今年になって私はフェルメールの絵を6点、鑑賞したことになります。現存するフェルメールの絵が最大解釈で37点、厳しい判断で32点と言われているなかで6点とはなかなか贅沢なものだと思います。それも東京にいて1時間ちょっと電車に揺られていけばそれを拝むことができるなんて、東京は落ち目だとは言われながらも世界的にも消費が盛んな国際文化都市なんだなあとあらためて実感するわけです。それと同時に日本人はフェルメールが好きなんだとも。全くこの世界的名画が続けて来日する現象だけを見ていると震災の影響は美術展示業界ではあまりないと見ることができるのかもしれないと感じるのです(想像にすぎませんが…)。
ということもあり、せっかくフェルメールの絵にふれることができたので、ちょっと本でも読んでお勉強しようということで、対談形式になっていて比較的軽く読めそうなこの本を選んだのです。著者の朽木ゆり子氏はノンフィクション作家で「フェルメール全点突破の旅」という本を出している。福岡伸一氏はテレビでも時々見かけることがある生物学者で、「フェルメール 光の王国」という本を出している。二人ともアマチュアと謙遜しながら、フェルメールに関するその知識は尋常ではないレベルの持ち主で、多少の後付けの部分はあるのでしょうが、フェルメールのあれがどうした、この絵がこうしてこうなってという話はとてもアマチュアと呼べるレベルではありません。私はフェルメールの話よりもそうしたうんちくの方が面白く、また、驚かされたのです。自らをアマチュアと呼びながらビックリするような知識を持っているので、本職における知識はどれほど深いんだ?と。
福岡氏はなぜフェルメールの絵が好かれるのか?という問いに『絵の中すべてのものが、いずれも強調されることなく、美化されることもなく、極めて公平に描かれているからだ。公平さはどんな細部にまでも行きわたっている。』と述べ、さらにその上で、我々の目は、その目を通した時点で自分が見たいようにしか絵を見ていない、あるいは、見ることができないと。しかしフェルメールの絵は、『私たち自身の視覚の恣意性に対する拒否宣言のようなものだ』と言うのです。だから毎回見る度に発見があるのだと。『公平さとは、対象物に特別な意味を付与せず、中立のままとどめるということでもある。つまりすべてを宙づりにしておく。フェルメールの絵は絵の中は文字通り、宙づり(サスペンド)にされたものごとに満たされている。それゆえに私たちはフェルメールの絵を見るたびに、サスペンスを感じ、そこになんとか意味や意図を見出だそうとする』のだと。うーん、言い得て妙か?確かにフェルメールの絵を見ていると何か意味をとらえたくなることもありますが、それ以上に、私は絵自身のパワーが強烈にあるように思えてなりません。ありのままに描くとは、たとえば現代のスーパーリアリズムな絵もあるわけで、それに比べるとフェルメールの絵は、ありのままに描いているとはいえ、リアル感は落ちるような気がするのです。絵がもっている空気、清涼感、清々しさが、他の絵では感じることができない魅力なのではないかと思います。それはやはり光の表現それが、誰もまねできないような素晴らしさ、技術、感性があるのだと思えてなりません。ただ、フェルメールの贋作が多く出回ったということが本書には書かれてあるんですけれどね。※『』部分、「深読みフェルメール」朽木ゆり子・福岡伸一(朝日新書)の福岡伸一によるあとがきより引用
深読みフェルメール (朝日新書) | |
朽木ゆり子,福岡伸一 | |
朝日新聞出版 |
フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版) | |
朽木 ゆり子 | |
集英社 |