かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

互いに会って笑えば

2018-05-02 14:45:31 | アズワンコミュニテイ暮らし

印象に残る一節があった。

4/27中国が南北会談で融和が進んだことを評価する談話のなかに

魯迅の漢詩のなかの「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、互いに会って笑えば

恩讐(おんしゅう)も滅びる」ということを語ったという。

いかにも中国らしい。


現実の様々な情勢には疎いし、言うべきこともないけど、今は、

「争いの原因」というのをみんなで探り合っている。

サイエンズ研究所が最近発刊した「次の社会へーー人知革命」を

資料にした輪読会をしている。ぼくは、参加できない状態だけど、

その様子を録音してくれて、それで参加している。

 

「なぜ人は対立したり、争うのか?」

これは若い頃から関心があり、それ一本で暮らしてきた。

争いの原因は、自分が正しいと、自分の考えを実際だとして、

だから相手の意見を聞かない、人の思い込みや頑固だと

おもってきた。

今、検討するなかで、相手はいくら思い込んでいても、争いに

ならないときもある。

はっとした。

そして、争いの原因は、人と人の間柄の状態にあるという。

いままでは、争いは一人ひとりのなかのことと、どこかで

決めていた。

人と人の間?

間かあ。

個人のこともあるけど、人と人で成り立っている社会に目を

むけることになった。

確かに争いはひとりではできない。頭が動きはじめた。

「人間問題、特に人間同士の争いの原因は「人が人を動かそう

とすることにあるのではないか?」

はじめピンと来なかった。

「やらせる、やめさせる」が社会や個人のなかでの常識になっている。


振り返っても自分は人から指図されたり、止められたりする

ことは好きでなかった。

思い思いに行動して、それで調和がとれたらいいなあ。

一個の受精卵の細胞のように・・

 

意見や見方が違っていても、いや違うほどお互いの理解が

すすみ、豊かな検討ができる。

これまでは、話し合いとは何かを決めたり、合意するものだ

としていた。どうも、そうではないらしい。

お互いが相互に相手のしたいことや気持ちを深く理解することに

あるようだ。

 

頭では「そう、なったらいいな」とかおもっているけど、実際の

社会生活では、よーく自分の心底にあるものをみていくと、

そんなになったら社会の秩序はどうなるか?という滲みこんだ

考えからの心の状態があるように見えてきた。

それはおそらく、そんなことしたら人は何をしでかすか分からない

という人間に対する不信や危険視する心理が潜んでいるように

おもった。

 

生まれてしばらくは母親や周囲の大人に身を委ねきっている

時期があった。赤ちゃんが人を責めたり、人に指示するような

ことはない。じぶんの要求をあけっぴろげに、訴えるのみである。

 

それが、どうしたことか。

成長するにしたがい、「やらせる、止めさせる」「そうしなけれ

ばならない」と今の大人社会の観念に染まっていく。心理的にも。

そのように、育ってきた。疑問があっても、こんなもんか

と順応してきた。

 

この検討のなかでハッとすることがあった。

本来の自然な人と人の間の状態って、どんなものだろう?

「ああ、そこと向き合って来なかったなあ」

それを知らずして、社会や人間のなかから争いをなくす

と言っても、根本的な解決は見えて来ないだろう。

争いの原因は、つねに人と人の間の正常な姿から照らし

だされてくる感じがする。

 

鈴鹿に引っ越しして7年、社会の空気として、その人の意志を

決して妨げないという暗黙の人間関係があり、それをいままで

徹してきたと感じる。

目には見えないけど、ここの社会の基盤になっていると感じる。

現象面に現れている形や人間関係をなどを支えるその元のもの。

アズワンコミュニテイと7年前から呼ばれるようになった。

まだと言うか、これが適当な人数といえるのか、150人が鈴鹿の

街の一角でそれぞれ暮らしながら、「強制も束縛」も無いその人が

その家族が自由に行動できて、お互いに話しあいによって、

理解しながらの社会が成り立っているようにみえる。

まだ実験段階とはいえ、ここには次の社会への可能性がある。

 

