かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

満タン

2017-06-14 10:34:54 | 鈴鹿カルチャーステーション企画に参加して

6月10日午後、鈴鹿カルチャーセンターで「叱らない子育て」という

セミナーがありました。

講演者は、愛知県の小学校で子どもたちとかかわって暮している現役

の先生です。

新間(あらま)草海先生。

若い感じですが、もう40歳越えているかな。

本名は伏せておきたいと言っていました。

30歳から学校の先生になることを目指し、今は学級担任を任せて

もらえるまでなったそうです。

どんなこと聞けるか、楽しみでした。この先生の20代のころを

少しだけ知っていました。

講演会の始まる時間に出かけたら、大広間に人がぎっしり。

70人ぐらい、入っていたんじゃないかな。

地域の若いお母さんも結構来ていて、関心の高さを目の当たりに

しました。


「叱らない子育て」というのが、気に入らないという”ぼやき”から

入りました。

こういう講演会ははじめてで、緊張していると言っていましたが、

なかなかどうして聞いている人の気持ちを引き付けていました。

「なにも、叱らないことがしたくて、子どもたちとともに暮して

いるわけじゃないんです」・・どんなことがしたいんだろう?


学級担当は、学期末、校長さんが来期担当するクラス名が書いて

ある封筒を先生方の前において、それぞれの先生に選んでもらう

のだそうです。どの学校もそうかどうかは、分かりません。

ある年、新間先生が行ってみると、一つの封筒だけに新間先生の

名前が書かれてありました。

この封筒を見てみると、前学期、学級崩壊をしていたと見られて

いたクラスだったそうです。

同僚の先生方から、「たいへんねえ」とか「頑張って」とか声を

かけられて、戸惑った言います。

「どうなるかな?」と言う気持ちもあって、新学期がはじまり

ましたが、子どもたちは一人ひとり、とても元気に勉強をして、

よく遊び、学期末には「先生ありがとう」というメッセージを

たくさんもらいました。

なんで、こんなことになったのか、いまでもよく分かりません、

と振り返っていました。


おもしろいですね。

そんな1年を過ごした先生が、なぜそんなふうになったか、首を

傾げているんです。気がついてみると叱ったことがなかった。

 

たしかに、講演のはじめに「子どもにはこころがある」って、かなり

大きくスクリーンに映していました。キーワードではあるのでしょう。

見ていた人はどう、うけとったでしょうか?

ぼくは、なんとなく「そうだよな」と思いました。

こういうことは、結構いろいろなところで言われているんじゃないで

しょうか?

でも、実際の場面ではどんな現れをするかとなると、こころもとないです。

 


あらま先生は、子どもと過ごした日々のやりとりを、ありのまま、率直に

語ってくれました。

算数の時間、ある子がお腹が痛いと訴えてきました。なんでも、教壇の

前まで出てくるようです。当然、授業はストップします。

「どんなふうなの?」と聞いたりしていると、10分ぐらいはかかって

しまいます。

そこで、思いついたのが、笑っている顔が1、しかめつらのような顔が3、

もう痛くてたまらないとような顔を5にして、、この3つを絵を描き、

1から5まで番号をつけました。

お腹が痛くなった子には、「どの辺?」と聞くと、「4と5の間」とか

指差します。5だったら、保健室に行くことになります。

その子は、算数が分からないので、お腹が痛くなるみたいでした。


(「そうか、そういうこともあるのかもしれない」と思いました。)


それが、展開して、その表を使って、子どものこころの状態を、

「いまどの辺?」と子どもに指差してもらう関係ができたようです。

おもしろいです。

子ども自身が、「いまのぼくの状態は?」と難しいことばでいえば

観察する方向なんですね。

 

それから、聞いていて面白いとおもったのは、朝の出発にあたって、挨拶

をするとか、先生の話とか順番にしていくのですが、最後に「まんたん」と

コーナーがあるというのです。

あらま先生、突然、聴いている参加者に、「まんたん」ってどんなことだ

と思いますかと振ってきました。

「ちょっと、隣の人と考えてみてくれますか?」

軽い調子で声かけました。

(あらま先生、こんな感じで子どもたちとやっているのかなあ・・・)

 

