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音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

家で聴くオペラ (5) 蝶々夫人 序編

2008-01-06 | 家で聴くオペラ
購読されている方も多いかと思いますが、メトロポリタン・オペラ・ギルドが発行している月刊誌、Opera News。
世界のオペラ公演やCDのレビューに加えて、面白い記事が多いのですが、
私の場合、きちんと頭から最後まで通して読むことが少なく、今日はこの号のあの記事、
次の日は、あの号のその記事、などと月をまたいでのとばしよみをしており、
今頃、何なの?という感じなのですが、2007年9月号になかなかせつない記事がでておりましたので、
第五回の家聴くのお題目『蝶々夫人』にちなみ、こちらの記事をとりあげようと思います。
原文は現バルティモア・サン紙でクラシック音楽の批評を担当しているティム・スミス氏によるものです。

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マーガレット・ロジェロが南フロリダにある手入れの行き届いたコンドミニアムのキッチンから
お茶をのせた盆を掲げてやってきて、
美しい盆栽に飾られたコーヒー・テーブルの上に置いた。
”またスズキになった気分。”と笑う。
89歳という実際の年齢よりもずっと若く見えることもあって、
かつてメトロポリタン・オペラで活躍した彼女は、明るい色のブラウスとパンツに
多すぎず少なすぎずの宝飾品類を身につけた完璧ないでたちで、非常におしゃれだ。
”いつもおしゃれしているし、お化粧は絶対よ。そこらのお店に行くときでも、
バスに乗るときでもね。このあたりでは、ちょっとした有名人よ。”


(ロジェロ。フロリダの自宅で。)

メゾソプラノであったロジェロは14年間にわたって、かつてメトで595の公演に出演し、
あらゆるキャラクターを歌い演じてきた。ケルビーノ、シーベル、二クラウス、
ローラ、メルセデス、プレジオシッラ、ベルタ、ベルシ、ラ・チエカ、
アンニーナ(それも『椿姫』と『ばらの騎士』両方)、そして、ヴァルキューレ。
しかし、何よりも思い出深いのがスズキ役だ。
彼女がメトを去ったのは1963年。
”除々に役をとりあげられていったわ。
メトは、私がもう以前みたいには上手く歌えない、とでも思っているようだった。
自分ではそうは思わなかったけれど、そうだったのかもしれない。
とにかく自信を失ったことだけは確かよ。”

ロジェロはその後、数十年間、セブン・イレブンのニューヨーク社で秘書として働いた後、
夫のアルバート・ルドウィックと共にポンパノ・ビーチで引退生活を送り始めたが
その夫も1987年に他界した。
録音されたレコードの数も少なく、つい最近まで彼女が過去の自分の業績をしのぶには、
思い出と彼女自身が大事にしてきたスクラップブックに頼るしかなかったが、
昨年、衛星ラジオシリウスでメトの過去の舞台のラジオ放送のアルカイブ録音が
放送されるらしいという噂を聞いた。
家族が機器の設置を手伝ってくれ、
彼女が蝶々夫人役のドロシー・キルステンと共に舞台に立ち、
ディミトリ・ミトロプーロスが指揮した1960年の『蝶々夫人』の放送に間に合った。

”おかしな感覚だったわ。言葉がなかった。
自分の家で、自分の歌声と、そして、あの公演をまるまる体験できるなんて夢のようだった。
頭がぼうっとした状態で家の中を歩き回ったわ。
思い出が押し寄せてきて、ある意味、もう一度あの公演に最初から最後まで居合わせたような、、。”

もし、この過去の自分との対面について彼女がほろ苦い気持ちを抱いていたとしても、
それを彼女は表には出さなかった。
”いわゆる大スターにはなれなかったかも知れないけど、それでもいいの。
自分はとても恵まれていたと思うから。
カルーソーやポンセルが歩いた同じ舞台の上にいたのよ。
それに、私が共演した人たち、ビョルリンクにフラグスタートにミラノフ。
信じられない思いよ。いわば、歩く歴史、といったところね。
まあ、多くの人たちと同じで、昔は良かった、と私も思っているからでしょうけど。”

ブロンクス生まれのロジェロが、その”良き時代”に至った道のりは、
オペラ好きの父が連れて行ってくれたメトの日曜の夜のコンサートから始まった。
”まだ子供だった、8つか9つといったところかしら。
でも、あの赤や金色(*メトの内装に使われている色)を目にしてからというもの、
もう夢中になってしまって。”
高校生になる頃には、ギルバート&サリバンの作品も歌ったことがあるほど、
歌手になる、という決意は固まっていた。
そして、ジュリアード音楽院への奨学金がその夢を実現させる一助となった。

