茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

茶と文化そして美
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熊野古道NO.7「熊野大社」「八咫烏」

2008年05月09日 | Weblog
ついに、熊野三山を巡る最終地点、熊野本宮大社へやってきました。
三山は、熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなり、それぞれの神社が祀る神の神霊の総称(または統合された神霊)が熊野神(熊野権現)である。熊野三所権現とも言い、熊野三山に祀られるほかの神々も含めて熊野十二所権現ともいう。 権現とは仏や菩薩がもともとの本体であり、仏が人々を救うために「権」(仮:かり)に「現」れた神のこととされる。
各神社の主祭神は以下の通りであるが、相互に祭神を勧請しあい、現在では各神社で三神を一緒に祀っている。
熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来 、
新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来、
熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのふすみのかみ)は千手観音とされる。三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった。
熊野では、八咫烏(やたがらす、やたのからす)は日本神話で、神武東征の際、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる三本足の鴉がめにします。
そこで、烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽神を意味する神聖の象徴と考えられ、信仰に関連するものと考えられている。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印には烏が描かれている。
『新撰姓氏録』では、八咫烏はカミムスビの曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は賀茂建角身命を祭神としている。
咫(あた)は長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。
戦国時代には、紀伊国の雑賀を治めた鈴木家の旗ともなっている。
可愛らしさのない八咫烏ですが、サッカーのマークをはじめ、色々なところで親しまれているものだと思いました。
八咫烏の意味を勉強できてよかったです。
3本の爪が、鈴木、榎本、宇井氏の祖であることがわかり考え深いものであった。


熊野古道NO.6「那智山青岸渡寺」

2008年05月08日 | Weblog
意輪観世音を祀る青岸渡寺は、一千日(3年間)の滝篭りをされた花山法皇が永延2年(988)に御幸され西国33ヶ所観音巡り1番札所として 定めたとされ、全国より、多くの信者や参詣者が訪れます。
現在の本堂は天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残し、国の重要文化財に指定されています。
また、本堂後方には、朱色の三重の塔が聳え、壮大な大滝とのコントラストが美しさをかもし出しています。
4世紀の頃、インドから那智の浜辺に流れ着いた裸形上人が大滝の滝壺から観音像を見つけ出し、そこに草庵を結んで安置したのが起こりといわれています。
青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。
青岸渡寺尊勝院は、現在宿坊になっています。
朝のお勤めに参加するのには都合の良い宿です。
とってもさっぱいとした親切な宿坊でした。
もちろん眺めも最高!
朝のお勤めは5時です。
少々早いですが折角ですからお参りして清らかな気分で一日をスタートしました。
みなさまもいかが?

熊野古道NO.5「妙法山 阿弥陀寺」

2008年05月07日 | Weblog
今から1300年前、大宝三年(西暦703年)唐の国 天台山の蓮寂上人というお坊様が日本に渡って来られ、この熊野にたどり着きました。上人は四方を見渡せるこのお山の頂上がとても気に入って、ここで修行をすることになったのです。
妙法蓮華経というお経を写経して山頂に埋め、立っている木をそのまま彫ってお釈迦様の仏像を安置しました。その時からこのお山は、お経の名前をとって妙法山と呼ばれるようになりました。
その後、空海上人(弘法大師)が高野山を開かれる前の年、弘仁六年(西暦815年)に妙法山で修行をして、西方に有るという阿弥陀如来の極楽浄土への入り口として山腹にお堂を建てて阿弥陀如来をご本尊としたため、阿弥陀寺と名づけられたのです。
それから現在に至るまで、有名無名のお坊様達や行者達をはじめ熊野に参詣する沢山の人々が、それぞれの求めるものを探してこの妙法山に登って来ました。
ここではお山の各お堂をお参りしながら妙法山(阿弥陀寺という名前よりも妙法山というお山の名前のほうが有名なお寺です)の紹介をして行きたいと思います。
三宝荒神堂
妙法山の鎮守様 三宝荒神をまつってあります。
木造の荒神像は珍しく、三面六臂の憤怒尊で、紀州徳川家初代藩主 徳川 頼宣公が勧請した神様です。