聞いている人たちが、「???」でいるところで、解説。

「まんたん、っていうのは、いま、こころが満タンかどうか。いま、

満タンにしてみよう、ってやるんです」

これを2分ぐらい、子どもたちにやってもらうんです」

(なるほど・・・)

「もちろん、その朝、いろいろあって、満タンになっていないことが

あってもいいんです。満タンがこころの中で、浮かんできていたら」

「いやあ、この満タンって、わが身を振り返るのに、うまいコトバだ

なあ」と響きました。

 

子どもたちが、案外、先のことや、こうやろうということが分かって

いないんだなあと気がついたそうです。子供たちは、つねに不安な

気持ちですごしているんじゃないか。

あらま先生、そこで朝とかクラスの終わりに、これから何があるのか、

どこがポイントか、何をしたらいいかなど、何日もかけて説明したという

のです。先のことが分かってくると、それぞれの子は自分でその準備を

するということでした。

なんか、おまけにあらま先生のクラスの学力も、まあまあ良かったとか。

 

あらま先生が一貫してこころを傾けていたことがあったんだな、と

伝わってきました。


あらま先生のお話のあと、今回のセミナーを企画しておふくろさん弁当」

の社長係の岸浪龍さんから、お弁当屋さんの会社経営の話がありました。

人と人の間で、責めたり、やらせたり、やらされたりの関係が気がついて

みると、無くなっているということでした。

あらま先生のクラス運営、学級経営とも響き合って、世界が広がりました。

龍さんが最近、各地から招待されて、講演会をしていますが、ぼくは聞くのが

はじめてで、あった話をしていくので、聞きやすかったです。

 

講演会のあと、質問コーナーがありました。

あるお母さんはあらま先生が「学級崩壊したっていい」と発言したことに、

「なぜそう思うのか聞かせてほしい」と訪ねました。

あらま先生「学級崩壊といっても、たんなるイメージだとおもっています。

実際は、クラスの一人ひとりの子どもたちがいるだけなんでよね」

なにか、はっとするものがありました。

 

「叱らないとか、責めないという話はきいたんですが、褒めるというのが

出てこなかったのですが、そのへんはどう考えていらしゃいますか?」

あらま先生「そうですね、子どもらが何かやったり、考えたりしている

ことを見たり、聞いたりしたとき、ああ!とかおお!とか、感嘆符は

でてきますが、褒めようとおもったことはないですね。その子は、その子

として、”満タン”なっているかどうか、じぶんもその一人として、やって

いきたいとはおもっています」


あらま先生の子どもたちとの日々の体験談から、先生がこころしている

辺が伝わってきて、そこから新しい自分や学校や社会への出会いが

ありました。

こういう体験が、学校、父母、教育の関係者、そうですね、直接かかわっ

ている人でなくとも、伝わったら、いろいろ顧みて、検討するキッカケに

なるかも知れません。



そうそう、このセミナーに地元のケーブルテレビの方が取材に

来られていました。

よかったら、見てください。

 https://www.youtube.com/watch?v=hX53F_LDtLg&feature=youtu.be



おかしなはがきが山猫から・・牛丸先生<宮沢賢治講座>

2011-07-31 22:16:57 | 鈴鹿カルチャーステーション企画に参加して
 7月31日の午後、真夏にしては、気持ちのよい風が火照った頬を通り過ぎて行く。
 その日の演題は、宮沢賢治作「どんぐりと山猫」
 牛丸先生は、鈴鹿の中央病院から、息子さんのお嫁さんが運転する車で、じかに鈴鹿カルチャーステイションにやってきた。

 セミナールームの席について、一呼吸。
 「今は、病院で避暑生活しています。今日は、話しに行けるかなと思っていました。
 それでも、ベットから立ったら、立てたので、来ました。どこまでもつか・・・
 さっそく、はじめましょうかね」


 聴講の人の手元には、「どんぐりと山猫」全文がある。これは、孫娘がパソコンで入力したそうだ。
孫娘には、アルバイト料を前渡ししてあるそうな。ただし、誤字・脱字があるときは、一字千円の
ペナルテイーがあるという。さて、この日は・・・

