社会力を基礎にして国際的に立派なプレゼンスと地歩を築いているという点で、台湾は「台湾」という新たな社会集合体のモデルとして打ち出すのも一つの手ではないか。
台湾は台湾であって、中国でも国家でもない。そもそも国家や民族などという19世紀以来の陳腐な社会集合体のモデルを止揚、超越した、21世紀の新たな国際社会の主体としての独自性を理論・体系化し、それをアピールしていくということである。
実際、今の台湾人の、特に若者の意識を見ていると、それが中国や韓国に対する忌避・嫌悪感が見られ、台湾の独自性や主体性を認める意識が強まっているが、この場合中国や韓国に嫌悪を抱くのは、ナショナリズムレベルでの嫌悪感というよりは、中国や韓国がナショナリズムに固執して、国家や民族を大上段に振りかざすというレベルに対する嫌悪感という点が指摘できると思う。
だからこそ、「台湾の独自性」についても決してある特定の方向で結集したりすることはない。あるときには華人という概念を持ち出したり、あるときには原住民の基層を持ち出しりしたかと思うと、日本とも米国とも中国ともそれぞれの関係性を肯定するなど、いってみれば縦横無尽に視座が変化しているのである。
中国に対しても、政治的な弾圧や台湾への横暴については嫌悪感を示す一方で、歴史や文化には素直に面白いと思ったり、経済的には関係したいとかなりフレキシブルで実利、現実的に考えている。
そういう人から見ればこそ、中国や韓国、あるいは北朝鮮のように「民族の悠久な歴史」だの「民族の純粋性」だの「伝統や領土の堅持」だのというナショナリズムやショービニズムの主張は、純粋に理解しがたいというか、生理的に忌避感を持ってしまうのである。
もちろん、こうした感覚とか思考は台湾独自のものではなく、フィリピンやタイやインドネシアなど東南アジアや、中東、アフリカなどにも広く見られるものである。ネーションなる観念が、ゲルナーやホブズボームらが指摘するように、近代西欧の特殊な産物、神話であるとすれば、西欧近代とは異なる背景を持った地域で、国家だの民族だのを前提にして強調する思考が希薄なのは当然であろう。
ただし、それでもフィリピンですらフィリピンという国家性を国際社会で認められ、国連にフィリピンという名前で加盟し、そうした観念をいわば外から規定され、それに外から拘束を受けている点では、フィリピンなど東南アジア諸国には「19世紀的な意味での国家性を止揚した何か」を開き直ることは完全にはできない。
その点で考えれば逆に台湾はそういう開き直りを行える有利な立場にあるといえる。
物は考えようで、「台湾は国家として認められないから悲哀」なのではなくて、「国家として束縛されないから自由で斬新」なのである。
そう考えれば、台湾が性質や議題の異なる国際組織(国際オリンピック委員会、国際圭二警察機構、アジア開発銀行など)に、さまざまな異なる名称で加盟しているのは、ある意味ではその自由、柔軟性、多元性を示すものとして、新たなモデルとしてアピールすべきではなかろうか。

◆マルタ騎士団方式で「世界最大のNGO」としてオブザーバー加盟申請すれば?

