また、気持ちのある方は、はてなブログの ” かたつむりつれづれ ”を訪ねて下さいね。
体調が思わしくありません。猛暑のためか?
入院はしていませんが、自宅で療養します。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
梅雨明けの真夏日
ちょっと、まいっている。
部屋のなかは、一日クーラーを付けっぱなしにしている。
つねに,27℃か26℃にしているが、ぼくのパソコンがあるところの
部屋は窓際で、あまり冷えていない感じがする。
ぼんやりしているので、入力したものを消してしまうこと、2回。
根気もなくなってきた。眠い。ベットでよこになると、いつか
眠っている。
真夏日が身体に影響しているのか。
一日、1回の散歩、近くの大手スーパアーでクーラーのなかで
歩いているが、息切れがはげしい。
無理はしないようにしている。
一週間前に、40年来の友人が夫妻で病気見舞いに来てくれた。
7,8年経つか、そのころ40年暮らしていた集団を離れるか
どうかで迷っていた。60歳越えた頃だった。
そのとき、真剣に、なんども、ときに激しく止めてくれたのが、この友人
だった。彼は、ぼくより何歳か年上。
そのとき、意見が違うというより、意見は違っても友人との間に、
人としての親しさと、切てもきれない情を感じた。
一時的に離れても、いつか理解し合える日が来るだろうと、確信して
離れる決断をした。自分の足で立った、という実感があった。
8年前と言っても、早いものだ。
その間、ぼくの疾患はずいぶん進んだ。
会えば、その時の感覚が蘇る。
回想も交えながら、今の自分たちのそれぞれの話に及んだ。
友人は一つ前の世代との関係が上手くいっていないようだった。
「その人たちは、それまでやってきたこと否定して、新しくその
集団の運営をやっていこうとしてる」と説明してくれた。
「運営ややることなど、いままでのシステムをなかったことに
したいみたいなようだった」と奥さん。
「形やシステムを重視する時期がつづいたが、実際は、そのこと
より心の世界の探求をしたかった」と聞いた。
その人たちと、話し合いができない。困っているようだった。
話しのなかで、40年命をかけてやったきたことは何だったんだろう
と思うときがある」とも、漏らしていた。
身近な人たちとは、そんな話が出来る雰囲気ではなさそうだった。
8年前、集団を離れるとき迷ったのは、そういう自問がぼくにも
あった。
友人も奥さんも、いろいろ頑張ってやってきたけど、本当にやり
たかったのは、システムや形をととのえるとではなく、やること重視のときもあった
けど人と人の間の心の世界が通い合う社会を描いてやったきたという。
「ああ、そうだったんだ!」と共鳴した。
友人は、今、仕事ややるべきことがあるわけではない。
やることは、若い人たちで出来る。
いまこそ、身近な仲間と心と心を結びつかけてくことが、こころ
おきなく出来る立場になっているんじゃないかなと、思った。
7年間のぼくの体験も話した。
友人はジッと聴いてくれていた。
「そこのところ、これから自分で深めていかなくちゃと思っている」と
友人の反応」
そこは、ぼくも最近まで、気がついていなかった、気持ちの奥のもの
だった。
「いやあ、先ず自分が深まってというより、身近な仲間と、本音で本心で
こんなこと笑われるかというようなことも、気楽に出しながら、お互い
に気づいていくというのが無理のない自然な人の姿かなと、思うように
なってきたんだ」
ちょっとした、じぶんのなかの心理状態だけど、ここには、先ず、
自分を開放する面白さがあると思う、と友人に率直に体験を言わせて
もらった。お互い成り合っていくこと。
「この体験をしてみませんか?」と、友人がまだこだわっているんじゃ
ないかと思う話題を出してみた。
友人は「組織の一員であり、組織と自分は一つであり、個人として
というのは、いまのぼくにはできない」とありのままの気持ちを出して
くれた。
貴重な話し合いだった。
少し、胸のつかえも下りた感じがした。
「こんな話しを本当はしたかったんだ」と友人も奥さんも感想を
残してくれた。
ぼくも、そうだったなあ、とつくづくおもった。
二人とは、ハグして分かれた。とても強くて、言葉ではない、親しさ
を感じた。
鈴鹿地方は、昨日までの大雨嘘のように晴れ上がった。
全国では、九州、西日本、四国、岐阜と洪水や土砂災害でどうして
いいか詰まっている人が多数いるのに。
昨日は雨だったが、小止みのとき、傘さして散歩を試みた。
外に出たところ、大粒の雨になり、引きかえした。
傘にあたる粒の音を聞くと、子どものころから、なにかワクワクする。
保育園のころ、突然雨が降りはじめ、どうなるかなと思っている
ところに、たくさんの出迎えの中にお母さんを見つけたときの嬉しさ。
「蛇の目でお迎え嬉しいな、ピチピチチャプチャプ、ランランラン」
という記憶がある。
最近、ブログを見ていたら、ルイ・アーム・ストロングの「素晴らしい
世界」に歌詞がでてて、鮮明に飛び込んできた。
以前に見なかったわけではない。今回は、違った。
※ What a Wonderful World
I see trees of green, みどりの木々が見える
red roses too, 赤いバラの花たちも
I see them bloom, それらが 咲き誇っている
for me and you. あなたと わたしのために
And I think to myself... そして わたしは思う
what a wonderful world. なんて素晴らしい世界なんだ、と
I see skies of blue, 青い空が見える
and clouds of white, そして 白い雲たちも
The bright blessed day, 明るい 幸福な昼も ※
the dark sacred night. 暗い 神聖な夜も ※
And I think to myself... そして わたしは思う
what a wonderful world. なんて素晴らしい世界なんだ、と
The colors of the rainbow (七色の) 虹の色が
so pretty in the sky, とてもきれいに 空に架かって
Also the faces of people going by. 通り過ぎる 人々の顔も(同様に)
I see friends shaking hands, 友だちが 握手しているのが見える
say how do you do? 「ごきげんいかが?」と言ってる
They're really saying, 彼らは本当に そう言っているんだ
I love you. 「あなたが好きだ」と
I hear babies crying, 赤ん坊の 泣く声を聞きながら、
I watch them grow, 彼らの 成長を見守っている
They'll learn much more 彼らは もっと多くのことを学ぶだろう
than I'll ever know. わたしが知っているよりも (ずっと多くのことを)
And I think to myself... そして わたしは思う
what a wonderful world. なんて素晴らしい世界なんだ、と
Yes, I think to myself... そう、わたしはこう思うんだ
what a wonderful world. なんて素晴らしい世界なんだろう、と
これに、英語の歌詞とアームストロングの歌がアップされていた。
英語はやさしく、それでいて心にイメージを広げてくれた。
https://www.youtube.com/watch?v=A3yCcXgbKrE&feature=youtu.be
アーム・ストロング、もうこの世はいない。
歌が今に生きている。
もう記憶のむこうにある黒人差別や貧困をあげつらてもしかたないかも
しれない。
いまの社会の現実が、困難や自分が望まないことになっていて、
どうしようもないと思っているなら、その自分が見ている現実の
世界の向こうにこの「素晴らしい世界」が実際にあるんだぜ、と
アーム・ストロングから、呼びかけられていると感じた。
「素晴らしい世界」が実際なんだ。