新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

ブログを休む

2016-11-17 10:00:21 | 日記
前回の記事に、「趣味でも持とうかな」という事を書いた。

その件に関連して、僧侶としてのお勤め以外の空いた時間を、今までとは違った事に使おうと思うに至った。
新たに取り組む内容は今は明かさないが、その方面の事が軌道に乗るまでは、その事に集中したいと思う。

但し、何度も書いた通り、修行により身体を壊しているので、軌道に乗らずに断念する可能性もある。
それでも、出来るところまではやってはみようと思う。

そのため、論文作成はこれまで以上にペースを落とし、当ブログのほうは、少しの間お休みとする。

但し、何か書きたい事があった場合には、ブログに、短文は書くかも知れない。

しかしながら、本格的なブログ再開時期は未定。

ひとまず、これまで当ブログをお読みくださっていた方々には、御礼を申し上げます。
ありがとうございました。

合掌




◆新・からっぽ禅蔵◆

遊びの仏教・仕事の仏教?

2016-11-13 08:07:00 | 日記
以前から問題になっている事だが、このところ、高齢者ドライバーたちによる暴走運転により、毎日のように次々に罪もない人達が引き殺されている。
中には、無免許運転の高齢者による重大事故も起きているので、単純に、「高齢者ドライバーからは免許を取り上げれば良い」という事では解決しない。
ただ、これ以上この状態が続くのであれば、今までとは違う大胆な交通法の変更が早急に必要ではなかろうか。

少なくとも、若者の暴走と違って、一部の高齢者ドライバーたちは、無意識に歩行者に突っ込んだり、アクセルべた踏み(本人はブレーキを踏んでいるつもり)でフルスピードで突っ込んだりするのだから、そんな高齢者たちに一度狙われたら最後だ。

いずれにせよ、何の落ち度もないのに引き殺された人達の、ご冥福を祈る。

合掌

さて、以下は本題。

少し前に 僕は、ある中国人女性とおしゃべりする機会があった。
その時、「僕は仏教僧侶であり日頃ご供養で忙しい」と伝えた。
するとその中国人女性から、次のような質問を受けた。
「では休みの日には何をして楽しんでいますか?趣味は何ですか?」と。

僕は次のように答えた。
「年に2回くらいは、彼女と1泊2日のささやかな旅行に出かけますが、あとは、日頃、時間があれば趣味で仏教に関する論文を書いています」と。

するとその中国人女性はとても不思議そうな表情をして次のように言った。
「論文は趣味ではないでしょう。論文は学問ですよ。学問ではなく、趣味は無いのですか?」と。

僕は この時、今さらながら「はっ」とする思いだった。

僕にとって論文は楽しみで書いているのだから、まさに、僕にとっての論文は趣味のつもりだった。

しかしそれは、一般的には学問なのだった。

一般の人達が、普段 仏教とは全く関係がないお仕事をなさっていても、趣味で、禅や仏教を楽しんでらっしゃる場合がよくある。

では、そうした一般の方々とは逆に、仏教僧侶である僕はどうか。
僧侶としての日頃のお勤めも、趣味も、禅や仏教の事ばかりではなくも良いのではないか。
禅や仏教とは全く関係がない何か別の事を趣味に持っても良いかも知れない、と今さらながら思うのであった。

例えば、野球でも趣味にして、ブログに「野球とはこういうものである!」と断定的にバンバン書いて楽しむとか(笑)

一般の方々が、「禅とはこういうものである!」とブログに書いてらっしゃるのと同様に、僕は僕で、「野球とはこういうものである!」と主張するのは自由であるはずだ。

時には、「仏教で収入を得て飯を食っている僧侶は けしからん!」というような人もいらっしゃるが、同様に、僕は、「野球で収入を得て飯を食っているプロ野球選手は けしからん!」と言ってみたりして(笑)

プロだと、どうしても言えない事もあるが、素人なら、何でも自由に無責任に好き勝手言えそうだ(笑)

