新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

小保方晴子さん

2014-01-31 07:25:00 | 日記
僕は、最近とても忙しい。

書きたかった論文も少しずつ書き進めている。

同時に、お世話になっている御寺院様のお手伝い諸々あり、坐禅会や、通夜葬儀や法事のお勤めも、いつも通りさせて頂いている。
加えて、坐禅会の新年会や、泊まりで行くやや遠方の通夜葬儀もある。

なので忙しい。

ところで、報道番組で見た30歳の女性研究員、理化学研究所で研究ユニットリーダーをなさっている小保方晴子さん。
その研究成果に拍手を贈りたい。

いや、研究内容が凄いと言うつもりは、残念ながら僕には無い。

どんな分野だって良い。
自分が長年学び研究した分野で実を結ぶ事が素晴らしい。

僕も、「葬式やってないで仏教研究に専念したいなあ~」と言いながら…、現実には、近々のご葬儀の準備をしている。

はぁ~…

あ、いや、ご葬儀しっかりお勤めさせて頂きます。

ちなみに小保方さんは、研究を成し遂げられた理由として、次のように言っていた。

「本当にピンチになった時に、必ず助けてくれる誰かが現れてくれた事が大きかったです」と。

「な~んだ、誰かが助けてくれたから出来た事か」と、勘違いしてはならない。

ごう慢に、「自分だけの力だ」と言うのではなく、周囲の「誰かが助けてくれたから」と思える事が素晴らしい。

僕も、周囲の方々のお陰で仏教系の大学を出て、周囲の方々のお陰で出家出来て、周囲の方々のお陰で僧侶としてのお勤めをさせて頂いているのだ。

周囲への、“おかげさま”の気持ちだけは、忘れたくないものだ。



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禅話22―迦那提婆尊者―

2014-01-29 07:58:17 | 日記
最近、オウム真理教による幾つもの殺人事件についての裁判の報道をよく目にする。
そもそも、今から凡そ20年も前の事件なのに、こんなにのんびり裁判やっているのだから、オウム事件を全面解決する意思は、実は、裁く側にも無いのであろう。

いずれにせよこの事件は、オウム真理教という新興宗教を、狂信的に信じた信者たちが実行した数々の殺人事件である。
こんな事を2度と起こさないためには、どうすれば良いのか?

それは、「宗教を活用するのは良いが、宗教のために生きてはいけない!」という事だと思う。

僕は拙ブログで、上の言葉を何度も繰り返している。

狂信的に陥っている人を見極める1つの目安としては、次のような事が言える。

①「冷静さを欠いた言葉で、他宗派を批判する」
②「しかも、その批判の対象に対して、批判する理由、その明確な根拠も示されていない」
③「同時に、自らが信じる宗派が、他宗派と比べてどこが優れているのか、という重要な根拠も論理的に説明されていない」
このような信者には気をつけたほうが良いであろう。

ちなみに僕は、いつも言っている通り、宗教宗派は沢山あるから良いと思うのだ。
沢山ある中から一般の方々が、好きなのを選べば良い。

間違っても、「我が宗だけが正しい!」とは、僕は言った事もなければ、思った事もない。


さて、以下は本題。


第十五祖:迦那提婆尊者(かなだいば-そんじゃ)

○原文

…本対傳法人 為説解脱理 於法實證 無終復無始。


○訳文

…本より法を人に伝えてこたえるは、解脱の理を説かんがため、法に於いて実は無証、終わり無く また 始めも無し。


○メモ

何代か続いた「隠顕の法」についての説示は姿を消し、先代の龍樹から引き続いて「解脱の理」について語っている。
その「解脱の理」。
先代は「法に於いて心は不証、いかりも喜びもない」と言い、
迦那提婆は、「法に於いて実体は無証、終わりも始めも無い」と言う。



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坊主のぶっちゃけトーク

2014-01-27 14:21:29 | 日記
女子スキージャンプの高梨沙羅さんと、イモトアヤコさんって似てるなあ、と思うのは僕だけだろうか?(笑)

いや、高梨さんを侮辱しているのではない。
高梨さんもイモトさんも魅力的だと思う。

ところで、我々僧侶は、俗っぽいと嫌われる。

例えば僕は、マンション住まいのフリーランス僧侶なのだが、表向きには「お寺に住んで日々お寺で修行している僧侶」という事にしている所がある。
嘘も方便という所だ。

葬儀や法事をお勤めする折りに、「いや実はマンション住まいです」などと言うと、施主様に嫌われる。

都会のマンションに住んでいるような僧侶より、人里離れた山奥のお寺に住んでいる僧侶のほうが、有りがたがられたりするような風潮があるのだ。

しかしこれって どうだろうか?

僧侶は、一般の方々に道を説いたり、葬儀や法事や坐禅会等々の折りに、法話もする。

人里離れた山奥の坊さんが、街中でストレスを抱えて生きる一般の方々に何を説けるというのだろうか?

山奥の坊さんが、現代社会から解離した話しをしたって、そんなものは一般の方々には役に立たないのではないだろうか?

