Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DON CARLO (Mon, Nov 22, 2010) 前編

2010-11-22 | メトロポリタン・オペラ
今日のメトは、デクスターの旧演出に変わり、ハイトナーによる新演出の『ドン・カルロ』がプレミアを迎える日。
(ただし、この演出はロイヤル・オペラハウスとの共同制作で、ROHではすでに2008年に初演済み。)
メトで初めて舞台にかかる正真正銘の”新演出”とは違い、ROHでの舞台がすでにDVDでもリリースされていますし、
それでどのようなプロダクションか、という大体のイメージはわかるので、
”真の新演出もの”ほどには盛り上がらないだろうな、と思ったらとんでもない!!

1979年から30年以上続いたプロダクションがどのようなものにとって代わるのか、という期待・不安と、
それからやはり『ドン・カルロ』という作品自体への思い入れ・人気が大きいのでしょう、
上演が始まる前から、すでに観客側もオープニング・ナイトにも負けない位の盛大な盛り上がりぶりを見せています。

メトではこの作品はずっとイタリア語で歌われていて、
かつ、レヴァインが指揮するようになって以降、フォンテンブローの森の幕も演奏されるようになっており、
(直近の2006-7年シーズンの上演もそうでした。)
事前に行われたパネル・ディスカッションでも語られている通り、
今回もそれを踏襲したイタリア語5幕版による上演になっています。

第一幕(フォンテンブローの森の幕)があるのは、その方が話の流れが観客にとってわかりやすくなる、という実際的な理由と、
もう一つは、カルロとエリザベッタの2人の絆や愛が冒頭に描かれることで、
この作品のロマンスの側面を大きく押し出す効果があると思います。
特にこの作品を、カルロの物語である、ということを強調して演出する場合、
このシーンがあることで、カルロがずっと胸の中に抱いているエリザベッタの存在の重さが
全編を通してよりはっきりと底に流れるようになり、
だからこそ、その彼女から離れてフランドルに旅立つ決心をした時の彼の姿を我々観客は
おおいなる感慨を持って見守ることになります。
問題は、この一幕がくっつくと、演奏時間がプラス約30分になって、
四幕だけでも決して短くはないこの作品の上演時間がさらに長くなること。
それともう一つは、他の幕の音楽が、どこを切り取っても素晴らしく、
まるで聴き所のオン・パレードの様子を呈しているのに比べると、この一幕はそこまで音楽が強くないというか、
先に書いたように、物語の背景を説明する要素の強い幕なので、
誰が歌っても聴いているだけでわくわくするようなドラマティックな音楽に満ち溢れている、というわけではない点です。
この幕で登場する人物は、テバルドのような脇役を除いて、主要キャラクターの中ではカルロとエリザベッタだけ。
別にこの一幕がなくても、ニ幕以降で歌われる言葉で何が起こったのか、筋としては十分伝わるので、
要はこのカルロとエリザベッタが観客が30分費やして無駄にしなかった、、と思うだけの、
また、物語の筋を通すだけでない何か、2人の間に流れているものをきちんと観客に伝えるだけの、
歌と演技を見せてくれなければならないのです。



今日の公演でエリザベッタ役を歌うのはROHでも同役を歌ったマリーナ・ポプラフスカヤ。
そして、カルロ役はロベルト・アラーニャ。

先に結論を言うと、私は、正直なところ、一幕は特になくてもいいかな、、なんて思ってしまいました。
ニ幕から始めて、つまり、四幕版で上演しても良かったかもしれません。