また、どうしても国連に加盟したいのであれば、一つ抜け道が考えられる。それは、いっそのこと「台湾は世界最大のNGO、開発援助組織」という名目で国連のオブザーバー加盟申請することである。
これにはマルタ騎士団(国)という先例がある。マルタ騎士団は、十字軍時代の病院経営騎士団を起源とした医療援助組織で、かつては領土もあったが、18世紀に消失したあとは、領土を持たないが歴史的に重要な役割を果たしてきた実績に鑑みて、その主権性はある程度認められ、ローマに本部ビルを所有している。ビルを領土とみなせないこともないが、領土はないが、国家に準じた存在として、80数カ国からは国家として承認され外交関係も樹立、「大使館」も設置している(現在の台湾よりよほど多い)。また「国民」としてはその会員が該当する。そういう意味では国家の三要素である領土・国民・主権のうち、領土部分には疑問があるが、国民と主権の部分はほぼ満たしている。主権部分が承認されていないが領土と国民は明らかにある台湾と要素面で対照的な関係にある。
しかも面白いことに、マルタ騎士団を国家承認している国の中には台湾との国交国が含まれていることである。
そのマルタ騎士団は、国連の「加盟」基準が緩和された90年代に、「特殊な目的を有する国際機関」の名目でオブザーバー加盟している。
もちろん、そうした形であっても、台湾独立への一里塚や突破口とみなす中国は徹底して反対するかもしれない。しかし、そういう形であれば、いちおうは中国側が最も譲れない一線だとしている「台湾の主権性の承認」の問題は発生しない。
もちろん、憲法もあり、大統領も選んでいる明らかに事実上の主権独立国家を、国家としての歴史はあるといえ単なる医療ボランティア集団と比較できない、主権性を自ら放棄するとは何事かと急進独立派は承服できないかもしれない。
しかし、考えてみて欲しい。台湾の主権性は、もともと国際的には認められていないのである。確かに現実の実態としては主権性を有することは明らかだが、それと承認という行為とはイコールではない。
たとえば、立派に民主的な選挙で元首を選び、政府を構成し、実効支配を維持しているのにもかかわらず世界のどこからも承認されていない事実上の国家としてソマリアの一部が独立宣言したソマリランド共和国が挙げられる。
ソマリランドの政府と国民からすれば、ソマリランドは立派な主権国家であって、実態としても無政府状態のソマリアに比べるまでもなく、アフリカの中でもかなり立派なほうに属するが、それでも台湾の急進独立派はまずソマリランドの立派さを知らないだろうし、どうでもいいことと考えているであろう。
だとしたら、台湾が国内的にいかに立派な体制を維持しているかどうかは、台湾以外の多くの国や国民の関心事ではないということと同義であろう。
そうであるならなおさら、台湾が「主権性」に固執する利益は国際レベルではほとんどないことになる。
しかも、失礼ながら、統治能力があまり高くなく、NGO的な色彩が強い陳水扁政権、好き勝手なことをやっている今の台湾国民を見れば、いっそのこと「NGO」だと開き直ってもいいのではないか?それが実態ではないのか?
また、台湾は政府や国家としてみれば小さいだが、NGOとしてみれば文句なしに世界最大となり、しかもきわめて有能、有用である。マルタ騎士団など目ではない。
さらにNGOにも規約や綱領は必要であり、それは英語では憲法と同語を使う場合もあるし、NGOには理事長選挙も必要である。
NGOでも役割に応じて、政府に準じた主権性(排他的支配権)や外交権に準じた権限を国際的に認められることもあり、実際それはマルタ騎士団が行っているし、ギリシャにあるアトス山もそれに近い形を持っている。
それで失うものがそれほど多いとは思えないし、中国が必死で守ろうとしているメンツも保てる。
一部ではNGOといったら、中国の主権の支配を受けることになると心配する人もあるかもしれないが、マルタ騎士団方式で、現実に民主的な支配が築かれていることを認める形でのNGOという形なら、現在の統治実体をそこなわれることもない。要はその辺が各国とすり合わせて、知恵を絞るべきところなのである。「正面突破」でいつまでたっても展望が見えないよりは、民主体制や排他的支配権を失わず、統治主体として認められつつも、NGOという名目でオブザーバー加盟する道を追求し、そのために知恵と金を費やすほうが現実的な台湾の利益につながるのではないか?
台湾が中国と違うというなら、まず思考パターンにおいて中国的な名分論から脱却すべきだろう。

