1992年11月29日(日)
朝目ざめたのは、6時頃であったろうか。
年寄りの早起きというのか、眠りが浅いというのか、この頃大ていの朝は明け烏の一声、ニ声で目ざめることが多い。
平成4年11月29日のこの朝も、そうであった。
そしてここは、いつもの朝霞の家ではないことに気づく。
実は、明朝の納骨時間が早いということで、昨夜は狭山湖のほとりのKホテルというところに泊まったのである。
狭山湖畔を豊の墓碑の候補地としたのは、豊の葬儀が終わってまもなくであったから、この年、平成4年5月のことであったと思う。
長男と豊の奥さんとであちこち見て歩き、その中で、ここが一番よさそうだということを私はきいていた。
豊の墓所が、いつ、どこに完成するかは、早くからファンの方々やマスコミの方からもお問い合わせを頂きながら、明快にお答えできなかった。
その理由はやはり、護国寺の3万人の人出のイメージが我々家族の頭を離れなかったことに尽きる。
つまり、「いつ、どこで」と早くから報道されたとしたら、広いといっても墓地のことである。
当日どっとファンの方がこられたら、どんなパニックや人身事故が起こるか予測できない。
そこで、「いつ、どこで」は絶対公表せず、納骨をすますことにしたのである。
工事途中の、まだコンクリートが固まらない間に近寄られることも心配であった。
しかしこのことは、一部マスコミの方などに疑問をもたせる結果にもなった。
何か隠している。さては遺骨のとり合いか。莫大な ―実はそんなものはないのだが― 財産をめぐる確執か。
報道される20億円の遺産総額が見るまに50億円になってしまった。
「本当だったら嬉しいネ」
と悪意はないが、この噂の一人歩きに身内の者は戸惑いがちであった。
雨脚は幾分弱くなったようであるが、まだ降り続いている。
午前8時、車をつらねて霊園に向かう。
ガソリンスタンド目で左に細い道を入ると、道はいきなり左右に分かれる。
よく見ると霊園への案内標識が出ているが、道になれた運転手さんは見ることもない。
道を右に折れ急な坂道を登り切ると、すぐその左側に豊の墓碑が完成していた。
特に公表はしなかったのに、数社の報道人の方とファンの方らしい一団が遠まきに雨の中で静かに待っておられた。
短い読経が、まさに終わろうとした時であった。
突然、雲が切れ、清澄な朝日が、右手の空の一角から私達の目を射た。
「生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 ―放熱への証― 尾崎」
墓碑は一瞬、光り輝いているように見えた。
引用:尾崎豊 卒業