これなら、人と人は争う必要がなくなるとおもった。

個個ではいろいろあったとしても・・・

探究はつづく・・・

 

「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、互いに会って笑えば

恩讐(おんしゅう)も滅びる」

 

 


病は市に出せ

2017-09-22 13:54:31 | アズワンコミュニテイ暮らし

台風18号通過の深夜2時ごろ、除細動器の電気ショックが起きた。

寝苦しいなと何回か寝がいりを打っているときだった。

「うおー!」と思わず声を発している。

隣に寝ている妻が目を覚ました。

「夢でもみたの?」

妻には、電気ショックのことは分からない。

7月に心室の頻脈(不整脈)が起きたときは、3回少し間をおいて、

電気ショックが起きた。

そのときは、さすがに救急車を頼んで、入院した。

その晩、また起きるかなと様子を見た。

妻に血圧計をベットに持ってきてもらい、測ってみた。

血圧80-50、脈拍70。

だいたい、毎日測っている数値だ。

脈拍は、最近74とか77とか、不安定だったけど、除細動器で設定

しているペーシング、脈拍70におさまっている。

何回か測ってみたけど、脈拍が上がっていない。

除細動器が心室頻脈を止めてくれたのかもしれない。

心細かったけど、深夜どうもできない。

夜が明けて、9時ごろ三重大病院に相談しようと思っているうち、

寝てしまった。

朝起きて、胸の辺りから、「ピーポー」というアラームが鳴る。

「何だろう」不安な気持ちになった。

台風一過の18日祝日。病院は、代表にかけると警備室の番号を

教えてくれる。電話をかけると、事情を聞いてくれて、ぼくの場合は

循環器内科病棟のナースステーションに電話を繋いでくれる。

看護婦さんが出てくれて、事情を説明する。

たまたま、7月入院していたときの担当医師がいて、「今、何も起きて

ないなら、明日診療を受けにきてください」と看護婦さんに伝言。

その日、ちょうど外来の担当医の診療日だったので、待つことにした。

アラームについて、どんなことか、除細動器の設定を見てくれている

臨床理学技師さんに聞いてほしいと伝えた。

昼ごろ、看護婦さんから電話があり、明日診療のとき、チェックします

ということだった。

 

翌日の診察は、担当医のパソコンには、電気ショックがあったことの

レポートがアップされていた。遠隔で、情報が担当医や臨床理学技師に

伝わる仕組みになっているらしい。

医師「除細動器のレポートみると、8/16、17にも不整脈起きていますね。

このときは、電気ショックを起こす前に、その治療を除細動器がしてくれた

ということですね」

7月のときは、除細動器が働かなくなっていた。

今回は、働いてくれたということになるのかな。

「これによって、ベットで安静とかして、リハビリでも普段の暮らしも、

やめないほうがいいですよ」というアドバイス。

除細動器は技師さんがチェックしてくれて、アラームはレポートを受けとり

ましたと、確認したので、もう鳴らないです」ということだった。

 

7月の入院のときは、電気ショックが日に何回も起きて、さすがに「助けて

ほしい」と訴えた。除細動器の設定を変えたり、心不全の治療したり、

薬を増やしたり、アブレーション手術などして、不整脈が起きない、という

ところでの退院だった。

拡張型心筋症という原疾病があるので、完治ということはないらしい。

いつ起きるか、分からないが、起きたときは除細動器に頼ることになる。

 

不整脈の徴候を何日か前に分かって、手を打つことができるのかな。

もしかしたら、できるのかもしれないけど、8月の場合も、今回の場合も

いまのところ、その徴候は分からない。

いつか、「そうだったか」というときがあるかも知れないが、様子を

みたい。

 