まず、ポプラフスカヤなんですが、彼女はこの役をなかなか上手く捕らえていると思います。
ニ幕でカルロに抑えていた思いを吐露されて、つい、自分も同じ気持ちであることを認めてしまうところ、
また、その後に、”でもだからと言って何が出来るというの?
父親であるフィリッポを殺して、その血にまみれた手のまま、私を婚礼の祭壇に導こうとでも?”と爆発する場面は、
彼女がカルロよりずっと早く、自分の王室の人間としての責務を受け入れていること、
それに伴う彼女の心の痛みとやるせなさが表現されていなければならないと思うのですが、
彼女はここを説得力を持って歌っていて、この日の公演でいくつか火が出た場面があったとすれば、
ここが最初の一つだったと思います。
それを言えば、一幕で、フィリッポってちょっぴり意地悪、、(彼にしたら善意のつもりだったのでしょうが、、)と思うのは、
自分との結婚は強要でなく、あくまで彼女の自由意志であるように、という名目で、
彼女に自分と結婚する意志があるかないか、を答えさせるところです。
そんなの、あなた、王様にNoって言えるわけないでしょうが!って感じなんですが、
ポプラフスカヤが、この、エリザベッタがYesと答えた瞬間に、彼女は自分の立場を理解したんだな、、
というのが判る演技を見せていて、この点も、後の幕につながっていく
(こちらはエリザベッタの視点から)一幕の重要なポイントであることに気づかせてくれます。



彼女の最大の泣き所は、人に好かれにくい声質とルックスにあるでしょう。
声に関しては、彼女の場合、聴いていて心地良いふくよかな声でも、うっとりするような美声でもないし、
また、発声の美しさで感心させるタイプでもなく、
どちらかというと耳障りでぎしぎししたテクスチャーのある声だと思いますし、
(フロートするような高音まで上がってしまうとそうでもないのですが、その手前でしっかり出すような音にその特徴を強く感じます。)
また、ルックスに関しても、単にあまり美人じゃない、ということだけでなく、
なにか、多くの人には好かれにくいものがある顔なんだと思います。
”彼女を見ていると、なぜだかわからないけど顔に平手打ちをかましたくなる。”と、
あるオペラ・ブログに書き込んでいたヘッドがいて、思わず笑ってしまいましたが、何となく、ニュアンスはわかります。
これは、しかし、言い換えれば、彼女が、美人が相手ではもちろん、
(ああ、それなのに、今シーズンの新演出の『椿姫』も、シーズン前に降板を決意した
ネトレプコに代わって、彼女が歌うんでした。かわいそうに、、、。)
愛嬌のある不美人と同じレベルのことをしても、同様には評価されにくい人、ということが言えると思います。

でも、私は幸い舞台から離れたグランド・ティアーの正面座席に座っていましたので、
彼女の顔がとても四角い点とか、顔のパーツが中心に寄っている、といったことなんかよりも、
彼女がいかに身のこなし、姿勢、衣装さばき、といった細かい点を大事にしながら、
美しくこの役を演じているか、という点の方が印象に残りました。
ドラマは、まず、このエリザベッタがどういう立場の人物か、ということが、
身のこなしから伝わってくるような、その土台の上に築かなければ、何の説得力も持たないわけで、
そこをきっちりこなした彼女の努力は評価されるべきだと思います。

彼女の声は、もしかすると、エリザベッタ役には若干無理をしているところもあるのか、
今日の彼女はいつもに増して、上で書いた、やや高めの音域でしっかり出さなければならない音に
ごりごりした感触があったのですが、ピアニッシモで出した高音の中にはとても綺麗に出ているものもありましたし、
(彼女が昨シーズン『トゥーランドット』で歌ったリューでは、今日よりも、
もっと高音域が楽に出ていたので、コンディションの問題もあるのかもしれません。)
先に書いた、カルロに自分のやるせなさを爆発させてしまう場面での音なんかは迫力があって、
こういう音を出せるパワーは潜在的にある人なんだな、と思いました。




では、どうして一幕はなくてもいいかな?と思うか。
今まで一度たりともアラーニャに優しかったことがない当ブログですので、わかりやすすぎましたでしょうか?
そして、その期待を裏切らず、やっぱり、アラーニャが原因なんです。

