新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

キセキ

2013-07-31 16:57:23 | 日記
学生たちが夏休み期間中だからなのか、昼間TBSにて、テレビドラマ「ROOKIES」が再放送されている。

舞台は二子玉川学園高校。
一人の熱血教師のもと、不良高校生たちが野球を通して様々な困難を乗り越えていく物語りだ。
番組のテーマ曲、greeeenの「キセキ」は、当時大ヒットした。

懐かしいばかりである。

このドラマが放送されていた年、僕はK大学に入学したばかりの1年生だった。
K大学には、玉川校舎があって、1年生の時はそこで体育の授業が行なわれていた。

「ROOKIES」のドラマにも出てくる川の土手をジョギングさせられたものだW

ふざけて「キセキ」を歌いながら、仲間数人で最後尾をダラダラ走ったWW

でも、最後は本気でラストスパートした。

仲間内で僕だけが年上だったせいだろう、翌日僕だけが筋肉痛になって、「え?マジ筋肉痛なの?有り得ねぇからW」と仲間に言われて恥ずかしかったW

今は良い想い出だW


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仏教なんて必要ない!?

2013-07-30 13:04:22 | 日記
「はらなかや ものにもつかず 啼くひばり」
これは、松尾芭蕉の句である。
某書解説を頼れば、「一面に広がる原の中、雲雀が何に取りつくこともなく、空高く鳴いている。」という内容。
また、「雲雀を一切の拘束から離れた存在としている」と解説している。

これを読んで僕は、次の3つを思い起こした。

1つは、道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」の一節、「う(魚)を水をゆくに、ゆけども水のき(水の限り)はなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのき(空の限り)はなし。」


2つ目に、僕が尊敬申しあげているあるご老師による、上の「現成公案」のご提唱録より、その一部。
「鳥が空を飛ぶのに、もうあの大空は飛び切ってしまって、今日から飛ぶ所がないなんてことはないって、うまい具合に書いてありますね。」

そして3つ目、唐の時代の中国の禅僧、趙州と、その弟子との問答(意訳)。
弟子「私は、一切を捨てさりました。もう何の雑念もない境地に達しました。この境地、いかがでしょうか?」
趙州「こだわりを捨てなさい」
弟子「ですから、もう一切を捨てさりましたから、一物のこだわりさえありません!」
趙州「君は、その“一切のこだわりを捨てさった”という“こだわり”を持ったまま手放そうとしないではないか。」

以上、3つを思い起こしたのだった。

日頃から、拙ブログ等でも、手を替え品を替えして主張し続けているのは、こうした事である。

先入観や固定観念、思い込みに囚われている限り、真実なり本質といわれるものは見えてこないのである。

何かにこだわるという事は、専門性を高めるかも知れないが、同時に価値観や視野を狭くする行為に他ならない。

だから僕は、「我が宗派に入信して下さい」などと人に言った事がないし、誤解を恐れず、突き詰めて言えば、禅も仏教も宗教さえも、必要ないのである。
そんな誰かが考えた枠組みにこだわっている限り、物事の本質などに触れる事など出来るわけがない。

臨済禅師も、「仏に逢ったら仏を殺し…、(以下省略)」と言っているのも、狭いカテゴリーにとどまっていてはモノの本質は見えんぞ!という教えであろう。

冒頭に示した松尾芭蕉の句にある雲雀の有り様を、見習いたいものである。

合掌


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それでいいのか?

2013-07-28 18:08:02 | 日記
この土日は、珍しくお勤めがなかったので、ふつうに都内某所へ遊びに行った。
とても楽しかった。

それはともかく、山口県の過疎の集落で起きた連続殺人事件。
犯人の63歳無職の男性は逮捕された。
僅か15人しか住んでいない集落で、5人も殺して2軒も放火している。
許されない犯罪だ。犯人は間違いなく死刑になるだろう。

しかし、犯人が逮捕された時の、近隣住民へのインタビューに、僕は違和感をおぼえた。
近隣住民は、「良かった。(犯人が)逮捕されて安心した。」と言っていた。

「え…?それだけ?」と思った。
僅か15人しか住んでいないのに、そのうちの1人である犯人だけが、なぜ孤立したのか?
近隣住民は、孤立した犯人に対して、こうなる前に何か別の接し方はなかったのか?
近隣住民も、反省の意を含めて、自らの言動、犯人への接し方を振り返ってみても良いのではないか?

