新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

水の住人

2017-04-21 17:53:24 | 日記
【以下の記事は、去年の12月に「水の惑星」という題名で書いたブログ記事を、再編集したものである。】

紆余曲折の後に、僕がK大学で禅と仏教を学び、禅僧となるよりも ずっと以前、僕がむかし読んだ本のなかに、『スーパーネイチャーⅡ』という題名の本があった。

この本は、ライアル・ワトソンという生物学者が書いたものを、内田美恵さん+中野恵津子さんの日本語訳で、日本教文社から出版された書籍である。

内容を一言すれば、「あたりまえ」と思っているような自然な現象の1つ1つが、実は、奇跡のような現象なのだというもの。
換言すれば、この現実の日常こそが奇跡だ、と言っても良いかも知れない。

さて、ライアル・ワトソンの著書では、『スーパーネイチャー』・『スーパーネイチャーⅡ』のほか、『ネオフィリア』や『水の惑星』などが面白い。
更に言えば、彼の師であるデズモンド・モリスの『裸のサル』も見のがせない。

デズモンド・モリスは、次のような主張をしている。

「多くの人間は、自分たち人類は他の生物たちより優れていると思い込んでいる。だがそれは間違いだ。人間も他の生物たちと同等。その意味で人間は、体毛の薄くなった裸のサルでしかない」と。

さて、今ここでは、ライアル・ワトソンの『水の惑星』から、幾つかの言葉を引用し紹介したい。

「水は自由奔放に姿を変えていく。繊細で幾何学的に精巧な一片の雪、空を覆う荘厳な雷雨、砕け散る波の強烈なエネルギー、束の間の虹の比類なき美しさ、そして無限の海の眠りに誘うような広がり(以下省略)」

「科学的に言えば、水は変わり種だ。液体の方が固体、つまり氷より密度が高いというもの変わっていて独特だが、固体、液体、気体の3つの状態をもち合わせる化合物となると、水のほかにはまったくない。また強力な溶剤でもあるので、長い時間をかけて地上のあらゆるものを溶かしてしまう。何ものも、水の力をのがれられない。このユニークな物質は、無色にして無味無臭。乾いた砂にさえ15%の水分が含まれているし、地表の71%までが水に覆われている。まさに、水は地球を丸ごと潤している(以下省略)」

「水と生命、このふたつは切り離せない関係にあるらしい。われわれは水より生まれ、水によって活かされている。」

いかがだろうか?

多くの人達は、水に対してどちらかと言えば無関心ではなかろうか?
しかし、僕ら自身はもとより、僕らの周囲の様々なものも、実は多くの水分で構成されている。

僕が、海や河や湖などに魅力を感じ、水に引き寄せられるのは、単に僕が元サーファーだからだけの理由ではなさそうである。

また、我々禅宗僧侶は、「雲水(うんすい)」とも呼ばれる。
この言葉は、行雲流水(こううんーりゅうすい)から来ている。
行雲流水、すなわち、行く雲・流れる水のようのように、一点にとどまらずに、臨機応変で自由であるべき、という我々禅僧のあるべき姿を述べたものだ。

更に、中国古典のなかには、次のような言葉がある。

「上善(じょうぜん)は水の如し。水は善(よ)く万物を利して争わず。衆人の惡(にく)む所に處(お)る。」

つまりこうだ。

「最も高く評価すべきは水のような存在だ。水は、様々な生命に利益を与えながら、決して他とは争わない。それほど優れた存在でありながらも、高みには登ろうとはせず、人々が嫌う低い所へ低い所へと流れてゆく。」

素晴らしいではないか。

禅蔵 合掌





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