かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

フィリピンの記憶

2016-01-26 16:53:39 | わがうちなるつれづれの記

とりたてて、じぶんの身の回りにフィリピンの親しい人がいる

わけではない。

今日、天皇ご夫妻がフィリピンを訪問して、日米の戦没者や戦禍に

巻き込まれて亡くなったフィリピンの人たちを慰霊されると聞いた。

朝のNHKテレビニュースで、フィリピン戦の生き残り兵、88歳の沖縄の

人が、戦友の遺骨探しに通っているうち、フィリピンの人たちのなかに、

日本人への憎悪が深くあることを知って、戦争がもたらしたすべての

犠牲者を慰霊する碑を建てるにいたった気持ちを語っていた。

 

20年前、大岡昇平の「レイテ戦記」を読んだ。

読後感が、以来ずっと尾を引いている。

著者は昭和19年7月、フィリピンの戦場に渡った。

翌20年1月、レイテ島の隣、ミンダナオ島で俘虜になった。

著者が見舞われた体験がどういうことだったのか、膨大な資料を

集めて、その全貌を明らかにする作品にしたと、あとがきに

記している。

 

レイテ戦が日米の軍の間でどのよう戦われたか、克明にその

場面が浮き彫りになるような筆致で延々と表現されていた。

固唾を飲んだり、ある場面ではそんな無駄死になぜ起こったと

歯軋りしたようなこともあった。

やっと、辿り着いたエピローグで、そのときハッとして、衝撃に

にたようなものが、自分のなかに生じた。

「しかししめてみれば歴史的な戦いの結果、一番ひどい目にあった

のはレイテ島に住むフィリピン人だったということができる」

日本人が1939年1月から1945年1月、日本の軍隊がフィリピン人

に与えた損害が畜産統計にあり、著者はそれを掲載している。

 

          1939年              1945年

水牛       163、398            72,200

牛         14,694             5,070

馬         11,699             6,660

豚         342、251            134,220

鶏         1,300,754           528、470          (一部略)

 

今、パレスチア、アフガニスタンやシリア・イラクなどで起きている

庶民が置かれた状況を想像するに、日本人もこんなことをしていた

という記憶が浮かび上がっても無意味ではないのではないだろうか。

アメリカ軍もフィリピン人の暮らし、お構い無しに戦争をすすめて

いただろう。

 

記憶ということ。

数字ではないとおもうけど、日本人は15年戦争の敗北のあと、

フィリピンには63万人の日本軍兵士を送り込み、48万人がそこで

死亡したと記録があるという。

ぼくらの記憶はそこで途切れていないか。

これも、はっきりした根拠があるわけではないが、日本はアメリカ人と

ともに100万以上のフィリピン人を殺している。

過ぎ去ったものをいつまでも引きずることはできないけど、こういう

記憶は残しておきたいと思う。

 

20代の後半5年ほど、発展途上国といわれる地域から日本に

技術を学びに来る人たちの受け入れや、暮らしの世話をしていた

ことがある。1970年代、通産省の外郭団体の仕事だった。

目的はアジア、アフリカ、中近東、中南米への技術移転、そして

経済協力という大儀があった。

この仕事に携わるぼくらは、人とじかに接するので、その人たちが

帰国後、その地域で本人も幸せに、地域も豊かになっていくことを

願いながら、受け入れをしていた。

そのころは、韓国、フィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、

タイ、インド、ブラジル、メキシコからの人たちで、多彩だった、中国からは

そのころは、皆無だった。

 

戦前、西欧との軋轢が高まってきたころから、政府によって、アジアの諸

国を欧米の植民地支配から解放するという「大東亜共栄圏」という方針が

もちあがってきた。

日本は西欧の植民地支配に対抗して、すでに台湾、韓国、満州で西欧が

していると同じことをやっていた。

 

戦時中、「大東亜共栄圏」という日本の動きに呼応して、英国支配から

ビルマの独立を目指したバー・モウは、独立政府の元首となり、日本と

緊密な連絡をとりながら活動した。

日本敗北以後、彼は「ビルマの活路ーー1939~1946年 革命の回想」

(1968)でつぎのように書いている。

「日本の軍国主義者たちについていえば、この人たちほど人種によって

縛られ、またその考え方においてまったく一方的であり、その結果として

他国人を理解するとか、他国人に自分たちの考え方を理解させるという

能力をこれほど完全に欠如している人々はない。

彼らが東南アジアにおける戦争の期間を通じて、ことの善し悪しにもかか

わらず、つねにその土地の人々にとって悪いことをしてきたようにみえる

のはそのためなのである。日本の軍国主義者たちはすべてを日本の視野

においてしか見ることができず、さらにまずいことには、すべての他国民が、

彼らとともに何かするに際しては、同じように考えなければならないと

言い張った。彼らにとっては、ものごとをするには、ただ一つの道しか

なかった、それが日本流ということだった。ただ一つの目的と関心しか

なかった。日本国民の利害、利益ということである。

東アジアの国々にとって、ただ一つの使命しかなかった。それは、日本国と

永遠に結びつけられた、いくつもの満州国や朝鮮になることである。

日本人種の立場の押し付け、彼らのしたことはそういうことだった。

それが、日本の軍国主義たちとわれらの地域の住民たちとのあいだに

ほんとうの理解が生まれることを、結果として、不可能にした」

 