 「では、今日はズルをして、作品はみなさんがめいめい、自分で声を出して読んでみてください。
そして、みんなで感想を出し合ってみてください。・・でも、みんなから出なかったポイントについては、
私から、いじわるい見方を出すようにしますから、そのつもりで・・では、はじめてください」

 「おかしなはがきが、ある土曜日の夕方、一郎のうちにきました。

    かねた一郎さま 九月十九日
    あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
    あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい。
    とびどぐもたないでくなさい。
                   山ねこ  拝

 こんなのです。字がまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらいでした。
 けれども一郎はうれしくて、うれしくてたまりませんでした。
 はがきをそっと学校のかばんにしまって、うちじゅうとんだりはねたりしました。
  ね床にもぐってからも、山猫のにゃあとした顔や、そのめんどうだという裁判の
 けしきなど考えて、おそくまでねむりませんでした」

 はじめ、参加者の声は、低かったけど、だんだん大きくなったようです。
 この一節で、感想を出し合いました。
 「手紙が来たということ自体うれしい」
 「プレゼントをもらうとき、中身を見る前から、嬉しい気持ちになるみたいに・・」

(この日、韓国からも、宮沢賢治に関心があるといって、聞きにきました。左の人)

 牛丸先生「いろいろ出してもらったけど、もっとも大事なポイントが、まだでていないんだなあ・・」
 参加者、めいめい首をひねる。
 しばらくして、牛丸先生。
 「書きだしのところ、<おかしなはがき>、これが冒頭に出てくる。ここんとこ、<おかしな>というとこ ろ。そこで、この一節のところで<おかしな>ところ、あげてみてください」

 また、めいめい「はがきの文章がおかしい」「はがきの日付かな?」とか、出てきた。
 先生「もっと、おかしなところがあるんだなあ・・・・この手紙には、おいでくださいと言っているけど、 肝腎の場所が書いていない」

  「どんぐりと山猫」という作品に関心がある方は、ぜひお読みください。
 その場に居合わせた一人ひとりは、<おかしな>な世界に先生と引き込まれて行ったのだった。
  <おかしな>を辞書で引くと、
   1、笑いだしたくなるような。滑稽な。
   2、常識では信じられないような。妙な。変な。

(写真は、岩合光昭さん「ネコさまとぼく」から)

 最後に、先生のコメント。
 「文章には、表れていないが・・
  どんぐりが木から落ちて、姿形を維持できるのは、せいぜい一カ月。
  動物・雨・霜・雪などによって消えたり、変形してしまう。
  はかない一生の中で、仲間と争う愚かさ・・
   賢治は人間についても、同じ思いをこめているように思われる」

(「どんぐりと山猫」は、童話集「注文の多い料理店」のなかに収録されている。大正13年発行)

 次回は、8月28日。
 「担当の医師が、カルテの隅に、「8月28日」と書いてくれるんですね。
 今日は、病院の職員さんも、聞きに来てくれました」
  
  そうそう、次回の作品は?
  宮沢賢治作「オッペルと象」
  
  (たのしみで、うれしくて、ねむりませんでした)
  今夜の、自分はどうなるだろう?










 

牛丸仁先生の講座、「生きる物語」に参加して

2011-07-11 07:28:57 | 鈴鹿カルチャーステーション企画に参加して
 児童文学者の牛丸仁先生は、30代のころ、信州大学付属小学校の教師をしていた。7月9日夜、その時代牛丸先生が受け持った生徒たち10人(男の人6人、女の人4人)が各地から集まって来て、同窓会が鈴鹿で開かれた。坂井和貴さんも、そのなかの一人。息子の牛丸信さんも加わっていた。
 翌日、10日朝10時から、「生きる物語――自分が自分らしく生きるために」と題して、牛丸先生の特別講座が鈴鹿カルチャーステイションであった。同窓会に参加した教え子の外にも、鈴鹿に住む人たちも30人ほど集まった。平井くんが、即時の動画配信もセットしている。中村聡くんは、カメラマン。