今回のショックがキッカケで、今を受け入れるということが、起きた

といえるのか。

気持ちに動くものがありそう。

何をということは、いろいろ出てくるけど、今は自分のなかで、何が

動いているか見てみようとしてるかな。

 

深夜などで、電気ショックが起きたりしたとき、大学病院はちょっと

敷居が高いなと思った。

かといって、地域のかかりつけ医が居てくれるといいなと思うけど、

除細動器のことや、これまでの治療暦は大学病院のデータの中と、

継続している担当医の見立てから、離れるのは今のところ、やめておこう

かと思っている。

先、どんなことになるか。

 

病は市に出せ、という気風の町があるという。

身体もそうだし、心の状態も、市に出したい。

というより、もうすでに出しているのかもしれない。

もうすでに、現れてしまっているもの。

20日の午後あったENJOYミーテイングで思った。



庭先の花を

2017-04-09 18:29:51 | アズワンコミュニテイ暮らし

こんなこともあるんだなあ、思うことがありました。

夕方、玄関のインターホーンがピンポーンと鳴りました。

妻が出て、来訪の人としばらく話しているようでした。

「益子さんが、花持ってきてくれたの。庭先に咲いていたんだって」

妻は、チューリップと何種かの花が束ねてある花を抱えて戻って

きました。

「どこに、置こう」妻は、聞くともなく、つぶやきました。

居間には、使わないで蓋をしている火鉢があります。

壁側のテレビの横にあって、その上は何も置かれていないので、広報誌

とかパンフレットやお菓子などが、その時の都合でポイと置いて、

便利使いしていました。

何日か前から、身の回りの整理をはじめていました。

何をどこに置くか、はっきりしないものも、結構あって、それが

見たいとか、使いたいときには、どこにあるかと探し回ることが

多いです。

要らないものは、処分し、それぞれのおき場所を決めてみました。

そういう目で、火鉢の上を見てみると、そこは便利使するより、

何か、花とかが飾られといるのが、相応しいんじゃないか、

と思いついていました。

 

そんな時、益子さんから花束が届きました。

益子さんは「少しでも、新鮮な空気吸えたらいいのかなと思って」とも

言葉を添えてくれたと聞きました。

花に託して、気持ちを届けてくれたんだ、温かい気持ちになりました。

妻はさっそく、そのところに花瓶に入れた花を飾ってくれました。

こんな思っていたら叶えられる、ささいなことみたいだけど、

こんなこと、あるんだなあと思いました。

ああ、見てくれているんだなあ。あらためて感じました。

益子さん、ありがとね。

 

 

 

 

 


社会ってなんだろう?

2017-03-30 11:37:13 | アズワンコミュニテイ暮らし

毎日の暮らしって、そんなにドラマチックなことが起こるものでは

ないです。毎日、同じことの繰り返しのように感じたりします。

当たり前にしている暮らしが、なんでこんな風にできている

のか、ふと何か当たり前のとしているものが、パッカッと割れて、

何かが、見えて来るような時があります。

 

昨年12月初め、心臓の不整脈治療のため三重大学病院に入院しま

した。それ以来、3ヶ月、妻は24時間ではないですが、毎日病院に

顔を出してくれました。病院が名古屋に移ってからも、ほぼ一日

かけて、通ってくれました。

妻はコミュニテイのなかで、サイエンズスクールの合宿コース参加者の

生活スタッフをしていましたが、他の人が代わってくれて、「宮地の

世話に専心したらいいよ」と送り出してくれたそうです。

3ヶ月にもなると、妻が来てくれるのは当たり前みたいになります。

そのために、周囲の人たちが日々工夫をしながら、妻を支えてくれて

いることが当たり前のことって、なっていました。

ほんとにそうだろうか。

退院して、ハタと湧いてくるものがありました。考えてというより、

なにか包まれているものに触れた感じでしょうか。

 