うん、何か趣味でも持とうかな。





◆新・からっぽ禅蔵◆

葬式仏教の実態

2016-11-09 10:16:20 | 日記
言うまでもなく、われわれ僧侶のお勤めは、通夜・葬儀、法事ばかりではない。

しかし、現実には、一般の方々の多くが、通夜・葬儀、法事の依頼以外に、僧侶に対して何ら期待はしていない場合がほとんどだ。

その証しとして、僕を含む多くの僧侶がブログ等々を書いていても、一般の方々からコメントが殺到するという事はあまり無い。
また、僕が僧侶の服装で街中を歩いていても、「お坊さんお坊さん!ちょっと聞いて下さい」などと言って呼び止められて突然相談を受けたりする事も、年に1回か、せいぜい2回程度しかない。
しかも、「はい、何でしょうか?」と聞いてみると、ほとんどの場合、やはり亡くなった身内の供養に関する内容だ。

そうした事からも分かる通り、一般の方々は、ご供養以外には、我々僧侶にあまり期待はしていない、という事が明白だ。

その結果、僕を含む多くの僧侶が、通夜・葬儀、法事ばかりのお勤めになっているのが現実。

こういった事実を無視して、理想ばかり唱えていれば、逆に、日本の仏教はいよいよ絶望的である。

一般の方々の求めに応じて、通夜・葬儀、法事に徹するのも、我々僧侶の成すべき役目の1つである。

それを嫌がって、「これはイヤだ、あれがいい」「死者の供養はイヤだ、仏教の話がしたい」などと我がままを言い出したら おしまいだ。

「葬式仏教」と言われて久しいが、誰がその「葬式仏教」を求めているのか?
冷静に見れば、小学生でも分かるはずだ。

もう何度も言っているが、我々僧侶側が、「私は葬式をやりたいので、あなた死んでくれませんか?」とは言わないのである。

そもそも仏教は、若き日の釈尊が、「生老病死」について深く思い悩んだ所に、その教えの芽生えがある。
更に、我が禅宗に於いても、「生死事大(しょうじじだい)」。要するに「生死の問題は重要だ」とされている。
従って、生死の問題と向き合っていく事こそ、仏教の本来の姿であろう。

「生」に執着して「死」を嫌っていては、話しにならないのだ。





◆新・からっぽ禅蔵◆

禅話95ー龍虎はひれ伏して鬼神もつつしむー

2016-11-06 07:42:27 | 日記
江戸中期の日本の禅僧の中でも、臨済宗の白隠慧鶴禅師(はくいんえかくぜんじ)は特に有名であり、その名は、坐禅がお好きな方々なら誰もが聞いた事があるであろう。

その白隠禅師でさえ、一時期、いわゆる “坐禅病” に陥ったと伝え聞く。

そればかりか、白隠禅師の生きた時代より、もっと古くから伝わる中国の某禅文献にも、坐禅を行う上の注意点の1つとして、「病を起こさぬよう」と書かれている。

そのようであるから、手放しに「坐禅は身心に良い」と思い込むのは いかがなものか?と思う。

僕自身も、一時期、幻想的な “野狐禅” (やこぜん)という病に陥った事は度々ブログに書いている通りだ。

そればかりではなく、身体的な悪影響を及ぼす場合さえある。

例えば、僕は、出家し僧侶になるずっと以前から、毎日坐禅をしていた。

自宅では毎日欠かさず最低1時間の坐禅。
加えて、週に2~3回はあちこちのお寺さんでの坐禅会に参加。
そのほか、集中的に坐禅を行う摂心(せっしん)にも参加。
更に、タイで上座部仏教僧として修行していた頃は、1回が2時間~6時間坐りぱなしの長時間瞑想を毎日していた。

ここまでやると、体の硬い人なら足の筋を痛める場合もある。

僕は、体(特に足)が柔軟なので、足を痛めるような事は全くない。

しかし、首の頸椎ヘルニアになり、その痛みに苦しみ続けている。

元々、僕はむかし交通事故で、首に強いダメージを受けていた。
しかしそれは とっくに完治していた。

だが、毎日長時間の坐禅をしていたら、首の頸椎にヘルニアを発症してしまったのだ。

どんな症状かというと、坐禅により、姿勢を正してジっとしていると、重たい頭を首だけで支えているため、首の中で神経が圧迫されて、手などが痺れ、やがて激痛になっていく。
更に、首の頸椎から繋がる背骨全体が痛み始めて、激痛は身体全体に広がっていく。
(このほかに帯状疱疹後の強力な神経痛にも陥ったが、それは坐禅のし過ぎとは関係がないので今は書かない)