最初に断っておくと、彼の声のコンディションは、今日、極めて良かったです。
彼がここまでコンディションが良いのを聴いたのは、2007年の『アイーダ』以来かも知れません。
その『アイーダ』自体、久々に聴いた彼のまともな歌唱だったんですから、なにをかいわん。
彼ももう50近くですし、ドミンゴでもあるまいし(ドミンゴの場合は、運、持っている声の強靭さと、
本人のとてつもなくしっかりした歌唱基礎が組み合わさってその長いキャリアを可能にしているのであって、誰にも真似できるものではありません。)
キャリアがこの先何十年も続く、ということはないでしょうから、
歌いたいものは今歌わなかったら、永遠に歌えなくなる可能性があると思って、
『オテロ』なり何なり、私のいないところで(←ここ重要)どんどんチャレンジしてもらって構わないのですが、
やはり、そういうスタンスで色々歌っている彼ですので、役によって、
またスケジュールの過密さによって、非常に声が荒れているときがあって、
というか、私が聴く時は、そんな、荒れている状態がほとんどなんです。
もちろん、若かった頃の彼の歌声と全く同じものを求めるのは、年齢からして無理がありますが、
今日は久々に、今彼が出せる範囲の、おそらく一番綺麗な音が出ていましたし、
高音も果敢に取り組んでいて、ストレッチしていた音がなかったわけではありませんが、
音のスピード、スリルもあったと思います。



しかし。
今、オペラの世界で段々肩身が狭くなっている、と言われるのが、
いわゆるpark & barkと言われる、立ったまま吠えているだけ、な歌い方です。
普通、この言葉は、太ってあまり舞台上で身動きがとれず、
演技も巧みでない歌手が直立不動で立ったまま歌っているような場合を指すことが多いのですが、
私は今日の公演を見ていて、アラーニャもまた典型的なpark & barkの人なんだな、、と思いました。
彼は太っていないので、今まであまりそういう角度から考えたことがなかったのですが、
考えてみれば、彼って、これまでも、基本的にはいつもこういう歌い方だったなあ、、と。
あまり私の方に思い入れの少ない、一部のフランス・オペラなんかだと(グノーとか、、)、
それでも、ま、いっか、、と思えるのですが、『カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師』とか、
この『ドン・カルロ』のような作品でそれをやられると、とても頭に来るんです。

まず、彼の演技のバリエーションの少なさ!
演出家に規定された、舞台上必ずやらなければいけない動き
(走って一つの地点から他の地点に行くとか、剣を抜いて闘う、とか)を除くと、
相手役の女性の胸から腰あたりに抱きついているか、両手を前に広げて歌う、
いわゆるテノール歌手がよくするポーズ、、この二つしかありません。
その底流にあるのは、彼はあまり役をつきつめて考え表現するようなタイプではない、ということなんではないかと思います。
その結果、歌の方も、何も考えないで、ただ形を整えて歌っているだけに聴こえ、歌と一体化した強烈なドラマがないのです。
エリザベッタの胸や腰に抱きつくのもよろしいですが、そこには何か、
そこにカルロを突き動かしている動機や感情があるわけで、それを歌と演技に感じさせないといけません。
この作品では、エリザベッタと彼をとりまく状況や2人の気持ちが刻々と、幕毎、場毎に変わって行っているはずなのに、
彼女の胸に顔を埋めている様子がいつも一緒だし、歌にもそういった細かいニュアンスの違いを感じません。

特に私のオペラの鑑賞の仕方は、役をどのように分析・表現し、
そのために声と歌唱と演技をどういう風に役立てているか、
かつ、その全てを公演中には感じさせずに、ただ観客に息をするのも忘れさせるようなテンションで提示できるか、という、
その点に興味が一番向かっているので、最初の二つが欠落しているアラーニャの歌はあまり興味が持てないです。
このフォンテンブローの幕の存在意義を引き出すためには、
こういうpark & barkでないタイプのテノールを必要とするんではないかな、と思います。