 「いやあ、昨夜は教え子たちが牛丸記念館を建てるみたいな話も出て、興奮して、2時ぐらいまで、寝付けなかったんだなあ・・」牛丸先生の語りが始まった。
 「前半は、理屈っぽい話になるけど」と前置きしながら、「生きることは、物語をつくること、物語をつくるというのは生きること、言葉をもった人間にしかできないんだあ、これは・・」と、つなげた。
 人が物語をつくって成長していく段階を、
 1、無物語期(幼児時代)
 2、物語準備期(小学校時代)
 3、物語草創期(中高時代)
 4、物語自立期(成人時代)
 5、物語週末期(高齢者時代)
に分けて、語られた。
 小学校時代のくだりでは、先生は「ねずみもち」という小冊子を掲げて、「これは今日ここに来ている教え子たちが書いた、小学校卒業するときの文集です。自分が30歳になったとき、どうなっているか描いてみようというタイトルなんですね・・」と言いながら、そのうちの二編を読まれた。はじめは、名前を言わないで読む。「ぼくは、電気技師になっている。中年太りになっている」みたいな内容。牛丸先生、教え子に「自分が書いたと言える人いない?」と聞く。だれも、応えない。先生は、その子の名前を言った。その方は、いまは電気技師ではなく、大学教授。中年太りというよりは、どちらかと言えば細身の人だった。会場はなごやかな笑いに包まれた。


 中盤で、テイータイム。

「子どもの頃、親から、おまえは家の子じゃない、橋の下から拾ってきたんだと聞いている子が、結構いたんだね。ぼくの友達で、それを高校生の頃まで信じていた奴がいた・・」
 いよいよ、牛丸先生らしい語り口で、先生ご自身の物語が語られた。
 牛丸先生は、出生直後、実の親から手放されて、親類ともいえない家庭に預けられ、そこからまた子どものいない夫婦のところに引きとられるという経緯があったという。「5歳までの自分がどうだったのか、空白なんですね」と述懐された。この空白が、牛丸先生にとって、生きる物語の核心になるのかな。
 
 木曽の小学校を卒業するとき、担任の先生が県立中学校への進学を熱心に勧めてくれた。それだけの余裕がないと思っていたが、先生が育ての親を説得してくれた。このとき、教育がどんなものか、その先生を通して、受けるものがあった。
 
 高校生の時、校長室を掃除していた時。威厳のある校長先生から、壁に掛かっていた額の島崎藤村の手紙読んでみろと声かけられて、縮みあがったそうな。読めるはずが無い。校長が読んでくれた、
 「誰か旧き生涯に安ぜんむとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思えるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」
 これが、先生の文学へに開眼になった。

 「奨学金をもらって、教育と文学がやれるのは、信州大学教育学部」と周囲から聞いて、受験。筆記試験では、数学は零点、国語は満点だったとか。駄目だとあきらめていた。面接というものが3回あった。2回目、花を見せられて「これは、なんだ」と問われた。はて、わからない。「なんの花かわからない」と正直に答えら、面接官が「そうだ菜の花だ」と膝をたたいた。正解を答えられたのは、牛丸先生一人だったとか?「こんなことが、あるんですね、合格したんですよ」

 大学の後は、中学校の教師を希望していたのに、偶然に諏訪の小学校の教師に配属になった。子どもたちと接して、小学校が病みつきになった。それから、木曽の開田小、上松小、そして信州大学付属小学校。「
 「旧弊を新たにしていく意気込みでした」と振り返る。
 「子どもたちには、今日はこれをやりますと言わないんだな。なにをやるのですかと聞くんだね。授業中は、教室の隅で眠っているです。話が迷路に入ったら、整理してやるんです」
 この会に参加していた教え子の女の方が「そうなんですよ、そのころの授業のことを思いだしてみると、先生が黒板の前でなにかしているというのが、出てこないんです。宿題もでない。でも、みんなで、図書館に行って、何を授業でやるか、話し合ったこと思い出します。いまに、それがうーんと影響している」と発言された。
 先生「君たちも苦しんだけど、ぼくも君たち以上に準備のために苦しんだね。どんなテーマが出てきても、受けられるように・・ただ、眠っているわけじゃなかったんだ」

 「5歳までの空白」へは、小説を書くということなどで、向き合った。60歳近くなって、実の母に直接会う機会にも恵まれた。それも、作品という形で、先生のこころを表現されている。「関心があれば、お読みください」と作品集を紹介してくれた。