療養生活です。1週間に一回、大学病院で心臓リハビリをはじめましたが、

心臓から全身に血液を送り出す働き、普通に人と比べると3分の1という

現状らしいです。

心不全の、どうも最低に近い状態のようです。

急な動作をすると、めまいや息切れがします。

今は1日20分、散歩することを、リハビリとしてやっています。

20分が、やっとなんですね。

倒れる前は、「理想の暮らしを語る会」で近しい人たちと、老いの

生き方、それに介護が要るようになった人と、どんなふうに地域で

暮していくか、けっこう熱心に語り合ってきました。

それは、どこか「そうなる人」は自分ではないと、決めてるような

ところがあったかなあ。いい気なもんです。

そんな自分がまさに当事者になっている、と自覚し無い訳には

いきません。

 

今、妻と出戻りの息子と3人暮らしです。

収入源は妻と私の国民年金、月7万ほどです。息子はときどき

稼ぎにいきますが、そんなに収入はありません。

妻も私も、療養のため年金以外、収入源が無い状態です。

それでも、毎日、普通に暮せています。お金が無くて心配という

ものがないとなあ、と気がつきます。

これは、家族のように親しい間柄で暮していこうという気持ちの

人が、お互いに支え合っていこうと寄り合っているためです。

物や人手が足りないときは、声掛け合って、出来るようにしています。

お金が足りない人があれば、持っている人が融通しています。

ファームやお弁当屋さんから、野菜や惣菜がプレゼントされます。

一人ひとりの持ち寄りでくらしているって、いえるのかな。

療養生活で困ったときはありません。

きのうは、オフィスから声がかかりました。

「いまの暮らしはどうですか?」と聞いてくれました。

オフィスっていうけど、そういう仕組みができた目的は、社会が

一人ひとりの意思を尊重し、困ったことがあっても、その人だけ

のことにしないで、先ず困ったことはどんなか、それを解決

するにはどんな知恵がいるか、などそこを見てくれているスタッフと

話し合っていくんですね。

いつも体験しますが、自分の中で思っていることを聞いてもらうと、

どこで詰まっていたか、あるいはこんな工夫ができるとか、どん

どん開けてくることが多いです。そこで、解決できなくとも、

先の見通しがもつことができるのです。

不思議です。

 

鈴鹿の隣、亀山市の長男一家が暮しています。

3歳と1歳3ヶ月の男の子がいます。和(わたる)と駿(しゅん)です。

2人の子は、鈴鹿にあるアズワンコミュニテイの同じような子ども

をもつ親たちといっしょにな部屋を借りて、「子どもの家」と呼んで、

共同の保育をしています。

夜はそれぞれの親元で暮します。

6人の幼児がいます。まだ増えるようです。

もちろん、一人ひとり、見ていくのですから、親たちだけではできる

はずもないです。実際の婆や子どもが好きな爺とか、いろいろな人が

その人の気持ちの分でかかわって、運営されているようです。

 

 

3月になって、長男の妻悠海さんから、サイエンズスクールの1週間の

合宿コースに参加したいんいだけど、婆である妻に相談がありました。

「社会を知るためコース」ということでした。

いままでも、そういうときが何回かありました。

昼間は二人、子ども家で遊び、夜、和はパパといっしょにわが家で、

駿くんはお母さんがいるスクールの研修所で一晩過ごしました。

今回は少し思案しました。

療養中のぼくを配慮してくれたのでした。

この期間中、二人は9時過ぎから3時過ぎまで、子どもの家で

遊びます。

「3時過ぎから、夕方6時ごろまで、預かってくれる人がいない

かなあ」話し合ったみたいです。

わが家の2階で暮す、小学生の娘が2人いる純奈さんが、「いいわよ」

と引き受けてくれました。

駿くんをご飯を食べさして、夕方6時ごろ、スクールのお母さんの

ところに送ってくれることになりました。

和は、わが家でパパといしょに夕食とお風呂に入り、子どもの家に

移って一晩過ごす段取りです。

パパが朝6時ごろ、職場に出かけるので、朝、子どもの家が

はじまるまで、見てくれる人も要ります。それも、難なく決まり

ました。

お母さんのもとにいる駿くんは、小浪婆がスクールに迎えに行き、

子どもの家に送り届けます。

 


