ふとしたときに、”68”という数字を目にしてギョッとする。
どんな感じ?
「ああ、もう先がないんだなあ」
それって、どんなところからでてくる感慨だろう?
・・・・・
日々、テレビなどから流れてくる情報をぼんやり聞いている
けど、いつの間にか日本が戦争ができる国になりつつある。
ぼんやり聞いてばかりはいられないので、注意をして聞いて
いると、いまの政権が言っていることが前提で、それが
当たり前になってきている。
隔世の感がある。
去年、沖縄を訪れ、辺野古にも実際行ってみた。
その後、沖縄県知事選挙があり、辺野古に基地を
つくってほしくない、と主張した翁長さんが10万票の
差をつけて当選した。
衆院選挙でも、4つの選挙区で、「辺野古に基地を作って
ほしくない」と訴える人が当選した。
沖縄の民意はどうなのか、素直に受け止めれば、はっきり
しているよね。
安部さんやいまの政権、官僚機構の人々は、それでも、
辺野古に基地をつくろうとしているけど、「なんでだろう?」って
どうしても、知りたくなる。
そこまでして、やりたいというのは、どんなところから、そういう
ことになるんだろう?
何をしたいのだろう?
沖縄の人の気持ちをおもうと、「日本の人たちは何をしたいのか?」
という気持ちが大きくなっていくような感じがする。
ジタバタしているのである。
ジタバタと気持ちが動いても、どうにもならないもどかしさ。
老いとはどういうことか。
最近、老いとは、どういうことか、というので、ハッとさせられる
意見を聞いた。
いままで、老いるってのは、カラダはどんどん衰えていくし、
頭のほうもじぶんの意志とかかわりなくボケていく、と漠然と
おもっていた。
不安な気持ちもともなっていた。
ハッとさせられた意見というのは
「老人になると、考えること、妄想すること、想像力を働かせる
こと、そういう能力はなお発達し続ける」というものだった。
その人が実感する”老いる”というのは、
「それを実行に移そうとすると、からだの動きのあいだに
距離ができてしまう。そこが不自由に感じてしまう」
そこが、老いの本質じゃないかと・・・
老齢者の定義
「頭や想像力で考えて感じていること」と、「精神的にか実際的にか
表現すること」との間の距離が普通よりおおきくなっている人間」
となるという。
じぶんを材料にして、この辺、じっさいはどんなんだろう、
いまは、どんな自分か観察してみたいという欲求がおきて
きている。
もうちょっとすると、65歳以上の認知症の高齢者が5人に
一人になるというニュースが流れていた。
どうも、ぱっとしない気持ちになる。
わが団塊の世代は、どこまでも問題をつくりつづけていくほか
ない者たちなのか。
おもに60代以上の人たちで、「理想の暮らしを語る会」という
のを1年近く、続けている。
各自、”老いる”とか、”死ぬ”ってことをどんなふうにとらえているか
じぶんのなかを観察しはじめている。
観察したことを、コトバに出してみるとかも、しはじめている。
どんなことになっていくのだろう。
”老い”を科学するほうへいくのかな・・・