台湾のリベラル与党、民主進歩党は28日午前、台北市の圓山飯店(グランドホテル)1階(実際には2階だが)敦睦庁で結党「20周年記念大会」を開いた。会場は20年前に結党大会が行われたのと同じ部屋。式典は午前10時20分過ぎから12時半ごろまで開かれた。
出席したのは、結党時からの党員363人と、青年民主聯盟代表約100人。結党の際に協力した外国人2人(シーモア教授ら)も招かれた。

結党時からの党員は、現在では政府や党の上層部になっている人も多いが、ほとんどは屋台引きなどの庶民層。当初は青年聯盟の成立大会だけを行うとしていたが、わりと直前になって突然やはり記念式典を主体にすることに切り替えた。このあたりの行き当たりばったりさは台湾人ならでは。
ただ、それはそれとして、式典自体は、けっこう良かったと思う。
陳水扁総統は来賓祝辞として、1.新憲法制定、2.台湾名による国連加盟申請、3.国民投票による国民党の不当資産追討の3点を今後の重点項目としてあげるとともに、「中国と台湾は完全に異なる国」と指摘した。
また、游錫コン・党主席は、民進党が今後10年で取り組むべき課題として、「台湾を普通の国にすること」を挙げ、台湾においてはすでに族群の問題は存在せず、アイデンティティの混乱を解決し、台湾アイデンティティを確立することが必要だと指摘した。
ほかにも行政院長の蘇貞昌、高雄市長候補の陳菊、台北市長候補の謝長廷らも演説、途中に民進党結党大会の記録ビデオが放映された。ここで、陳水扁(短期投獄)と陳菊(美麗島事件で投獄)は当時まだ獄中にあったことを注意する必要があるだろう。
ビデオでまだまだ若かりしころの游、蘇、謝が出てくる場面や、各人の演説の前後における、会場の拍手の大きさを観察していると、なんと謝長廷が一番大きかった。もともと地盤の台北市の党員が多いためもあるかも知れないが、民進党内の人脈・基盤経営という意味では、謝長廷が一日の長があるためだろう。游錫コンへの拍手の大きさは二番手だった。蘇貞昌はパラパラ。
聯合報や中国時報あたりは、「蘇が圧倒的に人気があって、游、謝はあまりない」と書き立てていて、それを信じ込んでいる人がわりといるようだが、それには大いに疑問がある。そもそも、聯合報や中国時報の民進党関係の報道はウソばかり書いているわけだから、「逆神」というか裏読みする必要があるのではないか?
もっとも、私自身は蘇貞昌もそれほど嫌いではない。行政能力というか細かな目利きという点では一番だろう。だが、あまり哲学は感じられない。そういう点では、陳水扁と似ている。
一方では、游錫コンにも魅力があって、たしかにそれほど奥の深さはないものの、農民経験もあり、地に足がついていて素朴で独特の味わいがあるし、謝長廷はよく勉強していて哲学もあるという点で、決して無視できないはずである。
ここで、話を游錫コンに戻すと、彼がアイデンティティの部分にやたらこだわったのは、16日の「台湾社」の集会で同主席が赤シャツ隊の「陳水扁打倒」運動について、「中国人が台湾人をいじめている」と批判したことについて、野党系のメディアはもちろん、党内で「族群対立を煽るもので、民進党が04年に採択した族群平等の決議文に反する」という的外れな批判に応える意味があった。
「中国人が台湾人をいじめている」というのは明らかにアイデンティティとしての中国(中華人民共和国も受け入れる)と台湾の意味であって、族群としての外省人VS本省人の話ではない。中国人=外省人の意味ではない。
そんなことは現状の台湾では当たり前のことで、いまどき、統一派・中国意識と外省人とは必然的関係がなく、外省人の若い世代の多くは「中国人ではなく台湾人」という意識のほうが多い。
事実、先日、台湾のテレビ討論番組で、林正杰が金恆[火韋]を殴りつける事件があったが、この場合両方とも血統的には外省人であるが、林が統一を主張して、金が独立を主張するなど、アイデンティティは完全に逆である。
また、外省人の中には、明確に独立派で台湾人・反中国の立場を示す人がかなり多く、ほかにも謝志偉、陳師孟、周玉寇、黄光芹らもそうだ。
その反対に、「血統」ではホーローのはずだが、台湾人であることを否定して、中国人にアイデンティティを持ち統一を強硬に主張している陳映真、陳明忠らの例もある。
つまり、「中国人が台湾人をいじめている」といったからといって、それは「外省人が本省人をいじめている」意味に解釈できないのである。
だから、游錫コンの発言をもって「族群への偏見と対立を煽る」という批判は、まったくの的外れである。
それどころか、「中国人と台湾人」という言葉を聞いて、即座に「外省人と本省人」を連想し変換し、「族群対立だ」と決め付けている人のほうが、むしろいまだに族群対立意識を持っているだけのことである。
まあ、しかし最近、台湾ではこの手のパターン、すなわち「自分のほうが当てはまっている悪い癖を、他人になすりつけて論難する」輩がやたら多いなあ。国民党教育が利いているんだろうか?