 「そうして、さあ、私の最終章をどうするか、ということになるんです」と一息つかれた。
 「死が、最終章ではないんです。今、ここに生きる。自分一人ではない、自分を支えてくれる人がいる。息子、息子の嫁。なにやかやと心配りをしてくれる。自分がやってきた一つの系統の文学をカルチャーカフェで活かしてくれる坂井くん。これは、薬よりも、効き目がある。カルテに病状を書くより、「いつ、講座があるのですか」と聞いてくれる主治医。
抗がん治療はそのあとにしましょうと段取りしてくれる。わたしの講座を聴きに来てくれる人たち。今日は、教え子たちも来てくれて・・今、ここで最終章が出来た」
 「いま、ここで最終章が出来た」声音は小さかったけど、はっきり言い切られた。
なぜか、込み上げてくるものがあった。こっそり、まわりを見たら、なにか目がしらを押えているように見える人もいた。
 「昨夜、眠れなかったのは、記念館ということもあるけど、実はこの辺が出てきて来てね・・・」とぽつり。ああ、先生は、いまどんな境地におられるのだろう、余韻がまだ自分のなかに響いている。

 
 



 

 
 



カルチャーカフェ「宮沢賢治」に参加して

2011-07-07 18:24:32 | 鈴鹿カルチャーステーション企画に参加して
       生きてあればこそ
         
 6月26日牛丸仁先生のカルチャーカカフェに参加した。宮沢賢治の作品「二十六夜」が取り上げられた。作品の本文引用とあらすじがまとめてある「二十六夜」鑑賞資料を用意してくれてあった。
 はじめ、その資料を参加者みんなで読んだりしたが、そのうち「ここは、ぼくが一人でよんでみるかな」と前置きされて、後半はほとんど牛丸先生一人で朗読した。聞いていると、資料は目で追っているけど、耳から入ってくる声で受け取っている自分の読みに化学反応のようなものが起きていると感じた。
 
 振り返ってみて、お月さんとのつきあいが薄くなっている。夜はテレビを観て、そのまま床につく。なんとなく、周りが明るいのか、夜空をぼんやり見上げるなんてことあまりしないなあ。「二十六夜」というのは、「二十六夜待」とも言って、江戸のころには、仲秋の名月と並んで、四月と七月、この月を拝むと願いがかなうと人々から信じられていた。この月は深夜から明け方にかけて、下弦の月として上ってくるのだという。
 作品は、冒頭「旧暦の六月二十四日の晩でした」とはじまる。作品名の「二十六夜」からいうと、その日から一カ月早いのですね、と牛丸先生がポツリ言われる。
 
 北上川を見下ろす松林、夜空の星はあるけれど、一帯は漆黒の世界。「松かさだか鳥だかわからないもの」が梢にとまっているよう・・・梟の群れだった。その梟の群れのなかに法師さまの梟がいて、一段と高い梢からお説教をされる。法師さまは、お経を詠まれる。
 

 「林のなかはしーんとなりました。ただかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞こえてくるばかり・・・しばらくたって西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました」

 「すすりなくというのは、お経を聞いている梟たちが身につまされているといことでしょう。この作品には、何か所も汽車の走る音が聞こえてくるのですね。これは、このお話がどこか遠くの昔の話というのではなく、今のこと、と暗示しているのですかね」牛丸先生は、ちょいちょいご自身のコメントを言ってくれる。
 「“折角梟に生まれてきても、ただ腹が空いた、取って食う、睡くなった、巣に入るではなんの所詮もないことじゃぞ”と梟の法師さまが言っておられるけど、ここのとこは自分の身にぐさっときますね」と牛丸先生。たしかにと反応している。

 こんなにして、中間でカフェタイムがあり、一服しながら、二時間「二十六夜」を読み終えた。
 最後、牛丸先生のいまの心境を語る時間になった。先生は、がん治療を受けながら暮らしている。
「いいお医者さんに診てもらっているんです。カルテには、病状のことは書かないんです。
こんどいつ講座があるのか、聞いてくれるんです。こんどは7月10日と言うと、それをカルテに書くんです。それじゃ、抗がん治療はそれが終わってから、様子見てとこんな具合なんです」お医者さんと牛丸先生のやりとりを想像する。
「聞いてくださる人がいて、いつまで生きていられるか分からないこの身でも、こんどはどうしようとなるんです。死についていろいろ想うよりも、生きている今のことを大事にしたいかな。今回も朗読が最後まで出来て、こんなことがまだできると喜んでいます。今、湧いてくること・・ありのままに生きる。このへんかな・・・」(こう聞いた)
 牛丸先生は、カルチャーカフェのおしまいに「有難う」と言われた。ジーンとくるものがあった。

