鎮守の杜から
葛木御歳神社神職が、神道についてや、日々感じたことなどを思いつくままに綴った私的なページです。
 



私は、皇學館大學で行われます神職講習会にて、祭式と理論を勉強してきました。そこで、教わった「神道」は私が思い描いていたものより、ずっと心に納まるものでした。もちろん、収まらないものもたくさんあります。でも、人は自分が感銘を受けて共感できるものだけを選んで自分のものにしていくのでしょう。頂いた教科書の中で、皇學館大學元学長の谷省吾先生の著書がとても好きです。無断引用ですが、ここに書き記します。

「…根源にあるものは、善というべきものでもなく、悪というものでもなく、両者の対立でもありません。愛というべきものでもありません。根源にあるものは、清浄な神聖性、神聖なる清浄でありましょう。神道とは、その清浄を取りもどそうとするものであります。祓えよって、それに近づこう、それを取りもどそうとする。たえず、祓を繰り返すことによって、その本来のものへたちかえらせていただこうといたします。その本来の清浄、本来の神聖、それはすなわち、いのちの出てかえるところであります。そこへかえるとき、いのちはよみがえります。その神聖な清浄がいのちの出発点であり、ふるさとなのであります。

このいのちの根源の神聖性の自覚、清浄の自覚、それは大いなる可能性の自覚でもありますが、そこに生に対する誇りがあり、喜びがあり、人が生まれることのめでたさがあると思います。いわゆる原罪の思想からは、基本的にこの喜びは与えられないのであります。

神道は、その窮極には神々にも通ういのちの、たましいの、連続を自覚しました。神道において神々は、おそろしきものであります。しかし、なつかしきものでもあります。そのいのちの連続を自覚したとき、単なる原始以来の信仰というべきレベルを超えた「神道」の成立があったのであります。(中略)

神道は光であります。神道は目先の利益によって人をひきつけようとするものではありません。人間に原罪を認め、彼岸や天国に救いを求めるものでもありません。存在を仮のものとするものでもありません。現実の中に、歴史の中に、神聖なもの、清浄なもの、純粋なるものを求め、それをよりどころとして示すものであります。外なるものを洞察し、内なるものをつきつめて、神道が示すその一つが、ここに考えてまいりました「いのち」の信仰、「いのち」の自覚というものであろうかと、思うのであります。

そこに神道の光があり、力があります。われわれは、その光と力とが、現代に生きる我々ひとりひとりのうちに、脈うっていることを自覚したいと思います。時代の困難を克服する光と力とを、はるかな未来に模索することはない。悠久の昔から、波乱万丈の歴史の中で輝き続けてきた光と力とが、やはり変わらぬ光と力とを以って、われわれを導くものであることを確信するのであります。」

「神を祭る~(現代生活と神道~いのちの自覚 章より)」谷省吾著 皇學館大學出版部


*もし、読んでみようと思われる方は、「石のひゞき 」の古本がアマゾンにあります。日本の古本屋には「神を祭る」もあります。お近くの方なら、お貸ししますよ^^



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コメント
 
 
 
ありがとうございます (はーもにー)
2006-09-12 08:38:36
ああ、ここにありました。

求めていたものの答えが。

心に光が満ちてきました、

行くべき道にも。

本当にありがとう。
 
 
 
 (みとせ)
2006-09-14 00:36:36
光は意識すると感じられるものかもしれません。
 
 
 
感謝です。 (ふゆ)
2006-09-29 21:39:21
なんだかすごく感動しました。

涙も出てきちゃいました。

そうですか、光と力ですか。

自然そのままですね。

感謝です。
 
 
 
自然そのまま。。。 (みとせ)
2006-09-29 22:27:00
ふゆさん、はじめまして!ようこそ~☆



そう。「自然そのまま」なんですよね。



もうすでにちゃ~んと示されている。。。

それに「気がつく」のが、私たちということかもしれませんね。



また書いてくださいね♪

ありがとうございました。
 
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