「反腐敗、陳水扁打倒」運動を見ても、「副総指揮」をやっていた女性は、地方議会議長選挙をめぐる買収事件に関与して有罪が確定しているように、「おまえが腐敗反対をいう資格があるのか?」という類の人物がやたら多い。「陳打倒」運動を指揮している施明徳も、女性との不倫、ハデな女性遍歴、金遣いの荒さ、借金踏み倒しなど、素行の問題が指摘されている。張富忠も妻が陳水扁政権下で長年教育部次長(日本の昔の文部次官)を務め、学校新設をめぐって収賄疑惑が指摘されている。さらに、運動に参加したのは多くが国民党反動派の議員であり、肉親や本人が不正まみれである。むしろ、自分のほうが真っ黒けっけで、怪しいからこそ、話題をそらすべく、自分の疑惑を相手に擦り付けて、ウソも百万回つけば真というべく大騒ぎする。
今回游錫コンを「族群対立を煽る」と批判した人間も同じことである。要するにそんなこといっている本人が「中国人と聞けば外省人を連想する」という族群意識にとらわれているだけのことである。
ただし、アイデンティティにこだわり、「台湾意識を今後10年で定着させる必要がある」という主張にも、問題があると思う。前回の記事でも指摘したように、アイデンティティももはや解決されているからだ。
別に民進党が叫ぶまでもなく、いまや台湾住民の9割は「台湾は中国と違う独自の国」という意識を持っている。もちろん、その中にもグラデーションともいえる微妙な違いがあって、左は中国との文化的紐帯を完全に断ち切ろうとする考えから、右は戦後の「中華民国」体制や外省人が持ち込んだものをできるだけ守ろうとするまで、さらにその中間にさまざまな濃淡と段階がある。しかし「中華人民共和国とは異なる民主体制を確立した」という点では、前記の左も右も一致していて、それが9割を占めている。そういう意味での台湾アイデンティティはもはや確立されている。むしろアイデンティティを必要以上に叫んで、その中にあるニュアンスや重点の違いをあまりつつくのは得策とは思えない。
実際、游錫コンがアイデンティティ問題を強調していた間、会場にいた若者たちの反応を見ていると、かなり白けた空気が流れていた。
それは彼らの台湾アイデンティティが薄いからでも弱いからでもない。逆に、国民党教育を受けてきた游錫コンの世代よりもさらに、素朴かつ強烈に台湾と中国は違う国だという確信を持っている。いやむしろそうだからこそ、台湾の若者にとって中国が「完全な外国」になっており、むしろ中国を過度に意識することに違和感を感じたり(「なんでそんなに中国にこだわるの?単なる外国の一つでしょ?」みたいに。日本人が韓国人の建前論としての過剰な反日論に違和感を感じるのと似ているかもしれない)、台湾アイデンティティのスローガンを叫ぶことに、物足りなさを感じているのではないのか?