また、このハイトナーの演出はカルロを思い切り物語の中心にするべく、
舞台転換等で舞台後方と前方を分けるスクリーンを下ろす際、必ずカルロをスクリーンに前に残して、
常に我々観客にカルロの存在を意識させ続けます。
時にはそれが物語の整合性との無理を生じていて、次の場にはカルロがいないはずのところでも、
アラーニャがまだ舞台上をちょろちょろしていて、”なんでそんなところにまだカルロがいるのか?”と
突込みを入れたくなる部分もあるのですが、演出家の狙いはよくわかります。

このように演出家がカルロを物語の軸にしている時に、その役を歌うテノールが
park & bark型の歌手であるというのは、どれほどネックになるか、、、。
ROHがこの演出のカルロ役にヴィラゾンやカウフマンをキャスティングしていたというのは、
実に正しい。少なくとも彼らはpark&bark型の歌手でないことだけは確かですから。

後編に続く>

Roberto Alagna (Don Carlo)
Marina Poplavskaya (Elisabeth of Valois)
Simon Keenlyside (Rodrigo)
Ferruccio Furlanetto (Philip II)
Anna Smirnova (The Princess of Eboli)
Eric Halfvarson (The Grand Inquisitor)
Alexei Tanovitsky (A Friar)
Layla Claire (Tebaldo)
Eduardo Valdes (The Count of Lerma)
Jennifer Check (A Celestial Voice)
Tommaso Matelli (Priest Inquisitor)
Anne Dyas (The Countess of Aremberg)
Donovan Singletary, Keith Harris, Christopher Schaldenbrand, Joshua Benaim, Tyler Simpson, Eric Jordan (Flemish Deputies)
Conductor: Yannick Nézet-Séguin
Production: Nicholas Hytner
Set & Costume design: Bob Crowley
Lighting design: Mark Henderson
Gr Tier D Even
BS

*** ヴェルディ ドン・カルロ Verdi Don Carlo ***

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10 コメント

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park and bark (Sheva)
2010-11-25 20:23:00
いや~ん、おもしろすぎる!park and bark なんてまるで馬か犬のような言われ方、ロベルト!(大笑) 彼はやはりフランス語版の方だけで良かったのかしら?
確かにロベルトの1幕は入れ込み過ぎで最悪だったけど…
今後のMadokakipさまのばったばったと斬りまくる筆が楽しみです!
マリーナのことも…(笑いすぎて何も書けません)本当すみません。
ていうことは2F正面でご覧になっていたということですか? 
返信する
Shevaさん (Madokakip)
2010-11-27 14:50:48
>なんてまるで馬か犬のような言われ方、ロベルト!(大笑)

いつもこのブログで虐げられている彼、、、
いつかはポジティブなことを書いて差し上げたいと思っているんですけれど、
今日のような声のコンディションが良い日ですらこの感想では、
そんな日は決して来ない、ということかもしれません、、。
ただ、『ナヴァラの娘/カヴ』の記事にも書きましたが、彼はpark & barkすらなしに、
楽譜を見て歌っている時の方が、いいな、と思いました。
(ってことは、彼に演じるな、って言っているのと同じことですね 笑)

http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/e6288f85d60d8f7b1bb5328b1da7977d

>マリーナのことも…(笑いすぎて何も書けません)本当すみません。

あらら、今回の舞台に関しては私は褒めてるつもりだったんですけど、
あまりそう聞こえてませんでしょうか?
平手打ちの件を引用したのが失策でした(笑)

>ていうことは2F正面でご覧になっていたということですか? 