  帰り道で、反芻するものがあった。
 「二十六夜」の最後は、梟の子どもが人間につかまり、それがもとで死んでしまう場面だ。

 
「・・ただ澄み切った桔梗いろの空にさっきのお月さまが、しずかにかかっているばかりでした。
 「おや、穂吉さん(梟の子)、息つかなくなったよ」
俄かに穂吉の兄弟が高く叫びました。
 ほんとうに穂吉はもう冷たくなって少し口を開き、かすかにわらったまま、息がなくなっていました。そして、汽車の音がまた聞こえてきました」


「かすかにわらったまま・・」「かすかにわらったまま・・」
宮沢賢治はどんな世界にいたのか。牛丸先生は、どんな世界で、どんなに受けっとているのだろう。そして、ぼく。
カルチャーカフェは、一つの機会だけど、生きてあればこそ、牛丸先生とぼくらが、いま出会う、いのちの機会なのかなあと。うまく言い表せないけど・・


<「二十六夜」の一解説>
 「二十六夜月は欠けた側から昇ってくる。澄み切った空で実際にこれを見ると、それだけで得体の知れない、月の出とは思えない何か神がかった雰囲気を感じます。それまで月がなく暗闇に慣れた目には後光に包まれたような地球照の中に阿弥陀三尊の姿が見えてきて、同時に月の南北の細い先端が山から出てくると、地球の大気のいたずらでゆらめき黄橙色のローソクの炎のように見える。二十六夜待のクライマックスです。そして細い月本体がみるみるうちに上がって来ます」
 旧暦7月26日は、今年の場合8月25日にあたる。25日の夜、深夜日付が変わってからの月の出が二十六夜月です。月の出の時刻は毎回異なるそうです。

 (7月10日の牛丸先生の「生きる物語」カルチャーカフェ講演会に参加しようとおもっています)



牛丸仁先生「日本人のふるさと観」最終回を聴講して

2011-02-21 08:00:32 | 鈴鹿カルチャーステーション企画に参加して
 最近、牛丸先生に童話が一つ、出来あがったそうだ。信州の童話誌「とうでのはた」が最終号を迎えるので、「ぜひ」と依頼があった。「とうでの・・」「遠出の旗」とぼくには聞こえた。あとで、先生が信州大学教育学部に在学していたとき「とうげのはた」という同人誌を出しはじめたというから、「とうで」ではなく、「とうげ」「峠?」かもしれない。でも、「はた」は、果たして「旗」か?
 
「誰か旧き生涯に安ぜんむとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思えるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」
 先生が通った高校の校長室に島崎藤村の直筆の額がかかっていた。校長室を掃除して、終わった時、はげ頭で髭の校長から「きみ、この文読めるか」「意味わかるか」と声をかけられた。身体が縮みあがりながら、校長の御言葉を拝聴した。
“新しき言葉は新しき生涯なり”
その頃、先生のこころのなかに満ちていたなにかに、光が射したのだろうか。「私の文学開眼の原点でした」と話された。
 言葉になる前に、なにか、その人その人のなかに、その人の生涯を日々新たにするように問いかけてくるいのちの発光源のようなものがあるのだろうかと思った。
 