ところが、はじまってみると、考えた通りにいかないのが世の常です。

純奈宅で夕方、和と駿を見てくれていましたが、階下の住民から

ドンドンという音が響いて、迷惑という苦情がありました。

和に静かにといっても、ちょっと無理でしょうね。

純奈ちゃんは、スマホのラインで、事情を説明し、「誰か3時半から、

パパが迎えに帰ってくる6時まで、和(わたる)見てくれる人がありま

せんか?」声をあげました。

何年か前から、コミュニテイではスマホが普及し、お互いの連絡は

ラインでやりとりするようになっています。

はじめは、さっぱり馴れず、苦労しましたが、いまでは老いも若きも

ラインを使いこなしています。

この声に、反応は素早かったみたいです。

ラインには「火曜日ならできる」とか、「木曜日の何時までなら

できるとか、「じゃあ、そのあとは私がやります」とかあっと言う間

に1週間の見てくれる人のシフトが出来て行ったようなのです。

実際のコミュテイでは、おふくろさん弁当にしても、ファームに

しても、手が欲しいときはラインで声を上げると、だいたい誰かが

手を上げてくれるようです。

面白いのは、声を上げる側に、「来てくれない」と不満が起こる

ようなことないみたいです。

応じる人は、自分の気持ちがあり、やれる分でやっていて、それで

けっこう上手く回っているようなんですね。

子ども達も、どこへいっても、人が代わっても安心して遊んで

いうようです。


一人ひとりはどんな気持ちでかかわっているんだろう?

 

こんなふうに書くと、「そのコミュニテイには、人が好い、善意の

人が集まっているんじゃないの?」と思われる方もあるかもしれ

ません。

人が好い、善意だけで、そんな現れになるんだろうか。



わが越し方を振り返ってみますと、「社会」というと、自分とは

疎遠に、むしろ自分に対するものというイメージがずいぶん

しっかりとあったように思います。

その後、コミュニテイで暮しながら「社会は一人ひとりの人間が

幸福になるためにある」と聞く機会が増えました。

そうだよな」と共感はしますが、どうも自分の中で得心が

いきませんでした。

そのうち、自分の行動の原動力が「人に迷惑かけたくない」

「なんでも、自分でやれるのがいい」

他人にやってもらうときでも、何か申し訳ない、見たいな気持ちが

あるようだけど、「これって何だろう?」と焦点が当たるように

なりました。


「社会」というけれど、どういうことを言っているんだろう。


春とはいっても、まだ寒さが残ります。

心臓リハビリとして、1日20分散歩しています。

散歩の途中、側溝の土手に土筆が天に向かって、佇立して群生して

いる風景に出会いました。

しばらく見ているうち、春の日差しを見たように思います。

土筆は太陽の光に照らされて、土筆の個性のままに、自分を表現

しているように見えました。

そういう目で散歩道の風景に触れていくと、日の光はどんな事物の

上にも振り注ぎ、分け隔てがないのです。照らされた事物の内実には

おそらく光についての反応し合う働きが起きているのでは。

ぼくは、「迷惑かけたくない」という気持ちがあっても、周りの

人たちに支えてもらいながら暮しています。

隔てのない社会の光を受けながら、生きるのが当たり前なのか、

繋がりのある人なかで、遠慮気兼ねをしながら生きていきたい

のでしょうか?


今、焦点を当てたいことがあります。

「決して個人の意思を妨げない」という考えがありますが、

そう思っている僕自身の中に、個人の意思を妨げることになりかね

ない、「人に強いたり、強いられり」という心の状態が自覚のない

まま、自分の言動に現れてきていないだろうか、観察するように

なりました。そこは、どうなっているのだろう?