今回はグランド・ティアー(3階)の正面で鑑賞しました。
返信する
主役カップル (Sardanapalus)
2010-11-27 20:00:05
さっそく「ドン・カルロ」の感想をアップしてくださってありがとうございます。

>ポプラフスカヤ
ROHのヤングアーティスト時代をよく聞きましたが、中音域と高音のフォルテの声の荒さは当時から気になっていました。しかも、彼女にあまり合っていない役を限界を超えて歌うものですから、聞いている方が苦しくなると言うか…はっきり言ってロンドンのオペラ仲間の評価は今でも良くないです。これと同じ演出の「ドン・カルロ」のDVDでも体調不良もあってか、楽しめる歌唱とは言いがたいです。ただ、今回ラジオ中継を聞いた限りでは、調子は良さそうで、声の荒さはあまり感じませんでした。仰るとおり、演技力は悪くないと思いますので、HDの日もこのレベルを維持して欲しいと思います。

>アラーニャが原因
アラーニャの定型演技は決して苦手ではない私ですが、今回は覚えたてのイタリア語歌詞を歌うだけで精一杯といった雰囲気を感じました。この公演は長丁場ですので、公演を重ねるうちに改善されていけばいいんですけど…。
返信する
ロベルト! (Sheva)
2010-11-27 23:49:18
前編のコメントへのレスもありがとうございます!
平手打ちの部分はおもしろすぎて子供たちに音読して聴かせてしまいました(笑)
そうかあ~誉めてたんですね。気付かなかった。
グランドティアーは3Fでしたね。思い出しました。

>>アラーニャの定型演技

アラーニャもつくづくいろいろおもしろコメントで語れる人ですよね。
彼のボローニャ公演の時、関係ないのにホセ・クーラのシェニエを応援に来ててハイテンションで目立ちまくりでした。ホセ・クーラ内心困ってたかも…
返信する
Sardanapalusさん (Madokakip)
2010-11-28 13:33:22
いえいえ、こちらこそコメントありがとうございます!

>ポプラフスカヤ

彼女に関してはこのメトの公演に関しても真っ二つに評が分かれていて、面白いなと思いました。
(一方でスミルノヴァに好意的な評は非常に少ない、というか、ほとんどないと言ってもいいかもしれません。)
ネガティブな意見は、おっしゃる通り、音域によって声が荒くなること、
エリザベッタ役は彼女に一、ニ周り大き過ぎる
(後者が前者を引き起こしている可能性も大ですが、、。)こと、あたりが理由のようです。
ただ、今回の公演を聴く限りはROHでの経験が活きているのか、
彼女自身に自分の声のサイズの小ささを意識しながらそれを最大限に生かすような歌唱をするよう努めているようにも感じました。
特に最後の幕のアリアなど、そうですね。

Sardanapalusさんもラジオでは声の荒さは感じられなかったということで、
コンディションももちろんあるでしょうが、経験に基づいた彼女の工夫もあるのかな、という風に思います。
HD頑張って欲しいですね。
返信する
Shevaさん (Madokakip)
2010-11-28 13:35:10
>子供たちに音読して聴かせてしまいました

きゃん!お母さん、こんな品の悪いブログ読まない方がいいよ!とストップがかかってなければいいのですが、、。


>そうかあ~誉めてたんですね。気付かなかった。

(笑)皆さんのご意見に同感の部分はたくさんあって、私自身も彼女にこのエリザベッタは少し役が大きいと思うし、
(とはいえ、ヴィオレッタのような役も、今度はサイズの面ではなく、音色として、
ちょっと彼女の声質には合っていないような気がするんですけれども、
それはまた大晦日の『椿姫』の初日にじっくり聴いて来ます!)
音域によって荒い音が混じるのも同感です。
ただ、もし彼女が例えばネトレプコとかゲオルギューのようなルックスだったなら、
この歌唱でももうちょっと評価が高いと思うんですよね。
それが“平手打ちしたくなる女”の運命なんですね、、、。

私が彼女の歌唱でいいな、と思ったのは、声が浅く荒くなってしまうという、
力の及ばなさから来る欠点はあれど、決して自分の出来ることを必要以上にアピールしようとしたりはしていない点で、
役の表現をまず第一のプライオリティに置いているように見えるのは好感が持てました。