◆第二国連を作ることも検討すべし

ただ私としては最初に述べたように、「国連」のような役立たずの無能かつ腐敗した機構になんらかの役割を期待するよりは、正直国連に呆れている諸国と語り合って、新たな構成要件を掲げた、第二の国連を結成することを、マルタ騎士団方式と並行して考えたほうがいいかもしれない。
そもそも中国があれほど必死になって「主権国家」なるものにこだわって、主権国家ではそもそも包摂しきれない、あらゆるエスニックグループの存在や問題、あらゆる環境や弱者の人権の問題を排除している今の国連という概念と機構そのものがすでにアナクロニズムの極致ではないのか?
EUが理想的な形だとまったく思わないし、まったくその逆の世界部分割拠主義だと思うが、それはそうとしてEUの理念や現実の中にも私が評価できて、国連にはないものとしては、カタルーニャやケルトやロマなど少数エスニシティの尊重と地位の保障という部分が上げられる。EUは従来型の主権国家以外にもそうしたエスニシティにもある程度の代表性を認め、そうした権利を保障している点は、中国がわめき散らしている国連における「主権国家主義」よりはよほどまともだ。
そういう意味で、既存の国家だけを構成要件としない、もっと多種多様な市民団体、NGO、NPO、少数エスニックグループなども主体あるいは準主体、アクターとして認める新たな多国間組織が必要ではないのか?
もちろん国際社会ではまだまだ主権国家が主体として動き、より強い武力を持ち、より大きな国が幅を利かせている面は否定できない。
しかし、世界は徐々に変わりつつある。従来型国民国家・主権国家では掬い取れない部分に対する関心は高まっている。中国ですら、華南の沿岸地方を中心に中南海が声高に主張する「中華民族主義」とは正反対のもっと多元的かつ開放的な思考をしている人も増えている。
そういう点では、中国政府が鼓吹する中華民族主義は時代錯誤、前世紀の遺物であり、台湾のあり方こそが新たな時代の潮流を一部代表しているといえる。ところが台湾人は偏狭なマスコミやかつての国民党教育の残滓もあって、台湾の持つ強みを自覚できていない。急進独立派も「国家」にこだわりすぎていて、国家以外のアクター、台湾自身の強みに気づいていないのは問題である。

フランス語アニメ映画「キリクと魔女」は素晴らしい

2006-09-16 03:42:59 | 芸術・文化全般
フランスなど欧州3国合作のフランス語アニメ映画Kirikou et la sorcière(日本語名:キリクと魔女、中国語名:嘰哩咕與野獸)が15日台湾で公開されたので、あまり体調はよくなかったが見てきた。
プロットは簡単にいうと、アフリカのある村(て、どこやねん?と思ったけど)で生まれたキリクという賢い子供が、体は成長しないまま、賢者として魔女カラバの仕掛けを次々破っていくというお話。
何より映像が美しいし、音楽もセネガルが生んだ世界的に有名なアーティスト、ユッスー・ンドゥールが担当しただけに素晴らしい。久しぶりに良い映画を観た。これはあと数回見てもいいかもしれない。
もちろん、フランス語を話しているので(笑)おそらく西アフリカが舞台として想定されているんだろうが、ライオンやキリンが出てきたり、そういう意味ではしょせん欧州人が作った映画という感じもしないではないが、ただ原作・監督を手がけたMichel Ocelotミシェル・オスロは子供のころギニアで育ったらしいから、アフリカ現地に皮膚感覚があるわけで、そういう意味ではオリエンタリズムというほどではなかったと思う
見た場所は(よりによって)西門町にある「真善美」といって国民党系だが英語以外の教養映画をよく上映しているところなのでよく私も足を運ぶ。ただ、場所が例の「囲城活動」キチガイの祭典・デモ行進の近くなので、今晩の西門町はたくさん赤いTシャツ着たアホがうろついていて異様な雰囲気でムカツいたのは事実だが、映画が始まるとそんなことは忘れて一気に引き込まれた。
台風も近づいていて騒ぎもあるので、観客はまばらだったが、子供連れの女性も2組くらい来ていた(しかも赤いシャツなど着ていなかった)。総統府前のキチガイ騒ぎに赤いTシャツ着せた子供を駆り出して演説させて嬉々としているアホがいるが、そんなことをしていると子供はろくな人間に育たないだろう。こういう映画を見せたほうがよっぽどいい。

