言語空間+備忘録

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韜晦之計

2010-11-24 | 日記
陳惠運・野村旗守 『中国は崩壊しない』 ( p.198 )

 一〇〇年の混乱のあと、中国を平定したのは毛沢東の共産党だった。
 建国後の共産主義中国は「反帝国主義」と「反覇権主義」を叫び続けたが、毛沢東の本心は違っていた。赤い始皇帝である毛沢東は、大躍進政策を進めるにあたって「一五年でイギリスに追いつき、三〇年でアメリカを追い越す」と宣言した。このスローガンも、また同時期に進めていた核兵器開発に対する異常な執着も、世界制覇を夢見た毛沢東の野望のあらわれだったと言える。
 そして世界制覇の夢は、毛沢東ばかりでなく、全中国人の夢でもある。大中華帝国の復興こそが、中国人にとって何より重要な面子 (自尊心) を満足させてくれる物語だからだ。それを実現するためなら、どんな苦難にでも中国人は耐えられる。すでに述べたように、中国人には病的とも言える我慢強さがある。世界を制して一〇〇年の屈辱を晴らすためなら、国民は飢餓にも圧政にも平気で耐えられるのだ。
 結局毛沢東の野望は叶うことなく潰えた (ついえた) が、その代わり、文化大革命中の彼は、西側世界、東側世界に次ぐ「第三世界」という概念を提出した。中国をその世界の中心に置き、みずからをその最高指導者と称した。
 毛沢東の死後復活した小平は、毛よりはまだ世界が見えていた。中国の実力を見据え、「まだ時期ではない」と判断したは「韜晦之計」を命じ、「時期が来るまで爪を隠して力を養え」と戒めた。
 尖閣問題がそのいい例だ。
 七〇年代に日本とのあいだで尖閣諸島をめぐる領有権問題が持ち上がった。七八年に来日して日本の閣僚と懇談した小平は、「こういう問題は一時棚上げしても構わない。次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。みんなが受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」との談話を発表して尖閣問題を先送りした。これも「韜晦之計」である。当時の中国の国力からして、戦後飛躍的な経済発展を遂げ、しかもアメリカと軍事同盟を結んでいる日本と争っても勝ち目はない。だからこそ「しばらく棚上げしよう」とは言ったのだ。
 情勢が変わってきたのは、九〇年代に入ってからである。
 江沢民時代の九〇年代半ばから中国は、徹底した愛国主義教育でナショナリズムの高揚を促しはじめる。この時期の共産党は、中華帝国の最盛期である清朝前期の皇帝たち――第四代康熙帝、第五代雍正帝、第六代乾隆帝――の物語を続々とつくらせ、偉大な中華帝国が復活しつつあると、暗黙のうちに国民に鼓吹 (こすい) しはじめた。中央電視台 (CCTV) は三大皇帝に関する大河ドラマを毎週連続で放送し、彼ら満清皇帝を主人公とする小説が国家最優秀図書賞を受賞した。
 当然のことながら、その裏には「借古諷今 (昔の例を借りて今に喩える)」という政治的な意図が隠されている。一連の物語は、大清帝国を築いた過去の偉大な皇帝たちに、現代の皇帝である江沢民の姿を投影させたものだったのである。
 経済発展とともに軍備増強を着々と進め、二〇〇〇年代に入って世界列強の一角と目されるようになると、中国人の心の奥底に眠っていた野望と怨念が蠢動 (しゅんどう) しはじめることになる。
 〇八年にオリンピックを成功させ、ほぼ同時期にアメリカが没落の兆しを見せはじめると、中国人は「韜晦之計」を破って、野望の片鱗を露 (あらわ) にし出した。
 〇九年三月、フィリピンとのあいだで南沙諸島をめぐる領有権問題が再燃すると、中国は南シナ海に軍艦を改造した大型監視船を投入し、新法を制定して実効支配に動いたフィリピンを実力で制した。このとき、事実上諸島の領有宣言をしたフィリピンに対し、官民挙げた中国側の反発は凄まじかった。ネット上には「該出手時就出手! (中国はやるときはやる=七九年に小平がベトナム出兵を決めたときの発言)」という言葉が飛び交い、「韜晦之計」はすでに時代遅れだ、といった類の過激な主張が氾濫する。中国の覇権主義が殻を破って首をもたげはじめたのだ。
 覇権という言葉は紀元前の春秋時代からすでに使われており、中国の歴史はいつも覇権をめぐって争う歴史だった。覇権を奪取した者が王となり、敗れた者は賊となる。そこに正邪の基準はない。ただ、強いか弱いか、勝つか負けるかである。勝って天下を統一した者がすべてを決し、過去の歴史はいかようにも塗り替えることができるからだ。
 覇権とは天下に向かって号令をかける権利のことである。かつて中国が世界のすべてであった時代、天下とは中国そのものを意味したが、現代の天下は違う。現代の覇権主義とは、五つの大陸と七つの海洋すべてを制して自分のものにすることだ。
 そして、ようやく機が熟しつつある、と中国人は感じはじめている。こまこそ世界統一の夢を――その言葉が全中国人の喉元までこみ上げている。


 中国は世界覇権の奪取を目指している。小平は「韜晦之計」を命じ、実力がつくまでは、すなわち「時期が来るまで爪を隠して力を養え」と戒めた。そしていまや、中国は「韜晦之計」を破り、実力行使に踏みだしつつある、と書かれています。



 世の中には、尖閣諸島についての小平の談話「こういう問題は一時棚上げしても構わない。次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。みんなが受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」に共鳴し、「その通りだ。さすが中国だ」と感心する人 (日本人!) もいますが、

 これは「弱者の戦略」であり「韜晦之計」である、という著者の指摘は、もっともだと思います。

 これに対して、小平の談話に共鳴する人 (日本人!) は、

   小平の真意は「韜晦之計」ではない。
   どうしてそのように「ひねくれた」受け取りかたをするのか、

と疑問を提起するでしょう。しかし、中国が (経済発展による貧困の解消を後まわしにしてでも) 貧困に耐えながら核兵器開発に邁進したことを考えれば、「どう考えても韜晦之計である」とみるのが適切だと思います。



 問題の要点は、中国を「信用するか、疑ってかかるか」です。

 日本人の感覚としては、他人を「信用する」というのが発想のベースになるのは当然だとは思いますが、先日の尖閣沖漁船事件では、「日本側からぶつかった」などの「嘘」が中国によって発表されていましたし、「漁業監視船」という名称も「カモフラージュ」っぽい感じがします。東シナ海ガス田にしても、中国は日本との約束を一方的に破ったと報じられています。とすれば、「疑ってかかる」のが当然ではないかと思います。

 すくなくとも中国の態度は「信用しづらい」わけで、そのような状況下で「信用し続ける」のは、「よほど人がよい」か「馬鹿」かの、どちらかでしょう。



 私はこの本で初めて知りましたが、「第三世界」が毛沢東の提出した概念であるとすれば、そこには、「あくまでも世界のリーダーでありたい」という中国の「対抗意識」が動機として存在していると思います。

 このような中国ですから、著者の説くように、中国はあくまでも世界制覇 (世界覇権) を目指しており、すべてはその目的に向けられている。もちろん、小平の談話は「韜晦之計」である、と考えてよいのではないかと思います。すくなくとも、中国側の意図を疑ってかかることは必要だと思われます。

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