バウ・モウさんは、何年も日本人と活動をともにしてきた。その人の回想は

重く感じる。

軍国主義者というけど、それは日本人であり、そのあと生まれ育って来た

自分でもある。

わが身をふりかえると、ぼくとは関係ないとは言い切れず、自分のこころの

うちにこのような現われになる要素は潜んでいるように感じる。

「ほんとうの理解」を阻むもの、わが身の内にありやなしや。

あったとしても、それを自覚できるか、どうか。

 

国境を無くして、理想社会に通じる近道は、日本人の反省と努力に

よって、自身の頭脳・技術・社会人としての教養・人格・肉体等、

実質・外観ともに歓迎される優秀人になること、という先人の言葉が

何度でも思い出されます。どういうことをいっているのだろう。

そして、これが先決問題ともしている。

いまの時代の空気を想うとき、どこからはじまるか、なんどでも、この

へんから・・・

 

 


冬の夜

2016-01-19 22:26:43 | アズワンコミュニテイ暮らし

兄からカラダのことを心配するメールがあった。

返事を書いた。

息子の結婚のこと、カラダの近況など。

雑誌を読んでいたら、山田洋次さんが、戦前、「戦争は

悲惨だったということを国民に知らせることを国は意図的に

しなかった」と述懐している。

国会で「北朝鮮の工作員が絡んでいる」とか、果ては政府の首領が

「国論を二分する行為だ」と言ったというのが聞こえてきた。

背筋は寒く感じた。

今夜は、この冬、一番の寒さのように感じる。

何か目が冴えている。

いつもは、布団のなかにいるころなのに・・・。

ムラムラと、俳句が出ててきた。。

 

  寒風を糧に膨らむ蕾かな

  二人して窓開け放つ事始め

  冴ゆる夜や炬燵に潜る非国民

 

 


「自分を知るためのコースに参加して」

2016-01-18 20:57:37 | サイエンズスクールのある暮らし

5年前に鈴鹿に引っ越した。その頃から、このブログを始めました。

カテゴリーというのがあるので、その一つに「サイエンズスクールのある

暮らし」というのをカテゴリーをつくりました。

これは、誰かに分かったもらおうとか、そんな感じは強くはないつもりだけど、

自分のこころのなかの推移については、記録しておきたいし、関心のある人

には何かの参考になればとも思っています。。

 

 

         *                   *                 *

「自分を知るためのコース」に参加して        2016-1-16

このコースは、たしか4回目だと思う。3年ぶり。
日々の暮らしの中で、表にはあまりあらわしていないけど、いろいろな

感情がじぶんの意志とは関係なく立ち上がっている。

それは、自分がいちばん分かる。

直接、それらのことを検討したわけではないが、検討が進むにつれて、

そのことがどんなことなのか、なぜ起きてくるのか、見えてきておもしろ

かった。

スタッも入れて、9人で検討したなあという実感。

じぶんのテーマを解決するというよりは、なにか別の感じ。

 

これまでも、「これは黒ですか」という問いを立てて、その色はどこにあるかを

観察してきた。分かったつもりになっていた。

今回も「色」もあったし、「これはエンピツですか」もあった。

はじめ、目で見て、即座に「エンピツ」と言っていたけど、何回も「これはエンピツか」

と問うていくと、そのものと、頭のなかで「エンピツと認識している」とういうのが

離れてきた。

「ビンのフタが開いているのは、事実か」という問いもあった。

このへんから、何かの状態があって、その状態のことを、自分が捉えて、

「フタが開いている」と言っている・・・ううん?ちょっと、見え方ついて

ぼくのなかで、何かが動いていた。
 

その夜の宿題。

「実際はどうかに関心がいかないのはなぜか」

 1月10日のコースがはじまって、3日目の夜。

 この夜も9時過ぎに寝て、深夜2時ごろ目が覚めた。

 ふとんのなかで、咳をした。咳をしたなあ、と思った。

 「・・・・」少し、間があったとおもう。

 「あれ、もしかしたら、ぼくは”咳をしたこと”を事実だとしてないかな」 

 「・・・、ぼくの身体に何かの状態が起きた。それが先ずあって、そのことを

 咳が出たと捉えた。

 咳が出たは、じぶんの頭の中のこと・・・」

 「ううん、まてよ、”咳が出た”が、事実としたら、その前の、何かの状態が

 あって、というのがすっぽり抜けていたことになる」

 「あらら・・・」

 夜中に目が覚めたのは事実か、ウンコが出にくいのは事実か、などいくつか

 の例で調べてみた。いずれも、それが事実だとしてしまっている。

 その前にある身体に何かが起きて、が抜けている。

 