身近な人の間で、「なんでやらないの?」とか、言葉にしなくとも、

そいういう気持ちが起きていることが見えてきています。



自分自身のなかでも、人と人の繋がりでも、社会にも、

こういう「人に強いたり、人に強いられたりが一切ない」

世界の実現を目指したいです。

みんなで知恵や心を寄せ合って。

その過程で、どんな社会や人が現れてくるのでしょう?




 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


病院暮らしつれづれ

2017-03-11 14:52:55 | アズワンコミュニテイ暮らし

東北大震災から6年目。

2万余の犠牲者、いまも原発事故で避難を余儀なくされている

人びと12万人と聞きます。

震災の影響、いまだ、終わらずだと思います。


病院暮らしのあと、不如意の予後暮らしです。

いつも、ブログに書くとき、これってどんな意味がある?という

自問があります。

先ずは、自身の記録だよね、これでお茶を濁している?

どうにか、心の整理もしたい。なるべく、心開いて。

 

      (一)三重大学付属病院に緊急入院

昨年11月末に、心臓の不整脈が多発し、12月2日、三重大付属病院に

入院しました。

12月8日、不整脈起こしている心筋の電気系回路を心臓の内壁にカテーテルを

入れて、その回路を焼ききる手術をしました。7時間ほどかかりました。

予後、体調はもうひとつだったけど、不整脈が起きてこないので、

12月20日、退院ということになりました。

わが家に戻り、理容してさっぱりしました。お風呂に入り、夕食を

食べました。それから、気持ち悪くなり、息苦しくなり、布団に横になる

ほかありませんんでした

担当医に電話連絡したたところ、たまたま繋がり、状態を伝えると、

すぐ病院に来るようにと言うことでした。

「動けないなら、救急車でも」と言ってくれました。

結局、息が詰まるし、身体が言うこと効かない。

救急車を呼んで、朝出てきた病院に逆もどり。

心臓の不整脈が止まらないので、電気ショック(AED)をかけて、

とりあえず、心室の頻拍(不整脈)を止めました。

息が出来るようになり、苦しさもなくなりました。

よかった!

それはそうなんですが、さて、これからと言うのでは,

ぼくの心臓の状態で、不整脈をとめるのにはどんな手があるか。

医師の方でも、検討してくれましたが、伝わってくるのは「打つ手が

ないなあ」という雰囲気でした。

そこから、命懸けの入院生活がはじまりました。

 

入院したころは、その手術さえ終われば、もとの暮らしに戻れると、

高を括っていたと思います。

表面では、それでも元気そうに振舞っているけど、いつまたあの

不整脈が起きるのか、内心不安だし、「打つ手がないかも」と思うと、

暗い気持ちにもなりました。

 

年末年始も病院で過ごしました。

元旦には妻や息子・娘、孫たちが正月を祝いにきてくれました。

ほのぼのとした気持ちになりました。

中井夫妻も来てくれました。

2日にも秀剛一家が孫2人を連れて見舞いに来てくれました。

2歳の男の子、和(わたる)が「ジジは、なんでここにいるの?」

問うというより、和なりの何かの表出かと思いました。

帰るときは、「ジジ」といって、手を握ってくれました。

 

ところが、その夜、脈拍が100を超え、なんと不整脈が起きて、

除細動器が作動しなかったので、また電気ショックで不整脈を

止めました。

止めることが出来ましたが、このままでは心臓がどんどん痛んでいく

ということでした。

このまま死んでいくってこともあり得るよなあ。

真夜中、なかなか眠れませんでした。

このまま死ぬのかも、とか思い巡らしました。


正月3日、主治医から「心臓の内壁から焼き切るのは、あなたの場合、

拡張型心筋症で心筋が厚いので、難しい。名古屋大付属病院では、

心臓の外壁からアブレーションに熟練している医師がいるので、

転院して、心臓の外側からの手術を受けてみますか?」と問われ

ました。

なんか、切羽詰った感じだった。

その手術は大変そうな感じだつたけど、そんなこと言ってられない、

「お願いします!」

 