このお寺に行くには那智大社から1時間も山道を歩きました。
そう、古道の続きです。
かなりきつかったですが、たどり着いて見えた景色はうそのように綺麗でした。
空が澄み渡っていました。
絶対に行くべきお寺さんです。
しかしここからはやはり那智までもどるしかありませんから、山道を帰ります。
帰りは30分でおりました。
足にきました。今日は宿坊に泊です。

熊野古道NO.4「曼荼羅の道」「大門坂」

2008年05月06日 | Weblog
「曼荼羅の道」は、那智川に沿って県道を歩いて行くと牧野々の集落に入る県道を横断し、民家の間を抜ける道であす。木漏れ日が差す小道や木道は 情緒あふれるハイキングコースでもあり、手軽に散策ができます。
手軽といっても、歩き始めると結構これがきつい!
国道をまず歩くしかないので、行きかう車やバスを横目に歩くことのだが、普段車に慣れている自分は車たちがうらやましくさえ思うぐらいだらだらと歩く。
小道にはいると別世界がやっとはじまる。ここからは夢中で歩いていたように思う。
荷坂峠には尼将軍の供養塔がある。尼将軍とは、源頼朝の妻、北条政子のあだ名で二位禅尼、尼御台所とも呼ばれ源頼朝の没後、北条時政、義時とともに頼家、実朝の後見としてまつりごと見た女丈夫であった。
京洛の地より山川八十里、歴史の道大門坂は苔むした石段と樹齢800年を越す老杉等に囲まれ、往古の熊野詣を偲ぶ古道。
かつて坂の入り口に大門があり、通行税を徴収していたことが名称の由来とされる。 坂道の両側にまるで門柱のようにそびえる夫婦杉をくぐり、九十九王子最後の一社・多富気王子を横目に、樹齢数百年の深い杉木立の中に石畳の道をたどる。坂を上りきったところは、青岸渡寺と熊野那智大社があり、那智滝へも直ぐの位置にある。

この、大門坂茶屋には沢山の写真があった。
また、私のお勧めはここで売られている「目はり寿司」です。
美味しいです。家庭の味がでていて手ごろな値段で美味。
ぜひ味わって下さい。結構いけます。
この大門坂は、熊野古道でももっとも古い面影を残している参道で、「日本の道百選」に選ばれています。




熊野古道NO.3「浜の宮王子」

2008年05月05日 | Weblog
熊野三所大神社のことです。
鎮座地:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮353
御祭神:家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神
摂社:丹敷戸畔命・三狐神・若宮跡

那智の浜の近く、那智駅から徒歩5分ほどのところにあるこの神社は、熊野三所権現(家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神)を祀ることから、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)と呼ばれ、また、元「浜の宮王子」であったため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしゃ)とも呼ばれます。
この神社の隣には補陀落山寺(ふだらくさんじ)というお寺があり、神仏習合の形態を今に残しています。
 熊野詣が盛んだったころには、浜の宮王子とも渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となっていました。那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれています。
 浜の宮王子前にあった森は「渚の森」と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森でした。現在はもう森はありませんが、大きく立派な数本の楠がかつてそこに森があったことを教えてくれます。

 むらしぐれ いくしほ染めて わたつみの 渚の森の 色にいずらむ

                   (『新古今和歌集』 衣笠内大臣)

 摂社として、丹敷戸畔命(地主の神)・三狐神(食物の神)・若宮跡(浜の宮王子跡)が祀られています。
 丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)とは、『日本書紀』における神武天皇の東征の折の記述に登場する人物で、天皇はひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(またの名を丹敷浦)に至られた。そこで丹敷戸畔という者を誅された。そのとき神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわなかった。
と、登場してすぐに神武に殺されてしまう土豪の女酋長です(丹敷戸畔命の「戸畔」とは、女酋長の意)。