 翌朝、コースに参加して、初めて散歩に出かけた。

寒かった。「寒い」というのは?うーん、自分の外界に何かの状態があって、

その状態をぼくが寒いと捉えた。

池の周りを歩いた。

「歩く?」歩くというのは事実かな。

右足を出して、左足を出して、歩く。足だけ出したら、歩けるのか。

実際は、何か状態、身体の相互の関連や心の状態などが先ずあって、

それをぼくが歩くと捉えた。

 池の端に桜の木があった。

 つぼみが赤みを帯びて膨らんでいる。これって、事実だろうか。

 つぼみは細い軸の上にあり、小枝から幹、根っこにいっている。

 そのひとつひとつに、目には見えないけど、何かの状態があって、それが

 相互に関連しあって、何かの状態が表れていて、それをぼくは「つぼみが

 赤みを帯びて膨らんでいる」と捉えた。

 「つぼみが赤みを帯びて膨らんでいる」が事実実際だとしてしまったら、

 その捉える前に、どんなことが起きているか、事実実際がぼくのなかでは

 消えていたことになる。 

 じぶんが捉えた頭のことを事実実際としてしまったら、そのことそのものが

 どんなものか?とか、何でそうなんだろう、という方に関心が向かないだろうな。

 大変なことしてたなあと思った。

 

心臓の疾患があり、10年以上薬を飲んでいる。

医師の診療を受けながら、生存期間を延ばすと思ってきた。

この薬をやめられるか、とみんなのなかで自問してみた。

頭の中だけでなく、実際にやめられるか、と問うてみると、やめらられると言えない。

ほか人も「やめられない」という例や「できない」という例と向き合っている。

「やめられない」としているのは、何だろう?と見ていくと、医師がそう言ったからとか、

じぶんでもよくじぶんの状態を観察、検討しないまま、「飲まなかったら・・・」を固く

”そうだ”としてきた思った。

「実際、やめられる」とはっきりしたとたん、じぶんの身体はどんな状態か、

心臓の疾患というけど、人が捉えたもの、じぶんがここに生きているのは薬だけで

生きているわけでなく、何十兆個の細胞や肺や腎臓そのほかの関連や、食物、

空気、妻や、孫、周囲の人たち、などなど、事実実態の世界は豊かにどこまでも

広がっていく広大無辺の世界につながっていく。

 

「いないのは事実か」もおもしろかった。

ぼくは「やってほしいと言ったのにやっていない」という例で見てみた。

やっていないと聞いたとき、何かムっと立ち上がるものがあった。

事としては、表面上うまくいったようだったが、ぼくのなかは、いえば

暗く、ジメジメしていた。

じぶんの状態が、どうなっていたのか?

「言ってあったんだから、やって当然」という状態から始まっている。

「やってほしい」はぼくの気持ち。相手にもそのときの気持ちがあっただろう。

それがそのときあったことだと思うが、それが「やって当然」となっている。

「やっていない」と聞いたとき、あたかもそういう状態があるかのように

なっている。

よく検討してみると、「やっていない」というのは頭のなかのことで、

そこには何かの事実実際があったというだけだとおもう。

「やって当然」というのがあるので、「やっていない」が実際のようになるけど、

「やってほしい」というだけのことなら、そこには何かの状態があって、

それぞれの気持ちがあり、それをまえにして「今からどうしようね?」というのが

あるだけだろう。

具体的なことは、話し合ってすすめる、とてもシンプル。

暗く、ジメジメした世界と、事実実際の、広がっていく世界との異い。

ああ・・・。


「自信があるとはどういう状態か」では、探訪デイでのスクール案内に

ついてみて見た。

何年かまえに、そういうことをはじめるとき、自信がなくて、いろいろ過去の

資料や記録を読んだ。自信をつけようと思ったのかな?