 

    (二)名古屋大学付属病院に転院

1月10日、救急車に乗せられて、名古屋大学病院に転院しました。

12日、2回目の手術。

手術は、心臓の外壁からのアブレーション。

これが出来る人、少ないらしい。東海地区では、今回の主治医

因田(いんでん)医師が熟練の第一人者と聞きました。

カテーテルはお腹の辺りから入れて、外壁に入れるのと、腿の

動脈から心臓の内側からと2本入れました。

そこから、不整脈の回路を探しました。

全身麻酔ではないので、医師たちの会話が聞こえてきます。

どこを焼き切るかを見出す因田さんは、磊落な感じで、

「ここはどうだい?」とか臨床技師のメンバーと声を掛け合っています。

その様子はぼくからは、見えません。

でも、経験を積み重ねている因田さんからは、不安なものを感じません

でした。

あちこち焼いていましたが、4時間ほどしたら、「ここだ!」という声。

強い電圧かけて焼いている、痛いような、苦しい感じ。

終わった様子。

因田さんも、術後、うまく言ったと思う、と言ってくれました。

酢こし、安心しました。

桃子と風友も見舞いにきました。

 

      (三)名古屋大学付属病院、3回目の手術 

因田医師は、毎朝、にこやかな笑顔で病室に覗いてくれました。

朝、自宅から病院に飛び込んだ、出で立ちのまま、いつも黒い

コート姿で現れました。

そんな気さくな感じで、因田さんは身近な存在でした。

不安な気持ちもすこし和らぎました。

2、3日して、因田さんから「残念ながら、いまも不整脈が続いている。

不整脈の回路がまだいくつかあるようだ。それを止めないと厳しい。

再度のアブレーションが必要」と告げられました。

拡張型の心臓で、心筋がふつうの人より厚い上、それが風船のように

膨らんでいて、いまの状態では再手術は避けられない。

もう、ここまで来たら、「やるっきゃないなあ」

「じゃあ、よろしく」と返事した。

 

ぎっしり詰まっている手術のなかに、ぼくの手術を入れ込んでくれました。

1月19日、3回目のアブレーション手術が行われた。

手術衣に着替えて、呼び出しをまっているとき、なんとスイスの

パトリックさんが見舞いに来てくれました。びっくり。

スイスから出張で、たまたまその日、名古屋で仕事があり、寄って

くれた。30年近い付き合いで、以前から彼といるとゆったりとした

間があって、いつも心が和むのでした。嬉しかったです。

「こんなことあるんだあ」

 

手術は、4時間ほど。因田さんによれば、「やれることは凡て

やったよ」ということでした。

2,3日して、因田さん、いつものように朝、黒コートで現れ、

「小さいけど、まだ不整脈がちょこちょこおきているなあ」とすこし

困った感じで、ぽつり。

1月23日夜12時ごろ、胸が高鳴り、不整脈が起こりはじめたらしい。

看護婦さんが当直の医師を呼び行ってくれました。

しばらくすると、黒いコートを着た因田さんが現れました。

奇しくも、その時間まだ病院内にいたということでした。

そこから、除細動器の心臓の動きを掴かむため、臨床技師が調整器を

もってきて、除細動器の調整で不整脈が止まらないか、いろいろ

やってくれました。

途中からは、技師さんに代わって、因田さんが調整器に向かって、

午前2時ぐらいまで手を尽くしてくれました。

「いかんなあ、止まらない」とポツリとつぶやいて、病室から突如

出て行きました。

そのうち、不整脈を止める、強い薬を点滴で身体に注入しました。

しばらくして、動悸が治まってきました。

因田さんは、他にも薬をもってきました。不整脈を止めるための

強い薬だそうです。

その夜は、不整脈が落ち着いたのを見届けてくれて、事なきを

えました。

ほっとしましたが、これからどうなるのか、不安でもありました。

その薬は、不整脈は防いでくれましたが、ぼくにとっては、

強い吐き気が起きて、つらかったです。

 