それよりも、大学で一般教養も学び、一般の社会人経験も有り、なおかつ街中で一般の方々に近い所で暮らしている僧侶のほうが、少しは役に立つのではなかろうか?

例えば僕のようなマンション坊主とかね(笑)
まあジョーダンはさて置き、僕が大好きな言葉を1つ、以下に紹介したい。

「大隠朝市」(だいいんちょうし)
または「大隠隠市」(だいいんいんし)とも言う。

意味は、「偉大な隠者は、山奥だとか街中だとかの場所を選ばない。俗事に心を乱されないので、山奥に隠れる必要などなく、街中に住んで超然としている」という事。
「大いなる隠者は、市(街中)に隠れている」。

山奥じゃなきゃ修行が出来ないとか、滝に打たれなきゃ修行にならないとか、どんだけ我がままな条件付けんの?(笑)って話しである。
自分の好みの条件下じゃなきゃ修行が出来ないのなら、それは修行じゃなくて、自我、或いは単なるお遊びでしょ?



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坐禅中の雑音

2014-01-25 14:39:24 | 日記
道元禅師は、「坐禅は静処よろし」と言っている。

確かに、ある程度は静かな場所のほうが好ましいであろう。

しかし、無音の場所である必要はない。
「静処」とは「静かな処」ではあるが、「無音の場所」ではない。

第一、道元禅師の生きた時代に、無音になるような完全防音の場所など無いであろう。

風が木々を撫でる音や、強風が扉を叩く音、或いは雨や雷の音、鳥や獣の鳴き声だった聞こえたはずだ。
通りを歩く人達の話し声だって聞こえたかも知れない。

現代であれば、上のような音に加えて、車やバイクや飛行機の音、或いは道路工事や、商店や学校などの賑やかな声だって有り得る。

坐禅を好んでなさる一般の方々の中には、そうした様々な音に対して、次のようにモンクを言う人がいる。

「いや、坐禅中に車の音がうるさくて集中できませんでしたよ」
或いは
「坐禅中、カラスの鳴き声がうるさくて、気が散りました」などと言うのだ。

そう言う方々は、正しく坐禅をしていたとは言えない。

そもそも“雑音”などは存在しない。
上に挙げた音は全て、1つ1つ、その場その場の事実の有り様であって、そうした事実、真実の音だ。
それを邪魔に思うのは、我がままな自分の都合、自我でしかない。

「坐禅中に雑音がうるさくて集中できない」なんてモンクを言い出す人は、「私は自我を手放せずに座っていました」と告白しているに等しい。

坐禅中の周囲の音は、そのまま受け流していれば良い。

但し、坐禅に参加中の人が、必要以上の音を立てて、他の坐禅参加者に迷惑をかけるべきではない。

作為的な呼吸音を立ててみたり、「ふあ~あ」などと声を出してアクビをするようなら、もう坐禅はやめたほうが良い。

そうした迷惑行為もまた、坐禅には不必要な“自我”の現れだ。

咳やクシャミ、ツバを飲み込む音でさえ、ハンカチで自らの口を押さえるなどして、全力で最小限の音にとどめる努力をするべきである。

屋外の周囲の自然音は良いが、同じ参禅者同士の中で好き勝手に音を立てていたら、それはもう坐禅会ではなく、宴会か何かであろう。



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不条理な世の中

2014-01-23 15:25:44 | 日記
一流と言われるプロの野球選手やサッカー選手が、莫大な契約金を得ていても、疑問視する人は少ない。

彼らが莫大な金を得ている一方で、世界では、貧しさゆえに、数秒に1人のペースで子供たちが死んでいっている。

不条理な事である。

好きなスポーツをやってお金を得ている幸せな人達の一方で、厳しい環境下でもキツい肉体労働をしている人達は、僅か1~2万円程度の日当で働いているのであろう。
プロスポーツ選手より、プロの肉体労働者に、もっと高額の給料をあげたらどうなのか。

不条理な事である。

プロスポーツ選手が莫大な金を得ていてもモンクは出ないが、我々僧侶が、葬儀や法事をお勤めしてお布施を得ると、やかましくモンクを言い出す人達がいる。

まったく、不条理な事である。

ちなみに僕が得たお金の一部は、タイの貧しい女子中学生や、アフリカの貧しい少年を援助するために使っている。

そんな事を、偽善者のようにイチイチ言わなければ、僕のような僧侶は、簡単に誤解されてしまうのである。

まったく不条理な事である。

ちなみに、お金の事以外で、僕が僧侶として心がけている事は、例えば次のような事である。

電車に乗車した時、周囲の方々全員が座るなどして落ち着いてから、そのあとで僕は座るようにしている。
間違っても、我先に座る事はしない。

食事を頂く時は、必ず正座して頂く。(外食時にテーブルと椅子の場合を除く)また、食事前後に食べ物に対して合掌するのは言うまでもない。

近所の人達は勿論、お寺や墓地等々で見かける方々には、こちらから「こんにちは」等の挨拶をする。(相手が無視するかどうかは相手の問題なので気にしない)

他にもあるが、まあ今回はこの辺で。



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