>関係ないのにホセ・クーラのシェニエを応援に来ててハイテンションで目立ちまくり

やだ、またADDが発症しているんですね、、、
なんか彼には、自分がその場に出て行くとみんなが喜ぶだろう、と思っている節があって困ります。私のような人もいるのに。(笑)
返信する
アラーニャのドン・カルロ (みやび)
2010-12-21 20:33:23
アラーニャの『ドン・カルロ』といえば、グルベローヴァの「せっかく期待していたのに、『ドン・カルロ』なんて歌ってしまっては…」が忘れられないもので、つい気になってしまいましたが、やはりイタリア語版は今回が初めてだったのですね。
私も『ドン・カルロ』はイタリア語の方が好きです。フランス語版で歌った時のアラーニャや(共演した)ハンプソンなんかは、フランス語に合わせて作曲しているのでフランス語版の方が言葉と音楽がぴったりだと言っていました。
それはそうだと思うのですが、でも、ヴェルディの音楽は頭から尻尾まで「イタリア」なので、ちょっとドラマチックなイタリア語の方がピッタリな気がします。
(先日、アルファーノの『シラノ・ド・ベルジュラック』全幕(日本初演)を観てきたのですが、こちらの方は結構フランス風に感じました。)

>彼ももう50近くですし、ドミンゴでもあるまいし(ドミンゴの場合は、運、持っている声の強靭さと、
>本人のとてつもなくしっかりした歌唱基礎が組み合わさってその長いキャリアを可能にしているのであって、誰にも真似できるものではありません。)
>キャリアがこの先何十年も続く、ということはないでしょうから

最近、自分の年齢が数えられなくなってきているくらいで(爆)、ましてや他人の年齢なんて…ですが、そういえばそうですね。月日の経つのは早いものです。
大体、ドミンゴにしても、70歳になってオペラ全幕の舞台に立っているとは、当の本人が40代のころにはさらさら思っていなかったようですから…。
マルセロ・アルバレスもアラーニャと同じ年代ですものね。彼はキャリアの初め頃、まだ存命だったショルティに「すぐに『ボエーム』の話なんぞが来るようになるだろうが、長く歌い続けたかったら絶対OKしてはいけない」と言われたそうです。
ここ数年でこそ急激に重たいレパートリーが増えていますが、教えを守って『ボエーム』までは随分と時間をかけたとのことです。初期の頃に無理をせず、ベル・カントなどをしっかりマスターしたのが声を壊さなかった理由かもしれません。
キャリアの進め方としてはドミンゴの真逆(?)なのがクラウス大先生かと思いますが、ではレパートリーを制限していれば誰でもあれだけ長く高音を維持できるかというと…やっぱり、クラウスが特別なのであって、誰でもできるわけではなさそうです。

でも、リッカルドやロドルフォ@ルイザ・ミラーやドン・カルロあたりならともかく、マンリーコやオテロには彼らの声は私にとってはちょっと軽すぎ…。「そういうのもアリ」なのは結構ですが、「そういうのがアタリマエ」になってしまうのはちょっとなぁ…。
返信する
みやびさん (Madokakip)
2010-12-24 17:09:55
みやびさん

グルベローヴァがそんなことを?
まあ、でもあの男(アラーニャ)はそんなこと聞いちゃいないですよ。本当に(笑)。

>ヴェルディの音楽は頭から尻尾まで「イタリア」なので、ちょっとドラマチックなイタリア語の方がピッタリな気がします

私も同感です。なんかフランス語のふわっとした語感とこの作品の組み合わせは私はあまりぴんと来ないです。


>彼はキャリアの初め頃

この“彼”はアルバレスのことでしょうか?ベルカントもきっちり歌っていたというと、
アラーニャよりもアルバレスの方がそういうイメージがあるのですが、、。
(ドミンゴだと“ショルティがまだ存命”というような時期よりは遙か前に『ボエーム』を歌ってますものね。)