  

 (四)除細動器付に三本目のリードの植え込み手術

4年前、心室頻脈で意識失ったあと、運よく回復し、その時除細動器付

ペースメーカーを心臓の近くの植え込みました。

3本のリードを心臓の周りの血管に入れたのでしたが、3本目が血管が

細くて所定の位置まで、当時どうしても入りませんでした。

除細動器の機能がよく分からず、2本でもペーシングも出来ると聞いて、

今日まで来ました。

因田医師は「ここまで不整脈が止まらなければ、いまの心臓が心房と

心室がうまく同期していない状態を改善するしかない」と説明して

くれました。

埋め込み手術をした三重大学の主治医とも相談してくれて、名古屋大で

3本目のリードを入れる手術をすることにしました。

3本目のリードで心臓を挟むことで、心室と心房の動きがスムーズに

するペーシングが働くようになるはず、と言うこでした。

4年前、入らなかったのだから、今回うまくいくのか、不安でした。

因田さんは、いくつかの方法を絵に描いて説明してくれました。

どっちにしても、任せることに変わりがなかったです。

 

この手術も困難があったようです。4時間かかりました。

最後、「あっ、この位置なら心臓を挟める!」と因田さん。

どうも、たまたまその位置にリードが入ってくれたみたいだった。

術後、同期のためのペーシングはうまくいっている。

「これで、不整脈が治まってくれれば、いいんだけど」


どうも、以後目立った不整脈が起こらなくなりました。

因田さんにお願いして、強い不整脈を止める薬も止められ

ないか、検討してもらいました。

除々に減らしてもらい、薬による治療も、もう少し減らしたい

けれど、この状態で様子を見ましょうとなりました。

胸の動悸や吐き気が無くなってくると、今ここにいるというだけ

でもこんなに快適なのかと、一時穏やか海にたゆたっている気分

でした。


   (五)三重大病院へ再転院、心臓リハビリへ

2月16日、再び三重大学へ転院。

3ヶ月の病棟暮らし、足腰も弱っているし、いまの心臓の状態で

どんな暮らしができるか、見通しつけて退院の予定だった。

ところが、そのころ、咳きが激しくなり、鼻水が止まらず、

喉にも痰が詰まるようになりました。

咳きは苦しかったです。

そのうち、熱も38℃を越え、点滴で抗生剤を投与するはめに

なりました。

その間も恐れていた不整脈は起こりませんでした。

そのため、3月2日、咳きは完全に治まっていませんでしたが、

カプセルの抗生剤を飲むことで、退院しました。

その日、ちょうどぼくの誕生日でした。


   (六)この3ヶ月有難かったこと

妻がぼくの付き添いにほとんど毎日、病室に顔出してくれたこと

です。

三重大のときはともかく、名古屋大学に移ってからは往復で3時間

はかかり、一緒にいるのは昼ごはん前後2時間ほどですが、どれほど

安心したか。何と言うか、甘えっぱなしでした。

前にもかきましたが、これは妻一人でできたことではなく、

そのように出来るように計らってくれた社会(コミュニテイ)の

気持ちがあってのことだと思っています。

2月末、3回目のアブレーション手術のあと、小浪がインフルエンザに

罹ってしまいました。

小浪が来なかった1週間、強がりよりは心細かったです。

他に移さないように、本人も楽になるようにと祈っていました。


自宅で暮すようになって、10日経ちました。

身体や暮らしの見通しはまだついていないという感じです。