歌手への夢が止みがたく、2つの結婚の申し込みも断った。
”二人とも歌手への道はあきらめろ、と言ったわ。
でも、その点だけは私も頑固で、決して折れなかった。”
ルドウィックからの三度目の申し込みにはそのような要求が含まれていなかったため、
1950年に結婚。
ちょうどその頃、ロジェロには、グロリア・レインが一週間の休暇をとれるよう、
代わりに、ブロードウェイでメノッティの『領事』で秘書官の役を歌えるチャンスが訪れた。

その同じ週、ロジェロのエージェントが、水曜の午後に、
メトで、メゾのためのオーディションがある、という情報を伝えてきた。
『領事』のマチネ公演がある日だ。
”劇場に早めに入って、舞台用のメーキャップをつけて、それから、キャブをつかまえたの。
運転手さんにどうしてそうも急いでメトにむかっているのかを説明したら、言われたわ。
お嬢さん、なんだってそうまでするかね?もうブロードウェイで歌ってるっていうのにさ!”

”オーディションに到着して、シーベルのアリアとIl vecchiotto(*『セビリヤの理髪師』からの曲)を歌って、
またキャブで劇場に引き返してきて、舞台に立ったわ。
そして、金曜日にメトからオファーの電話が来たの。”

ロジェロのメト・デビューは、1950年11月11日、『椿姫』のアンニーナ。
キルステンとフェルッチョ・タリアヴィーニが主演だった。
年々、ロジェロは、メトにとって役立つ存在となっていった。
こちらでノルン(*ワーグナーの指輪に登場する)を歌ったかと思えば、あちらでワオクル(*プッチーニの『西部の娘』に登場する役)といった具合に。
やがて、ジョージ・ロンドン、フリッツ・ライナーといった面々から、
勇気づけられる言葉をもらうようになった。
”ロンドンは、ボリスの公演の後、私の顔に手をおいて、なんという才能の無駄遣いなんだ、と言ってくれたのよ。”(*実力に比して歌っている役が小さすぎる、の意。)
1953年のボストン交響楽団との演奏会で彼女の歌を聴いたミュンシュもその一人だった。
そのミュンシュと組んだ、ベルリオーズ『ロミオとジュリエット』のRCA盤では、
ロジェロの健康的で、甘いトーンの声が光輝いている。

”特にツアー(*メトは昔アメリカ全土で演奏旅行を行っていた)などでは、
最高の批評をもらったわ。
でも、それでもメトでの自分のステイタスは変わらなかった。
ある時、ビング氏(*当時のメトの支配人。こちらのガラで讃えられている本人。)のところに行ってこう言ったの。
私なら、シミオナート(*現在でも、過去最高のメゾといわれる名歌手)のように、小さい役から這い上がって主役級の役を歌える、と。
でも、彼はたった一言こう言ったの。君はシミオナートとは違う、と。
もう何も言えなくなったわ。
やはり、当時、たくさんの端役を歌っていたトーマス・ヘイワードというテノールがいたのだけれど、
彼が代役で大きな役を任された時、とても上手く歌ったの。
なのに、ビング氏はとにかく彼をけなしまくったのよ。
トムはビングに言い放ったわ。耳にクソでも詰まってんじゃないのか!って。
その後、彼は私たちのヒーローだったわ。
口にだして同じことは言えなかったけど、気持ちは同じだったから。”

ロジェロは前向きな姿勢を保とうとした。
”思ったの。こうなったら、あとは、自分が出来る最高のことをやってやろう、と。”
そして、その彼女の最高が、スズキ役だった。
”少なくともキャラクターに解釈の余地があったもの。ご飯の支度ができました、
と歌って舞台から去るだけの役とは違ってね。”

1951年、ヴィクトリア・ロス・アンへレスが演じる蝶々さんに対し、
忠実な女中、スズキを初めて演じたロジェロは大いに注目を浴びることとなる。

アーヴィング・コロディンは著書『メトロポリタン・オペラ 1883-1966:真実の歴史』の中で、
ロジェロが、スズキ役のデビューで”目覚しい成功をおさめた”と書いている。
そして、1958年2月19日、待ちに待たれたメトの『蝶々夫人』新プロダクションで
彼女が同役を歌った際には、その成功が一層高まることとなった。
この新しいプロダクションでは、日本人の演出家アオヤマ・ヨシオ氏
(*青山圭男氏。日本人としてはじめてメトで演出を担当した。)と、
デザイナーのナガサカ・モトヒロ氏の力により、『蝶々夫人』に、より本物らしさが加わった。
コロディンの意見によれば、”おそらく最もすぐれた演技を披露したのはロジェロであり、
そのスズキ像は、青山氏という新しい刺激を得た成果で、ほとんど完璧ともいえるものだ。”