>ではレパートリーを制限していれば誰でもあれだけ長く高音を維持できるかというと…やっぱり、クラウスが特別なのであって

本当、そうですね。もって生まれたものと努力と鍛錬の結晶、この二つが合わさって、
それでも必ず生まれるものではなく、稀にしか生まれないのがクラウスとかドミンゴのような長いキャリアだと思います。

>マンリーコやオテロには彼らの声は私にとってはちょっと軽すぎ…。

もうですね。さきほど記事にあげた『西部の娘』のディック・ジョンソンを歌っているジョルダーニとかですね、

http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/4c836aea141434b0b749e99d0e234cdb

冗談はそろそろ勘弁して欲しい、って感じなんですよ。
一応楽譜どおりに歌えていればそれでいい、って、そんなものじゃないですよね。
返信する
ええ、そんなことを(笑) (みやび)
2010-12-24 19:38:22
>グルベローヴァがそんなことを?
>まあ、でもあの男(アラーニャ)はそんなこと聞いちゃいないですよ。本当に(笑)。

女王様としては、若手のベルカント・テノールとして期待していたようです。「…」のところには、「もう駄目」だか「台無し」だか、そんなような単語が入っていました(ひぇ~)。

>>彼はキャリアの初め頃
>
>この“彼”はアルバレスのことでしょうか?

あ、そうです、すみません。自分の好みの方へ勝手に話がずれていってしまって(苦)。日本でのオペラ・デビューからしばらくは、数年おきくらいに来日していて、その度にグン!と伸びている感じが凄かったです。
最近では、ずいぶんと重たいものを歌うようになったなぁ…と思っていましたが、まぁ、ここまで来れば後は本人の好きなようにってことなのでしょうね。

『西部の娘』、ちょうど何を思ったか昨日観ていたところでした。グッドタイミング~さっそく、記事も拝読しました。ジョルダーニはカブリエーレに続いてまたドミンゴの衣装を着ているわけですね(笑)
ジャンカルロ・デル・モナコは「シモン」でもそうですが、光の使い方がすごく上手いと思います。
私は結構楽しみにしているので(何といってもルイゾッティ♪ですから)、ジョルダーニにも気合を入れてもらわないと!
あぁ~あと30年、(いや、ジョンソンなら20年で大丈夫かな?)ドミンゴが若かったら、ドミンゴとルイゾッティで聴けるのにぃ。
返信する
みやびさん (Madokakip)
2010-12-25 08:11:48
>「…」のところには、「もう駄目」だか「台無し」だか

さすが、グルベローヴァ。歯に衣着せぬとはこのこと!(笑)


アルヴァレスはリリコくらいまでの役はとても良かったですよね。
現在彼が歌っている役での彼は、、、私は残念ながらぴんと来ないです。
でも、彼の年齢からすると、そろそろ、歌っておきたいものは歌っておく段階にはあるんでしょうね。
40代中盤で歌わなかったらいつ歌う??っていう言葉がありますが、
確かにそうかな、、とも思います。
ここで歌わなかったら、一生歌えないですからね、、。
私はそれでいいじゃないか、という考え方ですけれども、やっぱり歌っておきたい!という人も多いのかもしれませんね。

>ジョルダーニはカブリエーレに続いてまたドミンゴの衣装を着ているわけですね(笑)

そうなんです。格好は同じでも、歌はドミ様とは似ても似つかぬものですが。
昨日、ルイゾッティがシリウスのインタビューに出演してましたよ~。
ホストのマーガレットに、“西部の娘のHDはもうあちこちからカメラがあなたを狙ってますからね!”というと、
“ひえ~っ!それは怖いですねえ~!”と笑ってました。
SFOでは、イタリア・オペラへの回帰というのをテーマに、
イタリアものの、スタンダード・レパートリーをきちんと演奏する、ということに力を入れているそうです。
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