そういうわけだから、僕のように、交通事故などで少しでも首を痛めた過去がある方は、坐禅のし過ぎには気をつけたほうが良い。
いや、交通事故経験者だけではない。健全な方であっても、長時間の坐禅でジっとしていれば、その間は重たい頭を首だけで支えているのだから、多少なりとも首に負担がかかっている事は間違いないはずだ。

いずれにせよ、イメージだけで「坐禅は精神にも身体にも良い」と軽々しく思い込むのは危険な場合がある、という事を、僕自身が身をもって “経験した事実” としてお伝えしておく。

まあ、そもそも、「特定の同じポーズのままジっとして動かない」ということ自体が不自然である、とも言える。

いや、それでも、まがりなりにも僕は禅僧である。
だからこそ、正直に禅と向き合いたい。
少なくとも、“教化” と称して、「坐禅こそが素晴らしい」と簡単に言えちゃうような盲目的で狂信的な信仰を、禅に興味を持っている方々に押し付けるような無責任な者には成り下がりたくはない。

さて、前置きが長くなったが、以下は本題。


◆肥田伏禅師〔慧光〕


○原文

師頌曰、
「心静愁難入、無憂禍不侵。
道高龍虎伏、徳重鬼神欽。」


○訳文

師、頌に曰く、
「心が静まれば愁(うれ)いに入ること難(かた)く、憂(うれ)いが無ければ禍(わざわ)い侵(おか)さず。
道が高ければ龍虎(りゅうこ)伏(ふ)し、徳が重ければ鬼神(きじん)も欽(つつし)む。」




◆新・からっぽ禅蔵◆

修行の果てに

2016-11-02 10:40:17 | 日記
先日旅行に行った事は、前回当ブログに書いた。

その旅先で、僕と僕の彼女はどのように過ごしたのか?と言うと、それは次のようであった。

某湖で、
カヌーを漕いでアウトドアを楽しみ、
次に、遊覧船に乗って観光気分、
更には、モーターボート(運転手さん付き)で水面を疾走し、
最後に、スワンボートを漕いでゆったり癒された。
(なので前回掲載した写真も、一見山岳地帯のようだが、コスモスとススキの裏には、湖がある)

なぜ、こんなにも水周りで遊んだのか?
それは、僕が昔サーフィンをしていたからだ。
僕がサーフィンに熱中していた期間は、20年間にも及ぶ。
そのせいか、僕は今でも水周りにいると癒される。

「じゃあまたサーフィンすればいいじゃん」とか、「それならなぜ夏に海やプールに行かないわけ?」と思われるかも知れないが、それは僕には出来ない。

なぜか?

もう何度も当ブログに書いている通り、僕は、厳しい安居修行の果てに、一生完治しない持病を持つに至った。

そのため、僕の背中は皮膚が どす黒く変色し、その表皮からは常にプチプチと、少量だが出血し続けている。
(だから僕のシャツや半襦袢等々は常に血だらけ)

従って、その醜い背中を見せるようなプールや海水浴場には行けない。
それどころか、見た目だけの問題ではなく、出血し続けているのだから、衛生上、プールどころか 公共の銭湯やサウナ、ホテルの大浴場にも行けない。

更に、背中だけではなく、首の頸椎もダメージを受けているので、サーフィンほどの運動量が求められるスポーツも、今の僕には一生無理な話しだ。

それでも、今でも僕は、時々水周りで過ごしたくなる。
だから、今の僕でも参加可能なものを選びながら、時には水周りで癒されたいのだ。

まあ、僕ほどの重症にならないよう、禅の修行はほどほどに。
(但し、一般の参禅者さんには そんなに厳しい事は有り得ないのでご安心を)





【写真:先日の旅行中のヒトコマ】
◆新・からっぽ禅蔵◆