キリクと魔女(日本語公式サイト):http://www.albatros-film.com/movie/kirikou/

Kirikou et la sorcière(フランス語公式サイト):http://www.kirikou-lefilm.com/

Kirikou and the Sorceress(英語公式?):http://www.kirikou.net/

IMDB:http://us.imdb.com/title/tt0181627/
Directed by Michel Ocelot
Produced by Didier Brunner, Paul Thiltges, Jacques Vercruyssen
Written by Michel Ocelot
Music by Youssou N'Dour
Editing by Dominique Lefèvre
Release date: December 9, 1998
Running time: 74 min.
Language: French
Budget EUR3.800.000 (estimated)
* Theo Sebeko ― Kirikou (voice)
* Antoinette Kellermann ― Karaba (voice)
* Fezele Mpeka ― Uncle (voice)
* Kombisile Sangweni ― The Mother (voice)
* Mabutho 'Kid' Sithole ― The Old Man/Viellard (voice)

音楽を担当したユッスー・ンドゥールYoussou N'Dourの公式サイト

映画日本語公式サイトより:
キリクが生まれたアフリカの村は、魔女カラバの恐ろしい呪いにかけられていた。泉の水は涸れ、魔女を倒しに出掛けた男たちはすべて魔女に食われ、村に残っているのは、女子供と老人だけ。「どうして魔女カラバは意地悪なの?」。持ち前の好奇心と行動力で、小さなキリクは賢者が住むという“禁じられたお山”へ旅に出る……。
人類誕生のアフリカだけが生み出し得た、この全く新しい世界神話は、フランスの公開で観客動員130万人、興行収入650万ドルという異例の大ヒットをおさめた。これはアニメーション作品におけるフランスでの歴代興行収入第1位の記録でる。さまざまな関連グッズも浸透し、ひとつの社会現象と呼べるまでに発展し、ビデオもアニメ作品としては異例の60万本のセールスを記録。いまだ本国では、伝説的に語られている希有な作品となっている。
原作・脚本・監督は、これが初めての長編作品になるミッシェル・オスロ。彼は幼少時代をギニアで過ごし、そこでの強烈な体験が、『キリクと魔女』を作る大きな動機になっている。アフリカは彼の原点でもあり、長年あたためてきた念願のテーマでもあった。監督の意図は多くの賛同者を得、サウンド・トラックにはあのユッスー・ンドゥールも参加した。また、彼は日本文化をこよなく愛する人物でもあり、若い頃、日本に滞在し、墨絵を描き、葛飾北斎の絵の心酔者でもある。『キリクと魔女』の映像に、どこか親しみを感じるのはそのせいかもしれない。
日本では、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『となりの山田くん』の高畑勲が日本語版を手掛け、自ら演出も担当。さらに吹替え版ではカラバ役に浅野温子、キリク役に『千と千尋の神隠し』“坊”役で注目を浴びた神木隆之介を迎え、本作に新しい息吹を与えている。
また、『キリクと魔女』は、フランスでの亜主―国際アニメーション映画祭グランプリはもとより、シカゴ国際児童映画祭での長編劇場・ビデオアニメーション部門成人審査員賞・児童審査員賞、モントリオール国際児童映画祭での長編部門審査員特別賞など多くの賞にも輝き、世界的な評価を得ている。
(日本公開は2003年8月)

続編?のKirikou et les bêtes sauvages(キリクと愚かな野蛮人)というのが2005年に制作されているらしい。

ほかにも台北では現在、アフリカ関係の映画が上映されているので、これも近日中に見ておきたい。
一つは南ア映画でズールー語とコサ語も混ぜているというTsotsi、もう一つは日本でも最近話題のHotel Rwanda。特に「ホテル・ルワンダ」は今回の深藍の病理を考える上でも必見だと思う。