何とも不思議な感覚のある神社でした。
熊野詣でを行うエネルギーをもらった気がします。


熊野古道NO.2 補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

2008年05月04日 | Weblog
ここは、紀勢本線那智駅前面に広がる浜の宮海岸は、平安時代からおよそ千年に渡って南海の果てにあると信じられていた観音浄土を目指して渡海上人が、釘付 けされた船の中に座り補陀洛渡海に出発したところでもあります。
那智駅から国道を渡ったところに補陀洛山寺があり、渡海上人達をおまつりしております。
天台宗の寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されている。

《文化財》
本尊― 木造千手観音立像(三貌十一面千手千眼観世音菩薩)(像高172cm、一木造、平安時代、重要文化財)
脇侍― 持国天・広目天像(平安中期)
銅花瓶(享禄2年(1529年)3月18日の陰刻銘)
銅仏餉鉢(天正5年(1577年)祐善が寄付)
那智参詣曼陀羅、
「日本第一補陀洛山寺」の勅額(伝文武天皇と一条天皇の宸筆)
渡海船(復元)
享禄4年(1531年)に渡海した足駄上人の渡海木礼、渡海上人位碑、渡海船の部材が現存する。
平維盛 供養塔
平時子 供養塔

千手千眼、全知全能、広大無辺の偉大なる観音力を表し給う千手観音は、補陀洛山寺のご本尊です。

この補陀洛山寺には仏像が17体あり立派なお寺です。
平維盛が二十七歳の時、補陀洛山寺の和尚さんに送られ、山成島の沖で入水した平家物語 ゆかりの地としても知られています。さらに、ここは中辺路、大辺路、伊勢路の分岐点として 古くから歴史的にも重要なところです。
渡海船は今までに何回も出て行ったようであるがとても小さく決して生きて戻れる船ではないと思う。江戸時代まで続けられた船と聞いたが船に乗った気持ちはいかようであろうかとおもうと考え深いものがあった。
住職に面白い道があるよといわれ、曼荼羅道を歩くことになった。
これが大変に面白いが予定を狂わせた多い要因だったが熊野古道を楽しむには充分な魅力をもった道で皆様にもお勧めです。
さぁ、ここから歩きますよ~!


熊野古道の旅 NO.1

2008年05月03日 | Weblog
わざわざ人様の休みにあてて出かけなくてもと思うのですが何故か連休に足を熊野へ向けました。
そう、宿も列車も予約せずに行き当たりばったりの二泊三日です。
どうにかなると思ってリュックを担いで一路新宮へ向かいました。
神倉神社へまずはおまいりに行きました。
熊野三山の元宮だそうです。
神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま)の山腹・標高80メートルほどの場所にあり、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。
山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。
創建
神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉神社は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。
熊野信仰が盛んになると、熊野坐神が諸国を遍歴した末に、阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとされるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この記述に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院とも称された。また、熊野速玉大社の運営にあたった修験者の集団・神倉聖(かんのくらひじり)が本拠地としたのもこの神社である。
ご神体が岩山なので大変に急な階段を登ります。
でもぜひまた行ってみたい神社のひとつとなりました。
しばしあの階段は登りたくないほどきつかったですがね。