そういう点では、アイデンティティを強調するやり方も疑問があるし、現実には意味がない。現在の世論や民意は、そういう意味で民進党よりはるかにラジカルかつ急激に「台湾主体意識」を確立してしまったのだ。
だから民進党が台湾アイデンティティを語るときに、若者を中心とした支持者、多くの大衆は、「その先」を期待しているのである。
「台湾は中国と異なる国だ」というなら、どういう意味で異なるのか、異なる内実を充実させることが望まれているのだ。こうした民意に民進党は応えていないような気がする。
出席したのは、結党時からの党員363人と、青年民主聯盟代表約100人。結党の際に協力した外国人2人(シーモア教授ら)も招かれた。

結党時からの党員は、現在では政府や党の上層部になっている人も多いが、ほとんどは屋台引きなどの庶民層。当初は青年聯盟の成立大会だけを行うとしていたが、わりと直前になって突然やはり記念式典を主体にすることに切り替えた。このあたりの行き当たりばったりさは台湾人ならでは。
ただ、それはそれとして、式典自体は、けっこう良かったと思う。
陳水扁総統は来賓祝辞として、1.新憲法制定、2.台湾名による国連加盟申請、3.国民投票による国民党の不当資産追討の3点を今後の重点項目としてあげるとともに、「中国と台湾は完全に異なる国」と指摘した。
また、游錫コン・党主席は、民進党が今後10年で取り組むべき課題として、「台湾を普通の国にすること」を挙げ、台湾においてはすでに族群の問題は存在せず、アイデンティティの混乱を解決し、台湾アイデンティティを確立することが必要だと指摘した。
ほかにも行政院長の蘇貞昌、高雄市長候補の陳菊、台北市長候補の謝長廷らも演説、途中に民進党結党大会の記録ビデオが放映された。ここで、陳水扁(短期投獄)と陳菊(美麗島事件で投獄)は当時まだ獄中にあったことを注意する必要があるだろう。
ビデオでまだまだ若かりしころの游、蘇、謝が出てくる場面や、各人の演説の前後における、会場の拍手の大きさを観察していると、なんと謝長廷が一番大きかった。もともと地盤の台北市の党員が多いためもあるかも知れないが、民進党内の人脈・基盤経営という意味では、謝長廷が一日の長があるためだろう。游錫コンへの拍手の大きさは二番手だった。蘇貞昌はパラパラ。
聯合報や中国時報あたりは、「蘇が圧倒的に人気があって、游、謝はあまりない」と書き立てていて、それを信じ込んでいる人がわりといるようだが、それには大いに疑問がある。そもそも、聯合報や中国時報の民進党関係の報道はウソばかり書いているわけだから、「逆神」というか裏読みする必要があるのではないか?
もっとも、私自身は蘇貞昌もそれほど嫌いではない。行政能力というか細かな目利きという点では一番だろう。だが、あまり哲学は感じられない。そういう点では、陳水扁と似ている。
一方では、游錫コンにも魅力があって、たしかにそれほど奥の深さはないものの、農民経験もあり、地に足がついていて素朴で独特の味わいがあるし、謝長廷はよく勉強していて哲学もあるという点で、決して無視できないはずである。
ここで、話を游錫コンに戻すと、彼がアイデンティティの部分にやたらこだわったのは、16日の「台湾社」の集会で同主席が赤シャツ隊の「陳水扁打倒」運動について、「中国人が台湾人をいじめている」と批判したことについて、野党系のメディアはもちろん、党内で「族群対立を煽るもので、民進党が04年に採択した族群平等の決議文に反する」という的外れな批判に応える意味があった。
「中国人が台湾人をいじめている」というのは明らかにアイデンティティとしての中国(中華人民共和国も受け入れる)と台湾の意味であって、族群としての外省人VS本省人の話ではない。中国人=外省人の意味ではない。
そんなことは現状の台湾では当たり前のことで、いまどき、統一派・中国意識と外省人とは必然的関係がなく、外省人の若い世代の多くは「中国人ではなく台湾人」という意識のほうが多い。
事実、先日、台湾のテレビ討論番組で、林正杰が金恆[火韋]を殴りつける事件があったが、この場合両方とも血統的には外省人であるが、林が統一を主張して、金が独立を主張するなど、アイデンティティは完全に逆である。
また、外省人の中には、明確に独立派で台湾人・反中国の立場を示す人がかなり多く、ほかにも謝志偉、陳師孟、周玉寇、黄光芹らもそうだ。
その反対に、「血統」ではホーローのはずだが、台湾人であることを否定して、中国人にアイデンティティを持ち統一を強硬に主張している陳映真、陳明忠らの例もある。
つまり、「中国人が台湾人をいじめている」といったからといって、それは「外省人が本省人をいじめている」意味に解釈できないのである。
だから、游錫コンの発言をもって「族群への偏見と対立を煽る」という批判は、まったくの的外れである。
それどころか、「中国人と台湾人」という言葉を聞いて、即座に「外省人と本省人」を連想し変換し、「族群対立だ」と決め付けている人のほうが、むしろいまだに族群対立意識を持っているだけのことである。
まあ、しかし最近、台湾ではこの手のパターン、すなわち「自分のほうが当てはまっている悪い癖を、他人になすりつけて論難する」輩がやたら多いなあ。国民党教育が利いているんだろうか?