僕にはそのように思えてならない。

そもそも犯人は、今回の被害者の1人と以前トラブルになって、刃物で刺された事もあったという。
今回の犯人のほうが刺され被害者だったのだ。
刺され所が悪ければ死んでいただろう。
そうなっていたら、加害者と被害者が逆転していた事になる。
こうなると、今回の犯人だけが一方的に悪かったとは思えない。

少なくとも、今回殺されて亡くなられたかたの中には、喧嘩してカッとなると、人を刺す人もいたという事実は無視できない。

また、少し前にあった、高速道路上の交通死亡事故のニュース。
家族4人が乗ったレンタカーが不調で、走行車線上に停止した。
そこに大型トラックが追突。
レンタカーを運転していた父親と、後部座席に同乗していた幼い子供2人が即死。助手席の母親だけが生き残った。
当然、前方不注意により事故を起こした大型トラックの運転手が逮捕させた。
しかし、それ以前に、高速道路の走行車線上に車を停止させる事自体が有り得ない。
レンタカーだろうとマイカーだろうと、どんなに車が不調でも、どんな事をしてでも、車を路肩に寄せるべきである。
その程度の技術や判断力も無い者が、車のハンドルを握るべきではない。
その意味で、幼い子供2人を死亡させたのは、同じく死亡した父親自身にも責任がある、と僕は思う。
トラックの運転手だけを悪者にして済む事故とは思えない。

いずれにせよ、世の中の全ては、縁起によって周囲と関連し合っている。
その観点から言っても、上に挙げた2例の場合、逮捕された側だけが悪いとは思えない。

但し、亡くなられた方々の御冥福は御祈り申し上げる。

合掌


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賢さと欲望

2013-07-26 09:58:08 | 日記
福島第一原発の人災事故による悪影響は、何ら改善されていないばかりか、日を追う毎に悪化しているようだ。

このペースで悪化し続けていけば、やがて日本列島には人間が住めなくなるのではないか? とさえ思えてくる。

しかも、本件についての、国や東電の態度を見るに、事の重大さを認識しているようには見えず、絶望的な気分にさせられる。

この現状を見るに、僕は、ある映画の1シーンを思い出す。

その映画は、人類の文明が崩壊した近未来を舞台にしている。
ある男が、豊富な知識を有するある女に質問をする。
「人類の文明を崩壊させたのは、いったい何者なんだ?」
女は答える。
「人間よ」
男「バカな!人間は賢い。賢い人間が文明を崩壊させるわけがない!」
女「確かに人間は賢い。でも、賢さを上回る“人間の欲望”が、人類の文明を崩壊させたのよ。」

僕には、このセリフが、いつか現実になるように思えてならない。

人間は賢いが、その賢さを遥かに上回るほどの欲望を持っている。
現状に満足しないその絶え間ない欲望があったからこそ、様々なものが進歩し発展してきたのだ。
しかしその貪欲な欲望は、最終的には自らを破滅させるだろう。

僕は思う。

この地球を、仮に1つの生命体として考えたなら、この地球に発生した人類は、地球を蝕むガン細胞かエイズウイルスのようなものだと。
少なくとも“良い存在”ではあるまい。


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本当にやりたい事

2013-07-25 10:28:03 | 日記
普段、葬儀や法事、それに坐禅会のお手伝いで忙しい僕だが、一昨日と昨日は、2日連続でガッツリ図書館で勉強をしてきた。

個人的な仏教研究のための勉強だ。

今回どうしても読みたかった資料(本)は、現在日本国内では手に入らない。
我が母校K大学の図書館にさえ無いようだ。

いろいろ検索して、都内のある大きな図書館に有る事を知り、その図書館で朝から晩まで、しかも2日間缶詰め状態で取り組んだ。

大学在学中でも、ここまで長時間図書館で勉強した事はなかったかも知れない。
こうした研究が、僕が一番やりたい事である。

葬儀や法事が一番やりたいわけではない。

それでも、葬儀や法事をやれば「葬式坊主」と批判する人がいる。
また、上に書いたように、仏教研究が一番やりたい事だと言えば、「机上の空論だ」とか「実践なき仏教は役に立たない」と批判する人がいる。

まったく酷い話しだ。

葬儀や法事をお勤めして収入を得なければ、我々は飢え死にしてしまう。
また、完治しない持病を持った僕は、机上で研究、学問によって仏教と末永く関わっていく以外にはない。

今の世の中、様々な施設がバリアフリーになる一方で、人の意識はまだまだ、“障害者に優しい健常者は極めて少ない”という事を、身をもって実感する昨今である。


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