その後、サイエンズスクールの集中研究会などに参加しながら、やってきた。

いつも「私はスクールについて、こう思うんです」とはじめるけど、いろいろ質問

などが出ると、熱くなったり、ムキにあるような気持ちがあったかなとあとで

感じたりしながら、後味の悪い思いをするときがある。

ここのところは、まだ検討し切れていない感じがするけど、ここでは、

「自信がない」といいながら、サイエンズスクールとは、こういうものだ、

という頭のなかのことを、あたかも事実のように、捉え違いしているところに

あるのではないか。”こうだ”とキメツケるものがある。

「サイエンズスクールとはこういうものだ」というものがあるわけではなく、

何かそういう事実実際があって、それをサイエンズスクールと、ぼくが捉えて

いる。

事実実際をもっと知っていくことではないだろうか。

こんな認識で、スクールの案内がどうなるか、なんとも不確かだけど、

現状はこんなとこかな。

 

自覚とは。

頭のなかに立ち上がったものを事実実際にしていないか。

頭の中のことに関心があるのか、事実実際に関心があるのか。

「これはエンピツだ」というのは、どこのことをいっているのか?

頭の中の世界が実際だと錯覚する世界で生きるか、広大無辺の

事実実際の世界で生きるか。

日々、見たり、聞いたり、周囲とかかわって暮らしているが、

そこに焦点を当てていきたいと、つくづく思っている。

 

 

 

 


あらたまの葬送

2016-01-07 08:08:05 | わがうちなるつれづれの記

年の瀬の29日、小出農夫也さんの訃報が届いた。

一昨年、脳腫瘍の手術をして、ブラジルから日本に帰ってきて、

療養暮らしをしていた。

お通夜が1月1日、告別式が2日と聞いた。

ちょっと、行けないかと思った。

元旦の朝、思いついて、奥さんの恵子さんにお別れの挨拶に

行ってもいいかな、と電話したら、さらりと「いいよ」と言って

くれた。

農夫也さん夫妻が暮らしていた部屋を訪ねる。

ベットに農夫也さんは眠っているかのように穏やかに横たわって

いた。

側に恵ちゃん、娘さんのみどり、姉の悦ちゃんが付き添っていた。

部屋の中は、和やかな空気に包まれているいるように感じた。

次女のはるなちゃんが今年結婚する。昨年、みんなで写真を

撮った。農夫也さんは、そのときだけは、すっくと立って、娘に

祝福の気持ちを全身で表わしていたと恵ちゃんから聞いた。

農夫也さんの気持ちが、病身を越えて、周囲に発露するんだ、

と人間というものの一面を想った。

 

お線香をあげて、お別れを言って、帰ってきた。

何か、爽やかな余韻があった。

帰って、フェースブックを見ていたら、いっしょに暮らしていた

ブラジルの人たちからのメッセージや写真があった。

農夫也さんは、サトウキビから”ピンガ”を作ることに

打ち込んでいた。ブラジル「の人たちにとって、この

ピンガは農夫也さんそのもののようだ。



農夫也さんのことが、浮かんできて、「送る言葉」を書いて、

恵ちゃんに届けた。

 

       < 小出農夫也さんを送る>

 農夫也さん、あなたは威勢のいいことを言う人ではありませんでした。

飾らないし、背伸びもしませんでした。

話していても、黙って聞いていて、ときどきニッコリ微笑んで

あなたの気持ちを表わしているようでした。

 

ブラジルでやらないかと声をかけたのは、ぼくかもしれません。

農夫也さんと恵子さんは、どんな気持ちで地球の裏側に行った

んだろう。

そのとき、あなたは何かを語り、ぼくも何かを受け取ったかも

しれないが、とっさには思い出せません。

ふたりが、20年以上ブラジルの地で暮らし、ブラジルの人たちから

帰って欲しくないと慕われていたことが、今のぼくの心の記憶に

あります。

 

今日、農夫也さんとこに、お別れの挨拶に伺いました。

恵子さんから「ブラジルから帰りたい」と言っているときがあったと

聞きました。

たしかにそういう時がありましたね。

そのとき、自分の本心に出会うときが、あったのでしょうか、

一転、「ぼくはブラジルでやりたい」と晴れ晴れと、そして農夫也さん

らしい語り口で語っていたのを思い出しました。

 

恵子さんから、農夫也さんの遺骨をブラジルの地へも持っていくと

聞きました。

恵子さんも、ブラジルがしっくりくるような気持ちがあるのかなと

感じました。

 

国の境がなくなって、どこのだれとでも、隣人のようにさりげなく、

当たり前に暮らしたい。

国境を無くして、当たり前の社会に通じる近道はまず自身が迎えられる

人になることと、聞いたことがあります。

これは、どういうことだろうと、一生の問いです。

農夫也さんや恵子さんは、そういう実際を生きてきたし、生きていく

だろうなあと見えます。

農夫也さんは、これから本当に境の無い世で微笑みながら暮らして

いくかなあ。

 

    年の瀬や境なき世に逝きし君

 

合掌

 

             2016年1月1日

                  宮地昌幸