「反腐敗、陳水扁打倒」運動を見ても、「副総指揮」をやっていた女性は、地方議会議長選挙をめぐる買収事件に関与して有罪が確定しているように、「おまえが腐敗反対をいう資格があるのか?」という類の人物がやたら多い。「陳打倒」運動を指揮している施明徳も、女性との不倫、ハデな女性遍歴、金遣いの荒さ、借金踏み倒しなど、素行の問題が指摘されている。張富忠も妻が陳水扁政権下で長年教育部次長(日本の昔の文部次官)を務め、学校新設をめぐって収賄疑惑が指摘されている。さらに、運動に参加したのは多くが国民党反動派の議員であり、肉親や本人が不正まみれである。むしろ、自分のほうが真っ黒けっけで、怪しいからこそ、話題をそらすべく、自分の疑惑を相手に擦り付けて、ウソも百万回つけば真というべく大騒ぎする。
今回游錫コンを「族群対立を煽る」と批判した人間も同じことである。要するにそんなこといっている本人が「中国人と聞けば外省人を連想する」という族群意識にとらわれているだけのことである。
ただし、アイデンティティにこだわり、「台湾意識を今後10年で定着させる必要がある」という主張にも、問題があると思う。前回の記事でも指摘したように、アイデンティティももはや解決されているからだ。
別に民進党が叫ぶまでもなく、いまや台湾住民の9割は「台湾は中国と違う独自の国」という意識を持っている。もちろん、その中にもグラデーションともいえる微妙な違いがあって、左は中国との文化的紐帯を完全に断ち切ろうとする考えから、右は戦後の「中華民国」体制や外省人が持ち込んだものをできるだけ守ろうとするまで、さらにその中間にさまざまな濃淡と段階がある。しかし「中華人民共和国とは異なる民主体制を確立した」という点では、前記の左も右も一致していて、それが9割を占めている。そういう意味での台湾アイデンティティはもはや確立されている。むしろアイデンティティを必要以上に叫んで、その中にあるニュアンスや重点の違いをあまりつつくのは得策とは思えない。
実際、游錫コンがアイデンティティ問題を強調していた間、会場にいた若者たちの反応を見ていると、かなり白けた空気が流れていた。
それは彼らの台湾アイデンティティが薄いからでも弱いからでもない。逆に、国民党教育を受けてきた游錫コンの世代よりもさらに、素朴かつ強烈に台湾と中国は違う国だという確信を持っている。いやむしろそうだからこそ、台湾の若者にとって中国が「完全な外国」になっており、むしろ中国を過度に意識することに違和感を感じたり(「なんでそんなに中国にこだわるの?単なる外国の一つでしょ?」みたいに。日本人が韓国人の建前論としての過剰な反日論に違和感を感じるのと似ているかもしれない)、台湾アイデンティティのスローガンを叫ぶことに、物足りなさを感じているのではないのか?
そういう点では、アイデンティティを強調するやり方も疑問があるし、現実には意味がない。現在の世論や民意は、そういう意味で民進党よりはるかにラジカルかつ急激に「台湾主体意識」を確立してしまったのだ。
だから民進党が台湾アイデンティティを語るときに、若者を中心とした支持者、多くの大衆は、「その先」を期待しているのである。
「台湾は中国と異なる国だ」というなら、どういう意味で異なるのか、異なる内実を充実させることが望まれているのだ。こうした民意に民進党は応えていないような気がする。