言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

やはり外山翁は間違つてゐるな。

2017年01月12日 08時56分54秒 | 日記

 外山滋比古氏の『乱読のセレンディピティ』を取り上げ、本を読むより人と話すことが大事だといふことを書いた。それを全否定するつもりもないが、全肯定と言ふわけでもない。

(引用はじめ)

「ここ三〇〇年、人類は、本を読めば賢くなるという迷信にとらわれてきた。勉強はまず本を読むことなりと思い込んで、わけもわからず、わけがわかっても、とにかく本を読む。本ばかり読んで血s気をふやし、それを博学多識といってありがたがった。教養をありがたがる。

 どうしてそうなったのか。」

(引用終はり)

 産業革命によって機械化が進み、生産の場から人は去り事務職に回つた。すると今度はコンピューターが生まれ、事務の世界からもどんどんマンパワーが排除されていく。

(引用ふたたび)

 「これが進化してコンピューターになると、おそるべき力を発揮し出した。人間を圧倒し始め、人間の知的作業を奪って、就職難をおこすまでになった。2045年になると、人間はコンピューターに完敗するというのが2045年問題である。」

(引用終はり)

 かういふ見通しに立つてコンピューターができないことは「おしゃべり」だから、「新しい価値を求めて談論風発する」ことが大切だといふのである。確かにさういふ「対話」がここそこで成立するならいいが、大概は筆者が心配するやうな「ゴシップなどを喜んで」ゐるやうなものになるだらう。

 それはなぜか。話の種がないからである。その話の種は経験の中に見出すことなど期待できない。もちろん種は生活の中にあるのだが、それを見つける目は経験によつては養はれない。次元の違ふ意識の世界で紡がれた文字の世界に入らないかぎり、生活から種を見つけることは不可能である。

 考へる人が、考へ抜いた末にふつと息を抜いたときに新しい何かを周囲の中から見出すことができるのであつて、何もしないでぼうつとしてゐる人が見出すことはない。

 外山氏の読書生活が「おしゃべり」の効用を発見したのであつて、読書生活なしにセレンディピティがあつた訳ではない。外山翁はその点でやはり間違つてゐる。

 セレンディピティとは、「偶然に思ひがけない幸運な発見をする能力,またはその能力を行使すること」である。しかし、偶然は何らかの努力なしには起きない。

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