言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

亡くなつてゐた土屋道雄先生

2018年01月17日 15時22分09秒 | 日記
福田恒存と戦後の時代
土屋道雄
土屋道雄
 体調を崩されてゐたことはうかがつてゐた。しかし、この度送られてきた御子息からのお葉書で、すでに一昨年の12月25日に亡くなつてゐたことを知り驚いてゐる。
 晩年、毎年二冊ほど本を上梓され、ご自身の研究成果を形に遺していかれるのだなとは感じてゐた。
 読むのが遅い私は、だいぶん経つてからお礼状を書くのが常であつたが、それでも毎回新刊をお送りくださるので、お許しくださつてゐるのだなと勝手に感じてゐた。いつだつたか、私の不在の折にお電話を頂戴したことがあつたが、家内からの伝言(「今は愛知にお住まいなのですね」と言ふことを仰つてゐたと聞いた)を受けつつも、お電話をおかけするのがはばかれてそのままにしてしまつた。電話の苦手な私は、電話ではかういふ非礼をしてしまふ。
 先生は、福田恆存を読むことを通じて知つた。福田家に家庭教師で雇はれ、その折のことを枕に書かれた『福田恆存と戦後の時代』は、福田恆存について書かれた一冊ものとしては最初のものである。福田恆存といふ人物の清涼感が、土屋先生の透き通つた目を通してさらに洗練されて表現された、素晴らしい御著書であると感じた。そして特筆すべきは、その第一章が「ロレンス」であつたといふことである。「戦後の時代」を語るのに、ロレンスを選び、その思想が福田恆存によつてどう理解され、生きられたか、このことはたいへん重要なテーマである。福田恆存自身が、私はロレンスによつて独り立ちできたとまで語つてゐたのだから。
 土屋先生は、福田恆存の次の言葉を引用してゐる。
「一般人が誤解してゐるのとは正反対に、ロレンスが生涯を賭けて求めつづけたことは結婚の永遠性といふことであります。そしてそのために、かれは性を解放しろなどといつてゐるのではなく、その反対に、性の慎しみを保てといつてゐるのであります。」
 永遠を保つために慎しみを持て、といふ逆説は、福田恆存の思想そのものであり、戦後の時代に欠如したものであつた。永遠を保つために動き続けよ。好況を招くために短期的利益を追求せよ。現代のニーズを満たすために教育を実学化せよ。いづれもそれは永遠性を獲得できずに衰退を招いてゐる。人間の本質を確かめない「目標至上主義」が戦後の時代の「理念」であつた。

 土屋先生は、昭和十(1935)年生まれであつた。享年81。御冥福を祈ります。ありがたうございました。
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