講演の中ほどで、テイータイムが入る。
ふるさとを歌った歌謡曲を話題にした後だった。古賀政男の曲をクラッシック歌手荒川ゆみさんが歌っているCDを持ってこられていた。「人生の並木道」を聞いた。
 “泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けばおさないふたりして
    故郷を捨てた甲斐がない“
 荒川ゆみさんが古賀作曲の譜面に忠実に謡っている、こぶしも細かくゆれていて、息の継ぎ方もおかしなところで切らないと先生の解説。
 “あんな おんなに みれんは ないが”
「日本語の“ん”には、NとMの二つある。知ってるかなあ。この歌詞では、“おんな”の“ん”がMなんだな。荒川ゆみはそこを正確に歌おうとしてる」テレビの歌謡番組を見るけど、歌手のダメだしがおもしろいんだとうれしそう。
 “酒は涙かためいきか・・”
これは、美空ひばりが歌うのが人気ある。「じぶんの感情を入れて歌っている。楽譜どおりだと、大衆に響かないんだね。」
結局、20人分テイーが運ばれてくる間、古賀メロデイーを何曲も堪能した。参加者は60歳前後の人たちだった。ぼくは聞きながら、そのほとんどのメロデイーを知っていて、それが体内に入ると、なにかある感情が引き出されてくるのを感じた。普段、眠っているのに、「おいおい!」と揺り起こされた感じ。それも、いっぺんにその感情に包まれてしまう。
これって、なんだろう。
 
 牛丸先生の講演“ふるさとシリーズ”、前回は参加しなかった。その時、“一人ひとりのふるさとを語る品物を次回持参するように”という宿題があったらしい。
進行の坂井和貴さんから「だれか、持ってこられた方・・」と声かけ。
 吉田順一さん、「はい」と前へ進み出る。埼玉の深谷で生まれ育つ。小学5年の時、父を亡くしている。息子にじぶんの将来の夢を託したといわれる、亡き父が作曲した歌のテープを取り出す。利根川のある風景のなかで、人々が手をつなぎあって心豊かに暮らしたいという願いが格調たかく謳われているようにかんじた。いまの吉田さんがあらわれてくる源の一端を感じた。
 川瀬典子さんは、木でできた、旧かなの百人一首を見せてくれた。書かれてある字は、とっても読めたものではない。これを取っ組み合いになるほどに、取り合う遊びだったらしい。それが、好きだったらしい。幼少期、北海道釧路の横町を札取りに渡り歩く少女だった。
15年の戦争で父母、失う。20年後に実弟に出会った時、この百人一首の、好きな札を言っていくと、奇しくも弟と同じだったと・・典子さんは、「因縁」と表現していた。いまの典子さんを、日々新たにしていく「因縁」というものがあるのだろうか。

 「路地の入口」という、平成5年信州の放送局で放送されたテープを聞く。牛丸先生が書かれたエッセイの朗読だ。その文のプリントは手元にあったけど、耳だけで先ず聞いた。聞き終わって、先生は、「この風景は私が6歳のころ、じっさいにあったものなんです。」ということと、「この町は上松町なんだけど、火事はじっさいにあって、みんな無くなってしまいました」と付け加えられた。「これで、おわりです」とか聞いた。「あれ、それだけ」と, 物足りなく思った。
帰ってから、「路地の入口」が気になって、そのプリントを読んでみた。放送の朗読の声とプリントの文字が重なる感じのところがあった。文字で見ると「なまこ壁」って、どんなものか、そこで止まってしまう。わからない。でも、土蔵、黴、苔、どれともわからない緑と読みすすむうち、「子どもの肺活量の限界寸前で光の中に出る」で、あっ、いつのまにか子どもの目線の世界に入っていたじぶんに気がつく。
「どこへ行っても、通りすがりの道に、路地の入口を見つけると、そこへ踏み込めば、過ぎている時間の隙間が見つかるのではないかと、ふと立ち止まってしまう癖がある」
“路地の入口”って、どんなことを言われているのだろう。
“過ぎている時間の隙間”って、どんな感じのことだろう。
時計が刻む時間のながれから、人生をふりかえるとき、「ああ、なにをしてきたんだろう」と空しく思うときがある。どんどん時は前へと疾走している。
人の悲しみに出会う感じのときがある。人がそこにあらわれている光源のようなものにふれたような感じのときがある。じぶんでも、さびしくて闇にとざされているようなむこうに思わずいのちの源といえばいえるようなおだやかなものがありそうと感じるときがある。
駅前の商店街に生まれ、育ったぼくのなかの風景、決してしあわせいっぱいのものではない。でも、ふとしたときに、その風景の前のたたずんでいると感じるときがある。それは妙になつかしく、こころやすまる感じがするものだ・・これは「入口」?