ロジェロはその刺激となった氏のことを、なつかしい気持ちで思い出す。
”青山さんはどのリハーサルの日も和服をお召しになっていて、
ただじっと見ているだけでも素晴らしかったわ。とても優雅でいらっしゃって。
それに私にはいつも親切でした。
なぜだか、彼のアジア人としての魂と、私のイタリア人としての魂が響きあったようなの。
彼が知っていた英語は二語だけ。Like this(このように)。
そういいながら、私たち歌手がどのように身のこなしを行うべきか実演してくださいました。
他のことに関しては、日系アメリカ人の秘書がいて、全て通訳してくれました。
その秘書の女性の名前がやはりスズキで。
で、プレミアの日の二週間前に、イタリア人のキャストが揃ったときには、
(アントニエッタ・ステッラが蝶々さん、エウジェニオ・フェルナンディがピンカートン)
日本語、英語、イタリア語を行ったり来たり。”

それまで、メトにのったこの作品でのロジェロの経験といえば、
”たいていイタリア人の演出家が日本人の真似をしようと、
アジア人の歩き方の馬鹿な誤解なのにもかかわらず、しゃなりしゃなりとした歩き方をしろ、
と指示したりするものが多かったの。”
”でもこのプロダクションでは、かつらまでが本物だったわ。
全部日本から届いた本当の人の毛で作られたもので。
でも、あまりに重たくて、メトのかつら部が解体して、少し毛の量を減らすまで、
使えるものではなかったわね。
第一幕では、私は、長い、濃い色のエプロンのような衣装をつけていたのだけれど、
青山さんが、絶対に手を出したままうろうろしないで、とおっしゃったの。
いつも、そでの中に手は丸めておいてください、と。
また、蝶々夫人が橋を歩きながら渡る最初の登場場面に、バレエのダンサーたちを何人か一緒に舞台にのせて、
扇を空中に投げて受け取らせたりもしたわね。
それから、蝶々さんの自害のシーンでは、ついたての裏に行かせて、
倒れた瞬間ついたても地面に向かって一緒に倒れるような演技をつけたり、、
そういった多くのちょっとした工夫がありました。”

そんな工夫の中の一つに、きわだって、ロジェロから素晴らしい演技を引き出すこととなるシーンがあった。
”たいてい、シャープレスが蝶々さんにピンカートンからの手紙を読み上げるシーンでは、
スズキをついたての陰に座って一緒に聞かせる演出が多かった。
でも、青山さんは、舞台の前方に私を座らせました。
そして、シャープレスが、ピンカートンが二度と戻らなかったら、どうするかね?と尋ねるシーンで、
オーケストラがばばん、と大きな音を二つ奏でるのだけれど、
そこで青山さんは私にとてもゆっくりと床の上を滑るように崩れ落ちてください、という指示を出されました。
蝶々さんの希望が消えていくのを映し出すように、と。”
”どうしてだかわからないのだけれど、ビング氏はその指示が気に入らなかったようで、
私にメモを寄こして、’あのお芝居くさい演技の部分はとばすように’と言ってきたの。
その後、ほんの少しだけ抑えるようにはしたけれど、でもいつも私は青山さんが求めていたことに戻っていきました。
だって、彼のつけた演技が本当に美しいと思ったから。
彼が見せてくれたもの、何もかもが本当に美しかったわ。
そして、その後、ビング氏は二度とその件について私に何かを言ってくることはなかったわね。”

ビングの意見が何であれ、批評家たちは全く違った感想を持った。
ニュー・ヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のポール・ヘンリー・ラングは、
ロジェロが、”クリアでかつ感情のこもった歌唱を披露しながら、優雅な演技を見せた”と書き、
ニュー・ヨーク・ポスト紙のハリエット・ジョンソンは、”素晴らしい歌唱と演技、
彼女のキャリアにおける最高の出来”と評した。


(蝶々さん役のステッラとスズキ役のロジェロ。1957年の公演から。)

しかし、おそらく、最も心に響く批評は新聞紙上ではなく、
1958年3月20日という日付と差出人住所がウォール街と表記された、
薄いタイピング用紙にのってやってきた。
今でもロジェロが大切に保管しているこの手紙には、M. Hayashiと署名されており、
このような文章が含まれていた。

”私は、昨夜の『蝶々夫人』の公演を観た日本人の一人であります。
あなたの歌唱が素晴らしかったのは言うまでもないことですが、しかし、
それ以上に、私は日本人として、あなたの演技に圧倒されました。
私は、スズキが、特に外国人にとって歌い演じるのが難しい役の一つである、
という考えを持つものですが、
あなたのスズキは、私が東京でみた日本人歌手によって演じられたそれよりも、
より本物の日本人らしい、と自信をもって言えます。
あなたがあれほどまでの完璧さをもってこの役を演じているのを見て、
我が目が信じられないほどでした。”

その記念の手紙を他の思い出の品のある場所に戻しながら、ロジェロの黒い瞳が潤んだ。
”ごめんなさい、でもこれだけはいいたくて。
私は、とてもいい演技ができる歌手だったのよ。”
そして、少し止まって付け加えた。
”許してちょうだいね。私のディーバ・コンプレックスが出てしまったわね。”

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次回は、そのロジェロがスズキを演じて評判をとった作品、『蝶々夫人』家聴くの本編です。