言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『オックスフォード大学からの警鐘ーグローバル化時代の大学論』を読む。

2017年08月13日 09時02分56秒 | 本と雑誌
オックスフォードからの警鐘 - グローバル化時代の大学論 (中公新書ラクレ)
苅谷 剛彦
中央公論新社

 教育学者の苅谷剛彦氏の新著である。

 日本の教育制度は系統的に間違つてゐる。なぜか。その根底にルサンチマンがあるからである。近代といふ時代が非西洋圏においては西洋化と同義であるから、遅れて近代化しようとすれば西洋化を範とするのは致し方ない。しかし、その時にルサンチマンを根底に抱へる必要があるかと言へば、必ずしもさう言ふべからず。

 それがどういふ結果をもたらしたのか。

 遅れてゐるときには、先に行くものをキャッチアップしようとする。そして、問題はそのあとである。先に行くものを乗り越えた後には(もちろん事実といふよりも主観的にであるが)、モデルを失つてしまふのである。だから、どうするのか。「もはや〇〇ではない」式の増上慢が見られるやうになる。それは言ふところの「ゆとり教育」であつた。そして、今度は再びOECDのテスト=PISAの成績が悪くなると、大慌てとなる。それが今日の「教育改革」である。

 曰く、グローバル時代にふさはしい大学作りを、そのために高校との連携(「高大連携を」となる。しかし、大学入学者は18歳であるといふ発想自体が非グローバルであることに気づいてゐない。)を。曰く、センター試験の改革を。曰く、英語四技能必修を。曰く、大学の外国人教員の増員を。曰く、外国人留学生人数の拡大を。などなどである。

 卑屈と傲慢と、再びの卑屈と。かういふ行政方針の変更に、どんな理想があるのであらうか。問題なのは、理想の欠如である。理想に値するものを見つけられず、目標に過ぎぬものを理想にしてしまふから、あらざる結果を招くことになる。

「追いつき型近代化(そのもとでの追いつき型教育)の過程では、日本の後進性ゆえに『西洋にあるものが日本にない』とされる。さらにいえば、追いつくことを優先させるために犠牲にされてきたものが、『西洋にあるものが日本にない』とされる。これまで見てきた、『主体的な学び』を通じた『主体性』(課題発見・解決能力、創造性、コミュニケーション能力)の育成など、欠如理論に立った問題構成である。『グローバル人材』(さらにはその育成のためのグローバル教育)も欠如態(日本にないもの)の表明といえるだろう。」(215~216頁)

 苅谷氏は、東京大学を離れ、オックスフォードで十年以上教へてゐる。外国に行かずともこんなことは分かつてゐたのであらう。しかし、その言が一向に見向きもされないから、東大を離れてしまつたのではないか。それが真実ではないかと思つてゐる。

 本書は、雑誌に掲載されたものをまとめたものと、最後の章の書下ろしとで構成されてゐる。実証的な研究と切れ味鋭い主張とは読んでゐて痛快である。

 かういふ言がどうして文科省の方針に反映されないのか、不思議でならない。安倍=下村ラインの教育政策を改めることはできないか。現文科大臣にはご一読いただきたい。

 

 

 

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