千葉県一ノ宮玉前神社

2008年05月02日 | Weblog
こちらの神社は大変歴史が古い神社です。
由緒は、一宮町は房総半島九十九里浜の最南端に位置し、一年を通して寒暑の差が少なく温暖な気候に恵まれた土地で、縄文弥生の頃から人々の営みがあったことが遺跡や貝塚などによって明らかにされています。
 歴史の古いこの一宮町の名称の由来となった玉前神社は上総国にまつられる古社であり、平安時代にまとめられた『※1延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』では名神大社(みょうじんたいしゃ)としてその名を列せられ、全国でも重きをおくべき神社として古くから朝廷・豪族・幕府の信仰を集め、※2上総国一ノ宮(かずさのくにいちのみや)の格式を保ってまいりました。
 しかしながら永禄年間の大きな戦火にかかり、社殿・宝物・文書の多くを焼失しており、ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていませんが、毎年九月十日から十三日に行われるご例祭には少なくとも千二百年の歴史があり、移りゆく時代に少しずつその形を変えながらも、古代からの深い意義を連綿と守り伝えてきたことを何よりの宝物として、この郷の人々と共に大切にしています。
面白いのは、お神楽があることです。
 「上総の裸まつり」「十二社まつり」と称されるこのお祭りは房総半島に多く見られる浜降り神事の代表として広く知られ、壮大な儀礼をひと目見ようと、関東一円から大勢の人々が集います。 当社相伝の神楽面23面を有し、古くから当社神主家の人達によって伝承されていたものが永禄の戦火で途絶えたと思われ、記録では宝永7年(1711年)新たに神楽殿を造り土師流神楽が伝承されたとされています。 
現在は上総神楽保存会が口伝によりその技を継承し、春・秋の祭礼をはじめ年間7度奉納されています。
私も機会をみて訪ねたく思っております。下記が日程です。

〈上総神楽年間予定 )
 1月 1日 新春初祈祷祭 晦日11:30~0:30頃
 4月13日 春季祭 午後1時半より
 7月14日 宮薙祭 午後7時より
 9月10日 鵜羽神社お迎祭 午後2時半より
 9月12日 お漱祭 午後6時半
 9月13日 御例祭  午後1時半
11月 1日 氏子太々祭 時間要問い合わせ

明日から熊野古道へ行ってきます。
ブログは数日お休みします。
皆様も良いゴールデンウィークを!

身延山 久遠寺!牡丹も見事です。

2008年05月01日 | Weblog
櫻の寺身延山というイメージが多いと思いますが、実は牡丹の花も見事です。
今真っ盛りですよ。若葉も輝いていて美しかった~。
まだまだお寺の魅力は沢山あって、お伝えしたく思っております。
それは祖師堂と水鳴楼の前庭です!

◆祖師堂
日蓮聖人を祀る堂閣。日蓮聖人の神霊の棲みたもう堂閣であることから棲神閣と称する。

祖師堂には二つの屋根が重なり合っています。
ネズミ山の感応寺の本堂を移築し、増築して今の形になったようです。
威風堂々とした貫禄のある建物です。
可愛らしいのは外の屋根の部分に力士が屋根を支えています。
その足元で柱にかじりついている獅子がいます。ただ、歯が痛そう。
何とも可愛らしいです。外はべんがらの朱が美しい!
とても大きな建物ですから当時の様子が見てみたいですが・・・。
もう一つは、水鳴楼の前庭です。
日蓮聖人700遠忌記念事業の一つとして再建された水鳴楼。その前庭は江戸時代の作庭です。
鶴亀だそうですが、ここのお庭はとても寛げます。ゆったりと座って時間が経つのを忘れてしまいます。
何とも落ち着く空間です。
またこちらの庭には、旧書院があります。松平家の家紋の釘隠しにいまひとつの関りを知りたくなりました。
何ともゆったりとしたお部屋でした。
しかしながら、増上寺の景光殿にも造りが少々似ているのが気になりました。
歴史を感じながら天気のよい一日でしたので、のんびり境内を回りました。
とはいえ、厚かましくも案内して戴けたのです。
お時間の忙しい方と伺っていましたが、楽しく勉強になったひとときでしたのでとても嬉しく存じました。
五重塔が今年秋に完成されるようです。
本物の美しさをぜひ皆様もご覧になっては如何でしょうか?

今山梨が面白い!!